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戦時下日本のスイス人
ゴルジェ公使とファーブルブラント家を中心に


<序>

『外事月報』は戦時下に外国人の行動を監視した、警察の内部の記録である。これは当時の外国人の記録が少ない中、広範でかつよくまとまっており、多くの研究者に利用されている。その時代、ここに書かれることはまさに「ブラックリスト」に載ることで、在留外国人には命の危険すら意味したが、それが今日の研究に役立つとはなんとも皮肉な話である。またその年間の活動記録ともいえる『外事警察概況』の1941年、1942年版も残っている。

戦時下日本に暮らしたドイツ人に関しては、たとえば『戦時下日本のドイツ人たち』があり、イタリア人の様子も『敵国人抑留』等から窺い知れることはあるが、スイス人について書かれた書物は少ない。駐日スイス公使であったカミーユ・ゴルジェが『三時代の日本』という短い回想を書き残しているが、一般図書館にはなく国会図書館に行くしかない。中立国スイスは連合国の利益代表として戦時中を通して外交官が日本に滞在し、日本のためにも貢献したにもかかわらずである。

筆者は冒頭の『外事月報』、『外事警察概況』には駐日スイス公使カミーユ・ゴルジェを筆頭に、幾度かスイス人が登場することに気が付いた。機密情報ゆえ、今日も知られていない事実がそこにはあった。その中で特に一人のスイス人女性の活動に興味を抱いたが、それはこれから述べていく。

本編では先述の2つの史料を表に据え、ゴルジェの回想録他を裏から対比させるという若干異質な視点から、戦時下、日本におけるスイス人の活動を見ていくものである。



<ゴルジェ公使の来日のころ>

ゴルジェは1924年から27年まで法律顧問として日本で過ごした。そして1940年、スイス連邦外交使節(海外勤務)となる順番が回って来た時、日本に対して忘れ難い愛着の感情を持っていたゴルジェは、何ら躊躇なく、東京への赴任の希望を申し出たのであった。そしてその願いはかなった。

1940年春、ゴルジェ公使が来日する。参考までに当時の朝日新聞は次のように伝えている。名前の表記に注目ありたい。
「2月15日 横浜
新任スイス公使 キャミル・ジョージ氏は夫人を同伴してて14日午後8時入港のプレジデントラインのP・ピアス号で横浜に着いた。」

そして3月6日の朝日新聞に
「スイス公使信任状捧呈 5日午前10時30分宮中に参内」の見出しで、夫婦で皇居を訪問、公使が一人で信任状を天皇に奉呈と報じられた。

ゴルジェは前回日本での駐在を終え、スイスに戻るとジュネ―ブの国際連盟では、「日本に情状酌量の余地あり」という発言を何度か行った。そのため信任状奉呈の際、天皇陛下から、お礼の言葉が発せられたという。

しかし次に来た日本は、根底から変わっていたことに到着早々気付いた。



<スイス人の数>

戦時下の日本に一体何人のスイス人がいたのか?ドイツ人は?筆者は長い間、推定するしかなかったが、これも『外事月報』によって解決された。そこに「内地居住外国人国籍別人員表」という統計が1942年まで残っていることが今回分かった。
当時は今以上に厳格に外国人の滞在を管理したであろうから、これに勝る情報源はないであろう。

それによるとスイス人は1939年 241人、1942年 205人である。
「これだけ?」と思うかもしれないが、同じタイミングでスイスに駐在した日本人は20人足らずである。(筆者「スイス邦人名簿」参照)

1942年を職業別に見た場合、
官公吏(外交官) 17名
会社員       37名
講教師        4名
貿易商        4名
有職者家族    69名 
他である。スイス人は早くから海外に出てビジネスを行ったので、会社員が37名いるのが特徴である。この時、スイスに駐在する民間企業の日本人はゼロであった。

また1939年を地域別に見た場合
神戸  105名
神奈川 70名
東京   40名
と一番神戸が多いのがやや意外な感もする。民間企業にその傾向が強かったようだ。



<第二次世界大戦勃発>


復刻され1939年から残る『外事月報』は、当初は米英国人の動向を主体に取り上げている。両国は潜在敵国であるから、それは自然なことである。

1941年12月8日の日本の参戦を迎えると、日本に残る連合国の外交官は、所属する大公使館に軟禁状態となる。電話が切断され、外部との連絡も絶たれる。それまで相手にもされていなかった”小国”スイスが登場するのは、まさにそのタイミングからである。

1942年6月号には、まず国内の旅行回数が報告された。
「(駐在外国外交官は)列強国の秘密戦闘機関として暗躍する場合多きにつき、旅行先における行動は鋭意内偵の要あり。」
そして上半期に旅行回数の多い者の中に夫妻の名前がある。
ゴルジェ公使 一般5回 定期3回  旅行先:軽井沢 箱根宮ノ下 横浜
     妻  一般6回

次いでその年の夏、日本に残る中立国外交官の多くは、戦前同様に軽井沢で休暇を過ごす。軽井沢の警察は次のように報告する。

「トルコ大使館にありては、大使はじめ館員は殆ど軽井沢別荘に避暑中にして、大使の交際人物は同地に避暑中のポルトガル、チリー、スペインの各公使及び仏国大使館商務館並びに商務参事官等にして、常に晩餐会等を行っているが、特異なる言動認めず。」

各公使館で働く使用人は、主人が誰と会ったか、何を言ったかを、常に警察から聞かれたのである。それらがしばしば書かれている。上記公使らに反日的な言動はなかった。



<スイス公使の活動>

一方、ゴルジェについては次のように書かれている。
「公使ゴルジェは妻同伴、1942年7月7日以降、軽井沢別荘に避暑旅行中にして、同地に避暑中の各国公館員と、毎日の如く午餐会、晩餐会等を催し活発なる活動をなしつつあり。特に邦人関係として(元首相の)近衛公夫人に接近しておれるがこれに関し、ボーイの小野幸三郎は次の如く語れり。

(経済が専門のゴルジェ公使は)日本の経済問題に対しては、政治上層部の人々と個々に家庭的な懇談をしたいという希望を持っていて、それで公使の別荘に寄宿しているスイス人ファーブルブラントという初代公使の娘だとか言う女が、上層部の日本人との交際の機会を斡旋している。この前近衛さんの奥さんがお見えになった。」

ここに登場するのは近衛夫人であるが、ゴルジェは近衛文麿首相と会った印象を書き残している。

「軽井沢の避暑地の御別荘に同総理をお訪ねして、2人きりで対談の機会を得たが、その時私は公爵の驚くばかりの簡素な姿に大層打たれた。公は支那の大人の普段着を着ておられた。(中略)
しかもとうとう日の目を見ずに終わった“体制翼賛会”の創設に骨身を砕かれていた。」
大政翼賛会の発会式が1940年10月12日である。よってこの会見はゴルジェ来日の最初の夏のことである。

ゴルジェも、自分の周りは警察に監視されていることは承知していた。次の様に書いている。
「常習的にますます疑い深くなった警察は、ことに外国人に対して、在留する国に対し最も反抗の理由なき外国人に対してすら、急性的スパイノイローゼに罹った如く、一般民衆の精神状態にも混乱を引き起こす騒ぎだった。(中略)
そこで私たちは段々と日本人の友達の大部分を失っていった。彼らは何か外国人と怪しげな関係を持つものとして、密偵どもにつけ狙われるのを恐れて、私達から離れて行かざるを得なかったのだ。」
そしてこれ以降、『外事月報』にはゴルジェと日本人との付き合いは報告されなくなる。



<ジェームス・ファーブルブラント>

先ほどのボーイの証言は続く。
「現在の国際情勢から推して、経済的に疲弊に陥りつつある英国側が和平交渉のきっかけとして第三国に働きかけ、その結果、スイス公使が我が国の上層部の近衛さん等に接近しようとしているに違いないのじゃないかとファーブルは話していた。
如何なる方法で会見するか、また何時頃になるか不明だが、近日中にまたファーブルが話を進めるらしい。」

アメリカと異なり、イギリスは経済的に疲弊しているので、第三国スイスを通じ、日本と交渉をしようとしている。だからゴルジェ公使は近衛元首相に接近しようとしているが、その調整もファーブルブラントと言う女性が行うらしいという話であった。

日英の和平交渉は唐突だが、仲介者を近衛元首相と読んだのは、悪くない。実際に日本が終戦直前にソ連と交渉をしようとした時は、近衛元首相を交渉者に選んでいる。

ここに出てくる初代公使の娘とされるファーブルブラントとはどのような人物なのであろうか?

調べると父親はジェームス・ファーブルブラントという名前で、日本における時計貿易の先駆者であった。書物にも多く登場し、”ライフワーク”としてネット上に多くの情報を公開している方もいる。

平野光雄の『ゼームス・フアブルブランド伝』によれば、
ファーブルブラントはスイス初代駐日公使エーメ・アンベール一行6人の中に書記官として加えられ、オランダ軍艦に乗船してアメリカ経由長崎に到着して、そこから江戸に入ったのは1863年、桜咲く4月のことであった。和暦では文久3年、幕末であった。ただし初代公使というのは正確ではない。

その後外交官の地位を捨てて、気に入った日本に留まり、横浜居留地にファーブルブラント商会を設立した。金銀時計、銃類、電気箱、計測機械などを販売した。特に銃の商売で大きな財をなした。そこが火事で焼けると、今度は居留地175番地に移転する。この175番地は後に登場する。またすでに紹介した赤十字国際委員のスイス人、マルガリータ・ストレーラーのストレーラー商会は同94番、同じ通りである。

筆者が特に注目したいのは彼の結婚に関してだ。『国際結婚第一号』(小山騰)によると明治6(1873)年から明治30年までの間に約265組の国際結婚があった。この間は認可制であったので、すべての記録が残っている。
そこには日本に来た外国人が日本人と結婚したのみでなく、外国に留学中に現地の女性と結婚した事例も含まれている。意外と少ない印象である。

同書によればファーブルブラントの結婚は明治14(1881)年5月4日で通算58例目、日本人と最初に結婚したスイス人である。妻は近隣磯子村の松野ひさであった。しかし彼女は間もなく死亡し、松野くま(ひさの姪)と再婚する。そしてくまとの間に、ソフィー(1884年12月30日生)とアデーレ(1886年3月18日生)の姉妹が生まれる。スイス公使の別荘に寄宿していたのはソフィーであった。当時すでに60歳に近い。



<ソフィー・ファーブルブラント>

彼女は上記情報がきっかけで、警察のマークが強くなり、1944年治安維持法違反で逮捕される。事件の詳細は後ほど述べるが、逮捕の際の警察の史料から彼女の経歴を知ることが出来る。

「ソフィー・ファーブルブラウンド 
スイス人 無職 60歳(逮捕時)
住所;東京都大森区馬込東3丁目677

1884年東京市においてスイス人ジェームス・ファーブルブラウンドを父とし、日本人松野くまを母として出生。
横浜市において貿易商を営む父の許に育つ。同市カメロシ小学校卒業。

15歳の時スイスに帰りローザンヌ女学校を卒業後、18歳の時ドイツ・シュトットガルト音楽学校に入学、音楽並びにドイツ語を修得、20歳にしてスイスに帰り、約2年程度料理の研究をなし、明治27年22歳の時日本に渡来。

大正2年(1913年)、横浜市においてドイツ人ヴィルヘルム・パウルと結婚、大正4年夫と共にドイツに帰国、大正10年再渡来、大正13年前記パウルと離婚。

昭和5年スイスに帰国、同13年(1938年)渡来し、以来肩書住所地に単身居住し、千葉県市川市居住中の異母兄、ヘンリー・ファーブルブラントより毎月400円くらいの生活費扶助を受け、余裕ある生活をなし、現在に至る。」

横浜のカメロシ小学校とカタカナになっているのは、警察も特定できなかったので、そのまま音を書いたのであろう。その後日本とヨーロッパの間を3往復し、最後に日本に来たのは1938年、開戦直前であった。

ただし日本の小学校を卒業したので、日本語は問題なく話せたはずだ。もっぱら軽井沢では、得意の日本語で近衛夫人らに近づいたのではないか?



<アデーレ・ファーブルブラント>

ソフィーについてその後の『外事月報』は伝える。
「1942年9月以降、軽井沢町軽井沢病院滞在中に知り合いとなった朝鮮人民族主義者金本洋八、新井煕盛と交際し、その来訪を受け両人より『(中略)』の事情を聞き、深くこれに同情した。」
そして1943年4月上旬、大森の自宅で金森が朝鮮独立運動のために満州に渡る費用を請われて100円を渡し、同月中さらに餞別として100円を渡した。

ここで注目するのは、ソフィーが滞在していた軽井沢病院である。軽井沢病院はスコットランド人、ニール・ゴードン・マンローによって開業され、「マンロー病院」とも呼ばれた。アイヌの研究者としても名高いが、私生活には首を傾げざるを得ない部分がある。

マンローは生涯4人の女性と結婚している。そしてその3人目がアデーレ・ファーブルブラント、ソフィーの妹であった。結婚は1914年のことであるが、マンロー51歳、アデーレ28歳であった。年の差もありファーブルブラント家は反対した。マンローはアデーレの父の財産が目当てであったという見方もあるようだ。

1923(大正12)年の夏、例年のように夏だけ軽井沢で働くマンローと共に、アデーレを筆頭にファーブルブラント一家も避暑のために勢揃いしていた。ところが、心臓に持病のあった82歳の父ジェームスは8月7日に大動脈破裂で倒れ、マンローの手当のかいもなく急逝する。子供たちに残した言葉は、
「真実の日本人と交際して、真実の日本人を知れ」であった。


横浜外人墓地 ジェームスとひさのお墓(筆者撮影)

父親の死去以降、ファーブルブラント家は傾き、妻の実家の財力をあてに無料診療ばかりしていたマンローは負債を抱える。貧乏とマンローの新たな浮気の双方に悩んだアデーレはヒステリー状態になり、マンローに
「精神系疾患の治療で有名な精神科医フロイトに治療してもらえ」と無理矢理、ウィーンへ送り出されてしまう。

結婚祝いに父親から病院の隣の3000坪の敷地をもらっていたアデーレはそれを売り払い、マンローの負債も精算して去る。

そしてフロイトの治療を受けるが1943年に亡くなる。
この時「ソフィーのみが看取った」(『わがマンロー伝』ほか)というのが通説のようだが、それは正しくない。ソフィーは書いてきているように、戦争中を通じて日本に留まっている。

『外事月報』の内容に戻ると、こうした事情からソフィーが父親は出資した軽井沢病院を滞在先としたのは、理解が出来る。ただしソフィーが金本らと会う直前の1942年4月11日に、マンローは亡くなっている。

また終戦間際に軽井沢病院に勤務した西村クワによれば、
「病院の前でいつも青年が、私服でうろうろしていた」と書いている。青年はもちろん警察の関係者である。



<経済事件とドイツ・レストラン・ローマイヤ>

次は1942年12月号である。
「ローマイヤーレストラン営業主任スイス人、イー・ロイエンベルガー 食肉配給統制規則違反事件」として報告がなされる。これによるとロイエンベルガーはドイツ人アヴクスト・ローマイヤーと共同出資して経営にあたっていた。

ローマイヤーは今日も続くドイツレストランである。戦前が舞台の谷崎潤一郎の『細雪』にも何度か登場する。戦時中はドイツ人外交官、ビジネスマンが主たるお客であったであろう。彼らを満足させるレストランを経営するには、闇市場で肉類を調達しないと、やっていけなかったはずだ。政治色のない経済事件であった。

なお『ロースハムの誕生-アウグスト・ローマイヤー物語-』によれば
「銀座の店(1925年開業)は、当初近くに働いている人がソーセージ入りのエンドウ豆のスープらレンズ豆のスープにサンドイッチというように軽食の出来るところだった。この食堂がすぐに流行ったので、ローマイヤーは数寄屋橋の東京ニューグランド(ホテル)のスイス人シェフ、ロイエンベルガーをスカウトして、ちゃんとしたドイツ・レストラン・ローマイヤをオープンさせた。

ここでは、ローマイヤーのハム・ソーセージとスイス人のシェフが当たり、『ジャパン・タイムス』の記事になるくらい長蛇の列が出来た。」
と店の名前でもあるローマイヤ―はハム・ソーセージを担当し、料理を作ったのはスイス人ロイエンベルガーである。
またローマイヤ―は、戦時中に胃潰瘍で倒れ、箱根に疎開する。つまり戦時下はもっぱらロイエンベルガーによって切り盛りされたのであろう。なおロイエンベルガーは兄弟(エルンストとマルクス)で、兄エルンストの1941年時点の住所がレストランのローマイヤ―となっている。(2017年9月9日加筆)

1944年5月、戦争で物資統制が厳しくなる中、警視庁は料理・飲食店の等級を設定した。等級毎に最高価格が設定されたようだ。その中に一級店は全部で25あった。西洋料理部門には3つだけカタカナの名前がある。
エーワン(丸の内)、リッツ(有楽町)、ローマイヤー(銀座数寄屋橋)
(朝日新聞5月16日)



<神戸のスイス人>

同月、スイス人が最も多かった神戸における企業の活動状況についての報告がある。主たる会社は次の通りだ。(『外事警察概況』1942年)

ネッスル練乳株式会社  
支配人 エム・シー・シャンプー
→今の食料コンツェルン・ネスレ

スルザー・ブラザーズ工業
支配人 イー・シー・スタウト
貿易途絶で業務不振一部従業員を整理。
同支配人は1941年9月頃、神奈川県憲兵隊において検挙せる外諜容疑事件関係者として同年10月14日、神戸憲兵分隊に連行、留置取り調べを受けたるが、証拠不十分のため、釈放された事実あり。
→スルザー(ズルツァー)は1834年設立の機械メーカーで、ディーゼルエンジンなどが有名、日本海軍とも取引があった。1941年9月の外諜容疑とはゾルゲ事件の容疑者のことであろう。

リーベルマン・ウェルシー商会
繊維の輸出不可能、目下整理中
→(Liebermann-Wälchli & Co.,SA.)は20世紀初頭に設立されたスイスの商社。戦後プーマの日本代理店となる。
1944年8月には「スイス人の外国為替管理法等違反事件」として「ジョン・リーベルマン・ウエルシュリ 目下取り調べ中」
と報告される。

シイベル・ヘグナー商会
支配人スタンヂは1940年6月28日、神戸に渡来。
在神戸スイス人間では隠然たる勢力を有せる人物。
最近駐日スイス公使館(ゴルジェ)との連絡繁く、かつ駐神スイス領事と親交あり。同人は外面温厚なるも秘密主義にして官憲に対しては、努めて迎合的態度を持って望む。
妻サカエは日本籍なるも、英米的思想浸潤しおれり。
→スイス系商社で創業者カスパー・ブレンワルドは、幕末にファーベルブラントと日本に来た6名のひとりである。今日DKSHジャパン株に改名。

なお警察の言葉によると“英米思想にかぶれた”日本人の妻サカエは、1990年に他界するが、彼女は「スイス政府から受けた支援と庇護への感謝のしるし」としてスイスに遺産を贈与し、それを元にサカエ・シュトウンツィ基金が創設された。(スイス大使館サイトより)
スイス政府から受けた支援、庇護とは厳しい戦時中の事がメインなのであろうか?

スルザーの箇所で「貿易途絶で業務不振」とあるように、日本とスイスの間には戦時中、人も物も、自由に往来できる手段がなかった。よってどの会社商売はあがったりであった。

ゴルジェは戦争が最も激しかったころ、東條英機首相兼外相と2人きりで会う機会があった。その際いろいろと話している間に、
「スイス商社が皆非常な不況に苦しんでいる」ことに触れた。それに対し東條は
「この戦争はドイツやイタリアがやっているのと同様に日本にとって避けがたいものだった。従って、どうしても多大な忍耐と犠牲とを覚悟して勝ち抜かねばならないのだ」という意味のことを述べた。日本が激闘を繰り広げる中で、スイス商社の苦境など、東條の頭には全くなかったのであろう。
東條が外相を兼任したのは1942年9月1日から同月17日の間だけである。

領事は民間企業のスイス人が兼務した例が多いようだ。仕事も少なかったからであろう。ネッスルの支配人シャンプーは神戸領事であった。
「1942年10月20日事務報告のため、東上(東京にに行く事)したるが、領事は出発前シイベルヘグナーのロバート・スタンヂ支配人、同社社員ハンス・アベックとミサ執行。高松宮殿下の拝礼ありて(中略)無事終了。」という記述がある。
高松宮殿下が実際にその場に居合わせたかのようであるが、高松宮日記を見る所そのような事実はない。ただし11月17日に兵庫県明石郡魚住村西岡の日本染料製造会社工場を訪問している。
またハンス・アベックは次に紹介するリリー・アベックの双子の兄の一人である。



<ネスレ>

先に紹介した世界的食品コンツェルンネスレは、日本への進出も早かった。1913年には支店を開設している。その後淡路島の藤井練乳と提携し、国内生産を実現した。戦争直前の1941年の人名録では
マネージャー:M.C. Champoud(シャンプー)
        H. Tillmanns (ティールマン)
2人の名前が神戸本店勤務で載っており、東京事務所は閉鎖となっている。規模はだいぶ縮小されていたのであろう。

そして1941年2月からはネスレ社の商標をラベルに貼れなくなった。有名企業に消費者が殺到するのを防ぐためであった。政府主導の統制経済に組み入れられた。

1944年7月、責任者のシャンプーは日本を去る。その直後の8月2日、日本政府より全ての操業を兼松商事、国分商店に移管させることを指令された。こうして同社の戦時下の運営は事実上終わった。

しかし戦後の再開も早かった。1946年1月に両工場の返還を受けた。責任者の一人であったティールマンが終戦直後に病死すると、E・マンダレーが上海からやって来た。かれは戦後最も早く、海外からやって来た民間人であったという。
(『ネスレジャパングループ90年のあゆみ』より) (2017年6月18日追加)

外事警察概況(1942年)にはシャンプーに関し、次のような記述がある。

「1930年神戸に渡来。1941年1月17日神戸領事館閉鎖と同時に名誉領事を兼務。親英米的色彩濃厚。
すでに東洋における(社内での)地位昇進の行き詰まりを感じ、併せて空襲必死の恐怖感にとらわれ、帰国の上本社において、さらに重要なる地位を保証されいる模様なり。」
すでに1942年に決まっていた帰国が、2年後に実現したという事であろうか?そして独ソが戦う中、ソ連を経由してスイスまで戻ったのであろうか?



リリー・アベック>

ゾルゲに関連して述べると、彼の手記が『外事警察概況』1942年、に載っている。逮捕後観念して、遺書として書いたものである。その中の「知人関係」という項目に最初に登場するのは「リリー・アベック」(Lily Abegg)である。本名はエリザベートでリリーは通称のペンネームである。以下の様に書かれている。
「彼女はスイスから日本に来ていた商人の娘で、日本生まれのスイス人(実際には1901年ハンブルク生まれ)である父親はすでに死亡し、母親は東京に居住し、昨年私が検挙されたころには非常な重病であった。(1943年11月20日に死亡)

彼女は約10年位前新聞記者となり1937年以来『フランクフルト』紙の特派員となった。
日本ではゾルゲが政治経済方面を担当し、彼女は文化方面を担当していたが、私が検挙されたので、彼女は多分東京に来るよう命じられ、今後は、政治・経済問題にも首を突っ込まなくてはならぬと思う。なお品行は良い女である。」
ここにも一人、横浜で育った魅力的なスイス人女性がいた。実際に10歳まで日本で過ごし、日本語は達者であった。

ゾルゲが知人としてリリーの名を自主的に挙げたのは、「彼女はスパイ事件とは関係はない」と言いたかったからであろうか?「品行は良い女」とは意味深長であるが、当時ドイツ大使館に勤務したエルヴィン・ヴィッケルトは『戦時下のドイツ大使館』の中で書いている。
「東京在住の最も聡明な女性ジャーナリストのひとりだったリリー・アベックというフランクフルト新聞の専属特派員がこう書いている。(省略)彼女は私たちの良き友人で、酒にはめっぽう強いスイスの独身女性だった。」

また反ナチスで日本に実質逃亡してきた音楽家のエタ・ハーリッヒは回想録の中に
「日光に疎開する前、東京では色々な事件や、憤りがあった。リリー・アベックが自分の日本での仕事に関し、フランクフルター・ツアイトゥング紙に否定的な報告を載せようとした時は、抗議して取り止めさせることが出来た。」
と書く。戦時下もアベックは、特派員でいるために新ナチ的態度をとっていたと思われる。
(2017年10月21日追加)

リリー自身が警察に語った言葉も残っている。
「(5月17日)本事件が新聞紙上に発表されるや、予期していたことではあるがゾルゲと同一新聞であるだけに、迷惑と嫌な気持ちがした。しかし日独間のためには大慶至極のことである。この事件はドイツ側はむしろ日本の官憲に対し、感謝すべきである。

自分は1935年以来ゾルゲを知ったが、彼が共産党員であることは一寸も知らなかった。それに彼は大酒豪でいつもブラブラしていたが、寄稿する記事は非常に優秀なものであって、自分が日本へ来るとき本社から、渡日したならば、直ぐゾルゲを訪ねよと言われたくらいで、社は彼を信頼していた。」

リリーはナチ党の党員ではないが、ナチ主義の熱烈なる信奉者であったという。(スイス人であるから、希望しても入党は出来なかったはず。)また交際範囲はドイツ人が主体であったようだ。しかしながら魅力的なスイス女性のひとりであったことは間違いない。

ナチスに消極的に抵抗してきたフランクフルター・ツアイトウング紙であったが、1943年8月31日をもって、廃刊に追い込まれる。その後リリーはNNHKの外国語向け放送「ラジオ東京」(ドイツ語)を担当する。



田菊夫妻の逮捕>

戦前パリの文壇で活躍していた山田菊は、1932年にスイス人の画家、コンラッド・メイリと結婚しスイス国籍を得る。1939年、日本の国際文化振興会と鉄道省から招待を受け来日した夫婦は、パリの陥落で帰国が出来なくなった。

1940年2月29日の読売新聞は次の様に報じている。
「キク・ヤマダ女史は28日午後4時、陸軍省を訪れ夫コンラッド・メイリ氏が目下日動画廊で開いている個展が成功を収めたので、前線将校に感謝の意を捧げるため200円の献納方を申し出た。」この個展が当初の訪日目的であろうか?日動画廊は今も銀座にある。

キクとメイリは戦時中もフランス人との交際が主でった。日仏団体(これが正式名称かは不明)は567名の会員を有する親睦団体であったが、日仏会館における定期会合で1942年に、キクは次のような講演を行っている。

4月14日 1941,42年のフランス文学
5月12日 ド・モンテイニュに寄するジイドの序文
11月17日 日本女流作家について

他の講演者は皆フランス人なので、キクもフランス語で行ったのであろう。また同年中に夫メイリも2回行っている。そしてこうした史実も外事警察概況から今読み取ることが出来る。


現在の日仏会館の壁に残る銘版。(筆者撮影)

鎌倉に暮らす夫婦の元に、鎌倉署の刑事が二人組で毎日のように訪れた。そして1943年11月10日に鎌倉署への出頭を命じられ、キクはその後横浜加賀署に連行され、3か月にわたり留置場生活を送る。キクは何故逮捕されたのか分からないままであった。1944年1月28日に起訴猶予となったが、以降は妹の家に行く以外は外出禁止となる。
またキクはスイス公使館に、自分の逮捕は外務省きってのフランス語の達人田付夫人、及び今井氏が横浜の外事警察課長に密告したことによると語った。

一方夫メイリの容疑は強姦未遂であった。絵のモデルをしていた女性が鎌倉駅前の交番に駆け込んで訴えたからであった。
(『キク・ヤマタの一生』矢島翠より)



<戦時日米・日英交換船>

ついで1943年3月の月報からである。
「(ゴルジェ)公使は利益代表業務に奔走。公館事務はミケリ一等書記官がもっぱら担当。
公使は本国政府宛に公使館の陣容強化促進を申請中なりしところ、今般権益代表部所長エルウイン・ベルナートを2等書記官に進級せしめ権益代表部を強化せんとす。」

ゴルジェは戦時交換船の調整に多くの時間を取られた。
「ほとんど信じ難いほどの困難は、日米間と日英間における軍人以外の抑留者の交換であった。数か月間絶え間なく続けられた努力の結果、ついに3回の交換を実行した。これにより日本は約5000人の自国人の収容者を帰国させることが出来た。」とはゴルジェの回想の言葉である。

開戦によりお互い敵国に抑留された外交官、民間人を交換するために交換船が運行された。ただし交戦国である日本と英米は、直接のコミュニケーションは行わないから、すべてスイスを通じて行われた。1942年にすでに米英1回ずつ行われ、この時は1943年9月14日に横浜を出港する第2次日米交換船の準備中であった。



<小さな特典>

クラウス・プリングスハイム2世の父は著名な指揮者クラウス・プリングスハイムで、文豪トーマス・マンは叔父に当たる。ユダヤ人でドイツ国籍をはく奪された2世は父の働く日本にやって来て、スイス公使館に雇われた。スイス側の人道的配慮であろうか?下は彼の回想録からである。

「特典がもう一つあった。スイス公使、カミーユ・ゴルジェは各国の外交官邸の中でも際だって快適なカナダ公使館に住んでいた。(カナダ公使館は当初アルゼンチンが管理、後にスイス)
しかし、空襲が始まると軽井沢に移る。仕事の大部分は私たち職員に任せ切りだ。私は度々外交電報を公使の避暑地まで届けに行かされる。このお使いのついでに食料の買い出しが出来た。」
戦時中の連合国の大使館はスイスによって管理された。よってゴルジェ夫婦は、管理者としてカナダ大使館に住んだのであった。

1944年8月の外事月報によると、横浜を強制退去させられたスイス公使館員が日本の敵国公館に移り住む。
ハンス・デーゲン 麹町1丁目 英大使館内へ
マックス・ワイデンマン 米国大使館内へ
ヤコブ・フリッツ・ケルン 山下町6番 米領事館内へ

こうした大使館は、アメリカの戦略爆撃でも攻撃対象から外されたはずである。



<ソフィー逮捕>

ソフィーは大森の自宅でも監視された。
「1943年2月上旬自宅において金本洋八に対し、東條首相以下軍部の人たちが無理に米国と戦争を始めたもので、この戦争が終わって講話談判になれば近衛さんが日本の全権として出るだろう」と述べた。

ここでも近衛の名前がソフィーの口からでた。先にも述べたが、近衛は実際に日本が終戦間際ソ連との講話を模索する中で、その交渉役に担ぎ出される。これはゴルジェとの会話の中で出てきた見解であろう。また近衛がソフィーにとっては父親の遺言にあった「真実の日本人」であったのであろうか。

ソフィーは次の夏も軽井沢で多くを過ごした。そして警察には徹底的にマークされている。

1943年9月上旬、軽井沢町1371ポール・ジャタレー別荘にて金本洋八に、
「イタリアが無条件降伏をしたのでドイツもすぐ負けるようになる。
現在はドイツが大事である故、まずドイツを攻撃して妥当し、欧州方面に不必要になった船を太平洋に回航し、総力をもって日本攻撃に出るものと思われるが、左様になれば日本も敗戦するだろう。米国がこの戦争に勝てば朝鮮を独立させるであろう。」と朝鮮民族主義者を元気づけるような発言をする。

さらに同じ頃
「軽井沢病院内本名の部屋において」とソフィーの部屋が同病院にあることが分かる。公使の別荘にも出入りしたが、もっぱらここを住まいとしていたのであろう。

警察は都合12回、ソフィーと金本等との会合の時期と会話内容を集めている。中立国スイス人という事で、慎重に捜査をしたのであろう。おそらく自宅に女中がいて、そこからの情報である。そして彼女は1944年2月1日に治安維持法違反で逮捕される。

1944年5月号に「スイス人の治安維持法等違反事件」として『外事月報』に出るが、月報での扱い方は「ゾルゲ事件」で有名な、リヒャルト・ゾルゲに次ぐ情報の多さであった。



<疎開>

1943年9月9日午後3時、山下町4横浜ユーナイテッド倶楽部食堂においてスイス公使館利益代表横浜事務所、ジェーケルン主催の下に横浜在住スイス人の空襲対策協議会が開催された。
そこでは避難のため住所移転(疎開)の話も協議されたが、参加したスイス人は「むしろ本国への帰国方法を考慮してほしい」という希望が多かった。当然であろう。
警察は「在留外国人のかかる会合は、空襲必至を予想させるので相当注意を要する。」とこんなことまで警戒した。

ゾルゲの同僚であったリリー・アベックの双子の兄のひとり、オスカー・アベックは1943年5月13日に、横浜山手町234番から軽井沢703番に疎開した。職業は工場支配人、家族3人であった。オスカーも、リリーの関連で警察からマークされていたという。また1930年「シチズン時計株式会社」が設立された際、主要株主の中で唯一の非日本人であった。

さらには1944年2月号である。
「ゴルジェは公使館の事務の一部軽井沢へ移すことを計画し、在軽井沢(第19代当主)徳川義親侯別荘を借り受け、移転準備をしている。4,5月頃にはその一部を移転の見通し。」

スイス公使館のスイス人への疎開勧告のみでなく、公使館自体の疎開の準備はかなり早い。東京への空襲は1942年4月18日にドリットル空襲があってから空襲はなく、次は1944年11月であった。それにもかかわらず1944年の2月に準備とは、ゴルジェは日本の暗い将来を見越していたためであろうか?実際には三笠ホテル向かいの深山荘に移転する。



<ゴルジェの特異の言動>

外事警察はゴルジェの公使館内での発言を「特異な言動」として記録している。

1944年5月
「ゴルジェは常々要注意言動ありたるが、今月中、側近者並びに邦人雇用者に漏らしたる特異の言動次の如し。

1 日本の外務省は、自転車が不足しているといっても取り合わない。(我々は闇市場で調達するしかない。)中立国公館に対して、(禁じられている)闇を推奨しているようなものだ。
2 日本は食糧問題で負けるかもしれない。
3 ドイツは前大戦のように食糧問題で負ける。来年度は危険である。
4 東條内閣も行き詰まった。」

日本人が口にしたらすぐさま逮捕される内容であった。公使館内部の発言なので、治外法権ゆえ手を出さなかったのであろう。
公使が信頼する日本人職員もいる場所で喋ったのであるが、警察に伝わった。

また1の自転車に関しては、日本側では外務次官が動いている。次のような記録が残っている。

「1944年5月24日 外務次官発 東京都長官宛て
在京スイス公使館より同館員に対し、自転車4台配給斡旋方依頼ありたるに付き、取り計らいを。
1 男子用 エルヴィン・ヨスト 公使館書記官
2 婦人用 ヨスト夫人
3 男子用 ブライレ      官補
4 男子用 マックス・ヨッス  雇」
自転車の調達すら楽ではない、日本の経済状況であった。

同年8月にもゴルジェの”特異発言”が取り上げられる。
「1 日本の軍や政府の意図する事や、またあらゆる国内事情は、何も無理して非合法的に偵知する必要はない。
電話の軍用供出に関する規則を見れば、現下日本が如何に軍用電話に不足して、またひいては新種兵器がないことがわかる。

2 現在の戦局を見ると今の所日本軍は米軍の為、全く手も足も出ぬ状況だ。

3 日本のインド作戦は軍の最大の誤りである。」

3は同年3月に陸軍によって開始され7月3日中止が決定されたインパール作戦のことであろう。ここまでの発言はかなりストレートである。戦争の実状に関する情報を、いろいろ入手していたのであろう。



<利益代表>

その間の1944年5月の外事月報には
「スイス公使館は米英を初め16カ国の利益代表を勤めている。従って館員は随時、抑留所等の視察のため各地へ旅行、この時の態度きわめて親米的にして注意を要する。同公使館通訳館金田恵光は次のごとき言辞あり。」という注釈の元
「スイスの真意は今度の戦争は米英が勝つものと思っているようであり、その米英に仕える態度は主に仕える忠犬の様である。
故にこれらの者(公使館員)が、米英の諜者(スパイ)に利用される事は疑いないところと思う。」と書かれている。

スイス公使館員が心の中で日本人より、米英人に親近感を抱いていたことは、同国の歴史的経緯を考えても明らかであろう。
またこの通訳が、先述のゴルジェの”特異言動”を警察に喋ったのかも知れない。もちろん彼にはそうする以外、通訳として働く道はなかった。

1942年にさかのぼる話であるが、次のような記録もある。
「駐神戸シャムプー名誉領事は9月8日臨時外国権益事務取扱モーリス・グット・クネヒトと共に東京スイス公使館に赴き事務連絡をなしたるが、その際ゴルジェ公使より外国権益問題に関しては公使館としては、特に積極的自発的に活動せざる方針なる旨、注意を受けた。」

また終戦間際イギリス政府が、スイス政府に対し、
「駐日スイス公使館より国際赤十字委員のほうから多くの情報を得ることが出来る」という主旨の発言をしたのに対し、ゴルジェは1945年6月22日に長文の抗議電報を本国外務省に送る。
「英国代表の根拠なき言いがかりを見過ごすわけにはいかなかった。同代表(国際赤十字委員)は、公使館の活動について何も知らずに我々を批判し、嘘までついている。要するに、赤十字国際委員は我々が捕虜の待遇の”改善”を求める手伝いはできるが、保護はできない。」(訳文提供、高川邦子さん)
スイス公使館と赤十字国際委員、ふたつのスイス機関の間にも確執があった。

ゴルジェは戦後に書く。
「この任務(利益保護国となること)は、スイス公使館如き少数館員の任務としては、少なくとも当初においては極めて過重だった。また戦争のために必然的に異常心理となって苦しんでいる日本の如き国で仕事をする場合には困難が多かった。私は一貫して日本関係官庁の組織的な悪意にさんざん悩まされた。」

現在残る外事月報は1944年9月号までである。よって以降の警察の動きは分からない。



<ゴルジェの抗議>

戦後スイス公使館がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に提出したレポートによれば
「ソフィーは1944年2月1日、正当な理由もなく乱暴に逮捕され、東京に拘置され、1944年12月11日に判決が出され、不当にも1年の禁錮、執行猶予付きとなった。ただし彼女はその前の9月30日に暫定的に自由の身となっていた。

1945年3月5日、ゴルジェは外務大臣重光葵宛に手紙を書き、ソフィーの自由を数ヶ月に渡って奪った治安担当判事、政治家の処分を要求した。彼はさらに、彼女が長い拘束により被った物理的、心理的損失に対する損害賠償の権利を有すると述べた。」

軽井沢でゴルジェのために奔走したソフィーである。ゴルジェも一肌脱ぐ気になったはずだ。しかし外務省からは返事はなにもなかった。日本側からすれば証拠はちゃんと挙がっていると言う姿勢であったはずである。

この時期もう一人逮捕者が出ている。1945年2月6日、スイス外務省が日本公使館に手渡した覚書によれば、
「シイベルヘグナ―横浜支店長のトライクラーはスパイ容疑で逮捕された。日本のスイス公使館はトライクラーの有罪を信じておらず。長期拘束の際は、同人は生命の危険がある。」とある。



<神経質なゴルジェ?>

ゴルジェ公使は終戦間際に、自分の住まいを軽井沢1185番地の旧チーデマンの家に移そうとした。
しかし受け入れの準備は遅れた。その主な原因は警察であった。外務省軽井沢事務所の工藤忠夫参事官は1945年7月13日、外務省の古内広雄第4課長に次のように書き送った。
「(前略)もしチーデマン宅の賃借前に荷物の引き取りを要求すれば、神経質なゴルジェ公使より何を言い出すやもしれず、不愉快なる事態を惹起することとなきよう、なにとぞチーデマン宅の件、至急お願いする次第なり。」

対話のパートナーであった工藤参事官は、ゴルジェを神経質でなかなかうるさい交渉相手と、とらえていたようだ。



関西のスイス人>


開戦直前、スイス人が最も多く住んだ神戸地区であるが、彼らの疎開地は宝塚箕面地区と定められていたが、軽井沢への疎開を望んだ。

1945年6月、神戸市塩谷に住むリュッツ(Rutz)は11人の大家族であったが、家屋(別荘)を所有しているので軽井沢への疎開を希望したが、軽井沢の外務省事務所は断るよう、外務省に要請した。理由は規則の順守と負荷の軽減であった。

7月、スタンヂ神戸領事(1942年時点では副領事)は、妻サカエの暮らす軽井沢に行き、大久保公使に自国民の不安を訴えた。
「宝塚より東南方の小林方面にかけては工場地帯が多いことが、汽車の窓よりも見受けられ、空襲の危険多き様に察せられる。(スイス人を筆頭に)外国人はこれら工業地帯へ行く事を好まない。大至急解決を」と。

それに対し外務省が動き、兵庫県庁は疎開地宝塚を取り止めて、箕面武田尾の茶屋(Tea house)を指定したが、1人当たりの割り当てが3畳で、到底長期居住は出来ないと不満を訴える。そして兵庫県と共同で軽井沢に約20家族、60名のスイス人の疎開を再度依頼した。

軽井沢の出張所はそれも断るが、大久保公使は日本とスイスの関係は目下非常に機微であるのを鑑み、丁重な対応をと依頼している。
日本で逮捕者が出ただけでなく、フィリピンでは10数名のスイス人の犠牲者が出た。一方で、利益代表として日本のために働いてもらう必要がある事が、大久保公使の頭にあったのであろう。
(2017年5月23日追加)



<疎開外交団の代表として>

前年夏よりスイス公使館は軽井沢に疎開していた。そして軽井沢には他の中立国外交官も次々疎開してきた。ゴルジェは疎開外交団の代表として、食料調達の交渉の先頭に立った。

1945年6月、どこで手に入れたのか箱根のソ連大使館への配給リストをゴルジェは大久保利隆公使に示した。大久保は疎開外交官に対応する役目を負っていた。
5月の配給は外交官15名、一般館員74名に対し、米757キロ、ビール10ダースなど細かく書かれている。ソ連は日本にとって終戦の斡旋を期待できる唯一の大国であった。おそらく彼らは軽井沢の外交官より、配給も恵まれていたのであろう。

また6月8日 ゴルジェは本国に向けて、多数のスイス人が暮らす軽井沢が非爆撃地域に指定されるよう検討を願い出ている。疎開日本人は誰も軽井沢が爆撃を受けるとは考えていなかったようだが、ゴルジェはだいぶ神経質になっていたきらいがある。

様々な努力にも関わらず、疎開者からは強いクレームがゴルジェの耳に入った。「中立国人には多く配給しろ」という主張もあった。
「この事態の改善に公使館が如何に努力したかも知らないで、神経の疲れた彼ら(スイス人)の中には『他の総ての日本人と共に彼らが欠乏に苦しむのは、公使館の責任だ』とさえ非難する者が少なくなかった」と回想する。
辛い思い出が多く、おそらく終戦とともに早く日本を去りたいと思った公使であった。



<10人の逮捕者>

ドイツが降伏して2ヶ月後の1945年7月、スイス外務省は今次の大戦で犠牲になったスイス人を国別に総括した。そこで日本に関しては10人の逮捕者を出したとしている。
アメリカの空襲による犠牲者はなかった一方、家族を含めて総勢200名余りの在日スイス人から10人の逮捕者がでたことは、かなり高い確率であったと言える。

本文の中で紹介したのは、以下の6人である。容疑は多岐にわたっている。
1 イー・ロイエンベルガー 1942年 食肉配給統制規則違反
2 山田キク  1943年3月  治安維持法違反? 
3 コンラッド・メイリ 同 強姦未遂
4 ソフィー・ファーブルブラント 1944年2月 治安維持法違反
5 ジョン・リーベルマン・ウエルシュリ 1944年8月 外国為替管理法等違反
6 トライクラー 1944年末? スパイ容疑

さらに戦後、スイス公使館が日本の外務省に、戦時中に拘束、拷問を受けたことへの慰謝料を請求したスイス人に、ロイエンベルガー兄弟、ワインガルトナーがいる。(こちら参照)これで合わせて9名である。つまりもう一人いることになるが、目下不明である

それ以外にアジアの日本占領地域で逮捕されたスイス人が加わってくる。一方リリー・アベックは戦後、アメリカ軍に拘束されたのでここには含んでいない。
(2017年5月18日追加)



<終戦>

ゴルジェ公使は書く。
「8月1日はスイス国の祭日である。在日スイス人一同は軽井沢に集合した。一同は静まり返っていた。私が祖国を想う演説の草稿を書いている間、窓のガラスは揺れていた。これは高崎市が爆撃を受けているのであろうと私は想像していた。」

次いで8月15日
「われわれ(公使館の)一同、ラジオで天皇の声を聞き入った。日本人の館員もともに聞いた。皆の目に涙が光った。これは恐らく全戦争を通じて最も感動的な一瞬であった。」
日本人も一緒であった。警察にゴルジェの発言を報告させられた館員もいたはずだ。また執行猶予中のソフィーもいたであろう。ゴルジェ等の動きを監視していた警察官は終戦と共に、姿を消した。

ゴルジェは間もなくして東京に車で戻る。途中、敗戦で米英に憎しみをぶつける日本人が、スイス人も区別がつかないので、危害を加えるのではと心配された。

外務省の仮庁舎となった帝国ホテルに重光外相を訪ねた際、重光は大変な危険を冒して上京してきたと思い、驚いた。
「ご安心ください。農民たちは私に何も害を加えなかったばかりでなく、私に対してはむしろ反対に極めて親切でした。」



<英雄 ゴルジェ>

戦時下のスイス人でおそらくゴルジェ公使より名前を知られているのは、マルセル・ジュノー博士であろう。ジュノーは国際赤十字国際委員の日本代表で、終戦後最初に広島に医薬品を届けた。ただし彼とゴルジェはあまり関係が良くなかったようだ。それでもゴルジェに対しては一目おいた。

以下はジュノーの1945年11月9日、ジュネーブの本部に宛て報告である。
「中国人の料理人はなんの前触れもなく仕事をやめてしまった。
私は(ゴルジェ)スイス公使とスエーデン政府代表らにこの業務(俘虜と民間人抑留者の保護)への協力を要請しなければなりませんでした。というのは私の下には十分な人員がおりませんでしたし、ゴルジェ氏を無視することは政治的にも得策ではありません。
氏はマッカーサー将軍から1時間もの熱狂的な出迎えを受けているばかりか、将軍の署名入りの写真を贈られ、今や日本では時の人になっています。」

ゴルジェとマッカーサーとの会談は10月2日に行われた。マッカーサーは戦争中の「日本軍の残虐性」を強調し、敗戦後の日本が「軍事的には重要でなくなることを保証する」と断言し、「国際社会で悲惨な地位を占めることになろう」と公使に語った。(ウィキペディア)

ゴルジェは「時の人」にもなったという。戦時中の努力は報われたと言えようか。



<ゴルジェの帰国>

ジュノーはさらに書いている。
「公使閣下(ゴルジェ)はイギリス政府当局からの許可を得て、ロンドンに向けて回航する軍艦に便乗して帰欧するとのこと。」
まだ日欧間に交通手段のない時代であったが、ゴルジェの軍艦に便乗してでも早くスイスに帰りたいという気持ちが感じられる。

帰国に先立ち天皇陛下に謁見している。

「1945年12月5日
今般賜暇帰国の本邦駐剳スイス国特命全権公使カミーユ・ゴルジェは、在任中は帝国利益代表事務その他功績顕著につき、この日、天皇より御写真(御署名入り)並びに御紋付き蒔絵手箱(撫子の図)を、同じく皇后より御写真(御署名入り)をそれぞれ下賜される。

従来、天皇よりは陸軍正装御着用の御写真を、皇后よりは勲章御着用の御写真をそれぞれ下賜のところ、今般太平洋戦争終結による四囲の情勢に鑑み、新たに天皇よりはモーニングコート御着用の御写真を、皇后よりは勲章御○用なき服装(アフタヌーンドレス)御○用の御写真を下賜される。
(『昭和天皇実録 第九』)」

着任時、帰任時と天皇に謁見したゴルジェは、このあと間もなくして日本を去った。



<リリー・アベックの逮捕>

終戦の翌月、リリーはナチス戦犯容疑で身柄を拘束される。戦後逮捕された唯一のスイス人であろう。
翌1946年1月13日、米陸軍情報部による尋問を受けた。リリーはそこでは自分の戦時下のナチスシンパとしての行動を弁護するというよりは主にゾルゲとの関りについて語っている。

また戦時中、在日ドイツ人の行動を監視していたヨゼフ・マイジンガ―はその直後の1月16日に、リリーについて同様に米軍情報部に述べている。
「彼女は戦時中、ドイツ大使館のイベントに招かれることはほとんどなかった。日本の警察の圧力があったからです。1943年に彼女が中国への取材の申請をしても許可は下りなかった。調べたところ、スパイの疑いを警察は持っていた。

ドイツが降伏する直前、日本の警察官(カワグチ)が、アベックもとうとう逮捕されると語った。私は彼女の逮捕には正当性がない、彼女はスイス人で無害だと答えた。

NHKの外国語向けラジオを担当したことが原因で逮捕されたという。しかしその仕事を受けなければ、彼女は逮捕されていた。」
その後ワルシャワでの行為が元で死刑となるマイジンガ―であるが、ここではリリーを擁護した。

彼女は日本が連合国向けに行ったプロパガンダ放送のアナウンサー、通称「東京ローズ」の一員であったという誤解が、逮捕の理由であったようだ。(ウィキペデイア ドイツ語)



<GHQへの手紙>


終戦後日本はマッカーサーを最高司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策下に置かれる。

ゴルジェは書く。
「今後外務省宛ての一切の外交文書は先ずもって、米軍最高司令官宛てに提出すべしとの通牒を受けた」と。そのためソフィーに関する戦後事案はGHQ宛てに送られ、今も資料が残っている。
次の手紙が出されたのは、ゴルジェはちょうど日本を去ったころだ。逮捕に関しては一部すでに紹介したが、ここではやや詳しく述べる。

「スイス公使館はGHQに抗議の意を表し、1945年12月21日付けの戦時中日本の警察に拘束されたスイス国民の不当な扱いについての覚え書きを再喚起したい。

彼女が逮捕された時、判事から朝鮮独立運動を援護したと言う理由あった。この愚かな告発は、ソフィーが慎ましい朝鮮人を哀れみ、彼が国に帰れるよう、100円をプレゼントしたのが原因であった。

この話では長期に公判を維持できないと考えた判事は、戦術を変更し、彼の視点からはゆゆしき犯罪的な会話をしたかどで告訴した。とりわけ東條首相とその一味が戦争に責任がある。真珠湾攻撃は日本について高いものになるであろう。アメリカの工業生産は日本に勝っている。大蔵省の官僚は誠実ではないという発言である。

起訴の過程で検察は誇張し、ソフィーが日本の友人と交わした会話がゆがめられた。

彼女の抗議にもかかわらず検察と警察は、長期留置をほのめかしながら、虚偽の自白書にサインするよう強要した。
日本警察では脅迫、拷問などで自白させることはよく知られた通りだ。

こうして、正義で誠実なスイス市民は独断的に逮捕された。1945年3月5日、スイス公使は日本の外務大臣宛に手紙を書いた。(内容はすでに紹介)
しかしこの手紙に対する返事は今もってない。またソフィーは彼女の被った損害に対し、8万スイスフランを日本政府に要求すると今回スイス公使館に告げてきた。

スイス公使館はGHQがこの件に介入し、上記金額を得ることができるようお願いしたい。」

100円をプレゼントとあるが、外事月報では200円だ。200円でも彼女の毎月の生活費の半分であった。これで独立運動を支援というのは確かに、無理がありそうだ。東條首相云々の発言内容もほぼ、日本側と一致している。

また8万スイスフランの慰謝料は、外貨の乏しい日本の政府が払ったとは思えない。今の価値で4千万円くらいであろうか?

なおスイスの公文書館にも彼女に関する書類が残っている。こうした経緯がもう少し詳しく記されていそうだが、主にフランス語と言うことなので、筆者には手が出ない。よって今回はコピーの入手は控えた。



<山下町175番地>


ファーブルブラント商会のあった旧横浜外国人居留地区の山下町175番地(470平米)は、1923年の関東大震災で建物が倒壊し、その後はバラックが建っていたが、それも1945年5月29日の横浜大空襲で破壊され、以降は空き地となっていた。その一家にゆかりの土地は、1946年7月にアメリカ第8軍に接収された。

1950年ころ、スイス公使館からGHQに抗議が入った。日本は敗戦国であるが、その土地はスイス国民のものであり、スイス国民の財産が侵害されたと。GHQの調査ではそこは当時、イースタン・モーターズ・カンパニーという会社がバスの駐車場として使用していた。この会社は横浜のアメリカ第8軍の家族のためにスクールバスを運行していた。つまり日本人からの接収という認識であった。

「日本の権威筋による、中立国国民資産の正当な対価なき接収という占領軍の変則的な行動に関し、調査をすることが望ましい。」
「その中立国人は相応の代替地もしくは弁済金を受けるべき。」とGHQのメモが残っている。ソフィーの主張に沿った内容だ。

その後の経緯は不明であるが、この場所には今NTTの建物が建っている。ソフィーは1955年、逗子で亡くなっているので、そちらに代替地を得たのであろうか?

またソフィーの住所はこのクレームが出された時、軽井沢町1395番となっている。軽井沢病院であろう。大森の家も焼けたためであろうか?また兄ヘンリーは千葉県市川市在住、これは戦時中に外事警察が書いた住所と同じである。

付け加えると筆者が参考にした平野光雄の『ゼームス・フアブルブランド伝』に「イースタン・モーターズ・カンパニー藤本社長の好意によって、ファーブル4男、ヘンリー・ファーブルブラン氏を紹介され、父君について種々、談話を聞く機会に恵まれた」とある。よって175番地を使用していたイースタン・モーターズ・カンパニーとファーブルブラント家は良好な関係にあったようだ。

隣である山下町174の住所(筆者撮影)



<その後>

1955年2月25日に逗子で亡くなったソフィーは、横浜の外人墓地に眠る。1943年ウィーンで客死したアデールも共に眠っている。アデーレの遺骨は戦後日本に運ばれたのであろう。

父親が日本の開国時に来て、本人は横浜の外国人租界地で生まれ、夏の多くの時間を軽井沢で過ごし、横浜の外人墓地で眠る。戦争に翻弄されたことを除けば、ソフィーは絵に描いたような戦前の裕福な外国人の一生をおくった。

横浜外人墓地のソフィーとアデーレのお墓(筆者撮影)

(注)
スイス人の名前の日本語表記は出典によりかなりブレがある。ここでは
カミーユ・ゴルジェ (Camille Gorge)
ソフィー・ファーブルブラント、(Sophie Favre-Brandt)
アデーレ・ファーブルブラント(Adele Munro Nee Favre-Brand)に統一した。

(2017年4月22日)

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