日瑞関係のページ | 論文風 |
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戦時中スイスの産業界が枢軸国に協力し、莫大な利益を上げたとは良く言われるところである。朝日新聞の1997年6月25日の夕刊には次のような記事が載った。 「スイスが大戦中日本と資金取引」 「敵国支援」と表現 米秘密文書 ニューヨーク24日 第二次大戦中、スイスが日本と資金や軍需品などの取引を続けていたことが、二十四日に公表された当時の米政府の機密文書で明らかになった。(中略) 米国公文書館に保存されていた一九四二年六月付の米政府文書によると、三万五千トンの軍需品がドイツとスイスからタイ経由で日本に運ばれ、ゴム、コメと交換されたという。 同年の別文書は、真珠湾攻撃の前に日本がスイスに自動車部品などを発注。米参戦後も注文は破棄されなかったことを示している。 さらに別の文書は、四四年十月にスイスと日本の銀行の間で取引があったことを指摘。米政府はこの銀行取引を「敵国への支援の一例」と表現。「中立国による交戦国との通商の範囲を踏み越えている」としていた。 これらの資料を発見、公表したユダヤ人団体は「文書は、大戦中にスイスから敵国に対して軍需品購入の資金調達に多大な便宜が図られていたことを示す。スイスは日本帝国に包囲されておらず、スイスの中立性に疑問を投げたものだ」としている |
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戦時下の日本-スイスの交易に関し、どのような史料が残っているかを紹介し、上記記事に対する判断は皆さんにお任せすることとしたい。 最初にスイスの基本的考えとその拠り所をスイス人の文章から紹介する。 1 スイスは1907年のハーグ条約で認められた自国の中立規定に従い,忠実に全ての貿易上の取引をなしたこと,及び交戦国と締結した戦時貿易協定の履行にも忠実であったことを機会のあることに主張している。 2 またこの条約は中立国に対し戦時下における武器の輸出を禁じていない。条件は交戦国どちら側にも公平に引渡し条件を設定することである。(当然日本も含まれる) 第二次世界大戦勃発直後,ドイツはスイスの兵器に興味を示さなかった一方、連合国側は急いでスイス企業と契約を結んだ。 中立条約を忠実に履行したスイスは、ドイツから鉄鋼,石炭を輸入し,それを元に製造した兵器をドイツの敵国に輸出した。 こうしてこの時期ドイツからは8百万スイス・フラン、英仏からは5000万スイス・フランの受注があった。兵器は断然連合国側に多く輸出したことになる。 (Werner Rings "Schweiz im Krieg") 3 筆者の見つけた日欧間の日本外交電報を解読したアメリカ文書より 「7月に内容は未確認のスイス製品が、トルコを経由し日本に到着した事が知られている。そして日本海軍と陸軍代表はドイツでスイスフランを入手しようとした。スイスで何らかの製品を購入するためである。 しかし実際にスイス製品が柳船で送られたという事実はない。工業ダイヤモンドが郵便で日本に送られたという証拠はある。そして10万円相当のダイヤモンドが、日本に向かう戦時民間人交換船に乗ったインドシナ人によって、スイスから密輸された様だ。 9月にはアルミ製造の電気行程の図面がスイスから日本に送られたようである。」 (Magic Summary 1942. 12.29) 朝日新聞の取り上げた公文書とは別のもののようだ。なお文中の柳船とは連合軍側の海上封鎖を突破して、極東に向かったドイツの商船をさす。 |
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4 海に面しないスイスであるが主に資源を運ぶため、自国船を保有していた。
しかし日本へは派遣されなかった。つまり中立国旗に守られ、日本の戦時産業に役立つ機械類を運んだりはしなかった。 これらの(スイス籍の)船舶はマディラ島,アゾレス諸島、あるいはアフリカの北岸等の近海航路を出来るだけ往復して,スイスの必需品を運搬せねばならない立場にあったから(日本へは派遣できなかった) 日本のごとき遠隔の地へまわすものとすれば,年間せいぜい二往復しか出来ない羽目におちいるからである。その上,スイス自らその輸送を行うとしても,ナビサートや保証書の問題があって,とても簡単にははかどらない。 (北村孝治郎著 「第二次大戦とスイスの中立」) 結局日本は潜水艦のような特殊な手段でしか、欧州から機材等を運ぶことが出来なかった。日本から派遣され、1943年10月5日に帰国の途についた「伊号第八潜水艦」は多くの新型兵器,技術を積んでいた。ドイツ製がほとんどであるがそのリストには「エリコン20ミリ機銃 120挺 (付属品とも)」「同右用 工具および治具」とスイス製品も載っている。 (NHK出版 「消えた潜水艦 イ52号」) |
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5 スイス商工会議所は戦時下にスイス企業による日本およびその支配地向け売り掛け金の調査を行った。その史料がスイス公文書館に残っている。商工会議所は自分らのメンバーを調べた限りとして、これらの数字を政府に報告した。以外にも日本でなく中国が最大であった。 (1943年8月30日付け "Zahlungsverkehr mit den fernoestlichen Gebieten") |
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物価指数は1940年を100とすると2016年が490である。つまり今のほぼ5倍である。つまり今の価値でおよそ3200万フラン(32億円)ということになる、 (当時は1フランがほぼ1円という為替レート。現在は1フラン=100円で換算) |
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6 スイス国立銀行は確かに日本の銀行と取引を行っている。 スイスには当時日本の外為業務を一手に引き受けていた横浜正金銀行の北村孝治郎が、当初はベルリンから出張し、途中からはスイスに駐在し、スイス国立銀行と接触を保っていた。 外国人の入国を厳しく制限していたスイスであったが、北村の出張に際しての入国申請に対しては、スイス国立銀行がすぐさま保証を与えている。そしてそこには「1942年の出張の時、両国間の支払い問題を話し合った」とある。そしてスイス側も支払い問題の交渉相手として,北村を丁重に扱ったことが分かる。 1944年8月17日、極秘扱いとして北村孝治郎はスイス国立銀行宛に覚書を書き送っている。 「日本政府と駐日スイス公使の間で合意されたことを以下の様に確認する」と始まっている文書がスイス公文書館に残っているが、前後関係が不明なため分からない部分が多い。北村自身の戦後の文章から説明する。 わが国もその範にもれず,ヨーロッパにおける軍需品の買い入れや,在ヨーロッパ邦人の旅行その他にスイス・フランを必要としたのであった。戦争の初期,ドイツの勢い,大いに伸張したころは,わが国所要スイス・フランはドイツが供給してくれたものだった。 しかしドイツの勢力が失墜すると,ドイツ自体の台所も苦しくなり,ひいてはわが国も自力でこれを調達せねばならない羽目となった。 筆者ごときもこれがため,たびたびスイス中央銀行総裁とも話し合いをしたものだが,いつも交渉は不成功に終わった。 その原因は,その交換物件とその輸送の問題にあった。つまり,わが国は金(きん)を東京にあるスイス公使館に指し入れ、これを担保としてスイス・フランを借り入れんとすること、あるいはこれをスイス側に売却してヨーロッパでその代金をスイス・フランで受け取ることを主張するのであったが,スイス側はこれを拒絶した。(略) 日本の欧州におけるスイス・フランの調達は戦争の末期,急転直下解決する。 東亜にある連合国捕虜に対しては慰問品輸送の道がない。 そこで連合国側は,スイスの中央銀行にスイス・フランを払い込み、スイス中央銀行はそれを横浜正金銀行の勘定にいれ、横浜正金銀行はそれに相当する代わり金を円貨で,日本あるいは日本の占領地帯にあるスイスの公使,あるいは総領事に支払うと,これらのスイス官憲はこの円貨で連合国捕虜に対し、酒類,煙草その他の慰問品を送るという仕組みであった。 こんなところにも西欧人にとって,中立国や国際赤十字存在の必要があるようだ。 (北村孝治郎著 「第二次大戦とスイスの中立」) 7 この結果スイスの横浜正金銀行口座の残高は急激に増えて行く。アジアでの支払いは別の財布から出たからである。欧州に駐在する日本外交官、軍人に豊富な活動資金を提供することになる。 |
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「横浜正金銀行全史」によれば 一九四四年八月末成立した日瑞間支払い取極めは当期に入りその運用益々増大し,実施後七ヶ月にして当初の予想一ヵ年五千万スイス.フランをすでにはるかに突破し、振込み高が期末までに六千七百万フランに達するに至り、ベルリンに於ける金勘定経由の第三国資金調達ルートを失える現状下、唯一無二の本邦欧州資金調達の一大資源となっている。 |
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上記の内スイス清算局を通ずるスイス人の在本邦債権の回収に用いられた第二勘定の利用は、反枢軸側のブラックリストに載ることを回避するため、特に在日スイス公使館経由電報する取極めが当行,スイス公使館間に定められ,10月以来実行中である。 上記取極めは連合国に対して公に出来る内容でない部分を含んでいたことがわかる。よって先に紹介した北村のスイス国立銀行宛の覚書は極秘となっていたのであろう。 以上が筆者の見つけた史料です。コメント質問等ございましたらお寄せ下さい。 筆者の書籍の案内はこちら |
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