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日本 スイス国境を目指して 瑞西
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<スイスは定員オーバー>

一九四五年一月、戦争六年目のドイツは、東西からベルリンを目指す連合軍に挟まれ最終段階を迎えつつあった。五月の敗戦を目前にしたベルリンの日本大使館では、ドイツに滞在する邦人の名簿を作った。

名簿をまだ日本とは中立関係にあるソ連に渡し、ソ連軍がベルリンを占領した際に、彼らを中立国人として無事日本に送り届けてもらうためであった。ソ連外務省はその依頼を快く引き受けた。独ソ戦の最中に、日本が彼らの背面にあたるシベリアに攻め込まなかったことへの、せめてものお返しかもしれない。

手渡された「邦人リスト」には五百六十四名の名前があった。遠くアフリカからフランスを経由してベルリンに逃げ込んできた邦人も中には混じっていた。彼らはドイツの崩壊に際し、二つの方法で帰国を考えていた。

まず外交官はドイツ外務省の用意した南ドイツ、バード.ガスタインという温泉地に避難が決まっていた。彼らは外交特権もあり、抑留されても米英は手荒なことはしないであろうと予想された。

一方身分保証の無い民間人は、ベルリン総攻撃を合図に市の中心から数十キロ離れたいくつかの避難所場所に集結し、ソ連軍の到着を待つ手はずであった。先のリストは主として彼らのためであった。日本と交戦中である米英軍の手に落ちないよう、避難場所の選定には気を配った。

そんな中、ドイツから程遠くない中立国スイスへの避難は理論的には可能だが、残された邦人にとっては全くのあこがれでしかなかった。何故ならスイスは開戦以来一貫して、入国査証の発給を厳しく制限し、難民の移入を厳しく取り締まっているからだ。ユダヤ人というだけで、ドイツの支配下では死を意味した。しかしスイスはそれだけでは亡命を認めず、不法入国者は全て押し返した。

一九四二年十月には一万一千八百人であった難民の数は四十五年には十万に達し、スイス国内では"Das Boot ist voll."(小船であるスイスは定員オーバー)の声が大きくなっていた。当時のスイスの人口は四百五十万人ほどである。この十万人という数は、スイスには負担であったかもしれないが、入国を希望する人の数に対してはあまりにも少なかった。またスイスが「定員オーバーの声」を出すのは早過ぎで、まだまだ受け入れられたはずであるという非難もある。

大戦の勃発当時、そのスイスに邦人はわずか二十名ほどしか滞在していない。終戦の年には八十名を超すようになっていたが、彼らはほとんどが外交官、軍人及びその関係者であった。アジアに滞在するスイス人の待遇改善の目的で、スイスは日本人外交関係者には比較的寛大に入国査証を発給した。一方民間人の入国は、他の外国人同様まったく認められない。よってベルリンの邦人は、誰もスイス入国を考慮だにしなかった。しかしどこにも例外はある。まさに難民として中立国入りを許された邦人もいた。そんな彼らの奇抜なスイス入国体験を紹介して行く。


<最後の国際列車>

一九四四年は終戦一年前の年である。後半にはいると連合国の連日の空襲で、ドイツでは鉄路も散々痛めつけられ、列車の運行は不定期になっていた。その年の十二月、南ドイツのシグマリンゲンという都市からベルリンに列車で旅をした桜井一郎中佐によると、約五百キロを四十八時間かけて列車は乗客を運んだ。

車内は満員で途中での乗り降りは皆窓から行い、ホームにはそのための台が等間隔に置かれていた。トイレに行くことも出来ず,ドイツ人に体を支えられ窓から用を足したという。日本の終戦直後の列車も同じであったかもしれない。

それでもベルリンとチューリッヒ間の国際列車は空襲を受けにくい夜行であること、およびドイツの威信もあって、年が変わり一九四五年になっても、比較的予定通り走っていた。戦前のダイヤによれば、国境の町バーゼルを十九時三十分に出発した列車は、ベルリンに翌朝八時二十九分に着いた。おそらく戦争中も同じ運行であったはずである。そして第三帝国終焉を迎える時期が近づいても、一夜で両都市を結んでいたことは以下の記録から見て取れる。

朝日新聞のベルリン特派員からスイスへと転勤を命じられた笹本駿二は、一九四五年一月二日の夜、空襲警報の鳴り響く中、その国際列車でベルリンを離れた。以下はスイス入りした笹本の感想である。
「翌朝のひる前チューリッヒ駅に降りたわたくしを、笠さんとT君とが迎えてくれた。"ここまで来ればもう大丈夫だよ。" まるで政治亡命者でも迎えるような笠さんの言葉だった。」
この様にまだスイス入国自体はそれほど苦労ではなかった。

謝野秀>

さらにドイツが追い詰められ、最後にスイス入りした外交官は与謝野秀一等書記官である。かれは三月十八日にベルリンを離れた。ドイツ崩壊の四十日前のことだ。ソ連軍はベルリンまで六十キロの地点に到達して、最終攻撃の態勢を整えていた。

ベルリンとスイスを結んでいた国際列車はもう運行されていない。南ドイツのシュトットガルトとチューリッヒを結ぶスイス航空の航路は前年の四十四年の八月に停止となっている。

与謝野はオーストリア領内のバード.ガスタインへ避難する外交官とともに自動車で南を目指す。闇市で買い集めたガソリンを出しあった。
一日目はバイロイトまで来た。二日目にミュンヘンを通り過ぎ、国境のブレゲンツに着き、翌朝スイス入りした。正式の書類を持っていたので入国も問題はなかった。全三日の行程であった。

また軍人では藤村義一海軍中佐が、三月十八日に車でベルリンを離れ、四月にはいってスイス入国を果たした。藤村中佐一行のスイス入国に関しては、ユダヤ女性を一緒にベルリンから逃亡させたと言う回想があるが、筆者はまだそれが事実か確認できていない。(「終戦前後秘話」参照下さい。)


これが民間人となると事情は異なる。また彼らは外務省の指示ではなく、自分でスイス入りを希望し、かつ実現しようとした。

倉知緑朗、古澤淑子夫妻>

倉知緑朗、淑子の二人は共に音楽家で、それが縁で滞在先のフランスで結ばれた。連合軍パリに迫るの報で二人はベルリンに避難し、緑朗は同盟通信社の事務員として職を得たが、フランス派の彼にとって、ドイツはまったく居心地の悪い場所であった。

四十四年の暮れ、淑子は軽い肋膜炎と診断された。医者はドイツでは手当てできないのでスイスへ行くことを薦めた。早速スイス領事館に行ったが、新聞記者として入国申請したため、許可はなかなか下りない。とにかく南ドイツで査証を待つことにして翌年二月二十六日にベルリンを列車で離れた。

着いた先はペタン元帥の親独フランス政府も避難していた、シグマリンゲンという小都市であった。後に紹介するが当時この町には、日本人外交官が複数滞在していた。その一人であった三谷隆信フランス大使(当時)は、回想録にこう書いている。

「(自分の投宿していた)宿の娘の友人に、駅の切符売りをしている娘さんがいた。その頃ある日本人夫妻がベルリンからシグマリンゲンに、目当てもなく疎開してきたが、夜遅く駅につき駅の待合室で休んでいたのを、この娘さんが見つけ、自分の家に連れて行き、自分は母親の部屋に同室して、しばらく世話をしてくれた」
この文章から判断しても団体行動をとらずに、勝手に行動する民間人に対し,外交官は冷淡であったことが想像できる。

緑朗は査証を求めて当地のスイス領事館へ日参するが、いつも「待ってください」の一点張りである。ちょうどフィリピンでスイス人十数名が日本軍の手で虐殺された事件の後で、対日感情は最悪であった。それでもドイツの最期が近づいてきたので、査証のないまま国境の町ブレゲンツへと移動した。

そうしている間にも淑子の病状は悪化する。そして四月二十日、ホテルで「今日の午後スイス向けに出る列車を最後に、列車の連絡も途絶える」と聞き込み、その最終列車に飛び乗った。ちなみに当時の朝日新聞も「四月十九日、スイスは押し寄せる難民対策のためスイス東北部の国境を閉鎖」と報じている。夫妻の行動もこれと関連していようか?

税関のあるサンクト.マルガレーテンに着くと、構内放送があり「入国査証のあるものは列車から降りてよろしい。査証の無いものはそのまま席に残り、引き返す列車でドイツに戻るように」と告げた。

同乗していたドイツ婦人たちは「自分らはアメリカ人と結婚しているからスイスに入る権利がある」とわめいたが、兵士に無理やり列車へと押し戻された。そのうちの一人は「ホームの柱にしがみついて、ドイツには戻りたくない」と泣き叫んだという。

スイス官憲の管理は噂通りに厳格であった。緑朗はこの光景を見てとっさに「病人がいるから軍医を呼んでほしい」と頼んだ。するとかなり年取った医者が来て、簡単な診察らしきを済ませると「一応、降りろ」と言った。そして希望する病院ではなかったものの、町外れの難民収容キャンプに送られた。夫婦別々の収容だった。

スイスでは赤十字の精神が発達していたことを緑朗は咄嗟に思いつき、利用したと言える。ドイツ降伏後間もなくして、二人はジュネーブに移送された。淑子はジュネーブ近郊のサナトリウムに入ることが出来、回復にむかう。

やはり入国したばかりの与謝野一等書記官が見舞いに来て、シャンペンを抜いて無事を祝った。あの時押し戻されていたら、二人はどうなっていたかわからない。国境での特例に関し与謝野は、自著の中で「容姿端麗な日本婦人がスイス官憲の同情を惹いたのであろう」と推測している。

<西村ソノ>

西村ソノは今もお茶の水にある文化学院の院長西村伊作氏の令嬢であった。同学院は自由闊達な校風の学校として知られるが、西村は戦前チェコのプラハに留学して、美術工芸の勉強をしていた。桑木務氏の著書「大戦下の欧州留学生活」には彼女の当時の写真が載っているが、大変洗練された姿である。その後ウィーンに移るが、そこもソ連軍の進出する所となり、ベルリンにやって来た。

戦争最後の年のある雪の夜、西村は与謝野を訪問する。そして
「ベルリンの運命は風前の灯火であるから、自分も日本人の避難地に予定されている郊外のベルチヒに行ってみた。しかし数百人の日本人の中に自分のような若い女性も少ないし、食事の点などでベルリンの方がまだましなので、一応帰って来た。いざとなれば皆と合流することになっているが、まだ勉強の途中でもあるし、中立国のスイスかスエーデンへ避難し、勉強を続ける方法はないかと、日夜悩んでいる。貴方はいずれスイスへ帰られるという話だが、何とか知恵を貸してもらいたい」と打ち明けた。与謝野は

「日本人であなたより先に希望を出した人で、いまだ許可が下りない人が相当に多い。ウェイティングリストが詰まっている今日では、手遅れだと思う。やはり日本人全部と運命を共にするつもりでベルチヒに残ることが、一番早く故国へ帰れる道だと思う」と、説教交じりに西村の時局認識の甘い考えを諭した。

但し試みる価値がある方法として
「公使館を通しての取得はもう先に述べたように手遅れの状況だが、個人でベルリンのスイス公使館へ行って、今までの経歴を話し、スイスで勉強を続けたいという希望を申し出れば、あるいは先方も出先の権限で好意的に取り計らってくれるかもしれない」とアドバイスした。

間もなくして与謝野は西村に別れの挨拶も出来ずに、あわただしくスイスに向かった。そして四月中旬、突然ベルンの与謝野の元に西村からの電報が届いた。西村は与謝野の助言に従って、すぐさまスイス公使館を訪問していた。

「応対した書記官は大変同情して、
スイスの学校の入学許可と生活費の保証人があれば大丈夫ということだったから、貴方のことを親戚ということで話したら、それなら問題無いだろうと説明した。ついてはスイスの外事警察に口添えをしてほしい」という内容であった。

与謝野は慌てて、顔見知りの警察の長官を訪ねて訳を話した。しかし長官からの答えは否定的であった。外交官の頼みでも、例外は認められないとのことであった。与謝野は失望したが、その内容をそのままベルリンに打電した。

ところがその電報が着いたとき、すでに西村は南に向かってベルリンを後にしていた。西から迫るアメリカ軍と東から迫るソ連軍がエルベ川で手をつないだのが四月二十五日である。ドイツが南北に分断される前に、ベルリンを脱出しなければならなかったからだ。

ドイツが降伏して間もなく、与謝野はドイツ語の電報を受け取った。
「ブレゲンツの国境に来て査証を待っている。至急お願いする」という西村からの悲痛の叫びであった。赤十字のキャンプに入った彼女は、毎日国境の税関に出頭して査証の到着を問い合わせた。その可憐な姿はスイス側官憲の間でも、有名になっていた。

このままではいつまで経っても西村は入国できない。与謝野はもう一度奔走する。そしてようやくローザンヌの大学から入学許可を得ると、連邦警察は国境の税関に電話をかけてくれ、西村はスイスに入ることが出来た。

彼女のベルリンを出てからスイス国境までの経過も波瀾に富んでいた。もっぱら通りすがりのドイツ軍のトラックや軍用車に乗せてもらって、国境の町ブレゲンツまでたどり着いた。その間爆撃があり林の中に避難して戻ってみると、自分の乗って来た車は炎上していたという。

ドイツの装甲車に便乗していた時は、後方で空を眺めて警戒していてくれと頼まれた。そして言われた通り後ろ向きに腰掛けていると赤十字のバスが来たので、そちらに乗り換えた。すると車のドイツ兵は手を振って別れを惜しみながら「やはり女は得だ!」と叫んだ。

赤十字のキャンプではほかの収容者と、どうやって国境を越えるかばかりを考えていたが、やがてドイツは降伏する。するとそこの司令官は日本にとって交戦国であるドゴール派のフランス人将校になった。ところが西村に査証が出たと分かった晩、司令官はシャンペンを抜いて祝ってくれた。このように可憐な東洋からの女性はどこでも丁重に扱われた。

「マールスドルフ会」という終戦時のベルリン駐在邦人が一九六五年に発行した会報の住所録によれば、西村はアメリカ、シアトル在住でベルガー夫人となっている。


前列右が西村ソノ 1945年のクリスマスをスイスで山路家と過ごす。後列右端は次に述べる三谷大使。(山路綾子さん提供)

三谷隆信>

三谷は一九四○年秋から、一九四二年春までスイス公使を勤めた後、フランス大使として親独政権の首都であるヴィッシーに滞在していた。連合軍の反撃でフランス政府はそこを追われ一九四四年秋、南ドイツのシグマリンゲンの古城に避難し一応臨時首都となった。倉知夫妻がスイスのビザを入手するために到達した町である。そして三谷大使ほかの日本大使館員もヴィッシー政府と行動を共にしていた。

一九四五年四月二十日朝五時、三谷ほか四名のフランス大使館員はいよいよそこも引き揚げる。そしてその夜は東方六十キロのワンゲンの民家に一泊する。共に行動するドイツ人が同盟国外交官のために見つけて来た家だ。正午にはもうフランス軍の先遣隊がシグマリンゲンに入る。

翌日はブレゲンツに一泊する。ドイツ側はさらにチロルへ一行を案内しようとするが、三谷はスイス入りを決め、スイス入国手続きにはいった。許可は例外的にすぐに下りた。この時スイスの外務次官であったウォルター.ストゥーキイはヴィッシーでスイス公使だった関係で、三谷をよく知り「国境に三谷大使が現れた場合にはスイスに庇護すべし」という訓令を出していたからであった。

二十二日夕刻、三谷ら一行は車で国境を越えた。スイス側の車に先導され、車は警察署に横付けされた。すると三谷の車に同乗してスイス入りしようとしたヴィッシー政府の情報大臣パウル.マリオンは車から下ろされ、フランス側に引き渡された。彼の顔は真っ青になっていた。自由になった三谷はスイス側の都市サンクト.ガレンの街を散歩し、平和な空気を吸っていることをつくづく感じた。


外交特権はやはりありがたかった。しかし三谷はスイス国内では外交官としての特権は与えられない難民扱いであった。ベルンの公使館から本国に早期に日本の和平を唱える電報を一本だけ打ち、モントルーのホテルに引っ込んだ。


<沼田英治駐仏陸軍武官一家>

三谷大使と共にシグマリンゲンに滞在していた沼田武官は、1945年1月に岡本清福スイス陸軍武官が軽い脳溢血で倒れると、猛烈にスイス入りを日本に働きかけた。沼田は妻照子、次男光春、三男順を伴っていたため、家族を安全な場所に移したいという気持ちが強かったからである。

スイス公文書館の記録によると、沼田一家が暫定スイス武官(als interimistische Militaerattache)として入国申請を行ったのは2月のことで、スイス側は3月24日に岡本の後任として了解し、4月9日に許可を出した。

そして4月9日、ドイツ崩壊わずjか一か月前であるが、一家はシグマリンゲンを発ちスイスに向かい、無事入国した。


フランス ビッシーにて。 軍服姿が沼田武官、前後が光春、順。妻照子は中央。右となりが三谷大使。

<倉知夫妻のその後>

特別にスイス入国を許された倉知夫妻は戦後、放送局に職を得て、そのままスイスに滞在する。終戦の翌年にはマッカーサー元帥の名で欧州に滞在する全邦人に対しての帰国の指令が出された。こうしてスイスからも三谷大使、与謝野一等書記官や西村そのを含む百名近くが引き揚げると、後には倉知夫妻、スイス人と結婚していた男女四名ほどのみが残ることとなった。ベルリンの海軍武官室に勤務した酒井直衛はスエーデンから本国に引き揚げたが、戦時中からスイスに避難させていた英国人の妻と二人の娘もジュネーブに残った。スイスの邦人数が近年で最も少なくなった。

倉知の妻淑子は、一九五二年ころより日本で声楽家として活躍するようになり、ふたりは離婚する。その後彼女が引退をした一九七五年に再婚し、再びジュネーブで暮らしはじめる。夫緑朗は戦後一貫してスイスに暮らしている。スイス滞在の一番の古株である。そんな倉知夫妻の名前が新聞に久しぶりに登場したのは、今年三月のことである。

ソプラノ歌手古沢淑子(旧姓)は二月十日、庭を散歩中に転び、左足の骨を痛めた。病院でベッドから落ちて傷が悪化、十五日の手術中、急に亡くなった。
夫の倉知緑朗さん(八七歳)は電話の向こうで言った。
もっと長生きできたかもしれません。でも悔やんではいないでしょう

(2001年5月4日)



イス入国を果たせなかった人々


ここからは終戦間間際、スイス入国を目指したものの、果たせなかった人を紹介する。

<東南から>

東南からもスイスの国境を目指した一団があった。日高信六郎駐伊大使は元々ローマに駐在していた。しかし連合国の接近で一九四三年九月には北イタリアに避難し、まずベニスに大使館を移した。

1944年1月1日コルティナ ダンペッツオにて 
子供は左端が清水泰子さん、首をかしげているのがまゆみさん。水兵服を着ているのが山下兄弟。
ブレザーの二人が三城兄弟。その真後ろが清水武官で左隣が日高大使。

いよいよ連合国迫るの報で,彼らが目指したのはスイスであった。五月二日、ベルンの日本公使館に日高大使のメッセージが届いた。それによると日高大使他二十八人の日本、満州国外交官らは国境の町ミュンスターに着いて、スイス入りを要求した。しかし国境責任者より拒絶されたとのことである。加瀬俊一スイス公使は「非常な困難が予想されるがスイス政府、軍当局者と交渉をする」と折り返し伝えた。
ちなみにミュンスターは1944年にミュスタイアーと名前を変え今日に至っている至っている。スイスで最も奥深い地域にあり第四の公用語ロマンス語が残り、今日でも使われる村である。


直前にはフィリピンで十数名のスイス人が日本陸軍の手で殺害された。五月四日、交渉のため外務省に出向いた加瀬に対し、スイス側はけんもほろろであった。日高らの入国許可を引き伸ばし、このままでは国交断絶、人道的見地から入国を許可した三谷大使らも国外追放すると威嚇した。加瀬公使は日本政府にフィリピンでの事件の処理を急ぐ様依頼する一方で、館員の一人上田常光をミュンスターに送ったが、日高大使一行に接触することは出来なかった。

スイス東端の国境に突如と現れた東洋人の一行は、警備に当たるスイス人にも印象深く映った様だ。後に一人が書いている。
「ローマの日本大使館の小柄な紳士一行が良く磨かれた黒いリムジンで到着し、スイスが支給した毛布をしいて牧草地に座わり,我々の食器に注いだスープを受け取っている。かれらは入国許可を待っていて,それを受け取ることになる」

ここでは「一行はスイス入国の許可を得た」と書いてあるが、事実は異なる。五月七日に正式にスイスより入国を拒否された彼らは、イタリアのメラーノに引き返す。そこで進出してきた連合国軍に捕らえられ、戦後ナポリより帰国する。(内六名の軍関係者は大島大使らとアメリカに移送される)

さらに戦後間もなくのスイスからの帰国者リストを見ると、ウィーン公使館勤務であった井上賢曹領事と家族、また山路章ブルガリア公使の夫人澄子ら家族の名前がある。井上は病気の娘を抱えていたため、他の公使館員と別れ独自にスイス入りを目指していた。山路夫人も早くからウィーンに避難していた。彼らの入国の記録は見つけることは出来ないが、人道的に入国を許されたのであろう。あるいは入国はドイツ崩壊後のことであったかもしれない。(後日調査の結果、井上家は入国できなかったことが判明)


<井上賢曹一家>

イタリア語の専門家として戦時中はローマ大使館に勤務した、井上賢曹書記官一家はスイスに入るということで、荷物も送り出したが、結局入国査証は得られずにオーストリアの町シュルンスで終戦を迎え、ここからナポリに向かい、日本に帰国する。その詳細については「日本人小学生の体験した戦時下のイタリア」参照頂きたい。


<光延東洋駐イタリア海軍武官遺族>

「スイス入国を目指すが、駄目な場合は日本人外交官の避難場所である、オーストリアのバードガスタインを目指す」とベルリンから南に向かった邦人は多い。報道関係者はその典型で、同盟通信のベルリン支局長の江尻進は避難途中にガルミッシュ・パルテンキルヒェンからスイス国境に向かおうとした日、スイス国境にフランス軍が到達して、スイスを目指すのをあきらめたが、当初より何が何でもスイスに入るという気構えではなかったようだ。

しかし光延東洋駐イタリア海軍武官の遺族一行は、ビザはないにもかかわらずスイス入国を試みた。その経緯は「光延海軍武官一家が体験した戦時下の欧州」を参照いただきたい。ここでは光延一家をベルリンから引率した皆川清海軍中佐の回想から、実際にスイスとの検問所で起こったことを書き記す。

一行がベルリンを発つ際、海軍武官室が手配したのは英語、独語、仏語、伊語の4か国語を話す秘書Frau Weberを同行させたこと位であった。国境の町コンスタンツで皆川は妙案もなく、機会あるごとに国境の検問所に駆けつけるが、思うようにいかずに思案に暮れていた。そうこうするうち4月26日になり、アメリカ軍の装備をしたフランス軍が進駐してきて、皆川の泊まるホテルの下の道を戦車が走って行った。

光延家(2歳の子供を含む)を連れた一行は慌てて国境に駆けつけた。その様子は以下のようだ。
「国境の門付近は大勢の人、スイス側にはスイス軍の兵士、ドイツ側にはドイツ兵がいつもならば警備してるがドイツ側には誰もいない。国境付近の家々はすっかり表戸を降ろして、しんとしている。スイス側警備兵に入門通過を申し入れると、ただ今労務者が通過中につきしばらく待てとのこと。大分待たされたがその間、数回入門を申し込んだが、いずれも待てとの指令。

いつまで待つべきやと思っているところへ連合軍の幹部が車で乗り付け、スイス側と握手を交わし、ドイ軍警備兵の代わりに連合軍の兵士が立ち、直ちに国境は閉鎖され、出入り禁止となった。」

こうして一行のスイス入国は不可能となった。



<同盟通信社 菊池守>

報道関係者の中に、ひとりスイス入国を試みたものがいた。同盟通信社のベルリン支局に勤務した菊池守である。先述の皆川中佐は、コンスタンツのホテルの食堂で初対面の日本人と会った。話をするうちに同盟の菊池守であることを知った。(皆川はX氏と書いているが、筆者は菊池氏であると考える。)

菊池は社命ではなく、非公式にこの町に来たという。そして知人を頼ってその人の手助けで、スイス越境をしようとしたが、その知人がすでにどこかに行ってしまったので目下知人を捜索中と、少し唐突な説明をした。

この知人はドイツ人の女性であったと思われる。先述の西村ソノがベルリンを脱出する際、一人の同盟の記者がフォルクスワーゲンで南下するに際し、ベルリンの日本大使館がソノにその記者の車に同乗出来るように話をつけたという。そしてその記者は、大使館の人に見送られてしばらく走ってから、途中で待たせてあったドイツ人の娘を車に乗せたと回想している。筆者はこの同盟記者もコンスタンツのX氏、菊池であったと考える。

そしてコンスタンツでその女性が行方不明になったとすれば、南に避難したいその娘に菊池は利用されたのかもしれない。ドイツ人にはこうした移動の自由はなかった。

皆川が菊池のコンスタンツでの行動をさらに記している。
「かれ(菊池)は知人を探し当てず、止むなく国境のあちこちを一日中歩き回わり、(スイス側への)目ぼしい抜け穴を探し回ったが、成果なく近くの住民が同情して食べ物やなにやらを与えられ、フラフラになって帰ってきた。」

スイスが不法越境を厳しく取り締まった時代に、日本人が容易く国境突破を出来るとは思えないが、菊池は特別な通り道があるとでも聞いて探したのであろうか?

そしてフランス軍が進駐してきて菊池も国境の検問所に向かったが、やはりスイス入国は果たせなかった。

コンスタンツで一時一緒に行動した光延孝子によると、菊池はコンスタンツでフランス軍に捕らえられ、パリの収容所に送られた。その後フランスの港町、ルアーブルに送られ、バートガスタインなどで抑留された日本人外交官らに合流しアメリカに送られた。(小野満春「僕の欧米日記」)



<ドイツ陸軍武官室>

ドイツ陸軍武官室は小松光彦陸軍中将をヘッドとする大所帯であったが、1945年1月15日、ベルリン南方50キロのトイピッツに早々と疎開を開始した。その後はオーストリアのサンクト・ギルゲン(St. Gilgen)に移るが、彼らもスイス入国を試みた。そのため4月14日、石塚武雄中佐と吉成睦太郎少佐がスイス国境に向け出発した。スイスの陸軍武官室とスイス入国の狙いも含めて協議するためであった。

ベルリン陸軍武官室の一員であった石毛省三大佐は
「スイスの武官室と連絡はついたが、ドイツとスイス間の国境閉鎖の関係上、実現するに至らず」と戦後書いている。

一方要請を受けたスイス陸軍武官室の桜井一郎補佐官は次のように回想している。

「中村賢一中佐を派遣し、国境近くの町で石塚中佐と相談させた。そして中村中佐の帰来を待って、スイス政府に善処法を申し入れた。」それに対しスイス政府からは、入国してくれば抑留するとの返事であった。しかしベルリン武官室は強硬で

「抑留は捕虜の身、断じて受け入れることは出来ない。日の丸の旗を立て、一同軍服で堂々と入国を要求する」と答えた。
桜井はベルリン組に何度か翻意を促したが拒否された。そうして時間が過ぎ彼らは大使館組と一緒に、バード・ガスタインでアメリカ軍に抑留された。

外交官待遇である彼らは、何が何でもスイスに入りたいというでもなかったようだ。
(2014年3月9日)



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