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米軍接収文書の中の杉本勇蔵  

【お知らせ】
杉本勇蔵の体験した戦前、戦時下のハンブルクは書籍化されました。『第二次世界大戦下の欧州邦人(ドイツ・スイス)』に収録。こちらからお求めになれます。



2014年5月25日に「杉本勇蔵の体験した戦前、戦時下のハンブルク」をアップした。その後、新たに二つの文書に、杉本が登場する事を見つけたので、紹介する。

<米軍接収文書に見る杉本勇蔵>

ドイツの敗戦に伴い、在欧の日本、満州国の大公使館は、重要書類をすべて焼却している。それでも何らかの理由で焼却されずに残った書類が、進駐してきたアメリカ軍の手で押収された。その後、それらはすべてマイクロフィルムに収められ、ワシントンの公文書館で公開されている。

そのマイクロフィルムのコピーを国会図書館(議会官庁資料室)も購入し、閲覧ができる。筆者もその一部を閲覧したが、玉石混交、まるで蚤の市で掘り出し物を探すように史料に当たる感覚であった。パンフレットごときの史料も多いが、それらも含め、すべてをマイクロフィルムに収める、アメリカの徹底さ、エネルギーには圧倒される。

その中に、ハンブルク満州国領事館の文書があった。そして杉本宛てのレセプションの招待状などが多く見られる。まるで杉本個人の文書ファイルがそのまま残り、接収された印象である。その中からいくつかを紹介し考察する。

1 杉本宛ての公式招待状


「杉本勇蔵殿
呂宣文満州国ベルリン公使訪問に際し、1939年3月14日 20時からのホテルアトランティックにおける夕食会に招待」と書いてある。

杉本自身が残した手記にも
「1939年3月に至り、呂公使閣下の第一回ハンブルク公式訪問あり。この間の準備一切を行う。」とある。満州国のドイツにおける最高位である呂公使のハンブルク初訪問は、杉本にとっても大きなイベントであった。

この時の呂公使の訪問時の写真はすでに「杉本勇蔵の体験した戦前、戦時下のハンブルク」の中で紹介した。また開催場所のホテルアトランティックは、当時しばしば満州国関係のレセプションで利用されたホテルである。

1939年3月16日 在独満州国公使 呂宣文氏(中央)ハンブルク市公式訪問記念。左後方が杉本。シルクハット姿が公式行事であることを想像させる。

2 杉本主催の夕食会の参加者リスト。


1943年6月27日 19時半から 「日本食堂」Tesdorpfstrasse 15にてと書かれている

杉本主催の夕食会の出席者リストである。
招待客のほとんどはベルリン在住の日本企業会社の責任者クラスである。三井物産ベルリン支店長の綾井豊久、三菱商事ベルリン支店長の三宅又雄、大倉商事ベルリン支店長の加藤鉦次郎らの名前がある。

他の招待客リストから想像して、このメンバーはおそらく「満州―ドイツ友好協会」の日満側のメンバーである。ドイツ側メンバーも出席した会合の後の、打ち上げのような食事会であろう。日本の三大商社、横浜正金銀行など、企業関係者は横並びで満独友好協会のメンバーになったようだ。

開催場所は「日本食堂」となっているがこれは杉本の“親友“河内勇の営む「河内屋」のことである。公式行事用に「日本食堂」と、少し格式ばった名前も持っていたのであろう。邦人の少ないハンブルクで日本食堂を営む河内勇にとっては、こうした催しは大いに収入面での助けになったはずだ。レストランの規模もあって、ハンブルクでの公式な食事会の参加者はいつも22名と決まっている。

またこの食事会のために6月8日、「日本食堂」に次の特別配給をするよう、ハンブルク市当局に要求する手紙も残っている。要求する食料は次のとおりである。

米10キロ、砂糖3キロ、魚8キロ、肉4キロ、バター1.5キロ、卵50個、野菜。

戦時下ゆえ普通には手に入らぬものばかりであった。

招待者が出席を伝える返事の手紙も保管されていた。以下は大倉商事加藤鉦次郎支店長のものである。筆者は加藤鉦次郎さんの長男、眞一郎さんには懇意にしていただき、「日本人小学生の体験した戦前のドイツ」を書いている。「ハンブルクの名士」の呼び方が当てはまる杉本であった。


他に三菱商事ベルリンに勤務した藤瀬清はこの食事会に参加する、と定型の手紙で答えた脇に、手書きで「毎々、ご招待恐れ入ります」と添えている。杉本は定期的に彼らをハンブルクに招待していたようだ。杉本と市当局との関係から、戦時下でも良い食材が手配できることで、ベルリン在住邦人にとって、この食事会は楽しみであったのかもしれない。

なおローマの満州国公使館から接収された文書の中にも、1940年7月16日付けで杉本が在イタリア満州国公使館、三代(晁雄)参事官に宛てた手紙が残っているが、達筆ゆえに判読が困難である。

以降は書籍でお楽しみください。こちらに収録されています。
<武藤武男「私と満州国」に見る杉本勇蔵。>

満州国の高級官僚であった武藤武男は戦後「私と満州国」という本を書いている。

それによると1938年、ドイツが満州国を承認したころ、満州国は欧州に修好経済使節団を派遣する事を決めた。団員17名のうち、日本人は6名であった。甘粕正彦が副団長として入った。そしてその助手として武藤が加わった。甘粕正彦は元日本陸軍の軍人、「甘粕事件」というのを引き起こした、不気味な人物であった。

本の中で武藤はハンブルク訪問について、次のように書いている。

「1938年 満州大豆の搾油工場を持つハンブルクを(ベルリンの次に)まず訪れた。ハンザ油房とブリンクマン油房の2工場を見学し、北満の大豆の山を見てなつかしんだ。それは10月1日のことであった。」
この北満の大豆の山は、杉本が輸入したものである。一行の工場への案内役も当然杉本であろう。

杉本は武藤らの訪問を、次のように書き記している。

「3月中、商工大臣伍堂卓雄訪独に続いて、同年8月下旬、(武藤らの)満州国修好使節団の訪独あり。小生は満独協会理事の資格において、種々の会合を主催し、日満独の政治、経済的提携強化の気運醸成に尽くした。」

また修好視察団の一行はドイツ、ポーランドに続き、地理的にはドイツから隔離された東ドイツのケーニッヒスベルク(現ロシアのカリーニングラード)を訪れた。武藤は書く。

「(案内者は)ここには農産物の見本市があり、満州国承認前に、満州国旗を掲げ、満州大豆その他の産物を見本市に出品したと語った。」
この案内者とは、名前は記されていないが、杉本ではないかと推測される。

杉本は書く。
「1936年以後、1941年に至る6ヶ年に渡って、毎年8月に挙行される“ケーニッヒスベルク”市国際見本市に対する満州国参加の業務一切を行う。
最初数年間は満州国の輸出農産物の紹介、輸出市場の獲得に重点をおきたるも、第二次世界大戦勃発後は、満州国よりの商品見本輸送不可能となりたるを以て、その重点は壁画、宣伝パンフレット等による一般国勢の紹介宣伝に置くに至りたり。」


1936年 ケーニッヒスベルク(東プロシャ)市における満州国見本市において開催記念撮影。準備委員長杉本勇蔵(左から二人目)
その隣は三井物産ハンブルク支店吉田支店長  中央右向きが満州国公使館 江原参事官。
壁面には「満州国 豊穣の国」と書かれている。


今回見つけた文書、回想録を見る事で、杉本の書き残した仕事に関する記述、写真が浮かび上がってきた。


(2014年9月6日)

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