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日本 ベルリンオリンピックの証人  瑞西

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ベルリンオリンピックの証人

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<オリンピック記録映画に映る加藤綾子さん>

日本では2020年の東京オリンピック開催が決まり、オリンピックに対する関心は高まっている。一方今から80年近く前の1936年8月1日、ドイツの首都ベルリンでは第11回夏季オリンピックが開催されたことは、多くの人にとっては生まれる前の話で過去の歴史に属することであろう。本編ではこの出来事が依然現代史に踏みとどまっていることを、今なお元気に暮らす日本人の証言を交えて、紹介していく。

レニ.リーフェンシュタールと言う当時34歳のドイツ人女性監督が、ベルリンオリンピックを題材に『民族の祭典』(陸上競技)、『美の祭典』(水泳など)の2部作「オリンピア」という記録映画を残した。1938年のドイツでの封切りに続いて、日本でも封切り後観客動員数で記録を作ったが、リーフェンシュタール監督がヒトラーに近い関係者であったため、戦後その”名作“ほとんどお蔵入りとなった。

筆者はこのドイツ映画には、競技場で日本選手を応援する日本人の姿が散見されることに気が付いた。場面の構成は概ね選手が出ると、次いでその選手の出身国の応援団を映す形を取っている。日本はこの大会で金メダルを6個獲得するので、これらの場面にはほぼ毎回、観客席の日本人が映ることになる。

筆者は映像をくまなく見て、すべての邦人の出る場面をピックアップした。そうした中で、特に大きく日本人観客が映し出されたのが下の写真である。

映画「民族の祭典」より


現在の加藤綾子さん(2013年9月撮影)

三段跳びで田島直人選手が16メートルを跳び、世界新記録で優勝を決めると、観客席で立ち上がり日の丸の扇子を振る少女が映されるのである。さらに驚いたことには日の丸を振るこの少女は、同じ姿で200メートル平泳ぎの決勝場面でも登場する。

顔は鮮明には見えないが、筆者は咄嗟にこの女性が誰であるか推測できた。当時大倉商事ベルリン支店長であった加藤鉦次郎の長女加藤綾子さんである。筆者は長男の眞一郎さんにはこれまで何度かお会いして話を聞き、「日本人小学生の体験した戦前のドイツ」としてすでにホームページで紹介した。調べに際して見せていただいていた写真に写るお姉さんと、たたずまいがそっくりであったからである。そして綾子さんは今もご健在である。

40万メートルにおよぶ競技の模様を収めたフィルムから6千メートルに編集して、「民族の祭典」「美の祭典」が作られたという。つまりほとんどが編集段階でカットされてしまったわけである。すべてのフィルムをチェックするだけで、リーフェンシュタール監督は2ヶ月間、毎日10時間以上費やした。

“前畑ガンバレ”の放送で日本中を沸かせた200メートル平泳ぎで優勝した前畑秀子選手の活躍は、レニの目にかなわなかったのか、映画には入らなかった。しかし加藤綾子さんが応援する姿はこの編集過程を経て入った。しかも2度も。スタジアムの収容人員は10万人を超える。その中からどういう経緯でピックアップされたのであろうか?また彼女はその場で撮影されたことを知っていたのか?

本編ではこうした疑問に答えながら、お父さんの仕事の関係でベルリン居住者であった綾子さんの見聞きしたことを中心に、お借りした写真を交え、ベルリンオリンピック及び当時の在留邦人について振り返るものである。

<オリンピック前夜 1>

まずこの頃、ベルリンにはどのくらいの邦人が暮らしていたのであろうか?正確な記録は残っていないが、その一つの証左が下の写真である。オリンピックが開催される1936年の元旦、日本大使館の中庭で撮られた。今とは異なり、日本から派遣されていた外交官、軍人、企業人は、大使館主催の公式行事にはほぼ全員参加したので、ここに写る人々がベルリンを代表する人々と言えよう。

大使、陸海軍武官を中心に。前から2列目左から4人目で眼鏡をかけたのが綾子さん。妹の洋子さんは前から2列目右端。

また「当時ベルリンの日本人は約300人、大部分はドイツへの留学生、商社員とその家族はごく少人数だった」と回想しているのは、三菱商事の技師として滞在していた藤室益三さんのお嬢さん迪子(みちこ)さんである。筆者もいろいろ書かれる中で、この数はかなり妥当性が高いと考える。

全邦人300人からすると、上の写真の人数はやや少ない。おそらく多くの留学生は、招待されていないのであろう。また乳幼児もここにはいない。一方学校適齢期の子供は綾子さんを含め18名写っている。この子供たちのために、この年の4月15日に日本人学校が開設される。そしてドイツが戦争に突入して、日本人婦女子が引き揚げる1939年9月までには、ベルリンの邦人の数は500名に膨らむ。

1936年8月1日から開催のオリンピックであるが、取材陣の日本出発は早い。
小説家横光利一は1936年2月22日、日本郵船箱根丸で門司よりマルセーユに向かう。東京日日新聞(今の毎日新聞)の特派であるが、片道一か月を超える航海は、オリンピック期間だけの滞在では割が合わなかったのであろう、春から欧州各国を合わせて訪問している。

日が経つにつれ、日本の新聞にもオリンピック関連の記事が増える。朝日新聞の6月7日版には
「それゆけ、声援にベルリンへ」の見出しで、61歳を団長とする女性8人がベルリンに向かうことが報じられている。またその時ベルリンに駐在する三井ベルリン支店長綾井豊久の日本に残る令嬢(瑛子さん?)が、8名の応援団の中に入っている。彼女はまだ女学生であるが、何らかの審査を経て選ばれたのであろう。綾井瑛子さんについてはこちらを参照ください。
 
こうした記事が出るほどであるから、日本からのオリンピックの見学者はまれであったはずである。欧州までの運賃は、個人で払うには当時はあまりにも高すぎたからである。

<オリンピック前夜 2>

7月に入ると、日本から選手が着きはじめる。選手は時間のかかる日本郵船の船ではなく、約2週間で到着するシベリア鉄道でベルリンに向かった。陸路を取ったのは、選手にとって長い間トレーニングができないということは致命傷になるからであろう。

彼らは満州を経由してモスクワでさらに列車を乗り継ぐのであるが、モスクワからの国際列車の到着駅がベルリンのフリードリッヒ駅であった。ここに綾子さんらベルリン日本人学校の少女が出迎えに出たのが下の写真である。綾子さんの記憶では、学校では日本選手との特別な交流会などはなかったというが、こうした歓迎行事には彼女らは常に駆り出されたようだ。綾子さんは左から二人目でこの時の帽子は冒頭の映像でかぶるものと同じであろう。またおそろいの服から姉妹関係がよく分かる。

左より妹の加藤洋子さん、綾子さん、井上さん3姉妹(井上康次郎代理大使の娘)、渡辺(三菱商事支店長)さん姉妹、可児(三菱商事)さん姉妹。彼女らはベルリンのイベントにはいつも顔を出す”常連の“小学生であった。後ろで帽子を振り上げているのは先に述べた三菱の藤室益三。

綾子さんの記憶では、この日に迎えた選手は陸上競技の選手であった。ベルリンオリンピックでは19の種目が行われたが、日本は11の種目に選手を派遣した。しかし陸上と水泳を除くと世界レベルとかけ離れ、参加も「見学」の域を出なかったという。(沢木耕太郎) よって綾子さんらが陸上の選手を迎えたとしたら、うなずける。

この時駅頭で急に歓迎のあいさつをドイツ側から頼まれ、ドイツ語で対応したのは牛場信彦二等書記官(のちの駐米大使)であった。咄嗟の挨拶は“つかえつかえ”であったが、居合わせた奥様達は「さすが(外交官)」と称賛したという。なお牛場は大使館ではオリンピックの担当であったようだ。

当時26歳の若き写真家名取洋之助はベルリンオリンピックの写真を多く残した。
2006年に岩波書店から出版された『ドイツ・1936年−名取洋之助写真集−』には
「日本選手団ベルリン到着 フリードリッヒ駅での歓迎」というタイトルの写真が載っているが、これは先の写真とは別の日の様だ。右に制服姿の選手団が並び、迎える左側の中央にいるのは大島大使である。
大使の左側に3人の子供が写っているが、一番手前は眼鏡をかけた綾子さんである。そしてその横は妹洋子さん、弟眞一郎さんであろう。ここでも前面に出された綾子さんであった。(2018年7月1日追加)

<オリンピック前夜 3>

到着した選手の入った選手村では、食事は有名な船会社であるノルト.ドィッチェ.ロイト社が担当した。本格的な洋食以外に、日本人のためには特別に日本食も用意されていた。二人の日本人コックが雇い入れられ、ご飯、味噌汁、おひたしなどが食卓に並んだ。また日本風の風呂も用意されていたという。当時としては破格の日本選手に対する待遇であろうか。

また女子水泳の選手陣はベルリンに到着し選手村に入ると、すぐに練習と称してプールに飛び込んだ。アメリカの女子選手がすぐに美容室を探したのと好対照で、ベルリン子の話題になった。美談としてとらえられたが、それは長いシベリア鉄道での旅行の後、何日も入れなかった風呂の代わりであったというエピソードがある。

7月22日の朝日新聞に、オリンピックが近づくベルリンの邦人の様子が紹介される。それは日本―ベルリン間の国際電話の形式を取っている。

「本社:応援と言えば在留邦人がどうしているか、ちょっと話してください。
ベルリン支局河合特派員:ベルリンに日本人が急に増えたのには驚きましたねえ。月末には文部省主催の応援団がやってくるそうですが、なんでも今千人を超しているそうです。イギリスとかフランスとかその他ヨーロッパ各地に留学している連中が、オリンピック応援かたがたベルリンに集まってきてしまったのです。

たった4軒しかなかった日本の料理屋は大繁盛で、女中さんまで増やしてやっていますが、注文してもご飯になかなかありつけない位、賑わっています。どちらかと言えば皆ピーピーしていた連中でしょうが、これでひと財産作ったという形です。」

ベルリンに邦人が急激に増え、それまでひっそりと在留邦人相手に商売をしていた日本食レストランの経営者は、この時に大きな財を成したようだ。

また朝日新聞が報じる1000人の日本人が集まったというのはどうであろう?ベルリン在住が先述のように300名とすると、英仏を中心に700名余りの留学生を中心とした日本人がやって来たことになる。

このオリンピック時のベルリンの日本人数についてもう少し述べる。朝日新聞から派遣された小説家武者小路実篤(さねあつ)は、兄武者小路公共(きんとも)が時の駐独大使であったので、うってつけの人選であったが、「ベルリンで会ってもあいさつしない日本人同士」と書き、それに続けて、
「もっとも今ドイツには2000人以上の日本人が来ているように聞いているが」と、日本人の数は2000人まで跳ね上がっている。

市内には邦人が目に見えて増え、数字もそれに輪をかけるように膨らんでいったが、いつか実際をも超えてしまったようだ。筆者はその中で日本からの選手、役員も含めて最大1000人が良いところではないかと考える。

当時ベルリン最大のデパート「ヴェルトハイム」の支配人のコメントも出ている。
「(日本選手からの注文も)ありましたよ。店には選手たちの顔もよく見えるし、日本のお客さんが買いによく見えます。中でも外交官の方々が多いようです。」と語るので、欧州各国の留学生のみならず日本人外交官が多くベルリンに来たようである。

この頃ドイツ三井物産では来客も増え、ロンドン支店長の承認を得て支配人用に社有車を購入した。そしてそれはオリンピックの時に大いに活躍したとのことであった。お客さんを競技場、街のレストラン、観光と案内したのであろう。三井の支店長は、娘さんが日本より公式応援団として来た綾井豊久である。

<オリンピック開幕>

「民族の祭典」を見ると開会式の入場行進に際しドイツ、イタリア、フランスの順で、アナウンサーがマイクの前で自国民に向かって開会を告げる姿が紹介された後、4番目に直立不動の姿でスタジアムを見下ろす日本人アナウンサーが登場する。その後が米英である。これは当時のドイツの政治事情によろう。

開会式の実況中継の担当はNHKの河西三省アナウンサーであったという。その後の女子の水泳で前畑選手の中継で「前畑ガンバレ」を含みガンバレを38回叫んだアナウンサーである。しかし映画では冷静に
「オリンピックの競技は開催されました。大競技場を埋め尽くしている十数万の観衆の中には、日の丸の小旗があちらこちらにひらめいております。」と端正な表情で喋る。日本語でドイツ語の字幕はつかないが、ドイツ人も容易に内容の想像がついたであろう。(このアナウンサーに関して、最後に補足あり)

アナウンサーが「小旗があちらこちら」と言うが実際、この開会式に何人位いたのだろう?入場券の入手もあるから先述の700名のベルリンの一時的日本人のうち、300人位であろうか?

「Berlin Olympic games (1936) in Color」と言う映像には、この開会式でスタジアムのかなり上段で横一線に10本の日の丸が並んで振られている光景が、カラー映像に収まっている。これを見ると数少ない日本人応援団が、一生懸命自分らを主張している印象である。

You tubeより 右側中段に日の丸の列が。

続く入場行進は、この時すでに恒例であったのかギリシャが最初で、その後はドイツ語の綴りに従って、アルファベットの国順に行進した。映画の場面では行進中、会場埋め尽くす観客はヒトラーに倣い、右手をほぼ水平にあげてナチス式敬礼をしている。それにつられてかフランス選手がヒトラーの前を行進する際、右手を水平に上げ、ナチス式敬礼を行ったと後に話題になった。

日本は29番目であった。役員、女子選手、男子選手の順で行進したが、映像では旗手の大島鎌吉とその横の男性、および男子選手が2列分短く映っただけであった。そしてこの時の日本選手の服装の評判がよくなかったという。

下の写真はその正式ユニフォームを着た女子水泳陣である。白黒写真からは分からないが、灰色のスカート、オレンジのモールの縁取りをした紺のブレザー、そして灰色の戦闘帽は地味を通り越して、薄汚く見えたとのことである。これは日本から往復を含めて4か月の間、ずっと着続けても汚れにくいということを優先した判断からであったという。しかしこの写真を見てももうブレザーには大分しわがよっている。また見た目も女性には特におさまりが悪いようだ。

ユニフォーム姿の日本女子選手。この写真が加藤家に残るので奥に映るのが加藤節子さんか?

<加藤節子さんの活躍>

このオリンピックに際し、ベルリンの大倉商事支店では日本から大変な見学者を迎えていた。大倉喜七郎男爵とその家族である。かれは大倉財閥二代目総帥である。当時ベルリンまでオリンピック見学に行けた、数少ない大富豪である。

綾子さんの母、節子さんはオリンピックの期間中、毎朝7時に一家の滞在するホテルブリストル(現在の名称はKempinski Hotel Bristol Berlin)に向かった。幸い加藤家からは比較的近かった。

大倉一家のお世話は苦労の多い仕事であった。奥様は日本では従者がいて、お姫様のような生活をしていた人だからである。ある時、次女大倉てつ子さんが“そんなことまでやらせて”というようなことを節子さんに頼んだという。その翌日、気の強いお母さんは朝の7時、いつものようにホテルに行かなかった。

するとてつ子さん自身が電話をしてきて、非礼を謝った。節子さんは「それではまた行かせていただきます。」と答え、一件は落着したとのことであった。

長女の正子さんは大倉商事ベルリン支店に駐在する目賀田(めがた)重芳男爵の妻として当地に滞在していた。よってこの時の喜七郎の訪独は娘に会う理由もあったのかもしれない。付け加えると、正子さんはとても綺麗な方で、綾子さんの弟眞一郎さんは、彼女の膝の上に乗ることが楽しみであったと語る。

ベルリンでの一家の写真を見ると、奥様及び二人の娘は華麗な着物姿である。世界中から観光客の集まる時期とはいえ、ベルリン市民の注目を集めたはずである。

左より大倉喜七郎、次女てつ子、妻久美子、長女正子

期間中、母親に面倒を見てもらえない子供たち3人には、どの競技にも入れる特別チケットを与えられた。そのため綾子さんらは毎日、競技を見に行くことが出来た。しかしながら眞一郎さんはこの時は小さくて、オリンピックに関して何も覚えていない。

綾子さんの持つ競技場の写真。奥を見ると意外と観客席は空いている。

大倉喜七郎は気さくで気前が良く、芸術家などを援助した。その一環か女子の水泳チームに対してもよくしたようであった。その内容は分からない。財政的なものであったかもしれないが、大倉家の世話役であった加藤節子さん自身も、現地でいろいろとを支援したようである。

そのため節子さんは、水泳チームから感謝の印で全選手のサイン入り写真をもらった。裏には
「加藤節子様  第11回、女子水上オリンピックチーム一同 感謝の意をこめて。昭和11年(1936年)8月1日」
と書かれている。貴重な1枚であろう。

75年を経て薄くなっているが、全員のサインが入っている。中央左から7人目が前畑選手。
前畑選手の出身地橋本市観光協会のホームページに同じ場所で撮られた別の写真が出ている。



上の写真の裏面

<三段跳びと綾子さん>

リーフェンシュタールの「民族の祭典」の中において、綾子さんの冒頭の写真のシーンが登場する三段跳びは、かなり時間を割いて紹介されている。そして三段跳びは、当時日本のお家芸であった。アムステルダム大会、ロスアンジェルス大会と前の2大会で日本は連続して金メダルを獲得していたからである。今回のベルリンには大島鎌吉、原田正雄、田島直人の三選手が出場していた。

映画よりその様子を見ていく。ドイツ人選手を含む数名が跳んだ後、ゼッケン31番の日本人選手がフィールドでオレンジの皮を剥いている姿が映る。強豪日本人選手はまだ余裕をもって外国人選手の記録を見ている風情であるが、田島自身が後に書いた「根性の記録」に次のような記述がある。

「決勝開始まで30分近くの間があった。私たち3人はフィールドで毛布の上に横になり、オレンジを食べながらのんびりと(他の競技の)表彰式が進のを見守っていた。」
この落ち着きがこれから述べる好成績に結びつくのであろう。

ちなみにここでオレンジの皮をむく彼を筆頭に、日本人選手は総じて好青年である。この後軍国主義がさらにはびこると日本人男性は皆坊主頭のようになるが、映画に映る日本選手はサイドを綺麗に刈り上げて、現代社会に連れて来ても不自然を感じない髪型である。また今のように好記録を出した選手がガッツポーズをとることもなく、謙虚で好感の持てる試合態度でもある。

さらに映像を分析していく。日本人選手で最初に跳躍が映るのは大島である。ちなみに後もナチス時代のドイツと縁の深い人で、のちに毎日新聞の特派員として、ドイツに滞在する。

大島の距離は15メートル7センチで、その後には競技場の二人の日本人がアップで映る。手に日の丸の小旗を振る。冷静な感じは駐在員か。

続いて田島が15メートル76センチを跳ぶと今度は若い日本女性が二人大きく映し出される。先の写真で紹介した女性水泳陣の中の二人のようであるが、あの日本の評判のよくない制服ではなく、私服なので感じが良い。

続いてオーストラリアの強豪メッカ―が15メーター50センチのジャンプの後、この女性が再び大きく映る。次の原田の跳躍を待ちわびる感じである。眼鏡姿の原田が15メーター66センチの結果を出すと、スタンドの小柄な日本人が映り、両手を口に当て大きな声で何か叫ぶ。さらに別の二人の日本人が映り、一人は日焼けした感じがあり元スポーツ選手の風情だ。

再び田島が登場する。助走が始まると蝶ネクタイ姿の日本人観客が立ち上がる。緊張感が高まる演出だ。結果は16メートル、世界新記録で金メダルを獲得する。ここで少しおどけた感じで応援団長風情の日本人がまさに小躍りする。

これに続くのが冒頭の綾子さんの写真で、扇子を左右にしきりに振っている。ほとんど5秒近い登場である。日本人の感動する瞬間をしっかり表現しているかのようだ。そして表彰式のシーンとなり君が代が流れる。このように三段跳びは、まさに日本人を中心に撮影された。

冒頭でも紹介した三段跳びの優勝の後に登場する綾子さん

朝日新聞より派遣された武者小路実篤は三段跳びを観戦して次のように書いている。
「かくて(午後)7時20分、ついに中央の柱にも日の丸の旗は翻った。“君が代“は奏された。“君が代”を歌う日本人の声は場中に響き渡った。我等の喜びは察してもらいたい。今日のオリンピックの勇士、田島の輝かしい記録は後世に残るであろう。」

綾子さんは三段跳びを確かに競技場で見てはいる。しかしこの自分の扇子を振るシーンは10000メートルの村社(むらこそ)講平選手の活躍の時ではなかったかと記憶している。村社のフィンランドの三選手を相手にした健闘に、スタンド中に村社コールが起こった。その時彼女も気持ちが高揚して、とにかく右に左に日の丸の扇子を振り回したという。そしてこのシーンをリーフェンスタールのクルーにより撮影されたことは、気付かなかった。

綾子さんの陸上競技の思い出を続けると、名勝負となった棒高跳びは最後まで見ることが出来なかった。西田修平と大江季雄の二人が、アメリカ勢との熾烈な争いを繰り広げる中、勝負が長引き夜になってしまったからだ。述べたように母親節子さんは大倉家の面倒にあたっており、子供達だけでは帰りの夜道は危なかったので、その前にしぶしぶ引き上げたのであった。

<水泳>

当時、日本は水泳王国であった。日本の選手が練習でプールに姿を現すと、他の国の選手は水から一斉に上がったという。どの国の選手も日本の選手と一緒に泳ごうとはしなかったという。敬意の表れであろうか?

水泳の競技場でのエピソードで次の記事が8月14日の朝日新聞に出ている。
「チャッチャッチャ やったぞ日本応援団。団長日の丸扇子で踊る」の見出しに、日の丸の扇子の写真が写っている。記事は以下の通りだ。

「日本は水泳が強いと言うので、プールの楽隊は日本の応援歌をこの日からやり出した。
(1500メートル予選で石原田選手が抜かれると)もうたまらなくなって、日本の応援団の面々はいずれも今日まで隠しておいた日の丸の扇子をさっと開いて、”頑張れ、頑張れ、石原田!“とやり出した。スタンドに時ならぬ日の丸の扇子の花が、一斉に咲いて満場の観衆はレースそっちのけで大喝采。(中略)

日本人会の書記の一色君が立ち上がって日の丸の扇子で音頭を取り出した。会場はまた大喝采。写真班もレースをそっちのけで一色団長の周りにカメラを集めた。」

ここの一色団長とは後に三井イタリアに勤務した一色義寛であろう。また各国のカメラマンもその光景を撮ったようだ。そして日本人応援団はもっぱらこの扇子を振って選手を応援したようだが、綾子さんもそれに倣ったといえよう。

第二部の「美の祭典」に水泳が出てくるのはその最後の部分である。陸上競技はほぼ種目別に章が割かれているが、水泳は飛び込みを含んで1章しかない。レニの美意識は水中の選手より、陸上の選手に肉体的美しさをより感じたのであろう。

男子200メートル平泳ぎは高飛び込みに続く最初の競泳種目の映像であるが、ここでも3名の日本人選手が登場する。それは葉室鐡夫、小池禮三、伊藤三郎である。

スタート直後にスタジアムで前述の日の丸の扇子が二つ揺らぐが、それを振る顔は認識できない。しかし三段跳びで綾子さんが映ったのと同じ構図である。葉室が1位で100メートルのターンした後、フェンスから乗り出す日本人の姿が映る。2位はドイツのジータス。ドイツ人アナウンサーは葉室(はむろ)をしきりに“アムロ”と発音している。Hの発音が出来ないようだ。

さらにドイツ語のナレーションでは「日本とドイツの戦いはまさに燃えるよう。」と同盟国同士である日独の二人が激しく競う様を表現している。ゴールが近づくとまたスタンドの日本人が映る。朝日新聞が書いた一色応援団長であろうか。よく見ると3段跳びの場面と同じ人物で、同じような小躍りするポーズである。

そしてゴール直後に出るのは綾子さん。扇子を振り3段跳びと全く同じポーズである。こちらも3秒くらい映る。ここではっきり言えることは、リーフェンシュタール監督は同じ日本人の応援風景を三段跳びと200メートル平泳ぎにさしはさんだ。また陸上競技場での応援風景を水泳に差し込むとはかなり大胆な編集である。

レースは葉室とジータスはほぼ同時のゴールであった。しかし電子計測器のまだない時代、すぐに順位は出ない。葉室は水中で不安そうである。その後各選手のストップウォッチが比較され、ようやく葉室の優勝が決まる。

綾子さんのサイン帳より。葉室選手のサインは左から三つ目。右端はこの後述べる遊佐正憲選手。

その後に登場するのが貫録のある日本人と少し年の差のある女性。コートに身を包む姿からして、ずいぶんと気温が低そうで、見てきた200メートル平泳ぎ決勝の日の映像としては少し違和感を覚える。そしてこの二人も別の競技でも登場する。

ここでリーフェンシュタール監督のこの2部作の核心にも触れるが、我々の目に示される映像は“ドキュメンタリー”と言いながらも、多くの演出が加わっていたことである。競技自体の映像にもいろいろ手が加えられた。例えば日没になってしまい、綾子さんたちが家路に引き上げた後も行われた棒高跳びは、光不足の映像は良くないので、後日選手たちにお願いして昼間、映画用に改めて跳んでもらったのであった。

ここまではすでに知られたことであるが、それに加え応援する光景も、効果を最大限に見せるため、別の場面のものが大胆に用いられたことが明らかになった。監督を援護するとすれば、優勝選手がどこの国か予測は難しいので、試合中に各国の応援風景をすべて撮影しておくことは不可能であったからあろう。

そして日独友好と言う時のドイツ政府の方針をリーフェンシュタール監督は感じ取ったのか、全編を通じて日本の選手はかなり登場する。決勝のみならず予選の場面でも、日本の選手は多く出ている印象である。ゲルマン至高主義のヒトラーに気に入られたリーフェンシュタールの中で、どのように日本人は捉えられていたのかは、よく分からない。

次はこの200メートル平泳ぎを生中継した山本照アナウンサーの言葉である。
「葉室一着、葉室優勝。二位はジータス、三位は日本、小池の模様であります。今、今、日本の三選手は相擁してにこにこ笑っております。(中略)そしてスタンドの向こう側も日章旗の波であります。日章旗は相呼応しております。」

戦後、葉室自身が、スタンドで日章旗を振った日本人の数について語っている。
「このオリンピックで始まった聖火リレーは、古代オリンピックの精神を近代オリンピックに伝えるための行事です。また、当時は競技の翌日、メインスタジアムで表彰式を行っていましたが、ヒトラーはプールサイドで優勝儀礼式を見ました。

水泳最終日、日本が2つの金メダルをとり、3〜400人の日本人が応援に来てくれました。当時ベルリンにいた日本人が200人ということですから、旅行者や選手も入っていたと思います。そのとき君が代が歌われ、ヒトラーも立って右手を前方にあげるナチスの敬礼をした時は、実にいい気分でした。」
(「ベルリンオリンピック金メダル秘話」 葉室鐵夫)

葉室選手は現地の日本人は200人と聞いたようだ。また葉室が語るように、ヒトラーはこの日独選手の対決を観戦した。日本人も武者小路大使夫妻の他、佐藤尚武フランス大使夫妻、大島浩駐独陸軍武官、小島秀雄同海軍武官らの要人が観戦した。

<綾子さん、世界の子供の代表!?>

綾子さんはこの葉室の優勝のシーンもスタンドで見ている。そして一つのエピソードを語ってくれた。当時水泳競技場では、内部には食事の施設がなく、昼休みは皆外に出て昼食をとった。その日綾子さんは妹も残して一人だけ早くスタンドに戻ると、誰もいないプールで日本人選手が練習していた。「誰かな?」と見ると平泳ぎの葉室鐵夫であった。そして葉室は綾子さんを認めると、
「おや、日本の女の子がいる」と思ったのか、練習を止めて水から上がってきた。そしてそばに寄って来たのだが、綾子さんは緊張して何も言えなかったという。葉室選手はまだ18歳であった。

また前畑選手が優勝した女子200メートル平泳ぎは、「美の祭典」では登場しないことはすでに述べたが、おそらく日本版に入ったと思われる映像を見ると、多くの日本人観客が登場する。優勝が決まって前畑が水から上がった直後に下のシーンが出てくる。日本人学校の少女たちである。

そして下の写真の左端が綾子さんであるが、本人に確認した所、当初は自分かどうか断定はできないとのことであった。しかし綾子さんの持つ写真に全く同じ配列の少女たちの写真があり、それと見比べて本人も自分であると確認した。

左が綾子さん。その隣が井上さん。You Tubeより

綾子さんのアルバムより。左が綾子さん。次の二人は井上姉妹、その隣は長井商務官の娘さん。

こうして見てくると、彼女らベルリン在住の日本人少女たちは、ドイツ人カメラマンたちの格好の被写体となったと言えよう。子供を映像に入れ込むと見る人の共感を得やすいとは良く言われていることだ。

振り返るとリーフェンシュタール監督の2作を通じて、観客席の映る多くのシーンにおいて、日本人以外の子供が映される場面はないようである。それはオリンピックの会場に高価な入場料を払ってまでして子供を連れて行ったのは、かなり裕福な暮らしの出来た駐在日本人家族だけであったからと推測される。

昔から子供を大事にするのは日本人の習性であった。綾子さんたちは、この映画の中でいわば世界の子供を代表したのである。

日本人女性選手としてオリンピック史上初の金メダルを獲得した前畑選手を、競技場で見た綾子さんは非常に感動した。そこで早速2,3人の友人と連なって花束を持ってオリンピック村にお祝いに行った。

当時は許可証などなくても、日本の子供は選手村に自由に出入りできた。しかし前畑さんは”恥ずかしがり屋さん”で、出て来てはくれずに奥に隠れてしまったという。しっかりとサインはもらった。直接ではなく、サイン帳を預けてきたら、ちゃんとサインされたものが戻ってきた。

また1500メートル自由形で優勝した寺田登、惜しくも2位になった100メートル自由形の遊佐正憲も、綾子さんは実際に競技場で見たと言う。

<オリンピックその後>

オリンピックが終わって間もない1936年11月25日、日独防共協定が調印される。日独はさらに密接に結び付く。ベルリンの駐在員も留学生が減り軍人、商社員などが増える。

1938年4月20日のヒトラーの誕生日に、リーフェンシュタール監督の「民族の祭典」「美の祭典」はドイツで初上映される。公開までに1年半かかったのは、先に述べたように膨大なフィルムからの編集に時間がかかったからである。ヒトラーの誕生日が選ばれたのは、政治的理由からであろう。日本で封切りされる際には、先に紹介した前畑の優勝場面を、ニュース映画から借りてきて「美の祭典」に挿入した。前畑の出てこないオリンピック映画を、日本人が受け入れるはずがなかった。

そしてベルリンの映画館で映画を見た綾子さんは「あ、自分が映っている」とびっくりしたのであった。

終わり

補足

「臣下の大戦」によると、開会式での日本人アナウンサーについてNHKの河西アナウンサーではなく、同時ベルリンに留学していた千足高保(せんぞくたかやす)のようである。ベルリンを本拠とする映画会社トビスでアルバイトをしていた千足は、トビスの映画用に実況中継風にスタンドでコメントを吹き込んだ。その姿をリーフェンシュタール監督のチームが捉えたという。(2014年6月8日記)

映画「民族の祭典」より

<追記>

武者小路実篤の「もっとも今ドイツには2000人以上の日本人が来ているように聞いている」という記述を紹介したが、どんな日本人が来ているのかなかなか筆者はイメージできなかった。

そんな中、知人が教えてくれたのだが、2018年夏、芦屋在住の方の「祖父が8mmで撮影したベルリン五輪の映像を公開」というニュースが話題になり、NHK関西で取り上げられたという。

その祖父は肥料問屋を経営していたが、欧州の肥料会社が彼をオリンピックに招待したのであった。招待した会社では日本人の好みそうな競技のチケットを用意して、旅のアレンジを旅行代理店にやらせていたという。

今でいう、ホスピタリティビジネスが当時のドイツにはあったようで、また企業がオリンピックをそのインセンティブに使うという事も行われていたようだ。

その映像はこちら
(2018年11月16日追加)



主要参考文献
オリンピア ナチスの森で 沢木耕太郎
武者小路実篤全集 第12巻
横光利一全集 第13巻
ドイツにおける三井物産の歩み
七塚町広報誌 1996年 (高橋ふみさんの思い出と共に当時のベルリンの様子が語られている)

特に断りのない写真は、加藤綾子さんから提供いただいたものです。

民族の祭典」、「美の祭典」はユーチューブでも見ることが出来る。
民族の祭典で綾子さんが登場するのは57分40秒あたり。美の祭典は登場するのは1時間16分あたり。
前畑選手の優勝のシーン


 
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