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書評 「スイス諜報網」の日米終戦工作―ポツダム宣言はなぜ受けいれられたか―
有馬哲夫 新潮選書 2015年6月25日発行
 

お断り:この書評には有馬先生からの反論文が寄せられ、掲載しております。あわせてお読みください。それに対する筆者の補足説明はこちら。

<序>


最初にお断りすると、今回の書評は、見解の相違をかなり細かい点にまで入って論じているので、事前に同書を読むか、評者の「藤村義一 スイス和平工作の真実」をお読みいただくと、理解がしやすいと思います。


有馬哲夫氏に関して、評者はすでに「昭和史を動かしたアメリカ情報機関 平凡社 2009年1月15日 初版」について短いコメントを、「スイス和平工作 その後」の中に書いている。

その後有馬氏は雑誌“新潮45”の2014年8月号、9月号に「スイス終戦工作 空白期間の謎 1藤村電の真相」、「同2 ダレスは何をしていたか」を書き、本書はこれら2つの記事がベースになっている。

そして終戦70周年の今年に出版されたわけであるが、10年前の終戦60周年に出版された「幻の終戦工作 ピース・フィーラーズ 1945夏」竹内修司著を、かなり意識した内容になっている。

何カ所かで竹内の書いている事が否定されている。そしてその頂点は終盤の「スイス終戦工作が(日本の)終戦をもたらした」という主張である。つまり

「スイスからのインテリジェンス(本書を通して説明はないが、有馬氏はこの言葉を“情報”の意味で使っていると思われる)によって、なにができて、なにができないかをはっきり認識していた東郷(茂徳外相)が、(中略)ようやく終戦にたどり着くことが出来たと言える。」と説明し最後には
「この意味で、グルーとダレス、そしてハック、ヤコブセン、吉村、北村、岡本、加瀬の終戦工作は”幻“などではなく、真の終戦工作だったのだ。」と結んでいる。

ここで”幻“という語を用いたのは竹内の著書を意識している事は間違いない。
ただし、お二人の著者が元にしている情報源はほぼ同じである。たとえば加瀬俊一スイス公使が東郷外務大臣宛てに送ったポツダム宣言受入れを提言する電報を、竹内は
「これが東郷の最終決断に資するところがあったのか?」と自問し、「とてもそうは思われない」と自答して「幻の和平工作」となっている。

一方の有馬は述べたようにこれを「イエス」ととらえて、冒頭の主張となっている。しかしながらその根拠が挙げられていない。乱暴な解釈をすれば「海外の大公使館から入る電報を外務大臣は全部に目を通しているだろうし、かつ加瀬公使の意見に同意したはずである」と考えるのが根拠のようである。二人の主張を比べた場合、評者は竹内の方が誠実であると考える。
続いて細部に入っていく。



<藤村工作の先行研究>

有馬氏はこれを書き上げるに際し、スイスの連邦文書館、アメリカのワシントン公文書館等を訪れているが、評者が15年以上前に冒頭に紹介した「スイス和平工作の真実」を書くためにたどったコースであり、どこか懐かしさを覚えた。

また藤村工作については、評者がそこで紹介した史料にもかなり当たっているようだ。ただし違う箇所を引いて、独自性を出しているように思われる。例えば

高木惣吉が戦後藤村にインタビューした記録に関し評者は
「東京から返電について6月15、6日と書いた後に箇所に5月25、6日頃と直されているのも意味深長である。」と書いたが、有馬氏は
「第2電を6月12日といったあとで、すぐに5月12日といいなおしていることだ」と書いている。
もう少し先行研究を素直に紹介、引用しても良いのではないか?付け加えるとウィキペディアの「藤村義一(義朗)」の項目では外部リンク先として以下のように評者のサイトが載っている。

日瑞関係のページ - 「藤村義一」の箇所に、藤村自身の手記と資料とを比較照合した内容を掲載。竹内修司(2005年)には本サイトが主要参照・引用文献の一つに挙げられている。」
竹内氏の先述の著作もしくはこのウィキペディア情報から、有馬氏は評者の書いたものに接しているはずである。



<藤村神話の崩壊?>

藤村証言に入り込んだ脚色に注目して、それを否定するのは評者と同じ手法である。ただしそれはかなり極端で、「藤村ストーリーは、そもそも評価すべき中身はなかった」、「歴史認識を誤らせる躓きの石」と藤村の工作を全否定して結んでいる。

しかし全否定となると、上手く説明できない部分も出てくる。例を挙げると
「暗号電報の発信者は(津山重美ではなく)西原(大佐)だった」という項目があるが、有馬氏は
「藤村と津山が和平工作をしていたこと自体がおかしい。階級に厳しい海軍ゆえ、百歩譲っても、工作の指揮を取っていたのは西原だった」として、藤村の役割を矮小化している。そこでは西原自身が、戦後海軍同窓会報に書いている回想も根拠としている。(西原の回想を探し出したのは評者が先であるが、これも有馬氏は別の記述、個所を紹介している。)

しかし西原主導とすることの誤りは、評者が「スイス和平工作の真実」ですでに説明している。そこでは次のように結んだ。

「この手記の最大の問題点は、文末に“和平交渉に関する裏話はその詳細を、昭和三十五年頃文芸春秋に載せた事がある”と書かれているものの、記事はどこにも発見出来ないことだ。おそらく藤村の文春記事のことを指しているのであろう。細部は具体的でかなり正確であったが、西原は藤村の行為を、自分の行為と混同してしまっていると考えて間違いない。」

付け加えれば有馬氏が多用するアメリカ側の文書でも、7月5日付けでゲルベニエッツは、
「在スイスの日本の公人の中で、それなりの才幹を持つのは只一人、(中略)藤村義一である。(中略)米内海軍大臣に直接電で間断なく報告を送っている」とあるが、西原の記述は全くない。藤村が主体であったという根拠は他にもあるのだが、これまでにしておく。

「単なる情報とりだった藤村」という項目もある。
そこでは日本側は藤村をただの情報とりとして見ていて、それ以上の役割ではなかったという主張もしている。根拠として引用されているのが、近年話題に上った「海軍反省会」の第5巻である。

発言者である大井篤が東郷外務大臣が次のような発言をしたと述べたことが根拠になっている。
「藤村のラインでダレスと話さえさせておけば(中略)、まあ情報とりでもいいんですが、、、」

「海軍反省会」もスイス和平工作に関すれば、「釈明会」の位置づけであろう。その内容は充分吟味する必要がある。東郷が発したとするこの発言であるが、大井は当事者としてその場にいたのではない。また日本の外務省は終戦の年の7月20日頃まで、ダレスという人物について分かっていない。結論を急げば東郷外相が、このような発言をしたとは考えられない。という訳で「単なる情報とり」と言うのも事実に基づいた解釈ではない。

また和平工作の日付が1か月ずれている件に関し、有馬氏は新説としてダレスが6月から異動で、スイス支局長から「占領地高等弁務官」となりドイツに向かった。不在のダレスと交渉していた事になるから、1か月早めたのであると言っているが、どうもピンとこない。

ダレスが異動し、管轄外となった以降も、スイスのOSSメンバーはダレスに報告をしている理由もよく分からない。筆者は1か月早めたのは、藤村が自分の先見性を際立たせるための言う自説に留まる。

さらに戦後藤村は加瀬公使について「無能の人」と書くが、それは自分の工作を「黙殺すべし」と外務省に報告した仕返しと有馬氏は書く。しかし加瀬公使の態度には他の当事者からも疑問の声が上がっている。

朝日の駐在員で良識人と評される笠信太郎は、加瀬の終戦に対する取り組みに「もどかしさを覚えた」と戦後回想している。またもう一人の重要な当事者である北村孝治郎も、
「私見だが、加瀬公使から真の協力を得る事は難しい。彼は自ら動くに臆病すぎるからだ」と連絡員であるハックに語っている。つまり加瀬公使に終戦工作の光を当てすぎるのも正しくはないであろう。

このように取り上げる史料によって、藤村の人物評価は変わるものである。しかしひかえめに言っても、「藤村神話の崩壊}と書くのは極端であろう。



<朝日新聞チューリッヒ支局>

朝日新聞の支局のメンバーが3名ともOSSと結びついていたという。そして重鎮である笠信太郎について、スイス連邦文書館での入国管理記録から、1943年1月15日にスイスに移り住んだことが確認できたと書いている。

しかし有馬氏がまさに訪問した連邦文書館の笠のファイルには同年7月14日付けの手紙で、「もう何週間がベルリンにいる。(スイスの)外交官待遇の書類は、到着後送り返した。」と書いている。また同年9月23日に家族に宛てた手紙では
「この13日、飛行機でスイスに来た。もう一度ドイツに旅行的に行くかもしれぬが、大体このスイスが活動の本拠になりそうだ。」(「戦時下、欧州からの手紙」より)と書いているので、9月と理解した方が良いのではなかろうか?

そして1943年1月15日に「笹本たちと合流する」とあるが、笹本は1940年4月にブダペストに移り住み、1945年1月にスイスに戻るので、笠がスイスに来た時、笹本はスイスにはいない。

またもう一人の支局員田口二郎については「1942年1月15日、東京からスイスに入国して公使館アタッシェになる」とあるが、これも正しくない。田口が遊学先イギリスからスイスに移り住むのは1939年で、以降スイスに滞在している。(「スイスを愛した日本人」より)

有馬氏は最後にスイスに移り住んだのは笹本ではなく、笠という理解のもと、史料にある「新しいエージェント」は笠を指すとしているが、大丈夫であろうか?

また田口は、日本がポツダム宣言を受け入れる大きな拠り所となった、アメリカの対日プロパガンダ、ザカイラス放送に名前が登場するそうである。
1945年6月9日の放送で、「田口の東郷外務大臣宛ての書簡に言及しながら、ドイツの二の舞にならないよう早期に降伏することを呼びかけた」という。

これはダレスとザカライアスの繋がりを証明する貴重な証拠として、本書では3度ほど、取り上げられている。確かにそういう放送があったのであろう。

しかしながら田口の東郷外相宛ての書簡というのは、ありえない事ではないか?26歳でスイスに来た田口と東郷外相との接点は見つからない。面識もない外相に一現地採用のジャーナリストが何かを書き送るであろうか?提言を書いたとしても、外相の目に留まる可能性は皆無であろう。
また”書簡“を送ったと書いているが、ドイツの敗戦時、日本と欧州間の郵便、伝書使など一切機能していない。

こうした精度の低い情報が、ダレスからザカライアスに直接伝えられたのであろうか?ザカライアスがOSS文書に田口の名前を見てつまんだだけではないのか?この疑問はすでに「昭和史を動かしたアメリカ情報機関」に対する書評でも、評者は指摘している。

付け加えると、有馬氏はアメリカ側(英語)の史料を主体に分析を進めているが、スイス側(ドイツ語)文書の分析が少ないようである。



<結論とその出典>

同書には研究論文のように、各所でしっかりと出典が記されている。しかし重要な所でそれが見つからない。ポツダム宣言の受諾を主張していた東郷外相に関し、

「キナ臭いと思った東郷は、5月14日以降ヨーロッパの中立国の公使館などに、英米がどのような終戦条件を考えているが探りを入れるように命じていた。

実際、5月7日から27日までに、ポルトガル、スイス、スエーデン、バチカンの公使館員が現地のOSS代表と接触して和平条件を聞き出そうとしている。」という興味深い記述があるが、この出典がはっきりしない。

一方同書においてスイスでは「5月11日、ダレスの名を受けてハックが駐スイス公使の加瀬俊一と接触していた」と接触がアメリカ側のイニシアチブであることを述べてもいる。

有馬氏はこの時の中立国からの回答で、東郷が「アメリカは無条件降伏しか認めていない」という認識に立ち、それが彼のポツダム宣言受諾の基になっていると導く重要なポイントとしているが、ここでも中立国からの回答から、東郷がそのように理解したと判断できる史料は示されていない。

そして「このハック、ダレス、ヤコブセン、吉村、岡本、加瀬らが数年をかけて確立した日米間のトップをつなぐコミュニケーションのチャネルが無ければ、そもそもこのような終戦を巡るコミュニケーションもなく、したがってドイツのように軍事力と政治機構の完全なる消滅によってしか戦争は終わらなかった。」と書いているが、ここまで言い切って良いかは、議論の余地があるところであろう。

また戦後の話であるが、笠は戦後になってもダレス、CIAとの関係があったので藤村、津山、北村、吉村などに、つねづね自分がスイスで終戦工作に関わった事を口止めしていた」とあるが、この出典も知りたいところだ。



<終わりに>

正直に申し上げて、かなり細部に渡った書評となった。ドイツ語の慣用句に「スープの中の髪の毛を探す」(あら捜しをする)というのがあるが、その感もぬぐえい。しかしやや行き過ぎた部分は戻したい、というのが評者の主旨である。そしてスイスでの和平工作の真実に、さらに少しでも近づければ本望である。

(2015年8月12日 終戦記念日3日前に)


 
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