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バッゲ駐日スエーデン公使のスイス訪問
Former envoy in Tokyo, Widar Bagge's visit to Switzerland

<バッゲ工作とは>

戦時中に駐日スエーデン公使であったウィダー・バッゲは日本の終戦に一役買おうとした。その動きはバッゲ工作と呼ばれ、要約すると以下のようだ。

「1944年9月15日、近衛文麿元総理と知己のある朝日新聞社常務鈴木文史朗がバッゲ行使に米英との和平のあっせんを依頼した。
鈴木とバッゲは接触を重ね、この工作に重光葵外相も乗り気になった。そして翌1945年3月31日、バッゲと会談する。帰国命令を受けていたバッゲに、重光外相は、スエーデン政府から英国への打診を行い、その結果をストックホルムに駐在する岡本季正公使に連絡するように依頼した。

しかし4月7日に鈴木貫太郎内閣が組閣され、外務大臣が東郷茂徳に代わった。東郷外相もバッゲ工作に賛意を示していたが
会談は実現せずに、バッゲ公使は4月13日、ようやく飛行機の座席が取れ、羽田から米子に飛び、満州、シベリアを経由してスエーデンに帰国してしまった。

バッゲ公使は帰国後、日本公使館を訪ねたが、岡本季正公使(Suemasa Okamoto)は何も知らされていなかった。また岡本が外務省に問い合わせたところ、極めて消極的な回答がなされ、その報を5月23日に聞いたバッゲは工作を打ち切った。」
(「偕行社近現代史研究会 松田純清」 定例会発表資料および「ウィダー・バッゲ供述書」より抜粋)



<バッゲのスイス訪問>


もともと実現の可能性は極めて低い和平工作であったが、これで日本終戦外交の舞台からバッゲは消えた。しかしその後まもなくしてバッゲはスイスを訪問し、加瀬俊一(かせしゅんいち, Shunich Kase)スイス公使と与謝野秀書記官と懇談をした事は、あまり知られていない。その内容が本国に送られたのが以下の電報である。(一部筆者補足)

1945年6月11日 在スイス加瀬公使より東郷外務大臣宛て
「日本の対中立政策及び和平問題に関するバッゲとの懇談について」

8日“バッゲ”駐日スエーデン公使、本使を来訪。与謝野を交え懇談したるが、同人談話中、参考となるべきもの、下の通り

1 (バッゲは)今般スイス政府当局とも会談の機会ありたるが、日瑞(日本―スイス)関係が意外に悪化しているは驚きたり。 自分は(スイス)当局者に対し、日本の事情等を説明し、両国関係を悪化せしむることは、日瑞関係の為に何ら益なきことを、スイスと略々(ほぼ)同様の立場にありたるスエーデン公使としての経験より話おきたり。

カミーユ・ゴルジェ(駐日スイス,Camille Gorgé)公使がナーヴァスになっていることは、自分も承知している所なるが、日本も中立国を大切に取り扱われる事、日本の友人として希望に堪えず。
(日本の)憲兵及び警察官の態度の為、国交を害するが如き事は、全く惜しむべし。

2 日本の和平説種々、流布せられる所、米国人が無条件降伏を唱えている内は、問題にならざるべく。いわんや皇室にまで、累を及ぼさんとするやの行動に至りては、全く日本を知らざるものと、言うの他なし。

なお最近の和平説は、日本がソ連を通じ、英米と話し合いを付けようとするやに伝えられる所、自分はこれを信じないが、もし日本側の一部に斬る考えあれば、これが見当外れと言うの他なく、和平の成立を最も希望せず日本の力尽きたる瞬間に、甘き汁を吸わんとするものはソ連なりと考える。

今次ソ連内旅行に於いても、西方より東方に移動する列車特に飛行機の数には“インプレス“せられたり。

3 中立国のみならず、赤十字の取り扱いに付いても日本側が進んで、これを利用するの態度に出てられんこと、希望に堪えず。自分は“ジュノー”博士(Marcel Junod)とも懇談したるが、同人は日本のためにも決して不利ならずとの印象を受けたり云々。

(ちなみに同公使は仏国内にある財産整理の為、パリに飛来し、当国(スイス)にも立ち寄りたる旨、語りおるが、スイス政府及び赤十字側の依頼を受け、事情説明に、当国を訪問せるものと察せられたり。)



<電報の分析>


終戦直前で「日本の和平」の題名のスイス発の上記電報に関し、筆者が関心を持つのは次のような点だ。

1 この電報は外務省編纂「日本外交文書」という資料集に収められている。国会図書館では開架式書架に収められ誰でも閲覧可能である。一方外交史料館の史料を検索しても出てこないようだ。原文はおそらくそちらには保存されていないのではないか?また日本の外交電報を傍受解読していたアメリカ側の史料から引用した事例も、筆者は寡聞にして知らない。

2 加瀬公使が見抜くように、バッゲのスイス訪問の真の理由はスイス政府およびスイスに本部を置く国際赤十字の要請である。バッゲが帰国した1945年5月頃はまさにドイツが敗北した時期で、シベリア鉄道を経由して欧州に戻った人間は彼くらいのはずである。

一方軽井沢に疎開中のゴルジェ駐日公使は相当神経質になっていて、軽井沢での生活の窮状を訴えるような電報などが本国に打たれていた。またジュネーヴに本部を置く国際赤十字では、マルセル・ジュノーが日本に向かう直前でもあった。ジュノーは終戦直後に広島に医料品を届けたことで知られる。スイスとしてはバッゲから最新の日本の情勢を知りたいと思ったはずである。

3 バッゲは一方、加瀬公使を通じて日本に対して、(戦況が不利な中)こうしたスイスのような中立国、国際赤十字のような機関をうまく利用するよう促し、日本に駐在する彼らの代表を丁重に扱うよう求めた。自身が滞在した日本ではその反対を感じたのであろう。

4 また日本がソ連を通じ英米と交渉に入ろうという和平の噂が述べられている。この時期、すでに相当流布していた裏付けとなろう。そしてバッゲ自身はシベリア鉄道で帰国の途中、東に向かう列車、飛行機の数の多さに驚く。

5 バッゲが重光外相らと和平の模索をしたことは述べたとおりであるが、一方の加瀬俊一スイス公使は、ドイツの降伏に接し、敗戦国となった公使らとの会話で心が動き始め、5月14日には自分の意見として、交渉による和平を本省に訴えている。

そして最後に「和平の方策として好ましいのは、ソ連に仲介を委ねることである」と、長文の具申電を東京に送ったわけだが、バッゲはソ連に仲介を頼むことを「見当外れ」と言っている。そのためではないであろうが、加瀬はその後はアメリカとの直接の交渉を後押しする。

バッゲと加瀬は心の中には日本の和平への取り組みの思いを抱きつつも、それを披瀝しあうことはなかったのは、悔やまれるところである。



<与謝野秀書記官の考え>


今回の懇談で、和平への取り組みの妨げになった一因と筆者が考えるのは、会談への与謝野の出席である。加瀬公使はその後も横浜正金銀行の北村孝治郎を中心とした和平への取り組みに関与し、7月19日に本国に打った電報では
「(スイス陸軍武官)岡本(清福)中将とは根本において同意見なるも、、、与謝野書記官は全然不同意、鶴岡以下の館員は一切関知せず」
とある。与謝野は公使館では加瀬公使に次ぐポジションである。加瀬の和平への取り組みに全く同意しない、与謝野が同席していては、バッゲに対しても話を出すことは出来なかったであろう。

与謝野は戦後、反対した理由について、自著に次のように書いている。
「東京が決心しなければ、出先限りで勝手なことをして、たとえ先方と話が進んでも、またまた日本にひっかけられたという事がオチで、返って悪い結果になるからだめだというのが、日米交渉はじめ過去の苦い経験を知る私の意見だった。
1日も早く和平という点では一致しながら、方法論で公使や岡本(清福)中将と私は多少意見を異にした。」
(「その日、あの日 ヨーロッパの想い出」与謝野秀より)

しかし与謝野は、自説に基づき本国が動くよう何か働きかけたかということもないようだ。歌人与謝野鉄幹、晶子を両親にもつゆえ、リベラルな思想を持つかと思われるが、終戦への取り組みでは慎重であった。しかしこれが、欧州に駐在したキャリア外交官の一般的な考えであったと言えるかもしれない。与謝野の反対(消極さ)がスイス和平工作失敗に、だめ押しをしたといえようか?



<与謝野書記官の会見記録>


与謝野はバッゲとの会見から1年ほど後、「一外交官の思い出のヨーロッパ」にその時の様子を書いている。
著書の中で、バッゲの終戦工作については一切触れられていないので、この時点ではまだ日本では知られていなかったか、少なくとも与謝野は知らないようだ。

「バッゲは日本の皇室より受けた寵遇に対する感激などを語った後、次のように述べた。
(日本に滞在する中立国などの)外国人に対する日本の憲兵や警察の態度の為に、日本の国民がどんな不利を招くか。本当に残念だが、国民が了解するときはもう時機遅れだ。(後略)。

バッゲがスイスへ来てみると、マニラ事件その他でスイスの対日感情が悪化し、国交も危なくなっていたので、驚いて私どもに、注意してくれたのであった。」

中立国人の扱いに注意するよう加瀬公使名で本国に打電したのは、すでに見たとおりだ。
またバッゲが皇室より受けた寵遇とは、1945年3月に受けた勲三等の叙勲を指していようか?



<奇妙な人事>


テーマから少し離れるが、与謝野についてもう一つ書く。遣欧使節団の任務を終え、スイスに赴任した与謝野は1944年8月ころ(加瀬俊一が阪本瑞男公使の死去後に赴任した翌日)、スイスからドイツへの異動を命じられた。

誰もがドイツの近い崩壊を予測し、ベルリンの日本大使館ですらスイスの強化を名目に、苦労して大使館員らのスイス滞在ビザを取得し、多く避難させていただけに、そのスイスから出るというのは普通ではない。ましてやフランス語が専門の与謝野はベルリンで活躍できるとは思えない。

ベルリン出張中に噂を聞いた岡本中将は、与謝野に
「新任加瀬公使とあなたの仲は良くない。加瀬公使の着任を機にあなたをベルリンに呼んで、まとまりの悪い(ドイツ大使館)館内を引き締めようという噂がある。」と告げている。そしてその後すぐに、実際にドイツ異動の話が来た。先述の本の中で加瀬公使との不仲説を、与謝野本人は否定しているが、この噂の中に若干の真実がありそうである。また加瀬と与謝野が不仲であったとすれば、共に和平に取り組むことも難しかったかもしれない。

そして数か月後の翌年2月21日、与謝野は再びスイスへの入国の申請をしている。3月7日にベルンの日本公使館は、さらに5人の外交官の入国を希望するが、その際「少なくても与謝野には入国許可を」とスイス外務省に説明した。

こうしてドイツ敗戦直前の3月18日に与謝野はベルリンを離れ、スイスに入ることが出来た。ソ連軍はベルリンに60キロの地点まで迫っていた。スイス側には与謝野に関して、「前の駐在時の良い印象から入国を認めてよい」という内部資料が残っている。(スイス公文書館資料より)

このわずか5か月のベルリン滞在の後、再びスイスという計画性のない動きの理由も不明である。日本の外務省は与謝野のスイス入国後の4月17日付けで与謝野の辞令を起草しているので、出先であるドイツ大使館(大島浩大使)の判断で進められたと考えられる。一つはっきりしていることは、これで与謝野には東からのソ連軍、西からの連合国軍に捕まる可能性、市街戦に巻き込まれる可能性が無くなったことである。

そこには与謝野鉄幹、晶子の子息であることが影響していようか?ちなみ重光葵外相の甥、重光晶官補もフランス引き揚げの直後の1944年秋、ドイツからスイスに異動となっている。

(2016年10月16日)

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