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日本 杉本勇蔵の体験した戦前、戦時下のハンブルク  瑞西

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杉本勇蔵の体験した戦前、戦時下のハンブルク
 

<序、ドイツへ>

これまで筆者が調査してきた幾人かの欧州駐在邦人のドイツ入国は、日本郵船欧州航路の客船を利用した優雅なものであった。しかし杉本勇蔵のドイツ入りは密航であった。本編はこの普通でない形でドイツに入国した杉本の活躍を取り上げるとともに、筆者がこれまで取り上げてこなかった戦前、戦時下のハンブルクの邦人について述べるものである。

戦後、本人が家族に書き残した「私の一生」によれば、ドイツ入国までの経緯は以下のようだ。
1900年8月30日に新潟県佐渡に生まれた杉本は15歳で北海道に奉公に出る。その後東京に出て中央大学に入るが、北海道での体験などから「労働者のために一生を奉げよう」と決め、労農党事務局の仕事に関わる。

そして1926年2月、26歳の時に諏訪丸でロンドンに向かう。マルクス・レーニン主義の研究を深める目的であった。その資金は主に父親が、山林を売ったりして工面してくれたが、それでもロンドンまでの3等運賃と3か月の滞在費分にしかならなかった。

ロンドンではロンドン大学で聴講などしていたが、資金不足から生活はどん底であった。1928年3月15日、日本では共産党員が大検挙され、杉本の所属していた労農党は解散させられた。彼自身は共産党員ではなかったが、日本からロンドンに来ている特高刑事(内務省のロンドン出向者か?―以降も括弧内は筆者注)の持つ、共産党関係者のリストに名前が載っているとのことで、周囲がロンドンからの脱出を勧めた。

そしてロンドン―ハンブルク間の定期貨物船の中国人船員の中に紛れ込んでハンブルク港に入り、一人の青年に引き渡された。それはハンブルク大学経済学部、博士課程在学中のジークフリート・プロイシュであった。自分のような決して共産主義者の“大物”でもない人間に対する、このような組織だった援助に杉本は感涙した。

<ハンブルク在住日本人との接触>

着いた翌日からプロイシュの紹介で世界各国の同志と接触を始めた杉本であったが、それから間もなくしてハンブルク日本総領事館から連絡が入った。

「最近ドイツ官庁や日本人在留者の話によれば、あなたは共産主義者で、日本労農党で活躍していた。そして日本を脱出し、ロンドンを経て当地に潜入、ドイツの同志と共産運動を行っているそうだが、近いうちにあなたの話を聞く会合を催そうと思うので出席ください。」とのことであった。(杉本の手記では、総領事は江戸千太郎総領事になっているが、江戸総領事のハンブルク赴任が1935年なので時期が合わない。)

そして指定された日にホテル・アトランティックに出向いたところ、そこには約20人の日本人が杉本の話を聞こうと待っていた。総領事館、日銀、横浜正金銀行、日本郵船、三井物産などハンブルク在住の名士で、彼らはすべて東大出身のエリートであったという。総領事の司会で杉本に対する質疑が2時間にわたり続いた。「盲蛇に怖じず」ではないが、杉本はこれらの人たちを相手に大いに論争した。

勿論参加者に自説を確信させることは出来なかった。しかしこの日以来、ハンブルク在住の日本人の杉本に対する評価が、未知なる「放浪の共産主義者」から「真面目なマルクス学徒」に変わった。杉本という人物への恐怖心が取れたのであろう。そして以降は総領事館も杉本を庇護、支援するようになった。当時日本の領事館がおそらく出先の判断で、このように共産主義者と駐在員との対話を行ったことは、特筆すべきであろう。

またベルリンの日本人留学生の間でも社会主義への熱があり、1926年末には蝋山政道の提唱で「ベルリン社会主義科学研究会」が発足し、その後も続く動きを「ベルリン反帝グループ」と後に加藤哲夫教授は呼んだ。しかし杉本はハンブルクにいたためか、そうしたグループとの接触はなかったようだ。生粋の社会主義者であった者にとって、彼らの取り組みは甘いものと映ったのかもしれない。

<大学へ>

先の討論会から数か月後、ハンブルクで杉本を受け入れたプロイシュが真剣な顔をして、
「我々は資本主義経済学の理論と、資本主義社会のメカニズムに関する、十分な正しい知識を持っているだろうか?敵を非難、攻撃するにはもっと敵を知らねばならない。この意味で僕は今、大学で学んでいる資本主義経済学をもっとまじめに勉強し、ドクトルの学位を早くとってしまおうと思う。

君も大学に入ってドクトルのタイトルを目指してやってみないか?そうすることでハンブルクに在住している(エリート)日本人駐在員との理論闘争にも勝てるのではないか?」と提案した。

この勧めに従い、杉本はもう一度落ち着いて学生生活をすることに決心した。そして1929年4月、ハンブルク大学に入学した。生活面ではハンブルク日本総領事館の好意で、日本から来る旅行者の通訳をして生活費を得た。また私生活ではヨハナ・ベッキングというハンブルク大学の女子学生と知り合いになり、同家に下宿させてもらうことになった。

5年後の1934年6月16日、ドクトルの学位試験であった。(日本ではドクターの呼び名が一般的だが、「私の一生」に従いドクトルと記す)ドイツに来てドイツ語を学習し始め、ここまでたどり着くには大変な努力があったことであろう。当日は6人の教授が面接試験を行った。そしてその日の午後4時、合格の知らせを聞く。1年前にドクトル試験に合格したプロイシュが一緒に喜んだ。杉本は5年間の緊張が緩み、ただ涙を流すだけであった。

このタイトルを持つことで杉本のドイツの日本人社会での地位も確固たるものになる。そしてこの日、6月16日は「ドクトル記念日」として、亡くなるまで1年で一番大切な日としていた。

ドクトル試験合格の日 この写真は記念すべきものとして何枚も残している。

<博士論文>

杉本の博士論文の題名は「日本の海運」であった。ハンブルクという港湾都市に適したテーマであろう。当時大学の規則としては、その論文を200部印刷してドイツ全国の大学図書館に納入しないと、合格証書はもらえないことになっていた。杉本にその金はなかった。そこでハンブルク総領事館の江戸千太郎総領事、ベルリンの日本大使館の商務書記官、長井亜歴山(長井アレクサンダー)に相談した。外交官に相談するあたり、この頃にはもう共産主義という思想はなかったようだ。資本主義を勉強して、資本主義者になったのであろう。

そしてこの時の経緯を伝えるものとして、外務省外交史料館に「本邦各国間文化関係雑件 杉本勇蔵関係」というファイルが残されている。

それによるとドクトル口頭試験に合格してから1年以上たった1935年8月10日、江戸総領事は廣田弘毅外務大臣宛てに「ハンブルク大学講師援助方依頼の件」という電報を書き送る。

「杉本は昨年6月、ハンブルク大学において“日本の海運”を提出しドクトル試験に合格したる所、その論文はドイツ大学会の規定に従い、遅くも本年12月までに印刷刊行すべき義務がある。さもないと今のハンブルク大学講師の職も失う恐れがある。目下、日本語学科のドイツ人教授は70歳を超えるため、杉本が大学に残り、その立場を継ぐことは日独文化提携の大局からみて極めて重要である。」と書かれているが、杉本は1932年秋から、ハンブルク大学の日本学講座の講師をしていた。さらに

「ドイツにおいてドクトルの称号を得たる者の数は極めて多い。論文出版援助の悪しき例になることを(東京サイドは)恐れるかもしれない。しかし杉本の場合は先述の理由から特殊である。」と日本人でドクトルの資格を取る留学生は少なくないが、杉本への援助は例外であることを強調した。しかしながらハンブルク大学教授の席の理由はこじつけで、杉本への江戸総領事の共感が根本にあったと思われる。

依頼金額は595マルク(邦貨850円)であった。日本の外交官の初任給が80円くらいの時代である。テーマが海運ということで日本郵船株式会社内にあった「近藤記念海事財団」が、援助を申し出た。

12月2日、杉本は海事財団に礼状をしたためる。そしてそこでは
「この度、小生永年の苦心の結果たる労作を世に発表する機会を得て、今後は貴財団(海事財団のこと)の本意を体し、日本のためにご奉公仕り、もって貴財団に御報返したく。」と日本のために尽くすことを書くが、これは本心から出た言葉であることは間違いない。

ドイツ語の諺に「自分のパン代を払ってくれる人に、人は仕える」という諺がある。まさに共産主義者の面影は、この日本の資本家からの援助で全くなくなった。

杉本は自分の良き理解者として、この依頼電を書き送った江戸総領事を挙げている。江戸総領事は1884年生まれ、1908年に東大文学部卒業、鹿児島、茨城県で教育に従事後、1918年に外交官試験に合格した。

外交官は殆ど東大法学部卒であった中で江戸は文学部卒、そして卒業10年後に外交官試験に合格という変わった経歴の持ち主であった。こうした曲折を経た経歴故に、杉本にある種同情を感じ、後ろ盾となったのかもしれない。そして1935年、ハンブルク総領事となり3年後の1938年3月、天津総領事に異動となるが、その赴任に際し不慮の死を遂げる。外務省が起こした追悼の文章には「日独間の通商、文化に貢献した」とある。

またもう一人相談をした長井亜歴山は、母親がドイツ人で本人はドイツ人の風貌、国際結婚があまり望まれなかった外務省では冷遇されていたという。そんな境遇から長井も杉本をサポートしたのかもしれない。

<ドクトル証書>

こうして1936年1月16日、大学よりドクトル証書を手にしたわけだが、杉本の「私の一生」」には、「ちょうど第二次世界大戦時の英米空軍のハンブルク爆撃、ドイツの敗戦で証書も紛失してしまい、現在自宅にあるのはハンブルク大学から再発行してもらった1959年11月17日付け、ハンブルク市教育委員会発行の“ドクトル試験合格証明書”だけである」、と無念を記している。
しかし外務省外交史料館には先に述べたファイルの中に、オリジナルの証書の写しが保管されている。本人もそれを見たらさぞかし喜んだことであろう。

外交史料館のドクトル証書 “杉本勇蔵 河原田、佐渡郡(日本)出身”と書かれている。

<ドイツの留学生>

さて江戸総領事はドクトルを取得する日本人は少なくないと書くが、当時留学生はどのくらいいたのであろうか?下の写真は1931年、「ハンブルク大学日本人学生会」が集まったものである。日本人が11名写っている。確かに少なくない数ではある。一方ベルリン大学には同年43名在籍していた。(加藤教授)やはりベルリンの方が多い。

この頃の日本人の間では“商都ロンドン、芸術の都パリ、学問の都ベルリン”(加藤哲郎氏)という位置づけがされており、会社関係者はロンドン、芸術家はパリ、留学生はベルリンに赴くという傾向があったようだ。

1936年9月の「対独文化事業」という外務省の資料によれば1937年度、大学で日本語を教える者のうち、村田豊文(ベルリン大学)、北山(同)、大賀小四郎(ライプチヒ大学)、若山淳四郎(ボン大学)の4名への補助金支出を決めたが、杉本には下りなかった。

1932年よりハンブルク大学講師を務める杉本であるが、ドイツ側より月50マルク支給されていたのに加え、後述するように満州特産中央会嘱託として月150マルクの給料を得ることになるからである。こうしてこの頃には経済的にも安定した。

1931年、ハンブルク大学日本人学生会メンバー 前列中央左が31歳の杉本 (アルバムには全員の出身大学、名前が書かれている。)中央に鍋を囲んでいる様。

<仕事>

すでに述べたように大学に通う間は、日本総領事館が回してくれる日本からの旅行者の通訳が主な収入源であった。そしてドクトル試験合格後間もない1934年8月、満鉄ロンドン駐在員よりドイツの経済調査を嘱託される。満鉄ロンドン駐在員とは後にも登場する永田久次郎支店長であろう。

満州国は1932年3月、日本軍部の強い後押しで打ち立てられたが、日本を除く世界各国から国家として承認はされなかった。満州鉄道は日本政府により設立されたが、鉄道経営に留まらず多様な事業展開を行った。そして満鉄調査部は当時“日本の“最高のシンクタンクであったという。ロンドンの永田はその調査部に所属しており、多くの調査報告書を残している。杉本もドイツでこうした調査を行ったのであろう。

翌1935年6月、満州特産中央会が創設される。設立の主旨書には「特に世界の6割の大豆を生産する満州の地位をさらに強化するため」とある。ロンドンの永田は満州国からの依頼で、ドイツ駐在員として適任者を探すため江戸総領事、および所轄の長井商務官に相談した。二人が推薦したのは杉本であった。「日本の海運」が博士論文の題材であった杉本であったが、与えられた機会を柔軟な発想で受け入れ、大豆を仕事に選んだ。

そして本人は書いていないが、翌1936年9月、杉本は満州国ハルピンを訪問しているようだ。満州日日新聞9月21日付けで「大豆相場が問題。強敵は落花生」の見出しに続き

「目下ハルピン視察中の特産中央会ドイツ駐在員
杉本勇蔵氏は、満州大豆問題に関連し、最近のドイツ経済事情につき左の如く語る」とあるので、満州特産会の駐在員となり一度満州を訪問したのであろう。記事には
「なお杉本氏は奉天、大連視察後二十四日、大連発東京に赴き、再び満州経由ドイツに向う予定である」ともあるが、予定通り日本を訪問したのかは確認できない。

満州特産中央会駐在員として採用の決まった杉本であったが、仕事は満州特産物の欧州における市場開拓に留まらなかった。他に与えられた仕事は新生満州国の宣伝、啓蒙、ドイツ経済界との親善関係の促進などである。それに応じ、翌年には満州国通商代表部嘱託の肩書も得る。こうしてすでに国交成立前から、満州国は杉本を介して経済活動をドイツで始めた。また当時ドイツとは外交関係がない都合上、杉本が唯一の代表者として、本来領事館が行うような領事業務も行った。


1936年5月5日 ハンブルク市 日独政財界代表者招待会 長井商務官、ハンブルク江戸総領事、綾井三井豊久ベルリン支店長、渡辺壽郎三菱支店長、北村横浜正金銀行支店長というビジネス界の中心人物に加え、杉本の顔が見える。

<事務所>

杉本は満州特産会の事務所を、後に満州国総領事館が設置されそちらに移るまでは、まずは自分のアパートにおいた。住所はAgnesstrasse 19で、この住所の建物は80年近くたった今も、ほぼ当時の姿で残っている。欧州の街並みが変わらない好例であろう。

左が当時の杉本の住まい(△が食堂、×が応接)で、右が現在の建物

また杉本は自分のアパートの裏庭をはさんで、日本総領事館と総領事公邸があったと記している。その総領事館の住所は”Alsterdamm 39”であったが、この住所は現在存在しないようだ。一方総領事公邸の住所は”Leinpfad 6”で、今も存在する。しかも玄関の上には日本の公的機関の象徴である菊の紋章がついている。つい最近まで公邸として使われていたことを物語っている。


アパートのバルコニーにて 後方が日本総領事館、公邸の建物の裏手


杉本の住まいの裏にあたるLeinpfad 6の玄関。2階のベランダに菊の紋章が見える。(グーグルストリートビューより)

<ハンブルクの邦人 1>

ベルリンに続くドイツ第二の都市ハンブルクは、邦人にとっても第二の居留地であった。しかも日本からの船が到着する港町であった関係で、ナチスが政権を取る1934年頃までは邦人もかなりいて、最盛期は約80人(家族数)であった。横浜正金銀行、三井物産なども当初はハンブルクのみに支店があった。

その後ヒトラーが政権を取り、日独間のビジネスも盛んになってくると、認可機関のそろうベルリンに日本企業の支店が設けられるようになった。ロンドンで発行された1937年1月時点の「日本人名録」によると、ハンブルクの欄には以下の邦人の名前が出ている。

総領事 江戸千太郎 (杉本のいわば恩人)
館員 今井茂郎 出納功 山西善一 青山義徳
横浜正金銀行ハンブルク支店 北村孝治郎他5名 
三井物産 吉田義一他2名
細谷商店 日独雑貨輸入商
河内商会 船舶食料品商
栗本憲治 船舶御用達、日本郵船会社指定 農園も経営
石渡七三 船舶修繕並びに設計
満州特産中央会ハンブルク駐在員 杉本勇蔵
福田豊一 みかど 
日本郵船代理店 日本人不在

満州国関係は杉本の名前が載っているが、この時ベルリンには誰もいないのはすでに述べた。また日本企業の支店は、横浜正金銀行と三井物産だけであったことが分かる。三菱商事、大倉商事、住友合資などはベルリンのみに支店があった。

ベルリンの日本大使館には9人が勤務し、5人のハンブルク総領事館と大きな差はまだない。日本唯一の外貨決済銀行の横浜正金銀行のベルリン支店は4名(北村は兼務)で、5人のハンブルクの方が多いという状況である。

また港町だけあって、停泊する船舶に食料、日用品、船具や船舶機械を販売して納める業務(シップチャンドラー)につくものが多いのも分かる。日本郵船の二口一雄の「豪華客船の軌跡」にはハンブルクの邦人について興味深い記述がある。

「ドイツの女性と日本の男。不思議に合ったようである。出港までについに帰船しない乗組員が意外と多かったようである。」と幾人かの船員が、そのまま港の女性のアパートに転がり込んだと書いている。出港間際、戻らぬ船員を船長が彼女らの住まいから引き戻したこともあった。

その後ハンブルクに日本からの船が着くと、元船員たちは日本食を求めて、次から次へと船の和食担当の料理人の所へやって来た。梅干、味噌、沢庵、のり、それに出来れば日本の内地米を求め、両手に下げていそいそとタラップを降りて行った。故郷を半ば捨てても、日本の味だけは忘れられなかったのであろう。そして上記のリストにもそのような人物が何人かいると思われる。

<満州国公使館の設置>

ナチスドイツが満州国を承認したのは1938年2月20日である。ヒトラーが国会で演説した。国家設立から3年半を経過していた。ドイツは伝統的に協力関係にあり軍事顧問なども送っていた中国から、日本へと友好国を切り替えた。

これに基づき両国間で外交使節を交換することになる。杉本はベルリンに公使館、ハンブルク市においては欧州における最初で唯一の総領事館を開設する命を受けた。事務所、官邸の貸借契約を結び、新たな館員の受け入れ、事務所の披露宴会開催など、中心となって活躍した。

満州国は欧州においてドイツ、イタリア、スペイン、ハンガリーに公使館を開設した。そして総領事館は述べたようにハンブルクだけであった。もともと領事館は在留同国人の保護を目的として設置されるものであるが、ハンブルクに満州国人がいたとは考えられない。これは同地の満州特産中央会代表である杉本の功績に対する敬意の表れあろう。

満州国総領事館関係者 後列右から2人目が杉本 左の女性は杉本の妻ヨハナ

ドイツによる満州国承認直後の下の記事は、杉本の貢献の一例であろう。同盟通信社、ハンブルク2月23日発として大阪朝日新聞に出ている。

「対支貿易に重大な関係を持つハンブルクの貿易業者はヒットラー総統の国会声明により、日独枢軸を通じて極東貿易に進出するに方針を一決、(中略)当業者の意向は大体次の如きものと解されている

一、対日満貿易拡大 ドイツは日本に対し軍需重工業商品の輸出を増加するに対し、ドイツは日本より生糸、生糸屑、網細工原料フィッシュ・ミール、薄荷油など、
満洲国より大豆、マンガン鉱、褐石、皮革、獣毛、蘇子油、ゴマ油などを増加輸入する 」と、ハンブルクの有力輸入業者は満州からは第一に、杉本の扱う大豆を輸入しようとした。

1937年3月1日 満州国建国記念日(ベルリンにて) ドイツによる承認前から杉本はこうした大きな会合をいくつかアレンジした。才覚もあったのであろう。左側のテーブル端が長井亜歴山商務官、その右隣が杉本。

新設された公使館に着任する呂宜文公使は、1938年10月靖国丸でドイツに向かった。欧州公演に向かう宝塚少女歌劇団一行と同船であった。公使は少女らに激励の詩を贈った。そしてその呂公使のハンブルク、ブレーメン公式訪問で出迎えた時が、満州国のために働いてきた杉本にとっても、一つの節目ともいえる晴れやかな時であった。

1939年3月16日 在独満州国公使 呂宜文氏(中央)ハンブルク市公式訪問記念。左後方が杉本 ドイツ人はナチス式あいさつをしている。

<ハンブルクの邦人 2>
      
満州国総領事館が設置されたこの頃、ハンブルクにはどのくらいの邦人がいたのであろうか?1939年、外務省が海外の日本人会を調査した際、ハンブルクからは次のような報告が入っている。

「名称:ハンブルク日本人倶楽部  所在地:ハンブルク(ただし事務所、集会所等を有せず。)

組織:本クラブには特に会則というべきものなく、単に創立の際の申し合わせに従い、当地在勤日本総領事を会長とし、横浜正金銀行支店、あるいは三井物産支店の支配人を委員長とし、それぞれより1名の会計委員を選出。」ベルリン日本人会が独自の事務所を構え、会員数90名を数えていたのに対しては、非常にこぢんまりとしている。

またベルリンには教職員4名、生徒26名の日本人学校があったが、
「ハンブルクにはその分校があるが、規模が小さく私塾のようなものである。」とベルリンの日本人学校の樽井近義校長が、ドイツの新聞記者の質問に答えている。授業は総領事館の一室で補習として行われたのであろう。ハンブルクの邦人社会はベルリンに比べると小規模なものであった。

ハンブルク日本人会のメンバー 前列の小学生がおそらく日本人学校の全生徒。


1938年8月5日 中央に帝国日本総領事館とドイツ語で書かれている。 館員のみではなく在住日本人が皆そろっている。Ratskellerは市庁舎の地下のレストランで今も存在する。杉本はほぼ中央にいるが、ハンブルク日本人社会での位置づけを表わしている。左側の婦人達がおそろいの洋服を着ているのには何か意味がありそう。

<婦女子の引き揚げ>

1939年8月23日、独ソ不可侵条約が締結されると欧州戦争必至の予想で、在独邦人の婦女子に帰国勧告が出された。ハンブルク港に待機していた日本郵船の靖国丸で引き揚げるようにとのことであった。(「靖国丸 欧州引き揚げの全記録」参照)

靖国丸。ハンブルク港にて居残る父親との別れ。下段がベルリンからの引き揚げ組、上段右側がハンブルクからの引き揚げ組。(日本郵船博物館提供)

靖国丸の乗船リストにハンブルク地域からは以下の名前がある。ほとんど全員が婦女子であった。昨年国交が樹立され赴任したばかりの満州国関係者の家族もその中にいた。そして以降、ハンブルクはドイツ人と結婚したものを除き、男性だけの社会となる。

安一家 6名 ハンブルク満州国領事館
藤沢紀子(妻)  ハンブルク横浜正金銀行
畑桂(妻) 他2名 ハンブルク横浜正金銀行
今井君子 ハンブルク日本領事館
黄家 2名 ハンブルク満州国領事館
川村家 5名 ハンブルク日本領事館
北村采他2名 ハンブルク横浜正金銀行
木村嘉夫 ハンブルク貿易斡旋所
長井龍吉と妻 ハンブルク貿易斡旋所
中川万里と子供 総領事館
奥村翠 (妻?) 横浜正金銀行
佐藤壽恵子 他4名 横浜正金銀行
山川典子 総領事館
吉田ユキ 他2名 ハンブルク三井物産
間瀬清子 ハンブルク東洋綿花

<結婚>

杉本はこうした引き揚げとは無論無縁であった。そして9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻して欧州戦争が始まった。開戦間もなくの9月29日、ホテル・アトランティックで杉本は結婚式を挙げる。相手はヨハナ・ベッカー、自分が大学に通うようになってから下宿する家の長女であった。

「ハンブルク大学は卒業したし、満州国の出先の“長”としてこれから大活躍しなければならないことになったので、ここらで身を固める意味でヨハナと結婚することにした」と本人が書いている。

当時の日本人留学生の中で、自分が下宿するアパートの娘と結婚する例は多かったようだ。現地に駐在する軍人が「どうして我が国の留学生は、下宿屋の娘としか結婚しないのか」と嘆いたという逸話もあるくらいだ。下宿で常に勤勉な姿を見ていた娘が、ドイツ語も拙い留学生のよき理解者となりやすかったのかもしれない。

当時の下宿屋の娘というと、高等教育を受けた印象は持たない。しかしヨハナの場合はハンブルク大学の哲学科に通っており、日本語学講座も聴講していた。知性も兼ね備えた女性であった。そしてヨハナの母親(父親はすでに死亡)が日本人である杉本との結婚を許したのは、杉本がドクトルの資格を取ったからではないかと考えられる。(親族の方の証言)

なおドイツ人の”非アーリア人”との結婚を認めないドイツは、同盟国である日本人は例外としたが、この頃実際に認可されたケースは他にはほとんどない。外交官待遇の杉本には、そうした認可も必要ではなかったかもしれない。

スキーを楽しむヨハナと杉本。(1940年)当時珍しいカラー写真である。

その結婚式にはハンブルク在住の多数の著名な日本人が参列した。参列者は用意された立派なサイン帳に一言ずつ書いている。彼らは39歳の新郎を“老兄”と親しみをこめて呼びかけた。

下は横浜正金銀行ハンブルク支店長、北村孝治郎のサインである。1894年生まれの北村は、当時欧州に駐在した日本人の中では重鎮と言われる存在であった。終戦時はスイスにいて自分の知人であるスエーデン人の銀行家を通じて、アメリカ側と日本の降伏を推進しようとした。その北村は杉本のアルバムの写真にかなり写っている。仕事上かもしれないが興味深い関係だ。

北村の洒落た言葉のサイン。「杉本老兄の結婚宴にて 女房は銭のごとし、無くて不自由、ありては邪魔になる、多憤多恨。昭和14年9月29日」

そしてこのサイン帳には、結婚式の後も、ハンブルクの杉本の事務所を訪れた要人にも一言を書いてもらった。自筆で戦後、「この署名簿は杉本家の家宝」であると書かれている。筆者が見ても興味深い人物のサインがいくつかあり、この後も紹介していく。

1941年3月26日 ブレーメン市 呂宣文公使公式訪問。この時も横浜正金北村孝治郎(左から4人目)が同行している。満州国の大豆の取引の決済などは横浜正金銀行が引き受けていたのかもしれない。

<杉本の性格>

1941年1月30日ハンブルクの日刊新聞“Mittagsblatt”が1ページの日本特集を組む。「日独両国民の親善強化を祈る」と日本語の見出しが書かれている。この記事を書いたドイツ人記者はハンブルクの日本人社会を深く調べ、なかなか良く書いている。

まず当地の日本人は、戦争になり家族を日本に帰し、単身で頑張っていると述べる。8−90人いた日本人だが、商社などベルリンに中心が移り、今は19人が領事館の居留者リストに登録されていると規模を紹介する。

在住者として最初に山川輝男日本総領事代理が写真と共に紹介される。ついで満州国総領事館勤務の日本人もいると述べる。澤口誠篤副領事が写真入りで紹介され、
杉本勇蔵が満州国領事館の特別な二つの部屋を占めていると書かれ、写真が出ている。当時ハンブルクではナンバー3のポジションにあったと言えよう。職業外交官を除けばトップである。そして杉本について、

「ハンブルク市で何かの関係で日本人と付き合っている者であれば、
日本人中一番陽気で、気持ちの良い人、ドクトル杉本を知らない人はいない。それからまたドイツ食糧工業の重要な原料である大豆30万トンの供給契約を結んでくれたのも、彼に感謝しなければならない。」と紹介している。

写真で見ると日本人としても小柄で、体格の良い杉本は、大島浩駐独大使を彷彿させる容姿だが、性格は明るく、気持ちの良い人であったようだ。戦後、杉本の親族の方も
「オパ(ドイツ語でおじいちゃんの意)は出会った人を幸せにする、とびっきりの笑顔の持ち主でした。一瞬でみんなオパの事が大好きになります。」と書いている。

その後記者は19人の在住者をほぼくまなく書いていく。そこには河内勇の名前があり、「ドイツ夫人と結婚して20年。日本人会の面倒、故郷の味を提供。」と紹介されている。河内はハンブルクで「河内屋」という日本食レストランを営んでいた。

杉本は河内をある所で”親友”と書き、両家で北海に休暇にも出かけている。ともにハンブルクに長く滞在し、ドイツ人を夫人にするものとして気が合ったのであろう。また開戦となり日本人が20人にも満たなくなったハンブルクで、河内が日本人相手のレストランを経営するのは、非常に困難であったと思われる。杉本は大豆の仕事関係で、河内を援助をしていた様であった。一例を後に紹介する。

1942年バルト海ケレンフーゼンにて 右 河内勇

<開戦>

1941年12月8日、日本が米英に対し宣戦布告する。そのニュースを出張先のフィンランドのホテルで聞いた杉本は
「とうとう来るところまで来たか、祖国日本も、もう敗戦だ!」と思った。

1941年 コペンハーゲン。この北欧出張の途中、日本の開戦を知った。

杉本の開戦当初からの日本敗戦論を裏付けそうな資料は、先ほどの杉本の署名帳にある。
1942年5月4日、日本から日独学徒会に出席するためドイツに出張に来たものの、戦争により帰国できなくなった芳賀檀(はがまゆみ)と崎村茂樹が杉本家に泊まり、朝食をごちそうになった。

その際崎村は「
遠く祖国を憂い、祖国の夢を語る。われ、ハンブルクにて得たり、百年の友を」と書き記した。戦争に突入した祖国を杉本と共に案じたことが分かる。1909年に生まれで1932年東京大学農学部、農業経済学科卒の崎村は杉本より9歳若い若輩者と言える。加えて杉本のこれまでの経歴は驚くべきもので、大豆の専門家の話も農学部卒業の崎村の興味をそそったと思われる。

崎村は百年の友を得た、と杉本の考えに心酔した様子がうかがえるが、崎村はドイツの戦争の先行きに関する憂いが高じたこともあり、後にスエーデンで連合国の記者と接触し、それが英米新聞の記事となり、ドイツ側からも大問題視された。杉本とのこの日の会話がそれに少し影響を与えたのではないかと推測される。

崎村茂樹サイン 杉本夫妻のご好意を謝して

<ハンブルクの邦人 3>

1942年4月現在の「ドイツ国日本人名録」というのが残っている。ハンブルクについて見てみると
日本国総領事館は黒田音四郎他2名と3名のみである。一方ベルリンの大使館が45名と、1937年の9名から大増員となっているのは、1940年の日独伊三国同盟によるものである。

満州国についてはどうかというと澤口誠篤総領事代、中川英一、黄通、杉本勇蔵、吉岡進の5名で、杉本については「満州特産中央会」所長の但し書きが付いている。一方ベルリン公使館は4名だけである。開戦後ますますベルリンの重要度が増したが、ハンブルク出身の妻を持つ杉本は事務所を移転する気はなく、満州国関係者もそれを尊重したのであろう。

民間人は横浜正金銀行の和田定史、奥村仁郎の二名を除くと他は
古谷静夫(料理人)、堀岡智明(ハンブルク大学助手)、石渡七蔵(鉄鋼場技師)、河内勇(日本食堂主)、西村貞雄(料理人)、中村亀太郎(マッサージ師兼下宿人)、竹内甲午(真珠販売などの輸出入業)、田中泰三(ハンブルク大学講師)、渡辺光久(職業人)、山田石松(商業)、横田信雄(芸人)のみである。

日本からの船も来なくなり、元日本船の船員はシップチャンドラーとしての仕事も成り立たなくなり、料理人などになったと想像される。日本から派遣されたのではない者にとっては、生存も厳しい時代になった。

またハンブルク大学講師であった田中泰三は戦後間もなく、「カスタニエン咲く国 滞独随筆」という書物を残している。筆者が捜した限りでは、戦時下のハンブルクについて触れられている唯一の本である。その中に先にも書いたドイツ滞在20年の河内についてのエピソードが出ている。

「ドイツ全国の魚の集散地ハンブルクで、河内氏が毎日市場へ出かけてくれた。同氏はドイツ人相手にハンブルク訛り(のドイツ語)で折衝する豪の者であるから、魚市場で”鷹“の異名を獲得した。良いものを狙って、さっさと引き上げたからである。

だから河内氏のお蔭で刺身をよく食べた。中でもイシガレイ(Steinbutt)が一番うまかった。イタリア米の炊き立てに、イシガレイの刺身で故郷を偲んだ。」杉本も親友河内の提供する刺身をしばしば食べたのであろう。

また田中はすき焼きについても触れている。
「天ぷらはすき焼きと共に、日本料理のご馳走として、腹の減った時などその味を思い出して、腹の虫をぐうぐうといわせたものだが、(ドイツの)天ぷらも、すき焼きも、時には似て非なるものを食べて、大いに慰められた。ただし、天ぷらにはゴマの油はなく、すき焼きには白滝や焼豆腐はなかった。」杉本のアルバムにも、次のような写真とコメントがある。

「1939年12月 家でヨハナと醤油無しのすき焼き 自宅で」 (杉本が着ているのはいわゆるドテラであろうか?)

<藤村義一少佐の訪問>

もう一人、気になる人物のサインが杉本の署名帳に残されている。それは藤村義一海軍少佐のもので1943年1月20日の日付がある。藤村は終戦直前にスイスに移り、横浜正金銀行の北村同様、アメリカのダレス機関と接触して和平工作を行うが、戦後間もなくして彼の工作に関する手記が文芸春秋に取り上げられ、多くの終戦史の本で一章が割かれた。(筆者「スイス和平工作の真実」参照)

漢字に加え、Fujimuraと名前をローマ字で書くが、少佐でありながら陸軍大佐木原友二より上に書いている。自己顕示欲の強い人物であったという周囲の証言を裏付けよう。筆者はすでに藤村のサインを一つ入手していたが、富士山の絵がどちらにも書かれている。これがトレードマークであったと今回分かった次第であるが、名前の藤(ふじ)から来るものであろう。(1945年3月12日の藤村のサインはこちらを参照

杉本の署名帳より 右に漢字で「藤村海軍少佐」、左上部にFujimuraの名前が読める。

またこの時の藤村らのハンブルク訪問を記録するもの資料がある。ベルリンに駐在していた大谷修陸軍少将の「ベルリン日記」に以下のように書かれている。

「1943年2月3日 ハンブルク行、ホテル・アトランティック。
午後3時半ベルリン出発、時速100キロで有名なる線(アウトバーン)を走る。駐独3回、まだ1度もハンブルクを知らず。何となく心嬉し。
この度の目的は木原陸軍大佐、藤村海軍少佐が(ドイツ軍の)高射砲師団隊付きとなることを、1か月に渡り実施するため、武官代理として(ドイツ軍に)礼を述べると共に高射砲師団、夜間駆逐師団を見学するためなり。」

このドイツ軍部隊での研修の際に、藤村と木原は杉本を訪ねたことが分かる。余談となるが大谷のベルリン日記は、1943年の部分が断片的に残るのみである。筆者はこうした偶然に近い発見を見つけることを喜びとしている。また杉本が大きなレセプションをやるのも、自分の結婚式を挙げたのも、大谷が今回泊まったホテル・アトランティックであった。邦人によく利用された高級ホテルであったことが分かる。調べると1909年にオープンしたこのホテルは今も五つ星ホテルとして存在している。

ホテル・アトランティック。外観は昔のまま

なおこの大谷の日記の同年2月5日には
「日本料理店河内屋に良き、主人河内氏、特にドイツ人の奥さんとの間に生まれた長男(12歳)と楽しく語り、午後9時半雨の中、湖畔を歩行、帰宿する」と杉本の親友の営む日本食レストランが登場する。1943年のこの時点でもハンブルクの日本食レストランは開いていたことが分かる。また長男(経雄)は生きているとすれば今83歳、当時の杉本について語れる唯一の人物であろう。

海水浴ホテルにて 杉本夫妻(こちら向き)と河内母子(後ろ向き) 右の子供が大谷述べた12歳の子供

<大豆試食会>

下の写真はベルリンの大島浩駐独大使と歓談する杉本である。間にいるのは横井忠雄海軍武官である。1943年4月13日、ベルリンのドイツ陸軍総司令部で行われた大豆試食会は、杉本による最後の大きな仕事であった。

試食会にて 大島大使(中央)、横井海軍武官と杉本。対等に渡り合っている印象。

大豆の促進に務める杉本は、ドイツ軍の食糧問題の大家であるチーゲルマイヤー博士他数名を日本料理店に招待し、豆腐、味噌、醤油その他大豆を材料とする試食会を計画したが、ドイツ側が会場はOKW(国防軍最高司令部)の一室を提供し、さらに大島大使、呂公使が参列することを希望した。

杉本が大島大使、呂公使を訪問し出席を要請すると、大島大使はその意義を認め出席を快諾した。(呂公使はすでにデンマークでの予定があり出席不可能の連絡)。大島大使の出席が決まると、ドイツ側も慌ててオスターカンプ大将、フロム大将の出席を決めた。フロム大将は翌年のヒトラー暗殺未遂事件の関連で死刑を宣告される将軍である。

フロム大将(左)と大島大使。

試食会の準備では2日前の4月11日、ハンブルクで魚類を調達し、親友である食堂を営む河内勇、味噌、醤油を製造し始めた石渡七蔵を伴いベルリンに向かう。12日は日本料理店「あけぼの」、大使館の台所などで調理を行った。杉本のお蔭で日本食レストランの料理人も大忙しであった。

料理人 当時の料理人の写真は珍しい。ハンブルクの河内勇(左?)、石渡七蔵、ベルリンの「あけぼの」主人と、あと一人と想像される。

そして当日、日本側は大島大使、松島公使、佐久間公使、小松陸軍武官、横井海軍武官、河原参事官、湯本財務官、阿久津大佐、澤口満州国領事と主要メンバーが出席した。

参加者の一人である阿久津正蔵大佐は、食糧問題の専門家でベルリンの「国立穀物研究所」で穀物科学を学んでいた。先述のチーゲルマイヤー博士とはコンタクトも多かった。阿久津は戦後、興味深いことを書いている。菜食主義者であったヒトラーは東洋の大豆を重視していたようだと言う。そして
「チーゲルマイヤー博士が肉に代えて、大豆たんぱくを活用して畑から直接“肉”を収穫しようと提唱したことを、ヒトラーが新しいヨーロッパの(食文化の)礎石にしようと取り上げたらしい」と書いている。

今回の大豆試食会は、そうしたヒトラーの思惑が下地にあって、ドイツ側が大規模なものを望んだと考えられる。しかし一方では一つの矛盾を抱えていた。実際の所、すでに満州から大豆をドイツの輸入する道は閉ざされていたからだ。杉本が

「現在および将来の(大豆の)輸出問題は暫く別問題として、大豆が有する経済的利用価値を総動員して、戦勝への一助となすべきである。」と説いたのを、ドイツ側も大島大使もドイツの最終勝利を公式には確信しているので、受け入れたのであろう。

当日の展示品。凍り豆腐、醤油、味噌と並んでいる。

<空襲>

1939年の戦争開始以来、ハンブルクは米英の航空機による空襲にしばしばさらされた。先述べたようにベルリンから木原大佐、藤村少佐が高射砲師団に配置されて、防空体制を学ぼうとするほど、それは激しかったと言える。

先述の田中はベルリンからハンブルクに移るとき、
「どうしてそんなに危険な街に行くのか?」と皆から止められた。実際に行ってみるとハンブルク一帯には敵の航空機の侵入を防ぐ、阻塞気球がたくさん上がっていた。ベルリンにはない光景であった。

ハンブルクが最も激しい空襲を受けたのは1943年7月27日深夜のことであった。739機による爆撃で、5万人もの死者がでた。そのほとんどが民間人で、ベルリンの邦人の間でも次はベルリンかとパニックが広がった。

杉本夫妻も空襲のサイレンが鳴るたびに防空壕に避難していたが、そろそろ身の危険を感じホルスタインの農家に疎開する。ハンブルクから40キロほど離れていた。疎開の正確な時期は書かれていないが、この大空襲の前であったと推測される。

疎開中の杉本

杉本の「私の一生」には
「夜になって疎開先の二階から、ハンブルク上空の爆撃、空中戦を見ていると、ハンブルク全体が火の柱となり、天空を焦がし、花火大会と百雷を一緒にしたような凄惨な光景で、電灯を消した二階の部屋の中で、新聞が読めるような明るさであった。」とある。これはこのハンブルクの大空襲のことを書いていよう。

ハンブルク総領事館に勤務していた吉岡進によれば、満州国総領事館もこの空襲で焼け落ち、吉岡は仕事がなくなった。結果、ベルリンの公使館付きになって、週末のみハンブルクに戻り、ドイツ人妻アグネスと過ごす生活となる。週に一回、ベルリンに出向いた杉本とは逆の勤務形態となった。付け加えると満州国関係者は、ドイツ人を夫人とするものが多かったようだ。

杉本は朝8時半に出発して9時半にハンブルクの事務所に到着、昼食前後から必ず空襲があるので12時前には疎開先の家に戻る生活となった。通信網もズタズタで、ただ身を持って難を逃れるだけの生活であった。またベルリンの満州公使館(Lessingstrasse 1)にも週一回、業務連絡のためアウト―バーンを車で向かったが、仕事はぐっと減った。

杉本と愛車。車のナンバーの最初の“HH”は「ハンザシュタット、ハンブルク」の頭文字で今も用いられている。708番なのでまだ車は少なかったことが分かる。

<1945年1月在独邦人リスト>

1945年になるとドイツの敗北は明らかであった。幸い日本はソ連との間には日ソ中立条約が存在しているので、ベルリンに進駐してくるソ連軍によって保護されれば、日本まで搬送してもらえるはずである。という訳で1945年1月、最後の在独邦人リストが作られた。このリストはモスクワの法眼晋作三等書記官の手でソ連外務省に手渡された。ソ連外務省は快く保護を引き受けたという。

オーストリア、チェコなどのドイツ占領下の地域も含み邦人は総勢542名であった。そのうち満州国関係者が江原綱一参事官以下17名(ハンブルク勤務も含む。また婦女子6名、満州人外交官2名)、またハンブルク地区邦人は黒田音四郎総領事以下18名である。(うち婦女子6名)親友の河内勇は妻ゲルトルードと2人の子供と共に名前がある。

不思議なことは満州国関係者にも、ハンブルク関係者にも杉本の名前がない。金科玉条のようにこの邦人リストを調査のよりどころにしてきた筆者にとって、リストに名前が載らない邦人がいるということが驚きであった。それは単純なミスとも取れるが、1月の時点で杉本はドイツ人の妻ヨハナを連れて日本に帰る決心がついていなかったので、帰国希望の意思も含めたこのリストに登録しなかったのかもしれない。

そしてこの頃には杉本の週一回のベルリン往復も命がけになっていた。アウトバーンを走らせる車は敵戦闘機の機銃掃射にあった。これを避けるため道路わきの遮蔽物や、森林の中に車を突き込んで難を逃れたことが何度かあった。まるで戦争映画のような場面である。

満州国公使館はこの頃、おそらく疎開でベルリン郊外の保養地ヴァンゼー(Wannsee)にあったが、一行は家族総勢で40名であったという。40名は「私の一生」からだが、外務省の引き揚げの記録などは11名である。前者が子供などを含む総人数で、後者は成人男子のみかと推測される。またイタリア駐在満州国関係者がこの40人の中にいたことも考えられるが、この辺りはさらなる調査が必要である。

ベルリンの陥落が近くなると満州国外交官も日本の外交官同様、オーストリア山中のバート・ガスタインに避難するようドイツ外務省より要請があった。相談の結果、3名ほどがバート・ガスタインに向かい、あと吉岡夫妻を含む11人ほどが米軍の捕虜になることを恐れて東に向かった。(先述の吉岡進の証言より)杉本も東組に加わっている。

そしてベルリンから東方35キロの村グレデハインに大富豪の所有するホテルのような一軒家を借り切り、玄関にはロシア語で「満州国外交団」と書いた看板を取り付けた。ソ連軍が進出してきた際に、外交官特権を誇示して、無謀な略奪などをさせないための考えからであった。

<ドイツの家族との別れ>

杉本はハンブルクの妻の実家ベッキング家、家主、領事官事務所の女子職員3名などに、日本へ引き揚げる動きについては、話が出来ないままであった。日本とドイツは同盟国として戦っている。ドイツの国民が連日連夜爆撃の下、死闘を繰り広げている最中に「私たちは逃げます。ベルリンに引き揚げ、日本を目指します。」とは言えなかった。ただし何があるか分からないからと、家賃も給料も3か月分の前払いをしていた。

正確な日にちは不明であるが、住み慣れたハンブルク最後の日には、出来るだけの荷物を愛車に積み込み、ベッキング家に寄った際
「またベルリンに行ってくるが、途中アウトバーンも敵の低空機銃掃射がますます激しく、あるいはハンブルクへの帰りが遅くなるかもしれませんが、お互い気を付けて長生きしましょう。」と言うだけで
「これが最後の別れです」とはとうとう言えなかった。杉本自身もこれからソ連軍に捕えられ、シベリア大陸を横断し、満州国への長い“捕虜”の旅がどうなるのか想像もつかなかった。

ヨハナも杉本の横にいて、家族に本当のことを言わずに車に乗り込んだ。全く文化が異なる日本へ行く話を聞かされた時、どういう心境であったであろうか?

<ソ連軍の進出〜モスクワへ>

別荘に潜む満州国関係者は「ソ連の最前線が20キロ先まで来ている、いや今日は10キロ先だ」ということばかりを気にもんでいた。そして4月21日朝6時頃、地下防空壕からはい出した杉本らは、春の日差しを浴びてソ連兵が三々五々パトロールしている姿を見た。皆が「この町はもうソ連兵に占領されている!」と叫んだ。

ソ連兵に事情を説明したがよく分からずのままで、午後3時ごろソ連軍将校が現れ「我々はあなた方を保護する。今夜はドイツ軍の逆襲で、この町は恐ろしい市街戦になるかもしれない。だから20キロ後方の戦車隊前線司令部のある安全地帯まであなたたちを案内するから、今すぐ出発の準備をして下さい。」と言った。

ソ連戦車2台に前後を護衛されて、車約10台に分乗してその陣地に向かった。そこには300台くらいの大型速射砲が並んでいた。そして杉本が翌朝目を覚ますと、それらの大砲はすべて姿を消していた。よほど熟睡したのであろう。その後ワルシャワ経由モスクワに着き、日本大使館に到着したのは4月29日午前10時頃であった。

一行を迎えた佐藤尚武大使は「あなた方はベルリン脱出の最初の日本人です。どうもご苦労様でした。今日は天皇誕生日ですから、正午にモスクワ在住日本人とささやかな祝賀会を催すことになっているので、日本酒と寿司を食べて寛いでください」とねぎらった。この後、いくつかのグループに分かれてベルリン郊外に疎開していた邦人が、相次いでモスクワに到着する。

もう空襲警報も、爆撃もないという安心感、そこにすっかり忘れた日本酒にお寿司。一行は皆、あまりの急激な環境の変化に呆然となってしまった。

すると書記官が現れ、「ソ連政府があなたたちのために特別列車を仕立ててくれることになりました。しかも発車時刻は本日の午後3時ですから至急乗車の準備をしてください。」とせかした。

列車では各家族に洗面トイレ付の個室が与えられ、大使館からは、シベリア大陸横断5日間、40人分の食糧として一斗缶入りのキャビアなどが差し入れられた。この時の杉本らのモスクワ到着の様子は、29日モスクワ特電として朝日新聞にも報じられた。

「赤軍の手で無事 在独江原氏ら12氏帰国の途へ」の見出しで
「駐独満州国公使館参事官江原綱一他館員11名は、去る21日ベルリン東方約35キロのグレデハインでソ連軍の手により戦線を離脱することを得て、29日朝、列車でモスクワに到着し、同日午後帰国の途についた。一行はソ連当局の好意に感謝していた。」と続いた。ここでも人数の違いがみられるが、考えられる理由は先に想定した通りだ。親切なソ連の態度であったが、引き揚げにかかった費用をソ連は後日すべて請求してきた。

<ハンブルクの邦人>

杉本らハンブルクの満州国の関係者は全員、ベルリンの満州公使館組に合流しグレデハインに疎開した。一方ハンブルクの民間邦人には、砲火を避けつつソ連軍を待つ疎開場所として、ベルリン北西約150キロメクレンブルクが選ばれた。そこにはハンブルクの他、フランス、ベルギーからの避難者が集まったが、ハンブルク日本総領事館の管轄となり、総領事館の3名の中の一人、出納功(すいとういさお)領事が責任者として赴いた。

しかしハンブルクから避難した邦人は、何度か登場した河内勇(妻と子供2人)とハンブルク大学講師の田中泰三、それに西村貞雄夫婦、守島久くらいであった。一方何人かの在留邦人は日本に戻っても生活基盤がないので、ハンブルクに留まることを決めたようだ。英米軍も日本の民間人には手荒いこともしないであろうという期待の元にであった。

戦後間もなくして三井物産のハンブルク駐在員として赴いた大庭定男は、現地に着いて日本人が結構いることに驚いた。終戦をドイツで迎えた邦人たちであった。彼らは戦後、再びシップチャンドラーとして生活していたという。

出納領事に率いられた一行5家族30名は、5月19日午前5時にモスクワに着く。途中一人の女の子がしょう紅熱の疑いをかけられたが、「モスクワに行けば日本人の医師がいる」と皆でその子をいたわり、心配する母親を励ました。日本大使館で朝食をとり、何年か振りの白パン、紅茶に感激した。黒パンが主流のドイツ暮らし故の感激だが、紅茶もドイツでは一般的でなかった。

また外務省の資料には、一行が途中ソ連兵によって略奪された金品のリスト残っている。河内はカメラ2台他で5844円の被害額であった。目ぼしいものはみな取られてしまった。

ハンブルク領事館にはもう一人、外務書記生丸尾至がいたが、彼はベルリンからスエーデンに避難する日本海軍の駐在者と共に、中立国スエーデンに逃れた。しかしこれは入国ビザを持たない不法入国で、ストックホルムの岡本季生(おかもとすえまさ)公使は「いやしくも外交官が不法入港するとは何事か!」と激しく怒ったという。

そして最後の黒田音四郎総領事はハンブルクを避難することなく、進出してきた英国軍によって抑留された。先に述べたハンブルクに残ることを決めた邦人の面倒を見るためか、直前まで領事館業務を務めたためかは不明である。

右ページ:左上のスタンプは日本のハンブルク総領事館の印。 赤字で「造兵大佐に訂正」 陥落間際の1945年4月18日においても総領事館は機能していたと言える。

また満州国関係者で東に向かわず、大島大使らの避難した南のバート・ガスタインに向かった人物に、中川一郎がいた。彼は同地にアメリカ軍が迫ると、読売の駐在員嬉野満洲雄と共に「米国軍に逮捕されるよりソ連軍の占領下に行けば、日本に早く帰れるだろう」と方針を変えた。そしてバート・ガスタインからウィーン領事館の関係者の避難するゴルディック城に合流し、6月2日無事モスクワに送られた。ただし杉本の残した記録には「引き揚げ途中、シベリアで死亡」と書かれている。

1939年春 杉本の家の応接間 左澤口誠篤副領事 右中川英一

さらにベルリンの満州重工業の浅井一彦は、ドイツ人夫人と子供が3人いたが、5月28日一家族のみでモスクワに到着した。5月7日のドイツ敗戦からかなり経っている。一家でどこかに疎開していたところを見つかって、保護されたのも遅かったのであろう。

<満州着〜日本へ>

そして5月5日、杉本ら満州国関係者を乗せた列車は国境の駅満洲里(マンチュリー)に着いた。ここで満州農産公社の命を受けた小林政美の出迎えを受けたが、彼は杉本の友人で20年ぶりの再会であった。杉本にとっての不幸はこのまま日本に帰らず、7月に小林の後任として満州農産公社、黒竜江省チチハル市の支店支店長代理を引き受けたことであった。

8月6日にソ連軍が国境を越えて攻め込んできた。ハルピンまで婦女子を引き連れて避難し、ソ連軍によって抑留された杉本は、冬が来る前に少しでも南下しようと引き揚げ司令部と交渉し、新京へと向かうことが出来た。その際は顔に墨を塗り、防寒帽子を深くかぶったヨハナであったが、中国人が「ドイツ人だ、ドイツ人だ」と騒ぎ立てる一幕もあった。

新京で1年近くの厳しい生活を送り、故郷佐渡に戻ったのは1946年8月31日、ちょうど杉本の誕生日で、20年ぶりの帰京であった。(1936年には満州日日新聞の記事のようには、杉本は日本に寄らなかったのであろう。)

それからヨハナは敗戦直後の佐渡の生活に苦労したが、島民は皆優しくしてくれたという。杉本は間もなくして東京に職を得て、夫婦で上京するが、1950年3月10日、ヨハナは病死する。周りが心配してくれて杉本は郷里の日本女性と再婚をし、その後1992年に92歳で亡くなる。

<最後に>

これまで筆者は欧州にいた人を探し出してはコンタクトを取り、その人からまた別の人を紹介していただいてきた。しかし今回の杉本勇蔵の場合は異なった。勤め関係の同僚から「自分の祖父は戦争中ドイツにいた。」と聞いた。5年以上前であったが、先述の1945年の在独邦人リストに杉本の名前がなかったので、何かの勘違いであろうと思っていた。

ところが今年に入り、大豆試食会の所でも名前の出た「あけぼの」というベルリンの日本食レストランの主人が杉本姓であり、奥さんがドイツ人であることを知った。(「戦時下ドイツの日本食レストラン”あけぼの”の写真発見」参照)

そこで先の同僚に対し「この、あけぼのの主人杉本さんが、あなたの祖父ですか?」と聞いた。しかし彼の祖父は別の杉本であると分かり、この件はお終いと思った。

ところが別であった杉本勇蔵のご親族が、何かの縁とそれでも私に協力を申し出てくれて、今回こうして資料をいろいろお貸しいただいた。心からお礼を申し上げる。それとともに数少ない当時のドイツ滞在者の中に二人の杉本が存在し、しかも共にドイツ人を夫人としたことに、ただの偶然以上のものを感じている。

杉本勇蔵が家族に残した「私の一生」は、自分の誕生から戦後までを記した、非常に興味深い手記である。それに対し筆者の「杉本勇蔵の体験した戦前、戦時下のハンブルク」は、その内のドイツの部分を中心にまとめ、全体の流れを変えない範囲で自分の調査結果などを加えたもの、いわば「私の一生」の解説書である。

また他のドイツからの引き揚げ者と異なり、杉本はドイツに親族がいたため、敗戦時に多くの書類、写真を預けて、引き揚げることが出来た。それを戦後日本に送ってもらったので、当時の大変貴重な史料が残っている。これらの一部だけでも紹介することが出来るのは筆者の大きな喜びであるが、写真もまさに一部しか紹介できていないことをお断りする。

幾人かサインを紹介した杉本の家宝である“署名帳”には、筆者にとって忘れられない名前が見つかった。戦時中に欧州に暮らした邦人調査の最初とも言える「徳永太郎.下枝―若い外交官とその妻は、いかに欧州戦争を体験 したか?」を書くに際し、鎌倉のお宅で何度かお話をうかがった徳永下枝(とくながしづえ)である。

「杉本兄の新宅でハンブルクを懐かしむ 昭和32年8月3日。」とある。戦時中は短期間だがベルリンに暮らし、戦後初のハンブルク総領事を務めた徳永太郎とも、杉本は接点があったことを記しておきたい。

徳永夫妻の署名 ローマ字はハンブルク方言?

最後に本編で変遷を見てきたハンブルクの日本総領事館であるが、外務省が進める在外公館再編に伴い、2012年12月31日をもって総領事館は廃止され、これに代わりベルリンの日本大使館を親公館とする出張駐在官事務所となった。総領事公邸として使われてきたLeinpfad 6の建物は今、住民はいないが、保存の動きもあるそうだ。

終わり

その後の調査で判明したことなどを「米軍接収文書の中の杉本勇蔵」としてまとめました。

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