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日本 作者のノート3 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西

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横浜正金銀行、北村孝治郎の証言を探して

<きっかけ>

資料求めて3000里」のタイトルで、自分の調査対象の本を探し求める苦労を書いたのは今から14年前2000年2月19日の事であった。

そのころに比べると今は電子化のお蔭で、資料も本当に探しやすくなった。「こんなものまで残っているのか?」とわれながら驚いた事が、再三あった。

当時外国為替業務を一手に引き受けた横浜正金銀行のベルリン駐在員から、バーゼルの国際決済銀行理事としてスイスで終戦を迎えた北村孝治郎は、終戦間際にアメリカのダレス機関と和平の交渉を持ったことで、筆者は非常に興味をもっている。「スイス和平工作の真実、その後」参照

本店は今、神奈川県立歴史博物館になっている。(筆者撮影)

しかし北村自身は戦後それについてほとんど語っていない。筆者もいろいろな史料にあたってみたが、同じ結果であった。
ところが最近、戦前、戦中をハンブルクで過ごした杉本勇蔵を調べる中で、杉本の残したアルバムに北村の写真、そしてサイン帳には自筆のサインが見つかった。

1941年3月26日 ブレーメン市 呂宜文公使公式訪問

北村は1939年末までハンブルクに駐在し、一端シベリアを経由して日本に戻るが、翌年末に今度はベルリンに向かったのであった。北村のハンブルク時代について書かれたものはないようだ。その足跡を追いかけたくなった。

<資料探し>

北村は「第二次世界大戦とスイスの中立」という本を時事通信社から出している。この本は国会図書館にもなく、筆者は古書店で入手した。その希少性から東京大学の名誉教授が、人づてに借用を申し出てきた位である。(今調べたら、国会図書館ではデジタルデーターでも読めるようになっている。)

しかしこの本はスイスの中立政策について調べた研究書に近いもので回想録ものではない。和平工作についてのみではなく、ドイツ、スイスでの個人的な駐在体験をほとんど語らないのが北村であった。

よって今回も大きな期待はせずに“国会図書館サーチ”というサイトで「北村孝治郎」を検索した。このサーチエンジンは何時出来たのかは不明だが、自宅でも検索できるので、とても便利なサイトである。いくつかヒットしたなかで、回想録らしいものを探すと「在欧二十年、思い出すままに」「欧米見たり聞いたり」の二つがあった。

早速国会図書館に行って調べたが、後者はやはり見込みが外れた内容で、前者は所蔵図書にないとのことあった。この国会図書館サーチは国会図書館に所蔵がなくて、他の公立図書館のみに在庫があるものも表示するのであった。そういえばこれは前にも経験ありだが、表示が間違いやすいと思う。そして在庫有りとなっているのは唯一「群馬県立図書館」であった。

早速筆者は地元川崎の図書館で、群馬県立図書館からの取り寄せをお願いした。この他の図書館の本を取り寄せるサービスはあまり利用する人はいないようで、窓口の最初の人は分からず、専門の人が対応してくれた。

数日後に図書館から電話があった。群馬県立図書館に聞いたが、あいにくこの本は寄贈本で館外持ち出し禁止となっているから、貸し出せないとの事であった。

こうなるとますます読んでみたくなる。群馬まで出向くことを考えたが、一方北村にはこれまで何度も“裏切られて”きた。この未知の本にも全く欲しい情報がない可能性も高い。その場合は群馬まで出向いたショックは多きい。

そこで何か良い方法はないかと、群馬県立図書館に事情を書いて、直接相談してみた。するとすぐさま返事が来た。
「調べたところその本は彦根市図書館にもあり、貸出禁止でもないようだ。川崎の図書館からそちらにあたってもらえないか」との嬉しいアドバイスであった。先の国会図書館サーチ以外に、さらに図書館相互で在庫を調べるシステムがあるようだ。

付け加えると北村は大津市の生まれである。この本は非売品となっているが、自費出版等の本が国会図書館にはないが、地元図書館に寄贈されている例は何度か経験している。

そこで再度川崎の図書館に出向くと、前回と同じ女性が気持ちよく対応してくれた。こうして多くの図書館関係者の善意に支えられ7月19日、待望の本を手にすることが出来た。(他県の図書館からの移送費は負担しなければならないので、1420円分を切ってれ支払う必要がある。)


左が今回借りることが出来たもの。右は筆者所蔵であるが、本人の「謹呈」の紙が入っている。

<資料として>

内容はというと、「群馬まで自ら出向かなくて良かった」と言うレベル、やはりハンブルクの邦人社会の回想はほとんどなかった。その中で使えると思ったのは以下の二カ所である。

「大戦前夜 その一」
第二次世界大戦の始まった1939年9月1日、私はドイツのハンブルクにいた。ロンドンには加納久朗君がいた。8月中ごろから昼はオフィスからオフィスへ、夜は自宅から自宅へ、日ごと夜ごと何度となく加納君と情報を交換し合ったのであった。

「大戦前夜 その二」
開戦の前夜、8月31日の夕刻7時ごろ、私ども男やもめ数名(家族は靖国丸で引き揚げたから)は、オフィスの帰りに打ち連れてハンブルクにある日本飯屋へ食事に行ったところ、確か8時ごろだったと思うが、ラジオは突然、特別放送を告げた。
(中略)
そこで私は食べるものも食べず、さっそくオフィスに引きかえし、ロンドンの加納君に電話を試みたが、残念ながら、もはや通じなかった。つい二、三時間まえに加納君と電話で話したことであるが、世の中はすでに一大転換をしてしまったのである。
(昭和35年滋賀日日新聞所載)

滋賀日日新聞に書いた記事などが元になった本であるが、この新聞は休刊となっている。その意味でも貴重な本と言えよう。

「ハンブルクの日本飯屋とは河内屋の事であろう」とか、「男やもめ数名は数日前に靖国丸で家族を日本に帰した同行の藤原、畑、奥村、佐藤であろう」と筆者は想像した。北村自身もこの船で家族を日本に帰し、再会はほぼ7年後となる。

靖国丸で引き揚げるベルリン、ハンブルク駐在の婦女子。北村の同僚の家族も皆この船で引き揚げた。

ハンブルクの邦人について興味を持った方は、筆者の「杉本勇蔵の体験した戦前、戦中のハンブルク」に飛んでみて下さい。

また北村はスイス和平工作のアメリカ側の責任者であったアラン・ダレスと、戦後会っていることも特筆しておくべきであろう。
1957年4月、国際通貨基金の理事長としてワシントンに住むパー・ヤコブセンの昼食会に招かれたが、その席にはアラン・ダレス夫妻も招待されていた。

「ダ氏の洒脱なる諷刺の連発によって一層にぎやかであった。ダ氏は職業柄とでも言うか、私の如き者の身元や履歴まで良く調べていたのには全く驚かされてしまった。」と書いてるがやはり、スイスでの終戦工作については全く語り合わなかったようだ。

<北村に関する史料>

筆者のデーターベースから、北村に関する興味深い情報を、筆者のコメントを添えて書いておく。(おそらく初めて世の中に紹介される内容です)

1 読売新聞社の特派員であった嬉野満州夫は「勝利を倶れる」の中で1943年110月末、2年ぶりにストックホルムからベルリンに戻った際、「正金の北村(孝治郎)氏、三井の頭本(元一)氏が明確に戦争反対の意見を持っていた。」と書いている。三井の頭本はあまり高い地位の人間でなく、またイタリアにいた。なぜこの二人の名前が出たのか不明であるが、北村が当時稀有な戦争反対を公言する人物であったことは間違いないであろう。

2 1944年2月21日
北村がドイツからスイスに居を移す際、秘書であったケラー嬢も同行、入国させることをスイス外務省に要望している。これはユダヤ系である秘書を避難させるつもりがあったのかもしれない。これは筆者の全くの推測であるが、藤村中佐を含めスイスに移る際に、ユダヤ人を同行させた(逃亡させた)エピソードがいくつか語られている。(スイス公文書館資料)

3 1944年3月30日、北村は日本の正金銀行本店に向けて
「ここスイスではドイツの敗北は今年の9月とさえ言われている。東欧は戦後共産化され、日本は交渉によってのみ終結可能。日本に対する感情は非常に悪化している。」と打電する。(マジックサマリーより)
スイスの世論を伝える形をとっているが、北村自身の意見を代弁させていよう。(なおこの電文はすでに「
日本人和平工作の一次史料による検証で紹介済み。)

4 1944年9月21日 
「北村はThomas H. Mckittrick同行総裁に仕事上の電話をかけた。北村によれはアメリカの役人は以下のように語った。(以下略)」(マジックサマリーより)
北村の勤務する国際決済銀行の総裁はアメリカ人であった。よって日米が戦う時もコミュニケーションが保たれていた。

5 1945年2月15日
スイス公文書に「北村孝治郎は日本、スイス間の支払い問題について話し合える唯一の日本人 滞在延長に異議無し。」と残っている。外国人の滞在に厳しかったスイスでも、北村の滞在は全くの問題とされなかった。

6 1945年3月27日
加瀬駐スイス公使によって送られたレポートのリマインドに、Puhl(ドイツ帝国銀行副総裁)の以下のコメントが添えられた。
「いかに日本が強力でもドイツの崩壊後、全世界を敵に戦うことを不可能であることは明白である。日本も何としても最悪の事態を避けるために和平を結ばなければいけない。再興出来、再びよき日を向かえられるために。
Puhlと会見した北村は、”Puhlは涙をため日本はナチスドイツと同じ道を選んではならないと繰り返した”」と報告している。(マジックサマリーより)
ここではPuhlの言葉を借りて自分の考えを述べたのであろう。

このように終戦工作に入る以前から、それを予感させる発言が多く残る北村孝治郎である。
なお筆者は「時下の日本とスイスの交易は中立違反?」という文章も書いているが、こちらにも北村が大きく関与していることは疑いない。
(2014年7月21日)


 
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