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吉川春夫海軍中佐 最期のメニュー
Commander Haruo Yoshikawa and the last menu


<序>

自分のホームページで欧州の邦人の記録を紹介していると、嬉しい事に貴重な情報を寄せてくれる方がいらっしゃる。最近、ロケット戦闘機「秋水」の調査・研究をされ、本も出版されている、柴田一哉さんより、ベルリンに駐在した吉川春夫技術中佐の資料をお借りすることが出来た。

そこには一枚の客船の食事メニューカードがあった。格式ばったレストランでテーブルに置かれる、コース料理の内容を紹介するものである。印刷されたドイツの名門船会社"Hamburg-Amerika Line"の社名の印刷の右横には
昭和19年(1944年)3月29日 於キール 吉川晴夫と手書きで書かれている。

メニューの表紙

この食事会の翌日3月30日、吉川は同僚の根木雄一郎技術大佐、江見哲四郎海軍大佐そしてスイス駐在の山田精二技術大佐と共に、ドイツから日本海軍に寄贈された潜水艦、日本名「呂501」に乗り込み、日本に向かう。4人それぞれ機密兵器の設計図等を所持していたが、吉川はドイツ空軍の誇るターボジェット機の設計資料を携えていた。

日独を行き来する潜水艦の被害も年ごとに増していたので、吉川と同じ資料を半月後の4月16日に、フランスのロリアン軍港を出港した伊号第29潜水艦に乗り込んだ巌谷英一技術中佐も携行した。いかに危険な航海であったが想像できる。

呂501号はドイツの潜水艦であったが、日本に向かった際は乗組員も日本から潜水艦でやって来て、ドイツで訓練を受けた日本海軍の軍人であった。彼らの習熟ぶりはドイツ側も賞賛するところであった。しかし同年5月13日、アフリカ大陸西岸で米護衛駆逐艦の攻撃を受け、沈没し全員戦死を遂げた。

このドイツ最後の夜の食事会のメニューの裏面に吉川は、乗船前の思いを書き留め、同席したベルリン駐在の樽谷由吉大尉に残した。不測の事態を予想しての行動であったろう。また最後の晩餐の合間であり、書くのに多くの時間も割けなかったと推測される。

本編ではこのメニューに書かれた最後のメッセージを現代文に改め、そこから読み取れる本人の思い、当時のドイツ邦人の事情などを読み解いて行くものである。また他の記録に残る吉川のドイツでの足取りも紹介する。

書き込みのされた食事メニュー(ドイツ語) 赤字の番号に添って後半で詳細に説明。



<吉川春夫>

生い立ちを短く紹介すると、吉川春夫は明治39年(1906年)2月4日京都に生まれる。1929年に東京帝国大学工学部機械工学科卒業後、ただちに海軍造兵中尉となる。当時の東京帝国大学(今の東大)は、日本の「富国強兵」策と強くかかわっていた。優秀な学生は、海軍技術士官を前提に選抜され、卒業後は造船、造機、造兵の3部門に配属され、ただちに中尉に任官された。吉川はその中に選ばれた一名であった。

1939年4月、補海軍航空本部出仕兼造兵監督官を任ぜられドイツへ出張(駐在)を命ぜられる。5月に日本郵船の照国丸で欧州に向かった。

1941年7月、ドイツの駐在技術者の協会である「技術院」の名簿では第7(航空機)部門に名前が載り、部門責任者であった。専門は航空発動機と書かれている。

ドイツ技術院名簿より


<工場見学と末松茂久陸軍少佐>

ドイツで吉川は幾度か航空機会社の工場を訪問している。日独同盟のため、ドイツ側も広く工場を見せたようだ。その場合は多くが陸軍の航空関係者と共同での行動であった。日本には空軍がなく、陸軍、海軍それぞれが航空機の開発から行っていた。日本軍の縄張り意識の典型としてしばしば指摘される事である。よってドイツへの技術者の派遣も陸海両軍からであった。

1942年11月、南ドイツのアウグスブルクにあるメッサーシュミット社を訪問した際の記念写真にも陸軍駐在者(薄い色の制服)と海軍駐在者(黒の制服)が一緒に写っている。

上の写真には右から二人目、末松茂久陸軍少佐のご遺族から提供いただいたものである。中央の眼鏡の軍人の後ろから顔を出すのが吉川。


上の写真の裏書(吉川の名前が見える)またこのメニューを受け取った樽谷も左端に写っている。

末松少佐について筆者はすでに「末松茂久少佐の戦時日欧通信記」の題名で、自身のホームページで紹介した。

末松は吉川より4年あとの1910年生まれである。陸軍幼年学校を経て、1935年に東京帝国大学に送られ、1938年物理学科を卒業して陸軍航空研究所に配属になる。二人はともに東京帝大を卒業した。

また先に紹介したドイツ「技術院」でも吉川同様に第7(航空機)部門に属し、専門も航空発動機と全く同じである。二人は年も近く、同じ航空機関係の任務をそれぞれから与えられていた。

陸軍と海軍の違いは、海軍は潜水艦で日独の交流を続け、駐在者も限られた範囲であるが運んだのに対し、陸軍はそれがほとんどなかったことだ。陸軍軍人として海軍の潜水艦に乗ることに抵抗があったのかもしれないが、海軍も限られた輸送人員のスペースは、関係者以外に割けなかったのが、本当の所であろう。よって末松はドイツで終戦を迎え、抑留され日本に戻ることが出来た。

ベルリン駐在の陸軍武官坂西一良が1942年8月28日、日本参謀本部に送った次のような電報が残っている。

「海軍は朝香丸及び今回の潜水艦の例に有るように、自己の必要に際してのみこれを実施。これは御承知の通り海軍の海軍に有らず。長期にわたって潜水艦の派遣を実施されたし。」
ドイツの陸海両武官室も、あまり良い関係にあったとは言えない事を推測される。

付け加えると陸軍はイタリア籍の潜水艦で3名の駐在者を戻したが、無事に生還したのは1名だけであった。さらに伊号第29潜水艦でも若干名が帰国した。
 

吉川が家族の元に送った写真。(この写真は大切に保存されたしとある) これも末松少佐と一緒の見学で1942年秋と思われる。右は庄司元三中佐。

吉川中佐と庄司中佐は、航空機開発を担った広島県呉市の「広工廠時代」に官舎が隣同士で非常に仲が良かったという。そして庄司中佐も吉川が発った1年後の1945年3月、ドイツの潜水艦U234号で日本に向かうが、途中でドイツが降伏し、艦内で自殺を遂げる。



<民間人の見た吉川中佐>

先のメッサ―シュミット社訪問の少し前の1941年5月、ベルリン南郊外ゲンスハーゲンのダイムラー・ベンツ発動機工場に吉川を団長として、陸海軍技術将校と民間会社技師で1週間の実習を行った。

1週間の実習の後で、皆でこの工場の生産量の推定をする相談を始めた。その際吉川は、一番条件の良い場合だけを選んで、高く見積もろうとしたという。

民間人たちが反対の条件の場合も考えて異議を唱えると、しまいには怒った。日本楽器から派遣されていた佐貫亦男は書く。
「希望と現実の交錯、慎重を卑怯と断定する気の短さが、当時の軍人にはまず絶対に抜けきれない習性であった。

もっとも民間人とて卓越した見識を抱いていたわけではない。あさましい話だが、食料切符の割り当てや、その他の特権に対する反感から、軍人に対してささやかな反抗を行ったにすぎない。」(『追憶のドイツ』より)

吉川にやや厳しい評価だが、自分らの置かれた立場も冷静に判断していると言うようか。
(2020年4月26日)



<阿部勝雄中将のサイン帳>

日独伊三国同盟軍事専門員の責任者阿部勝雄中将は、短いながらも毎日の行動を「5年日記」に書き残し、そして折に触れた訪問者にはサイン帳に記帳を求めた。敗戦帰国の際、多くの駐在員が後難を恐れ、こうしたものは破棄したが、阿部中将は持ち帰った。貴重な資料となり、日記は国会図書館内の憲政資料館に寄贈されている。

その阿部中将の日記の1943年10月28日に「庄司、吉川を昼食に招待する」とある。この頃吉川はイタリアのミラノのイソッタ.フラスキーニ社に通い、庄司元三と共に高速魚雷艇の導入に努めたようだ。

1944年5月 光延旺洋、明洋と庄司元三(左)と鮫島教授がピクニック。(メラーノ)

この訪問の時、吉川は阿部のサイン帳に
「ベルリンに味をたしなむ客もあり」と書いた。食べ物は元来美味しくはないと言われていたベルリンに、食の本場イタリアから来た吉川は皮肉を込めて書いたのであろう。

日本人にはやはり日本食であった。ベルリンにはまだ日本食材の備蓄があり、危険下に派遣された潜水艦も日本酒を運んだりしている。下にはこの日に食べたと思われる日本食のメニューが列挙されている。日本産海苔、味噌汁、漬物などが読める。

庄司はユーモラスにイタリアからの持参品目録として
リンゴ (但しメラーノ産、とびきり上等品 小箱ひと箱)
ホルマッジョ(チーズ)(但し盛力増進に適するもの、、、)
と書いた。

リンゴにメラーノ産とあるが、この時すでにイタリアではムッソリーニが失脚し、日本は大使館をローマからベネチアに避難させ、海軍武官室は北イタリアの保養地メラーノ(ミラノではない)に設置していた。吉川と庄司もこのメラーノの海軍武官室を活動のベースとして活動していたのであろう。


欠食児童救済剤として上記の日本食を昼食で食べたのであろう。(下部は庄司の字と思われる)



<一駐独技術士官の思い出>

永盛義夫技術少佐は、伊号第29潜水艦でフランスに向かった同僚である。無事日本に戻った永盛は戦後、上記の題名で回想録を書いた。そこには吉川も登場する。

「1944年3月16日にベルリンに着いた永盛は樽谷由吉大尉に迎えられた。樽谷は航空エンジンの専門家で、吉川が日本に向かった後、その後任となり、永盛と一緒に働く事になっていた。夕食後、樽谷に自分の下宿に案内された。」

前述の下宿とは元々は吉川の下宿先であった。吉川は後から来る永盛のために家主に対し
「しばらく戦線視察に出かけて留守になるが、パリから友人の永盛が来るので、その間自分の部屋を使用させてほしい」と頼み、トランク二個を地下室に置いたまま、自分の出発まで約半月間、ホテルアドロンに移った。

当時潜水艦で帰国するというのは極秘事項であった。連合国軍に知られれば、沈没の確立が増大するからである。よって吉川は公私の知人はもとより、家主にも別れを告げずに、戦線視察と言ってベルリンを去った。地下室に残した2個のトランクの中は空であったが、これも戦線視察であることのカモフラージュであった。

また「海軍伯林(ベルリン)」という歌の歌詞が紹介されているが、その作詞者が吉川技術中佐と書かれている。

河辺虎四郎駐陸軍武官が作詞した「ベルリン春秋」の歌詞は、筆者も何度か目にしたが、「海軍伯林」は他に紹介された書物を筆者は目にしたことがない。

歌詞を見ると1番の終わりが、「努めは重し海軍伯林」、2番以降「迎えてさんたり海軍伯林」、「結びは固し海軍伯林」、「使命は尊し海軍伯林」としっかり韻を踏んでいる。

「海軍伯林」 4番までのうち2番まで。

また永盛の本には「Matrosenlied(水兵の歌)」というドイツ海軍でよく歌われた歌の日本語訳が紹介されているが、こちらの訳者も吉川中佐である。航空専門技術者の吉川であったが、詩、ドイツ語の素養も高いレベルで備えていたようだ。



<機密兵器の全貌>

巌谷英一中佐はすでに紹介したように吉川と同じターボジェット機の設計資料を、呂501号出航後3週間足らず後に、伊号第29潜水艦で日本に向かい、無事帰還した。彼も戦後「機密兵器の全貌」という本を書き残している。そこにはドイツ出港直前の吉川の様子が描かれており、彼がメニューに書き残した言葉の背景をうかがい知ることが出来る。そこから引用しつつ筆者のコメントを添える。

「3月17日(金曜日)
事務所で本国への報告書を書いている巌谷の所に突然吉川中佐が入ってきた。(中略)彼は私の側の椅子を引き寄せて腰を降ろしながら”いよいよ出発も近づいたねえー、考えてみれば君と一緒の4年間、随分色んなことがあったなあ”と語った。

残務も大方片付いて本月末にキール軍港発の”皐月”(呂501号の秘匿名)で出発を待つばかりになった彼は、ようやく”来るところまで来た”といった面持ちだった。あえて里心とは言わないが、早く日本に帰ってもっと戦争に直接影響力のある仕事がしたいと思うのも無理はない。」
ドイツ駐在者は日独の交通、通信がほぼ遮断されてから、仕事が減り、やりがいを失う人も多かった。吉川も日本にいる方が活躍できると考えたようだ。

「丁度今日は我々(2人)なったのを機会に、部内でも極秘とされている”皐月”と”松”(伊号第29潜水艦の秘匿名で巌谷中佐が乗船予定の行動や長途潜航の予想らを話し合った。だんだん聞くと吉川は”松”より2週間も早く出て、目的地到着は却って遅れるという見込みの”皐月”乗艦が嫌らしい口振りだ。

しかもトン数も”松”の半分にも及ばない”皐月”の居住の窮屈なことも当然想像がつく。結局自分は今日迄の吉川の交誼(つきあいの事―筆者)に報いるつもりで、もし(海軍)武官が許されるならば乗艦の交換も自分としては差支えないと言っておいた。」
吉川の乗船する潜水艦が、ドイツ製で速度が遅く、しかも小型であることにかなり不安を抱いていた。続けて巌谷は書いている。

「吉川中佐はそれから武官を通じてドイツ側海軍省に乗艦交換の承認を得るべく交渉をしたが、すでに”皐月”の出発も近い事だったので、特別な理由がなければ、既定通り乗艦するようにと回答された。従って乗艦の交換は沙汰止みとなった。」

「また皐月の回航クルーが独潜に慣れるために激しい訓練をしたが、その間、吉川中佐は根木中佐を応援してクルーの通訳や世話に当たっていた因縁がある。」
この文章も吉川のメニューに書いたメッセージを読み解く鍵になる。(後述)

吉川が自分の出航直前までドイツの技術導入に関わった経緯も、この本に書かれている。それによるとドイツは日本にME(メッサーシュミット)163型及び同262型戦闘機の技術の提供を承諾したが、まだ試作段階で図面が完備していなかった。よってその代りに実物の調査の便宜を図ることと、説明は納得いくまですることを約束した。そしてその技術を学ぶ役割を任されたのが、吉川と巌谷の2名であった。

3月27日(月曜日)は呂501号出航3日前である。
「今日は陸軍の大谷少将はじめ航空関係の技術者も一緒に待望の噴射推進に関する説明を聞きに、ドイツ航空相、航空機課に出頭する事になっているので、昼食もそこそこ、吉川とライプチンガー街(航空機課所在地)に急ぐ。

ダマスコ技師から机の上の数冊の書類を手渡される。貪るようにページをめくって見る。異型のME163型に度肝を抜かれる。次いで映写室に案内される。そこでロケット機の飛行の実況を映画で説明される。

航空課を辞去するとその足でジュド・ウェスト・コロソの吉川の下宿に行き、今日渡された資料の内容の検討や、聴取事項の整理やらで夜の11時までかかった。家へ帰って床についても、興奮しているとみえてなかなか寝られなかった。

3月28日(火曜日)

”皐月”帰朝組がベルリンを出発する日だというのに、冬以来の曇天は一向に晴れる気配を見せない。今朝は早速(海軍)武官室に行って、阿部中将に昨日の航空課における資料入手の経緯と、その内容の聴取事項と併せて説明報告する。阿部中将は終始満足な面持ちで頷いておられたが、吉川と自分は堪え切れぬ重荷を負わされたような気持だった。

午後1時、吉川や樽谷由吉技師と連れ立ってBMW社のベルリン シュパンダウ工場にBMW−003型噴進機関の構造や製造状況を調査に行く。


午後4時、事務所に帰り、出発間もない吉川と二人で脇目も振らず調査結果を整理した。これが終わって吉川は(海軍)武官室へ退欧の挨拶に行った。自分も彼の航海の多幸を祈って暫時の別れを告げた。”皐月”組の山田、根木、江見、乗田の諸官が下の広間で吉川を待っていた。間もなく一同を乗せた車はレァター停車場に去った。」

最後に名前のある4名の内、山田、根木、江見の3名は欧州からの帰国者で、乗田は呂501号の艦長乗田貞敏少佐である。艦長も出航直前、キールからベルリンに挨拶に来た。

吉川らがメッサーシュミットの情報に接したのが出航の3日前で、ベルリンを去ったのは前日の夜の事であった。この時吉川中佐は、前日に入手した資料と、出発間際までかかって纏めた調査報告書を一括携えていたは言うまでもない。

さらに巌谷の記述によれば
「呂501号は出発の際、操舵を破損して予定が1日延びてキールを去ったはず」と、実際の出航は3月31日であったようだ。



<最期のメッセージ>

ここで冒頭に紹介したメニューに書かれた吉川の自筆による文面を読み解いていく。原文は括弧、アンダーラインで紹介する。(番号は写真に赤字で書いたものに対応しているので参照ください。)

右ページ端から
1 「ご挨拶を失せし、西原中佐その他の方々に何卒よろしく。
渓口、豊田、中山、樽谷又酒井のおじさん等、御見送りの方にお礼。」
(5名の簡略サインあり)

西原市郎中佐は伊第八号潜水艦で前年に日本からやって来た。吉川と共に呂501号で帰国する山田の後任として、すでにスイス駐在となったが、直前に在欧海軍武官会議でベルリンに来ていた。その際に挨拶できなかったのであろう。西原は終戦直前、スイスで和平工作に巻き込まれたが、技術者ゆえ大分面食らったようだ。

一行をキールで見送ったのはベルリンに駐在する次の5名であった。メニューには苗字のみ書かれている。
渓口泰麿海軍武官補佐官 日本海軍代表として出席?
豊田隈雄海軍大佐  ドイツ駐在海軍武官室航空担当。
中山義則技術中佐  伊号第29潜水艦で同月に着任したばかり
樽谷由吉技術大尉  同上。吉川の後任での吉川がこのメニューを受け取り、戦後遺族の方に渡したようだ。
酒井直衛海軍嘱託  いわゆる現地採用の海軍武官室雇であったが、滞独期間が長く武官室内での影響力は絶大であった。日本からの赴任者は「彼とうまくやることが仕事をうまく進めるコツである」と前任者から教えられるほどであった。ここでは“おじさん”と親しみのある表現で書かれている。

2 「黒田、奥津両氏の御快復を祈る。」

ベルリン駐在者から病人がかなりの人数で出たが、多くは結核であった。日本に比べ、冬の日照時間が少ない気候が影響したようだ。黒田拾三大佐はフランスからドイツへ転任した技術者である。

黒田は伊号第52潜水艦の帰国者候補に挙がった。「病気から回復して長い航海にも耐えられる」と海軍の暗号電に記されている。日時は判明しないが、同潜水艦の出港予定から1944年6月頃には回復したと考えられる。(同艦はアメリカ軍の攻撃で、到着せず)

奥津彰は海軍理事官である。

3 「矢張り小生はこの艦(フネ)で良かったのでした。士官、下士官、兵に知己も少なからず。
“来られると聞いて喜んでいました”と挨拶されると“アウグスブルク”以来の思い出も尽きません。」


吉川は潜水艦、特にドイツの潜水艦で帰る事に不安があったのは巌谷の回想に見たとおりだ。同艦の回航員乗田貞敏艦長以下60名は、伊号第八潜水艦により前年1943年8月末にフランスのブレスト港に到着した。それから北の海で、譲られた潜水艦で慣れるための訓練を行ってきた。乗組員の中に吉川の知己もかなりいたのも、巌谷の書く通訳の手伝いなどによろう。

アウグスブルクは南独の都市である。先に吉川らが訪問したメッサーシュミットの工場があるので、そこに一緒に訪問した乗組員がいたのであろうか?もしくは括弧がついているので地名ではなく、軽巡洋艦「アウグスブルク」の事かもしれない。同艦を乗組員と共に訪問したか?

左ページ
4 「昭和19年3月29日 夜 吉川 航本室各諸兄」
吉川の所属元である海軍航空本部出身のドイツ駐在諸兄に宛て書いている。

5 「土壇場のひとかせぎに、心静かなお別れも果たさず。
北行一路、キールの港に遙か諸兄のご健康を祝す。」

出航前は慌ただしく、静かに別れを告げることが出来なかった事を悔いている。

6 「小島中佐補佐官の報も嬉しく。
日独航空技術提携の前途は多望。
御国のために責務(ツトメ)の為に、更に一層の御自重を祈る。」


小島中佐は小島正巳海軍武官補佐官である。伊号第29潜水艦で赴任してきた。同艦には小島秀雄駐独海軍武官も乗船しており、二人の小島が乗り込んできたことになる。小島正巳は着任間もなく大佐への昇進が決まったので、嬉しい報とはそのことであろうか?

7 「独逸に別るるの日、一万六千トンの豪華客船“セントルイズ”号の船室(ケビン)に一夜。
大食堂の日独の交誼に目も舌も胃袋もあきれて
明日からの苦しいが、嬉しい、使命重大だが男子の本懐たる
祖国への旅の前奏の(カドデ)の曲(シラベ)」

(カタカナ)は本人による送り仮名

夕食会はドイツのかつての豪華客船、セントルイズ号の大食堂で行われた。ドイツの名門海運会社であるHAPAG社の所有であった。同船は1939年5月13日、906人のユダヤ人難民を乗せアメリカ大陸に向かうが、キューバ、アメリカに拒否され難民を乗せたまま再び欧州に戻った。欧州脱出を果たせなかったユダヤ人船客の悲劇は、セントルイズ号事件と呼ばれている。

そして戦争で本来の役目を果たせなくなり、1940年からキール港で、ドイツ海軍の居住船として使われていた。当夜のメンバーは帰国者4名と見送りの海軍武官室の5名、更には潜水艦乗組員の幹部、ドイツ側と大人数のディナーであったであろう。



<葉留桜>

左ページ下段にはメロディの記号と共に歌詞が書かれている。先に紹介したように、「海軍伯林(ベルリン)」という歌の作詞を行い、「Matrosenlied(水兵の歌)」というドイツ海軍の歌の日本語訳をしている。残る略歴からには記述はないが、音楽には相当親しんだのであろう。またドイツ語の素養も相当であった。

8 「今日は巨艦(オオブネ)、一万余トン。卓に七品、グラスも三つ。
 食後のサロンに盃廻(メグ)り、
くゆらすシガーの煙もまろやか。

明日(アス)は海底(うみぞこ)、油のにおい。
ベッド一つが、身の置きどころ。
便所通いが苦労となれば
雲泥万里は夢路のかなた。」
(三番略)

歌詞の後ろに書かれた「葉留桜」は“はるお”と読み吉川春夫の雅号であろう。



<最期のメニュー>

最後にドイツ語で書かれた食事のコースメニューを日本語に訳してみる。ドイツの終戦1年前の厳しい食糧事情の中ではあるが、魚、肉料理が出るフルコースであることが分かる。ドイツ側も最大のもてなしをしたと考えられる。

夕食
―――――――――――――――――――――
イワシのせトースト(丸い黒パンではなく、少しでも日本人の好みのパンに近いものにとしたのであろう。)
―――――――――――――――――――――
アスパラガスのスープ (春のドイツの定番メニューである)
―――――――――――――――――――――
魚のフィレ焼き、マヨネーズのジャガイモ添え。
1941年製 ドイツ白ワイン
―――――――――――――――――――――
Kasslerrippe (燻製豚のスライス)
野菜盛り合わせ
1929年製 ボルドー赤ワイン      
―――――――――――――――――――――
果物入りライス
―――――――――――――――――――――
凍り菓子
―――――――――――――――――――――
チーズプレート
―――――――――――――――――――――

付け加えると食後にコーヒーが無いのはドイツでは本当に欠乏していたからか。


<最後に>

1枚のメニューに残された自筆のメモに触発され、日本海軍吉川春夫技術中佐について調べた。38歳で死に直面し、最期の思いをメニューの空欄に書かねばならなかった吉川の無念、心情を少しだけでも伝えることが出来れば幸いである。

終わり



追記

その後「数学教育研究.」という研究誌に「数学者吉川実夫と海軍技術中佐吉川春夫 」という記載があるのを見つけた。それによると吉川春夫の父実夫は数学者で1908年、ドイツに留学している。そして37歳の若さで亡くなった。ドイツ留学及び、30代後半で亡くなるという点は親子2代にわたって同じであった。また吉川家では代々男性は名前の最後が”夫”で終わっているようだ。

さらにここで「1945年5月の空襲で、史料の一切を焼失した」と春夫の長男、孝夫さんが述べている。よって吉川家には戦後に樽谷氏より渡されたこのメニュー以外、ドイツでの記録はほとんど残っていないようだ。

(2015年4月26日)

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