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日本 杉本勇蔵の体験した戦前、戦時下のハンブルク  瑞西

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杉本勇蔵の体験した戦前、戦時下のハンブルク
Yuzo Sugimoto and Hamburg before and during the war

【お知らせ】
杉本勇蔵の体験した戦前、戦時下のハンブルクは書籍化されました。『第二次世界大戦下の欧州邦人(ドイツ・スイス)』に収録。こちらからお求めになれます。


<序、ドイツへ>


これまで筆者が調査してきた幾人かの欧州駐在邦人のドイツ入国は、日本郵船欧州航路の客船を利用した優雅なものであった。しかし杉本勇蔵のドイツ入りは密航であった。本編はこの普通でない形でドイツに入国した杉本の活躍を取り上げるとともに、筆者がこれまで取り上げてこなかった戦前、戦時下のハンブルクの邦人について述べるものである。

戦後、本人が家族に書き残した「私の一生」によれば、ドイツ入国までの経緯は以下のようだ。
1900年8月30日に新潟県佐渡に生まれた杉本は15歳で北海道に奉公に出る。その後東京に出て中央大学に入るが、北海道での体験などから「労働者のために一生を奉げよう」と決め、労農党事務局の仕事に関わる。

そして1926年2月、26歳の時に諏訪丸でロンドンに向かう。マルクス・レーニン主義の研究を深める目的であった。その資金は主に父親が、山林を売ったりして工面してくれたが、それでもロンドンまでの3等運賃と3か月の滞在費分にしかならなかった。

ロンドンではロンドン大学で聴講などしていたが、資金不足から生活はどん底であった。1928年3月15日、日本では共産党員が大検挙され、杉本の所属していた労農党は解散させられた。彼自身は共産党員ではなかったが、日本からロンドンに来ている特高刑事(内務省のロンドン出向者か?―以降も括弧内は筆者注)の持つ、共産党関係者のリストに名前が載っているとのことで、周囲がロンドンからの脱出を勧めた。

そしてロンドン―ハンブルク間の定期貨物船の中国人船員の中に紛れ込んでハンブルク港に入り、一人の青年に引き渡された。それはハンブルク大学経済学部、博士課程在学中のジークフリート・プロイシュ(Siegfried Preusch)であった。自分のような決して共産主義者の“大物”でもない人間に対する、このような組織だった援助に杉本は感涙した。

<ハンブルク在住日本人との接触>

着いた翌日からプロイシュの紹介で世界各国の同志と接触を始めた杉本であったが、それから間もなくしてハンブルク日本総領事館から連絡が入った。

「最近ドイツ官庁や日本人在留者の話によれば、あなたは共産主義者で、日本労農党で活躍していた。そして日本を脱出し、ロンドンを経て当地に潜入、ドイツの同志と共産運動を行っているそうだが、近いうちにあなたの話を聞く会合を催そうと思うので出席ください。」とのことであった。(杉本の手記では、総領事は江戸千太郎総領事になっているが、江戸総領事のハンブルク赴任が1935年なので時期が合わない。)

そして指定された日にホテル・アトランティックに出向いたところ、そこには約20人の日本人が杉本の話を聞こうと待っていた。総領事館、日銀、横浜正金銀行、日本郵船、三井物産などハンブルク在住の名士で、彼らはすべて東大出身のエリートであったという。総領事の司会で杉本に対する質疑が2時間にわたり続いた。「盲蛇に怖じず」ではないが、杉本はこれらの人たちを相手に大いに論争した。

勿論参加者に自説を確信させることは出来なかった。しかしこの日以来、ハンブルク在住の日本人の杉本に対する評価が、未知なる「放浪の共産主義者」から「真面目なマルクス学徒」に変わった。杉本という人物への恐怖心が取れたのであろう。そして以降は総領事館も杉本を庇護、支援するようになった。当時日本の領事館がおそらく出先の判断で、このように共産主義者と駐在員との対話を行ったことは、特筆すべきであろう。

またベルリンの日本人留学生の間でも社会主義への熱があり、1926年末には蝋山政道の提唱で「ベルリン社会主義科学研究会」が発足し、その後も続く動きを「ベルリン反帝グループ」と後に加藤哲夫教授は呼んだ。しかし杉本はハンブルクにいたためか、そうしたグループとの接触はなかったようだ。生粋の社会主義者であった者にとって、彼らの取り組みは甘いものと映ったのかもしれない。


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