えびす組劇場見聞録:第18号(2005年1月発行)

第18号のおしながき

「マクベス」 下北沢 ザ・スズナリ 2004年11/11〜21
「アサシンズ」 中野ザ・ポケット 2004年11/6〜14
「ロミオとジュリエット」 日生劇場 2004年12/4〜28
「ナイン」 アートスフィア 2004年10/29〜11/14
「二人の女兵士の物語」 新国立劇場小劇場 2004年11/8〜21
二○○四年回顧
「演劇の病い」 マクベス by ビアトリス・ドゥ・ボヌール
「もう一作への期待」 アサシンズ by コンスタンツェ・アンドウ
「マキューシオの隠された眼差し」 ロミオとジュリエット by C・M・スペンサー
「女たちの競演」 ナイン
二人の女兵士の物語
by マーガレット伊万里

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「演劇の病い」 ク・ナウカ公演 『マクベス』
ウイリアム・シェイクスピア作  松岡和子訳  宮城聰構成・演出
ビアトリス・ドゥ・ボヌール
 遅ればせながら今回の公演がク・ナウカデビューとなった。
 話には聞いていたものの、この劇団の「二人一役」「言動不一致」という演技形式がいまひとつぴんとこなかったが、なるほどこういうことだったのですね。
 配役表にはひとつの役にspeaker/moverと二人の俳優の名前が記載されている。たとえばマクベス夫人の場合、speakerは野原有未、moverは桜内結うである。野原が台詞を話し、桜内が動く。
 唯一マクベス役の阿部一徳は言動一致、台詞と動作を同一の俳優が演じる。
 moverの女優は一言も発せず、表情もほとんど動かさない。speakerの女優は時に涙まで流しながら力演する。舞台奥で様々な打楽器を使いながらギリシャ悲劇のコロスのように群読する場面もあった。
 違和感やもどかしさは全く感じず、省略された台詞や場面はあるが、野望を抱いた男の栄光と転落を一時間半で一気に見せる。大胆で気合いに満ちた舞台からは強烈なエネルギーが発せられ、ぐいぐいと引き込まれる。
 ずっと以前に見た江戸糸あやつり人形芝居結城座公演の『マクベス』を思い出した。
 俳優は自分の役の人形を巧みに操りながら、その人物の台詞も言う。激した場面では声は感情を爆発させていても人形を操る動作は緻密で冷静である。
 演じる俳優と人形のあいだの距離が生む、不思議な感覚が興味深かった。
 わたしは最初、ク・ナウカの言動不一致とは、たとえば結城座のような「距離感」を出すためだろうかと予想した。
 だがク・ナウカは言動不一致の形式によって、一見役柄に客観的な距離を取っているように見せて、言動一致に優るとも劣らない不気味で恐ろしい力を産み出すことに成功している。わけのわからない力が次第にマクベスを締めつけ、追いつめていく様子が伝わってくる。マクベス役の阿部は台詞も動きも猛烈タイプの演技であるが、これくらいでないと言動不一致の女優たちには太刀打ちできないのかもしれない。
 マクベス以外はバンクォーもマクダフも全て女優が演じるが、皆黒の紋付き袴姿で一見宝塚風である。マクベス夫人だけは白い打ち掛けに花嫁の角隠しを頭につけている。
 陰謀が成功してマクベスが王位につき、祝いの宴の席でバンクォーの亡霊に取り乱すあたりで、夫人は他の女優たちの手で打ち掛けを脱がされる。角隠しも取って他の女優たちと同じ黒装束に衣裳が替わる。このとき桜内は正面を向き、ほんの数秒美しい裸身を晒す。生身の女のからだというより作りもの、まるで陶器のようである。白い打ち掛けはワイヤーで天井に釣り下げられ、それは正気をなくした夫人の抜け殻を示すと見た。
 さぁ、マクベス夫人狂乱の手洗いの場はいかに?わたしは身構えた。
 ここはマクベス夫人最大の見せ場である。
 と、そこに登場したのは何とマクベス役の阿部であった。マクベスが夫人の役になって、言動一致で手洗いの場を演じるのである。
 阿部は驚くほどさらりと自然に演じてみせた。
 男が女の台詞を言う不自然さはなく、かといって奇をてらったあざとさもなく、マクベスという男の中に、ひとつの人格として夫人が存在することを示しているのかと思わせる。
 白い打ち掛けを脱いだところでマクベス夫人は消えてしまった。いや最初から夫人などは存在せず、すべてはマクベスの幻想の中での出来事だったのかもしれない。
 マクベスという男の孤独が際立つ。
 そうか、こういうやり方もあったのか。
 阿部の手洗いの場は佐藤オリエよりも繊細で、大竹しのぶよりも巧みであった。ここが見せ場ですぞという気負いもなく、しかしこれまで見たどの手洗いの場よりも引き込まれた。
 演出は趣向、こしらえ、解釈という面で語られやすい。それが見たくて劇場に足を運ぶことは確かにある。
 だが戯曲の描いた世界の根幹にあるものを突き詰め、観客の前に示していることを実感できる舞台には案外と出会えない。
 ク・ナウカの様式は、俳優の個性や至芸が突出するわけでもなく、試みばかりが前面に出るわけでもなく、確かに他で類を見ない作りであるが、ひとりよがりな前衛に走っているわけでもない。
 演劇を好きな気持ちは、ある意味病いのようなものである。
 わたしの病いがひとつ増えた。
 ク・ナウカ病とでも言おうか。
 この病いを得たのははまことに幸運であった。と同時に二度目からが勝負だと気を引き締めてもいる。最初は物珍しさもあって新鮮だが、次の機会は自分なりの課題を持って新たな気持ちでより深く味わいたい。
 演劇の病いばかりは治らずに長いこと続いてほしいと思う。わたしのク・ナウカ病はまだ初期の段階だが、これからますます病状が悪化することを秘かに願っている。

 (十一月二十日観劇)

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「もう一作への期待」
コンスタンツェ・アンドウ
 『アサシンズ』―Assassins―暗殺者達。どこかで聞いたタイトルだな…と思っていたら、第五十八回トニー賞最優秀リバイバル作品賞を取ったミュージカルと同じだった。あちらはブロードウェイで上演された、大統領暗殺犯の話。こちらは東京・中野で上演された、少年社中第十四回公演(作・演出 毛利亘宏)だ。(関係ないが、中野にはブロードウェイというユニークなショッピングセンターがある。)
 少年社中の前回公演『ハイレゾ』について、「えびす組劇場見聞録」第十七号に文章を寄せた。音響・照明や、劇場の特性を生かした演出は効果を上げたが、作品のテイストと伝え方の甘さが問題、というのが大まかな内容で、文末は「『ハイレゾ』との比較という視点も加えて、次回公演を見たいと思う」と結んでいる。青山円形劇場での『ハイレゾ』観劇から約半年後、私は中野ザ・ポケットの客席に座った。
 現代日本。世間では動機に乏しい殺人が頻発し、おもちゃ会社勤務のアサコが開発した大ヒットボードゲーム「アサシンズゲーム」が、事件に関連していると言われていた。アサコ・ワタル・ホリイ・サカグチの四人は大学のもと同期生で、アサコとワタルは同棲していたが、ワタルが突然行方不明となり、アサコはその捜索をホリイとサカグチに依頼する。一方、ワタルは中東を連想させる別の時空に紛れこみ、そこで出会った男の「楽園に戻りたければ暗殺者になれ」という言葉に従い、イスラム風の衣装を身に付けて殺人を繰り返していた。
 『ハイレゾ』と同じように、二つの世界が交錯する。役者が舞台を走り回る「チェイス」もある。しかし、作品のテイストはかなり異なっていた。夢や憧れ、友情と愛。乙女チックなSFファンタジー『ハイレゾ』では、まっすぐな人たちがまっすぐに進んでいった。孤独や絶望、不和と殺人。『アサシンズ』は、惑い迷走する現代人を照射する。
 人を思う心が生み出す光と、人を思う心が生み出す暗闇。「人が人を思う」という出発点が同じでも、向かう先は正反対だ。その違いの大きさに私は驚き、二つの作品を書いた毛利への興味を強めた。
 アサコが手がけたゲームが殺意を呼び起こす。殺人を犯す者の心には、ワタルが潜む。「アサシンズゲーム」も、別世界のワタルも、アサコの分身なのだろう。ワタルの裏切りが、アサコにワタルを殺させ、同時にもう一人のワタルが生まれる。もう一人のワタルは、ただひたすらに殺人を続け、やがてアサコ自身を殺す。それは肉体の死ではなく、内面の破壊かもしれない。「楽園へ戻るため」の殺人に罪の意識は薄い。楽園とは、心の平穏なのだろうか。タイトルの『アサシンズ』は複数形だ。暗殺者はワタル一人ではない。
 悪意の誘発、増幅、伝染。インターネットの功罪が取り沙汰される現代において、それらは特殊なイメージではない。テレビゲームやネットゲームを媒体にした方がわかりやすい筈だが、作者があえてアナログな「ボードゲーム」を選んだのは、「いかにも」を避けると共に、「相手」の存在を重視したからではないかと思う。個人の意識がバーチャルの世界へ入り込む「個」対「虚」ではなく、「個」対「個」の関わりが作品の焦点となっている。
 劇中には、もう一つのゲーム「じゃんけん」が繰り返し登場する。じゃんけんにも相手が必要で、より一層「個」対「個」の色が強い。この「じゃんけん」には普通と違うルールがある。勝負の前に、お互いに出す手を申告し、その上であいこを目指す。あいこになったら双方に点が入るが、申告した手と違う手を出した方が、より高い点を得る。勝つためには嘘をつかなければならない。
 全てが悪い方へ転がったかに見えたラスト。もう一組のカップル、サカグチ夫婦がじゃんけんをする。妻のミユキは心を病み、二人の絆は切れかかっている。じゃんけんの結果は、お互いに申告した通りの手を出して「あいこ」。ゲームとしては面白味がないが、夫は気付く。嘘をつかない、相手を裏切らない…簡単で、大切なことを。関係修復と信頼再生の兆しの中で、幕となる。人を思うこと、相手と向き合うことは、時に悲劇を生む。しかし、あきらめていはいけない。
 最後の最後に、『ハイレゾ』とも通じる、作者の前向きな姿勢が感じられた。かたちは違っても根っこは同じなのだろう。
 暗殺者としてのワタルが存在する世界のイメージは、衣装や、「楽園へ戻るための暗殺」というモチーフなどから、混乱の続く中東情勢に直結する。今、何かを書こうとする時に不可避のトピックなのかもしれないが、ストレートにイスラム調を打ち出すことは果たして有効だったのだろうか?見る側も身構えて、思考がそちらへ集中してしまう。作品の一側面(と私は解釈した)としては、時事性が強すぎたように思う。
 円形舞台を存分に活用した『ハイレゾ』に比べ、今回は舞台が狭い上に装置が障害となり、チェイスを含めた役者の動きに変化が少なく、単調になってしまったことも残念だった。全体的に、筆の乗りは『ハイレゾ』の方が良い。再演時に練り直されているのだろうが、勢いがあり、迷いがなかった。『アサシンズ』は、重いテーマをどう表現するか、こなれきっていない印象を受けた。『ハイレゾ』では成功した「見せる」パワーが不足気味なのだ。しかし、現代的な視点で人間を描くという部分に、深みと奥ゆきがある。
 『ハイレゾ』と『アサシンズ』、観客の好みは別れるところだが、個人的には『アサシンズ』を取りたい。そして、毛利亘宏には、二つの作品の魅力を合わせ持つ新作を期待する。
 私には「必ず見る劇団」というものがない。一作見るとわかった気になり、また別の劇団が見たくなるのだが、やはり、一作で決めつけてはいけない。決めつけなくて良かった。少年社中が「必ず見る劇団」になるかどうか、もう一作を楽しみにしている。
(十一月十三日観劇)

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「マキューシオの隠された眼差し」
C・M・スペンサー
 シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の登場人物で、マキューシオを覚えているだろうか。ロミオの友人で、モンタギューとキャピレットの家同士の争いがもとで、ささいな喧嘩からジュリエットの従兄ティボルトに刺殺されてしまうのが彼だ。舞台での登場は五幕中三幕までだが、この蜷川幸雄演出で彼の存在は印象深い。
 ロミオは藤原竜也、ジュリエットに鈴木杏、こうくれば彼らがいかに若さとかわいげががあって、無垢なキャラクターであるか想像に難くないだろう。一方マキューシオは世間にちょっと反抗心を持ったグループの兄貴分的位置付けである。愛に生きようとするロミオの純粋さとは外見も対照的な演出だ。藤原ロミオが大きな目を細めたり、ジュリエットを一心に見つめるのに対して、上半身は素肌にサスペンダーとコートをはおり、サングラスをかけたマキューシオは、その眼差しから彼の真意を読み取ることはできない。ただ彼のおちゃらけた態度が、大人になりきれていない仲間達に支持されているように見える。
 ここに登場する若者たちは、皆家柄がいいのである。ロミオにしろジュリエットにしろ、政略結婚による両家の繁栄の道具となるほどの立場であるし、マキューシオはジュリエットの政略結婚の相手であるパリス同様に大公の親戚である。その「身分」を充分に踏まえた演出が効果的に随所に表れていた。それにシェイクスピアの古典的なセリフがうまくのっている。
 さて、登場時にロミオは別の女性にかなわぬ恋をしていた。その傷ついた心を癒すかのように、マキューシオはちゃかしながら、しかし友人としてロミオを気遣う場面がある。舞台上でふらふらと歩きながら恋する男女について猥雑な表現で語りながらも、実はそれは想像から語っているのだと観客が気付く時、ふっと寂しげな青年の横顔が伺えた。
 十二月の公演でマキューシオを演じるのは、高橋洋。ニナガワカンパニーダッシュ時代から数々の蜷川演出作品に出演し、『マクベス』のマルカム、『ハムレット』のホレイシオなど、自身の感情を抑えた誠実なキャラクターで観客を惹きつけてきた。ロミオとジュリエット、そして彼らを取り巻く人々の中で一番早く命尽きてしまうマキューシオという人物に、これだけ関心を持って観たことがあっただろうか。弟のようにロミオを気にかけながら、いつも明るく振舞う彼の存在は、花火のごとくパッと開いて静かに消えていった。マキューシオの悲哀を表す眼差しは隠されていたが、逆にそれがはかなさを印象付けた。その姿が観る者の心を捉えている。
 カーテンコールで彼はサングラスをはずし、観客の拍手を真剣な眼差しで受けとめていた。そこにはおどけたロミオの友人の姿は既になく、舞台に生きる者が問い掛ける眼差しだけが存在していた。
 物語りはほんの五日間の出来事である。セリフで語られる背景以上に、登場人物の生活が想像できるようだった。旅の途中に私達がこの町に立ち寄ったようなイメージを抱き親近感を持って観た。
 私は蜷川演出のシェイクスピア劇に、コレクションのように一つ一つ新しい作品の解釈を得る喜びを感じている。
(十二月十一日観劇)

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「女たちの競演」
マーガレット伊万里
 二〇〇四年が終盤に入り、劇場へ足を運ぶ回数がぐっと増えた。そんな中で印象に残ったのは、女性たちの舞台だった。
 まずは、tpt公演ミュージカル『ナイン』(脚本・アーサー・コピット、作詞・作曲・モーリー・イェストン、翻訳・青井陽治)。フェデリコ・フェリーニ監督のイタリア映画『81/2』をもとにした作品で、デヴィッド・ルヴォーによる演出。
 スランプに陥った映画監督グイード(福井貴一)は、妻(高橋桂)と一緒に温泉保養地へやってくる。しかしそこへはグイードの愛人や映画プロデューサーやら女たちが押しかけ、彼の神経は休まる暇がない。
 そんなグイードの脳裏から離れないのは、母親の存在。そしてグイードの分身としてそばにはつねに少年時代の自分が立っている。少年の心を中年のグイードに反映させた演出など明快で面白い。夢と現実を行き来する映画の構造を巧みに処理し、ミュージカルとしてダンスや歌の見せ場をきっちりとつくるあたり見応えもある。
 六十年代を意識したメイクや衣装、ガラスや鉄骨でしつらえたシャープで透明感のある装置に水を用いるなど、目に美しいアイテムにも事欠かない。
 グイードをとりまく女優たちの競演も見どころ。貫禄の映画プロデューサー(大浦みずき)、肉感的な魅力全開でせまる愛人(池田有希子)、女優の妻(高橋桂)、女神のような元恋人(純名りさ)、母親(花山佳子)と、あらゆるタイプの女たちが登場する。彼女たちの存在はグイードの理想や現実、社会といったものをうつす鏡でもある。浮気っぽさを露呈させる彼を受け入れ、愛する女たち。彼は母性にすっぽりといだかれたような格好にみえる。
 女たちに溺れていくグイードの姿は女々しくも映るが、その男性を受け入れたり、突き放したりする女の存在によってグイードは人生を再び生きるのだ。
 そんな大きな母性の後で見た、女の欲深さもすごかった。
 『二人の女兵士の物語』(作・演出・坂手洋二)である。
 小島聖と宮島千栄による二人芝居。浅間山山荘事件をモチーフにした話で始まり、OL二人組や火星着陸の物語など、いくつもの短い話で構成されている。多少食い足りない内容のものもあったが、次々と設定に合わせる女優の変身ぶりが楽しい。
 中でも印象的だったのは、第四場「団地の殺意」。小島が一人で大きなカレー鍋をかきまぜている。もうその瞬間、それが誰だかほとんどの人が気づくだろう。和歌山毒物カレー事件で世間をさわがせたあの女だ。そこへちょっと品のない疲れた感じの宮島が自転車でふらふらと入ってくる。宮島は「かずちゃん」と呼ばれ、ギクリとする。そうなのです。かずちゃんとは、殺人容疑に問われ、逃亡をつづけるため整形手術を繰り返すも、時効間際で逮捕されたもうひとりの女。これは現実にはありえない女二人のバトルなのだった。
 二人は腹のさぐりあいのようなやりとりを執拗にくり返す。女であるがゆえの容姿やお金への執着。手に入れるためには手段などおかまいなしといった、開き直りの態度。
 おそろしいなー、この人たち……とめずらしい動物でも見るような気分でいたのだが、二人のあけすけなやりとりは完璧で、目の輝きや表情はかえってイキイキとしたものに感じられた。もしかして自分の思う人間とは絵空事でしかなく、こうした本音のみが、女の本来の姿なのかという錯覚にとらわれ、背筋が寒くなった。
 プログラムによると、「二人の女は、つねにたたかいの場にいる」とある。とすれば、悪女の伝説はあまたあれど、世間をあっといわせた二人の毒婦も誰(何)かとたたかっている。世間の常識か?それともなまぬるい日常を生きる私たちのような女?それとも男たち?
 『ナイン』できらびやかに着飾った女たち。私利私欲に目がくらんだ女二人。あれも女なり。これも女なり。舞台でほほえむ彼女たちの姿が強烈な光をはなっている。
 女とはいったいいかがなるものなのか?女の自分でも、わけがわからなくなっている。
(『ナイン』十一月六日、『二人の女兵士の物語』十一月二十日観劇)

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「二○○四年回顧」
★市川団十郎の急病:復帰会見に思わず涙・市川海老蔵襲名:新之助の名前が大好きだったので彼がいなくなるようで淋しかったが、今は何の違和感もなく海老蔵と呼んでいる不思議・春は風琴工房、夏はグリング、冬は青年座の創立五十周年記念公演。下北沢で豊かな演劇体験を与えられた・NHK大河ドラマ『新選組!』を楽しみつつも彼らの舞台姿が待ち遠しく、堺雅人の『喪服の似合うエレクトラ』や藤原竜也の『ロミオとジュリエット』に「おかえり」と声をかけたくなりました。(ビ)

★二○○四年・印象に残った舞台。一月歌舞伎座『二人道成寺』、九月コクーン『赤鬼・タイバージョン』、十二月帝劇『SHIROH』。偶然だが、三本とも当日又は公演日直前にチケットを買った。何ヶ月も前から楽しみにしていた舞台より、ふっと見に行った舞台に心を動かされるというのは嬉しいような、寂しいような…。演劇界に一言。「何でそんなにチケット代が高いのか?」ある程度の金額を取る舞台は、収支報告をしてほしい。(コ)

★時を経て、あの時観ていてよかったという舞台がある。『'98待つ』。前述の高橋洋は、その中でも気になる存在の役者だった。目を奪われる役者には、そう多くは出会えない。観客として、その時感じた役者の力量を確かめたい、その成長を見届けたいという思いを抱く。'02のtpt『BENT』のルディ、長谷川博己。はっきりした口調に相棒を信頼しきっている純粋さが感じられ、忘れられない存在となっていた。『'98待つ』でも取り上げられた『キッチン』で、今年二人は同じ舞台に立つ。こういう巡り合わせも、舞台を観る楽しみだ。(C)

★楽しかったこと一つ。青年座による五劇場同時上演。どれを見ようか、全作品行こうか、と手帳を片手に財布とにらめっこしながら、しばらく楽しむ。残念だったこと一つ。ミュージカル『ナイン』。オペラ座もヘリコプターも出てこないミュージカルだけれど、その斬新さに釘付け。なのに空席が目立ち、もったいない。今年の再演は必見です。(万)

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