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戦時下、欧州からの手紙(第二部)
 

日独間の人物、物資の交通路の遮断された戦時下に、その間を例が的に細々と行き来したのが国際郵便である。それに加え個人によって運ばれた手紙について、末松茂久少佐のご遺族の元に残る資料から、筆者は「末松茂久少佐の戦時日欧通信記」にまとめて公開した。

その後、そうして欧州から運ばれた手紙は、かなりの数が他の遺族の元、もしくは記録として残っているのが判明したので、今回第二部として紹介する。どの手紙にもどういう経路で送るかが書かれており、当時の駐在者の苦労がしのばれる。



<笠信太郎>
 朝日新聞欧州特派員

朝日新聞のベルリン特派員であった笠信太郎は1943年秋にスイスに移り住む。ベルリン時代と異なり、郵便局から日本への手紙を出す事が可能であったスイスでは、何枚か手紙を日本に書いて送っている。故国を憂い、祖国に和平を勧告した笠の素顔の一面を窺うことが出来るといえよう。

戦後の笠信太郎(左)と友岡久雄教授

笠初恵宛(笠夫人)て 1943年9月23日 スイス第一信

「この13日、飛行機でスイスに来た。もう一度ドイツに旅行的に行くかもしれぬが、大体このスイスが活動の本拠になりそうだ。
お互いに気を強く持ち、しっかり歩いて行かねばならぬ。ここに来た以上は、ここから一週一回は、葉書か手紙を必ず出すから、せめて手紙で慰めてもらいたい。」
これは短いので末松の出したのと同じ、スイスの官製葉書に書かれたものであろうか。次は朝日新聞社の同僚に宛てたものである。またこの時すでに、ベルリン―チューリッヒ間には航空路が開かれていたことがわかる。

香月保兄 1944年5月1日 (香月保は大学の同窓で大阪朝日編集局長)

「今日この地(スイス)を発ち、日本へ帰るはずの人(外務省のクーリエという名義の人で加賀という)があるので、着くか着かぬが知らぬが、取り急ぎ一筆してみる。」

笠が外務省名義の加賀と書く人物は、実は陸軍の加藤三郎少佐である。軍人でありながら、外務省のクーリエとして、加賀進の名前のパストートを所持していた。伝書使の仮面をかぶった陸軍の情報収集担当者であったようだ。筆者も調査でも加賀の帰国の詳細は不明であったが、笠の手紙から、1944年のこの頃ようやく帰国したことが分かる。

香月兄 1944年7月22日

「この状、着くか着かぬか分からぬが、満州国の連中の帰国する一団にことづけて走り書き。先般、4月末発の貴書珍しく落手、なつかしく読んだ。(トルコの中立状態から見て)あるいは手紙としてはこの状が最後になるかと思う。」

枢軸国側が劣勢になると、トルコは中立政策を捨て、連合国側につくことが噂されていた。そうなれば手紙も郵送経路が経たれるので、笠はこれが最後と思い書いたのであろう。また運んだのは“満州国関係者”と書くが、この時にスイスから帰国した満州国関係者はいない。つまり笠の手紙はまずベルリンに運ばれ、そこから日本に向かったのはずだ。苦労して運ばれた最後のスイスからの手紙であった。
(手紙は「回想笠信太郎」より)



<江尻進> 同盟通信社 ベルリン支局長


江尻進は新婚の妻を伴ってベルリンに赴任したものの、“ドイツの開戦近し”の情報で、妻治子のみが到着後、すぐさま日本に引き揚げた。そのためか、彼は多くの手紙を日本に戻った妻に書き送った。

1941年6月9日付け クーリエ便り。

「今は支局での宿直の朝。本社への月例報告を書くので、昨夜は徹夜した。この手紙を託送する小林(亀久雄)アフガニスタン公使が、明後日(6月12日)ベルリンを出発されるので、急いでいるわけ。」
日本への手紙をアフガニスタン経由で送るとは、すでに日欧間の郵便事情が相当に悪化している事を示している。シベリア鉄道はこの時運行され郵便も可能であったが、もとより検閲などがあるため、ソ連経由は避けられていた。

小林公使はベルリンからはイタリアを経由し、船でアフガニスタンに赴いたのであろう。そしてそこからは日本へは海路がまだ繋がっていた。
なお日本参戦直後、ドイツの日本大使館では、ドイツから陸路アフガニスタンに出て、そこから日本に帰国できるかの検討をしている。その結論は、「フガニスタンに陸路で抜けることは不可能」であった。

小林公使のルートに関し、親戚の吉居清さんより聞いた情報を元に調べ直すと、イラク事件でバスラの通過が不可能になったので、公使は一旦日本に帰国することになった。
シベリア鉄道経由で6月12日にベルリンを発って、日本に着く。独ソ戦勃発の10日前である。それゆえ、江尻らの手紙を持ち帰ったのであった。
(2018年9月21日追加)

1941年7月30日付け クーリエ便

「東京から全然手紙が届かなくなったので、淋しい。もし届くようになっても、英国の検閲にかかり、数か月かかることになろう。」
最後の郵送経路アメリカ経由は、アメリカからポルトガルに向かう船は英領、バミューダ諸島に給油で立ち寄ったので、そこでドイツに向かう人間、荷物は英国官憲により厳しい検査を受けた。そして本文では

「ドイツでは欧州戦争は今年中に終わる、と言っているが、そう簡単には片付かない。米国の参戦があれば、戦争は長引き、結局どちらからも決定的打撃を与えられぬ状態になり、最後は和平交渉で終結すると見る者が多い。大島大使は、ドイツの予測に従い、楽観的見解を堅持しているので、こんな見方をすると叱られそうである。」
さすがジャーナリストというべきか、当時でも欧州戦争をかなり冷静に分析し、それを検閲の恐れがないとはいえ、手紙にしたためたことは特筆に値しよう。

もう一通の手紙が自著に次の解説とともに記されている。

「1944年初頭のドイツの様子を妻あてに知らせた手紙が残っている。スイス公使館経由の伝書使で送った、1944年2月8日付けのものである。」

このスイス公使館経由の伝書使とは、先述の笠が書いた加賀進であろう。とすると5か月以上、江尻の手紙はスイスで留まっていたことになる。投函半年後に着く手紙も珍しくない日欧間の通信事情であった。

「数日前に土屋(準)さんに託送された治子の手紙を大使館から受け取った。検閲がないと思って書いたせいか、治子の書きぶりも伸び伸びしていて、楽しく読ませてもらった。」とある。
土屋準二等書記官はソ連の通過ビザを得て1944年1月にスエーデンに向かった。日本からの最後の欧州赴任者である。当然駐在者向けに、日本の留守宅から沢山の手紙を運んだ。
(「ベルリン特電」江尻進より)



<友永英夫> ベルリン駐在海軍技術中佐


伊号第29潜水艦からインド洋上で独潜水艦に乗り移り、1943年7月3日にフランスのボルドー港に到着した友永中佐は、1945年4月24日、ドイツのU234号潜水艦で日本に向かう。しかし出航後間もなくしてドイツが降伏し、その艦内で自殺を遂げる。仕事も潜水艦の技術関係であった友永は、日独を往復する潜水艦に手紙を託していた。

伊号第8潜水艦に託した手紙 1943年10月4日

「正子殿 当方○月○日元気一杯にてベルリンに到着以来、張り切って勤務しており、安心してください。」
家族あて、潜水艦での輸送であるにもかかわらず、到着日は軍事機密として秘している。

「この手紙と時計一個を泉中尉におことづけする。時計はドイツでは全然買うことが出来ません。スイスにいる人に頼って買ったものです。加来兄に早速贈っていただきたい。(中略)
泉中尉は萩の人、兵隊から進級して中尉になった人です。この手紙と時計が無事に手に入ったら、よろしくお礼を言って下さい。たとえ小さなものでも数万キロメートルをへだてた所を運ぶのです。並大抵の苦労でないことを、よくご承知ください。」

家族に時計と手紙を欧州から届けることがいかに大変かを語り、そしてそれを届ける潜水艦の乗組員泉中尉への感謝の気持ちを伝えた。

そして友永を往路インド洋まで運んだ伊号第29潜水艦が1944年3月11日、今度はフランスのロリアン軍港に着く。日本に戻る際に友永は手紙を託す。

友永中佐の最後の妻に宛てた手紙となる。

「この便で、あなたからの手紙及び洋子、展子の寄せ書きの手紙を受け取りました。嬉しく思います。」と日本から来た同潜水艦が家族の手紙を運んで、無事届いたことを書いた。

「仕事の方は次々と色々なことがあり、多忙で休む暇がありません。この手紙も走り書きですが、、、」と筆者が調べた限りでは当時ベルリン駐在者はやる事がなかった人が多い中、多忙であることを書いている。戦争が末期になっても日本海軍が、ドイツの潜水艦技術を依然欲していたからであろう。
(「深海からの声」富永孝子より)



<北条円了> ベルリン駐在陸軍軍医大佐


ベルリンに駐在した北条の留守宅にも欧州から送った手紙が10数通残されていた。郵便事情に関する記述を拾っていく。

1941年2月25日 ベルリンにて

「ドイツではただ今戦時中ですので、絵葉書は外国へは出せません。手紙も検閲がやかましくて没収されることがあるそうです。それ故、検査なしで通し得る外交官便に託送します。」
戦時下では欧州はどこの国も絵葉書は海外に送ることは出来なかったというのは驚きだ。地形とか軍事機密が漏れるという危惧からであろうか。また日本開戦前から日独間の郵便を信頼していないことがこの文面からも分かる。


1941年5月27日 ローマにて
「ローマではその時、ちょうど山下中将のイタリア視察団一行が(日本から)来られておりまして、その一員に加えてもらい、国賓扱いで各地の主として軍事施設を見学する事が出来ました。
イタリア各地の絵葉書や視察中の写真等を入れたこの手紙をローマの日本大使館にお願いして、外交官便のあり次第、日本に送ってもらう事に致しました。」
ローマから発送された便りである。独ソ開戦前は、日本と欧州各国の間を伝書使が定期的に回っていたことが分かる。

1941年6月20日 ベルリンにて

「明日からパリに行き、同地を視察後、6月26日ベルリン発列車にてシベリア経由日本へ帰途につく予定です。
軍医駐在員の大鈴さんが本日、ベルリン発シベリア経由で日本に帰りますので、この手紙を同氏に託すため、急いで書きました。」
手紙は無事に届けられたが、書いた二日後の6月22日に独ソ戦が始まったため、本人は敗戦までドイツに留まることになる。

1943年11月7日 ベルリンにて

「ドイツ及び日本の潜水艦が両国間を時々往復しているらしいですが、これも途中、英米の軍艦に発見されて撃沈されることがあるそうです。(中略)ですから私も潜水艦で帰途につくことはやめております。(中略)

私の帰国はいつになるやら、今は見当が付きません。日本大使館の外交便があると聞き、無事に届くよう祈りつつ、この手紙を書きました。」
この外交便とは多くの駐在者が手紙を託した、牛場信彦1等書記官らソ連経由の帰国者のことであろう。外交官なのでソ連による荷物の検査は受けなかった。


1944年3月7日

3月1日付けで軍医大佐に進級した北条は「1日も早く帰朝して階級相当のご奉公を致したい」とした後
「先ごろ潜水艦便に手紙を書きましたが、今回満州国の一外交官がソ連を通過帰朝し、満州から日本に出してくれるという話を聞きましたので、取り急ぎ便りを書きました。」
駐在者のだれもが手紙を託した満州国外交官は、まさに手紙運搬人であった。
(「大戦中在独陸軍関係者の回想」より)



北島正元> 古河電工 ベルリン駐在員。


北島はベルリンで胸を病み、1943年12月15日にベルリンを発ち、16日スイス国境に近いサンクト.ブラジェン村のドイツ軍傷痍軍人療養所に入る。

大きな手術を行った後の1944年10月4日、妻である衣に書き送る。

「しばらく手紙を書かないでご免なさい。8月のトルコとドイツの外交関係断絶以来、手紙を書いても行きそうにないことを知っているが、それで手紙を書かなかったのではない。(手術をした)9月は気持ちが落ち着かなくて困ったのだ。
(中略)この手紙は日本に行く当てもなく、ただお前へのあこがれを文章に託して慰めるつもりで書いている。」

先述の満州国の一行がトルコを発ちソ連に向かったのが9月4日、女中の査証の関係で出発の遅れたイタリア駐在三代家にソ連の通過ビザが下りたのが、10月23日であった。10月4日付けの手紙は、最後の帰国者三代によって運ばれたのであろうか?

著書によると、1942年2月、欧州中立国向けの郵便が再開したのに際し、父親堀田正明は衣に対し以下のような注意を与えている。
「宛名はスイス日本国公使館徳永(太郎)書記官殿で良い。日本の外国行き郵便規則によると、二重封筒の使用が禁じられているから一重の封筒でなければならない。封をせずに郵便局に持って行き、内容を見せることになっているはずだ。

従って正元君宛の手紙も封筒に入れてはいけない。封筒なしで、徳永書記官宛ての転送依頼状を同封すればいいだろう。その依頼状にはただ正元君に転送して下さるよう頼むだけで、ドイツの宛先は書かない方が良い。

途中ソ連邦でドイツ行きの手紙があることが知れると、送達してくれないかも分からないからである。ソ連邦は中立国あての郵便を許しただけだから。


スイス宛ての封書の中に、封書の北島正元様あての封書を入れてはいけないという事であろう。末松中佐が日本の家族に与えたのと同じような指示である。堀田は元外交官であったので、この情報はそのルートで入手したと思われる。

(「ベルリンからの手紙」北村正和著より)



<高橋保> 外交官補


外交官補、高橋保は1942年12月20日、ソ連の通過ビザを得て東京からフランスへ向かう。ソ連、トルコ、東欧、ベルリンを経由しての長い赴任旅行であった。

1943年2月5日、途中のブルガリアの首都ソフィアから手紙を送る。通過してきた各国の様子など書いた後、

「欧州との通信方法は、外務省の電信課より、このソフィアの公使館宛てに手紙を出してもらいたい。するとここからフランスに送ってくれるから、その書き方は(手紙の)裏に示しておく。多分20銭切手だろう。では必ず書いてきてくれ。お元気で。」

ブルガリアは枢軸よりでありがらもソ連とも国交があり、日本からの手紙の発送には好都合だった。なおフランスに駐在していた大崎正二によると、この頃ドイツ軍占領下のパリからは日本に手紙は出せなかったが、ビッシー政府の支配地域からは送ることが可能であったという。万国郵便制度も混乱していたようだ。
「萬里を行く 若き外交官の渡欧・敗戦日記」高橋保より)



<伊藤敦子> オペラ歌手

ミラノのスカラ座の舞台に立つことを夢見た伊藤敦子は1937年4月12日、長崎港を発ち、上海でイタリア船に乗り換え、ナポリに向かった。35歳であった。
彼女はイタリアが戦争に加わっても、自分の夢の実現のためにミラノに残る。日本人の駐在員はいない。彼女の手紙は、駐在員のような日本とのつながりを持たない、一女性の日本との交信の珍しい交信記録である。


1942年6月17日付けの文末には
「イタリーのミラノの住所は二年前の(皆様ご存知の通りの)住所ですが、イタリーにはじかに届きません故、スイスの吉村様のご住所にお書きくださいますように。宛名も住所も吉村様になさって下さいませ。(私からよくよくお願いしてきますから)
手紙はとても厳重な検閲があります故、写真はお入れになりませぬように。」

スイスの吉村様とはバーゼルの国際決済銀行に為替部長として勤務した吉村侃である。国際決済銀行は戦争中も連合国、枢軸国と敵方が一緒になって運営された稀有な機関であった。日本から欧州への手紙はソ連経由で送られたが、ソ連の交戦国であるイタリアへの郵便は届けられなかったので、伊藤は吉村を送り先にと指示した。そして吉村はイタリアに残る一女性のために転送の骨を折ったようだ。

1943年4月22日

「三年ぶりに初めて見る日本からの便り(スイスから回送されてきた)に、全く気が狂わんばかりとは、このことを言うのでしょう」
最後はまた
「どしどしお手紙を頂戴。誰からも便りなく、実に心細く感じました。住所は、所の前と同じスイスの吉村様あてにしてください。

もう一つ興味深いのは、日本の終戦から1年半を経過した、1947年1月29日付けの手紙である。この頃、欧州駐在日本人は皆日本に引き揚げてしまっている。

「何もかも断絶されてしまっておりましたが、やっと、再びスイスを通して葉書のみ差し上げることのできる喜び、、、」
先ずは葉書だけ受け付けたようだ。そして依然イタリアから日本への郵送は禁止であったので、また吉村を経由している。中立国スイスにいた日本人も敗戦後、日本への帰国指令を受けたが、国際決済銀行の吉村は例外であった。

「私もファシスト政府崩壊に先立ち、日本大使館から館員と一緒にドイツへ逃げるよう、勧められましたが、私は最後までイタリーに留まる決心をし、連合国がミラノ占領のあかつきには、ここにいる日本人はどういう待遇をうけねばならぬか全く不安で危険の極みでありましたが、天の恵みかなんの拘束も受けないのみか、公然と歌手として働き得る資格さえも得た、、、」と戦時下、一人でミラノに残った様を描いている。
(「伊藤敦子 望郷のミラノ」より)



またすでに自身のホームページで紹介した手紙には以下のものがある。

<光延東洋駐イタリア海軍武官が嶋田範太郎元海軍大臣に宛てた手紙。>

家族を北イタリアに避難させた後も依然ローマに残った光延武官は、ローマ脱出直前の1943年8月20日、嶋田田繁太郎海軍大臣宛てに「親展」で手紙をしたためている。

嶋田海軍大臣宛てであるが、厳密に言えば同年7月17日付けで海軍大臣は辞任している。そして親展の手紙を書いているのは、光延武官の妻トヨと嶋田海軍大臣の妻が姉妹に当たり、嶋田海軍大臣は光延武官にとって義理の兄にあたるからである。切手も貼られていない手紙の裏には“1944年1月11日受“と赤字が入っているので、これが日本の海軍省に届いた日である。
運んだのは1943年11月に、シベリア経由で日本に向かった帰国者一行であろう。

光延武官の手紙の封筒。帰朝者が運んだので切手は貼られていない。

この手紙は光延武官の長女、孝子さんの遺品を整理していて、七洋さんが見つけたものである。戦後、嶋田海軍大臣の関係者より光延家に返還されたと思われる。


<友岡久雄教授>


法政大学の教授であった友岡久雄教授は嘱託としてポルトガルの日本公使館、そしてベルリンの日本大使館に勤務した。遺族の手元にはベルリンからの2通の手紙が残っている。

一つの手紙は1943年11月7日付けで娘の真子さんに宛てたものである。この3日後の11月10日、ソ連の通過ビザを得て日本に帰ることのできた数少ない一行がベルリンを出発した。大使館からは牛場信彦一等書記官(後の駐米大使)がビザを得た。友岡は手紙を牛場に託したのであろうか。先の光延武官の手紙もこの時である。

友岡は子供に宛てて丁寧な文字で
「周囲の家はこの3月以来の英米側の爆撃のために、散々破壊されておりますが、(自分の)お家は未だ、少しも損害はありません」とベルリンでの空襲が激しいことを書き、「日本にもまたアメリカの飛行機が来るかもしれないので、落ち着いて行動するように」と近い将来、日本への空襲を予測し告げた。さらに

「戦争は今までの世界の歴史にない大戦で、日本の何倍かの力を持った米国、英国と戦って勝たねばならぬのですから、皆お国のために今迄より何倍かの勉強をしなければなりません。」と娘にしっかり勉強するようにと励ました。日本での検閲の可能性のある手紙だから、反枢軸的なことは書けないが、友岡は米英と日本との国力の差はしっかり認識していたことが分かる。

友岡の送った手紙の封筒。日本大使館ベルリンの名前が入っている。個人が運んだのでこれも切手は貼られていない。

もう一つの1944年4月12日付けの手紙では冒頭には「伏下氏に託した手紙は届いたであろうか?」と書いている。伏下氏とは伏下哲夫海軍主計中佐のことである。

伏下は1943年10月5日、フランスロリアン軍港からイ号第八潜水艦で日本に向かい、無事日本にたどり着いた。戦争中を通じて唯一無事に日本まで戻った潜水艦であった。彼の運んだ手紙は、おのおのの駐在員の日本の家族の元に届けられた。

そして眞子さんには小さな小包が届いた。中身はアーガイル柄(格子模様の一種)の膝までの純毛のソックスであった。補修用のウールの毛糸まで付いていて、子供心にも感心した。日本ではウールの靴下などどこも手に入らない時代、同じ戦時下においてもドイツとの国力の違いを感じた。潜水艦で帰国する人は、ソ連を経由する人よりは荷物を多めに運べたようだ。北条軍医大佐が腕時計を託したのも潜水艦であった。

こうして幾枚かの手紙を紹介したが、おそらく戦時中ベルリンに欧州に駐在した邦人の親族の元には、まだまだ多くの手紙が残っていよう。一方、年と共にそれらも処分されてしまうのかもしれない。今後も新たな手紙が見つかれば記録として残し紹介していく。

(2015年1月31日)


以下はその後の追加記事です。

<犬丸秀雄>


文部省科学局に勤務した犬丸は1943年2月26日、東京駅を発ってドイツに向かう。第二次世界大戦勃発によって欧州の学術文献蒐集が途切れることに対処し、犬丸が現地に赴いて文献を蒐集することになったからだ。

当時唯一の渡欧手段はソ連から中央アジア、中立国トルコを経て行く方法であった。非常に限られていたソ連の通過ビザは交官、軍人が利用した。民間人に割り当てられたのは犬丸と同じく洋書の輸入を手掛けていた書店「丸善」の中村春太郎だけである。

犬丸が戦後出版した「海表」という歌集には、短歌に加え欧州での行動が簡潔に記されている。以下が郵便に関する記述である。

「ベルリン:1943年4月21日到着、ドイツ大使館の曾木書記官、アンハルター駅に出迎え。」と日本をたってから2ヶ月の大旅行であった。次いで

「留守宅よりの手紙、文部省、外務省、スイス公使館、ベルリン大使館を経由して1943年6月5日入手。」と書かれている。
犬丸がドイツに着いてからほどなくして、留守宅からの手紙が届いた。手紙は犬丸同様、ソ連を経由してきた。そして以下の2句がある。
「いりくみし 経路に日本ゆ来し手紙 諸人(もろひと)のみ情(なさけ) 心にぞ沁む
つつがなく 着きにし妻の 文読めば 地をくぐりても 帰りて逢わな」

ドイツをベースに欧州を回って文献を集めた犬丸であるが、日本への輸送手段がなかった。連合国による海上封鎖を突破してアジアに向かうドイツの貨物船は期待できない。また日独の潜水艦も危険が多くかつ、分量の制限があった。そこで

「郵便による大胆なる新案を決行する」と、途中でソ連当局の没収を懸念しつつもスイス経由の外交便で郵送した。それしか方法がなかった。ソ連も同じことをされるのを恐れ、外交文書には手を付けなかったのであろう。

「包装と 宛名を二重に 文献を 西シベリア経由 日本に送る。
 ソ連経由 わが郵送せし 書籍みな 着きし便(たより)に 声さへ出でず。」と日本から書籍が着いたとの知らせを聞いた喜びがあらわされている。先の北島正元の話で紹介したように、当時二重封筒は禁止であったようだが、外交文書は特例であったのだろうか?

この結果、当初の電信経由での情報伝達から、郵送による学術雑誌の郵送が本格化していきます。例えば1944年1月の到着雑誌リストによれば、理学系24、工学系32、医学系28、農学系5、その他2の雑誌が国内にもたらされたという。
水沢光「第二次世界大戦期における文部省の科学論文題目速報事業および翻訳事業―犬丸秀雄関係文書を基に―」『科学史研究』266, 2013年

ソ連経由の郵便は犬丸の仕事の大きな手助けとなった。
(2015年5月17日)

当時数少ないイタリア駐在の日本人の中に、大倉商事に勤務する犬丸幹雄と言う人物がいた。犬丸というそう多くない苗字に加え、名前が一字違いなので兄弟ではないかと想像される。二人は二度イタリアで会っている。しかし先に紹介した本の中で、犬丸秀雄は
「昭和19年11月19日、メラーノに犬丸幹雄およびコネッティ夫人を訪れる」と書くのみで、兄弟をほのめかすような記述はない。
(2015年6月15日)



大槻孝治> 山下汽船 ベルリン駐在員


大槻孝治は山下汽船のベルリン駐在員(終戦時はスエーデン公使館雇)であった。日本では日本刀研究会の会員であったが、ベルリンではもう一人の会員、飯島正義陸軍武官室補佐官と趣味のつながりで親しくしていた。当時はベルリンを含め、欧州の骨董店には玉石混交の刀があったそうだ。

そしてその飯島がソ連の通過ビザを得て、日本に帰国する際、大槻は“刀剣の趣味と研究の雑誌”向けに手記を託した。手紙ではないが、戦時下欧州から持ち帰られた原稿である。

冒頭「各国とも祖国の勝利のために血みどろの苦闘を続けている最中に、刀剣捜しの記でもあるまい。しかし、この戦争は生易しく終了するものではない。この緊張を永久に持続させるためには、健全なる休息をも必要とする」と、戦時下における自分の趣味活動の弁明から入る。そして

「この小文は私の心の憩いであり、明日の生命の糧である。倦めばいつ筆をおくかもしれず、また何が飛び出してくるか私も知らない。時は1942年12月6日、日曜日の午後、所はベルリン、雨しとど。」とこの手記が書かれた日と、思いつくままに書いていくという姿勢が分かる。

手記は飯島の手で確かに届けられたが戦時下ゆえ、この研究誌は廃刊となっていた。しかしながら1943年7月10日発行の「近代戦と日本刀」本阿弥光孫(ほんあみこうそん)という本に掲載されたのである。大槻がベルリンで書いて7か月後の出版であった。戦時下によくこのような本が発行されたものだと感心する。

「欧州探刀記 於 ベルリン 大槻孝治」より

さてこの手記を運んだ、もう一人の趣味人である飯島大佐は、困難なソ連を経由する帰国旅行に際し
「武器の携行は絶対に許されないという所、苦心惨憺してベルリンにあった鎌倉時代の刀工備前三郎国宗の名刀を日本に持ち帰った」という。外交特権で荷物はソ連軍の手で調べられなかったのであろう。戦時日欧間の交流を研究する筆者にとっても興味深い事実である。そして刀は本物に間違いないと著者本阿弥は書く。

大槻は戦後、日本美術刀剣保存協会理事
として活躍し、1993年11月2日に亡くなる。
(2015年7月4日)



滝沢敬一> 横浜正金銀行

戦時中もリヨンに残りった滝沢は、「フランス通信」として、日本に戦時中も様子を送っている。

日本で敗戦直後に出版された書籍「第5フランス通信」では1945年10月28日の日付で、美学者である上野直昭が後書きを書いている。

「在リオン市の著者(滝沢敬一)からどこをどう巡ったか大動乱の欧州を抜け出して、本書の原稿が岩波書店に着いたのは、昭和18年(1943年)12月の30日のことであった。当時の世相と、出版界の状況とは急に上梓することを許さず、ついに今日に至った。」

戦時中に届いたこの原稿は郵便物として、運を天に任せて現地の郵便局から送ったのか、それとも帰朝者に託したのかは、不明である。
(2016年7月13日)



<千葉蓁一> フランス特命全権公使

ポルトガル公使からフランス特命全権公使になった千葉公使と奥様の日本に残る長男千葉一夫に宛てた5通の手紙の要旨が、孫にあたる千葉明さんによって、「ヴィシー第一信」の題名で外務省OBの親睦組織「霞関会」のホームページに掲載されている。
ヴィシーからは日本に手紙を出すことが出来なかったので、第一便は出張者に託し、スイスで投函された。リンクはこちら
(2017年6月3日)




神谷恵美子> 精神科医


戦時中に欧州から日本へ向けた手紙を「戦時下、欧州からの手紙」として紹介してきたが、今回は日本から欧州に向けた手紙の話である。

神谷恵美子は旧姓前田、東京女子医学専門学校を卒後、1944年より東大病院で精神科医として勤務した。父親は前田多門、政治家で実業家そして文筆家と多芸であった。また兄の前田陽一は戦時中を通じ、ドイツ占領下のパリで日本総領事館副領事を務めていた。神谷の『若き日の日記』からパリとの手紙のやり取りを見ることが出来る。

「1942年8月12日
渡仏する一外交官の手を通して兄上に手紙を送ることができるようになり、夜書いて、おとなりへ持って行く。」

ソ連による通過ビザの発給で、日本参戦初めて7名の外交官が欧州に赴任できることになった。その中のひとりにフランスに向かう高橋保がいた。ただし高橋の出発は12月になる。高橋の回想には次のような記述がある。

「1942年12月20日 東京駅発。フランスに向け旅立つ。
1943年2月21日 パリに着いた。(中略)
前田陽一氏はなるほど東大仏文科出身だけはある。相当な人。ただ都会人で、生気のない点のみ感じられるが、外務省を思うことにおいては相当と思えた。」
神谷の手紙は高橋の手で、6か月後に兄の元に届いたのであろうか?

「1943年1月31日 夜、兄上に手紙を書く。」
この手紙も赴任する外交官の手で運ばれたかは不明。

「1944年4月15日
中央郵便局へ兄様への手紙を出しに行き、本郷へ寄って副木を買う。」
日本で欧州向けに手紙を出せるのは中央郵便局だけであった。『末松茂久少佐の戦時日欧通信記』でも書いたように届かないことも多く、かつ届いても非常に時間のかかる当時の郵便事情であった。

「12月17日 空襲のない日と夜が2日続いた。今日も1日警報もなく、疎開荷物を詰めたり片付けたりして楽しく過ごす。午後6時、ベルリンの兄上から電話、兄上を除いて皆、東南部の田舎に疎開している由、私の一身上のことを案じて特別に尋ねて下さった。」
連合軍にパリを追われ、ベルリンに避難した兄から国際電話がかかってきた。

1945年には次のような記述がある。
「5月10日
欧州戦争終了。兄上はザルツブルクのそばのバド・ガスタインに大島大使と共に在る由。
11月22日
兄様たちは12月3日に帰朝される由、今日判明した。そうすればまた、兄様という存在を通して、新たな刺激と仕事が洪水のように押し寄せるだろう。
12月6日
浦賀にて終日待ち、夕方漸く兄上たち着く。(兄夫婦)一家5人健在、感謝の極み。」

神谷の戦時下の軽井沢に関する記述はこちら
(2017年12月15日追加)


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