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日本人小学生の体験した戦前のドイツ
Japanese schoolboys in Germany before the war
大堀 聰

書籍化されました。こちらに収録されています。

<序>

筆者は以前に「ベルリン日本人会と欧州戦争」というタイトルの一文を書き、インターネット上で公開したが、ある人より「まだ当時の日本人会が続いていますよ」と教えていただいた。

聞くと当時ベルリン日本人学校の小学生であった方たちが、その後も集まりを続けてきたがメンバーの高齢化で2012年現在、会合を持つことが次第に困難となっており、2008年に集まったのを最後、今も健康なのは会の幹事役でもある加藤眞一郎さんと姉の綾子さんくらいであるとのことであった。筆者はその加藤眞一郎さんにお会いし、当時のアルバムを見せていただきながら話を伺うことが出来た。ここでは当時の小学生の目から見たベルリンの生活を再現してみたい。

<ベルリン駐在>

加藤眞一郎さんは1929年 芦屋に生まれた。25年生まれの姉綾子、一歳年下の洋子さんの三人兄弟の末っ子であった。一家は1931年ドイツに向かう。大倉商事に勤めるお父さん(鉦次郎)が、ベルリン駐在となったからである。

実際の赴任はやや複雑であった。まず仕事の関係で父親が単身ドイツに向かい、間もなくして母節子さんと眞一郎さんが日本郵船筥崎丸で向かった。しかし二人の姉妹は学校の関係でしばらく親戚の家に預けられ、日本に残った。そして日本語も身に着いたということで1933年11月、姉妹のみで諏訪丸に乗り込んだのであった。そして先に着いていた眞一郎さんと再会したのであるが、会話が全く出来なかった。ドイツ人乳母の元で眞一郎さんはドイツ語しか話せなくなっていたからである。

当時のベルリンはヒトラーのゲルマニア計画による首都改造の真っ最中で飛行機が離着陸できるほどの道路が整備されつつあり、今は観光名所の一つである「戦勝記念塔(Siegessaeule)」もティアガルテンに移設中で、クレーンが塔を組み上げていたのを眞一郎さんは覚えている。

大倉商事は支店規模でも三井物産、三菱商事に次ぐ商社であったが、お父さんはそのベルリン支店長であった。加藤家の住居は、市の中心ティアガルテンのそばの立派な建物のワンフロアーを占めた。当時商社は日本から重要なお客が来ると、支店長の自宅に招待してもてなした。すでにいくつか存在していた日本食料理店の料理人が、家に呼ばれて故郷の料理を提供したのである。

余談ながらベルリンでも商社間の競争はすでに熾烈で、日本から重要なお客がシベリア鉄道で来ると、モスクワまで迎えに出たという。


ベルリンの借り上げ支店長宅(3階部分)

その場合、三軒ほどあった日本食料理店の一つ「あけぼの」の主人が、加藤家に呼ばれてお客の対応をした。眞一郎さんの言葉によれば「今思うと結構まともな日本食を出した。魚の焼いたのとか刺身などもメニューにあった。戦後駐在したチューリッヒでは味わえなかった日本食の味であった」と言う。時期も違うので比較は難しいと思うが、戦前のベルリンの日本食料理店のレベルは高かったと言えよう。

余談ながら戦争が始まってからの「あけぼの」に対する、お客の評判はあまり良くなかったと筆者は別の「ベルリン日本人会と欧州戦争」において書いた。これは料理人の腕と言うよりは材料の入手難が主要因だったと補足しないといけないだろう。

この「あけぼの」の主人、杉本久一さんのおかげで、ドイツにいながらにして眞一郎さんは日本食の味を覚えたと言う。自宅ではドイツ人の女中さんを雇っていたので、普段は彼女たちの作るドイツ料理ばかりだったからである。しかし彼女たちは皆幼い眞一郎さんを可愛がってくれた。よく抱っこをしてくれて、今でも彼女たちの若い肌のぬくもりと匂いを懐かしく憶えている。こうして見ると、当時の駐在員の生活はかなり優雅なものであったと言える。

また今となればある種貴重な体験もしている。
「お袋が私を抱えて歩いていたら、ゲッペルス宣伝相が街角でハーケンクロイツ入りの募金缶を持ってナチス党のためにする募金活動に参加していた。眞一郎さんが小銭を募金缶に投げ入れたらゲッペルスに”なんて小さくて可愛い日本人なんだ!”と言われて頭をなでられた。それで髪の毛が抜けて禿げてしまったんだと後に皆にからかわれた。」

と苦笑いする。ゲッペルスのこの発言には、日独友好を意識した政治的ポーズが多分にあったと考えるべきであろう。それでも眞一郎さんの禿頭はゲッペルスの生き証人と言えるかもしれない。
                                

自宅食堂にて誕生日を祝う

<加藤家の光景>

ある陸軍軍人の回想録に加藤家を訪問した様子が書かれている。著者は宝蔵寺久雄陸軍中佐(当時)で、欧州視察を命じられた。往路の諏訪丸では、先述のように家族が先に暮らすベルリンに向かう綾子、洋子姉妹と同船であった。

「大倉組支店長加藤氏宅のひな祭り

1934年3月1日、午後7時大倉組の加藤支店長に招待されて行く。支店長の宅にて洋行中同船のお嬢様(12歳位と10歳位)にお目にかかる。船で40日ほども一緒に遊んでいたので懐かしい。加藤氏の奥様に挨拶、日本服を見て久しぶりに懐かしく感じる。

3月節句のお雛様をサロンに飾ってある。綺麗なこと。内地を思い出す。お雛様は日本から取り寄せられたが、絹製品として100マルク以上の関税をかけるため、税関に預けたままにして、一時借りてきて節句がすむと税関に返し、日本に帰るとき持ち帰るとの話を聞かされたが名案である。節句と言うのが税関の役人に分からないので、その説明には絵本を出してドイツ人に説明したと話された。

この夜の来客は陸軍武官事務所の全員。日本酒、刺身、お寿司、ビールに一同満腹。お祝いに東京音頭を踊る。」(「欧州旅行記」より)


加藤家の立派なお雛様の飾り 中央が眞一郎さん

先に述べたように日本食レストランから料理人が呼ばれ、日本食を用意したのであろう。またサロンは踊れるほど広かった。


ひな祭り。上記の記述よりは4年後である。前列右から3人目が眞一郎さん(1938年3月6日。写真には欧州式に日にち、月の順に数字が書かれている)

以降は書籍でお楽しみください。こちらに収録されています。
日本人学校

当時ベルリンには日本人学校があった。全日制の普通校として日本のカリキュラムに沿った授業が行われていた。眞一郎さんもここの生徒であった。

外務省に残る資料によると、開戦間際の1939年「欧州における在外子弟国民教育施設として斯かる規模(邦人職員四名、独逸教師一名、就学児童二十六名)を有する」とある。開戦間際の欧州における最大の日本人学校であったと推測される。

それに先立つ1937年5月24日付けのベルリンの新聞に、同学校を訪れたドイツ人記者の記事がある。インタビューに答える樽井近義校長の言葉によると
「生徒数は目下21名だが大体いつもこのくらいの人数であり、ハンブルクにも分校があるがはるかに規模が小さく私塾のようなものである。
男子は日本の中学への進学に間に合うよう早めに帰国するので、ここには小学校五年生までしかいない。女子は希望すれば中学三年までいることが出来る。」
そして「外交官の子息もいますか?」との記者の質問に
「目下のところいません。でも海軍武官の子供たちは通っています。」との答えであった。

眞一郎さんの記憶でも当時の大使であった子爵武者小路公共の子息達は日本人学校に通ってはいなかった。大使が1935年7月に一時帰国した際に、学校の関係でそのまま日本に留まったのであろう。

また後任の井上庚次郎代理大使の次女井上(塚原)みどりさんは、ある所で日本人学校の前身を次のように語っている。
武者小路大使のご子息三方、商社関係子女数名と私共姉妹4人は、大使館二階の一室に午前中集まり国語等の勉強をしていました。井上家の姉妹4人は後に皆音楽家になった。後にピアニストとなる4女井上二葉さんは、日本人学校に通う姿の写真が眞一郎さんの残っている。

また下の「1935年 食堂にて武者小路兄弟の送別会」の写真にあるように眞一郎さんはいわば「ご学友」のような存在で、大使館にも遊びに行ったりしたという。



加藤さんの家の食堂にて 左手前が眞一郎さん。7月の武者小路大使一時帰国の直前であろう。

ベルリンの日本人学校の先生には優れた人が多かった。なかでも有名なのは高橋ふみ先生である。
著名な哲学者西田幾多郎の姪である高橋ふみ先生は東北帝国大学を卒業し、1936年ドイツに留学し2年にわたって日本人学校の先生となった。非常に厳しい先生であったという評判であるが、おかげで日本人学校の生徒のレベルは非常に高いものになったようだ。眞一郎さんは次のように回想する。

「日本人学校では親がお金を出し合って、留学中の高等師範の先生に教鞭をとってもらった。よって優秀な先生がほとんど個人教授のように教えてくれた。3人の先生がいて、一人が高橋ふみさんだった。加えて文部省在外研究員の平原寿恵子(すえこ)さんというソプラノ声楽家が、別途音楽を専門に担当してくれた。
国定教科書を日本から取り寄せて授業を行ったので、海外にいても、帰国後も日本語には困らなかった。」

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高橋ふみ先生が眞一郎さんのサイン帳に残した言葉。このサイン帳に関しては後述

開戦前に日本に帰ってきて、新宿の戸山小学校に転入したが、おかげで授業には全く苦労しなかった。半年後には成績優秀で級長にもなった。また日本人学校で机をならべた旧友には後に東大他有名大学に進んだ俊才も多かったという。



開校3周年記念日にて 眞一郎さん(最後列左から3人目)は今でも写真のほぼ全員の名前を言うことが出来る。
2列目右から4人目は稲沼史(いなぬまふみ)先生で高橋ふみ先生の後任か?その左が平原先生。中央が樽井校長でその右がベルリン大学留学中の伊藤貫一先生。
                                

加藤さんはここに写っている小学生ほぼ全員の名前をスラスラということが出来る。また写真を見るとあまり日本人らしくない顔立ち、衣装の子供もいる。例えば後ろから二列目左から二人目、右端の女の子である。彼女らは当時の満州国外交官の子弟であった。加藤さんの記憶では5人ほどがそうである。日満友好の国策の元、満州国人も日本人学校に通ったのであった。

なおこの写真を見て、前列左から2人目の方が「これは私です」と名乗り出てくれた。それをきっかけに「
辻(伊藤)正義さんの体験した戦前のベルリン、モスクワ」が出来た。(2013年4月29日)

ベルリン日本人学校に関する新たな考察」を2016年1月2日にアップしました。

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<記念行事>

外国に暮らす日本人は元旦、紀元節、陸軍記念日など、何かといっては大使館や武官官邸に集まった。民間人にとっても情報収集などで大使館は欠かせないものであった。よって眞一郎さんのアルバムにも多くの記念写真が残っている。

普通は大使館の庭に面する広いベランダの階段のあたりで撮ったが、雨の日は館内で撮った。大広間は大きなシャンデリアで照らされ、天井や壁面などには金ぴかで立派な装飾がほどこされていたことを眞一郎さんは覚えている。


大使公邸 祝四方拝の文字が見える。(元旦の儀式)中央は井上康二郎大使 この2階で最初の日本人学校が開かれた。                     


金ぴかな大使館内にて

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<ベルリンオリンピック>

1936年8月1日から16日にかけてベルリンオリンピックが開催された。そのドキュメンタリー映画としてレニリーフェンシュタールが監督した記録映画「民族の祭典」「美の祭典」の二部作、通称「オリンピア」が製作された。ナチスのプロパガンダのために作られた映画などともいわれるが、日本人も幾場面かに登場する。現NHKのアナウンサーが立ち姿でマイクに向かう場面などはかなり凛々しく撮られている。またスタジアムの日本人観客(おそらく駐在員を主体とした方たち)も大きく写される場面がある。

このスタジアムでの写真に写っているのは眞一郎さんの姉たちであるが、オリンピアの映像に写るのとほぼ同じシーンであるという。筆者は映画に登場する綾子さんを特定し、「ベルリンオリンピックの証人」として別稿でまとめている。



「オリンピア」に登場する日本の少女たち!(これは前畑選手の登場する200メートル平泳ぎ女子水決勝の場面)   
                              

日本人小中学生は選手の出迎えにベルリン駅頭にも駆り出された。そろいの洋服から誰と誰が姉妹かすぐ分かる。

<サイン帳>

当時は人を招待した場合、訪問者に記帳をしてもらうのが習慣であった。そのほとんどがドイツの敗戦時に消失したものと思われるが、筆者は三国同盟軍事専門委員であった阿部勝雄中将が、「記念署名帳」のタイトルで残し、日本に持ち帰ったものを確認している。

眞一郎さんの父鉦次郎さんも大倉商事支店長として、自宅にそうしたサイン帳を備えていた。そして眞一郎さんはその真似をして、「ベルリンの思い出」というタイトルのものを用意し、主に子供にであるが、時に大人にもサインをねだったという。そこには大島浩大使、小島秀雄海軍武官など”大物”の署名も見ることが出来る。
ここでは多くを紹介できないので、さらに興味のある方は「写真館」を訪問ください。


サイン帳の表紙


大島大使、陸軍武官から念願の大使になる直前

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日本からの訪問者>

1936年の日独防共協定締結などを経て、日独は親密度を増した。親善のための日本からの訪問者も増えた。日本人学校の生徒はそうした場面にしばしば駆り出された。本人たちは全く意識していなかったが、日独友好の一助を果たしたと言えよう。

「神風号を迎えて」

1937年4月、朝日新聞社航空部の飯沼正明、塚越賢爾の二名の乗る「神風号」が東京、ロンドン間を94時間で飛び、スピード記録を打ち立てた。その後欧州各国を親善訪問し、まず向かったのがベルギーのブリュッセルであった。ここではバイオリンの留学中であった諏訪根自子が塚越に花束を渡した。そして次に向かったのが同盟国ドイツのベルリンであった。4月16日のことであった。

空港には邦人が総出で繰り出した。武者小路大使、大島陸軍、小島海軍武官が皆揃って夫婦で出迎えに出た。そして武者小路夫人、小島武官令嬢、三菱商事渡辺支店長の令嬢が花束を持って待ち構えた。普段警戒の厳重なテンペルホーフ飛行場も、日の丸の旗さえ持って入れば通行は自由、日本人に限り写真撮影も許された。友好国へのドイツの好意であった。

眞一郎さんら日本人学校の生徒たちはテンペルホーフ空港で待ちうけたが、いくら待っても神風号は飛んでこない。雨模様の中、飽きてもきたころ、小さい点のようなものが見えてきて、やがて飛行機の形になり、間もなく着陸して少年少女たちの目の前に止まった。



着陸した神風号


4月にもかかわらず、オーバーを着るほどの雨の降る寒い日であった。手前二人が加藤さん姉妹

神風号は悪天候のためベルリンの西120キロのデルモルトでいったん不時着していた。せっかく朝から出迎えに来てくれた子供たちに申し訳なく思った飯沼は、翌日のスケジュールの合間を見て、ベルリンの日本人学校へ行くことを提案したのであった。その様子は朝日新聞で日本全国にも報道された。そこでは二人は”鳥人”という書き方をされている。

両鳥人は9時過ぎ、日本人学校を訪問した。児童たちは手に手に日の丸の旗を振りかがしながら、玄関前の両側に並んで、両鳥人を迎えた。飯沼操縦士が挨拶の時、
「この次は大きな飛行機で飛んできて、みなさんを乗せてあげたい」
というと、児童たちは歓声を上げて喜んだ。                                



飯沼飛行士を迎えた日本人学校(この写真はすでにいくつかの媒体で発表されている)後列左から二人目が先に紹介した高橋ふみ先生
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眞一郎さんのお姉さん二人が日本人学校を代表して花束を贈呈した。こちらは4月20日、パリに向け出発する時であろう。


長野県安曇野市の飯沼飛行士の生家は、記念館となっている。(筆者撮影

「重巡洋艦 足柄」

「足柄」は1937年(昭和12年)にイギリスに派遣され、5月20日のジョージ6世戴冠記念観艦式に参加した。その後、ドイツのキール軍港に寄港しつつ帰路についている。加藤さん一家はキールまで出向き、海軍の軍人たちと記念写真を撮った。後日、同艦の幹部士官たちを加藤さんは自宅に招待している。ベルリン駐在の軍部の対応に船員から不満の声が出て、あわてて商社の支店長らが自宅に招待した。軍民共同のベルリン接待であった。


艦上で剣道の模範試合。                                


「足柄」艦上の加藤さん一家(左後ろは艦長?)                                 
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「大日本連合青年団」

1938年、ドイツのヒトラーユーゲントが日本を訪問したのに呼応して、日本からは各地の学生、青少年団体職員、若手公務員からなる「大日本連合青年団」がドイツに派遣された。ヒトラーユーゲントを模した団体である。彼らはドイツ訪問中ナチス党大会の参観、ヒトラーと会見等の公式行事に加えて、日本人小学校にも来た。写真を見ると訪問者は日本人学校の小学生とは年齢的にやや不釣り合いである。



日本人学校前

「宝塚少女歌劇団」

先に紹介した眞一郎さんのサイン帳であるが、二人ほど「タカラヅカ」と書いている少女がいる。眞一郎さんによると当時宝塚少女歌劇団がベルリンを訪問し、駐在する奥様達が熱を上げたという。



1938年12月4日は公演が終わって直後の日付である。天津乙女は日本舞踊の名手であったので、そうした演目が行われたのであろう。

調べると日独友好の一環として、天津乙女(あまつおとめ)をトップとする宝塚少女歌劇団がドイツを中心に、ヨーロッパを訪問している。当時の新聞によると1938年11月20日、ベルリン民族劇場にて初演が行われた。そいてベルリンの最終日である23日は、大島大使およびゲッペルス宣伝相の共同主催の特別公演で、売り上げの収益はドイツの「冬季救済」運動に寄付された。友好の宣伝臭さのする公演であったが、多くの駐在する夫人らも訪問したのであろう。

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<帰国>

その後、1939年の夏、ドイツの出兵に起因する欧州での戦争勃発が不可避であるとの情勢判断のもと、大島浩大使が「婦女子の帰国勧告」を出した。加藤さんの家でもお父さん一人を残して、お母さんと三人の兄弟は8月26日、列車でハンブルクに向かう。そして待機していた日本郵船の「靖国丸」に乗船したのである。合わせて187名の婦女子が乗船した。半年前、日本人学校の創立記念日に一緒に写った満州国関係者の家族もその中にいた。




ベルゲン港にて靖国丸をバックに記念撮影。

靖国丸」は同じ日にドイツを離れ、ノルウェーのベルゲン港で待機し、さらに日本人帰国者を乗せた。9月1日、ドイツはポーランドに侵攻し、同3日に英仏がドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。それを見届けたかのように4日「靖国丸」はベルゲン港を出港し、ニューヨーク、パナマ運河、ロスアンゼルスを経由してほぼ60日かけて横浜港に向かったのであった。この船内でも高橋ふみ先生らによる小学校、中学校の授業が行われた。



ニューヨークにて、高層建築をバックに。白いジャケットを着た人は船の加藤さん一家の世話係。
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当時ニューヨークでは、かのエンパーアーステートビルディングが出来たばかりであったが、その高さに圧倒された。身近なところではトイレにはエアーで手を乾かす機械があったのが、眞一郎さんには衝撃だった。
この航海について眞一郎さんは「祖国目指して」という絵日記風旅行記にまとめて、今も大事に保存している。
こうして開戦前に日本に戻った眞一郎さんは、悲惨な戦争を日本で体験することになったが、日本の開戦の知らせを聞いた時、眞一郎さんは自分が見てきたアメリカを思うと、「この戦争は勝てないのではないか」と本能的に考えた。

船客の旅情を慰めるために、楽焼き会も日本郵船の客船では催されてきた。
そしてそれはこの引き揚げ船でも行われた。「靖国丸 欧州より避難の途、太平洋上に於いて 1939年10月7日」と裏面に書かれた楽焼きには、10数名のサインが焼き込まれている。後のノーベル賞学者朝永振一郎の名前があるが、その隣は「加藤節子」、眞一郎さんのお母さんの名前である。商社の支店長をご主人とするお母さんは、船の中でもリーダー的な立場であったのかもしれない。そして高橋ふみの名前も焼かれている。


パナマ運河を航行する船上にて。中央が眞一郎さんでその右は外交官神田襄太郎の娘、愛子さんで、彼女は二年後、再度戦時下の欧州に渡る。

ベルリンから子供達が引き揚げたことで、自動的に日本人学校は閉鎖となった。校長の樽井近義は国民新聞の特派員となって、ドイツの敗戦まで留まった。翌1940年4月
「樽井近義さんは、(閉鎖された)学校の校庭に野菜の種子を蒔き始めました。たくさん作って、冬のために貯蔵する計画だそうです。」と同盟通信の江尻が書いている。

最後にインタビューに応じていただき、写真を提供していただいた上に、私のまとめたものに目を通して修正加筆していただいた加藤眞一郎さんに改めて感謝いたします



他の参考資料

外交史料館史料
七塚町広報コピー (高橋ふみさんに関して)
ドイツ・少年飛行士たちとの交流 (インターネット)

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