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日本 スイス・歴史・論文集 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西

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日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録 

目次

<1.靖国丸
<2.伏見丸
<3.箱根丸
<4.白山丸
<5筥崎丸
<6榛名丸

<7.香取丸
<8.照国丸
<9.鹿島丸
<10.諏訪丸

<11.その他
<12.浅間丸
<13.鎌倉丸
<14.崎戸丸
<15.シャルンホルスト

<序>

筆者は戦時中、欧州に滞在した人から話を聞き、それを紹介してきた。
それらの方々の話はいつも「自分は○○丸で欧州に向かった」から始まった。その当時小学校の低学年でもよく覚えていた。またこれまで多くの渡欧者の回想録を読んでも多くの場合、「○○丸で欧州に」という一項目があった。ここではこれまでに筆者が直接話をうかがった方の、欧州航路にまつわる話を中心にまとめ、書籍等に見られる思い出話も加えて船を単位にして、当時の航海の様子を紹介していくものである。

そこでは筆者の調査の関係上、欧州戦争が始まる1939年9月1日以前のいわゆる優雅な船旅と、開戦後、航路閉鎖までのおよそ1年間の欧州からの引き揚げ者を乗せた戦時下の旅の合計2年間を主に取り上げる。

重複する記述はなるべく避けたが、回想を多く記録する目的でもあるため、航海の様子など若干似通った部分もあることを、あらかじめご容赦願う。

さて1938年3月から1年間の運航表が手元にある。それによるとこの時欧州航路に就いていたのは次の10隻である。
白山丸、榛名丸、香取丸、鹿島丸、靖国丸、箱根丸、伏見丸、筥崎丸(はこざきまる)、諏訪丸、照国丸

1938年3月27日横浜港発の白山丸を見た場合、ナポリ着が5月5日、ロンドン着が5月14日の予定である。そして白山丸の次の航海は8月14日に同じく横浜発で、その後は翌1939年の1月2日発である。つまり4か月半ごとに欧州に向かった計算だ。



1.靖国丸

1930年9月22日、ロンドンに向かって処女航海。総トン数 11,930トン。
1等:121人、2等:68人、3等:60人。
1940年6月に南米西岸線に配船されたのが最後の商業航海となった。
1944年1月24日、米国の魚雷攻撃で沈没。

辻正義(外交官 辻正直の長男でベルリン、モスクワに滞在)

父、母、弟の正敏と正行を含む5名は横浜から日本郵船の「靖国丸」に乗船し、自分と澄子叔母(母の妹)は門司港から乗船した。門司港では接岸できないので小さな艀船で靖国丸に近づき、高くて急な桟橋を抱かれて乗船したことを覚えている。一等船客室と三等船客室と二部屋をとってあったが、外交官待遇ではない叔母の澄子は三等船客室だったという。 

靖国丸一等船客の記念撮影。「6TH JUNE. 1938 VOY. No.21」と白いローマ字が写し込まれている。
前列右から三番目、船員に抱かれているのが正義。前から3列目4,5番目が正直、正敏。前から2列目3番目が静子


当時の配船表によれば靖国丸の第21航海は1938年5月22日、横浜出航である。撮影日が6月6日とあるので、予定通りであったならばシンガポール入港前日の撮影である。

靖国丸には長旅の退屈さを紛らわせるため色々な施設があり、プール、映画館、その他娯楽施設も完備されていた。よって子供の正義も航海中、全く退屈することはなかった。食事は部屋でもとれるが、食事の時間になると鉄琴を鳴らしながら回って来るので、辻家はそれを合図に食堂に出かけた。

食事の種類も豊富であり、寄港する国々の産物も取り入れて特にシンガポールあたりで出された南洋の果物は美味しかった。また夕食にはテーブルにいろいろな記念のプレゼントも用意されていた。船では家族一同揃っての暮らしが出来て、食事も一緒で父、母と暮らす時間もたっぷりあったので楽しかった。

すき焼きパーティーも一等船客への定番サービスであったようで、日本郵船米国向けの船でも行われた。左のテーブルに正直が見える。
専属のカメラマンが乗り込んで、こうした写真を撮り、日付なども入れて配ったのであろう。


寄港する港では上陸できるところも何カ所かあった。門司の次の停泊地である上海で辻一家は上陸したが、日本海軍が上海に利益保護の目的で駐屯させていた海軍陸戦隊の車で、租界地を案内してもらった。その時正義は生まれて初めて、壁に銃弾跡を見た。跡は第二次上海事変で出来たものと思われる。

次のシンガポールでは街路樹に猿が群がるようなところを通って動物園に行った。小さなバナナを餌にしていた覚えがある。スエズ運河の北端にあたるポートサイドでは駱駝で近郊のピラミッド見物なども出来たが、辻家ではそれをしていない。


スエズ運河通過 右が澄子
(「辻家の体験した戦前のベルリン、モスクワ」より)

そしてこの辻一家の乗った靖国丸には30名の日独親善の使命を帯びた若者も乗船していた。ドイツからヒトラーユーゲントの若者が日本を訪問するのに呼応し、それに倣って日本にできた大日本連合青年団が欧州を訪問したのであった。

彼らはマルセーユからパリを経由して7月2日にドイツ国境の街アーヘンに到着し、歓迎を受けながら次いでベルリンに到着。ベルリンの日本人学校を訪問した時の写真を加藤眞一郎さんが保存している。

宝塚少女歌劇団

また同じく日独友好の一環として、天津乙女(あまつおとめ)をトップとする宝塚少女歌劇団がドイツを中心に、ヨーロッパを訪問している。当時の新聞によると1938年11月20日、ベルリン民族劇場にて初演が行われた。そいてベルリンの最終日である23日は、大島大使およびゲッペルス宣伝相の共同主催の特別公演で、売り上げの収益はドイツの「冬季救済」運動に寄付された。

宝塚少女歌劇団一行30名は1938年10月2日神戸港から靖国丸に乗船し、11月2日靖国でナポリに着く。そして4日ベルリンに到着した。大日本連合青年団が乗船したのとは次の便である。大規模な派遣団が立て続けに靖国丸を利用したのには何か理由があるのであろうか?

乗船に際し、多くの乙女の心配事は長旅での船酔いであった。古い言い伝えからおへそに梅干を張り付けたり、乗り込むや否や船の柱をなめたりしたという。
(日本郵船「航跡」より)

同じ船には満州国ドイツ公使として赴任する呂宣文が乗っており、宝塚の壮途に激励の詩を送った。ドイツが満州国を承認したのは同年5月であるので、呂は初代公使として赴いたのであろう。

また寄港地シンガポールでは在留邦人に向けて慰問の公演を行った。さらにコロンボを発った10月23日には、一等船客に向けたかなり本格的な衣装を着けた余興をやっている。後述するように一等船客は絶えず特別扱いの欧州航路であったが、この余興も船客にとっては嬉しいサプライズであったろう。(「水晶の夜、タカラヅカ」より)

船客に音楽家がいる場合、こうした飛び入りのサービスは良く行われたようだ。女優で声楽家で欧州で活躍した田中路子は、一時帰国の船上で乗客一同から「ぜひ”蝶々夫人”を」と望まれた。

谷口吉郎(建築家)

宝塚少女歌劇団と同じ靖国丸でドイツに向かったのは建築家谷口吉郎であった。ベルリンの日本大使館が改築されるのを見学し、その一環で日本庭園を造園するのを指導するためであった。

乗船の際の神戸の港は宝塚の少女を見送る人で大変な混雑で、旗と甲高い声が渦巻いていた。よって谷口を見送るために郷里から出てきた父母たちは、どよめく群衆に危うく押しつぶされそうになり、お互いに姿を見失わないように船の上と下から手やハンカチを振りあった。

船が桟橋から離れると、群衆は急に走り出したという。スターを追いかけるファンの行動は今と変わらないようであった。
宝塚の少女たちの行動は船の中も含め、「日独伊親善芸術使節団渡欧記念アルバム」に克明に残されているが、谷口の目に映った印象としては

「インド洋でも地中海でも、この少女たちは毎朝元気よくラジオ体操をしていた。船尾に近いデッキに整列して、まぶしい太陽の光を全身に浴びながら、手足を一斉に動かしている光景は、健康で美しかった。」
「スエズ運河を過ぎ、船がナポリに近づくと、少女たちは蛍の光を歌って、上陸していった。」

そしてベルリンに着いた谷口は街の広告塔を見ると、黄色いポスターが目に入った。宝塚少女歌劇団の国民劇場での公演を知らせるものであった。
その後谷口はこの後述べる引き揚げの靖国丸にノルウェーのベルゲン港で乗船し、帰国する。
(「雪あかり日記」より)

上弥生子(小説家)

宝塚少女楽団の乗るこの航海には、野上夫婦も乗り合わせた。弥生子は詳しい航海記録を残している。それによれば一緒の食事のテーブルは矢野(真)スペイン公使、岡中佐、鉄道省の若い役人がいた。野上も1等船室であった。

また先述の呂宣文の他に、江原綱一満州国参事官ら一行が上船していた。ドイツが満州国を認め、ドイツに公使館、総領事館を開設するためであった。それに関連し10月9日、船長から面白い話を聞く。

船には400人からの人が乗っている。2百数十名が乗客、あとは船員。この航海では客の4分の1ほどが子供である。こんなことは船長の30数年の海員生活にも、まだ経験しなかったことである。満州国公使館員は誰もが子だくさんであった。(呂公使4人、江原4人=筆者調べ)
これらの子供が蛮声ををあげ、大勢で駆け回るやかましさは野上の想像以上であった。

筆者が思うに、この航海が欧州航路の最後の賑わいではなかったか?そして甲板を走り回った子供たちは全員、翌年9月に同じ靖国丸で戦禍を逃れ急きょ日本に戻ることになる。そして10月11日、船上では宝塚歌劇団のショーがあり、次のように記している。

「蚊の鳴くような声で、若草式のセンチメンタリズムを一歩も出ない。ただ天津乙女の舞踏だけは本格であるが、しかしながらこれをドイツの大きな劇場に持ち出した時の効果を考えると、失敗は明白である。小林一三(宝塚創立者―筆者)にとってはドイツ帰りという看板で、一儲けすることさえ出来ればそれで目的は達せられるのであろうが」
と手厳しい。

弥生子の日記にはいくつもの興味深い記述がある。例えば
「今度の外国旅行でも、一生払えきれそうもない借金を背負い、かつ定収もない生活に返ることを思うと、不安で一杯になるが、、、」
と小説家にとっても、大きな借金をしての旅行であったことが分かる。

(「野上弥生子全集 第二期 第六巻」より)

野上豊一郎(英文学者、能楽研究者)

同船には野上弥生子の夫、豊一郎も乗船した、英国の各大学で「能を中心とした日本文化史」を講演するためであった。妻弥生子はその同伴であった。1938年9月28日の朝日新聞には

「野上豊一氏郎氏が持って行く”面”と”装束”は、”面”15面、”装束”10枚に決定、27日朝横浜を解○(不明―筆者)した靖国丸に積み込み、10月2日神戸から同船に乗り込む野上氏が護って、はるばる海を渡ることになった」とある。

(野上夫妻の項目 2015年7月19日追加)

荒木光子 (東大経済学部教授 荒木光太郎夫人)

夫光太郎は日独交換教授という肩書で、同年7月ドイツに渡っている。一方夫人である光子は少し遅れ、野上弥生子と同じ靖国丸でドイツに向かった。野上の日記に
「10月28日 昼の食卓は荒木(夫人)さんのところへ招かれる。御亭主のぐちをきかされた。」とある。
彼女は終戦直後は、自由にGHQに出入りできる、日本人であったと言われる。

(荒木光子の項目 2015年7月25日追加)


この宝塚のメンバーら多くの著名人を乗せた航海に関して朝日新聞に「靖国丸渡欧客(2日 神戸出港)」に見出しで主たる乗船客の名前が出ている。
スペイン駐在公使 矢野真
駐独満州国公使 呂宣文、 同参事官 江原綱一、同理事官 孫孝思、同理事官補 王替夫、同主事 中川英一、同 笠井唯計
ハンブルク満州国総領事 安集雲(?)、同副領事 澤口誠篤
(以下は出張者と思われる)
衆議院議員 高岡大輔、法政名誉教授 野上豊一郎、著述家 同弥生子、東京工大教授 谷口吉郎 
以下何人か続いた後
宝塚歌劇団一行 45名 
で終わる。
(この項目2015年11月23日追加)

杉村陽太郎(フランス大使)

杉村大使は任地で胃がんを患い、医師にモルヒネを処方してもらい、帰国の途に就く。神戸港到着の様子を、1939年1月18日付け読売新聞が伝えている。

「17日朝、靖国丸は本年最初の帰朝船として午前9時神戸港に入港した。船客は病める駐仏大使の杉村陽太郎氏とその家族を始め、国際労働機関帝国事務所長北岡壽逸氏夫妻、国際連盟事務局員原田健氏夫妻、海軍主計中佐松田盛夫氏ら。
杉浦氏は看護のために渡仏した花子夫人並びに長女秀子さんに付き添われ、船医の注意によって面会謝絶のため、同船で横浜に向かい、20日入港と同時に慶応病院に入院することになった。」

杉村は多くの先客のように、神戸から列車に乗り東京に早く着くだけの、体力が残っていなかった。そして同年3月24日に死亡する。
(2018年3月1日追加)



湯川秀樹博士、遠城寺宗徳博士、庄司元三海軍中佐

1939年6月28日に靖国丸は横浜を出港し、8月3日ナポリに到着した。第24次往航、これが靖国丸にとっての最後の欧州航海であった。この便にはベルギーのソルヴェイ会議に出席する湯川秀樹博士(ノーベル物理学賞受賞者)、ベルリンで開催予定の国際結核予防会議の日本代表遠城寺宗徳博士が乗船している。(日本.欧米間、戦時下の旅)

また庄司元三海軍中佐も同船でナポリに向かう。庄司中佐はドイツ崩壊直前にドイツ潜水艦U234号内に乗り込み日本に向かうが、ドイツが降伏すると、同潜水艦はアメリカに投降を決めた。そしてアメリカの手に渡る前に庄司は艦内で自殺する。
小説家野上弥生子も夫の日英交換教授としての渡欧に同行し、同船神戸よりに乗り込んだ。さらには外務省留学生の堀田磯行もこの時、靖国丸を神戸から利用してブダペストまで向かった。


前芝確三(大阪日日新聞特派員)

この6月末に日本を出港した靖国丸に上海から乗船したのが前芝確三であった。彼も日記形式で航海の様子を残しているが、ジャーナリストで旅慣れていためか、少し覚めた目で見ている。興味深い個所を挙げてみる。

7月7日 
郵船会社の船は、ことに一等の場合、すべてが欧米人向きに出来ているようだ。(中略)
この頃のように、乗客のほとんど全部が日本人によって占められると、変なものである。サービスも設備も商船会社(商船三井?)の大連航路などの方が、むしろ快適だ。

7月12日
乗客の夫人たちが、一日のうちに、四、五度も着物を着かえて食堂や甲板に現れるのに気が付く。退屈すると、そんなことでもして暇をつぶさなければ、やりきれないのか、、、(四、五度というのは少し大げさであろう。)

7月20日
日本から電話がかかってきた。電話室の暑さに、汗だくになって話すのだが、互いによく聞こえない。(すでに日本との電話が可能であった。)

7月21日 
主人と共に乗っている夫人たちは、ますます旅に慣れ、遠慮がなくなり、嬉々として戯れている。
午後、一等船客だけで記念撮影をやる。

7月27日
夕食はすき焼きの会。遊歩甲板に畳を敷き、ぼんぼりに藤の花をつるして、神戸風のすき焼きで、日本酒を飲む。浴衣がけで出てきた人たちもある。(「戦火を追って」より)

一等船客だけの記念写真、すき焼きの会は辻正義さんの項で見てきたとおりだ。

加藤眞一郎 (大倉商事ベルリン支店長の長男)

靖国丸は先の航海でロンドンですべてン乗客を降ろした後、ハンブルクに積荷を下すために向かった。ちょうどその時、独ソ不可侵条約に起因する欧州での戦争勃発が不可避であるとの情勢判断のもと、大島浩大使が「婦女子の帰国勧告」を出した。加藤さんの家でもお父さん一人を残して、お母さんと三人の兄弟は8月26日、列車でハンブルクに向かう。そして待機していた靖国丸に乗船したのである。合わせて187名の婦女子が乗船した。
(同航海については「靖国丸、欧州引き揚げの全記録」に詳しく述べています。)

ベルゲン港にて靖国丸をバックに記念撮影。この後後方の成人男子は多くがドイツの敗戦まで残ることになる。
眞一郎さんも涙の別れをした。(この写真は圧縮していますが、オリジナルを拡大すると一人ひとりの顔がよく認識できる。)


靖国丸は同じ日にドイツを離れ、ノルウェーのベルゲン港で待機し、さらに日本人帰国者を乗せた。9月1日、ドイツはポーランドに侵攻し、同3日に英仏がドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。それを見届けたかのように4日靖国丸はベルゲン港を出港し、通常の欧州航路とは異なりニューヨーク、パナマ運河、ロスアンゼルスを経由してほぼ60日かけて横浜港に向かったのであった。地中海が英国の参戦で戦場となったからである。この船内でも高橋ふみ先生らによる小学校、中学校の授業が行われた。

ニューヨークにて、高層建築をバックに。白いジャケットを着た人は船の加藤さん一家の世話係。

当時ニューヨークでは、かのエンパーアーステートビルディングが出来たばかりであったが、その高さに圧倒された。身近なところではトイレにはエアーで手を乾かす機械があったのが、眞一郎さんには衝撃だった。
この航海について眞一郎さんは「祖国目指して」という絵日記風旅行記にまとめて、今も大事に保存している。
こうして開戦前に日本に戻った眞一郎さんは、悲惨な戦争を日本で体験することになったが、日本の開戦の知らせを聞いた時、眞一郎さんは自分が見てきたアメリカを思うと、「この戦争は勝てないのではないか」と本能的に考えた。

船客の旅情を慰めるために、楽焼き会も日本郵船の客船では催されてきた。
そしてそれはこの引き揚げ船でも行われた。「靖国丸 欧州より避難の途、太平洋上に於いて 1939年10月7日」と裏面に書かれた楽焼きには、10数名のサインが焼き込まれている。後のノーベル賞学者朝永振一郎の名前があるが、その隣は「加藤節子」、眞一郎さんのお母さんの名前である。商社の支店長をご主人とするお母さんは、船の中でもリーダー的な立場であったのかもしれない。そして高橋ふみの名前も焼かれている。


パナマ運河を航行する船上にて。中央が眞一郎さんでその右は駐独外交官神田襄太郎の娘、愛子さん。
(「日本人小学生の体験した戦前のドイツ」より)

この引き揚げの証言は多い。ここでは靖国丸船長提出の報告書から記す。

「避難民187名を搭載し、ハンブルク日本帝国総領事の命により26日午後9時30分同港を出港し、28日午前9時ベルゲン港到着。

9月1日ベルゲンにて避難客渡辺徳子、女子1名を分娩 。父はドイツ三菱商事支配人 の渡辺壽郎。」
加藤眞一郎さんによると渡辺家は多産での夫婦で子供は10人近くいた。靖国丸で生まれた子には「靖子」と言う名がつけられた。そして10月18日未明、靖国丸は横浜港に戻るが、翌日の朝日新聞には
「靖子ちゃん元気」の見出しで「かわいい靖子さんはオギャアオギャアと元気な声を出して、ミルクを飲んでいる」と母子の写真入りで全国に紹介された。

欧州航路の代表格とも言うべき靖国丸であるが、これを最後に誰の回想録にも登場しなくなる。開戦に伴う同航路の乗客減を理由に、南米西岸線に回されたのであった。また日本郵船のハンブルク港への寄港も、これが最後となった。

谷口吉郎(建築家)

先述のように1年前、靖国丸でベルリンに来た谷口も、この引き揚げ船に乗った。その様子を記した「せせらぎ日記」から、いくつか重要な事項が確認できる。

9月2日 船内に掲示が張り出される。
「本船は来る9月4日正午、ベルゲン港を出発し、ニューヨーク、パナマを経て横浜港に至る。」
船員たちは出発準備に忙しい。船体の両脇に大きな「日の丸」が新しくペンキで描かれだした。船腹ばかりでなく、サン・デッキの床にまで大きく描かれた。

ここから靖国丸の船腹に描かれた日の丸は、出港直前の9月2日に描かれた事が分かる。それと呼応するように、9月4日、日本の逓信省、管船局から、遠洋航海の全日本船に対して「船側に日章旗を明示せよ」という通達が発令される。

9月4日 朝、気温が低く肌寒い。今日は出港の日だが、海上に濃い霧がかかり、港はどんより曇っている。沖は荒れているらしい。

朝食の後、乗客一同が波止場に整列し、船腹に描かれた「日の丸」を背景にして記念写真をとる。いかにも「避難船」という感じが胸にわいてきて、カメラのシャッターを切る音が耳に強く響き、いよいよヨーロッパの地から去ることを感慨深く思う。

午後になると、銅鑼が鳴る。その音にせき立てられ、甲板に出てみると、波止場に見送りの人が手を振っている。その中に日本人がただ一人。ストッックホルムの日本公使館から駆けつけ、私たちのいろいろお世話をしてくださった事務官である。そんな少人数の人たちが振る手に、甲板からの上からも手を振りながら別れを惜しんでいると、船の汽笛がながく響き、それが湾内にこだますると、靖国丸は岸壁を離れた。
見送りの日本人はただ一人。1年前、神戸港を出港した時の賑わいに比べると、全くひどい変わり方である。

すでに紹介した、記念写真の撮影状況、およびベルゲンの出港時の様子がよく分かる。
(「せせらぎ日記」 2016年9月7日追加)

横浜に係留されている氷川丸から当時の靖国丸の航海を偲びました。こちら参照

澤田廉三・美喜

1930年9月の処女航海に、澤田廉三(後のフランス大使、戦後国連全権特命大使)一家が神戸からマルセイユまで乗船している。
妻美喜(岩崎弥太郎の孫娘でエリザベス・サンダースホーム創設者)、7歳になる信一、次男久雄、三男晃、娘恵美子の4人の子供をつれての船旅であった。船内で英国人の子供のしつけの仕方を見ることで、美喜にとっては新しい目を向かせる船旅となった。
「GHQと戦った女」より
澤田大使は1938年、フランス大使として赴任する際は照国丸を利用している。

澤田夫妻。(澤田美紀記念館にて筆者撮影)

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2.伏見丸

1914年11月23日竣工。10,940トン。
1等:132人、2等:59人、3等61人
1943.2.1(昭18)東京から基隆へ向け航行中、米潜により沈没。

山路綾子(山路章ウィーン総領事、ブルガリア公使長女、のちの重光晶夫人)

欧州に向かった船は綾子さんの目から見ると、多くの当時の渡欧者が語るような“豪華船”ではなかった。記憶では客船ではなく、貨客船の「伏見丸」である。確かに約1万トンの伏見丸は、当時最先端の1万7千トンの浅間丸クラスに比べると大きさでも劣っている。

右が山路綾子さん。バックに小高い丘が見える。日本出港直後?


船中にて 帽子をかぶる様子から赤道祭りか。

野上弥生子の航海日記に次のような記述がある。
「3時過ぎからティー・パーティー。後ろ甲板が造花のさくらとぼんぼりに飾られた。みんないろいろな帽子をかぶらされる。おしるこ、おでん、くずもち、煎餅、アイスクリーム。私はわずかにそれ(アイスクリーム?−筆者)のみを食べる。」 (この項2015年7月25日追加)

先述の日本郵船の配船表によれば、山路一家を乗せた伏見丸は1938年6月19日に横浜を出港し、7月30日ナポリに着く。その後は鉄路でウィーンに向かったと思われる。途中では停泊する港毎に、一家は船を下り観光をした。船は石炭を積むのに時間を要したからである。ポートサイド(エジプト)ではラクダに乗る体験もした。

象に乗る山路姉妹。スリランカのコロンボ?

ポートサイドにて
(「山路(重光)綾子さんが体験した戦時下の中欧」より)

部譲二(作家。戦前のロンドン、ローマに暮らす)

山路(重光)綾子さんの乗った伏見丸の一回前の航海に乗船したのが、生まれたばかりの安部譲二(本名直也)さんである。本編のまさにテーマである日本郵船に勤務する父安部正夫さんの関係で、家族もロンドンに向かったのであった。

譲二さんは4人兄弟の末っ子で1937年5月の生まれである。 
母親は生前、「伏見丸に乗って父様のいらしたロンドンに向かったのは、あなたが生まれて7ヶ月後だったわ」と、言っていたという。よって出航は1938年1月ごろになる。


甲板での写真の一番前にいるのが、生まれて7か月の本人。右端に立っている少年が五つ違いの兄博也さん、そして後ろから譲二さんに手を添えているのが、母親玉枝さん。和服の女性は湯河原出身の女中さん。当時の家族の赴任には日本から女中が同行することが多かった。

その後1939年に安部さん一家はローマに移り住む。同年9月に欧州に戦争が始まると、欧州航路の重要な寄港地ナポリでは積荷のトラブルで、多くの船が足止めを食らう。連合国が日本からの軍事物資がドイツに入ることを阻止しようとしたからだ。その度にローマの日本大使館と連合国の大使館の間での外交交渉となった。

寄港地ナポリには駐在員がいた日本郵船だが、ローマにも社員を置く必要が生じ、ロンドンから安部さんのお父さんが出張ベースで赴いたようだ。


おそらくナポリに向かう船にて。(右が2歳の譲二さん)日本郵船の船であると思われる。
(2枚の写真は安部さんの許可を得て使用しております)
(安部譲二さんオフィシャルウェッブ

朝永振一郎(ノーベル物理学賞受賞者)

1937年、博士が留学先であるドイツ・ライプツィッヒ大学に向くために乗船したのは伏見丸であった。船内で撮った記念写真の浮き輪に"FUSHIMI MARU"と書いてあるのが読める。

父朝永三十郎に、船上から手紙を書いている。そこから船内の様子をいくつか知ることが出来る。
「いよいよ明後日はナポリ着。船では港に付く前に必ず活動写真があります。」
今も国際線では着陸の前にその都市の紹介をモニターで見せるが、ここの活動写真はでそれあろうか?

「先日からすき焼き会が一度、お茶の会が一度、それから運動会が2,3日続いて、音楽会がありました。」
航海上のイベントの一覧である。

「西洋人のお客はみんなあんまり教育のありそうな連中はいないらしいです。どうもみな品が悪いです。」
逆を言えば日本人の船客は、限られた優秀な人材だけであった。
朝永は1937年6月にライプツィッヒに着く。

開戦

1939年9月1日、欧州で戦争が始まると朝日新聞に次のような報道が出る。
「パリにあるピアニストの原智恵子さんは10月8日ナポリ出航の伏見丸で帰国の途に就き、(一方)バイオリニストの諏訪根自子嬢は居残ることとなり、パリ南200キロのアルシーシルクレに避難した。帰国組と居残り組の分かれるパリの芸術家であった。」(原が実際に乗船したかは、要確認。)

翌1940年5月10日、ドイツがオランダ、ベルギーに侵攻し、さらにフランスを目指す。朝日新聞には今度は以下のような記事が出る。
「欧州戦局の拡大に関し日本郵船では5月13日、重役会を開き情報を持寄り協議した。しかして目下危険地帯航行中の同社船舶中の伏見丸は、リバプール入港中であり最も危惧されるが、同港には米国船など中立国船舶がほかにも入港中であるので交戦国としては慎重なる態度をとるものと期待される。

その他はでらごあ丸、だあばん丸がシンガポール、ポートサイド間をそれぞれ航行中であるが、ロンドンに到着するまでには相当の時日を要するので差当り本社としては静観するよりほかはなく、各船舶は予定通り航行せしめ刻々の変化による機宜の措置はロンドン支店長、金鞍常務に一任することとなった。

しかして今後の場合はドイツ軍の英本国空襲とイタリーの参戦如何にあり、その場合にはロンドン、リバプール線の休航、地中海航行不能によるアフリカ迂回等が実現すると見られる。」(大阪毎日新聞 1940.5.14)
文中の伏見丸は1940年4月5日、船客25名を乗せて横浜を出港していた。またでらごあ丸、だあばん丸は貨物船である。本編で紹介する貨客船以外にも、貨物船が欧州航路に就航していた。

森元治郎(同盟通信ワルシャワ支局長)

1940年2月、同盟のワルシャワ支局長であった森元治郎には本国から帰国命令が出た。3月の箱根丸、4月の筥崎丸も満員で、やっと5月29日ナポリ発予定の伏見丸に座席を確保できた。(実際の出発は5月31日)帰国希望者が殺到したからである。
(「ある終戦工作」より)

1980年に出版されたこの本のなかで、森は3月箱根丸、4月筥崎丸と何気ないように書いている。調べてみると確かにその通りで、箱根丸は3月20日、筥崎丸は4月25日にナポリを発っている。自分が帰国できるか、かなり切迫した状況であったのであろう。
そして2週間の間隔で運行されていた欧州航路も開戦で渡欧者が減り、月一便に減った.。

藤田嗣治画伯

この伏見丸ではパリからは多くの芸術家が引き揚げてくる。この時の伏見丸はさながら「芸術船」であったという。その代表格は藤田嗣治画伯であった。

「1940年7月9日 伏見丸で7日朝、神戸に帰った藤田画伯夫妻は8日特急富士で帰京。」と朝日新聞に出ている。

藤田画伯はその年の文芸春秋8月特別号に「パリ−落つる日」という文章を寄せる。それによると画伯は5月21日に日本への避難帰国を決めた。23日パリ出発を出発し26日、伏見丸に乗船。印度洋でパリ落城を聞いたのであった。そして6月10日にイタリアが米英に宣戦布告したことで、この伏見丸がスエズ運河通行最後の船となった。

角田文衛 (日伊交換学生)

このナポリ発、日本に向かう最終船となった伏見丸の乗客をローマで見送ったのが、角田であった。
「1940年 5月31日 日本船としては最後の伏見丸がナポリ埠頭を発って、故国に向かった。これが最後の日本船かと思うにつけ、帰朝の人々をローマのテルメ駅に送る私たちの気持ちは暗かった。」
(「欧州の四季」より)

アイルランドへ

伏見丸はもう一回戦乱の欧州に向かっている。7月28日横浜を出港し、アフリカの喜望峰を回り、リスボンに向かった。そこからアイルランドに向かう様子を、読売新聞が報じている。
「10月29日早朝、伏見丸はリスボンを出帆してアイルランドのゴールウエーに向かった。
航程約4日のこの区間がもっとも危険な区域なので、福田船長以下乗組員180名は総動員の非常配置につき、万一に備えている。」
ロンドンは危険なため伏見丸は中立国アイルランドを目指し、ロンドンの邦人も同地に向かって乗船した。
(2018年3月2日追加)

内山清(ロンドン総領事)

そしてその航海が日本郵船の欧州航路最後の航海となる。パリの逓信省事務所に駐在する山岸重孝がこの時乗船している。

1941年(昭和16年)1月14日、「日本ニュース」(NHKの前身)でその帰国の映像が紹介されている。次のような解説がついている。
「戦禍におののくロンドンから、最後の引き揚げ邦人158名を乗せた日本郵船、 伏見丸は、爆撃と魚雷の魔の大西洋を突破、1月8日無事横浜に入港。出迎え人の盛んな歓迎を受けましたが、恐怖と緊張から解放された喜びのうちに、ロンドン内山(清)
総領事をはじめ、イノウエ、コデラ両氏らはこもごもパリ、ロンドンの生々しい戦時風景を語りました。」(日本ニュース 第32号|日本ニュース|NHK 戦争証言アーカイブスより)

この”イノウエ”という人物は、同盟通信社パリ支局長(1940年6月からはヴィッシー支局長)の井上勇であることが判明。
井上は横浜で「日本ニュース」のインタビューを受け「もはや昔のパリではない」と語った。(Wikipedia)
(2016年8月27日)

最後の避難客

読売新聞は次のように報じている。
「1月9日 御真影を捧持し
ロンドンからの引き揚げ邦人158名を乗せた伏見丸は幾多の困難を脱してニューヨーク、パナマ経由8日朝10時半横浜港に姿を現した。主なる乗客は逓信省駒林榮太郎氏、農林省高橋三四次氏、ロンドン総領事内山清氏夫妻、内務事務官」
大使館に掲げてあった天皇の写真も引き揚げた。

次いで「国際愛の避難客」の見出しで
三菱銀行支店長代理岩根忠氏とジャネット夫人、日商会社ロンドン出張員宮口俊二氏とマーガレット夫人他さらに数名の名前が挙がっている。国際結婚をした外国人の妻も、夫に従い日本に来たのであった。

そして内山領事は
「依然英本土残留邦人は約600名であるが、英国人妻125名その混血の子供238名は家庭の都合で帰れない。外務省員と軍人が34名、会社員10名、新聞記者6名が依然残るが、可能なものは全て帰した。」と述べた。
(2018年3月2日追加)

日疋誠(大倉商事パリ支店長)

この引き揚げ最終船には、パリからもかなりの数の邦人がリスボンに向かい乗船した。大倉商事パリ支店長の日疋誠はフランス滞在20年以上で、夫人もフランス人の大フランス通であった。その彼がなぜか奥さんと子供を残してパリを発ち、伏見丸で日本に向かった。戦争に敗れたフランスに興味失ったのか、スパイ嫌疑で逮捕されフランスに嫌気がさしたのか、真意は不明であった。(「パリ、戦時下の風景」 大崎正二)

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3.箱根丸

1921年竣。10,423トン。
1等:85人、2等:55人、3等:134人
1943.11.27高雄から門司へ向け航行中、空爆により沈没。

坂倉準三(建築家)

若き建築家で、ル・コルビュジエに師事した坂倉準三の箱根丸でのパリからの帰国が、1939年1月12日付け読売新聞で報じられている。
「多年欧州に滞在、1937年のパリ万博の日本館設計で受賞され、また新ベルリン日本大使館を設計し新進建築家として知られる坂倉準三氏は、文化学院院長西村伊作氏令嬢ユリ嬢との婚約整い、13日マルセイユ出帆の箱根丸で帰朝の途につくことになった。(中略)なお目下パリ滞在中のユリ嬢も近く、米国経由日本に向かう予定。」
受賞後、そして婚約後の凱旋帰国であった。婚約者西村ユリの妹ソノもこの半年後、箱根丸で渡欧する。(後述)坂倉がベルリンの日本大使館を設計したという記述は、要確認である。

深尾須磨子(詩人)

日独伊友好の文化使節として1939年3月中旬、神戸より箱根丸に乗り込んだ。2等船室であった。
3度目の渡欧で十数年前の前回も箱根丸であった。お茶や食事を知らせるオルゴールが前の航海の時と同じで少しがっかりしている。船が門司を出ると、西条八十や佐藤惣之助らからの電報が届けられる。船上でも電報によって日本とのコンタクトが可能であった。かなり高価であったと想像されるが。そしてその他の船内の印象は以下のようだ。

「水また水の単調な日々をまぎらわそうと、ティーパーティーやダンスパーティー、さては映画の夜など、船の心遣いもたいていではない。映画はアメリカものの喜劇や、日本を始め航路に沿った土地の風景、それから日本の何々音頭といった古いもの。どうも一向に面白くない。一工夫あってほしい」
なかなか厳しい批評だが、日本に到着する直前の国際線の飛行機でも、最近までこうした日本の紹介映像は流されていた。続けて

「Aデッキのすき焼きパーティーは結構であった。手すりにぼんぼりや桜の花を飾り、紅白の幔幕(まんまく)を引きめぐらしたところ、今がちょうど4月半ばの、故国の花見気分を偲ぶ、とでも云った趣向なのであろう。

デッキにござを敷き、ちゃぶ台を据えて、4,5人ずつが一団となり、汗を拭き拭き鍋を囲むインド洋上のすき焼き情緒に、日本人も西洋人も大満悦である。」

すき焼きの光景は靖国丸の項目で写真ですでに紹介し、手すりに桜の花が飾られているのは筥崎丸の項目で写真でこの後紹介する。船こそ違え、この文章の通りの光景が確認できる。

またこの船にはベルギーの駐日大使が乗船していたため、日の丸に並んでベルギーの国旗が航海中掲げられていた。大使乗船の際はその国の国旗を掲げるのが国際的慣わしであった。
(「旅情記」より)

なお深尾がナポリに上陸すると施設費免状が先回りして届いていたという。そして9月に戦争が始まるとさらに苦難が加わる。8月12日には10月の鹿島丸に乗船可能と連絡を受けたたが、同船はナポリに寄らずにアメリカ経由で日本に向かったのであった。(以降は筥崎丸の所で紹介)


西村ソノ(文化学院の創始者、西村伊作の四女)

西村ソノは文化学院の創始者、西村伊作の四女である。外交官市毛孝三が、プラハ総領事として赴任するに当り、娘ミミの話し相手として日本女性をプラハに同行させることを望んでいた。その意向が女性解放運動家で西村家と親交のあった、河崎なつに伝わり、ソノの渡欧が決まる。1939年年7月29日、見送りのテープに送られ箱根丸で横浜を出港。紅海にさしかかった時、ヨーロッパで戦争が始まった。

「昨日のことの様に覚えていますよ。デッキに出て空を見たら、さっき見たはずの星がいつの間にか反対側に来ているのです。あら?どうしてこの船は元の道へ戻るのかしら、と言っているところへ、船内マイクでニュースが流れてきました」

船は一端、アデンに戻りかけたが、英国領だから給油は不可能かもしれないということになり、再びカイロに向きを変えた。一方市毛領事以下外交官の一行は、さっそく日本に問い合わせの無電を打ったところ

「家族は自由意思に任せる。外交官本人は予定通り赴任せよ」と返事があった。
当然のこととして市毛総領事の指示でソノも父伊作にその後の行動について問い合わせたが、伊作からはソノの予想通り
「あくまでも市毛一家と共に行動せよ」と打電してきた。

1945年5月ドイツが降伏した時、ソノはほとんど奇跡的と言える形でスイスに入国できた。そしてベルンの公使館のテラスで朝食を取った。
「忘れもしないオートミールと卵とトーストにコーヒーでした。コック夫妻も横浜からナポリまで箱根丸で一緒だった人で懐かしかったわ」と、箱根丸の名前が再び登場する。料理人は海寳章(かいほうあきら)その妻はとし子であった。
(「伊作とその娘たち」より)


横浜の出航風景。真ん中で帽子をかぶる女性がソノと思われる。(西村ソノさん提供)
見送りはかなり低い位置からであったことが分かる。


この時箱根丸はポートサイドで英艦の臨検を受け入れた。イギリスの敵国である、ドイツ向けの貨物がないか調べられたのだ。船を先に進めようとする船長のやむに已まれぬ苦渋の決断であった。

7月29日横浜出航西村の乗った箱根丸の渡欧客の名前が、朝日新聞に載っている。
ハンガリー 井上康二郎公使
プラハ  市毛孝三 総領事 (西村ソノが仕えた)
駐仏武官 沼田英治、松山直樹
(2015年11月23日 追加)

大角岑生海軍大将

西村の渡欧した帰りの箱根丸に乗船したのは海軍大将大角岑生一行であった。(往路は鹿島丸の項目参照)

大阪朝日新聞は1939年12月3日、以下のように伝えた。
「ドイツのナチス党大会に列席のため渡欧した海軍大将大角岑生は、2日午前8時横浜入港の箱根丸で帰朝したが、同大将は一等サロンで記者団と会見、欧洲大戦勃発とともにナポリ港から予定を変更して以来の事情などについて元気よく以下のごとく語った 。

9月19日にマルセーユに入港してみるとフランスは大変だった。パリ市民150万人が避難したということも聞いた。それからジブラルタルに寄港、イギリスのリヴァプールに入港した。リヴァプールでは積荷の関係で10日間滞在すると決ったのでロンドンにも行ってみた。10月10日リヴァプールからニューヨークに向った。
この航海で実に面白いことがあったのだよ、われわれは今まで誰にも話さなかったが、外電で騒いでいるドイツの豆戦艦ドイツチュランド号に出会ったことだ。

ニューヨーク到着は10月21日であったが、その後パナマ、ロサンゼルスへ廻って横浜に入港したのである 。
大将はホテル、ニューグランドで昼食の上、午後1時四47分東京へ向った 」
と大西洋、太平洋を経由した航海であった。大隅はナポリで一便乗り換えたものの、実質世界一周旅行をした。また昼食を取った横浜のホテルは今も人気の高いニューグランドホテルであった。

船長 藤田徹

上述の西村ソノ、大角海軍大将が乗船した箱根丸の船長は藤田徹であった。「船長 藤田徹」という本には「箱根丸船長室にて」という題の写真が載っている。撮影はニューヨークに向かう途中である。小島秀雄海軍大佐(ベルリン海軍武官からの帰任)、大角大将、藤田船長、小野田捨次郎海軍大佐の4名が写っている。同書には他にも「欧州からの引き揚げ婦女子と大角岑生海軍大将一行」というタイトルの写真も掲載されている。

同区間、他にも姉崎正治(宗教学者)、草間(安川)加寿子(ピアニスト)、崔承喜(舞踏家)、柳沢健(外交官、詩人)らも帰国の為、乗船していた。
(2016年5月22日 追加)

安川加寿子(ピアニスト)

1939年9月18日、安川(草間)母子はジュネーヴを経由しナポリから引き揚げ船の第三船、箱根丸に乗船する。この時、それとは知らずに、のちの高弟井上二葉とすれ違っている。井上の父がハンガリー公使として赴任するため、ナポリまで乗船してきたのであった。

途中船はマルセイユに立ち寄り、(パリに残る)父が衣類や毛布の入った大きなトランクを2個届けてくれたが、一日一本しかない汽車の関係で話をする暇もなく引き返して行った。船はカサブランカに寄港しジブラルタルを経てリバプールに着いた。
9月27日、船には三菱、三井物産、住友、三井銀行の各ロンドン支店とその家族が乗り込んできた。正金銀行の石黒九五一家とすぐに親しくなった。

船のサロンにはピアノがあり、加壽子は毎日欠かさず練習をしたという。ピアノは揺れても動かないように、壁に釘で固定してあった。75日間の船旅は加壽子によれば子供が90人、女性が60人もおり「まだ子供だった」(17歳)彼女は「けっこう楽しかった」ようである。

「翼のはえた指 評伝安川加壽子」より(2017年1月10日追加)

徳永康元(ブダペスト大学に留学)

私がハンガリー留学に出発したのは、1939年暮れの12月23日、日本郵船の箱根丸で神戸港を発った。(前述の西村ソノの次の航海であるー筆者)イタリアが当面参戦しないと分かって、またヨーロッパへ船が通うことになり、その第一便が箱根丸だったわけだ。(これは正しくないー筆者)

戦乱のヨーロッパへ向かうこの航海では、船客のほとんどが外交官、駐在武官など公務で赴任する人たち、それも時節柄家族連れは少なかったから、かなり殺風景な船旅であった。留学生は私たち4人だけであった。

当時の欧州航路の客船は横浜から出港したが、たいていの旅客は神戸で乗船する慣例であった。シンガポールに向かって南下すると、英仏の船舶を狙うドイツの潜水艦が出没するというので、非交戦国日本の箱根丸は、船腹に大きな日の丸を画いて、毎晩それを、遠くの海上からも分かるように、煌々と照明しながら航海を続けた。

ポートサイドに着くと、アラブ人達がイタリアのリラ紙幣を安い闇値で売りに来る。ここでは、アレクサンドリアへ赴任する商社の人たちが船を降りて行った。ナポリに入港したのは1月28日の夜半であった。
(「ブダペスト回想」より)

徳永が書く4名の留学生とは他に日独交換留学生の守屋謙二、武井宗男(応用化学)、渡辺護(美学)である。
すでにベルリンにいた陸軍通訳の高島泰二は日記にこう書いている。
「1940年2月6日 昨夜ベルリンに着いたばかりの早稲田大学工学部の武井宗雄君を連れて横浜正金(銀行)に行く。私がまだ日本を発つ前に紹介されていた人だが、戦争が勃発してから留学するという神経には、一寸驚くばかりだ。」と軍関係者も驚く戦時下の留学生であった。

徳永康元 2

徳永が書き残した日記から、さらに詳しくこの航海の様子を知ることが出来る。

徳永は12月22日の夜8時半、東京駅発の列車で神戸に向かう。62名の友人らが駅頭で見送った。当時は一大旅行であったことが分かる。そして横浜発の船に神戸から乗る事で、1日が節約できた。神戸からは博多まで父親も乗船し、最後の時間を惜しんだ。
後悔中は船客が少なかったためか、2等船室の徳永も、1等サロンを自由に利用している。

他の船客として野一色武雄外務書記生(イタリア)、鈴木親太海軍技師(後に潜水艦で帰国)がいた。また
「1等のすき焼き会で、清水夫妻が踊っていた」とある。清水盛明イタリア駐在武官夫妻が赴任のため、乗船していた。

1940年2月2日、ローマで徳永は、日本郵船の駐在員安倍正夫の住まいを訪問している。安倍は伏見丸の項で紹介した、作家安部譲二の父親である。
「野上君と郵船の安倍氏のうちへ歩き、(父親からの)葉書(1月8日付け)をもらい、ちょっと話す。この人もいい人だ。」
(2015年12月12日 追加)

小室恒夫商務官

4月30日に横浜に戻った箱根丸はもう一度リスボンに向かっている。5月26日に横浜を発ち、31日神戸出帆でリスボン着が7月20日であった。船客は武官6名、内藤武氏ほか3名の外務留学生、ベルリンに向かう外務省商務官小室恒夫氏らを始含め内外人一、二等客併せて78名だった。
(読売新聞 2017年10月28日追加)

加来統一(大倉商事パリ支店)

当時の配船表によれば、喜望峰回りではなくスエズ運河を経由している。9月9日パリを出てリスボンに向かった加来は、箱根丸で帰国したという。かなり長くリスボンに停泊したか、他の港に寄ったことになる。この頃は連合国による積荷の検査等で、予定通りに航海もなかなか出来なかったのであろう。
(「パリ、戦時下の風景」大崎正二)

黒田捨三海軍大佐(フランス、ドイツに駐在しスエーデンで終戦を迎える)

1938年フランスに赴任したが、ご遺族の方がその時の箱根丸の絵葉書、日本郵船の航海予定表を保存している。その航海予定表は筆者の時代考証の重要な資料となっている。ここでもそれらを画像で紹介する。

黒田大佐が欧州に向かう際に乗船した箱根丸の絵葉書1938年10月23日、航海番号43で横浜を出港した。

欧州航路配船表(1938年4月から1939年3月)

日本の最後の寄港地は門司であった。門司には最後のあいさつ状を送るサービスがあったようだ。
(「写真館 黒田拾三大佐」より)

船長藤田徹

黒田の乗船した、箱根丸の船長は藤田徹であった。藤田が1938年11月28日、家族に送った手紙に添えられたすき焼きを楽しむ写真には
「今度駐独大使に昇任した大島(浩)中将の後任の河辺(虎四郎駐独陸軍武官)少将、駐独井上海軍主計中佐、ベルギー大使館一等書記官吉岡(俊夫)夫人、大毎記者小野(七郎)夫人 」という説明がついている。
(2016年5月22日 追加)

小山秀子(12年かけて世界一周の渡航)

少し時代はさかのぼるが1924年4月、竣工後3年ばかりの箱根丸に乗船して、小山秀子という女性がマルセーユに向かった。そして日本に戻ったのが実に12年後、1936年4月である。その旅行記は1942年に「地球を廻りて」という題名で自費出版されたが、遺族の手によって電子化、公開されている。

そこでは「往路箱根丸」という章で、マルセーユまでの航海の様子が詳しく書かれている。さらに「機関場覗き」として機関室を訪れた体験が語られている。

「機関長に案内せられ、騒音耳をつんざく中を筆談の説明によって進んだ。」(現代文に一部改めました)
筆者が機関室に関する記述に接したのは初めてであるが、そこは猛烈な音がしたようだ。気づいたことだが、その音は船全体にもかなり響いたのではなかろうか。これまで写真などから優雅なイメージばかりを抱いてきたが、実際は常に騒音に包まれ、また床に振動も感じたのが、おそらく当時の航海であった。

また同じ機関室の項目には「塩化カルシウムを用いた冷房装置、淡水を造る蒸留装置」ともある。箱根丸には当時すでに冷房が備えられていて、海水から淡水を作る装置も有したようだ。

その他の箱根丸乗船者:

小説家横光利一は1936年2月22日門司よりマルセーユに。(「欧州紀行」)船には高浜虚子、宮崎一定がいて、しばしば句会が開かれたという。
またネット上のブログに「箱根丸・1935年(その1)」と言う記事があ、そこに紹介された神戸港の出港時の写真は非常に興味深く、一見の価値がある。


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4.白山丸

欧州航路向けの優秀船として1923年に竣工。H型と通称される「箱根丸」型貨客船4隻の最終船。10380トン。
1等:85人、2等:55人、3等:134人。
1944年6月4日沈没。

本駿二 (スイス公使館に勤務後、ハンガリー、ベルリン、スイスで朝日新聞特派員を務める)

1938年4月1日門司出帆の白山丸にキャビンが取れたのは2月20日だった。
2時過ぎまでに乗船するように、ということだったので昼過ぎに白山丸に乗り込んだ。台湾航路の船よりも小さい、なんとなく古ぼけた汽船だった。

一等キャビンだったが、小さくて窮屈に見えた。ボーイがやってきて
「船長がお目にかかりたいと申していますので」というのでついて行った。立派な風貌の船長が、迎えてくれた。
「郵船本社の浅井重役からお手紙をいただきまして、よろしくお願いする、ということでした。一か月以上の船旅ですが、今はインド洋もそう荒れませんので結構だと思います。」と言いながら、「シェリーを一杯いかがですが?」とたいそう丁寧だった。

それをいただいて「どの港も一泊ずつですか?」と尋ねてみた。
「そうです。二泊にしますと(停泊日だけで)二週間もかかりますので、やはり一泊がよろしいということになります。一か月以上の船旅はやはり飽きますので」。笹本は「なるほどそうか」と思った。

キャビンに戻って少し昼寝をした。五時にノックされたので、「どうぞ」と返事すると、さっきのボーイが何かをさげて来て、それをテーブルの上に置いた。スープとビスケットだった。「ディナーは六時半からでございます」と言って出て行った。スープは美味しかった。お腹が急に空いてきた。

上甲板に出ると白山丸はちょうど動き始めたところだった。
上甲板後方のベンチに腰を掛けて、遠ざかっていく下関、門司を見送っていた。十分もたたぬうちに、二つの町は消えてしまった。
(「人間.尾崎秀美の回想」より)

光延東洋(駐伊海軍武官、1944年6月イタリアのパルチザンにより殺害される)

日本を出港したのは1940年3月16日で、貨物船豊橋丸を除くと最後のロンドン向け航海となる。この白山丸の航海に関し長女孝子さんは次のようなことを覚えている。

船は横浜から名古屋、大阪、神戸と止まり次の門司でも一泊する。日本郵船の配船表によれば3月22日の事である。最後の日本ということであろうか、その際に光延家は山口県の温泉に泊まった。旅館の仲居さんが夕食の献立表を持ってくると、武官は
「そういう客用ではなくて、君達が食べる魚がるだろう」と聞いた。中居さんが
「メバルがございます」と答えると、
「それを煮付けてきてくれ」と半ば命じるように言った。
これが光延家の最後に日本で口にした魚であった。そして戦後もずっと長女孝子さんはメバルが好物となった。

ナポリまでの約40日の航海中、慣れない洋食のコースで母親トヨはお腹を壊して寝込んでしまう。
そして船が赤道近くを通過するとき、恒例の赤道祭りではないが、なんと武官は羽織袴で顔を描いたお腹を出して、反っくり返り、おへそに煙草をくわえさせた踊りを乗客の前で披露した。いわゆる「へそ踊り」である。

孝子さんが戦後、光延武官の上司に当たるベルリン駐在であった阿部勝雄中将の遺族、信彦さんに書いた手紙には
「しかし阿部様は父親、光延東洋の広く(?)知られた、かくし芸などはご存じないのですね?本人が言う訳もなし、と私一人ニンマリしております。“へそ踊り”、“どじょうすくい”、、、etc
この話は家族のみが知らなくて、父が何故にローマへの航海の船室への手荷物には、絶対袴を入れろと言い張ったのか、母が悟りました時は、船室にこもって号泣したとか。」
(「光延東洋武官一家が体験した戦時下の欧州」より)

光延孝子

先述の光延孝子さんは終戦直後、「木の実」という小さな雑誌に「欧州航路から」という文芸調の記事を載せている。
そこでは欧州航路に関し、筆者にとってのいくつかの新事実を掃海している。

昭和15年3月22日。午後1時半。私達を乗せた汽車は、神戸港の税関構内にすべり込んだ。
桟橋に横づけされた白と黒に塗り分けた船のタラップを踏む足取りも軽く、船橋に立つと、遠くの南の方に、
青い海の尽きる所に、うねうねと連なるのは、四国の山々であろうか?
(中略)
3時。「ボーッ、ボーッ、ボッボッー」と出船のドラがなり響き、私達船客と、そしてその上、11歳の小さい胸に
秘めた初めて見る南欧へのあこがれを乗せて、異郷の旅路についたのである。行く者と残る者。
(中略)
朝7時。給仕が洗面の水を持って来る。
「真水は制限がありますから、大切に使ってください。」
水はひと朝、2人で3リットルである。朝食の時間は7時半。献立は、玉子の汁・ホットケーキ・オートミール・ゼリー等。

ほうっと胸をなでおろして甲板へかけ上がると、東西南北、見渡す限り海!海!船尾からプクプクと泡が立って
それが長い長い帯となって、はるか東の水平線の向こうに消える。
「孝子、海は面白いかね?」と父の声。
「ええ。お父さん、ちっとも酔わないじゃないの?」
「ハッハッハハハ。船長いかがです。へ、へ、これでこそ海軍軍人の娘、海国日本の女子ですなあ。」
父は後ろの船長に向かって、いかにも嬉しそうに言った。
「お嬢さん、明日朝起きると、驚きますよ」
「ハ、ハ、ハ、これだから子供は可愛い」
船長は、後ろにひっくり返りそうになって笑った。
(この項追加 2016年6月19日)

邦人救出船

その白山丸の帰路は情勢が一変する。1940年5月ドイツ軍はオランダ、ベルギーに攻め込みそこからパリを目指したからだ。

「案ぜられる白山丸。マルセーユ寄港不可能か?」という見出しが新聞に出る。

「6月1日マルセーユは猛烈な独空軍の爆撃。3日リバプールを出港、パリよりの避難民を満載すべく、同港に向け目下航海中。状況によっては寄港不可能。」

11日マルセーユ入港予定の白山丸は13日午後1時頃、姿を現した。

「突如待望の白山丸が港口に見えるとの急報に邦人避難民、みな欣喜雀躍、声を上げて感涙する。」
白山丸の姿を見て、多くの邦人が涙を流したのであった。

高和(博)マルセーユ総領事は
「本船は邦人救済を主な目的とするので、荷役等は第二である。かつ船の安全措置のため、邦人収容後は港内部船波止場に係留せず、日没前に安全な場所に避難するよう命じ」、白山丸はその日のうちに港を離れた。

熊弦一郎(洋画家)

1938年靖国丸で夫婦でパリに向かった猪熊弦一郎は、「私の履歴書」の中で、白山丸での引き揚げの様子を書いている。以下はそこからの要約である。

パリで頑張っていたものの、ついに「夫婦者は絶対にパリから退避しろ」という通達が日本人の間に出るに及んで、私たちも帰国する決心がついた。
私たちはマルセーユで日本への最後の引揚船「白山丸を、マルセーユで待った。
ところが白山丸はなかなか地中海へ入れず、マルセーユ港に来てくれない。ホテルで待つ間、宿泊者は空襲に備えて、ベッドルームには入らず、服を着たまま、階段に腰かけたまま眠った。

6月、ようやくマルセーユに寄港した。あわただしい乗船がすみ、ふと陸を見ると、日本の総領事(上述の高和総領事)がとても長い釣りざおのようなものの先へ日の丸をつけ「さようなら、さようなら」と船が見えなくなるまで、大きく振り続けていた。結局見送りにきていた形の萩須(高徳)君も船に乗った。

スエズ運河が閉ざされていたため、(南アフリカの)ケープタウン経由という大回りをして日本に向かった。約3か月の船旅だった。ようやく神戸に着いていったん上陸したとき、かっぽう着姿の婦人たちから何やらビラを渡された。「パーマネントはよしましょう」「贅沢はよしましょう」といった言葉が、書き連ねてあった。

ヨーロッパから戻る人は向こうで贅沢に慣れているから、戒めるつもりのビラ配りであったのであろう。(この部分筆者の予測)
(「私の履歴書」より 2016年6月25日追加)

2018年3月20日から4月18日までBUNKAMURAザ・ミュージアムで猪熊弦一郎展『猫たち』が開催された。訪問記はこちら

神戸港着

帰還の様子を読売新聞が伝えている。
「1940年8月16日午後 81日目に神戸和田沖に投錨
高畑藤一船長以下乗組員、船員一同懐かしい母国の土を踏んで、感慨無量の面持ちだった。」

乗船者には前述の猪熊弦一郎に加え、次の名前が挙がっている。
パリ駐在外務省の三浦一郎。
赤十字病院でたった一人の日本人医学博士として研究を続けていた篠原研三。
フランス官憲にスパイ容疑で6ヶ月投獄された四本潔。
ピアノの研究をしていた村上由貴子。
(2018年2月4日追加)

本庄実

旧制大阪高等学校のドイツ語教師であった本庄実は、ベルリン大学に留学するため、1926年4月15日神戸から白山丸に乗船してマルセーユに向かう。航海中は日本郵船の便箋に日記をしたため、それを綴じまとめたものが、遺族のもとに残っている。各船共通の便箋なので自身でローマ字で"Hakusan"と書き、左上に日本郵船のロゴが見える。

写真提供、高沖宗夫さん
(2018年1月13日追加)


その他の白山丸乗船者:

武者小路実篤(小説家) ベルリンオリンピックの特派員として1936年5月2日、横浜よりマルセーユへ。「すき焼き会」の写真が載っている。
(「欧米旅行記」より)


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5 筥崎丸

1922年竣工。10,413トン。1等:85人、2等:55人、3等:134人。
1945年3月19日上海沖で沈没。

江尻進(同盟通信社 ベルリン支局長)

結婚したばかりの江尻はベルリン勤務を命じられた。通信社では当時単身赴任が原則であったが、新婚直後の海外単身赴任で、その後の結婚生活が不調になった事例を多く聞いていた妻の両親は、欧州に滞在する親戚筋の外交官に身柄を預かってもらうという策を見付け出し、夫婦での赴任となる。

「社より出発を急げということで、1939年3月下旬に神戸を出港する筥崎丸の、唯一残っていた後ろと横の両面に窓のついた特別一等室を予約した。

ことに船便の一等ほど、二、三等との間の、格段の差を感じさせられるものはない。上甲板の食堂、図書室、回廊の甲板は一等船客だけの、完全な閉鎖空間となっていた。食堂には指定の名札の付いた丸テーブルが散在している。

船長席には加藤匡夫(のちの駐英大使)、北原秀雄(のちの駐仏大使)、重光晶(のちのソ連大使)の、若い三外交官補が座っている。われわれは、一等運転士と同席する二番目のテーブルが与えられた。我々夫婦、新設の同盟ジュネーブ支局長として単身赴任する本田良介君、金商又一からモロッコ方面に売り込に乗り込む小八重さん(のちにその令嬢が王貞治選手と結婚)という顔ぶれ。毎回横文字の長いメニューが出て来る。

日本からの食糧はここ(シンガポール)でなくなり、新たな材料が積み込まれた。それからの牛肉の硬さや野菜のまずさが、暑さに加えて、身に沁み、日本の食べ物のおいしさが、ひとしお思い出される。

カイロではピラミッド見物は欠かせない。翌朝カイロから、古風な列車に乗って、スエズ運河の地中海側のポートサイドに着くと、運河を通り抜けた筥崎丸がもう停泊している。」
(「ベルリン特電」より)

一等船客の記念写真。後ろから2列目、右から二人目が江尻、最後列右から二人目が重光。暑い地域での撮影であろう。

一等甲板の重光(中央眼鏡)4月という時節柄か、背後にあるのは花を咲かせた桜の木であろう。別の書物によればこれは造花で、郵船ではどの船も行った飾りである。
(2枚の写真は笹本と同じ船で赴任した重光晶の夫人綾子さんからお借りしたもの。)

この時舞踏家の原田弘夫と妻の節子、および洋画家の末松正樹も乗船している。パリに向かう原田に対し、藤田嗣治は次のようにアドバイスしたという。
「船は2等、列車は1等」
船の1等船室は全て堅苦しくていけない。しかしパリに着いた時に2等車では迎えの人らに格好がつかないという意味であった。

深尾須磨子(詩人)

1940年1月6日「筥崎丸帰来」の見出しで朝日新聞は欧州開戦後、ドイツにより占領されたポーランドの酒匂秀一大使が帰国したことを伝えた。同船には箱根丸で渡欧した深尾須磨子が乗船した。次は先述の「旅情記」の帰国の様子である。

「(1939年)10月6日、再び私は懐かしいローマ入りをした。それから約一か月の間、私はロンドンからスエズ運河回りで帰航することになっている、乗船筥崎丸の消息を待たなければならなかったのだが、その間が私にとって、なんと短くも長かったことだろう。

その頃帰航の日本船としては、箱根丸、伏見丸などがナポリに寄港したので、強いて発とうと思えば発てないでもなかったわけだが、すべてはロンドンからアメリカ回りになっていて、勿論超満員、おまけに大西洋や太平洋の揺れを想うと、恥ずかしながら船には微塵自身のない私には、とてもとてもである。」
アメリカ回りだと6,70日かかり、インド洋より揺れがひどくつらい船旅であったのだろう。その筥崎丸もいつナポリに到着するのかよく分からなかった。
「(日本)大使館でもはっきりしないし、当事者の安部氏が第一返事に困られる始末である。ローマに新設の日本郵船支店の主任安部氏は、その不安でほとんど頭痛を感じられたくらいだ。」この心労の激しかった安部主任は、先に伏見丸で紹介した安部譲二さんの父親である。

イタリアの国立サンタチェチリア音楽学校を、邦人女性音楽家として初めて卒業したソプラノ歌手、柏熊君子も同船で帰国した。

天羽美代(天羽英二駐伊大使妻)

天羽英二駐伊大使は同じ時期、日本にいる妻美代をローマに呼び寄せるべきか悩んでいた。そして1939年12月12日には来欧を見合わせるよう打電した。しかし最終的に美代は翌年2月2日に、神戸より筥崎丸でナポリに向かった。
「96名の船客と6000トンの貨物を満載して2日午後3時神戸を出帆、(最終目的地)リヴァプールに向かった。」と朝日新聞は報じている。天羽大使の日記には以下のように記されている。

「3月8日 美代と久しぶりに会う。感慨多し。
辰巳(在英陸軍武官)、細谷資芳(在仏)、前田(蘭)、伊国駐在の人々。栗原公使、福沢大四郎、その他陸海軍武官補佐官多数とも会う。
3月9日 筥崎丸乗客 福沢大四郎、岩崎安美(国際工業株式会社)と会う」

日本からの船客には時節柄、軍関係者が多かったようだ。読売新聞は1940年1月31日に次の方に報じている。
「新任スイス公使栗原正氏は31日午前9時東京駅発 2月2日神戸出帆筥崎丸で赴任の途に上る。」
栗原は同年10月にはトルコ大使に転じる。

最後の航海

次に筥崎丸が欧州に向かうのは1940年6月28日である。この後日本に戻るまでの足取りを朝日新聞の記事から追う。

「喜望峰迂回リヴァプール向け決定の第一船筥崎丸(船長会沢活氏)は28日午後3時半、岸壁10号より神戸・インド経由リヴァプールに向かった。なお同船は現在問題になってい
るボンベイ港に寄港するはず。」

9月11日
「邦船リスボンまで」の見出しが載る。
「目下リスボンに停泊中の郵船だあばん丸、箱根丸、筥崎丸の三隻は何れもドイツの対英封鎖のため英国行きは不可能となったので、何れも船客並びに積み荷をリスボンに下ろして、そのまま(ニューヨーク経由)帰航する事になった。」

10月10日
「バミューダ島の英当局はニューヨークに航行中の筥崎丸に対し7日、またもやバミューダ島寄港を命じ、抑留の上書類取り調べを行った旨発表。」

10月13日 ニューヨーク入港の同船と国際電話が繋がる。リスボンーニューヨークは通常4,5日の所、14日かかった。
「リスボンを出帆してから3日ばかりして、船中で子供が産まれまして、私が名付け親になりマル子と付けました。」と相沢船長は語った。

12月4日
「欧州から引き揚げ船筥崎丸は半年ぶりで3日未明横浜港に帰って来た。
リスボンで乗せた邦人26名中大部分は、ニューヨークで先着の箱根丸に移したので、乗ってきた引き揚げ邦人は、正金銀行パリ支店次席中川武男氏、同料理人岡田金六氏の2人だけだ。」

島秀雄(国鉄、新幹線建設を指揮)

時代が少し遡るが1936年3月29日、島秀雄他計10名の鉄道省在外研究員が筥崎丸に乗り込む。当時国鉄(今のJR)は毎年10名程度、期間は1年以上の海外視察に送り出していた。彼らの帰国後の報告書はほとんど読まれる事もなく、かなり鷹揚な視察旅行であった。一行には下山定則と加賀山之雄、二人の戦後の国鉄総裁が含まれていた。

加賀山は大の豪華船好きであった。彼の目には筥崎丸は豪華船でなかったので、次に4月12日出航の照国丸で渡航する。欧州航路の船の中でも専門家が見ると豪華さに違いがあったようだ。
(「島秀雄の世界旅行」より)

高橋ふみ(日本最初の女性哲学者)

先述の島秀雄と同じ船で、高橋ふみも留学先のドイツに向かっている。
「ふみを乗せた筥崎丸は(1936年)3月31日横浜港を出港しました。(島の記述と2日の差あり。) 鎌倉の西田幾多郎に挨拶したのち、ふみは母や兄弟たちと横浜に向かいました。
横浜では郷里木津からわざわざ見送りに来た人々、自由学園関係者、東京女子大の同窓生、東北帝国大学哲学会、女史学士の会の仲間たちが待っていました。親族と結んだテープが切れた後、ふみは羽仁もと子から贈られた花束を姿が見えなくなるまで振りました。」

「4月29日の天長節には、デッキでささやかな式典がとり行われた。船員も客も並んで遙かに東方を向き、君が代を二唱する。
船の中で、しかも船が紅海に入って唯中を歩んでいる(進んでいる?)時に、日本離れたる感、しみじみとしている時に、君が代を歌えば自ずから涙頬を伝わる。ああ我もまた日本人なるかな。(日記より)」
(おふみさんに続け! 女性哲学者のフロンティア  浅見洋より )(2017年6月26日追加)

加藤眞一郎

筆者が取材し、『日本人小学生の体験した戦前のドイツ』で紹介した、加藤眞一郎は筥崎丸を利用している。

筥崎丸でドイツに向かう加藤眞一郎さん。母親と二人での乗船だったので、横の少女は船で知り合ったのであろう(1931年ころ)

吉村国子

吉村国子は1929年、夫の吉村喜作医学博士に付き添い、アメリカから欧州を旅行する。帰国後『夫に伴して』という本を、
自費出版で出している。夫妻は帰りはナポリから筥崎丸に乗り込む。出港翌日には
「朝飯は紅鮭とご飯、日本に帰り着いたような心地。岡野氏という方と一等運転士も同じテーブル、日本の方だけである。
午後のお茶に饅頭と、羊羹であるのも、珍しく美味しい。」と筥崎丸の船中で、一足早い日本を味わった。羊羹は日本で積み込んだものであろう。神戸港に戻ったのは、1929年12月16日の未明の事であった。
(2018年3月12日追加))

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6 榛名丸

1922年竣工。10,421トン。1等:85人、2等:55人、3等:134人
1942年7月21日御前崎沖で沈没

桑木務(日独交換留学生)

1939年1月18日に家族や親戚に見送られて横浜港を出帆した。実はその17年前の1922年の暮れに、日本を訪問して門司からこの「榛名丸」で帰国の途につくアインシュタイン博士夫妻を、私は両親に連れられて見送りに行った。そして榛名丸の船室の白い滑らかな壁をバックに、博士の柔らかい掌で頭を撫でられた懐かしい記憶がよみがえってきた。

私は2等船室に落ち着いた。船客の仲間は日本人が多かったが、外国人もおり、スイス婦人にドイツ語の会話を習ったり、シンガポールから乗ったオランダ人と話したりした。船内は厳しい階級社会だが、一等船客のうち西村中佐を始め、10名くらいの日本の軍人にはよく招待された。

さて東シナ海、インド洋、紅海と波しぶきをあげてきた榛名丸は、鯨が池にはまったようにのろのろとスエズ運河に割り込んだ。その前に私たち有志五名は、カイロ見物に出かけるために朝早く下船した。ヘリオポリス、ナイル河、ピラミッド、スフィンクスそれに回教寺院にカイロ市街と、冷たい古代文明と熱い現代風俗の奇妙なカクテルに酔って、われわれはポートサイドに先回りして榛名丸を待った。(後略)
(「大戦下の欧州留学生活」より)

1938年10月3日、野上弥生子を乗せた靖国丸が下関に入港した際、桑木も見送りに来て一緒に食事をとっている。そして翌年7月31日ベルリンで再会する。二人は知り合いであったのであろうか?(「野上弥生子全集 第二期 第6巻」より)

瀬崎画伯夫妻

前述の桑木務の著書にはこういう記述もある。
「(スエーデンの海軍)武官室勤務の瀬崎画伯夫妻は榛名丸で同船であったが、かれらの新婚旅行でもあったのだ。」

瀬崎夫妻は当初はパリで暮らしたが、その後ストックホルムに移った。しかし同国で敗戦をむかえ、日本に帰国するプルス・ウルトラにナポリから乗船したのは、妻瀬崎かづこと欧州で生まれた子供だけであった。マッカーサーの帰国命令にもかかわらず、夫晴夫はストックホルムに残り、その後そこで亡くなったようだ。

瀬崎夫妻について、パリに駐在した大崎正二は次のように書いている。
「瀬崎君は大阪の大手門高女の絵の教師をしていた。高級な料亭の娘で教え子の婚約者にパリで待っているからと、一足先に修行のためにフランスに出発したのだった。ところがその娘さんがパリに行くのが嫌になった。

それでは妹の方をと所望されて、18歳の和子が神戸から船に乗った。おかっぱで人形のように小柄な彼女は、振り袖姿でマルセイユ港に上陸した。
マリー.ローランサンに可愛がられて肖像画を描いてもらったり、、、、」
この時の船上の二人の写真が下のリンク先で見る事が出来る。確かに妻かづこは綺麗な和服姿である。
瀬崎晴夫をたどる会通信」の下の方。

大島鎌吉(大阪毎日新聞)

1932年のロスアンジェルスオリンピック三段跳びで銅メダルを獲得し、4年後のベルリンオリンピックで6位に入賞した大島鎌吉を監督とする、陸上選手団12名が1939年6月10日、門司港で乗船、ナポリで下船し、ベルリンに7月19日に到着する。一行はウィーンで開催される第8回国際学生競技大会に出場するが、日本大使館から「即刻、帰国せよ」の連絡を受けて26日にウィーンを発つ。(「大島鎌吉の東京オリンピック」より)

稲垣守克(「世界連邦運動」推進者)

1933年2月に国際連盟を脱退した日本であるが、その後も国際連盟に関連する業務でジュネーブに滞在した外務省嘱託稲垣守克は、1939年5月14日着の榛名丸で帰国する。14年半の欧州滞在であった。

稲垣はその半年前の10月、伏見丸で一時帰国する。事務打ち合わせで数週間、日本滞在の予定であったが、その間に国際連盟総会で反日決議があった。それで日本の連盟への協力が断絶となり、いったんジュネーブに戻ったものの、荷物をまとめ榛名丸での日本への完全な帰国となった。

とんぼ返りの欧州航路の利用例である。
(2016年9月22日 追加)

山田菊 (フランスで活躍した作家)

リヨンの日本領事であった山田忠澄とフランス人女性マルグリットの間に生まれた菊は、スイス人画家コンラッド・メイリと結婚し、パリに暮らす。1939年に入り、日本の国際文化振興会と鉄道省から2ヶ月の予定で招聘される。
8月24日に、キクとメイリは日本に向かって(マルセイユより)船出した。紅海にさしかかった時、ふたりはドイツのポーランド侵攻を知った。そこでは欧州に向かう途中であった箱根丸と、すれ違ったはずである。

10月6日付けの朝日新聞は
「風雲の欧州を後に夫君コンラッド・メアリ氏と共に先月30日、神戸入港の榛名丸で母国を訪れた。」
と報じた。9年ぶりの日本であった。2ヶ月の滞在予定であったが、間もなくパリがドイツ軍に占領され、夫妻は終戦まで日本に留まることになる。
(『キク・ヤマタの一生』矢島翠、朝日新聞より)(2017年6月9日 追加)

篠原正瑛(フンボルト財団交換留学生としてドイツに)

1939年11月9日、私は門司港から榛名丸に乗って、ナポリに向かって出発した。
11月上旬といえば、ヨーロッパに戦争が始まってからまだ2ヶ月ちょっとしか経っていなかったので、今後の戦局に多くの不安があったため、あえてヨーロッパに出かけようという、物好きな日本人はいなかった。

私の記憶が間違っていなければ、榛名丸は、ヨーロッパに戦争が始まってから最初に日本から出港した欧州航路の客船であった。しかも、乗客の日本人はわずか5人という寂しさで、お抱えの料理人ただ一人を連れて単身赴任する澤田廉三駐仏大使と、白鳥敏夫駐伊大使の内命を受けてベルリンに外交問題調査のための事務所を開設する市川清敏氏と、名前は覚えていないがロンドンの日銀事務所に赴任する日本銀行の社員と、それに私の、たったこれだけであった。

晴天続きの平穏な天候であった。
「何回となくこの航路を往復していますが、こんなに静かな海に出会うことは珍しいことです。」と船員たちでさえ、驚いていたほどであった。

1939年11月21日の時間は午後3時すぎであったと思う。船員たちがあわただしく動き回る姿が目に入った。「何かあったのですか?」と聞くと、
返ってきた答えは全く予想外なものであった。つい2時間ほど前、日本郵船の新造客船、照国丸が、イギリス東岸で機雷に触れて沈没したというのである。にわかに戦火渦巻くヨーロッパのただ中に投げ出された思いがした。船員たちの動揺、特に下級船員たちの動揺は大きかった。

幸い特命全権大使を乗せて任地まで運ぶ船はよほど差し迫った危険がない限り、勝手に引き返すことはできないということで、12月15日、船はナポリに着いた。
(「ドイツにヒトラーがいた時」より)

その他

そして次の話は篠原の乗った帰りの便であろう。

「1940年3月4日 7つのお嬢さん。人形と女中を連れて榛名丸で(両親を残し)パリから(ひとりで)帰る。パリにはまだ70名の邦人が残っている。」と朝日新聞に報じられている。写真に写っている少女は小長谷綽フランス2等書記官の長女邦子さんであった。船の中では他の乗客も気を遣ってくれたのであろう、マスコットのように可愛がられたと言う。

榛名丸はその後も欧州に向かう。先述の天羽日記によれば 
「1940年5月19日 榛名丸(ナポリの)埠頭に入港しつつあり。佐藤答辞」とある。この佐藤とは外務大臣も務めた佐藤尚武であった。彼の渡欧目的は以下のようである。

昭和15(1940)年3月,日伊友好と経済関係の緊密化を主たる目的として,佐藤尚武元外相を団長とする使節団のイタリア派遣が決定しました。同使節団の派遣に際して外務省は,この機会にイタリア側に対して「何等カノ政治的ヂェスチャー」を示す必要性があると認識していました。そこで外務省は,将来にわたる両国関係の強固な結合を強調したムッソリーニ首相およびチアノ外相宛メッセージを佐藤大使に携行させてイタリア側の態度を打診することとなりました。佐藤大使は4月10日に神戸を(榛名丸で)出港し,上海,シンガポール,インドなどを経て,5月19日,ナポリに到着しました。(日本外交文書)

なおこの榛名丸には佐々木凛一も乗船し、経済使節団と共に渡欧。下條雄三と共に同盟通信社ローマ支局に勤務する。

そして帰路は6月21日リバプールを出港し、スエズ運河は通らずに、南アフリカの喜望峰を経由して日本に戻る。これをもってリバプール線が休止となる。

最後の航海

このリバプールかの航海について、1940年9月3日の読売新聞が報じている。
「榛名丸は欧州の戦火覆う太洋を、日の丸に生命を託して6月21日リバプールを出帆。
戦禍を避けて故国に急ぐ駐英大使館参事官夫人上村艶さん、前参事官夫人岡本露子さん、2等書記官夫人加瀬XX子さんはじめ婦女子としてほとんど最後まで踏み止まっていた外務省官吏の夫人家族10余名。
その外三井物産ロンドン支店員鳥羽貞三氏、岩井商店支配人安原金蔵氏、東京工業大学講師で交換留学生として滞仏2年の稲村耕男氏、音楽研究に滞仏10年の牧嗣人氏夫妻ら多数の邦人避難客を満載して、リスボンからケープタウンを迂回、航海74日目の2日午後9時、やっと故国神戸港に安堵の錨をおろした。」
イギリスからは殆どの外交官夫人が引き揚げた。
(2018年3月2日追加)

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7 香取丸

1913.9.11竣工。10,513トン。1等:120人、2等:52人、3等66人
1941.12.24 ボルネオ島沖で沈没。

森元治郎(同盟通信 ワルシャワ支局長)

1937年12月10日、神戸から香取丸に乗船の朝、桟橋にある食堂で朝飯を食べた。これが日本の飯の食べ納めかと、ご飯におつけ(味噌汁)をかけてかっこんだ。

船に乗ってみると毎日おいしい日本食が出た。そそっかしい自分が恥ずかしかった。食事は船長のテーブルでという最高の待遇。もっともこれは偉そうな人が乗っていなかったことと、船長会沢浩氏が水戸の人なので破格の心遣いか。
とにかくいいことばかり。それにしても、こんな生活は若いもんには毒だと思ってみたりもした。

南シナ海を通過の時は、今わが軍が南京を攻略中だというので、灯火管制下に進んだ。船は港々で荷の上げ下ろしをするため一、二泊する。その間乗客は陸に上がってドライブも出来るし、自費だがホテルに泊まることも自由である。
楽しい船旅を満喫しながら、ナポリからメッシナ海峡の美しい「光の海」を過ぎてマルセーユ港に入ったのが、1938年1月16日である。
(「ある終戦工作」より)

新関欽哉(外務省在外研究員第一号)

1938年4月25日、香取丸という船に乗って横浜港から出航した。香取丸はかつて父が文部省在外研究員としてドイツに留学したとき、帰路に利用したことがあるという、私にとってはゆかりのある船であった。

私は一等船客であった。船が横浜を出た後、熊野灘をぐるっと廻っている間に、名古屋で下船、奈良や有馬温泉に遊び、神戸から再び乗船したが、名古屋―大阪間の汽車も白い横線の入った一等車であった。

当時、横浜−マルセーユ間の一等運賃は日本円にして1000円以上で、外務省の初任給が八十円であったのに較べると、相当高い金額であった。それだけに待遇もとびきり上等で、フルコースの昼食、夕食の他、朝起きるとボーイが船室に持ってきてくれるモーニング.コーヒーに始まり、夜食までふくめると、なんと一日に七回も食事のサービスを受けたのである。

マルセーユまでの船旅を共にしたのは、フランス語の研究員としてグルノーブル大学に行くことになった和田君であった。同じ船にルーマニアへ赴任する北野兵蔵陸軍武官も乗っていて、上海に寄港した時は連れ立って上陸し、ウースンクリークや大場鎖の新戦場を案内してくれた。(第二次上海事変の戦場のこと)

コロンボからアデンまでは10日もかかり、その間は一切陸影を見ることはなかったが、インド洋の海の色が千変万化で見ていて飽きなかった。
(「ベルリン最後の日」より)

石毛省三(終戦時陸軍大佐)

1936年11月3日、最初のドイツ勤務の為上海から香取丸に乗り込んだ石毛省三は、次のように書いている。

「当時の(陸軍の)規則では、欧州駐在員は起居、食事等のマナー勉強の為、往路はインド洋経由(欧州航路)、帰路はシベリア経由と規定されていた。」
西洋式の欧州航路の客船は、西洋のマナーを学ぶ場としても役立ったようだ。(この項2014年3月9日追加)

その他

幾紙かの特派員としてベルリンオリンピックに派遣された西条八十は往路はアメリカ経由であったが、帰路は香取丸で1936年8月16日、マルセーユから乗船。日本到着時はベルリンオリンピックから最初の帰国者として、取材等を受けた。

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8 照国丸

1930年5月31日 竣工 11,931トン。1等:121人、2等:68人、3等:60人
1939年11月21日 機雷に触れ英国沿岸で沈没。

清沢洌(ジャーナリスト・評論家)

反骨のジャーナリスト清沢洌(きよさわきよし)は欧州出張を終え、アテネ、カイロを訪問した後の1938年6月8日、スエズにて照国丸に乗船する。以下がその日のメモである。
「呪うべきエジプトとギリシャ、かつての文明は国民を乞食にさせた。(中略)
午後4時半に照国丸はキャナル(運河)を通過し来る。ホッとする。かくて予はついに日本の領土にあるなり。日本よ、なれは、ついに永住の地なり」
照国丸に乗り込んだ途端、半ば日本に戻った気分になった清沢であった。
7月8日
「神戸入港、出迎えの家族とともに京都鶴屋に泊まる。」(『暗黒日記』より
(2017年4月8日追加)

武藤富男(満州国官吏)

1938年、ドイツが満州国を承認したころ、満州国は欧州に修好経済使節団を派遣する事を決めた。団員17名のうち、日本人は6名であった。甘粕正彦が副団長として入った。そしてその助手として武藤が加わった。随員を加えた26名は、8月26日、門司港で照国丸に乗船した。満州からは次の停泊地上海で乗船する方が、自然に思われるが、政治情勢から中国大陸の移動は難しかったのであろう。

8月15日、船は上海に寄し、戦跡を見学するが、そこは一面の廃墟であった。5族からなる一行は、誰も複雑な胸の内の感想を口に出さなかった。
(「私と満州国」より)

澤田廉三(駐フランス大使)

フランス大使としてパリに赴く澤田廉三大使は1938年11月末、神戸より照国丸に乗船し、マルセイユ経由でパリに向かった。
「渡欧雑詠」という題名で、船上で読んだ句が紹介されている。そして次のような記述もある。

「その頃、欧州航路の優秀船には、いずれも船内に無電局が設けられ、外国の港に碇泊中は別だが、公海運行中は随時日本との間に、国内並みの安い料金で、邦文電報発受が出来るという、誠に便利なことになっていた。

インド洋横断中のある日、日本の友人から”澤田澤田と草木もなびく、なびけ異国の花いばら”と相馬節くずしとも言うべき、はなはだ景気のいい、はなむけの電報を受け取った。」

この船には陽明学者の安岡正篤も乗っていたようだ。自著「世界の旅」に昭和13年末、照国丸で欧州に向かったと書かれている。

大賀小四郎(ドイツ文学者、外交官)

ライプツィヒ大学に留学していた朝永振一郎は日記に書いている。1939年3月3日
「大賀君、いよいよ日本へ帰ることが決まったよし。そうなると急であって、この8日にもう発つのだそうだ。照国丸で11日にナポリを出る。昼前、大賀君のうちへ行く。留守。」
また8日にも登場する。
「大賀君を駅に送りに行く。大賀君いよいよ外務省に入るのである。」

高島泰二(陸軍士官学校独語教官で1939年ドイツ留学

筆者の「日本人小学生が体験した戦時下のイタリア」に登場する満州国外交官の子息山下功さんが「照国丸」で渡欧したと語ったが、1939年ドイツ留学した高島泰二の「伯林日記」に「照国丸の航海」がある。

「5月12日 午後3時、霧様の降る神戸港の四号岸壁にはNYK(日本郵船)欧州航路の照國丸がすでに停泊していた。奥の船長を訪ねる。
5月25日 正午にシンガポールに接岸。丁度姉妹船の靖国丸が欧州からの帰国途中で同じ岸壁に着いていた。

6月5日 海が凪いで来るとデッキ.ゴルフのリーグ戦が始まった。古河の山田さんと組んでロンドンへ行く横浜正金組を破った。
6月9日 昼頃、右舷はるか前方にシナイ半島らしい陸地が見えた。午後一時半に箱根丸とすれ違うというので、船客や船員一同がデッキに出て待つ。やがて接近してくる僚船に旗やハンカチを振る。汽笛三声を互いに鳴らして一路平安を祈る。

6月12日 最後の晩はお別れパーティーとなり、食後にサロンで深夜まで杯を重ねた。欧州各地に散っていく外交官や軍人、商社の人々など、長い航海でせっかく親しくなったのに、いつまた会えるか判らない。」

郵船の船同士がすれ違う時は、乗客同士も手を振りあったことが分かる。これから欧州に向かう人、帰る人と、感慨もひとしおであったろう。高島の日記からさらに、赤松貞雄スイス陸軍武官、河原o一郎(終戦時 駐独参事官)と家族、山川耀男(終戦時駐独書記官)と婦人が船客であった。

また海軍の吉川晴夫技術少佐もこの便でドイツに向かった。(のちに潜水艦呂501号で日本に向かうが、米船の攻撃で沈没死亡)
さらに
この航海の途中のシンガポールでは、ジャワ島の視察を終え、オランダ公使としてハーグに赴く石射猪太郎が乗り込んだ。

沈没

そして照国丸は次の航海が最後の航海となる。9月24日、開戦直後に諏訪丸が出てからちょうど2週間後に横浜を出港する。
照国丸が機雷に触れ沈没したのは日本にとって大事件であった。その最期について、次のような記録がある。

「爆沈事件について在英重光大使より外務省に既報第一報後左の至急公報があった。
【第二報】照国丸は11月21日日午後三3時ごろ、イギリス東海岸ハリッジ港沖にて沈没せる旨同日午後三時すぎイギリス外務省より在英日本大使館へ通告ありたり。
大使館よりは岡本参事官、内山総領事現場に急行する。乗客28名中日本人3名、乗組員177名、全部救助される。沈没原因は敷設水雷。

【第三報】照国丸の機雷に触れたるは21日昼0時53分、船体は右舷に傾き沈没、乗客(28名なるも邦人は少数)および船員いずれも全部救助される。同日夕五時半特別列車にてハリッジ発七時ロンドン着の予定。なお岩崎書記生は徴傷を被るも無事なる由。」
(大阪毎日新聞 ) 日本人船客3名のうち一人はスイス公使館に赴任する馬瀬金太郎(終戦時ベルリン総領事)であった。

欧州航路の目的地ロンドンも戦争の影響で、寄港出来なくなる。
「英国政府はロンドン港外において最近英国油槽船がドイツ航空機に爆撃され、同港は通航不能に陥りたるにつき船舶の入港を禁止する旨日本郵船ロンドン支店に通達した。右報告に基づき日本郵船は11月25日逓信省と協議したる結果、最近照国丸の遭難事件等もあることとて右英国政府の通達通りロンドン寄港を中止することに決定。今後英国ではリバプールに寄港する筈である。」
(中外商業新報 )

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9 鹿島丸

1913年竣工、10554トン 1等:119人、2等:52人、3等73人 
1943年9月27日沈没

「ナチス」党大会参加メンバー

欧州開戦直前の1939年8月27日、大阪朝日新聞 は次のように伝えている。

「在欧邦人の引揚に備え□船では目下欧洲近海にある社船の待機方および戦争勃発後の安全コースの整備方についてロンドン支店と打合せているが、すでにドイツ行船の保険料は8月25日から四倍に昂騰しこのうえ危険が切迫すればロンドン筋では全然拒否に出るので今後のハンブルグ行は日程が立ち兼ねる情勢である。

社船は靖国丸が目下ハンブルグにあって26日出港の予定を一日延期して27日出帆のほか大角、寺内両大将を乗せた鹿島丸は30日ナポリを経て9月2日マルセーユ着、また帰国途上の榛名丸は25日マルセーユを出て27日夕刻ナポリ発の予定だが、同日中の情勢如何によっては出帆を延期するかもしれない。

貨物船では何れも世界一周から帰国途上の栗田丸が26日オランダのロッテルダムを出帆、佐渡丸が来月5日ロンドン着、リスボン丸が31日ハンブルグ着の予定である

戦争になって地中海が危険になれば各船ともアフリカ廻りかパナマ経由に変更され一方燃料、食糧の補給には早くもロンドン支店で万全の準備を整えつつある。」


海軍より大角大将(随員、小島大佐、小野寺中佐)、陸軍より寺内大将 (随員 八里砲兵中佐、金田歩兵少佐、加藤航空兵少佐)が鹿島丸で欧州に向かったのは7月20日出航の鹿島丸であった。一行がナポリに着いたのは8月31日未明であったが、翌日の開戦でナチ党大会も中止となった。ナポリに上陸した一行のうち海軍関係者は、次の箱根丸に乗り込みそのまま帰国の途に付き、陸軍関係者はそれでもドイツに向かう。

角田文衛 (第2回日伊交換学生)

第2回日伊交換学生に選ばれた角田文衛は、1939年7月20日午後、鹿島丸で神戸を発つ。
8月25日、スエズに着く。ここで独ソ不可侵条約の成立を知る。大角、寺内両大将が乗っていた関係もあり、本国からの指令を仰ぐため、鹿島丸は待機を余儀なくされる。

本国の指令は(次の寄港地)ポートサイドで燃料、食物を補給の上、予定のごとく出帆すべしであった。そうして8月30日、ナポリに着く。
(「欧州の四季」より)
(この項2015年12月23日追加)

パリ日本人会通告

1939年9月3日、イギリスに続いてフランスもドイツに宣戦する。同じ日にパリ日本人会は邦人に通告を発する。
「鹿島丸は本日午後5時マルセイユを出港する。7日ごろボルドー入港約1週間滞在の予定。同船収容人員数約150〜60名。フランスを退去して帰国船とする者は、至急大使館高島理事官に届け出ると共に、各自ボルドーに赴かれよ。」
(『沈黙の戦士』小松清より 2017年7月16日追加)

ボルドー

このボルドーからの引き揚げに関し、前の寄港地であるマルセーユの高和博領事が9月3日、阿部信行外務大臣に情報を送っている。
「鹿島丸(9月)3日午後4時半、当地避難民収容の上出航。在仏大使館の希望もあり、パリ方面より避難の本邦人収容のため、ボルドーに回航。約一週間の停泊の上、ロンドン総領事館の指定する英国港に向かう予定なり。
当地(マルセーユ)避難民は小官の妻子並びに従者、青木書記生の妻子及び在留民大人4名、子供3名、合計大人7名、子供5名なり。」

前年日本から諏訪丸でパリにやって来た留学生古澤淑子は、ボルドーのホテルに4,5日泊まり、そのまま鹿島丸の出航を見送った。
大使館、親戚筋の正金銀行駐在者から厳しく帰国するよう言われ
「(言われた通り)ボルドーまでは来たのだ。しかしフランスの懐に帰る道を選んだ。」
(『夢のあとで−フランス歌曲の珠玉・古沢淑子伝−』より)

中村光夫(文芸評論家、1938年よりパリ留学)

朝日新聞の報道では
「1939年9月4日 フランス在住の日本人は大戦勃発と共に大部分本国引き上げを決定。まずパリ在住の日本人約150人は7日、ボルドー入港の日本郵船鹿島丸に乗船、日本に向かうことになっている。」とある。
ちなみにボルドーは欧州航路の停泊地ではない。邦人避難民が多く逃げた場所であった。鹿島丸は急きょ邦人の引き揚げ船となる。

船は1939年9月7日にボルドーに着くはずであったが、実際は10日すぎであった。しかし積荷のトラブルで、日本大使館が交渉に当たり、リバプールに向けた出航は9月25日になった。

「ボルドーからリバプールまでの3日間の航海の間は、万一を慮って(救命)ボートを全部両舷に吊り出したままでしたが、もしも遭難した場合には何よりも寒さが怖いというので、僕らも外套やセーターを鞄から出して、いつでも着られるように手近なところに置き、また携行品はボートに持ち込むことを許されないというので、大事なものを全部シャツの裏側に縫い込んだ人もありました。

鹿島丸は造ってからもう30年近い老朽船で、速度もしたがって一番遅いので、普段は定員160名の半分も客がいないのだそうですが、それが今度はすっかり満員で、しかもその半数近くがパリを引き揚げる大使館その他の奥さん、子供達ですから、乗務員も並大抵ではありません」
(「戦争まで」より)

フランス文学者小松清は妻子が鹿島丸で帰国することになり、見送りにボルドーに向かう。
「9月15日 正午前、避難邦人みな鹿島丸に乗船。船で日本食をご馳走になる。腹いっぱいつめ込んだほど美味かった。」
小松は再びパリに戻る。
(『沈黙の戦士』小松清より 2017年7月16日追加)

この時鹿島丸は戦乱を避け、ニューヨーク経由で日本に向かう。そして10月16日、ニューヨークに着くと朝日新聞の伊藤支局長は電話で、様子を語った。それによれば邦人の避難客は全部で180名、ボルドーから乗ったのは中村光夫を含む142名、英国からが38名で、そのうち子供が50名いて、はしゃぎまわっていた。

主な乗客として電話口に出たのは、戦後法政大学の学長となる野上豊一郎博士、その妻で小説家の野上弥生子、フランス代理大使宮崎勝太郎妻の豊子、テレビ研究の権威高柳健次郎であった。

俳優岡田眞澄は1935年、フランスのニースに生まれたが、この時鹿島丸で横浜に戻る。在仏23年の画家岡田稔の次男で、妻がデンマーク人翻訳家であった。

湯浅年子(国際的な女性核物理学者、パリのキュリー研究所に留学)

1939年にフランス政府給費留学生試験に合格するが、彼女は片岡美智とともに初の女性留学生に選ばれた。しかし戦争の勃発でパリへの出発を延期するが、1940年1月26日(ないしは25日)神戸を出港する。留学に際し父親は便せんに次の歌を書いて餞別にと言った。

「我が宿の梅も咲きけりはれやかに鹿島立つ子をことほぎがほに」

「鹿島立つ子」は「鹿島丸で出発するわが子」と理解できる。ここから筆者は湯浅の乗り込んだ船が、鹿島丸であると想像する。先に述べた欧州からの避難者を乗せた航海の次の往航になる。

同年2月2日に箱根丸が神戸を発って欧州に向かったと箱根丸の所で書いた。この時立て続けに2隻が欧州に向かったことになる。

「そして3月1日、一か月余りの航海を経てマルセーユに着く。プラタナスの並木道がまたとなく美しい。」と日記に記し、感慨ををこめて数首の歌を詠んだ。なお同じく留学生の片岡美智子は上海からフランス船でパリに向かった。(フランス船による渡航は別項参照。)

原智恵子(ピアニスト)

原智恵子は1937年、日本人として初めてショパン国際ピアノコンクールに出場する。そして日本での名声も高まった。
1939年10月にナポリ出航の伏見丸で日本に引き揚げ予定と報じられた原智恵子だが、その1年前に留学先のパリから日本に一時帰国をしている。読売新聞が伝えている。

「鹿島丸(1938年)9月3日神戸入港。結婚話は煙幕に。原智恵子さん帰る」の見出しで、
花のような小柄な容姿をパリ・ア・ラ・モードの銀杏装束、濃紺のワンピースに包んだ原智恵子さんは
「今度は日本が恋しくなって帰ってきただけよ」と意味深長な口ぶりで記者に語った。

実際に帰国直後の11月25日、留学仲間の川添浩史(六本木のイタリアンレストラン「キャンティ」創業者)と結婚している。そして翌年2月8日出帆の鎌倉丸で、夫妻はサンフランシスコに渡り、大西洋を越えて再び戦時下のパリに戻る。
(2018年2月24日追加)

諏訪根自子(バイオリニスト)

最近亡くなったバイオリニスト諏訪根自子が 1936年1月パリへ向かったのも鹿島丸であった。(諏訪丸でなかったのが残念!?)
1月24日付け読売新聞は報じている。
「23日午後3時神戸出帆の鹿島丸で諏訪根自子嬢、憧れの鹿島立」、湯浅の父親同様に読売新聞も「鹿島立」という言葉を用いている。
(2017年10月28日追加)

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10 諏訪丸

1914年竣工 11,758トン、1等:129人、2等:59人、3等62人 1943年4月5日沈没

古澤淑子(声楽家)

「1937年4月30日、留学のため神戸から諏訪丸に乗り込む。この航海が最後というほどのオンボロ船だった。
6月1日。アレクサンドリア着。「誕生日おめでとう」の電報が日本より船にはいった。
6月10日、いよいよマルセイユ到着。下船時、淑子の大きなトランクは15個。すべて、母が準備した衣類等、服飾雑貨であった。ボーイたちを総動員して港に降り立った。東京音楽学校よりイタリア留学に向かう浅野千鶴子も同じ船にいた。浅野は古沢の声楽の大先輩でった。」
彼女の眼には1914年竣工の諏訪丸はすでにオンボロ船と映った。またトランク15個という荷物の量も、当時の渡欧事情を反映していよう。(『夢のあとで−フランス歌曲の珠玉・古沢淑子伝−』より)
(2017年5月30日追加)

新聞記事より

1939年4月24日の朝日新聞に「諏訪丸渡欧客」という記事がある。外交官を主に新聞にも渡欧者が載る事があった。この時は
ポーランド参事官 蜂谷輝雄
ラトビア書記生 中村禮(?)
パリ  外務書記生 小沼文彦

同船は27日午後3時、神戸出航の予定であったが、前日来の雨のため、荷役不能となり1日出航が延期されるという記事も出ている。
欧州航路の1日の出港の遅れは新聞記事にもなった。
(2015年11月23日 追加)

幾人かの人が、自分の乗船した船が欧州開戦後、最初に欧州に向かった船と書いているが、正しいところは諏訪丸のようである。

大阪朝日新聞の1939年9月3日には
「さて風雲のヨーロッパへ向けて船出するのは日本郵船の諏訪丸が来る14日神戸を出帆する予定となっているが、郵船では諏訪丸を出航させるかどうか目下未定であり大阪支店にも何の入報もないが、同支店では二日欧洲方面の船舶にそれそれ待機命令を発せられている折柄、欧洲行乗客も殆んど乗船取消しを申込んで来るものと見ている。」
9月7日時点でのロンドンまでの船客はわずか7名であった。

そして9月10日午後3時、日の丸を船腹につけて諏訪丸は横浜を出航したと朝日新聞に報じられている。
読売新聞によれば神戸を出帆したのは14日午後3時である。神戸で3日ほど待機したことになる。オランダ日本公使館員大橋正雄がマルセーユまで乗船した。

この諏訪丸には、本国から召集令状を受けた英国人も乗船する。読売新聞が報じている。
「9月14日神戸出帆
召集令状を持って、戦線に赴く英国領事予備陸軍大尉、神戸市で英語の私塾を開いている退役大尉他、9名の外国人(が神戸から乗船した)。」
英国の徴兵制度は、日本にいる英国人も例外扱いをしなかった。

1939年10月26日、マルセーユに着いた諏訪丸から、水兵見習い1名が脱船したと高和博領事代理が報告している。外国の生活にあこがれたためであったが、夢と現実の違いに領事館に間もなく出頭した。そして次の照国丸で送還となった。

帰路

欧州戦争勃発後に欧州に向かった諏訪丸の帰路の様子も読売新聞から知ることが出来る。
「ドイツ品積み出し問題でイギリス官憲の臨検を受け、予定より遅れてナポリに到着した諏訪丸は12月28日午後4時ナポリを出帆、スエズ運河経由日本に向かった。」
そして翌年2月3日午後0時半、神戸港に帰ってきた。船客の中には国際スパイの嫌疑から、かの岩窟王で有名なマルセーユ港外の孤島の獄舎につながれた、ジャーマンベーカリーの主人ミュラー氏夫人半田シマ(34)、息アレクサンダーがいた。

南アフリカ回りの航海

1040年6月6日 諏訪丸は横浜港から出航する。船客は16名のみで、その内欧州まで行く者は7名のみであった。「イタリア参戦の場合は南アフリカ、ケープタウン回りで欧州に向かう」と決死の欧州行きであった。(朝日新聞)
門司港で暫く待機し、6月12日、南ア経由に航路を変更して出帆した。(読売新聞)

その帰りの航海について、船客であった井上格太郎が大西洋上から報告を電信で送った。9月21日発。
「船腹の日の丸のマークも力強く、去る4日にリバプールを出港した最後の郵船諏訪丸には、ロンドンを引き揚げた邦人47人とタイ国貴族数名、他に外国人船客が乗っている。船はいつ爆弾の洗礼を受けるかもしれず、機雷にやられるかもわからない。

我が諏訪丸は両舷ボートをいつでも降ろせるようにし、我々乗客もみな救命袋に身を固めて生きた心地もなかった。18日の夜8時頃高須船長から『本船は今最大危険地帯たるノース水道を無事通過した』という知らせを聞いて、船客一同はじめて愁眉を開き、蘇生の思いであった。船長の姿がまるで神様かなにかのように思われた。」

12月9日
リヴァプール出帆以来96日目の8日朝9時半、神戸に帰港する。ロンドンの引き揚げ邦人47名をはじめ邦人147名が乗船していた。
7歳の時、サーカス団横田一座に連れられ、芸人として40年旅して暮らした前田鍋吉が船客にいた。

その他の乗船者:

陸軍宝蔵寺久雄中佐は1933 年11月19日下関税関より乗船、欧州出張へ。船旅の様子は著書「欧州旅行記」に詳しい。

上林豊明(医学博士)

1936年、諏訪丸で欧州に向かう同氏は
「船は只今東インドシナ海を南へ南へと走りおり。2,3日来の暑熱烈しく、船室は90度を超し申候。(摂氏32.2度)
釜中にある如く、僅かにデッキチェアーに涼をとり候。」と書いた後
「同船に米国の喜劇役者チャーリー・チャップリン氏あり。一日乞うて写真を記念に撮り候。同氏はなかなか写真写真を撮影せしめざるにて有名。」と一緒に貴重な記念写真を撮った。3月16日の事である。チャップリンは日本郵船の船が気に入っていたと言われている。
(『日本医事新報』1936年4月号より。2018年4月28日追加)

バイオリニストの千住真理子は最近テレビで
「祖父が欧州に渡る船でチャップリンに会い、彼のバイオリンを聞いてその魅力に魅せられた。チャップリンのバイオリンの腕前はなかなかであった。この出会いが無かったら自分はバイオリニストになっていなかった」と語った。祖父が出会ったのはこの航海の時であろうか?

夏目純一(夏目漱石長男)

外交史料館の記録によると、「1939年2月26日 ナポリ発の諏訪丸で夏目純一を帰国せしめたる。」
とあり、純一は遊学先のブダペストからナポリを経由し、諏訪丸で日本に向かった事が分かる。
去る1938年12月23日に松宮ハンガリー公使は、純一は「当地に長期滞在する唯一の日本人」で、(身元の)保証は「岩波書店」等、有田外務大臣に報告している。
(2016年12月11日 追加)


11 その他

その他以下のような新聞記事が当時の欧州航路の様子を伝えている。

朝日新聞1940年5月25日 

「最近激化した戦局のため、ロンドン線再び中止、リバプールを最終寄港地に。欧州情勢の急転にも拘らず、ナポリ、リバプールに赴く船客数は微塵の影響もみられない。」
本当に船客数が減っていないかは疑わしい面もあるが、次はそんな船客の例であろう。

朝日新聞 1940年5月31日

「戦火のドイツへ女の一人旅 (神戸)
少年保護婦人協会幹事 松野繁子 半年の予定。」
残念ながら船名は特定できないが、彼女は半年の予定であったにもかかわらず、敗戦まで日本に戻れなった。

大阪毎日新聞 1940年6月2日
「欧洲戦局の拡大につれてわが日本郵船、大阪商船はじめ国際汽船、山下汽船等の欧洲航路の航行が不安となり、殊にイタリーが参戦することになれば地中海航行の安全は全く期し難くなるのでわが海運界はこれに対しすでに非常時態勢をとり特に日本郵船の如きは世界海運界の覇者たる地位と誇りを確守するため最後まで欧洲航路の就航を続ける準備をたてている
日本郵船の欧洲航路はロンドンを最終港として伏見丸、棒名丸、白山丸等七隻の優秀客船を就航させていたが、最近欧洲の戦火がまさに英本土にまで及ぶ形勢となったので最終港をロンドンからリバプールに短縮、去る26日マルセーユを出港目下帰航の途にある伏見丸からロンドン行きを中止してリバプール止りとした、また白山丸はすでにリバプール港に在り在英邦人の避難者を便乗させ6月3日同港を出帆、同月13日マルセーユを出港帰航の予定である。

なおドイツ軍が英本土に上陸という危機に至れば更に最終港をリバプールからポルトガルのリスボンに変更し、飽くまで郵船が誇るキープ・ザ・ライン(航路確保)の建前から欧洲航路を継続する方針の下に各船長にも非常の場合に臨んでの指令、手配を発し万全を期している。

朝日新聞 1940年6月20日

「郵船欧州航路 新寄港地決まる。
現在就船の8隻をA級、B級に分け各級船のスピードを考慮してA級船はボンベイに、B級船はリスボンにそれぞれ寄港し、南アフリカ回りリバプールを終点とする。来る6月25日神戸発諏訪丸、同30日発箱根丸から実施する。」

イタリアが参戦しスエズ運河の通過が不能となり、ついに南アフリカ回りで向かわざるを得なくなった。




<12.浅間丸>

1929年竣工 16,947トン。 1等239名、2等239名、3等504名。
1944年11月、マニラ、高雄間で沈没

大西洋航路の豪華貨客船でったが、1940年後半、大西洋航路が閉鎖されてからは欧州へ向かう邦人は、もっぱらアメリカを経由して行くことになる。よってここでも紹介する。

友岡久雄

1941年2月20日、ポルトガルに赴任する友岡久雄法政大学教授は浅間丸でアメリカ西岸に向かう。親族の他親戚、多くの教え子が港に集まった。出港時には学生たちが「フレー、フレー友岡!」と叫んだ。(外務省嘱託、友岡久雄教授の体験した欧州戦争」より)

船での記念写真は欧州航路船とは異なり、船内で撮られている。食堂の内装にはふんだんにイタリア産の大理石が使われていたという。下の写真の両サイドに見えるのはそのイタリア産の大理石?


浅間丸一等船客記念写真、船長の左の男女が千葉公使夫妻、中列右から二人目が友岡。朝日新聞ローマ特派員として赴任する衣奈多喜男もいるはず。写っている外国人はおそらく大部分が上海を経由してアメリカ大陸に避難するユダヤ人である。


恒例のすき焼きパーティー。手前の食器類はなかなか豪華。船長を囲んで千葉公使夫妻と友岡(左)

船長藤田徹

1939年当時、欧州航路の箱根丸の船長であった藤田はその後、浅間丸の船長となった。友岡久雄の乗船したひとつ前の航海であろう、1940年11月3日「浅間丸船上にて堀内謙介駐米大使と明治節を祝う」写真があり、多くの上乗員乗客が、甲板に集まっている。帰任の航海であろう。「船内の様子」の写真は、友岡久雄で紹介したものとほぼ同じ光景である。
(2016年5月22日 追加)

幻の航海

1941年1月14日にロンドンから伏見丸が戻ったのを最後に途絶していた欧州航路であるが、9月8日の閣議で、孤立状態の欧州に残る邦人引き揚げと、交代の外交官派遣のため、日本から客船が派遣されることが決定される。当時最高速を誇った浅間丸が、その任に就く事になった。欧州航路に就航していた船が選ばれなかったのは残念である。

10月上旬横浜を出港し、インドのダーバンを経由し、ポルトガルのリスボン寄港後、アイルランドのゴールドウェイに40日かかって到着する予定であった。ドイツとは交戦国である英国への寄港は避け、隣国アイルランドを終着地とした。

ドイツでは帰国を勧められた留学生らが、荷物をリスボンに送り出した。一方日本では新たに赴く外交官に加え、単身で残っている外交官の家族が、乗船を希望し渡航手続きを取った。危険地帯に向かうにもかかわらず多くの名前があるのは、外務省が勧めたからであろう。その中にはベルリンの日本大使館に駐在する内田藤雄書記官の妻子、大賀小四郎官補の妻の名前もある。

しかし結局浅間丸の派遣は中止となる。日本の開戦までに戻れないと判断したからのようだ。
(2017年5月6日追加)



13.鎌倉丸

1930年竣工 17,526トン。一等 243人、二等 90人、三等 500人。
1943年4月28日 ボルネオ島付近で沈没

鎌倉丸も太平洋航路の貨客船であった。

1940年11月21日の朝日新聞 朝刊に以下の記事が載る。
「本社論説委員笠信太郎、ベルリン通信局員茂木政両氏は20日午後0時30分東京駅発、同3時、横浜出帆の(日本)郵船「鎌倉丸」でアメリカ経由、ドイツへの赴任の途についた。」
東京駅を汽車で発ってから、2時間半後に横浜港を出港するとは、ずいぶんと素早い手続きが可能であったようだ。

また1939年7月8日 「鎌倉丸帰来客」として、8日正午に横浜入港予定の記事が出ている。乗客720名と大変にぎやかであった。その乗客の中には、バルト三国のラトビア駐在の陸軍武官であった高月保武官もいた。



<崎戸丸>

世界一周航路に就航したばかりの貨物船、崎戸丸で渡欧した留学生がいる。中外商業新報(日本経済新聞の前身)が 11939年8月22日に報じている。

「【横浜電話】日独文化協定成立後最初の交換学生として渡独する文化映画研究の鎌倉町二階堂、菅博雄(33)、国家的宣伝機構並に組織を調査する山脇亀夫(28)の両君=いずれも上智大学出身=が、(8月)20日朝10時パナマ経由東廻り世界一周航路の郵船崎戸丸で元気よく鹿島立った。
ドイツフンボルト育英財団に日本から選抜された9名(うち2名は在独)のうちの異色で、菅君はベルリンのヴーファ撮影所に1ヶ年、山脇君はドイツ宣伝省情報課に2年間、それぞれ勤務してナチ式訓練と実際教育をみっちりうける。」

欧州戦争の開始で、崎戸丸はこれが最後の世界一周となったのであろうか?そして乗船した両名は、そのまま敗戦まで欧州に留まっている。菅はベルリンの日本大使館、山脇は同地で朝日新聞に雇われる。
(2018年3月10日追加)



ドイツ客船 シャルンホルスト

シャルンホルストは北ドイツ・ロイド汽船の貨客船としてブレーメン−横浜間の極東定期航路に就航した。排水量17,500トンは、11,930トンの靖国丸に比べると、かなり大きい。

ユダヤ人であるクラウス・プリングスハイム2世は、ドイツを去る決心し父の暮らす日本を目指す。文豪トーマス・マンの甥に当たる。
ドイツから逃げ出すとは見えないように、往復切符を買って、2ヶ月後に帰国する振りをする。乗船地はブレーメンではなく、ナポリであった。以下はその航海の感想である。
「シャルンホルストは美しい客船だった。オリーブ色の一本煙突で、船体の上半分は白、胴体から下半分は黒の塗装がしてあり、時速35ノットは当時世界最高速度だった。ドイツ人の船客が殆どで、観光客が多い。香港、上海、天津、北京、東京等に向かうビジネスマンも少なくない。他にはマニラ、ジャカルタ、シンガポール等に行く宣教師がいた。」
航海は一ヶ月で、1939年5月23日に、日本に着いた。私の16歳の誕生日だった。

1939年5月24日の朝日新聞は、
「横浜港シャルンホルスト号 鳩便」と題し、
「日独医学交歓のためナチス保険総官代理として来朝したヘイデン・カンプ博士及び在ベルリンの近衛秀麿子の紹介で来朝のドイツ宣伝省音楽部員マンフレッド・グルリット教授等を乗せたドイツ汽船シャルンホルスト号は23日午後零時半、上海から横浜に入港した。」と報じた。プリングスハイムの乗船してきた航海である。

谷崎潤一郎の小説『細雪』において
「いつかのあの、プレジデント・クーリッジとはえらい違いやわ。あの船は何処もかも白い明るい色してたけど、ドイツの船(シャルンホルストのこと)は塗ってある色が陰気で、何か軍艦みたいやわ」とは主人公の一人、幸子の神戸港で見た時の感想である。黒い船体はドイツ人には美しく映ったようだ。

そして同年8月16日、シャルンホルストは神戸港を出港、8月28日にマニラに寄港した後、シンガポールへ向かっていた時にドイツ本国からの暗号無電を受け、再びマニラ帰投。9月1日に神戸港に戻る。ドイツがポーランドに侵攻する日である。
翌9月2日の朝日新聞は書く。
「英仏領港から抑留の威嚇を受け日本に逃げ帰ってきたドイツロイド汽船シャルンホルスト号が1日午前10時40分、マニラから悄然と神戸港に入港、19番ブイに係留、帰国の目処がつくまでここに待機したいと申し出てきた。」このあとシャルンホルストは、約3年間も神戸港に繋留・放置された。

その間蘭印を引き揚げた、ドイツ人婦女子の宿泊所として利用された。その後、日本海軍に買い取られ空母神鷹(しんよう)となるが1944年11月7日、アメリカ潜水艦の攻撃で沈没する。
(2017年4月8日追加)


<フランス客船 ジャン・ラボルト号>

1939年、フランス政府の留学生に選ばれた若者はフランス船での渡航を義務付けられたようだ。
その一人であった加藤美雄(仏文学者)は1940年1月23日、フランス郵船の客船、ジャン・ラボルト号で神戸港からパリに向かう。同じく留学生の笹森猛正、片岡美智も同船であった。(大倉商事フランス支店大崎正二の回想では1939年12月22日)

途中の寄港地、マルセーユ到着の日時などすべて秘密の航海であった。フランスと交戦状態にあるドイツの潜水艦からいつ攻撃を受けるか分からなかったからである。フランスがドイツに休戦を申し入れるのが、同年6月であるから、これが同船の最終航海となったかもしれない

加藤は次のフランス船で井上正雄、湯浅年子をさらに二名の留学生が向かう、と書いているが、筆者の推測は先に鹿島丸の項で述べた。

終わり

参考資料:
日本郵船歴史博物館に当時の配船表を見せていただき、いくつかの入出港日を特定しました。
各船の基本性能については「船のウェブサイト」を参照させていただきました。(このサイトは2014年6月現在見つからなくなりました)

 
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