日瑞関係のページ | 論文 |
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<序> 東京の六本木の外れにある外務省外交史料館には、一九三九年に外務省が行った、海外で組織されている「日本人会」に関する調査史料が、埃だらけで残っている。 本編では日本人会とその会員を主眼にして、欧州の戦乱を再現するものである。その際幾人か当時ベルリンに滞在された方の日記を引用するが、今日分かりにくい部分は筆者の判断で補ってある。 <日本人社会> 冒頭の報告ではドイツ日本人会の会員は百人足らずであったが、調査の一年前の一九三八年には、全部で四百七十一名の日本人がドイツ全土に住んでいたことになっている。よって日本人全員が日本人会に加入していたわけではなさそうである。いずれにせよ、駐在者の数は今日とは比べものにならないほど少ない。また報告では「ドイツ日本人会」となってはいるがハンブルクでは別に組織されているので、実質はベルリン日本人会であった。 時代はヒトラー政権下である。日独関係の強化のために派遣された外交官が最も多かった。また日独同盟促進のための陸海軍軍人、彼らの技術導入を援助する商社員、さらには向学心に燃えた留学生などがドイツの首都に集まった。おそらくパリ、ロンドンをしのいで欧州で一番邦人の多い都市であった。 日本らしい暮らしもかなりのレベルで可能であった。日本の新聞はシベリア鉄道経由で三週間遅れて届き、料金の高さを別にすれば日本との国際電話も開設されていた。子弟のための日本人学校もあった。そして日本食レストラン、土産物がいくつか存在した。 ベルリンに駐在した同盟通信の特派員江尻進は一九三九年の着任当時についてこう書く。 「当時の在留邦人は、地方都市などでの研究者や、留学者を合せると五百五十人ぐらい、ベルリンだけで常時四百人以上を数えた。そこで到着当時先任の先輩から “街頭で日本人に会ったら、必ず帽子を取ってこんにちはの挨拶ぐらいは交換しなければいけない”と教えられた」 紳士は外出の際は必ずソフト帽を被らねばならぬ時代である。そして邦人社会について 「日本人は、どこに住んでもどうも集団化する傾向がある。ベルリンでは、市内の東南地区に当たる”リュツォ広場”とか”ノレンドルフ広場”を結ぶ地域辺りに集まっていた。日本人客の出入りが多いので、その辺りのビールスタンドやレストランでは、片言の日本語が聞かれた。 住宅でも部屋貸しでも、日本人は清潔好きで、支払いが正確だというので、評判がよい。競争があれば、優先的に日本人に借りてもらう。帰国の際には、他の日本人を紹介してもらう、という傾向だった。従って自然に、集中化の傾向が生まれる。この地区からあまり遠くないところに、日本人会のクラブと、付属の食堂があった。滞独中の学者などによる、専門的な講演なども度々行われていた。ここに顔を出せば、誰か知人に出会い、それぞれ専門分野のドイツ情勢を聞くことができた。」 片言の日本が聞くことが出来たと江尻は書くが、こんな例がある。同地区スペイレア通りにあったハウス.エリクセン(Haus Erichsen)という名のホテルは、建物をデザインした絵葉書を用意し、その裏には 「日本の方といとも縁故の深い御宿。暫くの御滞在にも永き御下宿にも(後略)」と日本語での挨拶文を印刷していた。ホテルにとっても日本人が上客であった証であろう。 <ベルリン日本人会> 日本人の集まって住む“リュツォ広場”とか”ノレンドルフ広場“は、ベルリンの中心からやや西寄りに位置する。日本人会の事務所のあるカイザー(皇帝)通りも当然この近くである。今日ブンデス(連邦)通りと名前を変えているが、ツオー駅を基点に南北に走っている大通りである。そして二百番地はちょうど中ほど、プラーグ広場に近かった。借りた建物の入り口には「日本人会」という看板が立てられ、中には日本食を食べさせる食堂、注文をした料理が出てくるのを待つ控え室、会議場があり、さらに娯楽施設としてビリヤード台なども設置されていたという。 手元にある一九四二年四月現在の「独逸国日本人名録」によれば日本人会の会長は横浜正金銀行のベルリン支店長である久米邦武が務めている。会長職はさらに三井、三菱といった商社を加えた大手企業の支店長の中から輪番で選ばれた。日本社会の序列がそのまま持ち込まれた。 事務所には瀧田次郎が日本人会主事としており、年取ったドイツ人女性事務員が勤務していて、駐在員から親しみを込めてオーマ(おばあちゃんの意味ー筆者)と呼ばれていた。事務所の執務時間は十一時から十八時であるが、「開館は年中終日」と常時邦人に向けて解放されていた。 <日本食堂> 海外で暮らす日本人にとって、日本食はなくてはならないものである。ベルリンには先に述べた日本人会の食堂部を含め、あわせて三軒日本食を食べさせる店があった。他には戦時中はパリに「ぼたん屋」、そしてハンブルクに「河内屋」があるくらいであった。少しそれるがぼたん屋は日本の旅館の考えを元に運営され、畳の部屋に宿泊することも出来たと言う。またそれより以前にはスイスのジュネーブにもあったが、日本が国際連盟から脱退し邦人が減るやいなや、経営難から廃業となったらしい。 「海外には日本食堂は駐在員二百人あたりに一軒ある」とある海外生活の永い人が話すのを聞いたことがあるが、それは当時にもあてはまりそうである。 三軒あったベルリンの日本食料理店の代表は「あけぼ乃」であった。当時ベルリンに暮らした人によって書かれたさまざまな回想録に、必ずと言っていいほど登場する場所である。 その中では「曙」「あけぼの」など、さまざまな書かかれかたをしているが、先の日本人名簿に掲載された広告から見ると「あけぼ乃」と言う書き方が正しいようだ。よって本文ではこの表現のを用いる。先のプラーグ広場近くのホーエンシュタウフェン通り四十四番にあった。 営業時間は午後一時から三時、六時から九時と昼夜ともやや遅めの始まりである。1942年時点の主人は平田文でシュペアー婦人が電話の予約などに応対した。その前の主人は杉本久市であるか、その料理の評判は中々高い。またオーナーの移り変わりも激しかったのかもしれない。 日本人会の「食堂部」は主任武久久平、料理人山崎吉五郎、松原謙次によって運営されていた。最後は「東洋館」であるが、こちらはあまり回想録などにも登場しない。ロンドンで同名の旅館兼日本料理店で成功した佐竹為吉が、ベルリンにも出店したがうまく行かず、手放したものだった。代表的ベルリンのガイドブック”Baedeker"の一九三六年度版には、外国料理店の欄に二件の中華料理屋と並んで、日本食としてはこの東洋館のみが紹介されている。営業は十二時より三時と昼のみで、新しい店主は鈴木重吉であった。 <回想の日本食堂> 食への執念は在留邦人も例外でないというか、多くの回想録に日本食が登場する。以下はその中からベルリン出張中で帰国間近の頼惇吾中佐の日記からである。
八月八日 夕方から日本人会で、あとに残る艦政系の連中が、私らのために送別会を開いてくれた。折角おいしい肉のすき焼きも、昼の会食が遅かったためあんまり頂けなかった。」 しかし邦人だけを相手にするこれらの日本料理店は、どれも欧州の建物と調和しないような古びた日本のポスターが貼られただけの、にわか作りの内装であったようである。料理の質も不十分で特に戦争が始まってからは「とりあえず日本食もどきを出す程度のものであった」という声が大半である。 今日のように冷凍技術も発達しない時代では致し方ないのかもしれない。一方藤山が「まあ食べられる」書く中華料理店の筆頭は「泰東飯店」であった。三件ほどの中華料理店の中で唯一、経営者が反日的でなかった。そして「ベルリンではここが一番美味しい」と誰もが口をそろえた。 <ベルリンの日本料理> 回想に登場する日本食レストランはどれも断片的である。そうした中で成瀬政男は「ドイツ工業界の印象」という一九四一年十二月十日に発売された自著の中に、このタイトルにもした「ベルリンの日本料理」という見出しで一章割いている。成瀬がベルリンを訪れたのは一九三七年のことであるが、貴重な情報なので少し長い引用をする。 「たいていの日本人が引き上げてしまったと報ぜられている今日は、どうなっているのか明ではないが、つい最近迄、伯林には日本食堂が四軒あった。(中略)何れも日本人が集まり住む、伯林でも高級の住宅地と云われているウイルマース.ドルフ区に在り、主として伯林在住の日本人をその顧客として経営しているものである。 海に遠い伯林のことであるから、新鮮な魚は得難い。また緯度の高いこの国のことであるから、野菜や果物にも恵まれていない。さらにドイツの戦時への対策より、時々ある種類の食料が市場より得られなくなる。こんな次第で材料に兎角の欠点があるので、此等の食堂の日本食は余り上等なものとは云われてない。ロンドン、パリー、ニューヨーク等の日本食と比較しても、伯林のものは相当に懸隔がある。 しかしそれでも、伊太利より輸入する米で飯は立派なものが焚ける。麺包粉を糖の代わりに使った糖味噌漬の”香のもの”もある。日本より粉になって来る材料で作った味噌汁もあれば、直輸入をする海苔も、日本酒もあり、満州より来る大豆で作ると云う豆腐もある。その外に刺身、吸物、寄せ鍋、牛なべ、寿司、こわめしの類に到る迄、まず一通りの日本料理は可能である。 従って日本の味を味わいたい同胞、日本語で注文し、日本語を話しながら食事をしたい人々、或はまた長い旅行のあいま、兎も角も一度伯林に帰ってなか休みをし、この間に日本のかおりに浸ってから、次の活動を起こしたい人々によって、これ等四軒の日本食堂は、いつも相当の客で賑わっている。」 <日本食> 先にも紹介した頼中佐の日記の以下の記述から、あけぼ乃の刺身の質をうかがい知ることが出来る。ただしこちらは成瀬の書いた時期から四年ほど後であるから、ドイツの食糧事情の悪化を考慮する必要があるかもしれない。 「(同道の上司は)すき焼きとビールは大層お気に召したようであったが、他に何もないので入船少将が気にして刺身を注文された。(中略)何の魚か判らないが、塩っぽくてプンと来るので,私も一切れで閉口」 また日本食材の入手状況に関して、海軍技師の田丸直吉が書き残している。時期はかなり進んで一九四四年と物資も欠乏勝ちになる頃である。 醤油といえば、海軍事務所のコック長をもって任じていた酒井(直衛)氏は、戦前ベルリンの醤油工場に勤めていたというその方面のベテランではあったが、戦時下のベルリンでは材料難でどうにもならなかった。私どもにはコーヒー豆よりも大豆の方がよほど有り難いと思うが、これだけは仕方がなかった。」 日本人好みの米は、戦前はカリフォルニアからの輸入もあったが、依然北イタリアで日本人向けに栽培され、ベルリンに運ばれてきた。そして邦人自炊する際の味付けには、醤油がなくなるとマギーブイヨンを代用した。なお田丸はコーヒー豆より大豆と書くが、ドイツ人はコーヒーに目がなく、闇市では自国通貨マルク以上に通用した。 さらに戦前は日本から食料品を送ってもらうことが出来た。留学生高島泰二は一九四○年二月三日の日記に書く 「日本からの荷物を受取りにポツダム駅の税関に出掛ける。札を握って待つことしばし、七十八番と私を呼ぶ税官吏のひどいベルリンなまり、渡された木箱を開けて検査を受ける。古新聞に包まれた日本の食品は母からの心づくしの品々だが、ドイツ人の目には怪しいものばかり。煎餅や海苔、羊羹は何とか通ったが“からすみ”だけはいくら説明しても解ってもらえなかった」 こうして届いた日本食は貴重品であった。高島は同年十二月十九日にこう書いている。 「宴会の後、三菱商事の山本(道太郎)、武内(弥四郎)両氏を誘いクルーネヴァルトの田中路子さんのお宅を訪ねた。私が持参した“からすみ”を肴にして日本酒を味わいながら家郷を想う気持ちはみんな同じであった。お酒は大島大使からの贈り物で、路子さんが大切にしておられたものと伺った。」珍味からすみは一年以上保存がきいた。 <日本大使館と武官室> ベルリンの日本人の私的な集会場が日本人会とするなら、公の集会場は大使館であった。開戦前の駐独日本大使館は邦人の多く住むノレンドルフ広場から、少し奥まっただけのアホルン街にあった。建物の前の通りは狭く、車の出し入れも不自由な所であった。そして大使公邸も離れていた。 一方海軍と陸軍は、それぞれ大使館とは別に駐在武官事務所をベルリンに開設していた。同盟通信の特派員としてワルシャワに勤務していた森元治郎は、一九三八年九月下旬ベルリンに出かけた。時の大使東郷茂徳(とうごうしげのり)はすでに帰国を決めていたが、その時の様子をこう書いている。 「まず東郷大使をティアガルテンの公邸に訪ね、夕食の御馳走になったが、どこか冴えない面持ちである。アホルン街にある大使館事務所にいってみたが、ここも閑散。若いところでは法眼晋作官補(のち次官)ほか成田勝四郎書記官、高橋通敏在外研究員(いずれものち大使)がいた。 これに反して陸軍武官室(武官大島浩中将)は人の出入りが多くて賑やかだし、カイザーアレーの海軍武官室(武官小島秀夫中佐)も活気がある」 特に日章旗のはためく陸軍武官事務所は自動車の出入りが激しく、だれの目にも活気があるように映った。そして陸軍武官大島が大使に昇格したのに伴い、一九三八年十二月新任武官として河邊虎四郎少将が着任する。かれはその武官室についてこう書いている。 「この家は独立家屋で、数年前までは某ユダヤ人画家が盛っていたものと言われるだけに、広い後庭には、リンデン(菩提樹―筆者)の薫りも豊かな立派なものであった。一階をオフィスに、二回を武官私邸に、三階の主体を女中二人の部屋に使い、近くには自動車運転手の家族が住んでいた。 補佐官のほかに、陸軍技術および航空関係の駐在官として五、六名の将校がおり、留学の駐在員および特別任務を持った将校合せて三、四名、これら全員十五、六名が毎日この家に出入りしていた。私の仲のよい外国武官の中には”ノレンドルフ司令部”などと名付けて私をからかっていた者もあった。 オフィスに二名の書記嬢がいたが、二名ともに既に勤続十年をこえ、ドイツ人一流の責任感で、忠実に長年勤務に甘んじていた。既に老境に近かったが自動車運転手はフィンガーという古い兵隊上がりの男であった。」 海軍武官室は元々はバイエルン広場に面していたが一九三八年、日本人会と同じカイザー通りの一八二〜一八五番地に移る。番地を三つにわたって占めるこちらも、日本海軍の名に恥じない立派な建物であった。入り口を中に入るとベルリン留学中に画家東山魁易が描いた、建物と周りの景色を描いた絵が掛けてあった。 と海軍の事務所もユダヤ人から買い叩いたのであった。その後手狭になったのか建物は武官の公邸としてのみの使用となり、武官室は新しい大使館の隣のグラーフ.シュペー通りに移る。 やや時期は進むが一九四四年の春、日本からの潜水艦の到着によって、海軍事務所は五名スタッフが増える。その結果ドイツ人事務員を含めると約四十名の大所帯になった。このうち技術関係のメンバーは総勢十四名だった。かれらはドイツの技術の吸収が主な任務であった。 <欧州戦争勃発> 「大使、責任を取れ!」アホルン通りの日本大使館で、陸軍武官河邊少将の怒声が響いた。一九三九年八月二十二日、深夜のことである。ドイツのリッベントロップ外相から、 「自分はソ連との条約締結のために、間もなくモスクワに向かう」と知らされた大島大使が、意気消沈して大使館に戻ってきた。それまでの日独関係から今回の独ソ接近の知らせは、ベルリン駐在者にとっては、同盟国ドイツの裏切り行為と映った。 硬骨漢で知られる河邊は、大島のドイツ一辺倒な考えには、かねてから不満を募らせていた。軍籍の離脱を考えたこともあり、大使との不和は広く知れ渡っていた。それが今回のドイツの不誠実な行動をきっかけに、大使に向けて怒りが一気に爆発した。 翌八月二十三日、そんな日本側の苦悩を無視するかのように、リッベントロップ外相はモスクワに飛び、ソ連と不可侵条約を調印する。ナチスと共産主義の不気味な提携である。 「これで戦争だ」と誰もが覚悟をした。日本では「欧州情勢は複雑怪奇なり」とのせりふを残して、平沼騎一郎内閣が総辞職する。 その頃ベルリン北西の港町ハンブルクには、日本郵船の客船靖国丸が待機していた。郵船ベルリン支店長有吉義彌は、ロンドン支店から再三の回船催促にもかかわらず、大使の命令で同船をハンブルク港に引き止めた。 有吉が「まだ戦争は始まっていませんが」と抗議すると大島は「始まるに決まっとる」と自信満々であった。そしていよいよ独ソ不可侵条約が締結されると大島はただちに ベルゲン港の靖国丸の前での記念写真 八月二十五日夕方、日本人会は一般の在留邦人に対する退去勧告を出す。民間人の間でもいよいよ動揺が起こり始めた。三井、三菱その他の商社員の家族のうち、急遽出発準備のできる人々と、主としてベルリン在住の留学生が帰国の決心をした。 日本人会では万一に備えて防毒マスクの扱い方の講習会を開き、木原友二少佐に講師を依頼した。毒ガスが使用された前大戦に対し、今次はどういう戦いになるかはまだ誰も分からなかった。三菱商事の渡邊壽郎支店長や三井物産の綾井豊久支店長始め、ベルリン在住の日本人の多くが出席し、真剣な表情で聞いていた。 九月一日、独ソ不可侵条約でソ連の後ろ盾を獲たドイツが、予想通りポーランドを急襲した。第二次世界大戦の勃発である。戦争はそれから六年以上にわたって、世界中を巻き込んで続けられることになるのであった。戦争の勃発で食糧事情が悪くなる。留学生高島泰二は日記に記す。 「九月二十日今日は“肉なしデー”だから、一般のレストランでは肉料理の注文が出来ない。その為か、支那料理店“泰東”などでは日頃見掛けないドイツ人客で一杯になっている」 戦争が始まってドイツの食堂も営業が難しくなる中、三軒の日本食堂は営業を続けることが出来た。そして終戦間際まで続く。日本人外交官は普通のドイツ人の数倍もの肉の配給を受けたからだ。その配給切符で得た肉を使ったすき焼きをつつく若き外交官補の姿を、ドイツ人老婆が恨めしげに窓越しに見ていたという。 たしかに砲声が聞こえてくるわけでもない。空襲警報もない。ベルリンでは戦争は遠いものとして捉えられていた。三井物産の三上良臣は貴金属店のショーウィンドウから一斉に宝石、カメラ類が消えたのが、戦争を幾度か経験した民族の知恵であろうと想像した。そしてこの頃日本人会でもあけぼ乃でも、戦争の話題はほとんど出なかったという。 |
<日本人会での挨拶> 大島大使は開戦から間もなくすると、独ソ両国の接近を見破れなかったかどで、日本への召還命令を受け取った。 十月二十三日、送別会が日本人会の建物で開催された。さほど広くない会場は百人も入ると一杯になる。大島は席上 十月二十九日、大島大使は愛すべきベルリンを去る。胸の内にはドイツの必勝を確信していた。イタリアに出てナポリからの乗船であった。 後任の大使は来栖三郎(くるすさぶろう)でベルギーからの転任であった。来栖の夫人はアメリカ人である。大島の去った十一月、ベルリンのフリードリッヒ駅に降り立って、旧知の朝日新聞のベルリン特派員である浜田常良二を見つけると、金縁の眼鏡をはずしながら 「どうや、ナチスが好きになったかね?」と人を食った質問をした。来栖は明らかにナチスに反感を抱いていた。当然ナチスもかれを受け入れなかった。 <ヒトラー像> 時の人であるヒトラーとも幾人かの邦人が会見している。同盟国というドイツ側の配慮も働いた。 欧州戦争が始まった時、ちょうど日本からは、ニュールンベルクで開催される予定であったナチスの党大会に出席するために、寺内寿一陸軍大将ら一行が鹿島丸で欧州入りした。 開戦の知らせで、同乗の海軍代表はすぐさま帰国の途に着いたが、寺内ら陸軍関係者はドイツに入った。同月二十日、占領されたばかりのポーランドのダンチヒに飛行機で向かい、そこから更に保養地ツオポッドのホテルに着いた。寺内はそこでヒトラーと会見する。寺内が 「ここで総統にお会いすることが出来て喜ばしい」というとヒトラーは 大島大使は帰国の直前の十月、南ドイツのベルヒテスガーデンのヒトラーの山荘で帰任の挨拶をした。大島がポーランド戦の祝辞を述べると 「貴国には“勝ってかぶとの緒を締めよ”という諺のあることを承知したが、これは誠に意味の深い言葉である。われわれは今こそ兜の緒を締めるべき時である」といかにも慎ましく述べた。 こうした会見談が日本の雑誌に大きく取り上げられたことはいうまでもない。そして実際にヒトラーは、この日本の諺を好んで後にも用いたようだ。 もう一人邦人がヒトラーと会っている。同盟通信社のベルリン特派員江尻進である。ドイツの戦勝凱旋行進がワルシャワで行われることになり、報道関係者も招待された。ドイツの仕立てた輸送機に乗り込んだのは、AP、UP、INS通信社のまだ中立を保つアメリカ人支局長らに加えて、日本人は江尻だけであった。 彼らがワルシャワの飛行場に到着すると、その横にもう一機着陸してきた。降り立ったのは真っ赤な外套の襟をつけた一団であった。高級将校であることは間違いない。すると突然江尻を含む記者は、一列に並ぶように言われた。自分らに近づく一行を見たらその先頭は、意外と地味な印象のヒトラーであった。 ヒトラーは記者たちの手を順に取って談笑を始めた。いよいよ江尻の番であった。中肉中背のヒトラーとは、眼と眼が正面にぴったり合った。緑色に輝く目で、じっと不気味に見据えながら、右手を差し出した。その手は定めし固く引き締まっているであろうと想像した。しかしそれは滑らかで、柔らかくまるで若い女性の手を握った感触であった。ヒトラーが女性的であったとは、よく言われる話である。 <宴会>
翌一九四○年二月二十一日は日本の建国記念日で、紀元二千六百年を祝う祝賀会が大使館で行われた。主立った邦人はみな招待されている。河邊武官の後任で昨日ベルリンに着任したばかり岡本清福陸軍少将の顔もあった。 会は来栖大使の挨拶と万歳三唱に続いて、日本料理での宴会が始まった。江尻が日本から送ってもらった軍歌集、流行歌集の二冊を持参し参加者に提供したら、たちまち演芸会の賑わいになった。今ならさしずめカラオケ大会であろう。 江尻はこの時の様子を、日本にとんぼ返りした妻に書いて送った。 「来栖大使は乃木大将の“金洲城外”の詩吟を朗唱し、意外な姿に一同が喝采した。私も大使に勧められて、藤原義江の得意な“船出の歌”を歌ったら、大使から”歌手になった方がいいぞ”との掛け声が飛びました。 その後、わが家に日銀の立正嘉さんや記者団の一同が集まり、急ごしらえのうどんのトマト煮を作って、がつがつ食べました。談論風発で、散会は午前一時となりました。 この時わが家に日本食料の備蓄があることが噂になり、陸軍武官室補佐官の遠藤悦少佐から、早速醤油とお茶を少し分けてほしい、との要請が舞い込みました。」とベルリンでの日本的生活が手紙の全面に渡って綴られていた。 同じ頃、ベルリンに住む日本の学生や研究者が開戦直後にドイツの優勢の中さらに増えたため、岡正雄教授を会長にして日本学徒会が発足した。そして定期的に専門分野を報告することを決めた。 一九四○年二月二十八日には、第一回目として経済を専攻する留学生原良夫が「ドイツの食糧問題」についての話を、他の留学生を前にして行う。あけぼ乃の一室を借りての開催であった。たまたま居合わせた陸軍の岡主計少佐が専門家として補足した。三月は安達剛正の「飛行機の話」四月は桑木務が「形而上学について」の報告をし、何ヶ月か会は続いた。 <ヒトラー絶頂の頃> そして五月十日、ドイツはオランダベルギーに一方的に侵攻する。西部戦線での本格的戦いが始まった。五月十三日、高崎少佐の招待であけぼ乃に陸軍から穐田少佐、大使館から古内広雄三等書記官、それに新聞特派員達が集まる。話題は今後の西部戦線の動向に関するものばかりだが、誰もが「予測が付かない」と述べるだけであった。 岡本新陸軍武官は滞在中のベルギーで、ドイツの奇襲攻撃にあい、フランスを経由してベルリンに戻る。その直後、おそらく日本人会で学徒会の留学生達を前にして 「自分らは軍人で破壊が専門である。後の建設は君たちの仕事だから宜しく頼む」と乱暴な発言をする。 その場にいて、それを聞いた留学生桑木努は そして六月十九日、陸軍事務所には新しく発売されたばかりのテレビ受像機が入った。フェルンゼー.ゲレート(遠視機)という新造語がドイツ語に出来たばかりであった。放送は毎日午後七時から九時までの二時間でニュースと映画のみ、画面は縞目が出て、まだまだ見にくいものであったという。また受信地域はベルリン市内だけで、一般への普及率も低かった。それでも日本からはこの研究のために駐在する人もいた。 すでに十六ミリの映写機用のカラーフィルムが市場にも出回っていた。駐在員も少し奮発すれば、カラーフィルムにベルリンの姿を写すことが出来た。さらにはコンタクトレンズもすでに市販されていた。ドイツはこの時ハイテク先進国であった。 <大使館移転> ヒトラーは首都ベルリンの大改造を計画し、その仕事をお気に入りの建築家シュペアーに委ねた。計画の中には外交諸機関をティアガルテンに移転するという項目もあった。 着工は一九三八年十一月五日であった。シュペアー建設相に所属するベルリンの帝国建設管理局は、日本大使館の建設用地二十五番の古いアパートをまず撤去した。新しい建物空間は二万七千立方メートルで、ギリシャ建築様式をヒトラーの趣味でドイツ風にした「第三帝国様式」と呼ばれるものであった。 しかし間もなく戦争が始まると、西部要塞などの軍事施設の建設が行われるようになったため作業者はそちらに回され、工事は大幅に遅れた。その結果大使館が完成し、日独関係者で公式に竣工式が行われるのは着工から四年後の一九四三年一月二十五日となる。 式当日には軍需相となっていたシュペアーも出席し、外務次官補エルンスト.ヴェアマンから大島大使に新大使館の黄金の鍵が手渡されることなるが、すでに連合国がベルリンへの空襲を強化し始めた時期に入っていた。 「日本大使館事務所は今度来てみると、ブランデンブルク凱旋門からほど遠くないティアガルテン通りの立派な建物に移っていた。大使公邸は同じティアガルテンの古びた独立家屋であったが、これも移転して、事務所と一緒になっていた。 大使館の向こう側は、鬱蒼とした林に囲まれたティアガルテン公園(もとプロイセン選帝候のお狩り場)で、大使館と道路の間には門も塀もなく、低い石の仕切りがあるだけなので、公園がまるで大使館の前庭のようにみえた。右隣建物はイタリア大使館で、左隣には、ドイツ最大の財閥であるクルップ.フォン.ボーレンの邸宅があった。 中庭の真下には堅牢な防空壕が作られていたが、これも総統官邸の地下防空施設を小さくしたようなもので、段々ベッドのある、いくつかの部屋のほかに、(大島)大使用として家具つきの二部屋があった。防空壕のコンクリートの厚さは一メートルもあって、当時最大とされた一トン爆弾の直撃にも堪えることができるように設計されていた。防空壕は大使館の地下室と連結されていた。」この地下壕は今日も同じ場所に残っている。 そして大使館の地下室にはバーが設けられ、大使がしばしば客を連れて談笑した。カウンターのそばにはピアノがあり、ゲッペルス宣伝相が訪問した際にそれを華麗に弾いた、という逸話もあるが真偽の程は定かではない。 <ヒトラー日本大使館訪問> 一九四○年九月二十七日、ドイツの相次ぐ勝利に幻惑されて、日本はドイツ.イタリアと三国同盟を締結し、明確に米英対決姿勢を強めた。来栖大使は前述のごとく夫人がアメリカ人で、ヒトラーの信頼は全くなかった。交渉は大使を抜いて進められ、かれは東京が決めた同盟を、ベルリンにおいてただ署名するだけであった。 十一月十五日、大使館での紀元二千六百年の記念式典に、ヒトラー総統が出席する。ヒトラーが、一国の大使館を訪問するのは異例のことである。新しい大使館の最高のこけら落としであった。来栖大使が先の三国同盟調印式の席上、直接招待して実現した。 大使館には出席者一同が会せるような大きなホールがなかったため、いくつかの部屋に分かれての食事となった。ヒトラーのために、この日は菜食主義者用のものが手配された。ところが大事な食事中、酒をのみ過ぎてヒトラーの前で戻してしまった日本人武官がいたという。その武官はいい気分になりドイツ語で「ヤー、ヤー」と言っているうちに反吐を吐き、ヒトラーが鼻をつまむ始末であった。これは読売新聞社の特派員であった嬉野満洲夫の回想からである。 ドイツの武官といえば陸軍は先述の岡本で、海軍は横井忠雄である。しかしこの二人は酒癖が悪いという記録はない。よってこの話が事実であったとしたら、それは補佐官レベルの誰かであったと思われる。 ただし岡本の後任となる坂西一良中将の酒癖の悪さは有名であった。ドイツ人も間もなくしてかれの本性を知ると忌み嫌い、決して酒席に同席しようとはしなかったという。よって読売の嬉野の記憶違いで、反吐を吐いたのは坂西で後の機会であったのではないかと筆者は考える。 この頃スイス公使として日本からシベリア経由で赴任してきた三谷隆信はベルリンに立寄った。高級なホテル.エデンに投宿する。夜半にはイギリス機による空襲があった。ドイツ空軍機のロンドン空襲に対する報復であったが、被害はほとんどでなかった。 街を歩くと灯火管制下にもかかわらず、市の随一の繁華街クールフュルステンダム通りは人でごった返していた。三谷は感じた。 フランスを占領し絶頂期のドイツであったが、ドイツ国民は本能的に早い平和を願っていた。年配の第一次大戦の経験者の間には、自軍の実力に信頼を置いていないものが依然多かった。 |
<山下訪独> 一九四○年九月二十七日の日独伊三国同盟と、それに続く軍事同盟の締結を受けて、日本から陸海軍の軍人が多数ドイツに派遣された。陸軍は山下奉文中将を代表にして二十人余りが年末にシベリア鉄道でベルリンに入った。年が明けると海軍も浅香丸でやはり同数の軍人を送り込む。ベルリンの町にカーキ色の陸軍、濃紺の海軍それぞれの制服の日本軍人の姿が目立つようになった。 山下中将は、後にシンガポール攻略で名声を博し「マレーの虎」の異名を取る猛将である。ドイツ側も山下を日本の将来の首相候補と予想し、厚遇をはかった。一九四一年一月三十一日にはヒトラーと親衛隊の前を謁見し、そのまま会談をもった。 帰国後間もなくして山下は雑誌”改造”にその時の模様を書いている。 当時の雑誌に出た内容をそのまま信じるのは問題もあるが、山下は帰国してもヒトラーとの会見の興奮から覚めやらぬようである。 在独期間中は毎日曜日に小松陸軍武官補佐官(当時)の家を訪問し、日本食をねだった。またある夜、舞踏の留学生邦正美はあけぼ乃で日本食をとっていた。他の日本人客はいつものように食事が済むとさっさと引き上げてしまい、ゆっくり居残ったのは体格がよく、大きい目でにらむ中老の紳士と、邦だけであった。 「将棋をしませんか、ともちかけられた僕は将棋が出来ないので、五目並べのお相手をした。五目並べには自信があったが毎回連敗であった。 この紳士は時間が余って毎日困っている様子であった。ある日突然“僕は近く日本に帰ります”と言う。独ソ戦の直前である。最後のシベリア鉄道に乗れたらしい。この紳士が山下奉文という軍人であったことは知っていたけれども、後に太平洋戦争で勇名を轟かせることになる将軍だとは知る由もなかった」 ドイツ軍関係者との打ち合わせでは、山下はドイツ語を理解するということで通訳も緊張したが、ドイツ将校の講演中に大きないびきをかいて寝てしまうような一面もあった。 <大島再任> 「来栖大使は日独伊同盟の締結に尽力され、、、」と去る大使を紹介した。それを受けた大使は 「只今日本人会長は日独伊同盟の締結に尽力と申されたが、実はこの同盟は何もかも東京で話を決めたものであって、私はそれにかかわらずに、ただ調印しただけです。間違えないように」と精一杯の批判的意見を述べた。そして 「自分は在任中、これといったことは何一つ成し遂げなかったかもしれない。しかし、ただ一つ自信をもって断言し得る事がある。それは日本がドイツによって属国視せられ、日本の権威が傷つけられる様な事は、断じてなかったことである」 と述べてベルリンを離れた。こうして邦人社会の最後の自由な光が消えた。 大島大使一行が特別な計らいを受けながらベルリンのアンハルター駅に着いたのは二月十七日であった。東京を発ってから十五日目であった。一行はツォー駅から新しい大使館に直行した。大使館にこの日用意されたのは寿司であった。北海産の鮭でも材料にしたのであろうか?もしくは今日のようにパリから書記生あたりが一昼夜かけて運んだのかもしれない。大使はその寿司をつまみながら、参加者に日本の近況を詳しく語ったのであった。 大島は二月二十八日、南ドイツのベルヒテスガーデンにヒトラーの山荘を訪問し、信任状を提出する。大島が山荘に車で乗りつける所をドイツの記録映画が撮影している。大使は陸軍の軍服姿で軍刀を提げていた。リッベントロップ外相の出迎えを受けた後は、通訳なしでヒトラーと話を交わした。 <松岡訪欧> 三月に入ると今度は松岡洋右外相が、ベルリンを訪問する。日本とナチスの首脳による直接の会談はこれが初めてのことであった。したがってドイツ側の歓迎も、空前のものであった。 首相官邸での会談を終え夕刻、両者がベランダに出ると、三月末にもかかわらず、外は小雪が舞っていた。寒空の下、二人を待ちわびていた幾万の市民からは一斉に「ハイルヒトラー、ハイルマツオカ」と歓声が上がった。 この日は四時半を回ってからヒトラーはもう一度バルコニーに顔を出す。今回は一人である。ヒトラーをひと目見ようとするベルリン市民の呼ぶ声に、こたえる形であった。そしてそこには日本人留学生篠原正瑛らもドイツ人に交じっていた。 「あたりは少し薄暗くなっていたが、その中に、ヒトラーの白皙の顔がくっきりと浮き上がって見えた。ヒトラーは、右手をひじのところで曲げるおなじみのポーズで三、四回、少年と少女たちの熱狂にこたえた。 私も人垣のあいだから伸び上がるようにして手をふったが、もちろんヒトラーのところからは見えるはずがない。しかし、そのときのヒトラーの白い顔は、四十三年たった今でも、私の脳裏にはっきりと焼きついたまま残っている。」 松岡外相は、ベルリンの総統官邸におけるヒトラーとの二度目の会談を終えて日本へ帰る前日の夕方、日本人会を訪問する。入り口には定刻のかなり前から多くの日本人が集って、外相の到着を待ちうけた。 やがて遠くからサイレンの音が聞こえてくると、五、六台の親衛隊のオートバイに護衛された大型のリムジンが、クアフュルステンダム通りをまっしぐらに走って来て、日本人会の建物の前で止った。 この時の松岡外相の行動は非公式であった。通行中のドイツ人にも、はじめはそれと気づくものはいなかった。黒いオートバイに護衛された大型の乗用車が止ったので、数人が怪訝な面持ちで立ち止まっただけであった。しかし乗用車のドアが開いて、すでにニュース写真でおなじみの松岡外相が姿を現すと、すぐ分かったと見えて、たちまち通行人が集ってきた。 小柄な松岡外相は、いがぐり頭で少し顎を突き出しながら、心持ち猫背のポーズで日本人会の入り口の階段を上がった。そして、集っていた百人ほどの日本人を前にして、総統官邸におけるヒトラーとの会見談を披露した。その内容はかなり型破りだったらしい。ある回想によれば以下のようである。 「ヒトラーさんに会った時、僕はこう言ってやりましたよ。”ヒトラーさん、世界中でたくさんの人があなたのことを気違いだと言っている。僕もそう思ったことがある。しかし、実際にあなたに会ってみて、そうではないことがよく分かった。 前人のだれもが手をつけようとしなかった、でっかいことをやろうとする人間は、世界中から気違いか馬鹿者扱いにされる。ヒトラーさん、あなたもそうだ。しかし、そんなことを気にしていてはだめだ。あなたが思っていることを、あなたが思っているとおりに、どんどんおやりなさい”と」 戦後の回想独特の誇張がこの文章にはあると思われる。いずれにせよ松岡はこのベルリンの熱狂的歓迎で、すっかりドイツ贔屓になっていて、少し口が緩んだことは間違いない。 <ベルリンの光> 松岡がベルリンを去って間もない四月十一日、留学生の桑木努はあけぼ乃に向かった。 「私の卒業した中学修猷館出身者で会合をやろうといっていたが、戦時下のヨーロッパ事情視察のためベルリン滞在中の笠信太郎氏(のちの朝日新聞主幹)を囲んで、医博の八田秋、古森善五郎両氏と私の四人に、父兄代表の遠城寺宗徳医博(のちの九大学長)を加えて四月十六日の晩あけぼので歓を尽くした。 校歌でない館歌、それも合唱ではなくてバラバラの斉唱でそれぞれ自己満足した後、八田さんと遠城寺さんを除いた三人で朝日新聞支局のあるホテルカイザーホーフに乗り込んで二次会をやったが、翌朝早くには仕事を始めていて、さすがと思った。」 六月二十二日、日本楽器の駐在員で飛行機の設計の専門家であった佐貫亦男は、同宿の日本人から独ソ開戦の知らせを聞いた。余りの重大さに椅子に座ったまま、しばらく身動きが出来なかった。英国も片付かない内に、この大作戦に突入していって、一体どうなるのであろうと考えると、全身が麻痺したようであった。 この日ラジオの前に立って「ソ連の中心部への反撃が始まった」と国民に訴えたのはヒトラーではなく、ゲッペルス宣伝相であった。食堂の卓から勢い込んでラジオの前に集まった同宿のドイツ人将校たちは、スピーカーから出る艶のある声を聞くと 邦人はこれでソ連の空襲がベルリンにもあるものと話し合った。また佐貫と同宿の東京工大の田辺平学は 「心配しなくてもよい。この戦いは冬までに終る。冬までに終らなければドイツの負けだから」とドイツ軍の短期勝利を予想した。 陸軍武官事務所は、ブームが到来した商社のように大陽気であった。民間人はそばへ寄れない鼻息であったという。 飯島正義陸軍中佐は「ソ連の野戦軍は支離滅裂になり、空中戦ではソ連の戦闘機さえも(ドイツのー筆者)ユンカース軽爆撃機に追いつけぬそうだ」と言ったあげく、 「そのうちドイツ軍はシベリアを手に収めて、日本と満州で国境を接するようになるよ。ノモンハンでソ連軍に悩まされた日本軍などドイツ軍に攻められたら、二週間で満州から追い出されるさ」 「なぜ日本は、ドイツを助けて参戦しないのか。早く参戦してソ連を背後から叩くべきだ」という声もかなり聞かれた。 その後ドイツ軍が進撃を続け、晩秋にはモスクワまであと数十キロの所までに迫った時 「ソ連全土を占領したドイツ軍とインド全土を占領した日本軍は、アフガニスタンに入って歴史的な握手を交わすのだそうだ。その時には、ベルリンにいる日本人留学生はドイツ軍についてアフガニスタンまで行って、通訳の役目をつとめることになるらしい」というまことしやかな情報まで流れた。 <ナイトライフ> 独身男性中心の邦人社会であったから、ベルリンにはかれらのための夜の顔もあった。あけぼ乃から二つ目の通りギーゼブレヒト通りに「カカドウ」というナイトクラブが営業していた。ここは開戦後は、ドイツ外務省によって運営される特殊な社交場であった。従ってゲッペルス宣伝相によってベルリン市内のナイトクラブの営業が禁止されても、ここだけは例外であった。 そしてことに日本人を対象とした場所であると言うことは、一部のベルリン市民の間でも知られていた。高級酒場としての表の顔とは別に、長期にベルリンに駐在する独身日本人に対して、現地妻として奉仕するドイツ女性を仲介する役割を果たしていたという。 同盟の江尻は先の松岡外相訪独時に、随員の一行をそこに案内することになった。まずは秘密の電話番号を回して「こちらは日本大使館の徳川家康だ」と名乗って受け付けを済ませた。本名を伏せたのであろう。 「そこは普通の住宅並みの飾り気のない部屋で、ワインを飲みながらの、美女たちとの静かな歓談である。響いてくる音楽は、落ち着いたクラシック。若いレディたちも、落ち着いた淑女という振る舞いである。いちゃいちゃする雰囲気ではない。それでも二週間の殺風景なシベリア鉄道の旅行で衝かれきった一行には、久し振りの息抜きになったようである。 その若い女性陣の一人に、背のスラリと高いひときわ目立ったチャーミングな美女がいた。その後分かったことだが、彼女はウィーンに定住し、時々ベルリンに来訪して外務省のためにサービスしているとのこと。さらに月に一度は外務省の命令で、軍用機でパリに飛び、外務省代表としてパリで重要任務についているアベッツ大使の慰問に出かけているとのことが分かった。(ドイツ)外務省にもなかなか行き届いた配慮があるものだなと、感心させられたものである。」 海軍遣独軍事視察団として一九四一年にベルリン入りした頼惇吾中佐は書いている。 「ベルリンももう最後だからと、松井機関中佐らと、カカドウというキャバレーに入った。ここは上品で気分が良いし、音楽も良く、ショー.ダンスも綺麗である。前からベルリンにいる人達は、ダンサーにも顔馴染があり、早速三、四人お相手に呼ばれた。中には日本語の歌を歌う人もあり、楽団はお愛嬌に”春高楼”や“軍艦マーチ”を演奏した。」 さすがにこうしたドイツ女性との一線を越えた付き合いを書き残す人はいないが、一九三八年十二月三日、天羽英二スイス公使は 「食後 Rio Rita及びKoenigin(で)会飲 三菱渡辺“ミッキー”で大持て 女共宿所を示し盛んに誘惑 四時頃帰宅」と日記に書いている。 <日本参戦> 一九四一年十二月七日は日曜日であったが、大島大使と幹部は勤務についていた。大使が公邸に戻ったとき「日本海軍、ハワイの真珠湾攻撃」の報が入った。 時差の関係で欧州はまだ十二月七日であった。日本参戦の情報はベルリンの大使館には事前に知らされていなかった。大島は、ベルリン駐在の日本人特派員を急遽集めた。そして正面の階段をロビーまで下りてきて
「諸君お待たせした。急転直下おめでたいことになった。よく思い切ったことをやってくれた。わが帝国海軍が真珠湾の攻撃をやったのさ。おめでたい」としきりに「おめでたい」を繰り返した。 数日後には祝賀会が大使館で開かれた。奇襲作戦成功が伝えられたため、海軍の関係者が一番脚光を浴びた。横井忠雄海軍武官は席上「これで日本海軍は無敵になった」と強気な発言をしたが、本人は内心日本の将来に悲観的であった。 <日本参戦後の邦人社会> 一九四二年四月の日本人会の名簿によれば、戦前に比べだいぶん減ったものの、二百九十九名の邦人がベルリンに滞在していた。実質日本との交通路が途絶え、足止め状態の滞在者は以下のようだった。
大使館には現地採用邦人を含めると四十五名が勤務した。陸軍武官事務所は四十六名で、内四名はビザを取得して帰国が決まっている。海軍武官事務所は三十一名の人員を擁した。 民間企業では三井物産が十八名、三菱商事十六名と続く。報道では朝日、毎日、同盟が日本からの特派員を配置し、読売、報知、中外商業新報(今日の日経)、国民新聞が現地採用で邦人特派員を置いていた。 地域別に見ると先に述べたようにベルリンが二百九十九名、総領事館もあったハンブルクが二十二名で、冒頭に述べた「河内屋」という日本食堂も依然営業していた。 同じく総領事館のあったウィーンはドイツに併合されていたが、十三名の邦人が暮らした。外交官のほかは留学生であった。他にはハイデルベルクに大学で学ぶものとその家族で四名、さらにライプチッヒ、イエナ、ゲッティンゲン、フライブルク、フランクフルトの各地にそれぞれ一名の留学生がいた。
ベルリンの街では、歩いていてラジオ店の前を通りかかると、急に日本の軍艦マーチか愛国行進曲のメロディーが響くようになった。それは日本軍の戦果を告げる特別ニュースの発表であった。海軍の時は軍艦マーチ、陸軍の時は愛国行進曲で始まる。 翌年早々シンガポールが陥落した時は、ベルリン中がたいへんなさわぎであった。この日一日日本人は地下鉄に乗っても、S−バーンに乗っても、改札口を通るたびに改札係から「シンガポール陥落、おめでとう」と、握手を求められた。ちょうどそのころ、ドイツはソ連戦の膠着で沈んでいたので、枢軸陣営の久し振りに明るいニュースで、喜んだのであった。 冒頭に紹介した会則に「講演会、親睦会その他の会合」 とあるように、日本人会では講演会が催されている。講師は駐在員の中から選ばれた。さまざまな分野の専門家には事欠かなかった。佐貫亦男が「追憶のドイツ」で、ある講演会の一部始終を書いている。 一九四二年暮、米軍がアルジェリアに上陸した頃、陸軍武官室の遠藤悦少佐が「光は東方より」という講演を日本人会でおこなった。彼の表現は文学的であると同時に、舞台の台詞のようにはっきりした印象を聞くものに与えた。 ただし陸軍事務所内では遠藤は語学将校と陰口を言われていた。実際遠藤少佐のドイツ語は卓越したものであったようだ。日独軍事協定の日本の案文をドイツ語に訳したのも遠藤であったが、締結の前にカイテル元帥がその案文を指しながら「このドイツ語はだれが書いたのだ。一語も間違いのない、また素晴らしい表現だ」と褒め称えた。
さてその日遠藤は 「ドイツ女性が思慮なく私生児を作り、これが人的資源として政府の保護を受けている」ことを批判した。さらにナチスの占領地における親衛隊の暴虐の話をした。
そして遠藤少佐は結論として 第三帝国のナチスドイツはこうして滅亡し、これに代わるものは「偉大な家族国家日本」である。よって「光は東方より」であると結んだ。 中堅の軍人の典型的思想であろう。一方ドイツにいながらかなり大胆にドイツ批判をおこなっているのは興味深い。 講演後の質問に入ると、日本銀行の駐在員が、神経質に眼鏡を光らせて立ち上がった。リストによれば日銀からは山本米治と太田剛の二名が駐在していることになっているので、そのどちらかであろう。いつも腹を立てているような顔をしている人物であったという。唐突に
「独ソ戦の見通しについても、天才ヒトラーは予想してかかるべきだったのでなかったのですか?」と出席者の誰にもすぐわかる刺のある質問をした。年内に終わるはずであった独ソ戦だが、ソ連軍の反撃にあう始末であったからである。 「皆さんはドイツが負ければ、どういうことになるかご存知ですか?(連合軍の)北アフリカ上陸は大した事はないが、スターリングラードの形成は非常に重大です。ドイツ軍は包囲される危険があります」 遠藤の最後の発言にはさらなる副作用があった。それまでドイツの公式発表しか知らなかった民間人も、東部戦線でのドイツ軍の危機を感じ取ったのであった。 遠藤少佐の講演会を知らせる日本人会の通知 (これについての詳細は「語学将校 遠藤悦」参照)
戦争の長期化とともに、民間人と軍人の軋轢が高まってくる。大谷修少将の日記からは
三月三十日
三月三十一日 |
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