えびす組劇場見聞録:第21号(2006年1月発行)
第21号のおしながき
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「ラスト・ファイブ・イヤーズ」 | ![]() |
シアターX 2005年7/9〜21 |
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「リトルショップ・オブ・ホラーズ」 | ![]() |
青山劇場 2005年11/3〜27 |
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「モーツァルト!」 | ![]() |
中日劇場 2005年10/5〜27 |
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「ゼロの柩」 | ![]() |
シアタートラム 2005年9/29〜10/2 |
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「海賊」 | ![]() |
ザ・スズナリ 2005年12/9〜18 |
「ネクスト・ファイブ・イヤーズ」 | ラスト・ファイブ・イヤーズ リトルショップ・オブ・ホラーズ |
by コンスタンツェ・アンドウ |
「嘘のない歌声」 | モーツァルト! | by C・M・スペンサー |
「舞台が終わったあとは」 | ゼロの柩 | by ビアトリス・ドゥ・ボヌール |
「緊張と弛緩のドラマ」 | 海賊 | by マーガレット伊万里 |
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「ネクスト・ファイブ・イヤーズ」 | |
コンスタンツェ・アンドウ | ||
二○○三年九月発行の「えびす組 劇場見聞録」第十四号に、「適役ふたつ」という題で山本耕史に関する文章を載せた。山本が出演した大河ドラマ『新選組!』がスタートする前年の秋である。その時点では、山本が土方歳三役を演じることは意外だったのだが、いざ見てみるとなかなかハマっており、世間的にも、山本耕史=土方歳三として広く知られるようになっていった。 |
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(『ラスト・ファイブ・イヤーズ』七月十日観劇、『リトルショップ・オブ・ホラーズ』十一月十三日観劇) |
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「嘘のない歌声」 ヴォルフガングを中川晃教で | |
C・M・スペンサー | ||
十月下旬に次号見聞録をどうしようか、という話が持ち上がった。そこで二○〇五年の観劇を振り返ると、七月に観た『モーツァルト!』に結構衝撃を受けていることに気がついた。前号(二十号)で、ビアトリスがヴォルフガングに井上芳雄を取り上げていたので、今度はWキャストの中川晃教について書こう。しかし、三カ月以上も前の記憶では不公平な気がする。東京から福岡は困難だが、名古屋なら行ける。こうして二日後に、楽日間近の中日劇場へ赴いた。 井上芳雄が、前作のウィーンミュージカル『エリザベート』(〇一)のルドルフ役で得た人気と実力を持って『モーツァルト!』(〇二)のタイトルロールに抜擢されたのも快挙だが、中川晃教は、その主演のWキャストを、ミュージカル初舞台で得た。その評価は、第五十七回文化庁芸術祭賞演劇部門新人賞、第十回読売演劇大賞優秀男優賞、杉村春子賞などが彼に贈られたことで示される。 私自身、『モーツァルト!』初演は初日に井上ヴォルフガングを観ただけで、三年を経てようやく中川のその評価のほどを目の当たりにした。 六月に再演の幕を大阪で開けた『モーツァルト!』は、八月と十月にヴァルトシュテッテン男爵夫人とコンスタンツェを新たなメンバーとしながら、東京、名古屋、そして十一月に福岡と、およそ半年に渡る公演を行っていた。 本題の中川ヴォルフガングは、七月に初めて舞台の上で、しかも翻訳ミュージカルで、役を生きている人物を目にした感動をそのままに、この日も名古屋で精一杯生きて命尽きてしまった。 一言で述べると、俳優としての彼の歌声には嘘がない。これは、歌い手として歌唱力がある、ということとは、一線を画している。役の魂を自分に取り込み、その人物の感情から出る言葉をメロディーに乗せ、発しているように思える。これが彼の歌声に嘘がないと感じる所以である。 作品中、中川から受けるヴォルフガング像は、「書こうと思って」名曲を生み出せる音楽の天才ではあるが、「世間知らず」のため少々判断が安易で、「夢中になり過ぎて」行動がエスカレートした結果、収集がつかなくなってしまっている。大人になってからは、世間からバッシングされ、突き転ばされる場面も二つ三つ・・・ ただ一つ、一貫している印象は、ヴォルフガングが非凡であるということ。中川晃教の秀でた歌声が、そう信じさせてくれる。 奔放な天才というイメージの役柄そのままに、中川はなんて声を自由に操る歌い手なのか。微妙な音階の抑揚までも、彼にしてみれば「語る」ことと同じなのかもしれない。 ヴァルトシュテッテン男爵夫人はもちろんのこと、突き放しては庇護するコロラド大司教や、ヴォルフガングの才能を信じ、ともに音楽の歴史の一ページに名を残したシカネーダー、彼らはヴォルフガングが非凡であるが故に、何があっても彼から離れることができない。そこに束縛や友情とは異なる一種の恋愛感情のようなものを感じた。 我々観客も、同様の想いをしてはいないか。 秀でた歌唱と、役そのままに全ての力を振り絞って語りかけてくる中川ヴォルフガング。彼の歌声から逃れることができなくなってしまった。 宮本亜門演出『キャンディード』(〇四)で、中川はウィーンのフォルクスオーパーで活躍するオペラ歌手の幸田浩子を相手役に、タイトルロールの、類い稀なる楽天的で波瀾万丈の人生を送る青年キャンディードの心情を歌い上げた経歴の持ち主である。魂のある歌声に、世界の舞台が注目する日が来るのも、そう遠くはないだろう。その土俵にあがった時、計り知れないほど飛躍した彼の姿を見るのが、また楽しみである。 二○〇六年も彼にはミュージカルの主演が控えている。本来はシンガーソング・ライターという彼は、五年後にはどんな姿を望んでいるのか。観客としては、舞台の上で俳優としての活躍を期待したいところだが、中川は現在二十三歳。日常を含めた様々な経験が、彼を育てていくのかもしれない。見守り、大切に育てたいアーティストである。 ロングラン作品として、十月下旬に名古屋で観た『モーツァルト!』のカンパニーは、開幕から五カ月を過ぎていた。しかも出演者のほとんどは、その間に一カ月だけ上演された『エリザベート』にも出演しているので、稽古期間を入れると、かなりの期間を同じメンバーで芝居をしていることになる。「舞台は役者のもの」という言葉どおり、回を重ねるごとに、演出家の手を放れてしまった、と感じられたことが気になった。 |
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(七月六日 帝国劇場、十月二十三日 中日劇場にて観劇) |
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「舞台が終わったあとは」 | |
劇団風琴工房『ゼロの柩』 *詩森ろば作・演出 シアタートラム | ||
ビアトリス・ドゥ・ボヌール | ||
二〇〇一年初演の改訂版。舞台には十字形に通路があり、中央に一人の男が膝を抱えて座っている。彼の頭上には小鳥の入った鳥かごが吊るされている。男から離れたところに木のベンチ、ちゃぶ台、流しなどが傾いた形で置かれている。固まった布?のようなものが数本、天井からつり下がっていて、抽象的な雰囲気のしつらえである。 昭和四七年、仙台の拘置所の独房で執行を待つ死刑囚国見恭介(小高仁・第三エロチカ)がいる。独房はときに彼が殺した妻や愛人との過去が描かれる場にもなる。独房での男女の会話は鋭利な刃物のように残酷で、容赦なく互いを傷つけ合う。妻の梢(松岡洋子)はおっとりと優しいが、その優しさが男を苛立たせる。一方愛人(明樹由佳)はコケティッシュで女としての自信やプライドに満ちている。男はそんな愛人に溺れつつも、心の奥底では嫌悪しているように見える。 なぜ男は女たちを殺したのか。直接の理由や動機はよくわからない。彼らの会話はときに詩のようで、日常的な会話とは違う響きをもつ。 十三年後の昭和六一年、父親に一度も抱かれることなく成人した娘の知佳(宮嶋美子)が、父親が最後に関わった人、すなわち死刑執行人に会いにこの地へやってくる。 十字路の形の舞台が効果的に使われており、過去と現在が交錯しながら人々の思いを紡いでいく。 六一年の人々の会話はずっと日常的、現実的である。 知佳に片思いしている大学の先輩原田(好宮温太郎・タテヨコ企画)が、仙台まで知佳を追いかけて来る。生真面目で堅苦しい人物たちのなかで、この原田が飄々としたおもしろい造形で、舞台の空気を柔らかにしている。 もうひとつ、執行人杉野(篠塚祥司・元金杉アソシエイツ)の家庭が描かれる。ちゃぶ台と流しはこの家族のためのものである。 死刑執行が命じられると、執行人にはいくばくかの特別手当が出るそうだ。杉野はそれで上等の肉を買う。 前もって「明日は手当が出るから」と言いおいていかないので、妻(羽場睦子・元金杉アソシエイツ)は夫が差し出す肉の包みでそのことを知る。そして用意してあった夕食を処分し、すき焼きを作るのである。なぜ夫は黙っているのか。妻もそのことを察しながら、敢えて夕食を無駄にし続けるのか。 何となくわかる。しかしその理由を言葉にしてしまうのはあまりに辛い。 辛い務めを持つ夫と、妻の言いようのない悲しみ。その両親のもとで育った娘(笹野鈴々音)もまた人の心の痛みを敏感に感じ取る。 法によって裁かれた人と、任務によってその人の人生を断ち切る立場の人の両方の痛みとともに、加害者の家族であり、同時に被害者的でもある娘の知佳は、二重三重の複雑な悲しみや苦しみを抱えた存在であることがわかる。 緊張感とともに悲しい詩情の漂う舞台は、これまで下北沢のザ・スズナリでみた風琴工房とはまた違った魅力を感じさせた。奥行きのあるシアタートラムの舞台を効果的に使い、俳優もまた舞台空間を的確に捉えて演技をしていたと思う。 ただ少し驚いたのは舞台の上にカセットコンロを出し、実際に火をつけてすき焼き鍋を煮ていたことだ。客席から豆腐やしらたきが見え、俳優はそれを口に運びつつ演技をする。その場面が終わっても出汁の匂いが場内を漂い、同道の友人は気になって仕方がなかったそうだ。自分は風邪をひいて鼻が効かなかったことが幸いした。五感を必要以上に刺激する演出には注意が必要だろう。 あの場面でほんとうに食べ物を出す必然性はないと思えるのだが、やや無機質な雰囲気の舞台に、食べ物の匂いを漂わせ、残すことによって、人が生きて死ぬことの生臭さを描きたかったのだろうか? さらに今回の公演で最も大きな疑問は、舞台が終わった後にやってきた。終演後のトークライブが作者の詩森ろばと死刑廃止運動に関わる弁護士による死刑制度を考える時間になったことである。 死刑制度については、昨今の凶悪事件の多発を考えると、たとえ今は直接関わりがなくても考えなくてはならない大切な問題であると思う。しかし今回の『ゼロの柩』をそうした社会的、政治的な流れにもっていくのはいかがなものか。折り込みチラシの中にはアムネスティのリーフレットや、法務大臣宛の署名葉書があり、劇場ロビーには関連書籍が平積みになっている。違うような気がする。舞台を見終わったあとのことは、できれば観客に委ねてほしい。死刑制度について考えようと思った人は、自分で書籍や活動の情報を探しに行くだろう。 詩森ろばは決して声高に考えを主張することはなかったし、この場からより強力な社会的運動を発展させていこうという作為も感じられず、詩森ろばという人のまじめさや思慮深さが伝わってくる、終始静かな雰囲気のトークライブであった。 だからこそ「惜しい」と思う。仮に順番が逆であったなら。別のところで死刑制度を考える場に接し、そこにひっそりと『ゼロの柩』のチラシがあったなら、もっと違う気持ちで舞台を味わい、なおかつ死刑制度についても知ろうとしたのではないか。 偶然だとは思うが、舞台上演前後に新聞で死刑についての記事をいくつか目にした。 死刑情報開示を求める弁護士や、死刑囚が獄中で書いた詩や絵画などの展示会の話題などである。本作を見なければ、特に心にも留まらず読み流していたかもしれない。『ゼロの柩』の影響は確かにあったのだ。 しかしそちらよりも自分にはすれ違う男女の心、家族の思いのほうが心に残った。夫のお弁当のおかずひとつにあれこれと思い悩み、「ひまわりの話をしてもいい?」と聞いてしまう妻と、そんな妻の心情を受け止めきれず、妻の優しさゆえに苛立ちを募らせる夫の姿がずっと気になっている。そのことをもう少しゆっくり考えたいのである。 |
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(十月一日観劇) |
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「緊張と弛緩のドラマ」 | |
マーガレット伊万里 | ||
ボォーッと腹の底に響くような音が、下北沢のスズナリに鳴りわたる。明るくなると、そこは小さな美容院で、待ち合いのテーブルで若い男性がホラ貝を吹いている。そしてテーブルにうつぶせになった和服姿の女性…と思いきや、女装の男性でした。美容院でホラ貝を吹きならすとは、一体全体どこのどんなお話なのかと、これだけ興味をそそられる幕開きを観るのは久しぶりな気がした。 グリング公演『海賊』(作・演出 青木豪)の舞台となるのは、とある港町。観光客を集めるために土地の言い伝えをもとにした水軍祭りの準備をしているが、あまり人気はないようだ。さびれた商店街にある美容院は、保(永滝元太郎)と暁子(萩原利映)夫婦が経営する小さな店で、ひまらしく、祭りで上演する芝居の準備や練習で、町の人間が集まっている。はじめのホラ貝や女装姿もそのためのものであった。 そんな祭りの前夜、保の兄・茂(中野英樹)が店へひょっこりやって来たことから、少しずつ周りの人間の心に変化が起こる。 茂は塾講師をしていたはずが、どうも職を失ったようだ。突然親の遺産の話をもちだし、借金を抱えて生活も苦しい様子。塾を辞めた理由も、女児生徒にイタズラをしたのではないかという疑惑まで出てくる。しまいには、町では幼女の殺人事件まで起きる。台本の完成がいつなのかはわからないが、現実に起こっている事件と幾重にも重なっているようで、背筋が寒くなる思いがした。 茂の妻は自殺で亡くなっており、弟の妻・暁子は妊娠中。と、ここまでくれば、設定が『欲望という名の電車』そのままで、兄の茂は、ブランチと同じ破滅の道を歩むのかと疑心暗鬼。彼は塾で事件を起こし、果ては人の命まであやめてしまったのか?それはそれはサスペンスの様子で、観客側もしばらくは長い葛藤を強いられる。 しかし結局、塾での事件は濡れ衣であり、殺人事件もひょんなことから、無実があっさり判明する。 祈るような気持ちで観ていたが、心のどこかで茂は罪を犯していないと、少し確信に近いものがあったように思う。後からならなんとでも言えるけれど、こんな楽観的な気分が、この作家の持ち味のように思う。 それは四月に青木豪が円に書き下ろした『東風(こち)』を観たせいだろう。 『東風』は、一人の男性をめぐって過去に確執のある二人の女性の子供同士が結婚するお話。こんな曰くつきの縁談がまとまりようもないと思った。しかし、ハッピーエンドには程遠くとも希望を感じさせる終わり方で、わだかまりを抱えつつも現実を受け入れようとする人の姿に、こらえきれなくなった。 そんな楽観的な要素は、今回もラストシーンに集約される。 濡れ衣を着せられて職場を追われ、あげく殺人の疑いまでかけられた茂。プライドはズタズタ、幼なじみとの再会で生まれたやさしい気持ちもあきらめ、やりきれない悲しみをかかえて、とうとう首筋にカミソリを当てる。そこへ、百合(笹野鈴々音)が突然店へ入ってくる。タイミングを失した茂は既の所で踏みとどまり、すすめられるがまま、二人でショートケーキを食べ始める。 いったんは死を選ぼうとした茂と、百合が知ってか知らずか、自分の幼すぎる容姿の悩みをそっともらす時、互いの気持ちがふっとやわらぐ。何気ない会話だが、忘れがたいラストシーン。いささか気恥ずかしいが素直に共感でき、凍りついていた血液がドクンドクンと音をたてて流れ出すかのような温もりを全身に感じた。 巷では、ヨガが大ブーム。ヨガとは、体を使って筋肉の緊張と弛緩を繰り返すことにより、高いリラックス効果を生む運動だ。 めいっぱいに緊張させた後、一気に脱力させて心のコリをほぐしてくれる青木豪の作品は、まるで演劇におけるヨガのようである。 |
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(十二月十八日観劇) |