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日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録 補遺
(Nippon Yusen, The European line and Japanese passenger, appendix)
大堀 聰

表題の書籍を2020年10月に発行した以降に見つかった資料などをこちらで紹介していく。是非書籍を横にしてお読みください。ゆくゆくは書籍を改定する際に入れ込んでいく考えです。

「日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録 他三編」はこちらからお求めになります。



日本郵船歴史博物館のミュージアムショップで販売されています。(2021年4月19日現在)



<船の上でよーい、ドン!


現在日本郵船歴史博物館では表題のタイトルで「船旅とスポーツの時間」という企画展を行っている。
運動会(スポーツ)は長い船旅を飽きさせないための催しの一つだが、すき焼きパーティー、仮装パーティーなどに比べて船客の回想などにあまり登場しないようだ。


欧州航路に関しては、次のような写真が展示されている。撮影禁止なので、必死にメモを取った。
1 運動会、椅子取りゲーム、綱引き、瓶レース (筥崎丸)
2 鹿島丸のスイミングタンク。熱帯地域を通過するころ、デッキに幕を張り組み立て式のプールを作った。
靖国丸のバスタプの様に小さなプールの写真は見たことがあるが、こちらはかなり広い。
3 戦乱の欧州をくぐり抜けて帰国した欧州航路最後の伏見丸(1941年1月8日横浜港着)でも運動会、すき焼きパーティー、皿の絵付けなどが行われている。
4 デッキゴルフ、デッキテニス(照国丸) ネットを張ってボールが船外に出ないようにしている。確かにネットがあれば球技も可能だ。

5 デッキで子供の徒競走も行われてもいた。船名が書かれていないが、欧州航路より大きかった北米航路の船であろうか?
6 「豚点眼遊戯 秩父丸」という説明で、目隠しをされた客が中央に立つ写真があるが、どういう遊びかは不明。

あたらめて筆者がこれまでに入手した写真を調べてみると、次のようなものがある。
1939年9月、日本に引き揚げる靖国丸。戦争の危険海域を過ぎるたので、皆くつろいだ表情で楽しんでる。目隠し鬼の一種か(2021年12月18日)






<岩瀬(松平)英子>

今回新たな乗船者の記録が見つかった。非常に詳細で興味深い記録だ。

岩瀬英子は旧姓松平、父親の松平斉光(なりみつ)男爵は津山松平家の出身で、母親直子は徳川昭武(慶喜の弟)の三女であった。斉光は1932年からソルボンヌ大学で学んでいた。

著書『フランスの少女時代』の中で英子は、1939年9月1日の欧州戦争勃発に伴う鹿島丸での引き揚げ航海の様子を詳しく書き記している。拙著に於いてこの時の邦人の避難客は「全部で180名、ボルドーから乗ったのは中村光夫を含む142名、英国からが38名で、そのうち子供が50名で、はしゃぎまわっていた」(87ページ)と書いた。その子供の内の一人の体験談だが、新しい”発見”を中心、筆者の解釈を加えて書いていく。

母直子と英子が南フランスのボルドーで鹿島丸に乗り移っても、なかなか出航しない。パリからの引き揚げ者を収容するため、鹿島丸はしばらく停泊した。英子はその間10日ほど午後は船を降り、パリに戻ることになっている父斉光と共にボルドー市内で過ごす。

9月25日、いよいよ出航となる。午後1時過ぎ、乗船客全員が集められ、ライフ・ジャケット着用の訓練を行った。その後ボートデッキに上がり、各自に割り当てられた救命ボートの位置を確認した。英子たちの乗るべきボートは第2号ボートであった。いかに危険を伴う航海であったかが分かる。

船が岸壁を離れる際は、ボーイたちが船の上下にいる人々に色とりどりの沢山の紙テープを配って歩いた。危機の迫る中での引き揚げ船だが、紙テープの舞う出航光景は繰り広げられた。

船内で子ども全員は寄宿舎の食堂の様な雰囲気の別室でにぎやかな食事を楽しんだ。規則では12歳以上の子供は大食堂に出られたが、そうした大きな子供も別室で一緒に食事した。

子どもたちが自主的に決めたルールは
7時半 デッキでラジオ体操
9時  朝食。その後各自部屋で昼食まで勉強
2時半 デッキでの遊び時間。デッキゴルフ、縄跳びなど
6時  夕食。夕食後はロビーでトランプなど静かに遊ぶ
8時半 就寝
であった。そしてこれは航海最後の日までほぼ守られる。

次の寄港地リバプールではイギリスからの引き揚げ日本人が集まるまで数日間停泊し、英子親子はその間ホテルに泊まる。下船するときは、タラップの下にイギリス人の役人が立っていて、一人ひとりに封印した包みを渡した。簡単なガスマスクだった。イギリス滞在中は常にこれを持ち歩き、使用しなかった時は返還してもらうので、むやみに開封しないようにとのお達しだった。ドイツ空軍の空襲を想定した予防措置であった。

ボルドーを出てから2週間くらい過ぎたころから、船では船員たちが来る日も来る日も、船底の倉庫から砂を出しては、これをシャベルで海に捨てるという作業を続けた。そして10月19日にニューヨークの港に入った時は、船は海中に沈んでいるはずの赤い錆止めを塗った横腹がむき出しになってしまっていた。

ここで砂の代わりに積み込んだのは鉄くずであった。大人たちは鉄くずといっていたが、実際は缶詰の空き缶を石油缶大の四角い塊に押しつぶしたものであった。そして詰めるだけの荷物を積むと、船は再び正規の位置まで沈んだ。

鹿島丸は貨客船である。ボルドーからニューヨークまでは貨物がなく、空の船倉では重心が高くなり船の揺れがひどいので、重しとして砂を積んだ。その後ニューヨークで積んだ「鉄くず」はれっきとした船荷で、当時の日本で必要とされたのであろう。

ニューヨークで下船して高層ビル群を見て驚くのは、同じ時期に靖国丸で引き揚げた加藤眞一郎さんらの体験と同じだ。(拙著136ページ)

パナマ運河を抜け、ロスアンジェルスを過ぎてからのある晴れた日、何も見えないはずの海の向こうに黒いものが目に入った。よく見るとそれは船で、黒い横腹にくっきりと日の丸が描かれていた。船はほぼ同じタイミングに同じルートで、欧州から日本に向かう箱根丸であった。ニューヨーク到着は鹿島丸より2日遅い、10月21日であった。遠く離れていても甲板に出て手を振っている人の姿はよく見えていて、英子らもこちらの船から夢中で手を振った。

英独仏が戦争状態に入った中、依然中立を保つ日本の船は誤爆を避けるために、船腹とデッキの上に日の丸を描いていた。鹿島丸の写真を見ると、船腹の日の丸は前部と後部にふたつ描かれ、拙著で紹介した靖国丸の中央部の大きな日の丸と比べるとかなり小ぶりの印象だ。

船客の子供はフランス組が大多数で、リバプールから乗船したのは2家族の子供だけであった。フランス組の子供はフランス語を主として話し、イギリス組とは航海後半まで打ち解けないままであった。

この状態を憂慮した大人たちは、一計を案じて一種の学芸会を企画した。子供たちは英仏組が一緒になって日本語劇の練習をした。発表の日はボーイがデッキの幅いっぱいに幕を張ってくれて、その片側を舞台、反対側を客席とした。客席は母親たちと暇を持て余した大人たちで、熱演し終わると大人たちから大きな拍手が起こった。

また歌も作ろうとのことで、秋吉夫人の作詞作曲で出来あがった。その一番は以下の歌詞だ。

「鹿島丸

戦乱の花の都を 逃れ来た
我らを乗せて 船出せり
輝くわれらの 鹿島丸
潜航艇の 危険を冒し
嵐のただ中 突っ切って
つつがなく つつがなく 渡った大西洋
鹿島丸 鹿島丸 万々歳」

船が太平洋の真ん中に達したころ、ドン!という大きな音と共に、船が一瞬飛び上がった。鯨とぶつかったのであった。大きな鯨であったので、スクリューがひとつ破損してしまった。その結果鹿島丸は4つのうち、3つのスクリューだけで残りの航海を続けた。鯨がぶつかった話は筆者も初めて聞く話だ。

ついに12月4日、無事に横浜に着いた。この時はガタガタするほどの寒さだった。3日前までは夏服でいたことなど、とても考えられたものではなかった。そしてこうして2か月と9日の航海は終わったのであった。
なお父親である斉光も翌年六月に白山丸で引き揚げる。

この本を教えてくださったFさんに感謝します。(2021年10月15日)



訪丸と照国丸の船上写真>

この度1934年に諏訪丸で日本に一時帰国し、同年にまた欧州に向かった商社関係者の親族の方から、船内の写真を提供いただいた。(匿名希望)戦争勃発5年前の1934年の船旅だ。

日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録』では靖国丸、伏見丸、白山丸、香取丸の一等船客の集合写真を紹介した。今回この「補遺」で諏訪丸と、照国丸が加わることになる。

1914年竣工の諏訪丸は欧州戦争勃発まで、欧州航路に約25年就航した「ベテラン」船。いくつかの証言は集まったが、筆者にとって写真は初めてである。

一等船客記念写真。2月28日にもかかわらず皆夏服であるが、改めて他の船の記念写真も見てみると、いずれも白の夏服での撮影である。

筆者の予測では撮影は日本に向けシンガポールを発ったころだ。シンガポールで上下船する客もいるから、その後もしくは前に全員で撮る必要があったと思われる。救命ブイのSUWAMARU(諏訪丸)の文字がはっきり読めないのが残念。船客を見た場合、船長の右隣の若い女性のみが黒い服で目を引く。各船に二人ずつ乗船し、主に子供の世話をした女性のスチュワーデスのひとりか?
最前列には日本人の男の子はなく、少女ばかりなのは偶然であろう。皆良い笑顔だ。



同じく諏訪丸。窓の外からして夜間の食事だ。すき焼きパーティーであろう。桜の造花が天井からぶら下がる。


一家はその後また欧州に戻っている。日本に休暇で一時帰国したようだ。今度は照国丸であった。
竣工後4年ほどしか経たないゆえに、天井の鉄骨はまだピカピカだ。
仮装パーティーの写真。長い船旅に飽きないよう、会社は様々なイベントを用意した。
同年6月18日。誰の仮装かは分からないが、開戦間際には時代を反映してヒトラーの仮装が登場する。

(2021年8月13日



田暢三 照国丸>

表題の拙著で紹介した「満州国の欧州修好経済使節団」(79ページ)と同じ照国丸に乗船したのが、商務官としてパリに赴任する斎田藤吉とその家族であった。三男の暢三が『戦時下のヨーロッパ』という題名の本を2015年に出版している。そこからこれまで書かれていないようなことを紹介する。なお両者の記述で、若干航海の日付が異なるが、暢三は当時の日記を基にして書いているので、こちらが正確かと思われる。

「1938年8月4日早朝、(両親の郷里の)名古屋から大阪に向けて(列車で)出発した。大阪から神戸の三宮まで行き、2時に乗船した。船は日本郵船の総トン数12,000トンの貨客船『照国丸』だった。


斎田暢三さん提供。記念撮影はいつも子供が前列、続いて女性、その後ろが男性という並び。
(2021年8月2日追加)


見送りに来てくれた親戚の方々と紙テープを投げあったが、テープが多くて誰のものかよく分からない状態だった。午後3時、汽笛とともに船は岸壁を離れて出航しテープも切れ、皆とお別れになった。

船は瀬戸内海を通って翌日5日、門司に着き、直ちに出航して日本から離れた。海は穏やかで船上の生活は楽しかった。食後にはいつもアイスクリームなどが出され、一番上の兄は『僕たちは王子様になったようだね』とご満悦だった。

夜はデッキで活動写真がしばしば上映されていた。船内の食事は主に洋食だった。子供たちは大人とは別に先に済ませていたが、時には一家そろって和食を食べることもあった。
9月7日、19時ころ船はマルセイユに入港し、初めてフランスの土地を踏んだ」
西洋料理の食事には子供の参加は許されなかった。それが和食だと許されるのは興味深い。
(2021年2月24日)



<デッキ・パッセンジャー>

渋沢栄一の孫である渋沢敬三の妻登喜子は、1922年春にロンドンに向かう。
ちょうどその頃外交官になって間もない兄が最初の赴任地のパリへ向かう事になったので、前々から夫の後を追ってイギリスへ行く予定であった登喜子は、兄にマルセイユまで一緒に行ってもらう事を頼み、取り急ぎ日本郵船に船室の予約をする。4月末に神戸を出航の筥崎丸に、プロムナードデッキの個室が二つ残っていて、その一つを予約する。

この外交官の兄は木内良胤、筆者の『第二次世界大戦下の欧州邦人(イタリア編)』に収録した『戦時下のイタリア、日本大使館のいちばん長い日』の中で紹介している。
開戦直前まで欧州航路で活躍する筥崎丸は、登喜子が乗船する1年前の1921年に竣工したばかりだ。

また登喜子は
「この頃、日本郵船の欧州航路と言えば華やかさは随一、誰でも一度は経験してみたいと思う旅のひとつであった」と書いている。この欧州航路への憧れ、その華やかさがまさに拙著のテーマの一つだ。

さてこの本で筆者は新しい事実を知る。それが「デッキ・パッセンジャー」の存在だ。該当部分を拾ってみる。
「どこの港であったか、船が接岸するとまもなく、老若男女十数人の一団が賑やかに船橋を登ってきた。黒い髪、褐色の肌、彫りの深い顔立ち、どこの国の人かはわからなかったが、これから次の港に着くまでの数日をこの船の甲板の一部を借りて旅する人々、デッキ・パッセンジャーと呼ばれる人たちであった。

雨の日も風の日も、またどんなに船が揺れるひどい日でも、甲板のこの一隅だけが彼らに許された居場所なのだそうである。(中略)
派手な色合いのキャンバスの様な布を張り渡したのは、雨露を凌ぐ屋根代わりらしく、簡単な炊事もそこでするようであった。水だけは本船から貰い、時折スパイスの利いたおいしそうな料理の匂いが甲板まで漂ってくることがあった」

デッキパッセンジャーについて少し調べてみたすると
画家児島虎次郎の作品に「デッキ・パッセンジャー」があり、大原美術館のサイトで見ることが出来る。こちら。1921年の作品なので登喜子がロンドンに向かった前年だ。カラフルな女性の衣装はインドの民族衣装サリーの様だ。

また『工芸ニュース』1933年3月号に「國井所長工藝行脚 第3信」が載っていて、そこには
「『デッキ・パッセンジャー』にシンガポールその他に出稼ぎしてて帰国した印度人の家族たちがいた」
と1933年頃までデッキ・パッセンジャーの存在が確認できる。
登喜子はどこの港か覚えていないと書くが、やはり彼らはインド人で、乗船地はシンガポールであったと思われる。

また以前、ナチスを逃れてフランスからポルトガルまで箱根丸と筥崎丸に乗船したユダヤ人を紹介したが、彼らもデッキ・パッセンジャーだったのであろうか?こちら
(2021年3月30日)


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