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末松茂久少佐の戦時日欧通信記 


<序>

1939年9月1日、ドイツがポーランドに対し戦争を開始してから欧州の戦争は拡大し続け、1941年6月22日、ドイツ軍はソ連に対し進攻する。

戦争の拡大と共に日欧間の交通手段はどんどん狭まり同年12月8日、日本が米英に参戦する事で、日本人の渡航手段は完全に閉ざされた。そして戦時下の例外的渡航者に関しては筆者の「戦時日欧横断記」で詳しく取り上げた。

一方日本開戦後の郵便物の往来に関しては、理論的には可能であったが、実質は不可能というのが筆者のこれまでの見解であった。

それが戦時下にドイツに駐在した末松茂久少佐のご遺族の元に残る、数多くの郵便物を見せていただくことによって、ほとんど国際郵便が機能していた事を筆者は初めて確信した。そして残る手紙類には当時のベルリンの日本人社会の様子が、ところどころにちりばめられており、非常に貴重な史料である。

本編では残された書簡類から、戦時下のベルリンの日本人社会を考察するとともに、末松少佐の“考案した“日欧間の通信方法について見ていくものである。なお文中、末松の手紙の文章は括弧で引用し、それに筆者が解説を加えるという形式で書き進める。また文章も適宜、現代文に変えた。紹介する写真、葉書は断りのない限りすべて末松が日本に送ったものである。

戦時中スイスから届いた葉書。スイス、ベルンの消印あり。


<ベルリンへ>

1910年生まれの末松は1923年、麻布中学に入学するが、翌年陸軍幼年学校に進み、その後陸軍士官学校、砲兵学校、東京帝国大学物理学科を経て1938年、陸軍航空研究所に配属される。技術将校であった。

1941年、ドイツ駐在を命ぜられる。シベリア鉄道でベルリンに向かう途中の5月11日、満州里で葉書を留守宅に送る。最初の郵便である。
「満州里までたどり着いた。一週間前に東京にいたかと思うと、なんだか夢のようだ。明け12日、元気でシベリア鉄道に乗り込む。安心してくれ。 」

日付は不明であるがベルリン到着早々にまた手紙を書いた。自分の乗車してきたシベリア鉄道に関し
「3度の飯は豪華なロシア料理、アイスクリームが1人前2円30銭、シャワー使用料は1回3円」と紹介した。

このシャワー使用料3円は、日本での初任給が80円くらいの時代であるが、手厚い旅費9000円を支給された末松には、全く問題のない価格であったろう。
1936年、ベルリンンオリンピックに出場するためシベリア鉄道に乗車した前畑秀子ら女子水泳選手は、高かったためシャワーは使わず、ベルリンで選手村に入るやいなや、「練習」と称してプールに入ったというエピソードがある。

そしてベルリン到着後 
「夜はベルリンの先輩、とりわけ久(ひさし)さんが、時々どこかに連れて行ってくれるが、久さんは任務上ドイツ人との交際が多いから、決して毎晩という訳ではない。」
西久駐独武官補佐官の妻文子(ふみこ)は、末松の実の妹であった。武官補佐官は外交官待遇であり、日独提携強化で忙しい毎日を送っていた。手紙にはしばしば”久さん”として登場する。

ところがベルリン到着から間もなくの6月22日、ドイツとソ連が戦争状態となり、シベリア鉄道経由の手紙も出せなくなる。

翌23日朝日新聞には「欧州向け郵便物は?」の見出しで
「ポルトガル経由が残された唯一の道です。(米ないしは南米経由になることで)多くなる差し押さえの覚悟が必要」と郵政省のコメントが紹介された。

末松はこの独ソ開戦時期について次のように書く。
「7月22日 今日になって急にクーリエ便が出ると聞き、慌てて一筆を書く。
軍人のクーリエの方は海軍が一人帰るとかの他は全部当地に足止め、その代り日本から誰もやって来ない。」
この頃、重要書類などはクーリエ(外交伝書使)と呼ばれる人間が、直接日欧間を運搬した。シベリア鉄道が使えなくなり、そのクーリエの往来も途絶えたのだ。ドイツに取り残された海軍の伝書使が日本に帰ると聞き、末松は手紙を託したのであった。この伝書使は幾人かの帰国者同様、ポルトガルから南米に渡って、開戦前の日本に戻ったと思われる。


<ベルリンの様子>

次に残る1941年11月23日の日付の手紙は、400字詰め原稿用紙26枚と非常に長いものである。宛名は常に妻澄子であった。そして「皆に回覧してくれ」と書かれた。帰国者によって運ばれたものと思われるが、運搬者、経路は不明である。

「到着以来 家からの手紙合計4通、受け取った。10日前に受け取ったのは8月13日付けである。
共に封筒の表記の指定通り、アメリカをはるばる回ってきたものらしく、封筒はヨレヨレになっていた。」と到着に3か月を要したものの、アメリカ経由で末松の元に郵便が届いていることが分かる。そして今後の郵便事情のさらなる困難を予測して、家族に色々指示が出始める。

「手紙には忘れずに日付を入れる事。最近数か月にいつ、どういう手紙を書いたか触れると、どれを入手して、どれを入手しなかったかが知ることが出来て都合が良い。」

「手紙は(クーリエ)便あるごとに書いたが、(独ソ)開戦以来、これが2回目である。今度の手紙は検閲の心配はないが、紛失の恐れは多分にあるとのこと。」
とこの手紙もクーリエによって運ばれるものであることが分かる。外交特権に守られた外交伝書使が運ぶので、途中で荷物を開けられ検閲の恐れはないのであろうが、なぜ紛失の恐れがあるのかは不明である。

「電話も時にはかけることにする。この方も土曜日は平日の半額で、一通話の料金はそう高い事はないが、すぐに数通話になってしまうので、割に高くつく。」
電話、電報は戦時下も通じていたが、高い料金から個人が利用する事は殆どなかった。一通話とはこの場合ある時間を指している。一分ぐらいの事であろうか。電話はつい長くなってしまうようだ。

「内地との交通途絶の為、日本ならば夜遅くまで働かねばならない中堅どころが、皆やもめ暮らしで、適当に働き、適当に遊んでいる図は勿体なくもあり、微笑ましくも感じられる光景である。その中にあって西(久武官補佐官)のごときは職務柄、相当忙しい日々を送っている。」
日独連携強化のため、日本から派遣された駐在員は官民を含め多かったが、両国間の連絡が途絶え、物資の交流が不可能なため、仕事もそう多くないのが実情であった。例えば日本郵船の駐在員は、日本から船が来なくなったので、仕事は完全になくなった。そのため多くの優秀な日本人がその持てる力を発揮できないまま、ドイツに暮らしていたのは実に皮肉であった。

「少佐の軍服はさる10月靖国神社大祭当日と明治節の2回、日本大使館で行われた遥拝式に用いたきりで、その他は一切背広で通している。」
8月1日に少佐に昇進した末松は、軍人でありながら、ドイツではほとんど背広で通したというのは本人の主義なのか興味深い。

昭和17年初夏 ウュルツブルク旅行の折 背広である。手紙には大体写真も同封した。

ドイツ駐在技術者の集まりである「技術院」の当時の名簿によれば、末松には次の記述がある。
専門課目:物理
主業務: 航空発動機並びにその振動
従部門: 工業政策

「今年の7月25日には、下宿のオバサンが、自分の誕生日を祝ってくれた。お菓子を焼いてくれ、その周りには赤白のロウソクを31本立てる。これに火をともした光景はちょっと見事なものであった。」
日本ではまだ、誕生日に年の数だけのロウソクをともすという習慣はなかったようだ。

同封された写真より。当時の暗いレンズにもかかわらず、よく撮れている。

「そしてドイツの国内旅行と国外旅行を2回ずつやった。買い物も相当やった。(中略)金は足りている。生来の酒嫌いだから、その分だけいくらずつでも余るであろう。
高級な写真機、ライカとスーパーシクスという2つを買った。今手元に約千本の煙草の予備がある。ドイツではこの煙草買いが苦労の種。」

駐在員として高額な給料をもらえたためか、生活は不自由しなかった。そして先の仕事が多くない事実と、酒嫌いから末松は、自由時間を仲間との酒宴に費やさず、家族に宛てた手紙を書くことに割いたと思われる。またドイツではもう物不足が始まっていた。煙草はその本来の目的の他、物々交換の必需品でもあった。

「来年の1月10日から3月10日まで武官室であるスキー場に部屋を借り切ってある。あまりスキーでもないが、健康増進のため、少しやって、少しうまくなっておこうと思う。」
日照時間の少ないドイツの冬、主として結核対策か、陸軍武官室では毎冬スキー場に交代で行った。

1942年1月 右より吉川技術中佐、中村主計中佐、末松、事務員カール・ナツツロシア人とドイツ人の混血。大谷少将。(この写真は「大戦中在独陸軍関係者の回想」と言う冊子にも紹介されているが、末松が提供したようだ)

「日本から持ってきた食料品はお茶と、梶原さんからもらった栗きんとん以外ほとんど使い果たした。」と日本食の在庫の報告も怠らない。
次いで先に4回と書いた旅行について、さらに詳しく書かれている。
「第一回目はわずか2日でライン地方。第二回目はミュンヘン、南ドイツ、旧オーストリア地方約2週間、第三回目はスロバキア、ハンガリー、ルーマニア地方、第四回目はスエーデン、フィンランド地方」
これらの旅行はいずれも私的旅行であったようだ。休暇も取りやすかったのであろう。

普通の夜景の写真だが次のコメントが付いている。「ブダペストの夜 ヨーロッパでもここは灯火管制をやっていない。 生き返った様な気持ちになる。」 (戦時下ドイツの夜は真っ暗であった。)

末松は余暇にはコントラクトブリッジと碁を好んでやった。
「陸軍武官室では碁打ちの数は多いが、揃いも揃ってへぼ揃い。毎月1回、陸軍以外からも人を呼んで碁会を開く。」

「左坂西中将(武官)10級、右石塚少佐12級、中央五目並べをしているのは岩田(元将校)一緒にハンガリーに旅行した。」(写真裏の解説より)


<日本開戦 郵便の途絶>

1941年12月8日、日本が参戦すると、アメリカ経由の郵便も不可能となる。それでも日欧間で全く郵便が途絶えた訳ではなかった。
翌1942年1月23日、逓信省は
「欧州一部へ郵便物再開」として、シベリア経由で中立国であるトルコ、ブルガリア、スペイン、ポルトガルへの郵便物を24日より受け付ける」と発表した。
日ソ間で郵便物交換の取極めが成り立ったからであった。ソ連も日本の大使館からなどの手紙を満州国経由で受け取る必要があったのであろう。

知らせを聞いた欧州邦人は喜んだものの、どのような経路で郵便が配送されるのか半信半疑であった。逓信省からドイツに派遣されていた山岸重孝事務官は知らせに接し、大島大使の名前で
「取扱いを開始するにあたり、郵便物の種類、取扱国その他注意を要する事項を至急連絡するよう」本国に依頼をした。同様の内容の電報はトルコ、ポルトガルなどの大公使館からも、いっせいに日本へ寄せられた。

1月31日、東郷茂徳外務大臣名で、大島大使に回答が送られる。

欧州郵便物のシベリア経由の件。
「本邦は1月24日よりブルガリア、スペイン(アフリカの植民地を含む)モロッコ(スペイン地帯)ポルトガル(アフリカの植民地を含む)スイス、トルコ宛の通常郵便物の送到を再開せり。遍総経路はシベリア、フイフリス、エルゼルム、イスタンブール、ウィーン、バーゼルなり」

郵便はソ連領中央アジアを経由し、中立国トルコに入った。そこから陸路、枢軸側のバルカン諸国を通過して一端スイスのバーゼルに届き、さらに別の中立国に送られる手はずであった。
また占領されたパリから手紙は出せなかったが、ビッシー政府管轄内では日本宛ての手紙を受け付けたという。

外務省はテストを兼ねて幾度か書類を郵送した。翌1943年1月7日、谷外相はその結果について大公使館宛に報告する。ずいぶんとテストから日が経っているが、

「昨年2月6日、試験的に貿易報告書を封印し、トルコ、メキシコ、スイス、スペイン、ポルトガルに送った。そして4月末までに、トルコとメキシコ及びスイスには到着した。しかしながらマドリッドとリスボン向けの郵便は、おそらく途中で英国当局の手で没収されたと報告してきた。日本では没収の詳しい場所も理由も分からない。

また欧州から日本への郵便も事故が続いている。スイスのベルンとトルコのアンカラから送られた幾枚かの写真は、二ヶ月かかって東京に着いた。しかしながら添えられているはずの手紙は届かなかった。」

筆者もこれまで欧州駐在者から送られたという手紙を見たことがあるが、差出国のスタンプがないものばかりであった。先に述べたように、特別に日欧間の往来をした日本人によって運ばれたものが主体であると筆者が考えた所以である。

友岡久雄教授がベルリンの日本大使館の封筒に入れて送った手紙。切手が貼られていなければ消印もない。(帰国者によって運ばれた手紙の例)


<1942年12月 帰朝する人に託した手紙>

日本参戦後は外交クーリエによる手紙の輸送が出来なくなった。次に残るのが前の便から1年ほど経った“帰朝する人に残した手紙“である。便箋19枚に細かい字でびっしり書かれている。

「澄子殿
11月22日夜に書きはじめる。実は9月中ごろだったと思う。恐ろしく長い手紙を書いて好便に託して送った。果たして着いているかどうか?(中略)
公用の重要書類で多数日本に送られたものが、途中戦禍のため、紛失したというような事件も聞いたから、あるいはこの便と一緒に送られたとすれば、着いていないことになる。」と書くが、この9月の手紙は現在残っていないので、実際に着いていないようだ。先の東郷外務大臣の電文にもあるように、郵送途中の事故は多かった。

「今度帰る連中は、先にも書いた第一次の人全部と、第二次の半分に民間の人が若干である。現在のベルリンにおける(最高位である)陸軍武官、坂西一良中将を筆頭に飯島大佐、、、、」とソ連のビザを取得し帰るグループがあることを紹介する。

先にも紹介した本、”大戦中在独陸軍関係者の回想”には”坂西武官送別記念 1942年11月29日”という武官、末松を含み45名の集合写真が掲載されているが、提供者は末松である。同本の編集にも末松が日本に送った写真が大いに役立った。

「この手紙は戻る中村中佐か西郷中佐にお願いして持っていってもらう。着くことはほとんど確実だし、第一非常に速いのでないかと思う。(別に)送る荷物はがっちりした木箱に収まり、陸軍クラブ内に留まる。」

「右端 西郷中佐 ベルリン郊外へ遠出(自動車)の時」 末松は意識して帰国が決まった人と付き合ったかもしれない。手紙の便宜を図ってもらうためにである。

世界大戦中も日本とソ連は中立関係を維持した。そしてソ連は自国民に日本の通過ビザが必要な場合にのみ、日本人にもソ連の通過ビザを発給した。そのビザで例外的に日本に戻る人に、手紙を託したのである。末松のみでなく、ほとんどの在留邦人が書き、帰国者のトランクひとつは、そうした手紙で一杯になった。(中村昌三中佐らの帰国に関してはこちらを参照)

西郷従吾中佐について末松は「侯爵様のお跡取り」と書いている。祖父西郷従道は西郷隆盛の弟であった。

また筆者の関心事である日本食事情についても書かれている。
「米の飯:たいがいの日は日に一度、時によれば二度、昼と夜に米のご飯を食べる。正真正銘の白米、イタリーに育った良質の白米。細長い。この米だと毎日食べられるので助かる。

ベルリンに日本料理屋が三軒ある。第一は日本人クラブの食堂。時々クラブが主催になって色々な催し物がある。大東亜戦争中には二回ばかり、ここで戦勝の祝賀会があった。
他の二軒はあけぼの及び東洋館という。何れも店の前に日本字で看板が出ている。現在食糧欠乏の為、日本人の他“入場お断り”となっている。日本料理屋では飯が(配給)切符無しで食べられる。」
あけぼのについてはこれまで筆者は幾度か紹介してきた。ドイツでは食品が切符制となっていたが、日本食レストランは例外であった。

日本食レストラン あけぼの(田辺平学著「ドイツ 防空・科学・国民生活」より) 

続いて日本から送ってもらいたい品物を書いている。リストにはいろいろあるが、食品だけ紹介する。
「送ってもらいたいもの。これは一纏めにして陸軍省に予め出しておくのが良かろう。ベルリン到着以来、手紙以外は何も受け取っていない。
4 食料品 (味の素、このわた、のりの佃煮、鰹の塩辛、番茶など気の付いたものは何でもよい。)」


<トランク発送>

末松は手紙のみでなく、荷物の輸送も試みている。1942年末、日本に向け、木枠を作らせその中に小さなトランクを入れて日本に発送した。少し先回りすると翌年8月の手紙から、その経過を知ることが出来る。

「1943年8月26日
昨年日本宛てに送った荷物は一度出た船が舞い戻って来たため、まだドイツの港にあるとの事だった。小さなトランクの中身は次の通り
中身 白木綿ワイシャツなどの地 8メートル
紺無地洋服地 3メートル。
澄子用 スイス製オメガ腕時計。」(中身の多くは略)」
日本ではなかなか手に入らないものばかりを送った。

日独は太平洋の制海権もないので、正規に荷物を送るルートはない。この頃日本から来た潜水艦にそのトランクを特別に積み込んだかとも思ったが、「船が港に戻った」という記述からすると該当する潜水艦はない。他に考えられるのは厳重な連合国の海上封鎖線を強引に突破してドイツから南洋、日本に物資を運んだドイツの封鎖突破船である。これも末松の考え出した方策であったが、結局トランクは日本には着かなかった。

「各飛行機会社、研究所など、見学の許可のある毎に陸海軍合同でよく見学に出かけた。同封の写真でも、そのことがうかがわれよう。」

1942年11月 アウグスブルク メッサーシュミット飛行会社見学。右から二人目が珍しく軍服姿の末松。さらに2人目は大谷陸軍少将、その右が豊田海軍中佐。濃い黒の制服が海軍、薄い色が陸軍の関係者


<スイス通信開始>

1943年2月3日、戦時中は取得の難しかったスイスの入国ビザを得て、末松はスイスのフランス語圏の保養地レザンに向かう。そして3月1日、レザンの郵便局から、スイスの官製葉書で日本に向けて試しに書き送る。「スイスよりの第一信」と記されている。
日本の逓信省が1942年2月に”スイスへの手紙の送付は可能”と言ったことはすでに紹介した。

「2月3日、ビザが下りて、ようやくスイスに来られた。南スイスの海抜1400メートルという風光明媚なレザンという所。戦争の最中にいくら暇だと言っても少しもったいないみたいだ。

もともと病気ではないのだから、スイスに来たからどうという事はなし。なお5月からドイツ空軍の航空研究所にしばらく入る予定。
日本、スイス間に今でも郵便が往復しているので、試みに葉書を出してみる。検閲に手間取らせぬため、わざと葉書にする。

返事をくれてもその時はもうスイスにいないであろう。ただスイス公使館の山田海軍中佐宛てに出せば、ついでの時(ドイツまで)届けてくださる。葉書の方が良い。“ベルリン陸軍武官室”の肩書を忘れぬこと。」

官製葉書で出すのが一番着きやすいと末松は考えた。また本人は日本の家族に心配をかけたくないからであろう、スイスに来て「もともと病気ではないのだから」と書いているが、いかにも不自然だ。レザンには有名な結核保養所があり、他にも陸軍の紹介で日本人が入っている。末松は結核の兆候ありと診断され、3か月の療養を許されたのだろう。
当時日本人駐在員で結核に罹る人は多かった。そして外交官関係者は同じくスイスのダボスの療養所を利用している。

もっぱら療養の身であるから、時間も持て余し気味であったのか、4月12日にはもう「スイスよりの第七信」となる。宛名の上には末松の手書きで“バーゼル、シベリア経由”と書かれている。逓信省が日本参戦直後に発表したのとまさに同じルートである。

「ある所から文芸春秋昭和17年8月号及び10月号、“改造“同年8月号の三冊を手に入れた。とても面白い。新聞は今年の1月ごろ発行のもの(朝日)を少し読んだ。日本からのラジオは聞こえぬ日もあるが、大抵よく分かる。

なるべく(日本の弱い)官製葉書より葉書大の厚紙の方が良かろう。回数を多く出す事。内容は良く考えて当たり障りのないことばかりを書く事。」

後に述べることも照合すると、ここに出てくる雑誌、新聞は同じくシベリア経由の郵便で運ばれたと推定できる。ソ連は書籍のようないわゆる印刷物の郵送も引き受けたようだ。「当たり障りのない事ばかり書け」と言う指示も興味深い。

冒頭にも紹介したスイスよりの第20信 官製葉書にバーゼル、シベリア経由と書かれている。書いたのは1944年3月24日だが、ベルンの消印は4月5日。文章は毎回裏面にもびっしり書かれている。


<スイスよりの第9信 封書>

この頃末松は日本とのコミュニケーション維持に強い意欲を持っていた。葉書が届いたことを知ると、今度は封書を試みる。
スイス第9信は便せん16枚と、以前帰国者に搬送を依頼した手紙並の長さである。

「1943年4月19日 先日スイスから郵便で送った葉書がほとんど全部日本に届いている聞き、ひとつ封書を出してみようという気になった。

もったいない話であるが、(ベルリンの日本人は)内地の人よりは何といっても暇が多い。ベルリンの日本人の総数が現在約300人だから、人が多すぎて、仕事が足りない事は、この点からだけでも想像がつく。

(婦女子は引き揚げてしまったので)大部分が荒くれ男、大和撫子は10本の指で数えてみても足りる位だから、自然殺伐になるのはやむを得ない。」
長い手紙の中で、再びベルリンの日本人は、仕事が十分ない状況にあると伝えた。末松もその一人であったと想像できる。


<スイスよりの第10信 封書 ベルリンから>

末松がスイスからドイツに戻る直前、悲しい事態に遭遇する。次は5月3日付けで出そうとした手紙の内容である。
「5月1日スイス郵便長官のお触れが出て、当分の間日本向けの郵便物は取り扱わないことになった。満州へも、タイへも。理由はトルコにおける郵便物の停滞。

滞在3か月の予定通り、5月6日に当地を去る予定。初めから病気でもなかったので、勿論今でも病気ではない。

この手紙、何時スイスから発送できるやら。日本との唯一の郵便路の取り扱いが、当分の間中止となった。ようやくうまい方法を思いついて、手紙を出し始めたのに、すぐまた停止になってしまった。」と、スイスから手紙を出せなくなった悔しさが書き記された。また家族に心配かけまいと自分の健康状態について書いている。

スイスからベルリンに戻った末松であったが、彼のスイス通信は続く。間もなくスイスと日本の間の郵便も復活し、第10信は12枚の手紙である。

「8月11日。スイスから来たお客さんが2,3日のうちにまたスイスに帰るという。聞けば近頃は日本とスイスの間の郵便も随分早く行き来するようになったとのこと、あわてて手紙を書く。
スイスで書いて出しかけてやめた5月3日付けのハガキと、併せて第10信とする。」
ベルリンに戻った末松が見つけ出した次の方策は、スイスに行く邦人に手紙を託し、現地で投函してもらう事であった。

8月20日 第11信(9枚)で手紙はドイツで書かれたものであることを知らせる。
「今日スイスから、お客さんが一人見えるという事を聞きこんだ。その方にお願いしようと思って、第11信とする。本当は“スイスを通しての第11信””としなければいけないのかもしれない。
この前の第10信からはスイスで直接投函したものではないと承知していてもらいたい。」


<二つのルート>

ベルリンに戻った末松は前述のスイス通信と、従来の日本に帰る人に手紙を託す方法の二つの交信手段を持つ。そしてこれらの発送の機会は突然訪れるため、日頃からいろいろ書き溜めていく。そのため、同じような内容の手紙が日本に届くようにもなる。
9月13日から10月12日までの日記風記述を同封したスイス第12信は25枚と長文であるが、その解説をしている。

「こういうご時世だから出した手紙がみんな着くとは限らない。従って同じことを二度も三度も書いたりするのは、読む方では少しつまらないかもしれないが、仕方がない。けれども日を違えて書けば、中身が同じでも違った味があって、必ずしもつまらないとは決まらないであろう。」そしてこの内容も、複数回日本に書き送っている。

「郵便でどんどん手紙を出してほしい。もっとも郵便(封書)では中身が全部外国で読まれるから、十分注意の上にも、注意を重ねることが大事である。
詳しい(自分のドイツの)宛名は(最近日本に戻った)西郷さんにでも尋ねろ。郵便は中央郵便局なら、必ず受け付けてくれると思う。」
日本には相変わらず、送り方の細かい指示を出す。小さい郵便局では国際郵便についてよく分からないであろうから、中央郵便局で出せと指示した。

「10月6日 (航空)研究所生活ももう2ヶ月、教授や他の技師連中などとも大分仲良くなった。おととい、その中の主な教授連を4人ばかり我々陸軍で招待し、一緒に昼飯を食べた。招待側も俺を入れて4人、ご主人役は航空の方の御大将、大谷(修)少将が務めて下さった。」
大谷少将は航空機関係の責任者であった。彼の断片的に残る「ベルリン日記」にも末松が登場する。

「先日、ある知人が、日本から郵便で送ってきた新しい雑誌を受け取ったと話してくれた。それは”改造”で今年の7月号だった。(新しい雑誌は)貴重品の中の貴重品である。雑誌を一冊ずつ分けて、郵便でスイス宛てに送ってくれ。”文芸春秋”と”新指導者”を毎月。」
日本の活字に飢えた末松の様子が伝わってくる。


<1943年12月1日 スイスからの第13信。14枚>

またベルリンの日本人にソ連の通過ビザが出た。
「先日、日本に帰る人が5,6人あったので、その人たちに渡そうと大騒ぎをして手紙を書いた。確か牛場書記官にお願いしたはずである。2度目に書いたものは(ヤマハ発動機の)佐貫さんにお願いした。広瀬がベルリンに来た時、写した写真を送ったはずである。

何しろ大勢の人が出紙を頼むであるから、手紙以外品物は一切お断りという所を無理して、生フィルムと写真とを持って行っていただいたのである。」
フィルムを送れば日本で焼き増しして、多くの人に配れるという配慮であろう。そして写真も例外として受け取ってもらった。

「広瀬がハンガリーに行ったとき、ちょうど(日本へ)出発前の大久保公使に会ったそうである。大久保公使が”末松はどうしているのか?”と聞かれた。」
何度が名前の出る広瀬栄一駐フィンランド陸軍武官は、暗号の専門家という事で戦後、いくつかの書物に登場する。末松は
「ヨーロッパでたった一人の同期生に会えることはなんともうれしい事である。」と別の場所で書いている。同期生の結束が固かった軍隊である。
なお限られた社会層の人間が欧州に駐在となった為か、末松がベルリンで交流する人物には同期の他、義理の兄弟、学校の同窓、妻の同窓などの縁が頻繁に見られる。

また上の文章から推測して大久保利隆公使は末松と面識があった。1941年に末松がハンガリーを旅行した際に会ったようだ。

末松と同期広瀬(右)

「11月の末、大規模の空襲に見舞われたが、日本人は全員無事、一人火事を消してけがをした人があった。もう一人、どこへ行ったか分からない人があるが、この人は普段から、日本人仲間と全く付き合いのない変わり者だから、どこかへ行っているだろうという噂である。」
ベルリンの大空襲についても手紙に登場する。ここで怪我をしたとあるのは満州重工業の浅井一彦で、彼の被災の様子を、筆者はすでに自身のホームページで紹介した。一方変わり者は誰であるのかは不明である。

「ゆうべは、うちに陸軍武官他、六人ばかりの日本の陸軍の将校を夕飯に招待した。天ぷらをご馳走した。油は久さんが旅行で買ったルーマニア製の上等なオリーブ油、種物が生憎いいものがなくて、肉と玉ねぎとねぎの三種だった。おつゆと天ぷらは本職の日本人の料理人がやった。勿論なかなかおいしかった。」
天ぷらの具が三種類とは少し寂しいが、専門家の作った天ぷらを楽しんだ。

また第14信(14枚)ではドイツの建物について説明の後に「現に久さんと一緒に住んでいるいまのうちの一階はパン屋である。」と書かれている。

末松の下宿 この3階に住んでいた。確かに下にBaeckerei(パン屋)の看板が見える。

また「内務省の佐藤(彰三)という人は、日本でも有名な素人の碁打ちで」と末松は書いている。最近出版された「私が最も尊敬する外交官」という本の中で、当時ベルリンの大使館で外交官補であった吉野文六は佐藤について聞かれて
「この人は、見かけは非常におっとりした人なんです。碁が大変強かった。恐らく当時のベルリンに住んでいる日本人の中では一番強かったでしょうね。」と答えた。このインタビューは戦後60年以上経過して行われた。吉野の素晴らしい記憶力に驚く。



<大食漢 末松>

先に紹介した同期の広瀬栄一駐フィンランド陸軍武官は戦後、ある講演で末松についてふれている。
広瀬がベルリンを訪問する、と西郷中佐などより「フィンランドから欠食児童が来たか」と言われご馳走してもらった。ベルリンも食べ物はあまり豊富ではなかったが、ベルリン在勤者は配給切符を多くもらっていたので、広瀬一人くらいにご馳走するのは問題なかった。そして末松が登場する。

「私の同期に末松というのが技術関係でやはり行っていましたが、末松は”グールマン”と言われまして、たくさん食うものですから、広瀬は欠食児童でしょうがないけど、お前(末松の事ー筆者)はダメだと言われてました。同期生ですから一緒によんでもらいたいんですが、末松と一緒はダメだという訳で、私は方々で欠食児童という事でご馳走になった。」

写真から見る末松はふっくらした体型であるが、食べる量も多かったようだ。仲間の間で”グールマン”と呼ばれていたとある。これはおそらくドイツ語の"Gourmand"(大食漢)から来ていよう。おそらく戦時下にはあまり歓迎されない嗜好であった。



<1943年12月23日から翌年2月2日 スイスからの第16信>

これは36枚と非常に長い。手紙は近況報告と言う役目を超え、自分の趣味の歌舞伎の論評を展開したりしている。読む方も一苦労であったかもしれない。
「郵便で出す手紙だから、政治の事は勿論、国内のいろいろの事情などで書けないことが多い。
戦争の真っ最中に芝居でもあるまいが、芝居の事なら、いくら(葉書でなく)郵便で出す手紙でも当たり障りは無かろうから」

「近くスイスから陸軍武官の岡本中将が、旅行してこちらにいらっしゃるらしい。その折、この手紙をお願いできるかもしれない。」とスイス通信のためならどんな位の相手でも、手紙を託そうとしていることが分かる。

「去年の11月の火事で、写真機も、今では灰になってしまった」とあり、その後の写真は確かにもう無いようである。

「実は今、ある人に(手紙の搬送を)頼んである。出すのは2月10日ごろになるかもしれないと思う。
1月29日(土)の夜、寝台車でベルリンを発ち、菊池軍医大佐、花岡兵技中佐と三人で、チロルの山の中に来た。」
陸軍武官室では毎年交代で2週間ずつ、スキー休暇を取っている。当時の日本の陸軍では考えられないことであろう。この花岡中佐は別の手紙の伏線となる人物で後述する。


<1944年3月21日 スイスからの第19信及び22信、25信>

それらはスイスの官製葉書に書かれたものである。葉書も官製葉書の方が着きやすいと考えていた。19信では
「昨年の10月末頃の(日本からの)日付の手紙を5つ、6つ受け取った。」と日本からの手紙がほぼ4か月かかって届いた事が書かれている。よくこんなに長い間各国を巡り、無くならないものである。

1944年4月27日 スイスからの第22信では
「今日、日本から送ってきた新聞や雑誌などを受け取った。懐かしい日本の姿のにじみ出ている活字を、食い入るようにして読んだ。
新聞の方は1月21日から31日までの分が一つの封筒に、また2月1日から2月15日までの分が他の一つの封筒に入っていた。雑誌は待ちかねていた”文芸春秋”の2月号。」とついに日本から待望の雑誌が届いた事を報告した。ソ連が国際郵便を受け付けるという事は書籍、印刷物も受け付けるという事なのであろう。

1944年7月12日 スイスからの第26信では
「近く満州国の日本人や満人の人たち20人あまりが、シベリアを通って帰ることになった。その中のどなたかにお願いしようと思って、わりに長い手紙を(別に)書いている。」と書きさらに
「今月限りドイツの航空研究所をやめ、陸軍武官室の事務所の方で勤務するようになる予定である。」
と書かれ、これがスイスからの通信の最後となっている。

これ以降の手紙が残っていないのは欧州の戦局によると考えられる。スイスからの郵便は陸路ウィーンからトルコに向かうが、その間にソ連軍が進出して交通路が分断されてしまったからだ。9月5日、ソ連はブルガリアに宣戦する。


<旅行者が運んだ手紙 1943年>

末松はこれまで見てきたスイスからの手紙の他に、日本への旅行者にも渡したことはすでに述べた。それは1943年8月4日に始まり、1944年7月17日までで便箋に番号が振られ、63番から166番まで104枚が今残っている。欠けた番号がないので、その間手紙を託された旅行者は、確実に日本の留守宅まで届けてくれたことが分かる。

それら手紙の中から、スイス通信に出ていないものを紹介する。時期は少し戻り、1943年8月4日からである。

「また近く便があるかもしれないとのこと、聞き込んだので、大急ぎで筆をとる。
去年の冬、航空の飯島大佐が日本にお帰りになって、(自分が)航空技術の方面の駐在官に任命されるのではないかと思っていた。しかし、この方は今になっても、何の音沙汰がない所を見ると、当分そうなりそうにもないらしい。」
久さんのように外交官待遇になるのではと言う、末松の期待は満たされなかった。

「研究所は17時にはキチンと引ける。夕食はベルリンの旧市街に戻って、日本飯のレストランに行くか、うちで久さんと一緒に食べるつもり。」
戦時下でも残業はしないドイツの研究所に一人出向の形の末松は、17時以降は自由に時間が使えた。その時間で家族に手紙を書いたのであろう。

「1943年10月29日、日本へ帰る人たちのベルリン出発は大体、来月の10日ごろになるらしい。この手紙はそれらの人たちの中の、誰かに頼むつもりである。

8月ごろまでに書き上げた分は、もう役所の方へ頼んでしまった。ことによるともう手元に届いているのではないかと思う。つまり89ページまでは頼んでしまった後で、今はここにはない。」

役所とは大使館、もしくは陸軍武官室の事であろう。11月にベルリンを発つ内田書記官らの前に89ページまでを渡したとすれば、10月5日にフランスの軍港を出て日本に向かった伊号第八潜水艦で運ばれたのであろうか。

「11月3日、ベルリンの日本人たちは(明治節の式典で)大使館に12時に集まった。生まれてはじめていただいた勲五等の勲章をつけた。君が代一回(番?)をピアノに和して歌う。厳かな式が終わる。

その後別室に移って立食の昼食である。材料は足りないが、それでもどうにか、いろいろな日本食が出来ている。五目飯と白米の塩漬けが一番うまかった。」
大使館の日本食も材料不足のためか、寿司、ソバのようなかつての常連メニューが見当たらない。またピアノを弾いたのは女優で声楽家の田中路子であろうか?

「11月9日 夕食は旧市街まで食いに出る。たいがいは日本料理店だ。」と戦況が悪化してきた中でも、まだ日本食料理店が営業していることが分かる。

「12月27日 この手紙は郵便で出すのではない。来年の1月ごろ、ベルリンで締め切りになる。郵便でなく、手紙がどうやって日本までいくのかはよく知らない。
ともかく、このことについては決して人に喋ってはならないことになっている。一方スイスから出す方のも、いつ何時ついでがあることやら分からないから、これも暇ひまに書いておこうと思っている。」
搬送方法について決して喋ってはいけないというので一番に考えられるのが、潜水艦である。日独間の潜水艦の往来は極秘事項であった。知れれば制海権を持つ連合国の攻撃の的となってしまうからだ。時期的に合うのは1944年4月16日夕刻、フランスのロリアン軍港を出発した伊号第29号潜水艦である。

この潜水艦にはベルリンに駐在していた、花岡実業陸軍中佐が同乗して帰国するが、末松と花岡は、スイス通信第16信に書いたように1944年の冬、一緒にスキーに出かけた。そして
「実は今、ある人に(手紙の搬送を)頼んである。出すのは2月10日ごろになるかもしれないと思う。」と思わせぶりに書いている。運んだのは花岡中佐で間違いなかろう。


<旅行者が運んだ手紙 1944年>

「1944年 元日 大使館で在留邦人みんなが集まって拝賀式が行われ、続いて陸軍武官室の連中だけ集まって、武官邸で新年を祝った。ずっと前から大事にしまってあった、とっておきの日本酒が各人に一、二杯ずつ行き渡った。元日の夜は久さんも久しぶりで少し酔いご機嫌であった。」
ドイツの劣勢が濃厚な時期の式典の様子が分かる。日本酒は潜水艦が運んだほかは、戦時中は一切ドイツに入ってこなかったはずだ。

「1月19日 正金銀行の人が近くスイスに旅行するはずであるが、近ごろは、スイスのビザを取るのが、なかなか難しくなってきたから、いつのことになるか分からない。スエーデンに行く人、スエーデンから来る人があるときにも、手紙を頼もうと思っている。

(中立国)スエーデンも、ポルトガルも、トルコも、今の所日本へ出す郵便を取り扱ってくれる。日本からこちらに出す手紙はスイス宛てが一番良かろう。
今書いている手紙は124ページから始まってこの紙が5枚目である。」
末松はすでに述べたようにページ数を知らせることで、留守宅で何が届いて、何か欠けているかを分かるようにした。

スエーデンから出した葉書。ドイツを経由し、まずスイスに入ったと思われる。ドイツでは日本宛ての郵便が受け付けられないが、通過は出来た。

「2月9日 第15信を1月3日に書いた。スイスの官製葉書に書いたもので、したがって短いものである。ベルリンの海軍武官室に頼んだ。スイス勤務の瓜生海軍技師がベルリンに来ると聞いたからである。」ドイツからも丁寧にスイスの官製葉書を使用して書き、スイスに行く人に渡した。

「チロルにスキーに行った。ウィーンの日本領事館に勤務している真言宗の坊さんに会った。非常にまじめな人らしく見えた。」
彼はウィーンではなくハンブルク総領事館に勤務した、高野山大学出身の堀岡智明であろう。末松と同い年で二人は意気投合した。

1944年3月1日
「思い出したように、ポツンと、今頃ソビエトのビザが、ある日本人の所に来た。しかもたった一人である。もっとも日本人とはいっても旅券は満州国のものを持っている。満州国中央銀行の辻村という人である」末松は満州国の日本人にも手紙を委託した。

3月24日 他にも日本に帰る人を知る。前イタリア大使の堀切善兵衛で、彼にも当然手紙を渡そうとする。

3月26日
「ベルリンの爆撃は相当なもので、被害もかなりひどかった。大使館もかなりひどく壊されたり、燃えたりして、陸軍の事務所も今の所二カ所に分かれて仕事をしている。
各人の住居もなるべく郊外に移す方針にしたので、お互いの連絡も昔のようにはいかなくなった。毎週土曜日、陸軍関係者の者は、全員、大使館の事務所に集まって、顔を見せ合い、お互いの連絡やその他必要なことのお達しなどがあることになっている」
連日の連合国の空襲で、ベルリンの邦人の仕事にも、いろいろと影響が出始めた。

6月29日
「最近満州国の20何人かに、帰国のビザが下りた。まだよく聞いていないが大部分は内国人(日本人のこと)であろうと思う。女や子供の家族の人たちもたくさん入っているそうだ」
ノルマンディー海岸に連合国が上陸し、枢軸国の劣勢が明らかなこの時期、日本へ帰国できるビザの発給もとみに少なくなっていた。一方、満州国関係者への発給は続いた。末松は
「満州国は日本よりも、ソビエトとの交渉が多いだけに、ビザも出やすいのであろう」と想像している。

実際にベルリン日本大使館もこの事態について、外務省に抗議する。大島大使は重光大使に宛て次のように打電した。
「今後は日満一体共同歩調にてソ連側と交渉されたし。日本側関係者の査証取付けが満州国関係者に比べて著しく渋滞していることはすこぶる面白からず。また在留邦人に対しても大使館の威信が失墜である。集団帰朝をする必要は益々増大している折、一層のプッシュをお願いする」

また末松はこの4月パリを訪問している。8月には連合国がパリを開放する直前であった。私的旅行であろう。その模様は7月9日付けの手紙に書かれている。
「パリにいる日本人は全部で150人ばかり。ベルリンにいる日本人よりは少ない。」
「パリ滞在は決して長くなかったが、割合に印象に残った思い出の一つに、日本人小学校を見た事がある。」
この時パリにいた邦人数に触れたのに接したのは、筆者はこれが初めてである。また日本人学校の訪問はまことに興味深いものであるので、別途、日本人学校に関する文章の中で、その内容を紹介する予定である。
(「戦時下欧州の日本人学校」としてまとめました。2014年11月16日)

査証の下りた満州国外交官がトルコを発ったのは9月4日であった。末松が委託できた帰国者もこれが最後となった。日本に残る手紙もこれが最後である。

正面大島大使。その手前に日本人の婦人が3人。左手のこちらを向いているのが大使夫人
末松の写真だが、時期と場所は不明。ベルリン在住の数少ない夫人が達が写っている。


<敗戦と引き揚げ>

満州国外交官らが日本に向かった4か月後の1945年1月15日、末松を含む陸軍武官室はベルリンの東南60キロにあるトイピッツに事務所を移す。これは疎開であり、残る邦人からは「陸軍は早々とベルリンを去った」と陰口をたたかれた。

その後大島大使ら外交官の避難地バート・ガスタインに合流し、そこでアメリカ軍によって抑留された。その後6月30日大島大使ら33名が最初に移動させられ、フランスのルアーブルに着く。そこには末松も含まれた。

その後アメリカに抑留されそこで日本の敗戦を迎え、1945年12月6日、神奈川県浦賀港に到着する。アメリカの手によってあらゆる紙類は没収された。よって末松にとっても今遺族の元に残る手紙、写真類はドイツ駐在中に送ったものだけである。

末松は抑留中、諏訪根自子さんのバイオリンの演奏を楽しんだりした。また百人一首のすべてを思い出そうとしたが、99首まででどうしても最後の一首が思い出せなかったという。それは戻って調べたら
「百敷(ももしき)や 古き軒端(のきば)の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」
というまさに百首目、最後の歌であったという。


<終わりに>

2014年9月20日、筆者は「横浜日独協会」の例会で「ベルリンオリンピックの証人」と言うタイトルで講演を行った。その冒頭、戦時中ドイツに滞在した日本人の足取りを調査する事をライフワークとしている」と自己紹介した。

会が終わって懇親会の場で、一人の男性から声をかけられた。
「実は私の父親も戦時中ドイツにいました。当時の写真が少しあります」と教えてくれたのが、末松茂久さんの長男、茂明さんであった。

早速お会いして写真をお借りしたのだが、その際、末松もと子さんが編集した「末松茂久のドイツからの手紙」という本をいただいた。そこにはドイツから届いたすべての手紙のオリジナルが、コピーで紹介されていた。

家族に宛てた内容が主であったが、筆者はこれから当時のベルリンの邦人社会を述べた部分、および手紙を日本に送る方策の部分を抜き出し、「末松茂久少佐 戦時日欧通信記」としてまとめることが出来た。

快くこれらの資料を貸してくださった末松茂明さんに、心から感謝申し上げる。

以上


 
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