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戦時下の日本で暮らした蘭印引き揚げドイツ人婦女子
German Women from Dutch East Indies
大堀 聰

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<序>

横浜市中区の山手町は古くは外国人の居留地に指定され、時代を先取る外国人が暮らしてきた。しかし1930年代に入り、日本が米英と対峙するようになると、英米人を中心に本国に引き揚げた。

旧居留地の研究はこのあたりの時代で終わるようだ。その後実際に日本が米英に参戦すると、山手の地は枢軸国と中立国人のみが住み続けるが、数の主体はやはりドイツ人であった。しかし戦局が悪化してくると、1943年9月29日、山手を含む地域が絶対居住禁止区域に制定され、全外国人に退去命令が出された。

軍事機密である港に出入りする船舶を見ることが出来ることが出来るからだ。同盟国ドイツ人もその対象であった。当時外国人を管轄した日本の外事警察は、これらの人物について詳しく記録を残している。

それによると強制疎開対象の世帯数は508家族で人員計1227人あった。その内ドイツ人が248家族 523人と約半数を占めた。

それにしてもこれほどのドイツ人が、戦時下、何を生業にして横浜地区で暮らしていたのであろうと、リストを詳細に見るうちに、あることに気が付いた。
例えば次は山手60番地のドイツ人である。
エドワード・ビー・レベダック 商社員 家族3
マルカレッタ・ケムベン   無職  家族2
ルース・ケムラー      無職  家族1
ルース・ウスラー・バイパー 無職  家族1
ヒルデ・シャラー      無職  家族2
イルゼ・タムヘン      無職  家族1
フルーク・ツオツク     無職 本人のみ

親子2代日本に暮らす商会員レベダックを除くと皆無職で、世帯主はマルカレッタ、ヒルデ、イルゼなど、どれも女性の名前だ。そして家族がいる。これは他にも何か所にも見られる現象で、山手の世帯主のドイツ人は、半分以上が無職の女性であった。旧居留地で、最も恵まれた外国人が暮らしてきた山手地区で、これはどういう事情からであろうか? (現在の山手60番地についてはこちら。)

結論を先回りすると、彼女らは蘭印引き揚げドイツ人婦女子であった。そうした婦女子の数は日本全土で600人以上に上る。どんな経緯で日本にやってきて、留まったのか?また滞在中は日本人と交わることもなく、ひっそりと暮らしたようだ。本編ではそんな歴史の裏道を歩んだドイツ人婦女子に光を当てたい。



<蘭印ドイツ人婦女子>

今日用いられることのない“蘭印”とは、オランダ領東インド諸島の通称で、かつてオランダが支配した植民地国家を指し、今のインドネシアの領土にほぼ等しい。

1940年5月10日、ヨーロッパではドイツ軍がオランダに侵攻し17日にはオランダは降伏し、亡命政権がロンドンに樹立された。

この時、蘭印政府はオランダ亡命政権側に付き、ドイツに降伏することなく、逆に当地のドイツ人を拘束、抑留したのである。蘭印政府つまりオランダ側の準備は周到で、開戦と同時に全ての男性と16歳以上の若者はジャワ、スマトラ、ボルネオのキャンプに抑留された。その際ドイツ帝国出身の生粋のドイツ人か、ドイツ人と結婚したオランダ人の様な“半分ドイツ人”(ドイツ語からの直訳)か、どうかは問わなかった。

オランダ人はナチスの党員が、蘭印で第五列(スパイ)を組織すべく、国家主義者を募集することを恐れたのだ。その後女性、子供、ユダヤ人、ナチスドイツから逃げてきたドイツ人、全てを鉄条網の中に閉じ込めた。そして財産は没収された。

多くのドイツ婦人は蘭印の生活が長く、オランダ人とも良い関係を保っていたのであろう。よって当初は「なぜオランダ人によって抑留されるのだ」という驚きがあった。

さらに1941年12月8日、日本が英米に宣戦布告をすると、ドイツ人のうち男性は全て、英国領であったインドに移送されてしまう。日本軍による蘭印占領の際に、彼らを解放することを恐れたからだ。”ABCD包囲網”と言われる対日経済包囲陣のDはオランダ(=蘭印)で、日本への石油の輸出を制限していた。



<引き揚げの開始>

そんな蘭印を逃れて日本に来るドイツ婦女子を当時の新聞が報じている。先ずは朝日新聞1940年5月15日付けである。
「蘭領東インドから対独宣戦後の第一船南洋海運日蘭丸が14日午前8時、神戸に入港した。

スラバヤを出帆したのが5月4日、72名の船客中14名のドイツ人婦女子は、危機を寸前にして逃れた人々で、中には日本での再会を約してスラバヤの埠頭で別れたばかりの夫の身を案じ、悲壮な思いに沈んでいるK・ミツデンドルフ夫人(40)と2人の娘さんの痛ましい姿がある。」
と14名の婦女子が日本に来たが、彼女らはオランダによる抑留直前に脱出することが出来た最初の引き揚げ者である。

この日の朝日新聞は続けて、スラバヤ在住27年久保辰二氏の話として
「現在東蘭印にいるドイツ人は約1200,300くらいでしょう。しかもこのうち9割はナチス党員で、それだけに蘭印政府ではドイツ人には絶えず大きな恐怖を抱いていた。」とドイツ人の総数を1200名ないしは1300名位と述べている。

さらに7月16日の報道では
「ドイツ人の収容数3千数百、後日更に有力婦人200名も収容。近く全員スマトラの新収容所に移すことになっている」となっている。久保氏は1200名ほどと述べたが、他の資料も考慮すると、全土で3000人というのが、事実に近そうだ。これは同時期に日本に暮らしたドイツ人総数よりもかなり多い。

11月24日には
「蘭印引き揚げドイツ人45名を乗せた便船(南洋海運チェボリン丸-筆者)、23日神戸に入港。
一行中にはバタヴィア領事R.Wドレックスラー博士、H.シュルツェ副領事をはじめとする、バタヴィア領事館員15名が乗船している。」と外交官が引き揚げた。

彼らの帰国実現には日本も介在している。10月24日の朝日新聞の報道では
「独、蘭印総領事釈放 我が斡旋成功  ○○にて田中特派員。」の見出しが出る。(軍事機密からか地名は○○と伏されている。)

続く本文では経緯が説明されている。
「男はアチェ島、女はバタヴィア付近に収容されているが、ドイツ政府は日本にその釈放の斡旋を依頼してきたので、斉藤総領事は10月初旬、スイス総領事とともに蘭印当局にその釈放を交渉した。

その結果今日までスカブミで監禁同様の生活を送っていたバタヴィア駐在のテイマンウヂ夫妻は19日、スラバヤに送られ○○丸に乗船、日本を経て独に帰ることになった。」

このように小規模の引き揚げは、ドイツのオランダ侵攻時点から行われた。そして1940年に日本着いた彼らは、シベリア鉄道で無事祖国に戻ったはずである。



<引き揚げ交渉>

日本の外交文書にも記録が残されている。

ドイツと異なり日本は、オランダとはまだ交戦状態にはなく、スラバヤの桑折鉄次郎(こおりてつじろう)領事はドイツ人婦女子に関し、蘭印政府との交渉を持つことが可能であった。同時にスイス領事も仲介に入ったようだ。

1940年9月10日の桑折領事の松岡外務大臣宛報告によれば、
「スラバヤ在住婦女子は収容されたもの(貧困者及び公安に危険ありと認められたもの)を除き、一般に普通に生活を送っている模様。然るに最近当領より日本に向かったドイツ婦人が、日本において反蘭印宣伝をなせる事実等より、各方面に在留独婦人の取り締まり強化を要望する声が高まっている。

欧州戦争の長期化に伴い、生活費の困窮を惧れ、日本経由本国に帰国せんとする者、最近すこぶる増加せる趣きなり。」
とドイツ人婦女子がすべて抑留されたわけではない。日本に着いたドイツ人が抑留を悲惨に語るから、こちらの蘭印当局の批判が高まっていると報告した。

これは交渉した蘭印側の言い分と思われるが、どうもほぼ全婦女子が抑留されたというのが、本当の所の様だ。

さらには
「当領事館で引き揚げ婦女子に支給する金額は、ドイツに戻るには充分ではないので、日本のドイツ官憲においては、十分の旅費を持たざる者に日本到着後の援助を与える用意があるのか?至急回答を。」と外務省に問い合わせた。

これに対し外務省から問い合わせを受けた東京のドイツ大使館は、10月1日に口上書で勿論費用を持つ用意があることを答えた。

こうした経緯を受け、婦女子の抑留が1年を越えた1941年春以降、集団的日本への引き揚げが実現する。仲介に入る日本のドイツへの条件は、引き揚げにかかる費用はドイツが負担すること、そして速やかに日本から母国ドイツに帰国するということで、ドイツはもちろん条件を受け入れる。



<着のみ着のまま>

1941年に入り最初に登場するのが6月26日の読売新聞で、
「惨めな軟禁生活 蘭印のドイツ婦女子引き取りを喜ぶ池田副領事夫人」の見出しに続き

「私どもが去る5月30日バタヴィアを出帆するときも、軟禁生活から脱出したドイツ人女子供60人ばかりが榛名丸に乗船しました。
みんな着のみ着のままで、中には染め直しの洋服をまとっている婦人や、結婚後7ヶ月で夫に別れ妊娠中の方などもありまして、同船者の涙をそそりました。」と、着のみ着のままの引き揚げ者が、乗船していたことを語る。

7月11日の朝日新聞は「蘭印から着のみ着のまま」の見出しで
「蘭印引き揚げのドイツ婦女子32名を乗せたマカッサ丸はバタヴィアから直行、10日午後3時門司港に入港。苦しかった収容所生活を語る。

(引き揚げ者の話として)収容所と言ってもそれは天幕を張ったお粗末なもので、1年あまりのそこの生活は全く味気ないものでした。
コルグラート・ゲンネルトさん(41)他31名の一行は全く着のみ着のまま同船で神戸に向かい当分同地に落ち着く。」と報じる。

見て来たように財産を没収され、最低限度の身の回り品を持って引き揚げてきたので「着のみ着のまま」が、マスコミの彼女らに向けたキーワードとなった。



<浅間丸>

7月4日にはおよそ740名のドイツ人婦女子と、バタビアのドイツ領事官の館員一部を乗せた浅間丸が、日本に向けて出港する。太平洋航路に就航していた豪華客船浅間丸が蘭印に特別に派遣され、最大の引き揚げが実施されたのである。同船の定員は1等:239名、2等:96名、3等:504名であるので、ほぼ満員である。

乗船するドイツ人は、一人当たり20キロの荷物を持つ事のみが許された。港の検査で、カメラ、アルバム、靴などがオランダ官憲に最後にまた押収されたという。

さらには118人の婦女子は満室で乗船が出来ずに桟橋に取り残された。次の便でとの事であったが、それは実現しなかったようだ。また自分の意思で蘭印に留まった者は継続して抑留された。

7月13日の朝日新聞の報道では
「ドイツ婦女子一行469名を乗せた郵船浅間丸は12日午後5時40分に上海から長崎に入港した。一部はすでに上海に下船し(ドイツ側の報告では193名-筆者)、長崎で106名が下船。彼らは雲仙に2ヶ月の予定で滞在する。
残り363名は神戸へ上陸。東京、横浜、熱海の各地に避難する予定」と浅間丸の長崎入港を伝えた。なお上海には日本の高校に相当するギムナジウムがあったので、大きな子供を持つ親子が下船した。

乗船人数はバタビア出港時と若干合わない。引き揚げ時の混乱によるものと、子供を含めるかどうかで、人数は変わってくるようだ。これは今後も同様である。船客はまさに婦女子のみであった。引率者エリー氏は「男子は私と他に2名だけ。」と朝日新聞に語っている。

乗船客の一人、アンナ・ヴロツイーナ(Anna Wrozyna)はドイツではパン作りのマイスターの娘だった。そして蘭印のアルフォンス・ヴロツイーナは、知人に渡された写真を見ただけで彼女を見初めて求婚した。アメリカの日系移民のもとに写真だけで嫁いだ日本女性を「写真花嫁」呼ぶが、同様なことがドイツ人の中でもあった。(「終戦前滞日ドイツ人の体験5」)

ついで浅間丸の神戸入港の光景は、日本のニュース映像に残っている。次の様なナレーションが入っている。
「蘭印で長い間、監禁生活の憂き目を見ていたドイツ人婦女子が、このほどやっと解放されて、続々引き揚げを開始しました。
その中の1部隊、総勢358名が、7月14日、神戸入港の浅間丸で運ばれてきました。
この大部隊はしばらく日本で、戦局の推移を見ることになっていますが、バスケットに入れられた赤ん坊も交じって、子どもばかりでも200名という避難部隊は、何か慌ただしい戦雲の舞台裏をしのばせるものがあります。」
(NHKアーカイブより)こちら

船が接岸されるとき、港で迎える在日ドイツ婦人、船橋のドイツ婦人双方が、右手を挙げてナチス式あいさつをするが、どこか胸に迫るものがある。



<到着>

先の報道にあるように、ドイツ婦女子は分散して日本各地のホテルに収まる。これだけ大人数の外国人をまとめて受け入れるホテルがなかったからであろう。

7月16日には
「神戸に上陸した358名のうち70名は7月15日午後8時半入京。オット駐日ドイツ大使以下に迎えられ、鉄道ホテルならびに日本橋ホテルに入った。」と報じられた。オット駐日大使自らが、駅頭で出迎えた。途中熱海で100人ほどが下車して、東京は意外と少ない。

また
「バタヴィア駐在独領事コップマン氏他42名のドイツ人は7月15日夜7時12分横浜駅着列車で横浜駅に到着する。

ひとまずホテル・ニューグランドに落ち着いたが、避難民の半数は同ホテルに止宿し、他は山手方面の独人宅に身を寄せこの夏を過ごした後、身の振り方を決めることになっている。」と報じられた。横浜駅到着時の写真も載っている。42名の内34名がホテルに残り、8名は在浜の知人の家に宿泊した。


現在のホテル・ニューグランド(筆者撮影)



<シャルンホルスト>

7月3日ドイツ大使館の外務省に宛てた口上書が残っている。
「ドイツ大使館は多くの子供と大きな荷物を持つドイツの夫人たちが、居住する場所を見つけるまでドイツの汽船シャルンホルスト(Scharnhorst)を、何日か火を入れて当面の宿泊所とすることも考えている。しかしその場合は多くの付帯費用がかかるので、ドイツ側としては避けたいところだ。

1 そのためには税関、警察関係の手続きを船内で済ませて欲しい。上海から乗り込むドイツ人がその手続きを行う。
2 長崎で100人を下船させる。
3 残りの300人は神戸で降りるが、140人が神戸に留まり、160人は下船日にそのまま鉄道で東京と横浜に向かう。彼ら向けに通常の列車に特別車両を付けるか、臨時列車を仕立てて欲しい。」(原文ドイツ語)

一部が長崎で降りたのは、どうも入国時の手続きを神戸に集中させないためでもあったようだ。昔は今と異なり、入国検査、外国人の登録には一人につき膨大な時間を要したのであろう。また停泊中のドイツの客船を宿泊所として一時稼働させるだけでも、費用は馬鹿にならなかった。

ここで出て来る「シャルンホルスト」とはドイツの客船の事で、次のような経緯で神戸に繋がれていた。
「英仏領港から抑留の威嚇を受け日本に逃げ帰ってきたドイツロイド汽船シャルンホルスト号が(1939年9月)1日午前10時40分、マニラから悄然と神戸港に入港、19番ブイに係留、帰国の目処がつくまでここに待機したいと申し出てきた。」と神戸港に逃げ込んできたのだ。このあとシャルンホルストは、約3年間も神戸港に繋留・放置されその後、日本海軍の空母神鷹となる。

7月24日のドイツ大使館の口上書では、
「現地のスイス領事によれば150名のドイツ婦人が蘭印に残る。8月末にボンベイを発つ予定の日本郵船に乗船させてほしい」と述べた後、浅間丸による引き揚げの全女性の名前と宿泊地が書かれている。ほぼ全員がホテルにとりあえず宿泊する予定であった。

ここまでの記録を総括すると、蘭印を引き揚げることが出来た者から、すでにドイツに帰ることが出来た者を指し引いて、やはりほぼ600名の婦女子が日本に留まることになる。そして男性は2000名あまりが引き続き蘭印に収容となる。

また外務省の与謝野秀は、引き揚げにかかった費用は蘭印側の付帯費用などを除いて211,242円とドイツ側に伝えている。今の価値では2億円以上か。



<歓迎 1>

苦難の抑留から日本に引き揚げたドイツの婦女子は、同胞に歓迎された。ドイツにも日本にでもまだ余裕のある時期である。

7月16日、読売新聞神奈川版によれば
「横浜のホテル・ニューグランドのパール・ルームには日独国旗が掲げられ、在留ドイツ人引き揚げ同胞斡旋委員会心尽くしのサンドイッチと紅茶が待っていた。そしてハインリッヒ・ゼーハイム横浜総領事が挨拶を述べた。」と歓迎会の様子を伝え、

「一行男子2名、婦人26名、子供14名の13家族は近く山中湖と軽井沢のホテル・ニューグランドに移って夏を送り、9月上旬両ホテルの閉鎖と同時に帰国の目途がつくまで、京浜在住のドイツ人の家庭に分宿することとなる。」と夏の過ごし方を伝えた。

滞在先の軽井沢からも報告がある。
「まず7月10日、米国シカゴから引き揚げた22名が軽井沢三笠ホテルに入り、続いて17日から蘭印からグレツアー夫人外40名が万平ホテルに、アニターグロース夫人ほか22名がホテル・ニューグランドに到着。

目下静養中のドイツ大使ならび約600名の同胞の激励に感謝しつつ、何不自由を感じることなく祖国に帰ることの出来る日を待っている。」(朝日新聞)
この頃軽井沢には、横浜のニューグランドホテル経営の同名のホテルがあった。
また米州から日本経由で帰国する途中で帰れなくなったドイツ人もいたことがわかる。

そしてこの夏、軽井沢には600名もの静養中のドイツ人がいたと報じられているが、日本の外事警察は避暑のための軽井沢滞在人員を正確に把握している。それによれば、外交官が106名、一般外国人が38か国、807名の計913名であった。そのうちドイツ人が約600名というのは、時局を考えると納得できる数字だ。

次いで1941年7月31日の読売新聞からである。
「蘭印やアメリカなどから引き揚げできたドイツ人婦女子慰安のため、枢軸国親善オリンピック大会を8月10日、軽井沢の国民校庭で挙行、夜は三国の戦没勇士慰安の灯籠流しや花火大会も催す。」
と枢軸国オリンピック大会があったという、興味深い事実が紹介されている。



<歓迎 2>

関西方面の様子は、1941年7月24日の大阪毎日新聞が伝えている。興味深い記述が多いので、補足を加えつつ少し長めに引用する。

「神戸にいる400人に近い引き揚げドイツ人はオリエンタル・ホテル、ヤマト・ホテルの各ホテルや同国人の住宅別荘に身を寄せ、有馬温泉杉本ホテルにも40名ほど分宿している。」
関東に向かった者を除いて尚、引き揚げドイツ人が400人というのは多すぎる。

「オリエンタル・ホテルの部屋代は平均一日16、7円、他のホテルでも最低10円はかかるが、費用は一切ドイツ大使館から支給される。蘭印抑留1年半は固い黒パンのみの生活だったのが、肉と卵と新鮮な野菜や果物、本国以上の生活を勿体ながっている。
妙齢の娘さんもお化粧は一切やらず、母たちの育児子供用の食器類は、母親自身がコック場で煮沸消毒する。」
と質実で清潔好きのドイツ婦人像が語られる。ホテルの食器類まで煮沸消毒するのは、南方で暮らした人特有の習慣であろうか?

内田ヤマト・ホテル支配人は
「ドイツ婦人の規律の正しさにはまったく感心させられます。部屋でも子供のお守をしながら、絶えず手は編み物をしている無駄のなさも見習うべき点ですね。」と婦女子を褒め上げる。続いては記者の書く美談だ。

「在神英米人の帰国でさびれていた有馬温泉は40余人のドイツ婦女子を一時に迎え枢軸景気に賑わっているが、子供達は忽ち日本のヨイコドモと仲よしになった。だが子供心に残っている囚われの父や兄を思い出し、夕飯の肉や魚をつまみあげて、憂愁の母親に“これをお父さんに送ってあげて…”とせがむいじらしい光景もある」

この時は迫害を逃れて、欧州からアメリカ方面に逃れるユダヤ人もいたが、ホテルの支配人の目はユダヤ人に厳しい。
「ユダヤ人のマダム連中は、ドイツ婦人が“日本は物の値段が安くて一定しているから安心だ”と信頼している(物価統制令による)あたりは?公定価格の商品をさえ値切る。
高い肉類には一切、手を出さず、小魚と野菜で間に合わせているくせに、見栄坊のところがあり、オリエンタル・ホテルのロビーへ出かけて一杯の紅茶を2、3人で廻し飲みしたり、外から同族を連れ込んで1人前50銭ずつとってホテルのバスに入れたり、ユダヤ人的性格を遺憾なく発揮している。」
一杯の紅茶を2,3人で飲みまわすというのは、吝嗇なユダヤ人というよりは、避難者としての窮状を表していると筆者は考える。

「神戸万国病院では“蘭印より引揚げドイツ人来る”の報に、一年余にわたる長い監禁生活のあとだから、すっかり衰弱し病人が多いだろうと看護婦を増員して手ぐすねをひいて待っていたところ、入院患者は僅か一名、あてはずれでガッカリしたという。日ごろの鍛錬のせいもあろうが、疲労は日本へ来るまでの日本船中で心づくしの歓待によりすっかり回復したのだ。」と大方の婦女子は健康であった。

京都と奈良は神戸から移動した組であろう。まずは京都だ。
「ミヤコ、京都両ホテルに分宿したドイツ人一行百余名は、入洛一週間にして見違えるように元気になり、京都の美しい風物と温かい人情に満腔の感謝を捧げながら日々の生活を送っている。
ミヤコ・ホテルにはヤーン三高(現京都大学)講師夫人が毎日出張、京都ホテルではドイツ映画使節として滞在中のエルウィン・トク・ベルツ(Erwin Toku Bälz、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人の長男ー筆者)氏らが主として世話している。」
京都では日本に古くから住むドイツ人が世話をしたことが語られる。

「入洛以来雨天が多く外出したのは祇園祭見物と相国寺における成安女学校生徒の坐禅見学、子供達の動物園行きくらいだが、坐禅見学ではベルリンのトランス・オツェアン紙に蘭印の写真を投稿していたケーテ・フィントアイス嬢が
“日本ではあんなうら若い乙女たちか精神的訓練の実践に邁進していることを知って非常に感心した。
さらにホテルで茶道を見学したが未だかつて想像もしなかった文化であり、こんどの引揚げによってはからずもこういう文化に接する機会を得たことを非常に喜んでいる”と言っていた。」
フィントアイス嬢という女性ジャーナリストも引き揚げ夫人の中に交じっていた。

「日本語勉強もかなり熱心でヤーン夫人やベルツ氏に付いて、すでに数回講習会を催した。そして"働こう"という気配が濃厚に現れドイツ語教授、タイプライティングなどに進出すべく準備を進めている。ドイツ大使館でも子供達の教育に留意し、直ちにミヤコ・ホテル屋上に幼稚園を開設、神戸在住のハインゼ嬢が保姆となることとなった。」とここでは引き揚げ婦人の就業意欲が語られる。

「なお両ホテルの犠牲的な待遇のほかに京都市当局ではこれら友邦の婦人、子供達が楽しく滞在出来るように慰安園遊会、茶会晩餐会、琵琶湖遊覧、映画館、劇場の観覧券発行などの計画を企てている。」

「奈良ホテルに滞在の一行28名は毎朝"英文毎日"を引っぱり凧で戦況ニュースに眼を通し、それから一日の日課が始まる。衣類の洗濯、アイロンかけ、余暇は読書に…とここにもドイツ婦人の質実さがうかがわれる。祖国愛の強いドイツ人は英語の使用を嫌うので、ホテル側でも日本語と独語の日常語一覧表を作り、ボーイ連とどちらが早く言葉を覚えるか競争中だ。」

このように引き揚げドイツ婦女子について詳細に語られ、日本の関心の高さもうかがい知ることが出来る。



<国際情勢の変化>

蘭印引き揚げドイツ人にとって日本は経由地で、ここからシベリア鉄道を利用してドイツに戻るのが目的であった。しかしこの間に大きく情勢が変わる。1941年6月22日、多くの引き揚げ者が日本に着く直前に、ドイツ軍がソ連領に侵攻し、独ソが始まった。これでドイツ人がシベリア鉄道を利用することが不可能となり、引き揚げドイツ人は日本残留を余儀なくされるのである。

7月5日の朝日新聞は蘭印引き揚げドイツ人婦女子を600名とし、さらに太平洋を邦船で引き揚げ来る”アメリカ組“など、祖国への帰途を我が国に寄航するドイツ人の数は1000名近くにのぼる大人数、しかし希望のシベリア鉄道が普通、暫くは日本に立ち往生とみられるので、
「ドイツ大使館では在京ドイツ人有志の手で、この大部隊が日本滞在期間中の宿舎探しに乗り出している。」と報じる。

一方先にも引用した7月11日の朝日では「一行は大体三か月滞留の予定。」と報じられている。これはドイツ側が宣伝する、独ソ戦は冬が来る前にドイツの勝利で終わるという文句を信じたものであろうか?

唯一現実的な可能性は、蘭印から彼らが乗船してきた浅間丸であった。
9月8日の閣議で、孤立状態の欧州に残る邦人引き揚げと、交代の外交官派遣のため日本から客船が派遣されることが決定される。当時最高速を誇る浅間丸が、その任に就く事になったのだ。

これに空の往路に乗船することは、効率上も良い事であったので、資料は見つからないが、当然検討されたと筆者は考える。しかしながら浅間丸は開戦までに帰って来られないという見込みから、派遣は中止が決定された。

また冬までのドイツ軍のモスクワ攻略も不可能となり、半ば恒久的な住まいを探す必要が出る。引き揚げドイツ人婦女子は一時のお客として歓迎された立場から、ドイツ大使館と在留民には大きな負担となるのである。蘭印政府が婦女子を開放したのも、こうした負担から解放されるためでもあった。

当時日本に暮らしたドイツ人の数はいろいろ語られるが、筆者が見つけた外事月報の中の統計によれば、開戦前の1939年には2、088人、そして開戦後の1942年末が2、571名である。この内600人ほどが蘭印婦女子という事になる。ざっと2000人の在留ドイツ人が、収入もない600人の引き揚げ者を支える事になったのである。



<横浜その後>

引き揚げの歓迎が終わると新聞の取り上げ方もぐっと減る。幸い読売新聞は当時の神奈川版が残っていて、そこからもうしばらく様子をうかがえる。

1941年9月17日
「みんな健康色 静養地から帰ったドイツ人婦女子。賑やかに横浜で分宿が始まった。」の見出しが登場する。

「ホテル・ニューグランドに2名、山手にあったブラッフホテルに5名分宿した他は新山下町のバンドホテルに宿泊することになる。」と多くがバンドホテルに投宿する。ここは40人以上の収納が可能であった。

「16日夜には雲仙から10名がホテル・ニューグランドに投宿する。」
長崎で下船したメンバーだが、長崎はドイツ大使館が長期滞留をサポートする体制が整っていなかったと思われる。

同月24日には
「藤原義江氏、佐藤義子さんの独唱会を始め次々に慰安の計画がある。」と報じられる。日本側もサポートしている。藤原義江は当時日本を代表するオペラ歌手だ。12月2日正午から、ホテル・ニューグランドで慰問会が開かれた。


当時神奈川県ではその引き揚げ者の居住地に関してしっかりとらえていた。
神奈川県外事課が作成した「1941年9月30日現在ドイツ人滞在一覧表(一戸を構えていないもの)」によれば蘭印、及び米州からドイツに引き揚げ途中のドイツ人を滞在場所別に見ることが出来る。

ホテル・ニューグランド 男18 女 68
           蘭印 男 9 女 59
          米州  男 6 女  9 

バンドホテル     男 7 女 38 
         蘭印 男 8 女 33
         米州 男 1 女  5

ブラフホテル      男 8 女 16 全員蘭印

インターナショナルスクール  男4 女29 全員蘭印

一般病院        女2 全員蘭印 入院加療中

海浜ホテル(鎌倉)  男 20 女 61 
       蘭印   男  9 女 51  
       米州   男  9 女 10 

殿ヶ丘修道院     男 15 女  4  全員農業従事中
元の表で一部総計合わない―筆者
(『横浜市史 Ⅱ 第一巻下』より)

この表によればこの時点で、神奈川県(主として横浜)に228人の蘭印からの引き揚げ婦女子が滞在した。蘭印の男は、ほとんど母親に連れられた子供であろう。

また11月6日の外事課の資料に拠れば男39名、女210名計249人の蘭印方面からの避難者となっている。
(この項2019年7月4日追加)

同年10月24日 小説家の芹沢光治良は箱根で彼女らの姿を目撃している。
「箱根町から元箱根まで歩いた。
湖を湖尻まで船で渡る。富士が美しい。あまり美しくないドイツの女が3人、船の上で林檎をかじっていた。南洋あたりから来たドイツ人なるべし。湖尻から強羅までバスで出るのだが、木炭車は気の毒なほど動かない。大涌谷下でついに動かなくなった。同乗のドイツの女や日本の女は歩いて大涌谷へ行った」
3人は横浜滞在組であろう。後にも紹介するが、南洋から来た婦女子は本国からの端正なドイツ人とは異なる印象を与えた。(『戦中戦後日記』より)
(2021年4月28日追加)

12月8日に日本が対米英に参戦した後の、翌1942年1月13日
「待ったぞ、この日!引き揚げドイツ人ラブ団長語る。」という見出しで
「日本軍の蘭印進駐を知った12日夜、一番喜んだのは横浜にいる蘭印引き揚げドイツ人婦女子150余名だ」と、600余の残留引き揚げ婦女子のうち、この時150名が横浜にいたことが分かる。これは先に照会した9月末時点と、ほとんど変わっていない。

彼らは冒頭に述べたように、空き家の出た山手を中心とする住宅に分宿している。バンドホテルはその後ドイツ海軍兵員の宿舎となり、蘭印女性は山手のブラフホテルなどに移る。また一般の民家の借り上げも進んだ。冒頭の山手60番がその例だ。



<ドイツへの帰国>

1941年11月の外事月報に引き揚げドイツ人の総括が載る。
「蘭印及び米州より引き揚げた独人は本年7,8月頃最も多く900名に達する。11月末現在500余名なり。
9月以降ドイツ向け便船により引き揚げたドイツ人は約400名に上り、これらは大部分婦女子なるも中には学校教師、各種技術者もあり。これらの者は敵国を憚り帰国の安全を期するため、ドイツ貨物船船員に就職して秘密裏にし出国し、甚だしきに至っては出国手続き不履行のまま出国することもある。

浅間丸の出帆を期待していたが無期延期となり、引き続きドイツ人大使館の指導、援護のもと本国向け便船を待望しつつあり。
なお上海方面に約200名のドイツ避難民滞在しつつある模様にしてその内11名、上海より前記殿ヶ丘修道院(経営者ドイツ人、スペル・ヨセフ)へ就労のため入国の予定なり。」

900名に達した引き揚げ婦女子(一部米州からも含む)400人もが祖国に戻り、500名が残留した。日欧間の定期航路が停止され、同年6月22日の独ソ戦の勃発で、ドイツ人の帰国は不可能になったと筆者は考えていたが、400名ほどが貨物船に乗船して帰国していたのは驚きだ。そこには蘭印引揚者以外にも、日本に滞在したドイツ人も含まれていた。ドイツの貨物船なら英国船に拿捕される可能性も高く、危険な航海であった。また先に述べたように殿ヶ丘修道院には9月末、19人の引揚者が滞在し農業に従事している。
(2020年2月14日追加)



<1942年>

間もなくしてジャワ島の連合軍は1942年3月9日に日本に降伏する。ドイツ人を抑留したオランダ人が今度は日本軍によって抑留されることになる。
3月11日、横浜のバンドホテルに祝賀に集まったドイツ人から、彼らが蘭印でどういう事業をしていたかが分かる。

エス・フォン・ベーンストフ(52歳)
→ジャバ島のバンドンで21年間コーヒー商を営んでいた。
エッチ・リンデンベルス(38)
→スラバヤで13年間貿易商を営んでいた。
フォン・ステイラー(58)
→ニューギニアに12年在住。
ジー・ミュラー(51)
→たばこ栽培業。

最後のミュラー女史は山元町に他5人の夫人とその家族で住んだ事が、冒頭の外事月報のリストから確認出来る。

外国人を監視した外事警察の記録である『外事月報』には、この頃の引き揚げ婦女にに関し、次の様な記述がある。

「3月 蘭印方面よりの引き揚げ婦人たち、日本軍隊被服裁縫の手伝いを申し込みたるにより、2月16日大使公邸において、これら婦人に対し陸軍被服本廠の指導を受けさせる。

3月上旬 オット(ドイツ駐日)大使夫人は本邦将校夫人一同より、蘭印方面よりの婦女子に対し衣類を贈与したる返礼の意味において、東條首相夫人をはじめ軍首脳夫人、避難婦女子約400名を招待茶会を催し、歓談する等親善振り発揮せり。」

引き揚げ婦人は日本陸軍のための裁縫を手伝った。また3月上旬にはドイツ大使館に招待された。
(この項 2019年7月4日追加)



<ドイツ領事と大使館>

1942年に入り、日本の外事警察はゼーハイム領事とドイツ領事館について次のように書いている。

「(ゼーハイム領事)性格消極的にして露骨なる対日活動は見て取れない。ドイツ人のカード作成し、マイジンガー親衛大佐らと密接な連絡。毎週火金の両日は必ず上京して大使館に報告。」と一般的な記述の後、

「蘭印方面より引き揚げらる婦女子の鎌倉、熱海、その他京浜地方に在宿するもの多く、これが救援等のため、館内に引き揚げ人係を設けカール・クロップを係り主任とし、ドイツ人3名をこれに配置せり。

領事は在留自国民の結束を固めるに注意し、横浜ニュー・グランドホテル、開港記念会館、YCAC等において常に音楽会、戦況映画会、ナチス党員祝祭等を開催するが、対日宣伝に関しては主として大使館文化部の直接活動に委ねて、極めて消極的態度。

本年(1942年)に入りてより、ドイツ本国より英米側の封鎖を突破して本邦に来る船増え、事務繁忙につき館員も充填したるため事務所狭くなる。同領事館の階下を使用しているアーレンス商会が(前年)10月1日移転したるのを機会に、全建物を領事館として使用。」
(この項 2019年10月12日追加)

また彼女らの横浜での経済的な困窮を伝える史料も残っている。

1944年2月1日ドイツ大使館の外務省宛の口上書
横浜市は同市在留ドイツ人に対し、市民税の納入を要求しているが、何ら自己の所得なく、全てドイツ国より救助を受けているドイツ人も納税義務者に包括している。
ここに問題となっているのは主として、蘭印引き揚げ婦女子並びに日本経由ドイツに帰国の途次に独ソ開戦の結果、帰国不能となった米国引き揚げ者である。
日本人は貧困により公私の救助を受けているものは課税されないので、同様の処置をお願いする。
(2021年1月7日)



鎌倉の婦女子>

1942年9月4日に鎌倉の海浜ホテルで「ドイツ人蘭印引き揚げ一周年記念集会」が開かれる。主催者は海浜ホテル支配人(日本人)で出し物は管弦楽と合唱であった。
出席者は引き揚げドイツ人42名とその他ドイツ人20人であった。42名は先に述べたほぼ1年前の滞在者から判断して、鎌倉海浜ホテルの子供を除いた総人数と考えて良いであろう。20名はドイツ大使館らの外部からの客である。

また同じ頃、駐日ドイツ大使館付き親衛隊大佐某が、鎌倉材木座に住む「避難ドイツ婦人某」を愛人としているとの風聞があることが記録されている。(『戦時下の箱根 井上弘 矢野慎一』より)

日本に駐在した親衛隊大佐と言えば悪名高きヨーゼフ・マイジンガーしかありえない。彼は日本にいるドイツ人の思想を徹底的に取り締まり、戦後はポーランドにおける虐殺の罪で絞首刑になる。そんな彼の愛人「材木座に住む婦人某」は、鎌倉海浜ホテル在住の引き揚げ婦人であった。
(『戦時下の箱根 井上弘 矢野慎一』2020年1月14日追加)

その後1944年8月にドイツ海軍武官室が鎌倉海浜ホテルに疎開した。婦女子が次の箱根方面に疎開したのはこのタイミングであろうか?


鎌倉海浜ホテルの碑(筆者撮影)



<ドイツ人商社員レベダック>

本編の冒頭でドイツ人、エドワード・ビー・レベダックの住む山手60番地には数名の引き揚げドイツ人婦女子が暮らしたことを書いた。

そのレベダックは1942年10月31日に、外国人立ち入り禁止地域である磯子区杉田町峰に立ち入ったところを警察官に拘束された。しかし故意ではなかったため、説諭の上釈放された。その際の同行者は引き揚げドイツ人4名であった。(『戦時下の箱根』)

「レベダックにとって、楽しいハイキングのひとときだったのではないだろうか?」と筆者は想像しているが、同行者とはおそらく同じところに住む婦女子であろう。
(2020年1月16日追加)



<ドイツ人学校>

婦女子には子供が多かったので、教育は大きなテーマとなる。
『神戸ドイツ学校の100年』(原文ドイツ語)という書籍の中に、生徒数の変遷が書かれているが、1941年生徒数113名 前年から51名増となっている。この急増は蘭印からの子女受け入れのためである。

関東地区では1904年に横浜にドイツ学校が始めて出来たが、1923年の関東大震災後は東京の大森に移された。今回の蘭印からの生徒の受け入れのため、校庭には教室 が4つある小さな建物が、新しく建てられた。

当初の横浜地区への引き揚げ者の内、就学年齢のものは13名、幼稚園児が2名であった。
1941年9月27日
「日本の電車にも慣れました。」の見出しで
「大森組は6時半には食事を終えてホテルを出る。元町か山下町から(路面)電車に乗り、横浜駅から省線に乗る。」と大森まで電車に乗って通った。外国人の子供には決して楽ではない通学だ。また幼児2名は地元山手の幼稚園に通った。

知られていないが、山手の42番に1943年時点でドイツ学校が開かれている。これは大森のドイツ学校の生徒が増えたこと(1942年は300名)と、東京にはアメリカ軍による空襲があり、ドイツ人の子供が電車で横浜から通うのは危険すぎると判断されたからであろう。

校長とふたりの教師がいた。彼らも引き揚げ者であろうか?
イルザ・ブルノッテ (学校長)
アウグステ・ケラー (教師)
ショウフェルト・オットゲッペ (教師)

また山手の5番にはドイツ人の親睦を図るために「ドイツハウス」があった。こちらが彼らの集会場となったはずだ。



<個人名>

引き揚げ婦女子の内、子供の名前が挙がることは少ない。以下が筆者が見つけたエピソードだ。

バルバラ・シンチンガーの親友で同年代のウルズラ・ロッフ(Ursel Loch)は住まいは横浜であった。おそらくは先に紹介した13名の一人で、横浜から大森のドイツ人学校まで通ったが、1年程の抑留の間は教育を受けられなかったので、学校では1年下のクラスに入った。退避命令が出された後は、彼女は軽井沢に疎開する。

父親がBASFに勤務して大森に住んだイルムガルト・グリムは書く。
「彼女たち全員を預かることはドイツ入社会に とって大変な課題でした。(すでに働いていたイルムガルトは)ホテルを確保したり,客室をもっている公邸すべてに、何人か受け入れられるか問い合わせたりしました。

私の母は,とても感じの良い婦人と彼女の娘さんたちを家に連れてきました。私より10歳くらい年下のリロという娘さんとは今でも連絡があります。」
(2020年5月27日)



<強制疎開>

1943年9月、横浜の外国人が住む多くの地域には冒頭で述べた立ち退き命令が出される。婦女子はまた移動を余儀なくされた。

その際日本側は
「軽井沢にはソ連邦、スイスその他の中立国公館員および一般人疎開しており、防諜上その外芳しくないものがあるに鑑み、外務省において箱根または河口湖畔に移転を勧める」とドイツ人は箱根、河口湖方面に疎開することを勧められた。

冒頭の山手60番の住民の疎開先は次のようだ。
エドワード・ビー・レベダック 商社員 家族3 足柄郡宮城野村強羅
マルカレッタ・ケムベン   無職  家族2  鎌倉市材木座
ルース・ケムラー      無職  家族1  足柄郡仙石原
ルース・ウスラー・バイパー 無職  家族1  山梨県南都留郡勝山村
ヒルデ・シャラー      無職  家族2  同上
イルゼ・タムヘン      無職  家族1  同上
フルーク・ツオツク     無職 本人のみ  同上

やはり箱根と河口湖方面であることが分かる。ドイツ学校は立ち退き地域外の横浜市中区本郷町と、足柄郡仙石原村営浴場の2か所に分かれた。本郷町への移転は1944年6月25日となっているが、その後まもなく閉鎖されたはずだ。終戦時にこの付近には、ドイツ人はひとりも住んでいない。

別の史料では
ブラフホテル 山手2番:24名 (避難民、女、子供)
インターナショナルスクール  山手253番: 20名 (避難民、女、子供)
と記されていて、この2か所が彼女らの主たる横浜での住まいであったことが分かる。そして
「蘭印よりの避難ドイツ人に対してはドイツ側の申し出もあり、特に集団的に居住し得る適当なる場所をあっせんすべきこと」と付記されている。

軽井沢では彼女らに万平ホテルの部屋が割り当てられたが、箱根は適当な施設が無かったためか、分散しての生活となったようだ。
(2021年1月7日追加)



<箱根に疎開>

実家が箱根で旅館を経営していた君枝・デュークは証言している。
「(ドイツ海軍将兵が)いなくなってからは、今度はインドネシアにいたドイツ人外交官の家族の方を収容して欲しいって女、子供さん何家族かを、わたしも自分の部屋を空けて、その人たちがいたんです。」

君枝・デュークは1920年箱根の生まれ、実家のふるや旅館は戦時中日本海軍と賃貸契約を結び、ドイツ海軍の将兵を多数宿泊させていた。その中のひとりで、士官だったブルーノ・デュークと戦後結婚した。

旅館は当初ドイツ海軍将兵の保養所として用いられ、ついで1944年春頃に引き揚げ婦女子が入り、終戦時には海軍将兵の疎開場所となった。一方引き揚げ婦女子は、ドイツ大使館関係者の疎開した、河口湖ビューホテルとその周辺に、ふるや旅館から再度移動したと推測される。
(『戦時下の箱根 井上弘 矢野慎一』 2020年2月14日追加)



<軽井沢その後>

軽井沢では日常の蘭印引き揚げドイツ人を観察していた日本人がいた。小説家野上弥生子は北軽井沢に疎開して野菜の栽培を行っていた。
「(草軽線の)駅まで出て用を足して帰りに帰りかけていると、後ろから知らない声がへんな調子で呼びかけられた。
”オバサン、ナニカアリマセンカ?”
びっくりして振りむいたら、色の褪せた、更紗の花模様のワンピースを着たドイツ女が2人、日焼けした真っ赤な顔で、それよりも焦げた太い腕に買い物かごを通して、立っていた。あまり風体のよくないところ、蘭印あたりの引き揚げ仲間であろうか。

どちらにしろ、彼女らが日本に来て、オハヨ、アリガト、サヨナラの言葉に次いでいち早く覚えたのは”ナニカ、アリマセンカ”の問いかと思うと、私たちの現実を何よりも適確に示しているような気がした。」

また同じく野上の「迷路」には次のようにも書かれている。
「ことに蘭領インドからの枢軸系人の逃げこみで、アクセントの強いドイツ語が、いままでの英語に代ってパン屋に、肉屋に、八百屋に、雑貨屋に反響した。」

彼女らのドイツ語は、本国で話される標準ドイツ語とは少し異なった様だ。ここで付加しなければならないことは、蘭印引き揚げドイツ婦人イコールドイツ人ではないという事だ。蘭印でドイツ人男性は、多数を占めたインドネシア系、オランダ系の女性と結婚したケースも多いはずだ。結婚により女性にはドイツの国籍が与えられる。冒頭に述べた“半ドイツ人”である。

こうした女性はドイツ語のアクセントも顔つきも、ドイツ女性とは異なったはずだ。また日本、ドイツに身寄りのない彼女らの中には蘭印に留まり、抑留生活に甘んじたケースもあろう。


軽井沢で保存される野上の山荘。(筆者撮影)

もう一人、外交官エルヴィン・ヴィッケルトは1943年の夏であろうか、妻を連れて仕事で上海へ向かう為、長崎から船に乗り込んだ。出航する時から2隻の護衛艦が付き、海洋に出るや否や、3隻の船はジグザグ航行を始めた。完全な戦時態勢である。
「全く無責任で無分別な話だ。2人の息子を軽井沢の夏の家に残してきた。私たちの友人で蘭印から来た2人の女性、そのうち一人はドイツ人で一人はスイス人だったが、彼女たちが世話をしてくれていた。」
このように蘭印女性は軽井沢で、ベビーシッターの様な事をしたのであろう。



<ドイツ人の素顔>

実際の引き揚げ者は、自分の身に降りかかった現実を、どの様に受け止めたのであろうか?証言を拾ってみる。

1941年1月から2年半にわたって東京のドイツ大使館に勤務したローレ・コルトは
「私はパンジョエ・ピロエの婦人収容所に収容された。ここは後に日本軍が、オランダ人収容所として用いたところだ。
7ヶ月後に、スイス領事の尽力で、宣教師夫人や教会付きの婦人社会奉仕員たちとともに、小さな日本船に乗せられて神戸に送られた。」
(『戦時下日本のドイツ人たち』より)

金の採掘にあたっていた夫とともにスマトラ島に住んでいたアンナ・ヴローチナは
「1年ほどオランダの収容所過ごした頃、ドイツ政府と日本政府の間で取り決めができ、まず日本に移り、そこからシベリア経由でドイツに送還されると聞いた。」神戸に着いたヴローチナは
「2人の子供、義理の妹とともに市内の一軒家を借りたが、その家賃は「(神戸の)領事館が払って」くれていた。食糧に関しても、領事館を中心に組織された“援助委員会”のおかげで、終戦間際までさほど苦労しなかったらしく“全体として見れば、かなり悪くない生活だった”と語る。」

大使館に勤務していた外交官ヴォルフガング・ガリンスキーはこう言っている。
「ドイツの領事館は、終戦まで、また終戦で仕事がなくなるまで、これらの女・子供たちに生活補助金を出していた。」

ネット上の「日蘭イ対話の会」のサイトに、ドイツ(国籍を持つ)女性オルガの体験談が載っている。
「第2次世界大戦が勃発した時、オルガはインドネシアのスマトラにあるデリというところに家族といっしょに住んでいました。
そこでドイツ人の父親が、たばこプランテーションに携わっていたのです。その当時、ドイツ国籍を持っていた男性たちは英国領インドにある収容所に入れられました。

女性と子供たちは母国ドイツに送還されることになり、その帰路は日本-ウラジオストックーシベリアードイツと予定されていました。しかし戦争という異常事体のなか、彼女たちは日本に留まることになってしまったのです。」

「オルガさんは1941年から47年の6年半を神戸地区の3カ所で過ごし、空襲の経験があります。それと同時にきれいな桜の花やつつじ、素晴らしい瀬戸内海の眺めなど、彼女には決して忘れられない美しい思い出が残りました。」



<日本で敗戦を迎えたドイツ人>

戦争2年目の1943年頃からは蘭印婦女子に関する情報は少ない。総じて表舞台に出る事もなくひっそり暮らした引き揚げ婦人であるが、1945年5月8日にドイツが降伏してからも変わらなかったようだ。

何度か引用した『戦時下のドイツ人』では次の様に書いている。
大使館のメンバーは蘭印婦人とその子供たちに対し、ドイツの降伏で大使館が活動を停止した後も、献身的な援助をしている。館員たちは外交官の身分を失った後も先頭に立って、食糧や燃料の確保に駆け回り、子供たちの教育や身の回りの世話をした。もとは見知らぬ女性たちに対してである。

外交史料館に残る資料に拠れば、山梨県南都留郡勝山村富士ビューホテルにドイツ大使館は疎開をした。日本は戦争を継続する中、1945年5月ドイツが崩壊すると、外交官としての執務の執行を停止される。ただしとして本邦及び東亜地域の在留ドイツ人の保護関係の事務の執行のみを認められる。

先の山手の引き揚げ婦女子を見ても勝山村への疎開が多かったことは見た通りだ。また大使館員は婦女子の面倒もよく見たというが、他の業務を禁止された中では、当然と言えないこともない。ドイツ学校は箱根の仙石原に疎開しているので、就学児童のいる婦女子はもっぱらそちらに疎開したか?

また横浜総領事館の分館設置をドイツは“提案”したが、(もう要求する関係ではないので提案なのであろう)日本側は公式名称を用いての設置は認めないが、事実上の事務所を置くことは差し支え無し、と答えている。横浜周辺には強制退去地域を除いて、依然ドイツ人が多数残っていたのであろう。

そして8月15日、日本も敗戦を迎える。その後2年後、特別に許された者を除いて、全てのドイツ人の帰国が決まる。日本に留まったのは、古くからの滞日者やユダヤ系ドイツ人ら700~800人とされる。
1947年2月に第1陣が米軍輸送船「マリン・ジャンパー」、同8月に第2陣「ジェネラル・ブラック」での帰国が決まる。蘭印婦女子もふた手に別れて乗船した。日本で6年待っての帰国であつた。

以上 (2019年1月11日)



<軽井沢で終戦を迎えた蘭印引き揚げ者>

戦後まもなくの1946年に作られた「帰国を待つ蘭印ドイツ人」としてGHQの命令で外務省が作成したリストが見つかった。
List of German nationals
District: Karuizawa
Frormaer residents of Netherlands-Indies

それによると戦後109人が軽井沢で暮らして祖国への送還を待っている。住所も載っているが、戦時中に万平ホテルで暮らした者はアメリカ軍のホテルの接収で追い出されているから、戦時中とは異なる人も多いはずだ。

これまで彼女らは日本に来て以来、ホテルなどで集団で生活してきたのが多かったが、この時はほぼ家族単位で暮らしている。終戦後に東京に戻った中立国人も多かったので、別荘事情も良くなったことも関係していると思われる。

主要参考文献
Hitlers Griff nach Asien 1  Horst H. Geerken
外事月報 
戦時下のドイツ大使館 エルヴィン・ヴィッケルト
戦時下日本のドイツ人たち 上田浩二 荒井訓
当時の朝日新聞、読売新聞、

筆者の書籍の案内はこちら
『心の糧(戦時下の軽井沢)』はこちら

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