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開戦から終戦時にかけてのスイス在留邦人の変遷をたどります。
当時の慣習として、日本の主な祝日には公使館に全邦人が集まりました。そこから類推してます。
(今後も調査、充実させていく予定です)

一九三八年一月一日、三日に公使館に集まった人

館員のほか谷貞一郎(バーゼル国際決済銀行員)、鮎川武一郎(札幌帝大助教授)、安西秀夫(三菱)、石井輝司(留学生)、杉山春雄(カトリック代表)、伊佐治正彦(留学生、医学)喜多村浩(留学生)舟田三郎(造船技師)、河村松次郎(海機少佐)、前川重一(海軍職工)、田上保栄(カトリック)、友永徳一(カトリック)、出口利吉(バーゼル、芸人)李逓班(チューリヒ、柔道師)、遠藤恵美子(瑞西人妻)

一九三九年一月一日に公使館に集まった人

友永徳一(フリーブルク、学生)、石井輝司(チューリヒ、留学生)、金子勇(海軍技手)、田中昴(海軍技手)、遠山泰三(ニューシャテル、学生)、塚本、織田、工藤、笹本、柳沢(館員)
時局の緊張で帰朝者が増え、昨年の半分に

一九三九年十一月十日 天羽公使送別会に集まった人

塚本夫婦、馬瀬金太郎、赤松貞雄(陸軍)、山田精二(海軍)、石山慶治郎(朝日)、喜多村浩(読売)、工藤夫婦、笹本、柳沢、藤井、田口一郎、二郎
欧州戦争勃発により、ジャーナリストが増える。

十四日には天羽のイタリア出発に際し、在留民、館員一同来邸、記念写真(を撮る)(憲政資料室蔵にその写真は所蔵されている)
天羽公使(中央)笹本、田口兄弟も写っているが特定できない。前列右端が赤松貞雄陸軍中佐、中列左から3番目が山田精二海軍中佐。

一九四二年十一月三日(明治節)

大谷修少将(ベルリンより出張中)を囲んで(徳永下枝さん所蔵写真より)
徳永太郎、下枝(妻) 喜多村浩(読売新聞嘱託)、山田精二(海軍機関中佐)、生駒一(三菱)、吉村侃(国際決済銀行為替部長、さち(妻)、娘(まり子)、リッター春江(スイス人妻)、猪名川治郎(外交官補)
出張で欠席 三谷隆信(公使)、杉浦徳(外交官補)、荒木外喜三(外交官補)

一九四三年八月七

阪本公使は重光外務大臣の情報関係者の拡充要求に対し、
「当国在留邦人は新聞記者4名、銀行員1名、留学生4名程度の中には適任者なし」と答えている。

一九四四年春

公使公邸階段で撮られた写真がスイス公文書館の岡本ファイルに残っている。写っている人物から考えて1944年春の撮影であろう。前列左より笠信太郎(朝日)、岡本清福(陸軍中将)、おそらく阪本瑞男(さかもとたまお)公使、西原市郎海軍顧問らが認識できる。岡本が手をかける珍しい少女の姿は吉村侃、さち夫妻の子供まり子か?

一九四四年秋

田々宮英太郎の「大東亜戦争始末記」では岡本清福について一章が割かれている。そして写真も紹介されており、場所はいつもの公使公邸の階段である。説明には
「左端より森山(隆介)総領事、中村(賢一)陸軍武官補佐官、岡本中将、加瀬公使、与謝野参事官、一人置いて西原海軍武官」とあり、総勢は8人である。左端は重光晶か?
全員正装であるので、新任加瀬公使がスイスに対し、国書奉呈を行った日であろうか?岡本はこれからまもなくして脳溢血に襲われる。


開戦時二十名ほどしかいなかった日本人も戦禍を逃れて続々とスイス入りし、終戦時には以下のように増えていました。なお軽井沢に避難していた駐日スイス公使館には、公使夫妻に外交官8名とその夫人が4名、さらに一般館員が47名いた。スイスも多くの日本にいるスイス人に大使館員の資格を与えていた。


1946年1月24日ベルン出発帰国組   
外交官関係    経歴
加瀬 俊一 かせしゅんいち ドイツ、イタリア参事官を経てスイス公使 日本終戦時の活躍は特筆に価する  後のドイツ大使
与謝野  秀 よさのしげる 43年遣独伊連絡使としてベルリンに 参事官 与謝野鉄幹、晶子子息 
鶴岡 千仭 つるおかせんじん トルコより一等書記官 スイス大使 S41.1.9 
永田 大二郎 ながただいじろう 二等書記官 43年ソ連経由で着任
森山 隆介 もりやまたかすけ 三等書記官 もとアントワープ領事(スイスは病気療養のため)
森山 AKIKO もりやまあきこ 妻 子供(TAKASI,NOBORU,JUNKO)
上田 常光 うえだつねあき 三等書記官 ドイツ大使 S50.10.21
木原 軍司 きはらぐんすき 電信官
重光 晶 しげみつあきら 外交官補 外相重光葵の甥 後のソ連大使
荒木 外喜三 あらきときぞう 外交官補 フランス大使館より転入
猪名川 治郎 いながわじろう 外交官補 交換船でアメリカより転入
大垣 義雄 おおがきよしぞう 書記生 ジュネーブより (トゥーン滞在)
加倉井 粛之 かくらいしゅくし 書記生
吉元 伝一 よしもとでんいち 書記生 41.6.11スイス着任
堀川 春夫 ほりかわはるお 書記生 マルセーユにて抑留(スイス経由で帰国)
藤田 喜太郎  ふじたきさぶろう 書記生 41.4.4ジュネーブ雇 妻(Marie-Jeanne) 子供(Kazuo、Yasuo)
末國 章 すえくにあきら 雇い 42.4.22ベルン公使館雇に( ジュネーブヨリ) 妻(Gilberte)子供(Akio,Reiji)ナポリまで向かったが病気のため、船には乗らなかったことが判明。
海寶  章 かいほうあきら 公使料理人  元大久保利隆ハンガリー公使従者 妻とし子 長男死亡
和田 トシ子 わだとしこ 森山書記官従者
陸軍関係    
沼田 英治 ぬまたえいじ 元フランス駐在陸軍武官 妻(照子) 子供(光春,順)
桜井 一郎 さくらいいちろう スイス武官補佐官 大佐
小川 季雄 おがわすえお 武官室勤務 大佐 45.1.11スイスニ
中村 賢一 なかむらけんいち 武官室勤務 中佐 経理庶務担当
松木タカジ まつきたかじ 雇い 44.10.27申請 元ドイツ三井物産勤務
三木邦夫 みきくにお 雇い 44.10.27スイス申請 元ドイツ横浜正金銀行勤務
木間瀬精三 きませせいぞう 雇い フンボルト、ミュンヘン大学講師  44.9.6スイス入国申請(研究の資料収集のため)
魚本藤吉郎 うおもととうきちろう 雇い 外交官ポルトガル勤務だが発病後ダボスで療養。陸軍関係者として帰国する
海軍関係    
西原市郎 にしはらいちろう 公使館付海軍顧問 大佐
藤村義一 ふじむらよしかず 公使館付海軍顧問補佐官 中佐
四方忠雄 よもただお 書記官
安達剛正 あだちたけまさ 海軍技術嘱託
津山重美 つやましげみ 嘱託 元ベルリン大阪商船駐在員、藤村の助手として和平工作推進
生駒一 いこまはじめ 嘱託 元ベルリン三菱商事
財務官    
島本融 しまもととおる 元大蔵書記官 ドイツ、スイス
小島要太郎 こじまようたろう 元大蔵事務官 ドイツ、フランス、スイス
チューリッヒ総領事館   
神田 襄太郎 こうだじょうたろう 領事 45.1チューリッヒに ドイツ、スエーデン 妻純子(すみこ)
杉浦 宏 すぎうらひろし 三等書記館
今井実 いまいみのる 官補 ドイツより
角脇晃 かどわきあきら 書記生 フランスより
ジュネーブ総領事館   
吉岡俊夫 よしおかとしお 領事 三等書記官 妻 須満子 長女 壽美子
横浜正金銀行   
北村孝治郎 きたむらこうじろう スイス代表 バーゼル国際決済銀行理事
武井ごんすけ たけいごんすけ 北村秘書官
フランス大使館  モントルーに難民扱いで滞在
三谷隆信  みたにたかのぶ 元スイス公使
北原秀雄 きたはらひでお 官補 戦後フランス大使 
近藤賢一郎 こんどうけんいちろう 電信書記生 アメリカより交換船でフランスに
加藤文一 かとうぶんいち 雇い 元フランス昭和通商加藤文一
ブルガリア公使館  避難組
山路澄子 やまじすみこ 山路章公使妻 家族のみスイス入国 子供 綾子 陽子 晴久 弘行
西村ソノ にしむらその 山路夫人家政婦(スイス政府への報告によるが、実際は与謝野秀の著書に詳しい)文化学院学長の娘
療養者    
白幡友敬 しらはたともよし 三等書記館 療養地ベルン ローマで発病、スイスへ
島崎盛治郎 しまざきせいじろう 館務補助員 療養地ダボス
上武正二 かみたけしょうじ フンボルト留学生(ドイツ 心理学)療養地ダボス
ウィーン領事館出張所   
井上 堅曹 いのうえけんぞう ウィーン領事館からドイツ崩壊直前にスイス国境を目指す  妻富貴 子供武子 まゆみ。スイス公使館のリストには載っているが、実際には入国できなかった。詳細は「日本人小学生の体験した戦時下のイタリア」参照。
マルセーユ領事館   フランスで抑留 実際にはスイスからの帰国ではない。 
高和博 たかわひろし 領事
末松正樹 すえまつまさき 元留学生
タキヤス たきやす  
1947年12月15日ベルン出発組   
笠信太郎 りゅうしんたろう 朝日新聞 ベルン
田口二郎 たぐちじろう 朝日新聞 チューリッヒ
山本正雄 やまもとまさお 毎日新聞 ベルリンより
川崎三蔵 かわさきさんぞう 読売新聞
堀口瑞典 ほりぐちよしのり 同盟通信社 詩人堀口大学実弟
池上幹徳 いけがみみきのり 同盟通信社 ドイツより
徳永太郎 とくながたろう 元スイス代理公使 ダボスで療養 帰国遅れる 妻 下枝(しづえ)
武川基 たけかわもとい 書記生 ダボスで療養
塩田 しおだ 書記生 元イタリア留学生 44.12スイス入り
高木正孝 たかぎまさたか 陸軍武官室雇い 妻(Madeleine) 戦後南洋の海で謎の死を遂げる
渡辺 護 わたなべまもる 陸軍武官室雇い 妻(Ilse) 娘(Toshiko)
スイス残留、もしくは独自に帰国   
吉村侃 よしむらかん 国際決済銀行為替部長 敗戦後も同職に留まる。(同銀行は連合国、枢軸国、中立国によって戦争中も運営された)
妻さち、長女まり子。
倉知緑郎 くらちりょくろう ドイツより難民同様にスイスに 妻淑子 スイス放送局に職を見つけ残留
若山淳四郎 わかやまじゅんしろう 毎日特派員 元ボン大学講師
篠原正瑛 しのはらせいえい ドイツでイギリス軍に抑留。発病して47.12スイスに 49.3帰国
荻島亨 おぎしまとおる イタリアより着任  国際労働事務局職員(ジュネーブ)゙ 妻 Lilia(イタリア人)
石川虎吉 いしかわとらきち 雇 44.11スイスに(外) 43年フランス 元日本郵船無線技師
笹本駿二 ささもとしゅんじ 朝日新聞 48.5帰国
はざまアゼリア はざまあぜりあ 鶴岡一等書記官従者 ドイツより
酒井直義 さかいなおよし チューリッヒ大学留学生 父親は酒井直衛か。
酒井ひでこ さかいひでこ ドイツ海軍武官室雇い酒井直衛娘 母はイギリス人でジュネーブ在住 ベルリン海軍武官室勤務、酒井直衛の娘であろう。
前田護郎 まえだごろう 1944年から1950年までジュネーブ大学講師(敗戦後も続ける)
野原フリードリヒ(普律)  のはらフリードリヒ 母親はドイツ系ラトビア人。1914年よりバーゼルを中心に暮らす。(2016年11月26日追加)
死亡    
岡本清福 おかもときよとみ 陸軍武官 45.8.15チューリッヒで自殺
石原直憲 いしはらなおのり 病気を理由に残留 書記生 交換船でアメリカより 妻Myrian 子供二人 47.1.15前途を悲観し自殺 
堀内基 ほりうちき  陸軍武官室雇い 45.2急死
阪本端男  さかもとたまお  公使、病死(44.7.5) 
北島正元 きたじままさもと  古河電工の技師 永くモントルーの東南十三キロのLaysin市のベルベデーレサナトリウムに入院。四十五年九月十八日,容態が急に変化し、午前十一時に肺喀血で死亡。 
 
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