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心の糧(戦時下の軽井沢) 第一部
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<序>

「(戦時中の)軽井沢には食糧がなくても自由主義の作家や政治家、中立国の外交官がいて“心の糧”があった。」とは文化学院創立者西村伊作の6女西村クワが、戦後だいぶ経って語った言葉である。

クワは終戦の年1945年4月、家族の疎開先である静岡県三島市から、姉のナナと二人で、軽井沢に向かう。三島では食糧は充分とはいえないが、ひどい不自由というわけではなかった。しかし冒頭の言葉ごとく、心の自由がある地に向かったのである。

クワはさらに語る。
「父逮捕の記事が新聞に出たのが(1943年の)夏、そのとき軽井沢にいた。軽井沢では親が思想犯として牢屋に引っ張られていても、顔姿が日本人離れしていても、誰も何も言わなかった。」
クワの父親は1943年4月に不敬罪で逮捕された。しかし誰もそれを気にとめず普通に接してくれた。

軽井沢には戦時下に本当に心の糧があったのか?それを確かめたく、特に疎開を若い年代に体験した人が書いた回想録を当たってみた。回想録に出ている内容をそのまま信じ込むのは、危険があるが、あることを複数の人が書いているとすれば、信ぴょう性は高まる。本編では多くの人物を紹介しつつ、随所にテーマ別にエピソードを織り込んでいく。また参考文献は巻末にまとめて表示する。



<歴史>

軽井沢の別荘第1号は、在日英国公使館公式司祭をつとめたアレキサンダー・クロフト・ショーによって1888年に建てられた。以降外国人の避暑地として名声を確立する。またそれに倣うように日本人も富裕層、政治家、文化人が別荘を建てた。

軽井沢に別荘を所有していた日本人は、1941年12月8日に日本が欧米と戦争状態戦争になっても、夏の避暑に利用している。しかし日本が劣勢となり、1944年ころから疎開地として長期に利用し始める。親戚等も加わりいわゆる縁故疎開である。
そして終戦の年1945年の3月10日の東京大空襲で多くの人が住まいを失い、以降はその数が急に増える。よって疎開の体験談は、3月以降についてが大部分である。

一方外国人の場合、開戦と共に敵国人は抑留されたが、同盟国人、中立国人は軽井沢がその居住地の一つに指定され、移り住む。開戦当初は強制ではなかったが、1943年12月、「外国人絶対居住禁止区域」が指定され、横浜などから立ち退きを迫られると、軽井沢に外国人居留者が増える。彼らは異国の高原地帯で、食料調達等で非常に苦労をした。

しかし外国人が多く集まることで、安全が保たれた。当時の日本人は金髪の外国人を見たら、敵国アメリカ人と思うのが普通であったので、他の外国人の珍しい都市では暴行を受ける恐れさえもあったからだ。

疎開者が増える前の「1943年軽井沢別荘案内図」には住所と共に持ち主の名前が載っている。それによればカタカナで書かれた外国人名義の別荘はすでに全体の4分の1くらいか。そしてその番地は今もそのままの住所が多いようだ。



<外国人の数>


では実際どのくらいの数の外国人が、軽井沢にいたのであろうか?戦前になるが1935年8月26日、作家の室生犀星は『都新聞』に書いている。
「西洋人が2000人もいるのであるから、そんな散歩時間は、町は全く賑やかである。38カ国の人種がいるそうであるから、世界にも珍しい”町”かも分からないのだ。」
犀星の2000人の出典元は不明であるが、次に紹介するデーターと国数38が一致しているので、元は外事警察から出された数字であろう。

しかし米英といった連合国の人々はその後どんどん自国に引き揚げる。大きなショックは1939年8月23日にドイツとソ連の間に締結された独ソ不可侵条約であった。1939年8月27日の毎日新聞が伝えている。
「慌ただし軽井沢  外国人続々引き揚げ ニュースに集まる外国人たち 

今英独人を始め世界30余か国約1000名の外人が(軽井沢で)国際万華鏡を描いているが、欧州の危機が伝わるや、25日以来気の早い連中は時を移さず続々引き揚げ始めた。外字新聞などは数分間で300部も売れてしまった。」

外事警察は1941年の軽井沢の外国人の状況を次のようにまとめている。
「この夏軽井沢に避暑滞在した外国公使館員は32カ国、106名に達し、うち大公使は23名に及ぶ。
一般外国人は38カ国807名にして、昨年より約400名の減少を示す。」

当時は滞在者は警察に届けなければならなかった。そこから開戦直前の避暑外国人は外交官、一般人合わせて913名であったことが分かる。1935年からは半減である。さらにはこれが戦争の進展でどう変わったのであろうか?

外務省軽井沢出張所の大久保利隆所長は、東郷茂徳外務大臣に1945年6月6日以下のように書き送っている。
「軽井沢在住外交団員に対する食糧及び燃料の配給状況に関する件」

「当地における疎開外交団員数は東京横浜の空襲激化に依り急増の見込み。6月1日現在248名でとりあえず今月52名増の見込み。最近一般罹災外人の急増に鑑み(約1000名程度の外人増加の見込み。)
従来共不足がちなる当地食糧状況を更に悪化せしむべく総計2千数百名に上る外人に対する食糧供給の困難は、、、(後略)」

これによると、248名の外交官がいて、さらに52名の増加を見込んだ。
一般外国人はあと1000人程度の増加が見込まれ、そうすると外国人は総勢2千数百人となっている。ただしこの増加見込みの1000人は、筆者は日本人と考える。外国人の疎開はそれ以前にほぼ完了したからだ。つまり終戦直前、開戦時から5割ほど増えた千数百人の外国人が軽井沢にいたというのが、事実に近いのではなかろうか?



<外交官>


先の大久保の報告に添えられたリストによれば、駐在人数最大のドイツは、軽井沢には外交官はゼロ、外交官夫人だけが12人いた。それにいわゆるキャリア組でない一般館員とその家族、36人が滞在し計48人であった。詳細はここでは省略するが、キャリア組は河口湖方面に疎開した。

一方スイスは61名もの外交官がいた。その内一般職員、およびその家族が48名である。これは業務が広がったための増員というより、戦時下で民間の仕事が激減する中、彼らに外交官身分を与え、自国民を保護したといえよう。

またジュネーブが本部の赤十字国際委員事務所には16人の職員がいて、内11名の一般職員およびその家族を抱えていた。終戦間際に日本に来たジュノー博士は戦後報告した
「(驚いたのは)同じ事務所で共に仕事をしてくれている外国人協力者らの人数でした。ペスタロッチ氏が語ったことによると、スイス人の人員を確保することは不可能であったから、ユダヤ人ないしは無国籍者のような外国人であっても、協力者として人員を見つけることができて喜んでいる、とのことでした。」
国際機関として、無国籍者を雇い入れることで、彼らを保護していた。それが軽井沢の外国人の顔ぶれを豊かにしたとも言える。

ここではまずロシア系の疎開者から見ていく。白系ロシア人はロシア革命で祖国を出たものがほとんどで、戦時中は無国籍者となっていた。



<亡命ロシア人 レオ・シロタ(ピアニスト)>


一見日本人の名前のシロタはウクライナ出身のユダヤ系ピアニストである。娘のベアテ・シロタ・ゴードンは終戦直後、戦後GHQ民政局の一員として来日し、日本国憲法の人権条項作成にたずさわり、女性の権利を憲法に明記することに尽力する。

父親レオ・シロタは戦時中も日本に残って音楽活動を続けるが、1944年、東京音楽学校の任期満了で契約更新されず、軽井沢に移る。旧有島武郎別荘「浄月庵」 であった。

夏の別荘は冬に暮らすようには造られていなかったから、冬には家の中が全て凍った。
「日本人は我々にわずかな燃料しか提供してくれませんでした。それを私たちはピアノがおいてあった居間で燃やしました。」
日本人と外国人との交際は禁止されていたが、藤田晴子のような弟子たちは苦労して軽井沢まで食料を運んだという。



<ピアノの授業>


娘のベアテは続けて
「父(シロタ)は日本人にも外国人にもピアノのレッスンをすることを禁止された。しかし毎日3時間ピアノを弾いた。父が働けないことで、生活は底をついた。母はかろうじて軽井沢にいる外国人女性や子供たちにピアノを教えることを許された。母はスイス公使館や、スペイン公使館の子供にレッスンをし、食糧を得た。」

シロタに関してはエピソードが多い。アルメニア人のアプカーは書く。
「シロタ夫妻は東京から2台のグランドピアノ(ドイツ製ベックシュタイン)を運び、軽井沢でもレッスンを続けていたのだ。(アプカー家の次女)ルシールはかつて叔母のルースからピアノの手ほどきを受け練習を続けていたので、シロタ教授との出会いはまさに僥倖だった。初めはシロタ夫人から、後に教授から毎週ピアノのレッスンを受けた。」
ピアノを2台運べたとは、それでも特別の待遇であろうか?

冒頭に述べた西村クワの回想である。
「ある日友人であるスイス人のカティがピアノを弾いていたら、近所にいた有名なシロタという人が来て
”あなたのお嬢さんはピアノを弾いているけど、先生がいないのなら私が教えましょう”とカティの父親に言った。
”とんでもない、貴方のような有名なピアニストに払えるお金がない”と答えたら、”いや月謝はそこにあるジャガイモでいい”と言った。」
庭に作ったジャガイモのおかげで、カティはピアノのレッスンを世界的に有名なシロタから習って、戦後、スイスの音楽学校に難なく入れたとのことだ。疎開がなければ受けられない貴重な授業であった。シロタは亡命ロシア人ゆえ、彼らの立場を援護するスイス人との交際が多かったようだ。

次の証言は軽井沢新聞の2016年12月10日付けに紹介されたものである。緑さんはソニーの社長を務めた大賀典雄の妻である。(旧姓松原緑)
「戦時中、緑さんは疎開していた長野県上諏訪から、軟禁中だったウクライナ出身のピアニスト、レオ・シロタさんのレッスンを受けるため軽井沢に通っていた。交通事情が悪く、電車を乗り継ぎながら、時には駅で夜を明かすこともあったという。」
おそらく非公式であるが、シロタは禁じられていた日本人へのレッスンも、していたことになる。



<亡命ロシア人 アプカー一家>


先述のアプカーはアルメニア人である。今もあまり聞き慣れないアルメニアはコーカサスに位置し、当時はソ連邦に属していた。初代アブカー夫妻は1890年横浜に移住しアブカー商会(商社、貿易代理店)を設立する。以降横浜でビジネスを続け、横浜の外国人社会を代表する一家であった。

戦争開始後もしばらくアブカー一家は抑留対象とはならなかった。しかし1943年、自宅が「外国人絶対居住禁止区域」と指定され退去を命令され、移転先を箱根か軽井沢かを選択するよう迫られ、食糧の確保が幾分容易ではないかと想像して軽井沢を選択した。

移転に際して一家も持ち運ぶ家具・家財は自由、運搬費用も与えられたという。2代目のアブカー夫妻は下見に出かけ、三笠に希望の家を見つけた。息子の一人は無国籍者として先述の赤十字国際委委員でアルバイトをした。



<燃料の確保>

軽井沢の別荘はどこも夏用で、冬の生活を想定したつくりにはなっていなかった。したがって極寒の冬を生き延びるための燃料確保は容易ではなかった。日本語の出来たアプカーは日本の警察との連絡係をつとめ、在住外国人代表のような立場にあった。冬の訪れを前に燃料不足を懸念したアプカーが軽井沢の警察に訴えると、警察は造船用に伐採した後に残った木の枝を集めて、薪にすることを勧めた。

アプカーは他の外国人住人に声をかけ、当時走っていた草軽電気鉄道に乗って、指示された草津近くの山まで薪集めに出かけた。この時警察は、彼らに薪を軽井沢まで運ぶ列車の提供もしたという。先述の薪集めの遠出にはシロタ夫妻は高齢のため参加せず。皆が協力して夫妻に薪を提供した。

ユダヤ人の音楽家ローゼンストックも書いている。
「亡命者たちは、薪がないと警察に訴えた。そうしたら木のある小山に上がって自分で切り倒せとのこと、そこで志願者を募って、作業には不向きな道具類を手に手に、ある寒い朝、(外気はマイナス18度だった)山へと向かった。
重い荷物を転がして山道を下りるのは難渋を極め、私は積み荷事何度も地べたにひっくり返らされたことを思い出す。」
おそらくアプカーと同じエピソードを書いていよう。

「薪の蓄えがない。配給も途絶えがちであった。ドイツ人会で地元の山の木を買い取り、男たちが木を切り、女たちが枝集めをした。」(「ズザンナさんの架けた橋」より)
日本からは最大の恩恵を受けたはずの同盟国ドイツ人も事情は同じようであった。


軽井沢旧駅舎記念館の前に保存されている草軽鉄道の電気機関車(2018年6月筆者撮影)



<良き警察>


概して評判の良くない警察も、個人ではある程度外国人のために協力をしたようだ。先述のベアテ・シロタも次のようなエピソードを書いている。

憲兵は「変わったことはないか?手紙は来ないか?」と毎日シロタ家にやって来て聞いた。母が
「憲兵さん、いつも同じことばかりしないで、たまには変わったことをしたらどうです。あの枝に止まった鶏を下ろしてやって下さい。」というと、長い棒を探して来て飛ばしてくれた。
「警察官も一人一人は善良でいい人であった」と母は回想する。



<ロイ・ジェームス>


今の人はほとんどご存じないであろうが、筆者の子供の頃、西洋人で軽妙に日本語を話す司会者がよくテレビに出ていた。彼がロイ・ジェームスである。父がロシア革命で日本に逃れてきたトルコ人である。

1929年生まれのロイは、終戦を迎えたのは16歳ころである。彼は軽井沢の生活についてこう語る。
「抑留の意味は軟禁ですよ。一軒から一人ずつ引っ張り出されて、憲兵や特高の見張り付きで労働ですよ。駅の人夫、木こり、貨車への薪運び、といった労働だな。僕は草軽線から本線に荷物を移す仕事。辛かったなあ。スタルヒンは木こりの監督くらいじゃないかな。」とアプカー同様に薪運びをやったようだ。そして

「ぼくは戦後になっても5年ばかり軽井沢にいましたが、あの頃が一番苦しかったね。もう一回あの時代を繰り返してやってみろと言われたら、もうさっさと死んだほうがいいね。そのくらい苦しかった。精神的、肉体的、生活面、、、いろんな面で苦しかった。」
彼には辛い思い出しかない、軽井沢であった。



<亡命ロシア人 スタルヒン>


ロイは伝説の巨人軍の投手スタルヒンも軽井沢にいたと語る。スタルヒンも無国籍の白系ロシア人であった。
スタルヒンの活躍したプロ野球は戦時中も行われ6チーム総勢74名で、1944年9月まで試合が行われた。しかしその年の8月頃、スタルヒンは軟禁状態となり、軽井沢へ送られる。ロイは語る。

「彼が軽井沢に来たときは、最初の奥さんのレーナさんと一緒でしたよ。ジョージっていう男の子がいた。この奥さんは進駐軍将校と駆け落ちしちゃう。」
ロイと一緒に労働に駆り出されたスタルヒンであるが、
「苦しかったとは口では言わないんですね。えらいよ。」とロイは回想する。



<ワルワーラ・ブブノワ>


ワルワーラ・ブブノワはロシア人女流画家で、ヴァイオリニスト小野アンナの実姉である。1923年、日本にやって来た。
1945年3月初め、警察は24時間以内に立ち退くよう、ブブロアに乱暴に要求した。ほとんど全部の荷物をおいていかねばならなかった。支援者の本郷が2人を軽井沢まで送っていくと申し出た。

ブブノワは以前にも何度か軽井沢を訪れていた。しかし、自分の居場所から引き離されて、おびえている人があふれている(今回の)軽井沢は不気味だった。」
無国籍者故、常に逮捕される危険を他の外国人以上に感じたのだろう。

「住むところを見つけるのは難しかった。知り合いの外国人が、2つのベッドと小机がやっと入るだけの小さな部屋を空けてくれて、落ち着くことが出来た。」
この知り合いは、先述のロシア人のピアニスト、シロタである。彼はブブロワを援助したと書いている。

「だれかが家庭教師の口をみつけてきた。ブブノワはある金持ちの外国人のお嬢さんにフランス語を教えた。夫のウラジミールは、裕福な農家にやとわれて屋敷のまわりに木を植え、その手間賃として食事をさせてもらっていた。」
また妹小野アンナは4月に軽井沢に疎開したという。ブブノワ宅の二つ目のベッドを利用したのは彼女であろうか?

他に戦後も軽井沢に暮らした白系ロシア人のアンナ・バトリナとコンスタンチン・ブレゾは、戦時中について
「なにもしない人には、(憲兵隊も)なにもしなかった」
「(毎日)ただ、薪を切っていた」と言葉少なに語る。(『信州昭和史の空白』より)



警察組織>


アプカーが少し好意的に書いた警察について、ここで更に見てみる。軽井沢は警察の警備が厳重であった。避難してきた外国人はスパイと疑われ、裕福な日本人も戦争嫌いで、外国人好きと見られていたからである。(ただし警察、憲兵、特高など違った書き方がされているが、正確に違いを認識して書いている人は少ないようだ)

大久保所長が警察(憲兵)について触れている。
「憲兵は軽井沢駅前の油屋旅館を宿舎にして、常時2、30人が詰めていた。彼らは外国人の活動の取り締まりだけでなく、大久保ら日本の外務省職員の行動も監視した。」
朝吹登水子も
「知り合いの外国人に挨拶をしてさえ、軽井沢駅前の憲兵分隊に呼び出される。」と書くので、駅前に憲兵分隊が置かれていたようだ。

次も朝吹登水子である。
「憲兵たちは町の店の2階を借りて、窓から外国人に挨拶する人たちの写真を写していた。細川公爵夫人が、フランス語のレッスンを受けていた画伯夫人のフランス女性に、町で挨拶したのはなぜかという理由で細川護貞さんも呼び出しを受けた。
私の父は町の花屋で、旧知のスエーデン人の妻ミセス・ゲルツ(ドイツ人)に出会い、挨拶を交わしたところ、見張っていた憲兵が花屋に”あれは誰だ?”とたずねたという情報が別荘番の耳に入ってきた。」

シロタは
「両親の別荘には毎日、憲兵が様子を見にやってきた。一人娘(ベアテ)をアメリカに留学させていたことが原因。」と自分で分析している。

開戦時の駐米大使であった来栖三郎は、中立国の外交官と会食しても、彼らの元で働く女中などが、後で憲兵に訊問されるので、中立国外交官も自然と接近することを避けるようになったという。こうして見てくると警察の軽井沢での任務が明らかになる。

それでも反軍部の話はあり、隠密に行われた。
1943年8月21日、東京日日新聞社員(今の毎日新聞)の伊東治正伯爵の軽井沢の別荘(翠雨荘)に、政治家たちが集り「軽井沢会談」が行われた。鳩山一郎、近衛文麿が中にいた。政治家たちは憲兵に悟られないように庭から庭へと歩いて翠雨荘に集まり、和平への道を話し合ったという。(軽井沢新聞)
この日伊東家では、東京四谷の丸梅のお内儀と娘さんを準備のため呼び、彼らに日本料理を供した。戦時下とはいえ、すばらしい料理が出たようだ。

伊東の翠雨荘は戦後アイゼンベルクの所有となるが、今も立派な門柱が残っている。(筆者撮影)

ロシア文学翻訳者湯浅芳子は実際に拘束されたようだ。
「1945年3月末、突然、湯浅は軽井沢の別荘から引き立てられ、留置場になげこまれた。共産党に協力したという身に覚えのない事での不法監禁だった。
湯浅が目の前で捕らえられた時、山原(鶴 たず)先生は、すぐに岩波書店社長岩波茂雄氏の所に連絡して、救出を頼み込んだ。岩波氏の尽力で、湯浅は5月16日、これも突然、解放された。 」(『孤高の人』 瀬戸内寂聴)

小説家野上弥生子はその湯浅芳子との会話の内容が問題になり、警察に呼ばれたが、注意を受けただけだったという。自身の日記には終戦直前のぜひ記録しておくべき2か月にわたり何も書かず、ようやく1945年8月3日、
「私自身の問題はすでに終わった。しかし当分発表の自由はないであろう。」と意味深長である。

次の話は伝聞ゆえ、さらなる検証が必要であろう。
「ドイツ人居住区の一人が特高に逮捕され、2ヶ月後、自由の身になったものの、さんざん痛めつけられて帰って来たことを聞いた。次の日の夜、その人は家の外の電柱で首を吊った。」(ローゼンストック)



<疑われるスエーデン人>

なぜか中立国スエーデン人が警察にマークされている。室生朝子は書く。
「戦況がかんばしくないことが徐々に報じられてきた頃、突然見なれない男性が17,8人、あちこちを走り回るようになった。
私服であるが、誰もが髪を短く刈り、目に独特の鋭さを持っていた。彼ら達は町の上の方の一軒の家を宿舎として使っていた。憲兵隊の人たちであることが,間もなく私たちにも分かった。

ある日隣組の組長が一人の男を連れて来た。清水某であった。(スエーデン人)ネッケル一家を見張りたいから、道よりの離れの縁側を一週間ほど使いたい、とのことであった。清水某は”よく(ネッケル家を)訪ねてくる人はどんな人か”など私たちに訊ねた。
一方汽車の切符は清水某に頼むと、どこでも直ちに調達してくれた。それで買い出しに出かけることが出来た。」

次は土屋幸枝の回想である。家族構成からネッケルとは別人である。
「憲兵が二階の廊下に机を置いたのは、真向かいの家に入ったスエーデン人の一家を見張るためだった。夫人が日系の混血で言葉がわかる、と言うのがスパイ視された理由だった。
家では疎開の何家族かを風呂に呼んでいて、この一家も日を決めて来ていた。風呂の後お茶を出していろんな話を聞くのが楽しみだった。(日系の)夫人は風呂を貰いに来て迷惑がかからないか、と家の立場を心配してくれる心根の人だった。」

土屋は「今思い返すと、深刻な中にも、都会人の風刺やユーモアや、批判もあって、14,5歳の私には(軽井沢は)強烈な刺激であった。」とも書く。西村クワ同様、軽井沢は心の糧であった。

スペイン人にはこんな話がある。
「スペイン人のペルディは本名ジョーン・コンウェイといい、(戦時中も)アメリカの軍属であったことが、戦後わかった。」
「空襲の時は万平ホテルの自分の住まいだけ電気を点滅させて、身の安全のためにも知らせていた。」(伊東春子、加藤正隆)
と書くが、もう少し検証が必要であろう。



<警察関係者の証言>


当時住民を取り締まった側の関係者も戦後証言している。
南波直幸軽井沢分駐所長
「(調査対象となった家に)お手伝いさんを送り込んだ。人手が足りなかったから、ちょいと頼まれ、どこへでも行った。1週間から10日も行って、大した変わったこともなけれあ、辞めて他へ移った。
ドイツ人で分からない動きをする中年女性がいた。終戦後、宮城前の焼き討ち事件の時、リーダーになっていて驚いた。戦時中、日本の情報を他へ流していたのではないか?

松本から来た私たちの他、根本さんが東京憲兵隊から部下を連れて来ていた。さらに参謀本部関係と見られる人が二人いた。このほか特高警察もいた。

軽井沢駅に降りると、分遣隊に顔を出していく人が多かった。春先に、軽井沢駅前のあぶらや旅館に”軽井沢警察分遣隊”と書いた大きな看板を下げた。軽井沢には、制服の憲兵が来ているんだぞ、軽はずみな行動は出来ないぞ、と。そういう狙いで、制服の憲兵が、積極的に巡回して歩くようになった。」

関口朝司 県特別高等警察課外事係
外国人が沢山いたと述べた後に語る。
「私の周りだけでも、隣がドイツ人の配給事務所でコンビーフ、ラードの樽などがあった。斜め向かいがデンマークのスミス商会、2軒おいて満州国の外交官がいた。
さらにトルコ人、NHKのフランス語放送をやっていたフランス人、ラシャ売りの白系ロシア人。スタルヒンは植木屋になって垣根の手入れなどをしていた。」(『信州昭和史の空白過』より)



<ドイツ人>

戦時中に日本に一番多く暮らした外国人はドイツ人である。『戦時下日本のドイツ人たち』という本によれば、当事者の証言等から3000人前後としている。しかし筆者が見つけた外事月報の中の統計によれば、開戦前の1939年が2088人、開戦後の1942年末が2571名である。警察の数字であるから間違いなかろう。

1943年の夏、横浜に住むドイツ人に疎開令が出される。このとき疎開したドイツ人およそ200家族は、それぞれのツテを頼り、旧軽井沢一帯に散らばって在留することになる。これは『ズザンナさんの架けた橋』からの引用であるが、この本は軽井沢のドイツ人の生活状況をよく教えてくれる。

またジャーナリスト清沢洌も日記に書いている。
「1943年11月23日午後1時に旧軽井沢を散歩す。ドイツ人等なかなか多し。横浜等から立ち退きを命じられ、250人計り来るとの事。」軽井沢ではドイツ人が250名ほど来るという話が、広く伝わっていたようだ。

ここも『外事月報』から詳しい数字が分かる。1943年の横浜地区のドイツ人の立ち退きは総計523名、248世帯であった。うち長野県に移った者は88名(男45、女43)である。この88名(45世帯くらい)が軽井沢への疎開者総数であろう。
ズザンナさんが書いた200家族は、箱根方面その他を含む総数と考えられる。
(2017年4月27日加筆)



<オット(Eugen Ott)  ドイツ大使他の外交官>


1942年、日米開戦後最初の夏、ドイツとイタリアの大使も軽井沢で過ごしている。
「オット大使は本年は鎌倉市材木座に別荘を借り受け同所より大使館に通勤し、週末には軽井沢に赴き静養。」と外事警察の記録に残っている。最重要同盟国の大使は、週末ごとに軽井沢に行くという、恵まれた環境であったが、この時はソルゲ事件の関連で、更迭、異動を待つばかりの身であった。

一方イタリア大使は多忙であったようだ。
「インデルリ大使の避暑旅行も本年は例年に比し少なく、7月19日家族同伴軽井沢別荘に赴きたるも、家族を残して即日帰京するほど。」
その他、中立国の公使も多く軽井沢にいたが、連日パーティーなどで時間を過ごし、目立った動きはないと警察に報告されている。

1943年になると「ポルトガル公使ルイス・フェルナンデスはこの夏中軽井沢に避暑し、仏国商務官タツシエ夫妻等と頻繁に交際。」と、外交官としての任務にあまり熱心でない例も報告されている。
(『外事月報』より) (2017年6月11日追加)

大使夫人ヘルマには次のようなエピソードがある。
1941年7月9日 ヘルマは例年の様に軽井沢に出発する。
ある日街中で東郷夫人(エディット ドイツ人)といせがオット夫人に笑顔で挨拶した。しかしヘルマはほとんど無視という態度であった。そして二人と別れると「彼女は元のドイツ大使夫人。しかし主人はその職を追い出されたの。」と一緒にいたエタ・ハーリッヒ・シュナイダーに語った。人によって態度を変えたオット夫人であるが、その年の10月に東郷茂徳は外務大臣になる。
(2017年11月18日追加)



<ドイツ語教員 ヘルムート・ヤンセンとヘルベルト・ツァッヘルト他

日本の旧制高校ではドイツ語がよく教えられ、そのためにドイツ人の教師が各地の高校にいた。1941年に来日したヘルムート・ヤンセンは松本高校(信州大学の前身)でドイツ語を教えるが、1944年の半ばを過ぎると授業は行われなくなり、外国人教師も自分で生きる道を切り開くしかなくなる。ヤンセン夫妻が選んだのはドイツ人の多い軽井沢に疎開し、住まいに選んだのは「万平ホテル」だった。

夫妻は松本から貨車一杯の荷物をホテルに運び込んだ。その大部分は暖房用の薪だったという。薪の重要性をよく認識していた。また、松本の庭で作っていたカボチャやトマトの類までホテルに持ち込んだ。夫妻は、終戦後アメリカ軍が来て追い出されるまでこのホテルに住んでいた。

松本高校でヤンセンの前任者ヘルベルト・ツァッヘルト夫妻は1941年、日独文化協会会所長として横浜に移り、1943年に軽井沢に疎開している。子守であり家事全般もこなす愛子というお手伝いさんも一緒で、彼女は息子の宿題もみた。妻ズザンナが先述の「ズザンナさんの架けた橋 」を書いている。
(外事月報によればツァッヘルトは日独文化協会の主事で、横浜の住所が仲尾台69、軽井沢1345に移ったのは1944年4月23日である。)

クルト・バイヤーは1927年から水戸高校(茨城大学の前身)でドイツ語を教えて、毎年家族で夏は軽井沢に滞在していた。1944年、クルトは大学の職を失い、一家は軽井沢に移る。彼らは戦後も軽井沢に暮らしたが、娘のアンネリーゼは1949年、銀座の1925年創業のドイツレストラン「ローマイヤ」に職を見つけ上京する。
(『戦時下日本のドイツ人たち』より)



<ドイツ語教員 ロベルト・シンチンゲル>
 

シンチンゲルは『新現代独和辞典』の編者で、ドイツ語を学ぶ人でこの辞書を利用する人は今も多いと思う。後で述べる三島由紀夫もシンチンゲルからドイツ語を習ったという。

シンチンゲルは震災2日後の1923年9月3日に神戸にやって来る。学習院で教えたのち、1942年からは東京大学でドイツ語を教える。1944年中頃から空襲が激しくなり、軽井沢に疎開する。

「長女(バルバラ)は路上で集めた馬糞や屋外便所の人糞を家庭菜園の肥料に使った。住まいにしていた小屋(別荘)は冬用の作りではなかったため、寒さが身にこたえた。暖を取るにも小さなブリキ缶しかなかった。」
スエーデン人ヘルガ同様、牧畜文化の西洋女性には路上での糞集めは、何ともなかったのかもしれない。バルバラは横浜に長く住むドイツ人ヘルム家の3代目ドンと1951年に結婚する。

1945年5月のある日、ドイツ大使館の男がワインの瓶を携えて、シンチンゲル一家の別荘に現れ、東京の彼らの家が空襲で焼け落ちたと告げた。
当時20歳であった長女バルバラは、東京に向かう大使館員の車に同乗し、家から持ち出せる物が何か残っていないか、確かめに行くことにした。車が山を下り、田んぼを抜けていくと、遠くにもくもくと大きな砂埃が立っているのが見えた。その砂埃は東京から逃げ出して来た避難者の群れだったのだ。

小説家野上弥生子はそれより少し時期が早いが、3月22日
「おやじさんの話だと、中仙道は東京からの脱出者が徒歩で、また自転車、リヤカーでひっきりなしに続いて、大混雑とのことである。」と書く。

なおエタ・ハーリッヒ・シュナイダーによれば、シンチンゲル夫人は半分ユダヤ人であった。よって彼女は夫妻のナチに対するそっけない態度は当然だと思った。



<ドイツ人神父>


イギリス、アメリカの宣教師達は帰国を強制されたが、同盟国のドイツ宣教師は日本に滞在を許され、教会の働きを続けた。しかし1944年ドイツの劣勢に伴い、等々力教会のノートヘルファー師一家は、同僚のブッス宣教師一家と共に、軽井沢に軟禁される。(等々力教会のサイトより)軟禁なので、教会で活躍ということはなかったと思われる。

ブッス神父の1937年の住所は八王子である。またブッス神父は戦後の1948年、軽井沢の自室を開放して、最初の松原湖バイブルキャンプを開く。そこには横井タマラ(玉良)も参加するが、タマラに関しては別の機会に書く予定。



ドイツ人外交官 フランツ・クラップフ>

日本に留学経験のあるクラップフは駐日大使館の経済部に所属した。1945年5月25日の大空襲でドイツ大使館が焼失したころ、軽井沢に避難する。1945年4月30日にヒトラーが自殺し、ドイツが5月8日に連合国に降伏後も、大使館に留守番の様にして残っていた。(彼はその前に疎開していたとエルヴィン・ヴィッケルトは書く。)

クラップフは終戦直前の同年8月、外務省出張所の工藤忠夫参事官に
「当地(軽井沢)には、家族合わせて50名の大使館関係者がいるが、うち15人は日本採用で、配給が一般外国人並みに格下げされたが、これを外交官待遇に戻してほしい」と要求している。

先述のようにドイツの外交官は皆河口湖に疎開し、そのまま軟禁となった訳だが、クラップフが軽井沢に疎開したのは、スエーデンの婚約者がそこにいたので無理を言って実現したのであろうか?ナチスの政策でドイツ人は外国人とは一切結婚できず、2人はドイツ敗戦後、ようやく正式に結婚する。式は7月10日で、同じくドイツ人の音楽家、エタ・ハーリッヒ・シュナイダーがピアノを弾いた。

そのスエーデン人の婚約者で“金髪のヘルガ”は東郷いせと親しかった。
「彼女は少しでも食事の足しにしようと畑を作っていた。ある日、フランス大使館のおしゃれな奥さんは、道で出会ったヘルガを見て何ともいえず顔をしかめた。畑の肥やしにするために、ヘルガは馬の後を追いかけて糞を拾っていた。」というエピソードが紹介されている。(『色無花火』 東郷いせ)
たくましい女性であった。



<ドイツ人スパイ リヒャルト・ゾルゲ> 

いわゆる「 ゾルゲ事件」の首謀者として日本を震撼させたリヒャルト・ゾルゲも1941年の8月、逮捕のわずか2か月前に軽井沢を訪問しています。
別タイトルの『ドイツ人音楽家エタ・ハーリッヒ=シュナイダーが見たリヒャルト・ソルゲ 』の中で詳細を書きました。そちらを参照ください。こちら
(2017年12月13日 追加)



会堂>


大人数を擁するドイツ人社会は、集会場も持っていたという。
「駅裏のテニスコートの近くに“軽井沢ホール”と呼ばれるドイツ人の集会所ができ、やはり疎開してきたドイツ人教師によってドイツ人学校も開設された。生徒数は100人足らず、横浜の同級生がほとんど集まっていた。」(ズザンナ)
”駅裏”の”駅”とは今はない草軽軽便鉄道の旧軽井沢駅を指しているはすである。

「ドイツ人の教員は皆“ナチス教員連盟”に所属せねばならなかった。年に一回全員が集まり語り合う機会が、軽井沢で持たれた」場所は軽井沢ホールであろうか?

音楽家エタ・ハーリッヒ・シュナイダーは1941年の集会に出席した際に、エヴェルスマイヤー、ゼッケル博士、シュバルベ博士、カーロウ博士と知り合ったと書いている。
調べたところエヴェルスマイヤーは1941年まで四国の大学で教え、終戦までは京都のドイツ研究機関の管理責任者であった。ゼッケル博士は広島在住だったので旧制広島文理大学でドイツ語を教えていたのであろう。カーロウは高松の高等学校でドイツ語他を教えていた。シュバルベは外交官であったようだが、おそらく思想統制の目的で全国からドイツ人教育者が集まった(集められた)ことが分かる。

また「時々ドイツ人会で上映される娯楽映画と抱き合わせたニュース映画が、祖国の戦況を知るほとんど唯一の手がかりであった。」と普通のドイツ人の情報源を書くが、映画も軽井沢ホールで上映されたのであろう。

この”軽井沢ホール”とは1922年、日本人有志によって建設された軽井沢集会堂であろう。よってドイツ人専用ではない。設計は帰化人ヴォーリズ(後述)である。戦前は音楽会、講演会なども頻繁に行われた。

先述の1937年の「ドイツ大観」によると、軽井沢1411番に「ドイツ人保養所」(Deutsches Erholunhsheim)が存在していた。テニスコートから少し離れるので軽井沢ホールとは別である。

なお、東京大学名誉教授原寛の証言によれば、集会場は1945年3月以降は、本来の目的で使用できなくなる。
「1944年、私が勤務中の東京大学理学部植物教室でも、創立以来集めた基調な研究資料の疎開が考え始められた。そこで軽井沢の集会堂を借用することにした。世界的に貴重な標本や図書を選び出し、最小限にまとめても、貨車数量分になった。

1945年3月、集会場のホール一面に並べ中二階まで一杯になった。軽井沢町の役場に東京大学の分室として登録された。時々東京に行く用があったが、普通に切符を買うのは難しく、軽井沢・上野間の定期券を買って毎週東京に出張した。」

旧朝吹山荘内説明パネルより (筆者撮影)



<外国人の学校>


ドイツ人学校については西村クワも書いている。
「ドイツ人の子供のためにはヒトラー・ユーゲント的なドイツ学校があったが、英語を話すような寺子屋のような小学校も、家(西村家の別荘)のすぐ近くでスペイン人の尼さんたちが、開いていた。スペインなまりの英語であったが、小学生のいる親にとっては、ないよりましであったろう。」

読売新聞からである。
「1944年11月4日 ドイツ人フランク氏所有のドイツ人学校勝手口から発火。2階建て学舎兼居宅一棟を全焼」
教育者フランク氏の別荘が、ドイツ人学校になっていたようだ。

次のはクワが書くのとは別の外国人向けの教室か?
「こうした苦しい日常の一方で、子供たちのための教室も開かれた。軽井沢に疎開していたアルメニア人のアガジャン家の息子アルフレッド38歳とジョージ26歳の2人が教師を務めた。共に横浜セント・ジョゼフ校の出身である。」(アプカー)



<日本人の学校>

次は日本人向けの学校である。まず女学生は汽車での通学となった。
「小諸高女のクラスメートの約半数は東京から疎開してきた少女たちで、両親は軽井沢、沓掛、追分に別荘を持つ東京のリベラルな階層の人たちであった。その中には芹沢光治、反骨のジャーナリスト清沢洌の娘や、高木子爵の次女(長女は三笠宮妃)が含まれた。」

清沢は『暗黒日記』に書いている。
「1945年5月2日
英子の転校について軽井沢女学校に赴く。妻が何回となく足を運んでも解決せず。結局、内務部長に、小諸女学校に転校したき旨請願せよ、と言われる。」

石橋多摩子は創業者石橋正二郎の4女であった。1945年3月10日の東京大空襲の後、軽井沢に疎開し、東京府立第三高女から小諸高女に移った。勤労奉仕でしばらく工場で働くが、疎開者が増えると人が余った。次は千曲川に素足で入り、砂利を採取する作業の毎日を送った。

石橋多摩子と西村クワは数年後にアメリカに留学し、そこで出会うがそれが初対面であった。女学生と勤労者ではほぼ同年代でも交友範囲が違ったようだ。

小説家円地文子は長女素子と終戦一か月前に軽井沢に再疎開する。素子も
「学校を休んでばかりいられないので、小諸の県立女学校に編入させられた。」と書く。

演出家、浅利慶太は良い思い出がない。
「祖父は新しがり屋だったらしく、大正の初め、宣教師たちが避暑地という発想を日本に持ち込んだとき、旧軽井沢に家を建てた。そこは13室あって親類中が集まれた。
戦前はそうして(優雅に)過ごした。そして戦争、疎開である。永田町小学校で開戦を迎え、1944年に軽井沢小学校に通うようになった。学校までの3.7キロの道の想い出は鮮明だ。激しいイジメもあった。」と昔もいじめがあった事が分かる。(2018年7月13日死亡)

学童疎開では日本女子付属高校、暁星初等学校、啓明学園などが軽井沢にやってくる。日本女子付属高校では主に付属豊明小学校の児童が1944年8月より、三泉寮で集団生活を送る。

同大学生の軽井沢疎開は1945年6月ごろ始まる。学生はそれまで都心近郊の工場に動員されていたが、多くが空襲で操業が止まり、工場の人員が余剰となる。残ったのは長野県での農業の援助であった。当時の先生が空襲で被害のあった生徒に送った手紙に、その様子を知ることが出来る。

7月4日付けの 菅先生からの手紙
「クラスの大多数は去る6月10日、少し遅れた人は15日頃軽井沢三泉寮へ行き、大部分の人は農耕や、(農民の子供のための)託児所を開いて、増産に従事しています。」
「実は2,3日前文部省よりお達しあり、罹災者もこれ以上の長期欠席や休学は許されぬこと、もしこれ以上長引く場合は退学とすること、退学の場合は直ちにその地区の義勇隊員として編入する事など申して参りました。」(「戦いの中の青春」より)

「全国初の疎開者ばかりの村が出現し分校が作られた。」と朝日新聞は報じている。
「軽井沢町千ヶ滝、星野温泉両別荘地約1000戸の解放を機に、80戸の疎開家族ばかりで新千ヶ滝村を建設。学校も軽井沢第一国民校千ヶ滝分教場と改め、50余名の入学開校式が行われた。」

また八丈島から1800名の島民が疎開してくる。1800名もの人が、狭い軽井沢のどこでどう暮らしたのか?その答えは次の回想にあった。
「今は72ゴルフコースになっている押立山の麓に八丈島の人が集団疎開していたが、その方々の好意でホルスタイン牛一頭をいただいて、毎日牛乳を友人たちに配給していた。」(古澤洽一、祖父は鳩山一郎)
”72ゴルフコース”はコースの名前で、JRの駅の旧軽井沢とは反対側にある。
「山に囲まれた軽井沢の青空教室で、棒を使って校庭の土で算数の勉強をした」とか、「八丈島のやんちゃ坊主達は地元の子供たちから”南洋猿”とからかわれ、悔しい思いをした」という個人の証言がある。
(戦後70年特別企画 アーサー・ビナード『探しています』より)



<山羊>

軽井沢の生活に山羊は大変重宝したようだ。
「アプカー夫人のアラセは牛乳の配達が停止されることを想定して、既に横浜で雌山羊を飼っていたが、この山羊を軽井沢に連れていき、スイス人が飼っていた雄の山羊を借りて仔山羊の誕生も実現させた。山羊の乳は子供たちの貴重な栄養源となっただけでなく、横浜で購入した凝乳酵素を使ってチーズ作りもできた。」

「彼(夫東郷文彦)に栄養をとってもらうために、私は山羊を飼うことにした。以前から親しくしていた地元の人に頼んで山羊を一頭譲ってもらった。日常の暮らしは不自由が日増しに募っていくようだったが、軽井沢の森や草原は美しかった。」(東郷いせ)

「空襲がないので、もんぺもはかず、防空壕もない別天地だったが、広い庭を畑にしても、8月にならないと何も取れないため、食事には苦労した。庭ではヤギを飼ってその乳を飲んでいた。」(鹿島卯女)
卯女の三女である三枝子は
「私は母の言いつけで、山羊のミルクを双子ちゃんのミルクの足しにと、(東郷いせさんに)お届けしたものである。」と母とは別の個所で語る。

「兄の久ちゃん(西村久二)の友達のイアン(母親がイギリス人エセルで父親は陸奥廣吉伯爵)、もう一人は母親がベルギー人で詩人・堀口大学の異母妹のエーバという愉快なオバチャンの3人で南軽井沢に農場を買った。そこで牛や鶏の世話をして絞ったミルク、それで作った手製のバターやチーズ、卵などが食べられたので、私たちもお手伝いをした。」(西村クワ)
ここでは国際結婚の子息が多くいたことがわかる。またエーバは堀口九萬一長女マブロヂ岩子か?

1945年7月29日には外務省政務局より農商省農政局長に宛てて
軽井沢のスイス公使館より、同地在住スイス人のために、29頭の山羊を飼育したいとの要望あり。他の外国人の間でも同様に山羊飼育希望が相当あるので、とりあえず50頭入手する手配をしてほしい」という要望書が出された。
これはその直後の終戦で実現しなかったであろう。



<万平ホテル 1>


ドイツ語教師ヘルムート・ヤンセンが住居とし、今も軽井沢を代表するホテルの一つである万平ホテルは、1894年佐藤万平によって「亀屋ホテル」としてスタートする。特に外国人に好まれた。西洋的な生活を可能にしたからである。従って戦前からいろいろ登場する。
1938年8月23日から28日までヒトラー・ユーゲント一行30人が軽井沢に滞在して、セミナーを開いた。その宿舎に万平ホテルが選ばれる。「軽井沢全町をナチス一色に染め上げた」と朝日新聞は特派員を送り伝える。

1941年夏の信濃毎日新聞は
「米国が在米日本資産を凍結し、日本への石油の全面禁止を行い、日米間が非常に緊迫していた時代にグルー大使は万平ホテルの3室を借り切って、豪華な夏を過ごしていたのである。」と伝えた。グルー大使も軽井沢の常連だったようだ。皮肉めいた書き方は開戦直前の反米の機運を反映している。

この頃、松岡洋右前外務大臣も軽井沢を訪問している。
1941年8月16日松岡全外相一家は千ガ滝グリーンホテルに一泊し17日(自分の)別荘に移った。病身の松岡には主治医と看護婦2名も同伴していた。(読売新聞)去る7月16日、近衛内閣総辞職で外相を辞任したばかりであった。
(2017年8月30日追加)

1943年5月28日付け読売新聞には
「本日より開業仕候」という短い広告が載っている。この頃より毎年営業を始めたのであろう。



<万平ホテル 2>

1944年6月を迎えると万平ホテルの宿泊名簿にはソ連人の名前が急激に増えていく。ほとんどが1泊2日。次いでスイス公使館、中華民国大使館の関係者が多いが、外交官は週末に東京と往復した。

1944年夏、ソ連大使館員が疎開してくる。料理人ソ連人コックの指示で料理を作る。
同年11月29日、箱根の強羅ホテルがソ連大使館に借り上げられ、ソ連人はそちらに移る。
1944年から45年にかけての記録は、ホテルでは資料が散逸し、宿泊帳も1945年になると空白であるという。続日本ホテル略史によると「1944年8月1日、ドイツ人協会に賃貸のため一般営業を休止す。」とある。
(『万平ホテル物語 軽井沢と共に100年』より)

一方読売新聞1944年8月4日付けには
「万平ホテル 目下営業中」という広告が掲載されている。実際はこの時も、一部の部屋はまだ日本人への提供が可能であったようだ。

ズザンナさんの証言では1944年9月には、バタビアからの引き揚げドイツ人婦女子が万平ホテルに集団疎開してくる。暑い国から身一つで引き揚げてきた人たちは冬服もなく、先住者は生活用品を持ち寄って助けたという。ドイツとソ連は欧州では死闘を展開中である。毎日敵国同士が同じホテルで顔を合わせるのは、気分の良いものではないはずである。よってまずソ連大使館が出て、そこにドイツ人婦女子が入ったのではなかろうか?

またソ連大使館は夏に来て11月には箱根に行くという、軽井沢は非常に短い滞在であるが、先述のズザンナさんは、ソ連大使館が来たのは前年1943年夏と書いている。

蘭印(オランダ領東インド)で収容され、日本にやって来たドイツ婦女子は400名であった。この内何人が軽井沢に来て、万平ホテルに入ったのであろうか?彼女らはひっそりと暮らしたようだ。
「小さいときからよくアイスクリームを食べたり、雨の日にピンポンをしに行っていた万平ホテルも、門を堅く閉ざしてひっそりしていた。南方アジアや中国から連れられて来た西洋人の婦女子が軟禁されていたようだ。」(西村クワ)

終戦時期はホテルに記録はないが、見てきたようにドイツ人が多く入っていたので、ドイツ人協会に貸したと言うのが本当のところであろう。スイス人主体の赤十字国際委員もここに事務所を置いた。

万平ホテル入り口(筆者撮影)


<警察がとらえたソ連人>

いろいろな書き方をされているソ連大使館の動きについて、警察の記録である『外事日報』から詳しく知ることが出来る。

「大使及び参事官家族を除く33名は(1944年)5月30日軽井沢に疎開。海軍武官室員2家族は貸別荘に居住し、他は万平ホテルに居住。」
疎開はやはり5月末に始まった。

「大使マリクは未だ帰任せず。館員および通商代表部員家族9名は8月4日、軽井沢へ第3次疎開を実施せり。」
それから8月にかけて3次の疎開となった。ただしマリク大使は6月から休暇で本国に戻っているので、軽井沢に疎開してはいない。

「8月4日、ソ連大使館自動車から降りた3名がドイツ人を称して農夫に近づき、子供にパンを与え、馬鈴薯を購入の上、立ち去れり。」
日本の警察のソ連人監視の様子が分かる。

「8月7日、南軽井沢3008の別荘に侵入し、酒を探し出して飲むものあり。犯人はユーリー・マリク(大使子息)及びユーリー・スーズダレフなりとの意外なる陳述。」
ソ連大使の息子に少しやんちゃな行動があった。

「軽井沢万平ホテルに止宿中の疎開家族は、気温の急激なる低下に伴う同ホテルの暖房設備の不備、及び食事の粗悪を理由とし、9月末限りにて東京に引き揚げる旨外務省に通告せり。」
疎開早々、軽井沢からの引き揚げを言い出したのはソ連側であった。その理由が防寒設備の不備と、寒さに強いはずのロシア人が言うのは、少し滑稽な印象である。
(2017年3月26日追加)




<蘭印からのドイツ婦女子>


1941年7月31日の読売新聞からである。

「蘭印やアメリカなどから引き揚げできたドイツ人婦女子慰安のため、枢軸国親善オリンピック大会を8月10日、軽井沢の国民校庭で挙行、夜は三国の戦没勇士慰安の灯籠流しや花火大会も催す。」

400名ほどの蘭印からの引き揚げ婦女子は、日本各地に振り当てられたが、軽井沢にも滞在することになった。
彼女らの存在はかなり広く知られていたようだ。野上弥生子は北軽井沢で野菜の栽培を行っていた。
「(草軽線の)駅まで出て用を足して帰りに帰りかけていると、後ろから知らない声がへんな調子で呼びかけられた。
”オバサン、ナニカアリマセンカ?”
びっくりして振りむいたら、色の褪せた、更紗の花模様のワンピースを着たドイツ女が2人、日焼けした真っ赤な顔で、それよりも焦げた太い腕に買い物かごを通して、立っていた。あまり風体のよくないところ、蘭印あたりの引き揚げ仲間であろうか。

どちらにしろ、彼女らが日本に来て、オハヨ、アリガト、サヨナラの言葉に次いでいち早く覚えたのは”ナニカ、アリマセンカ”の問いかと思うと、私たちの現実を何よりも適確に示しているような気がした。」

また同じく野上の「迷路」には次のようにも書かれている。
「ことに蘭領インドからの枢軸系人の遁(に)げこみで、アクセントの強いドイツ語が、いままでの英語に代ってパン屋に、肉屋に、八百屋に、雑貨屋に反響した。」彼女らのドイツ語は、本国で話される標準ドイツ語とは少し異なった様だ。


軽井沢高原文庫に保存されている野上の書斎「鬼女山房」。筆者撮影(2018年6月)



<ヨーゼフ・ローゼンストック>

ローゼンストックはポーランド生まれのユダヤ人で、ドイツで活躍し1936年に新響(今のHNK交響楽団)の指揮者となる。1938年ヒトラーがオーストリアを併合、彼は市民権を失い、無国籍となる。オーストリアのパスポートを持っていたのであろう。

1944年2月18日の第253回定期を最後に活動休止に追い込まれ、目黒にあった指揮者用宿舎を引き払って、やがて日本在住の敵性でない他の外国人らとともに軽井沢に移り住む。生徒の一人黒田睦子(よしこ)の両親が、軽井沢に持っていた別荘の一軒を、はなはだ気前よく使わせてくれた。

私と昵懇な芸術家達(シロタ一家のよう)、ブレスネル、ウィッテンベルク両博士のような優秀な医者、それに何人かの白系ロシア人もいた。私はベルギー人モイセーエフ一家と知り合い、長い交友関係を結べたことを貴重なものに思った。
「ウィッテンベルク」は医者の項目で紹介する。モイセーエフは不明である。

ドイツから来日したポーランド人のヴァイオリニスト、ウィリー・フライ夫妻が、訳の分からぬ理由で山中湖退去を命ぜられたことを耳にした。家主の同意を得て、私はフライ夫妻に、私の家へ来ないかと申し出た。部屋に余裕があったからである。夫妻は喜んでそれに応じ、やがて引っ越してきた。



<マンフレート・グルリット>


オペラの作曲家で指揮者の彼はグルリットはユダヤ人であったが、ドイツでナチスに入党した。それ故に非難する声もあるようだ。よって日本でも他のドイツ人同様に、ドイツ大使館から食料の配給を受けることができた。
そして早くから軽井沢に疎開し、週に2、3日だけ東京に出てきて、一応音楽的義務を果たしているような生活を送った。週末だけ軽井沢に来るドイツ人もいれば、彼のように逆の生活を送るような、恵まれたドイツ人がいた。シュナイダーに対して「出来ることなら軽井沢で百姓になりたい。東京では皆が餓死する。」と冷たい声で語った。
(2017年12月24日追加)



<テオドール シュテルンベルク(法学博士 東京帝大教師)>


1913年、東京帝国大学法学部の招聘で来日したシュテルンベルクはユダヤ人であった。ナチ政権誕生後は日本で亡命生活を送ることになる。彼は来日間もないころ、軽井沢に別荘を買った。
「東大や慶応に出講していた時期は潮風の辻堂にいたが、夏は軽井沢に来て、万平ホテル傍の丘の上のロマンティックな家に独居していた。晩年は常住していた。」(『軽井沢高原通信 第21号』より)
ナチスの時代は軽井沢でもドイツ人とは付き合わずに、ひっそりと暮らしたようだ。
(2018年3月10日追加)



<無国籍者>

ナチ政権とは距離をおくもの、もしくはユダヤ人であるが故に国籍を剥奪された者も軽井沢にはいた。その数は4〜50人であったとローゼンストックは語る。彼らは普通の外国人よりは厳しい生活をおくった。

「一般のドイツ人は安楽に、比較的贅沢な暮らしをしていた。ドイツ大使館が、自国の潜水艦がたまに入港した時に持ってきた戦利品を、彼らに運んでくれたのである。私は東京からやって来たドイツのパン屋のトラックが、ドイツ人の居住者たちに、新鮮な日用の食糧を配達している所を目にした。でも、我々には何も売ってくれなかった。我々はドイツ人集団とは一切没交渉であった。」

彼らは軽井沢でも不安の中で暮らした。
「我々の志気にもっと悪い影響を及ぼしたものは、我々追放者たちが毎日、そして毎夜、感じていた身の不安であった。
警察の調査は日増しに厳しくなっていった。ほんのちょっと容疑がかかっても、また敵意のある隣人の底意地悪いあやふやな告げ口があっても逮捕された。
だが、軽井沢の住人は概していつでも友好的であるか、少なくとも外国人に対しては無関心であったことを強調しておきたい。」

無国籍者ゆえ、捨て鉢になった人もいたようだ。
「友人の中には一種の”収容所内精神病”的奇妙な兆候が見られた。彼らが興味を持つことは食べ物と一日中ぶっ通しでトランプをやることだけ。これには断固引きずり込まれなかった。」



<フランス人 ロベール・ギラン>


ロベール・ギランはフランスのアヴァス通信社の日本特派員であった。日本とは微妙な交戦関係のフランスであったが、フランス人の強制移住の指令は3月下旬だった。ギランは4月中旬とうとう軽井沢に来る。荷物は背負える物しか、持って行けなかった。残してきた荷物はすべて空襲で燃えてしまった。

軽井沢ではフランス人は、家族で、あるいは2,3人の独身者がまとまって個人家屋に入った。境界が設けられそこを越えることは禁じられ、憲兵がパトロールしていた。これは中立国人より厳しいものだった。



ール・ジャクレー (フランス人、版画家、浮世絵師)>


1899年3歳の時に、お雇い外国人の息子として来日したジャックレーは、油絵及び日本画を学ぶ。
戦時中は万平ホテルの側の別荘に疎開していた。
フランスから戻った朝吹登水子が、開戦前に彼の別荘を訪ねている。そこでジャクレー(若禮という漢字名を持つ)は軽井沢の自然の中で、およそ軽井沢らしくない南洋の絵を描いていた。その後憲兵隊の目があり、戦時中は道ですれ違っても喋れない間柄となる。

スイス人女性のソフィー・ファーブルブラントは1944年2月に治安維持法違反で逮捕されるが、その際の容疑のひとつにジャックレー宅での会話があった。日本生まれのジャクレーも敵国人として厳しい監視下に置かれたのでは間違いない。

戦後は軽井沢に定住し、1958年発行の『岩波写真文庫 軽井沢』に、和服姿で絵筆を持つジャクレーが紹介されている。
(2018年7月13日追加)




<食料調達>


食糧難の時代、食糧の確保は疎開者の最大のテーマであった。
「食料の闇取引は禁じられていることは分かっていましたが、冬はそこまで来ているし、子供の健康を思うと、そうも言っていられませんでした。」
誰も金は受け取らない。一方コンビーフ缶は農家で新鮮な野菜や牛乳に換えてもらえた。洋服は交換物として喜ばれた。もらった側はそこから生地をとった。

「時々、ほかの買い出しの人と同じ道に行き合わせ、外国人同士だと声をかけあうこともありましたが、行き先を教えることはできませんでした。少しでも多く子供たちに持ち帰りたくて」とズザンナさんは正直に当時を語る。『軽井沢町誌』1983年には、ドイツ人が列車で買い出しに向かう軽井沢駅の写真が掲載されている。

外国人移住者たちへの食料の配給はあったが、彼らは常に空腹だった。そのような状況の中で、苦心して育てた野菜が盗まれることもあり、一家は交代で見張りをした。食料の配給に際して疑心暗鬼から人間関係にひびが入ることもあった。(アプカー)

ある日牛肉が入るというニュースに、フランス人たちは大喜びした。誰は何キロ、○○一家は何キロと配分を決めた。フランス人たちは、離れ山の麓の指定の場所に出向いた。真夜中の12時、約束した場所に農夫が連れてきたのは、何と生きた牛であった。
牛を自分らの手で殺した男たちはそのショックで牛肉は一口も食べられなかった。2週間は外出もせず大犯罪人のように身を隠したという。朝吹によればギランも参加したようだ。

アプカーは友人と二人で、日本人の農家から手に入れた牛一頭を自宅で殺し、当時厳禁とされていた屠殺を強行した。

食糧の確保に母は苦労しました。農場に行って、着物と交換にお米を譲り受けたり、牛がどこかで一頭殺されたと、伝わってくると、牛肉を分けてもらいに行ったりしていました。(緒方貞子)
これらの話は同じ一頭の牛について語っているのであろうか?

「物資が不足、食糧難といっても、東京に比べれば、軽井沢は極楽のようなものであった。」という室生朝子の言葉を最後に加えておく。



<短波ラジオ>


短波ラジオは海外の放送を聴くのに必要であったが、戦時下の日本では所有を禁じられた。しかし貴重な情報源とあって疎開者は多くが隠し持っていたようだ。ギランのフランス疎開者グループでは、原爆投下から終戦に向けた政治の急激な変化を、アメリカのラジオを聴いて知っていた。極東でおよそ50年暮らした元領事のガロワ老人が東京から持ち込んでいた。ギランらは憲兵に不意に襲われる危険を冒して、数人でサンフランシスコ放送を聴いていた。

先述のドイツ人外交官であるクラップフも軽井沢で短波ラジオを隠し持っていた。
「戦争中の受信状態は、現在よりもよほど良かった。どの国もプロパガンダを流すために、強力な短波放送局を備えていたからだ。ドイツから放送されてくるニュースを聴くのに何の問題もなかった。ドイツの戦争が終わったあとは、アメリカのニュースを聴いた。サンフランシスコ放送は、一番よく入ってきた。
フランス人グループもドイツ人グループも、サンフランシスコ放送から情報を得て、皆で共有していたようだ。
また外務省の軽井沢出張所は、認められて短波放送の受信機を置いていた。



<スイス人 カミーユ・ゴルジェ公使>


スイスは中立国故、日本とその敵国の間の仲介役として、外交官、赤十字国際委員等が、戦時中も日本に滞在したことはすでに書いた。またスイス小国で資源も乏しかったため、古くからビジネスマンは海外に出ており、日本およびその支配地には小国の割には民間のスイス人も多く滞在した。

ゴルジェは日本の外事警察の観察対象であった。次のような報告が残っている。
「公使ゴルジェは妻同伴で(1942年)7月7日以降、軽井沢別荘に避暑旅行中にして、同地に避暑中の各国公館員と、毎日の如く午餐会、晩餐会等を催し活発なる活動をなしつつあり。特に邦人関係として近衛公夫人に接近しておれるが、これに関しボーイの小野幸三郎は次の如く語れり。」
この小野のように外国公使館で働く日本人は、警察に行動を外逐一報告させられた。
「公使の別荘に寄食しているスイス人、ファーブル・グランドという初代公使の娘だとか言う女が、上層部の日本人との交際の機会を斡旋している。」と謎めいたスイス女性の名前が挙がっている。(『外事月報』より)

この女性は、ソフィー・ファーブルブラント(60歳)という名前で、先の証言で当局の監視対象になったのかは不明だが、1944年5月、治安維持法等違反で逮捕される。


1944年2月ごろ、ゴルジェは公使館の事務の一部を軽井沢へ移すことを計画し、徳川義親侯の別荘を借り受け、移転準備を始めた。「4,5月頃にはその一部を移転の見通し」と『外事月報』に載っている。そして8月ごろ、三笠ホテルの向かいの深山荘を公使館とする。

ゴルジェ公使は疎開で軽井沢に移り住んでからは、スイスの代表としてだけではなく、軽井沢全外交官の代表として、日本側と交渉にあたった。いわば疎開外国人の顔であった。

1945年6月、どこで手に入れたのか箱根のソ連大使館への配給リストをゴルジェは大久保公使に示した。5月の配給は外交官15名、一般館員74名に対し、米757キロ、ビール10ダースなど細かく書かれている。ソ連は日本にとって終戦の斡旋を期待できる唯一の大国であった。おそらく彼らは軽井沢の外交官より、配給も恵まれていたのであろう。

また6月8日 ゴルジェは本国に向けて、多数のスイス人が暮らす軽井沢が非爆撃地域に指定されるよう検討を願い出ている。疎開日本人は誰も軽井沢が爆撃を受けるとは考えていなかったようだが、ゴルジェはだいぶ神経質になっていたきらいがある。

様々な努力にも関わらず、疎開者からは強いクレームがゴルジェの元に入った。「中立国人には多く配給しろ」という主張もあった。戦後
「この事態の改善に公使館が如何に努力したかも知らないで、神経の疲れた彼ら(スイス人)の中には“他の総ての日本人と共に彼らが欠乏に苦しむのは、公使館の責任だ”とさえ非難する者が少なくなかった」と回想する。
辛い思い出が多く、終戦とともに早く日本を去りたいと思った公使であった。
(『三時代の日本』)



<スイス人 F.W.ビルフィンガー>


赤十字国際委員会の臨時代表であったビルフィンガーはジュノー博士、ストレーラー女史の2名が終戦の年の8月10日ごろ、日本に赴任し、軽井沢に来るとなって、住まいを探した。
そして「当方において、警察側と折衝しあるも中々困難につき、本省よりも一応内務省側にご依頼ありたし。」と外務省に協力を求めた。候補には次のような家があった。

「三笠ホテル近くの2472番地。外務省が勧めた物件です。しかし使節の目的にはあわない。洋間は一つだけでヒーターがない。水が出ない。またかなりの修理が必要 (屋根、窓)。加えて月800円の家賃は法外に高い。」

他に以下の様な物件があった。
900番地 目下デンマーク公使が住んでいるが7月初旬に日本を去る予定。
2043番地 目下空き家 後藤英一 日本車軸重役 名古屋。
1406番地 目下空き家 相撲協会の所有。 疎開していて連絡先不明。
1185番地 ティーデルマンの家。スイス公使が興味を持っていることを聞いています。
終戦間際でも意外と空き別荘があったことが分かる。

またビルフィンガーは赤十字国際委員メンバーとして、ふさわしくない行為があったとジュノーは戦後書いている。一方次は『軽井沢町誌』からである。
「1945年1月24日、疎開者ビルフィンガーから土屋源一町長宛に、礼状と小切手1000円が届けられた。
その文面には、来軽以来快く世話をしてもらったことに感謝し、戦争によって家長を失った子供たちのために使ってほしい旨、記されている。」
筆者のビルフィンガー評はまだ固まらない。



<スイス人 サリー・ワイル>


そして赤十字職員の中には日本に本格フレンチを伝えた伝説の料理人サリー・ワイルもいた。1944年3月27日付けで軽井沢警察署長に提出した「居住所届」には、軽井沢町720の住所が記されているという。
ただし料理人としてではなく、捕虜らへの購買担当として勤務したようだ。料理の腕を振るおうにも、食材が手に入らなかった。またこのときの仕事が元でからだを壊した。(「サリー・ワイル」神山典士より)

1944年8月現在、軽井沢事務所には6人の現地採用者が勤務していた。その内外国人はドイツ人女性が1名、白系ロシア女性が1名である。ただしその中に、サリー・ワイルの名前は載っていない。(東京、横浜事務所にも名前はない。)

また「別の種類の気晴らしは、スイス赤十字の事務所で働いている婦人から貰った可愛らしい真っ黒な猫だった。(ローゼンストック)」と、赤十字委員会に働く女性について語られている。


横浜のホテルニューグランドにはワイルのパネルが展示されている。(筆者撮影)



スイス籍 スタンヂ・サカエ(栄)>

彼女の夫はスイスの商社シーベルヘグナ―社、神戸支店のマネージャーであった。1942年の特高の調べでは夫は「在神戸スイス人間では隠然たる勢力を有せる人物、妻サカエは「英米的思想浸潤しおれり。」と書かれている。

夫が仕事(副領事も兼ねる)で神戸を離れられない中、サカエはほぼ戦時中を通じて軽井沢に留まった。『軽井沢町誌』に次のような証言をしている。

外国籍である故、隣組町の邪魔にあって、配給が受けられなかった。(外国人には専用の連合供給所があった)

スイス公使館の計らいで、神戸からイタリア人の捕虜が数名送られてきて、一人ずつそれぞれの別荘で世話係として働いた。
(捕虜とは1943年7月のムッソリーニ失脚後に設立された、ドイツの傀儡政権に従うのを拒否した、在日イタリア人であろう。)

戦争が終わったら飲もうと、大切にとっておいたフランス製の白ワインを、女中がコップ一杯の塩と交換してしまった。女中を叱ったが、「塩がなくては生きてゆけません」という一言に、なるほどとあきらめざるを得なかった。(住所は軽井沢1409)

夫ロベルト・スタンヂは1945年7月、軽井沢で大久保公使に阪神地区のスイス人の軽井沢への疎開の必要性を説いている。こちら参照
1958年発行の『岩波写真文庫 軽井沢』に「スイス名誉領事S氏。軽井沢には昭和11年(1936年)以来」と写真入りで紹介されているのは、スタンヂ氏であろう。

彼女が最初に軽井沢を訪問したのは、結婚前の1928年夏で、それから60年余り軽井沢で暮らした。今日、東京のスイス大使館を事務局にして「サカエ・シュトゥンツィ基金」が設けられている。




<イタリア人 マライーニ一家>

民俗学者フォスコ・マライーニは京都帝国大学のイタリア語の教師人っていた。その娘ダーチャは戦後小説家として活躍する。

一家は例年のように軽井沢で避暑をしていた。だがその年(1943年)は空気が変わっていた。一家が別荘に着くとすぐ特高が現れて、人の出入りを監視しだした。フィスコは英字新聞を書うことも禁じられて、モリオカさんが逮捕も覚悟で密かに買いに行ったという。
9月9日、つまりヨーロッパでイタリアと連合軍との間で休戦発表があった翌朝、警官が来
て「ヨーロッパの戦況により、一家には自宅監禁の命令が届くと思われるので、その時はすぐに京都に帰るように」
と告げられた。命令は翌日届き、一家は警官2名に付き添われて、汽車で京都に戻った。(『ダーチャと日本の強制収容所』より)

イタリアでは1943年9月、いったん失脚したムッソリーニがドイツの傀儡政権を樹立したが、この新政権への忠誠を拒否した在日イタリア人は、収容所に抑留された。マライ―ニも忠誠を拒否した一人であった。京都から軽井沢への避暑とは、戦時下の交通事情を考えるとかなり大変な移動だったのではないか。
(2017年5月6日追加)



フィンランド人 渡辺シーリ>

フィンランド人シーリ・ピッカネンが神学生の渡辺忠雄と結婚し、日本にやって来たのは1910年であった。戦前は西村伊作が創立した文化学院で音楽を教えた。

軽井沢の別荘は万平ホテルの裏山の方、桜の沢にあった。伊作の長女アヤは回想する。
「テニスコートの向かい側にはユニオン教会があり、日曜の礼拝以外にもよく集会があって、火曜の夜には音楽会があった。(中略)シーリ先生にフィンランドの歌を教えていただいて、合唱したこともある。」
これは戦時中も行われたかは不明である。戦中はシーリは外国人の手伝いなどをしたという。

渡辺家の別荘では牛一頭、豚一頭、鶏30羽ほど飼っていた。これは他の住人に比べるとかなり恵まれている。
1945年の早春の頃、ある雨の夜、豚が檻から逃げ出してしまって皆が騒ぎ出した。その時子供の暁雄が小屋から餌用のバケツを持って来て、小枝でトントンと叩いて先導すると、豚はトコトコとついて帰ってくれたので、一同大いに感心した。暁雄は指揮者ゆえ、心地良いリズムで叩いたのであろう。

夫の忠雄は1944年に別荘で、シーリは1950年に軽井沢病院(別名マンロー病院で第二部で説明)で亡くなった。
(『渡辺暁雄』木之下晃 写真 ; 船山隆, 渡辺信子他より)
(2017年6月10日追加)

軽井沢に4人のフィンランドの民間人が集まったことはニュースになった。読売新聞は1941年9月5日
「山荘にフィンランド人の喜び 今ぞ失地回復」
という見出しで、4人のフィンランド人がシーリの別荘に集まったことを報じている。シーリは「私はもう日本人だが」と断りつつも、ソ連との戦いで本国が独立を保った事を喜んだ。
(2017年8月30日追加)



<闇商人>


配給経済となると外国人の闇商人もいた。ギランは書いている。
「狭い範囲に閉じ込められたフランス人は周囲の田園に野草を取りに行く事も出来なかった。1日200グラムの黒パンと大豆の粥がすべてであった。当然闇市場で調達することになるが、闇業者は警察との関係の元、行っていた」という。また
「バターや肉、砂糖は闇市では白系ロシア人の専売物だったが、それもほとんど見当たらず、物々交換の際には驚くべき高い値段で取引された。」とも書く。

「外国人には外人配給という、食料品に限っての制度があり、我々に比べれば比較的豊かだった。彼らは日本円が必要になると、目立たないように、我々に売る人もあった。それらを扱うドイツ人の女と仲良くなり、砂糖、バター、小麦粉なども手に入るようになった。」と室生朝子は書く。
ここでは闇屋は白系ロシア人とドイツ人の2人だが、ロシア系ドイツ人の同一人物であったのかもしれない。またドイツ人はドイツ大使館からの配給も多かった。

ある日、野上弥生子が疎開仲間の家に呼ばれていたとき、洋服の男がつかつかとテラスまで近づいて来て、おかしなアクセントでいきなり言った。
「林檎買イマセンカ?」
「あんたどこの人?」と主人役の奥さんが聞くと
「トルコデス、トルコ人デス、奥サン」と答えた。さらにその闇商人は日本にはもう十数年いること、東京で焼け出された戦災者であること、同じ仲間が6人で軽井沢に家を持っていることなどを話した。
彼の笑う時のこけた頬に、深い同情を野上は感じた。トルコ人ではロイ・ジェームスを先に紹介した。

日本人では虎次郎という闇屋の男がいた。50歳ぐらいで独身であり、髪はいつもモジャモジャにからまっていて、服装も洋服とはいえない粗末なものを着ていた。虎次郎は時々貴重な食物を持って、台所口に現れるのである。ある夕方、山鳥、ウサギ、ムジナを一匹ずつ持ってきた。(室生朝子)



<泥棒>


物資欠乏の時代、治安はそれほど良くはなかったようだ。『暗黒日記』からである。
1944年5月14日
「千ガ滝」方面の別荘、12,3軒が荒らされた。その泥棒を捕まえるために警防団を繰り出して(犯人を)探している。
5月15日
「(ある別荘が泥棒に入られた。)中は一面取り散らして、シャツや布団や、その他目ぼしいものは、全部用をなさないまでにズタズタに切り散らしてある。普通の物取りではないことは明らかだ。」
思想犯的泥棒がいて、ブルジュアにたいする反感の行為があった。

8月2日
「晩に沓掛倉庫組合の総会あり。鮎沢氏の宅にて晩餐。組合員たる吉阪(俊蔵、商工組合中央金庫理事)蝋山、柳沢夫人等集まる。」
この倉庫組合とは、泥棒対策の一つとして軽井沢南原別荘グループの7名が、清沢の音頭で一口500円を出し合って設立されたものである。


食べ物が盗まれるというのは日常茶飯事であった。先述のスタンヂ・サカエの回想である。
「神戸にいる主人から名古屋コーチン8羽が送られてきたり、佐久からアンゴラうさぎを買ってきたりした。しかし鶏は何羽も盗まれたり、殺されたりしてしまった。」




<敵国人 アントン・グディングス>
 

神田外語学院の院長を務めた英国人アントン・グディングスは日本国籍も持っていたので、日本と英国は交戦状態であったが、抑留は免れた。本人の回想は興味深い。

「1945年になると東京への空襲も激しくなり、今度は早稲田大学が空襲を受けた。それで学校が閉鎖になってしまったのです。一方、新聞記者をしていた(日本人の)父は、英国人である母と結婚していたこともあり、憲兵に連行されました。父は外国語ができたから、インドネシアあたりの南方に捕虜収容所の所長として派遣されました。

父がいなくなると、母はスイス領事館に助けを求めました。当時は、英国の大使館がすでに引き揚げていて、スイス領事館が窓口だった。領事館は英国側と協議をしてくれて、毎月、お金と食べ物を支給してくれることになりました。東京にいると危険なので、軽井沢へ避難しました。1945年の春のことです。」また今は早稲田大学に1000人くらい留学生がいるが、当時は8人ほどでだけあったという。

グディングスは続けて書く。
「スイス領事館からは毎月、東京の事務所にお金と食べ物を取りに来るように言われていました。私は、夜になると貨物列車の連結部分にしがみついて、(軽井沢から)東京へ行きました。スパイ映画そのものです。外国人だから、切符が買えないんです。

東京に着くと、一面の焼け野原。運河には死体が浮いている。スイス領事館でお金をもらって、また夜になると貨物列車の連結部に乗って、軽井沢に戻りました。」

彼はなんと貨物列車に潜り込んで軽井沢と行き来した。顔つきは英国人であるから、貨物列車に潜んでいる所を見つかったら、即刻スパイ容疑で拘束されたであろう。

なお軽井沢にいるのに配給は東京という人は他にもいた。そうした外交官をやはりスイス公使館が代表して、外務省と調整する記録が残っている。



<クラウス・プリングスハイム2世>

彼の父は著名な指揮者クラウス・プリングスハイムで、文豪トーマス・マンは叔父に当たる。ユダヤ人でドイツ国籍をはく奪された2世は、スイス公使館に雇われた。スイス側の人道的配慮であろうか?下は彼の回想録からである。

「私は度々外交電報を(ゴルジェ)公使の避暑地(軽井沢)まで届けに行かされる。このお使いのついでに食料の買い出しが出来た。
軽井沢に行く度に農家を訪ねると、バター、ミルク、チーズ、砂糖、豚肉、牛肉、鶏肉、と金さえ払えば何でも手に入る。農家には何故か食料が必ず何処かに隠してある。」
それでも軽井沢は東京より食糧事情は良かった。




<列車 1>


グディングスが東京と往復した信越本線であるが、戦前の様子は次のようだ。
「2等車は現在のグリーン車で、一列車に一車両付き、扇風機が回り、窓には網戸が付いていた。子供が乗るには贅沢であるが、毎年知っている顔の家族が乗っていた。当時特急はなく、上野から軽井沢まで準急で4時間、鈍行で5時間を要した。」(室生朝子)

1943年軽井沢別荘案内図に付記された時刻表では、上野を8時半発の列車に乗ると軽井沢に11時59分に着く。3時間半の移動時間であったが、グディングスの利用した貨物列車は途中駅での停車時間も長く、それ以上の時間がかかったことは想像に難くない。

朝吹登水子は空襲に見舞われ、苦労した軽井沢行きを書いている。妊娠を知り、1944年11月、まず鎌倉へ疎開する。しかし相模湾には敵が上陸してくる危険を感じる。
1945年2月25日の軽井沢行きの切符が運良く手に入った。そこで軽井沢行きを決心したがラジオをつけると、艦隊機が数百機、帝都に向かって進行中、とアナウンサーが言っていた。しかし汽車の切符入手困難なときだったので、2月25日の切符をどうしても使用しなければ、その後いつ切符が手にはいるかわからなかった。

鎌倉から東京駅に近づくまでに数時間かかった。夜7時過ぎ、上野駅前の広場は一面真っ白の雪で、その向こうに飴ん棒のように曲がった電柱が幾本もメラメラ燃え、不思議とひとっ子一人いなかった。

長野行きは1時間後に出ると言うことで客車の中で待つことを許された。2時間ほどして動き出すが、大宮駅で「空襲警報発令、皆さん、待避して下さい」と駅員が叫んだ。お腹の子供を思い、意を決して駅長に頼み、駅長室で休ませてもらう。目が覚めたら朝になって雪もやんでいた。乗客たちは汽車に戻る。空襲警報の中、よくやく軽井沢に着く。
「軽井沢、軽井沢!緊張感と不安がほぐれて、私の両眼が、そして心が涙でいっぱいになった。」

1945年3月初め、先述のロシア人画家ブブロワ夫妻が軽井沢に向かう際、本郷が2人を目的地まで送っていくと申し出た。
本郷はギューギュー詰めの列車の中で2人を座らせてやり、そこに一緒に残ったが、これは禁じられていることだった。本郷を見つけた警官は「どうして車内に日本人がいるのか?」とどなりつけた。すると
「この人は中国人です」とうろたえもせず、ブブロワは答えたという。列車には外人専用の特別車両が付いていたことを想像させる。



<列車 2>

1945年3月10日の東京大空襲で軽井沢への疎開者が急増するが、長野県も援助を行う。3月13日
「長野から救護班急行。 県下の医師、看護婦数十名で救護班を編成、帝都に急行させた。長野をはじめ主要駅には日婦と翼壮が炊き出しを行い、11日県庁内に受け入れ本部を設け、軽井沢、諏訪両駅前に出張所を置き、罹災者の相談に応じる。」

午後Sさんが、親類の罹災者の名義でやっと汽車に乗れたとて来訪。焼け出されたものは無料で、東京から特別列車が出る。一般の乗客がそれに紛れ込むとの新聞記事があったが、Sさんでその実例を知った。
そんな方法にでもよらなければ、とうていここまでは辿りつけなかったとSさんは語る。(3月16日 野上弥生子)
大空襲の後、疎開用に特別列車が用意された。

外務省の軽井沢出張所の所長となった大久保利隆は4月29日、家族と共に昼過ぎに出発予定の直江津行きに上野駅で乗り込む。列車は東京から逃れようとする人で通路まであふれかえっていた。無事に軽井沢駅に着いたが、一家がホームに降りると、バラバラと5,6人の憲兵が姿を現したのは述べたとおりだ。

外務省は軽井沢と東京を移動する外交官のために4月6日から週1往復、列車に2等車(当時は1等は廃止)を一両、専用に連結した。
東京を発つのが毎週金曜日の12時50分、軽井沢を発つのが月曜日の8時22分であった。これで週末を家族のいる軽井沢で
過ごせるようにしたのであろう。文書には「日本人の職員は除く」とも書かれている。先述のロシア人のブブロアが利用したのはこの車両であったようだ。(資料提供:田川幸太さん)

ジャーナリスト清沢洌(きよさわ きよし)は『暗黒日記』に書いている。

4月24日
「”日本産業経済”の古田保君の世話にて、汽車切符、また堀(隣家)の長男(日大生)の奔走にて2等切符往復を手に入れる。2等切符の方はお礼に50円出す。

結局、明朝5時の汽車に乗るつもりで(可能ならば今夜乗るとして)、午後6時半家を出る。乗車客何れも、背負い切れぬ荷物を負い、それが3、4町の行列を作っている。中には箪笥を背負っているものあり。

臨時列車が午後10時15分に出るというので、それに乗る。乗ってみると二等車はガラあきで、三等も然り。(直江津行きではなく)長野行きであることも一因だが、駅員も、臨時列車のあることを(放送等で)注意せず。知らせないのであるこうした非効率、一方は乗り切れぬ死に生きの混雑、他の空列車の運輸は、鉄道省の不親切に原因する。」

もう切符は普通には手に入らないものであった。また鉄道省の非効率も目立ってきた。



第26トンネル>


横川駅を出た信越本線は軽井沢までの11.2キロの間に、26ものトンネルを抜けた。この26番目のトンネルは若者には思い出として残っている。

灼熱の東京を離れ、碓氷の最後の第26号トンネルを出た瞬間、突如全く別世界が広がる。ひんやりとした空気は唐松の樹脂の香りをふくみ、鼻から入ると頭の中を突き抜けるようである。(林友春)

帰りは軽井沢の最後のトンネルまで、後に残った人達が自転車で送りに行き、道々摘んだ野の花を汽車の窓に投げて、
「来年またね」とトンネルの別れをしたものだ。(平泉三枝子)

駅で友人を見送ると、大急ぎで改札を出て自転車に乗り、力一杯にペダルを踏み、トンネルに向かって走り出す。着いてほっと息をつくと間もなく、汽車は汽笛を鳴らしながらゆっくり現れてきた。ここで再び手を振り名残を惜しむのである。ある時は大学生が3人が土手を降り、客車の入り口に立っていた男にテニスのラケットを手渡した。(室生朝子)

「37人が語るわが心の軽井沢」には26と入り口横に白く書かれたトンネルに入る汽車の乗客によって写された写真が載っている。題名は「碓氷峠の最後のトンネル26番。東京に帰る友を送る若人たち。昭和10年代」である。



<帰化日本人 ウィリアム・ヴォーリズ>

ヴォーリズは建築設計家であるとともに、ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人として、メンソレータムを広く日本に普及させた実業家でもある。例えば朝吹家の別荘はヴォーリズの設計である。アメリカ人であるが、1941年に日本に帰化してからは、華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。

1942年6月に軽井沢の別荘に引っ越すが、そこには特高警察がしょっちゅうやってきた。妻満喜子はそれまで幼稚園経営をしていた体験から、軽井沢幼稚園、軽井沢保育園の園長を兼任する。戦争が激しくなると彼の家には10人が住んだ。満喜子さんは華族のお姫様だった人で買い出しなど行かないので、お手伝いの浦谷たまが一人でした。
(『失敗者の自叙伝』一柳満喜子より)


一柳夫人について清沢洌は次のように書いている。
1944年5月14日
露子さんの話。「三井高雄君が中学校と女学校を(軽井沢で)経営している。先生の方が多いという有様だから、大変な犠牲である。」
5月15日
「一柳夫人。三井君の学校をチャージしている。」ここでのチャージしているとは「引き受ける」の意味か?


ヴォーリズの設計した朝吹山荘。(筆者撮影)

一部完 

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