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日瑞関係トップ与謝野秀 │ストレーラー余話徳永太郎スイス国境コンタクト

マルガリータ・ストレーラー
赤十字国際委員ジュノー博士と
共に来日した女性



<序>

スイス人で赤十字国際委員のマルセル・ジュノー博士は1945年8月、日本代表として赴任して来る。そして終戦間もなくGHQと交渉し、広島に15トンもの医薬品を届けたことで、名前を知られている。アニメ映画「ジュノー」でその活躍をご覧になった方も多いであろう。

また本人が書いた「ドクター・ジュノーの戦い」は終戦当時の貴重な記録である。戦後間もない1947年に出版されており、記憶違いが起こる余地も少ないと思われる。本人は克明に日記もつけていた。しかし回想録ゆえ、彼の視点で見たものは、事実と若干ずれている部分、あえて避けた部分はある。本編では以下の3点に重点を置いて、彼らのを再度構成するものである。

1 ジュノーにはもう一人、スイス人の女性が一緒に日本を訪問している。マルガリータ・ストレーラー(Margherita Straehler)である。彼女は横浜生まれで、日本語を話した。ただしジュノーの通訳としてではなく、赤十字の一員として派遣された。女性でありながら過酷な旅行を行った彼女の行動は、賞賛に値する一方、ジュノーの陰でこれまで日の当たることもほとんどなかった。日本と縁のあるストレーラーは、横浜の外人墓地に眠っているが、まずは彼女の行動に光を当てる。

2 ジュノーの著書から読み取ることが出来ないポイントのひとつは、スイス内部の軋轢である。駐日スイス公使館と赤十字の駐日代表部は、どちらも人道支援を行ったとはいえ、あまり良い関係ではなかったことが史料から読みとれる。それも紹介する。

.戦時下のシベリア鉄道を使っての日欧間の渡航は、非常に厳しいものであった。限られた日本人がこのルートを使ったがその様子を、筆者は「戦時日欧横断記」として発表している。ふたりのスイス人も、ほぼこのルートを辿っているので、戦時日欧横断記のスイス人編として、来日までの行程を紹介する。

横浜山手外人人墓地 手前にMargherita Strähler1898-1961と書かれている。(筆者撮影)



<日本派遣までの経緯>


ジュノーは自身の日本派遣が決まる経緯に関し、極めて簡潔に書く。

「私は日本に行くため、ロシア横断の許可の申請をしていた。それは、前の年に死去した我々の派遣委員長ドクター・パラヴィチーニの後任をとして東京に赴くためであった。」と書き、「許可が下りるのに8か月かかった」と別の所で書くのみである。ここはもう少し詳しく見てみる。

日本の国際赤十字派遣委員長であったパラヴィチーニ博士は1942年2月、日本の開戦と共に代表に任じられるが、1944年1月、疎開先の鎌倉で急死する。以来、委員長席は空席であった。その後任選定に関し、当時スイスの日本公使館に勤務した与謝野秀書記官は自著「一外交官の思い出のヨーロッパ」の中で書いている。

「日本の代表が亡くなると、(本部が)その後任を送ろうとした時に、日本は言を左右にしてなかなか承諾しない。」と遅れの第一原因は日本側と書く。ここでは軍部を指していよう。

そして阪本瑞男(さかもとたまお)スイス公使が同年7月5日に病死する。葬式の済んだ後まもなくして代理公使与謝野は、国際赤十字の副総裁ブルクハート博士から正式な招待を受けた。

訪問した日の午餐会でブルクハートは「赤十字代表の日本派遣は決して日本に不利でない」ことや、「日本も少し赤十字を利用することが必要と思われる」と話した。これに対し与謝野は取り繕うように、
「何分にも余裕のない戦争なので、今日まで(スイス側に)満足を与えられなかったのは真に残念に思う」と答えた。

赤十字は与謝野に対し赤十字の必要性を説き、ようやくこの頃から派遣の交渉は、前に進み出した。
なお当時日本赤十字の副社長であった島津忠承は「日本軍の南方占領地域の収容所視察をやっとのことで日本政府から許可されて」と南方占領地域の捕虜収容所訪問許可を、2人の日本派遣の理由に挙げている。



<ストレーラー女史>


ジュネーヴの赤十字本部を訪問した与謝野はその際、各国の部の事務室を一巡する。赤十字では部門が、国ごとに分かれていた。そして日本の部では

「ストレーラー女史以下数名が、日本人の為に働いていた。日本の俘虜は数から言って少なかったが、在留民で収容所に抑留されているものは相当の数に上るのである。

赤十字では俘虜の外に、在外の邦人の情報も取り扱うので、ストレーラー女史を首班とする日本部が、数万という日本人のカードを整理して情報の交換に当たっていた。」と、ここにストレーラーが初めて登場する。

そして彼女自身について触れる。
「ストレーラー女史は日本に生まれ、幼児を日本で過ごしたばかりでなく、日本をたびたび訪れた婦人であるが、日本語を解する他の人の援助を得て、日本部を創設する傍ら、日本の俘虜情報局から日本語で来る、(米英兵等の)俘虜情報を英語に翻訳する仕事を担当していた。我々でさえローマ字の日本語の電報は判読に苦しむのであるから、これは大変な仕事である。」

ストレーラーが日本部を創設したのであった。1939年から赤十字国際委員会、俘虜中央情報局に勤務して、日本軍権内のアメリカ兵俘虜を対象とする部門の主任であった。しかし日本語で情報を送るとは、日本の俘虜情報局はなんとも傲慢な印象を与える。

またICRC(赤十字国際委員会)のウェッブサイトでは、1942年のストレーラー姿を見ることが出来る。こちらの写真の右の女性。

ストレーラーは1898年生まれで、父親フランツ・A・ストレーラーは横浜の貿易商であった。彼はドイツ系貿易商社ハイネマン商会(1889年ライマース商会に業務譲渡)に勤務した後、独立して同じく横浜にストレーラー商会を設立したという。

このストレーラー商会はあまり大きくはなかったのか、横浜の外国人居留地に関係する本には登場しないようだ。また父は1932年に死亡している。この時点まで、ストレーラーは日本をたびたび訪れたのであろうか?



<交渉>


次いでジュノーは日本への派遣交渉に関し、
「その時一番容易な渡航方法としてスイス、ニューヨーク、サン・フランシスコ、ウラジオストックという経路を取ろうとしたが、日本はこれを拒否した。
“敵領内(アメリカのこと)を通過した後、我が国に入ることは許されない。それは我が国政府の品位を汚す。”とベルンの公使(おそらく与謝野秀―筆者)が主張した。

そこで彼はもっとも“品位”のある経路を示した。すなわちカイロ、テヘラン、モスクワ、シベリア、満州であった。」
と皮肉っぽく書くが、来日経路が大きな問題になるのは興味深い。この交渉に関しても与謝野は書いている。

「代表の人選がなかなか決まらなかったが、その理由の一つは、バルカンの道が途絶えたために、米国経由が考えられる最も便利な道となったからである。米国からウラジオに渡れば何とか渡日の方法もありそうであったが、作戦上か何かの都合で日本はそれを承知しない。結局、赤十字ではイランまで飛行機で飛んで、シベリア経由で満州から渡日する案を採用した。」

1944年末、バルカン諸国がソ連軍に占領されると、スイスから陸路オーストリア、ブダペスト、トルコと、枢軸国と中立国のみを経由してソ連に入ることは不可能になった。そこからアメリカ経由の話が出たのであるが、それを日本軍部が拒否したと与謝野は語る。都合のよくないことは「作戦上の理由」で済まされたのであろう。ソ連船はアメリカから日本近海を通過し、ウラジオストックに着くことになる。

一方ジュノーの書く”品位ある経路“であるが、イランも1945年2月より日本とは交戦状態にあった。直接戦っているアメリカと、連合国に名前を連ねているだけのような国とでは、日本軍の反応が異なったのであろう。



<人選>


人選に関しても与謝野は語る。
「その後日本政府が赤十字代表の渡日に原則的に同意した後も、人選その他でなかなか話がまとまらなかったが、その間に戦争の様相は一変してきた。

そしてスポーツマンのジュノー博士とストレーラー女史が代表に選ばれた。ストレーラー女史は女性には到底難しいと思われる旅行を”自ら志願した“のであったが、しかも病気の後で衰弱していたので、我々はじめ友人たちは皆制止したのであるが、一度思い立ったら後へ退かないで、人道のため勇んで出発して行った。」

ジュノー博士はシベリア経由というルートが決まってから、選ばれたようだ。またストレーラーは、なんと自ら志願したのであった。彼女は1898年生まれでこの時47歳、決して若くはない年齢である。使命感に加え、懐かしい日本を訪問したいという気持ちも、強くあったのではなかろうか?

申請したソ連の通過ビザは冬中待ったが出ずに、1945年5月28日にようやく出た。ジュノーは8か月かかったと書くので、1944年10月ごろ、日本と渡航ルートなどが合意され、ソ連に申請したのであろう。戦時中、スイスとソ連は国交がなかったことが、交渉を難しくした一因であると思われる。



<駐日スエーデン公使バッゲの助言>


2人が日本に向けて旅立つ直前の1945年6月上旬、駐日スエーデン公使であったヴィダール・バッゲがスイスを訪問し、ジュノーとも懇談をした。バッゲはドイツ崩壊のタイミングで、シベリア経由で日本から帰国したばかりである。

そのようにまれな人物に日本の現状を聞くため、スイス外務省と赤十字は彼をスイスに呼んだようだ。ジュノーとの打ち合わせの具体的内容は不明であるが、バッゲはジュノーに対して、シベリア鉄道旅行に際しての注意も話したであろう。そこにはストレーラーも同席したであろう。

その後バッゲと打ち合わせを持った加瀬俊一公使は6月11日、バッゲは次のように述べたと本国に報告している。
「中立国のみならず、赤十字の取り扱いについても日本側が進んで、これを利用する態度に出てられんこと、希望に堪えず。自分(バッゲ)は“ジュノー”博士とも懇談したるが、同人は日本のためにも決して不利ならずとの印象を受けたり。」

バッゲはスイス公使館のみでなく、ジュノー博士は日本の為によく働いてくれそうなので、丁重に扱うようアドバイスした。日本側はジュノーの訪日を警戒していたのかもしれない。

ジュノーらが日本に向けジュネーヴを発ったのは、加瀬電が送られたのと同じ6月11日であった。



<スイス側の確執 1>


同じタイミングの6月22日、軽井沢に疎開していたカミーユ・ゴルジェ駐日公使から次のような抗議の電報が、ベルンの外務省に向けて打たれている。長文の中頃に

「ジュネーヴの(国際赤十字)委員会は、残念ながら、思い上がりではなく無知ゆえに、 英国代表と同じ意見のようである。そのため、新たに3名の代表を日本に派遣することに したらしい。

そのことを私に知らせてくれた国際赤十字の(駐日)代表は、妙な決定だと首をひねっていた。“ジュノーだけで十分なので、ストレーラーを派遣する必要はない”という電報を送ったばかりだからである。
彼らは、新たに派遣される3人の代表は暇を持て余すだろうと言っている。私(公使館)は、事務全般を任せられる有能でエネルギッシュな職員が 足りず困っているというのに。 」

冒頭の英国赤十字代表の意見とは、「日本のスイス公使館はしっかり英国の為に働いてくれないので、赤十字派遣団を増強しろ」という要望であったようだ。
これを聞いたゴルジェ公使は怒り、赤十字が新たに人を派遣することに反対している。またパラヴィチーニ死亡後の日本の臨時代表を務めていたのはビルフィンガー博士なので、彼の言葉であろうが
「新たに人を派遣することを妙な決定である」とゴルジェに漏らしたという。また名指しでストレーラーは派遣の必要なしと赤十字の本部に打ったという。

暇を持て余すというのもひどい話だ。受け入れる赤十字派遣団が増員を望んでいないのも不思議である。病み上がりにもかかわらず、自発的に過酷な旅に出ようとするストレーラーには、酷な話である。

先に紹介したように与謝野は「その後日本政府が赤十字代表の渡日に原則的に同意した後も、人選その他でなかなか話がまとまらなかった」と書いている。スイス側でも人事に関し、どろどろとした部分があったようだ。

また派遣人数を2人でなく、3人と言っているのは非常に気になるところである。一方ジュノーは全く書き残していない。しかし他にも3人目をほのめかす資料が出てくるので、後に紹介する。



<スイス側の確執 2>


もう少し同じ電報から紹介するとゴルジェは
「たとえばアングスト代表~彼は以前、私のもとで働いていた~のほうが、私より実行力があったなどという意見を(日本の)外務省が聞いたら、きっと一笑に付すだろう。すでに述べた通り、逆に私の方が国際赤十字代表団の力不足を心配していたのである。

我々が苦労するのは、あくまでも疑い深く強大な権力を持つ警察のせいであって、私と外務省の個人的な関係は極めて良好である。」と書く。

スイス公使館が困難な中で業務を遂行しているという矜持を示し、一方では赤十字日本派遣団に対する力不足に苦言を呈している。

与謝野にも、そうした不和は伝わっていたようだ。次のように書いている。
「スイスでは政府が中立国として外国の利益保護を担当しているほかに、特殊な国際機関として赤十字国際委員会が同様に人道のために働いているのである。
両者の任務は自ら判然としているものの、出先においては仕事が重複する場合もしばしば出来るので、自然と競争の地位に立つことも多く、同じスイス人でも公使館と赤十字代表が、時に反目するようなこともないでなはいと聞いた。」

スイスの外交官、赤十字の要員とも、高邁な使命感のみではなく、組織間の軋轢の中で働いていたようだ。

なおここに紹介したスイスの外交電報は『ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟』の著者高川邦子さんが、自著を書くために仏文から翻訳されたものである。快く提供いただいたことをここに感謝します。



<日本の特殊性>

日本の赤十字派遣団の仕事を難しくしたのは、当時の日本の特殊事情にも原因がありそうである。

ジュネーヴ条約(赤十字条約)に基づき、相互の国に捕らわれた捕虜の人道的ケアをするのは、本来赤十字の仕事である。よって日本および占領地帯の捕虜、抑留者に関して収容所を訪問し、慰問品を届けるのは赤十字日本派遣団の仕事となる。

しかし日本は外国に抑留者はいたが、日本軍の捕虜はいないという立場をとっていた。捕虜の対応などは原則相互主義である。日本は海外で赤十字に日本人捕虜を訪問してもらう必要はないから、日本国内の外国人捕虜も訪問させないというのが軍の主張であった。実際終戦までいくつかの捕虜収容所は、連合国側に存在すら全く知られてはいなかった。

赤十字が陸軍に何かを言っても聞く耳を持たなかった。一方スイス公使館と外務省の関係はかなり良好だったので、このルートを赤十字は使ったのであろう。

次に日本の赤十字派遣団のメンバーが、本部から派遣されたプロパーでないことも彼らの立場を難しくした。日本参戦後、日欧間の渡航が実質不可能になったので、日本に滞在するスイス人が任命された。開戦直後の1942年2月8日の朝日新聞は報じている。

「スイス国公使館嘱託 ドクトル・パラヴィチーニ氏は今度赤十字国際委員会在日代表に任命され、今後俘虜情報局および日本赤十字社俘虜救恤委員会と密接に連携し、俘虜や抑留外国人に関する情報交換と救恤事務に従事することになった。同氏は6日午前10時、陸軍省に植村俘虜情報局長官と三木医務局長を訪問、新任の挨拶を述べた。」

新任パラヴィチーニは横浜で医者をしており、第一次世界大戦時は収容所視察委員として活躍した。そしてその後は公使館の雇(嘱託医?)であった。また委員の一人アングストもゴルジェの下で働いていた。これでは公使館の影響は排除できないであろう。また赤十字の任務もどこまで認識されていたか?挨拶の訪問先が、陸軍省であるのも興味深い。

また次のようなメンバー個人としての弱さを示す例もある。1942年、赤十字委員会のマックス・ペスタロッチは横浜ヨットクラブの収容所を訪問するが、ペスタロッチはそこに収容された女性たちの存在を、ジュネーヴの中央捕虜情報局に届けなかった。
戦後それに対し非難があがった。ストレーラーが調査し
「日本の警察が赤十字の訪問は非公式なものであるとして、国際赤十字への報告を厳しく禁じたためと思われる。」と報告した。



<モスクワへ>


ジュノーの日本までの渡航に関する記述は、イランの首都テヘランから始まる。

1945年6月20日、2人はテヘラン近郊のアメリカ軍アミラバード・キャンプにいた。「6月の暑さはハエも死ぬ」と言われた暑さである。そこでストレーラーは赤十字の看護婦たちと同宿し、ジュノーは将校の兵舎に泊まった。ホテルすらなかったのであろう。

7月4日、テヘランからモスクワまでは飛行機で向かう。バクーを経由してモスクワに着く。ソ連側に調べられると面倒なことになりそうな赤十字関係の書類は、アメリカの外交郵便でモスクワまで送り、それを受け取りジュノーは早速日本大使館に向かった。そこで佐藤尚武大使に丁重に迎えられた。

日本では6月22日の御前会議で、ソ連に和平斡旋の依頼をすみやかに行うという決定がなされ、近衛文麿元首相を特使として送る動きが始まる直前である。その交渉の窓口である佐藤大使にとっては、大変な時期のジュノーとの会談であった。

会談で佐藤大使は「近いうちに日本に到着する旨の電報を打つ」と約束した。またアメリカの外交郵便で運んだ資料を、今度は日本の外交郵便で運ぶとも約束した。伝書使の荷物は相互に検査をしないのが、外交習慣であった。

ジュノーらが東に向かう同じタイミングに同じシベリア鉄道で、日本のクーリエ(伝書使)が運ぶことになった。経済学者で後の一橋大学名誉教授、都留重人は1945年3月から5月にかけてクーリエとしてモスクワとの間を往復している。ジュノーの書類を運ぶには若干早いタイミングであった。

また5月上旬にはシベリア鉄道の中で変死したクーリエもいた。ソ連側に謀殺されたと、当時の矢部忠太陸軍モスクワ駐在武官は書いている。危険も伴うソ連内の旅行であった。



<シベリア鉄道>


7月11日、モスクワに駐在するアメリカ赤十字の友人たちに送られ、ふたりはシベリアを横断する列車に乗る。用心のため、室内のすべてにDDTをかけた。積み込んだ荷物は370キロもあった。乗客があふれる列車であったが、寝台車には2つの個室が予約されていた。

モスクワを出発した件は、アメリカの新聞にも報じられている。
「戦争捕虜の輸送について日本と話し合う予定。また満州で捕虜となっているウェインライト将軍に会見する予定」と、ジュノー博士は記者に語った。さらに興味深いことに
「ジュノーの職員はモーリス博士とマルガレート・ストレーラー」となっている。
(原文は若干解釈不明な部分もある。The officials Marcell-Junod are Dr. Maurice and Marguerite Straehler. )

文中のモーリス博士はゴルジェ電に出て来る3人目として、遅れて日本に向かう予定だったのであろうか?

列車は極東地区の要衝イルクーツクを越え、チタには25時間遅れて着いたが、接続の列車はすでに出ていた。次の列車まで1週間待たねばならなかった。しかしそれまでのところ、心配していたソ連の満州侵攻はなかった。そうなると満州に入ることは不可能になってしまう

チタを発って24時間、「明日はオトポールに着きます。」と告げられる。オトポールはソ連の国境の駅であった。その先4キロに満州国の国境の町満州里があった。

最後2両になった車両の中には、彼らのほかに4人の乗客しかいなかった。日本の外交官2人(1人はベルリン、1人はパリから帰国するところであった。)それにソ連の外交郵便物係と満州里のソヴィエト領事であったという。

この2人の日本人の名前は特定できない。この時期まで欧州の日本人外交官が残っていたとは考えにくいのであるが、2名の日本人は筆者にとって今後の要調査項目である。

2人は7月29日 黒竜江省ハルピンに着く。当時の朝日新聞が8月4日付けで、報じている。
「赤十字社ジュノー博士ら日本へ。 駐日代表に新任のジュノー博士は、ストレーラー女史とともに赴任の途、去る29日ハルピン(哈爾浜)に着いた。同博士らは6日新京(今の長春)出発、日本に向かう予定。」



<満州>


1945年8月1日 満州国の首都である新京に着く。2人は毎日もてなしを受けたが、上村伸一公使夫人は1940年までロンドンにいたので、西洋のマナーを身につけていた。彼女は落ち着かない表情でストレーラーに言った。
「東京は変わり果てて見分けがつかないくらいです、マドモアゼル。私たちは何もかも失いました。家も思い出も。恐ろしいことです。」
彼女が日本育ちと知って発せられた言葉であろう。東京大空襲は3月10日のことであった。

8月4日 2人は新京から奉天(現在の瀋陽)に向かう。
ここでは開戦時に捕らわれて以来、行方のわからなかった英国軍のパーシヴァル将軍、先述のウェインライト将軍と、捕虜収容所で短い面会を果たす。面会には日本側から厳しい条件を突きつけられている。そして新京滞在中の6日には広島に原爆が落とされ、9日にはソ連軍が満州国に侵入し始めた。

当時満州の代表的企業である満州重工業の総裁高崎達之助が、2人の事について戦後書いている。

「たまたま奉天に出向いていた私は、新京への帰途、博士等と同じ列車に乗り合わせた。西安の付近に捕虜収容所があったが、そこにはパーシヴァル一行が捕らえられていた。ジュノー氏等はそこを訪問して、新京に立ち寄るところだった。

このときの案内役をしていたのが、外務省の宮崎章氏で、私は同氏の紹介で、博士と会う機会を得たが、特にソ連の動向に強い関心をいだいていた私は、是非博士から話を聞きたいと考え、この車中で、博士を新京の自宅に招きたい旨を述べた。

8月8日夕刻、博士を自宅に招いて、当時満州中央銀行総裁であった西山勉氏と夕食を共にしたのだが、そのとき博士は、ソ連はまるで博士等を敵国人視して、内部を一切見せてくれぬと、不満の面もちであったが、日本に対しては、あまり悪い批評も述べなかった。この夕食の際に、一発の恐るべき威力の爆弾が広島に投下されたという電信の話がでた。」
(「満州の終焉」より)

この8月8日について、ジュノーはこう書いている。
「我々は新京のヤマトホテルで、翌日発てるよう荷造りを終えた後、夜遅く床についた。一時頃ベルの音と廊下の騒ぎに突然目が覚めた。(中略)空襲警報だった。私はマルガリータを起こしに行き、一緒に地下に降りた。」



<東京着>


翌9日、警戒警報の中、それでも日本に向かう飛行機は飛び立った。最初に下りたのは富山であった。次いで東京に向かったが、空路はとても空いていた。その理由は、この日長崎に原爆が落ちたためと、後に知った。

こうしてふたりは終戦間際の日本に着くことができた。飛行機が下りた東京は、「幻のような荒涼たる灰色の風景であった。」とジュノーは回想する。

翌10日には日本はポツダム宣言受け入れの電報を、スイスとスエーデンの日本公使館に向けて打つ。2人は間違いなく、戦時下、欧州から最後の日本訪問者であった。



<日本側に残る史料>


日本の外交史料館にはジュノー来日に対する外務省の動きを記す文書が2つ残っている。まずは7月22日、赤十字派遣団から外務省宛の覚え書き(Note)である。原文は英語で、おおよそ以下の内容だ。

「1 2人の派遣員は8月4日に飛行機で着く予定です。配給の考慮を。
2 ジュネーヴから第3段の人の派遣も予定されている。
7月24日 I.R.C.C. 東京事務所」(英語略称はI.C.R.C.であるがこの文書では複数個所でI.R.C.C.となっている)

日本は厳しい配給制限の中、まずは2人の食糧の確保が重要であった。さらに人の派遣を考えているという話は、やはり3人目を想像させる。

また8月に入り、外務省内では次のような文章が出された。
「赤十字国際委員貝派遣“ジュノー”博士に便宜供与の件 儀典式長 
8月7日羽田飛行場に到着予定の“ジュノー”博士に対し、儀典課において左記便宜供与取り計られたし。

1.8月7日 到着の際、出迎え用自動車2台分燃料。
2.8月8日、9日の両日 各方面へ挨拶廻りをするにつき、自動車燃料1日5ガロンの割合にて10ガロンの供給。
3.次官招宴の際の宴会材料に対しても協力を」

実際の到着はこれより2日遅れたようだ。日本国中石油が払底する中、彼らの車のためのガソリンの確保も、外務省ではひと仕事であった。
またこの日本の一大事の時にも、外務次官(松本俊一)がふたりのために歓迎の宴も開こうとしたようだ。敗戦を意識した中で、外務省の赤十字に対する好意の表れ、先に紹介した加瀬スイス公使の電報の効果であろうか?



<軽井沢へ>


2人は翌8月10日の昼を東京で過ごすとその夕方、国際赤十字の同僚、アングスト、ビルフィンガー、ペスタロッチらと軽井沢に向かう。当時赤十字国際団の事務所は中立国外交官の疎開地である軽井沢にあり、東京鳥居坂にも事務所があった。次がジュノーの記す当時の軽井沢である。

「(東京から)車で5時間走ると、海抜1000メートルのすばらしい所に来たが、ほとんどの外交官はここを避難所にして、首都爆撃を逃れていた。

軽井沢には狭い通りがふたつしかなく、道に沿って木造の家が立ち並んでいたが、すべて商店の家屋であった。辺りには多数の別荘が樅の林の中に点在し、灌木をぬって小道が通じていた。

この別荘のひとつが我々のために取ってあった。(中略)ふたりのお手伝いさんがいて、ひとりはチエさんという小柄な、目の生き生きした日本人で、アマ(女中のこと)をしてくれ、もうひとりはリーさんという中国人の料理人で、大変おいしい食事を作ってくれた。」

当時の赤十字軽井沢事務所には、新たな2名を除き、外交官待遇の職員が3名、夫人2名、一般職員及び家族が11名いた。事務所は万平ホテルの一室であったという。そして職員の中には日本に本格フレンチを伝えた伝説の料理人サリー・ワイルもいた。ただし料理人としてではなく、捕虜らへの購買担当として勤務したようだ。(「サリー・ワイル」神山典士より)料理の腕を振るおうにも、食材が手に入らなかった。

事務所の一般職員に関して、スイスには知らされていなかったようだ。ジュノーは非スイス人の多さに驚く。ユダヤ人、無国籍者もいたという。
「スイス人を確保できない中で、協力者を得られたことは喜ばしい」と迎えたペスタロッチは説明した。この採用はまさに人道的見地からだったのではないか?1944年8月の時点であるが、軽井沢の事務所には6名の現地採用の職員がいた。日本人が4名で、後の一人はドイツ人女性(E. Schaetzchen)、さらにもう一人が白系ロシア人(A. Miller)であった。元横浜在住のアルメニア人、マイケル・アプカーも無国籍者として、勤務したという。先の6名以降の採用ということになる。

サリー・ワイルの住所は軽井沢720であったことが分かっているが、ここに赤十字関係者がみな暮らしたのか、それともジュノーとストレーラーのために一軒の別荘が、別荘も逼迫する中でも新たに手配されたのかは不明である。

万平ホテルの歴史を語る看板(筆者撮影)



<日本赤十字社、島津忠承の回想>

2人の日本到着から、軽井沢移動までの経緯について、日本赤十字の副社長(当時)の島津も書いている。これが一番事実に近いのではなかろうか。(2017年1月24日 追加)

(スイスを出発した後)満州にはいったという情報があったが、それから後の日程は不明だった。それが急に着京するという知らせで、(事務所の疎開先である)上諏訪にいた私はあわてて東京に帰ることにした。途中、下り列車が艦載機の攻撃をうけ、不通になってしまい、小仏峠を歩いて越えたりして、ようやく帰京した。これは8月5日、アメリカ軍機による高尾駅付近の湯の花トンネル列車銃撃事件の事を指していよう。

その夜から、日本航空の事務所の第一ホテルで両代表の到着を待った。9日、ソ連の対日宣戦で、代表の入京は非常に危ぶまれたが、夕方になって到着した陸軍機から、カーキ色の防暑服に赤十字のマークを付けた小柄のドクター・ジュノーと、同じ上衣にスカート姿のストレーラー女史が現れた。そしてその後麻布の宿舎にはいることが出来た。

翌朝両代表は本社を訪問してきたが、折悪しくB29の爆撃最中で、遠路はるばる訪ねてこられた代表たちとの会談は、中庭の防空壕の中で、ということになってしまった。両氏はその午後、軽井沢へ向かったが、上野駅からは列車が出ないので、大宮までトラックで送るありさまだった。




<終戦 活動開始>


そして軽井沢でふたりは日本の終戦を聞いた。
「軽井沢のふたつの通りには、回りの別荘に避難していたすべての外国人が集まって来て、この素晴らしいニュースについて語り合った。」
ジュノーはすぐにゴルジェ公使を訪問する。ゴルジェは語った。

「日本はまだ公式発表を行っていません。私は日本人をよく知っています。
彼らの反応は最後まで誰にも予想がつかないのです。」

「(革命が)ないとは限りません。日本に永く住んでいると、表向き冷静なこの国民の中に、どれ程激しい狂信性が潜んでいるか分かるのです。」

文章から判断して、これはポツダム宣言を受諾と発表した8月10日と玉音放送のあった15日の間であろう。これまで苦い経験をしてきたゴルジェは、あくまでも慎重であった。またジュノーはゴルジェについて、あまり好意的に書いていなと解釈するのは、筆者の先入観ゆえか?

終戦とともに赤十字のメンバーは東京に戻り、本格的な活動が始まる。その主な仕事は日本にある捕虜収容所を訪れ、暴動が起こる前に捕虜を無事連合軍に引き渡すことであった。しかし終戦後は日本軍も、従順に赤十字のメンバーを各収容所で迎えた。ジュノーは、働くには良いタイミングで日本に来たと言えるかもしれない。

メンバーは手分けして訪問するのだが、8月27日にストレーラーは横浜、戸塚の収容所を訪ねたという。また「ドクター・ジュノーの戦い」には、日本の連合捕虜局で写された写真に、ジュノーと共にストレーラーが写っている。これは赤十字国際委員のホームページにも「1945年8月」という補足コメントと共に掲載されている。

そして9月6日、6機の米軍機が厚木基地を飛び立つが、その中にジュノーがいた。冒頭の有名な被爆地広島の訪問である。この訪問に関し、ジュノーには日本人通訳がついた。彼の本には広島でのストレーラーの記述はない。ストレーラーはメンバーにいたのか?いたとすればどのような活動をしたのか?これからの調査項目である。



<ジュノー博士の報告書>


1945年11月9日と12月5日付けでジュノーは、スイスの本部に、それまでの活動の報告を行っている。大川四郎先生が翻訳して発表しているので、そこからストレーラーに関する部分を中心に紹介させていただき、筆者の見解を添える。

1 当駐日代表部は、日本政府及び日本赤十字社、更に各国外交官界隈に対しても、期待されていたような重みを持ち得なかった。
→1945年6月にゴルジェ公使が電報で報告したように、戦時下の活動は十分でなかったとジュノーも認めている。そして自分が着任後も「時の人」にもなったゴルジェを無視して、仕事は出来なかったと書いている。また代理代表であったビルフィンガーは問題の多い人間であったと。

2 この時(終戦直後)約1万名もの人々(敵性外国人、無国籍者ら)に救恤品を配給することになろうとは私は考えてもいませんでした。東京の事務所にいたストレーラー女史が際だった働きをしてくれました。
→ストレーラーはアメリカ人の運転するトラックに乗って、各地の収容所を回った。行動力があったようだ。

日本に本格フレンチを伝えた伝説の料理人サリー・ワイルはスイス人であった。戦時中は国際赤十字委員で働いた。そして彼はこの仕事を手伝ったようだ。
「戦争が終わると、8万人の捕虜の捕虜がいました。私は国際赤十字のジュノー医師の指示により、同盟国の民間人に対して食料を配給するという任務を負いました。」(『サリー・ワイル』神山典士)

3 私の右腕であるストレーラー女史は全力を尽くしてくれています。特に当初、英語について私を助けてくれました。日本に到着したばかりのころ、彼女の体調はややすぐれませんでしたが、今はほぼ快調に向かっています。
→英語力があることが分かり、またここでも病気について触れられている。

3 横浜刑務所に1名の代表を派遣してほしい旨の要請。戦争犯罪人の嫌疑をかけられ、当刑務所に収監されている2名の女性に接見してほしい。出来れば女性の代表と言うことでストレーラー女史を指名。
→山下ふ頭のヨットハーバーの横浜敵国人収容所か?旺文社の英語講師であったJ・B・ハリスは一時ここに収容された。

4 ストレーラー女史は私からの要請で、韓国に向けて明日ないしは明後日に出発する予定です。
→11月10日ころか? 韓国からの日本人の引き揚げの調整のためであった。

5 ストレーラー女史は、今後の進路については、私にまだ何も語り得ない状況にあります。しかし1945年12月11日以降は、理屈の上では赤十字国際委員会本部からの全任務から自分は解かれている、と女史は考えています。
→派遣の当初の日程が分かる。



<高松宮日記とジュノーの帰国>


同年7月21日に日本赤十字総裁に就任した高松宮は、戦後は活発に赤十字国際委員とも積極的に交流に務めている。そして「高松宮日記」に、ストレーラーが登場する。

「1 1945年10月25日 18時30分
国際赤十字代表招宴(ジュノー博士。ミス・ストレーラー 他)」
終戦後2か月のことである。文中に「ミス」と書くのでストレーラーはやはり独身であったようだ。そしてこの茶会に関してはジュノーも本国に宛てた報告で
「我々瑞米(スイス・アメリカ)両国の赤十字代表が、日赤名誉総裁である高松宮殿下の私邸での晩に招かれました。非常に盛会でした。」と記している。

「1946年4月10日 15時 ジュノー帰国につき茶会」
この日、日本側には赤十字関係者に加え与謝野、永田(大二郎)、という終戦時のスイス駐在外交官がメンバーに加わっている。
(永田に関し、高松宮日記の脚注では「永田安吉か」と書いている。)

以下の与謝野の回想はこの日のことを書いているのではと想像する。
「先だって東京でストレーラー女史と会ったら、いろいろ仕事の話をした上で、自分の生まれた横浜や東京がこんなに破壊されているのは、関東大震災の時を知っているだけに、それを思い出して悲痛になると述べた。

長途の旅行に白髪を増したように見えたにもかかわらず、スイスで見送った時よりも健康を快復しているのを嬉しく感じ、ジュネーヴやベルンの友人の話などで、遙かにスイスの空を偲んだのであった。」

ジュノーは翌1946年4月に帰国する。長い日本との交渉、2か月に及ぶ赴任旅行の割には8か月と、非常に短い日本滞在であった。本人は前年11月
「来年3月頃には帰国する事をお認めくださいますようにお願いします。英国に立ち寄り、妻とまだ見ぬ息子を伴って帰国したいのです。」と、早い帰国を希望している。

東京を発つ数日前の感謝祭の日の朝、マッカーサー将軍がGHQ本部のある第一生命ビルに国際赤十字団を招いた。そこにはストレーラーも含まれた。マッカーサーはいろいろと過去数年間に思いをめぐらせ
「世界中の人々の純粋な声を、もはや武力ではなく、精神の名において結集できるのはいったい誰なのか。」
一瞬の沈黙ののち
「おそらく赤十字かもしれない、、、」と語ったとジュノーは書く。

朝日新聞には
「1946年1月26日 ジュノー博士は25日午前10時半、宮中に参内、天皇陛下に謁見、来朝の敬意を表した。」と報じられている。こちらの謁見に関しては、ジュノーは自著で触れていない。

そしてジュノーが去った後の赤十字代表はストレーラーが務めることになる。先述のICRCのサイトでは、職場の光景およびビルから出るストレーラーの写真を見ることが出来る。職場には着物姿でタイプライターに向かう女性がいる。またビルの入り口には仲12館第6号の文字が見える。同じではないが、仲12館第5号は今は丸の内パークビルである。



<ストレーラーの帰国と再来日>


そして次も高松宮日記からである。
「1947年1月5日
8時 出門。新浜、鴨猟。アメリカ赤十字関係を招く。GHQ公衆衛生福祉局を宮内省として加えてほしいとのことにて。それと国際赤十字のストレーラー」(これがもともとの、帰国前に行きたいとのことで話の起こりだった。)」

帰国前の彼女が鴨猟を希望したのであった。また2月12日午後2時半、ストレーラは参内し、天皇、皇后両陛下に謁見した。(西日本新聞)
ジュノーが去って1年後にストレーラーも日本を離れる。しかし1948年にはユニセフ初代駐日代表として再訪日する。次の朝日新聞の記事にストレーラーの名前を見ることが出来る。

1949年10月28日、「ミルク・木綿を ストレーラー女史語る」。ユニセフ日本代表としてのストレーラーの記者会見であった。日本はまだミルクが欠乏していた。

この時のストレーラーについて「子供達の笑顔のためにユニセフと歩んだ50年」の中で、幾人かの証言を紹介している。

「(事務所は)東京駅近くのビルにあったのですが、途中から日本橋の国分ビルの5階に移りました。人数は5,6名。
スイス人のストレーラー女史と他に外国人の女性が2名。あとは日本人です。」

「本当は日本語が上手に話せる方なのですが、それを隠して視察して回られるんです。担当の方々が日本語で内緒話をしていてもしっかり分かっていらっしゃるんです。」
粉ミルクが子供たちに配られているかを、自身の目で厳しく見守った。

「ストレーラーさんは背の高い金髪の方で、私が緊張していたせいかもしれませんが、少し怖い感じの方に見えました。
視察そのものは、まるでテレビドラマで観る、大病院の院長回診みたいでしたよ。しかも金髪の女性がその先頭に立って、彼女の後ろを日本の男性たちがぞろぞろ続いていました。それまでの日本じゃ考えられない、すごく印象的な光景でしたね。」
日本では女性管理職がまだ珍しかったのであろう。

「1949年7月、ストレーラーというスイスのご婦人が日本にユニセフの代表として初めて、お出になって、日本の子供に必要な衣料、日本全国40万要保護世帯のお子さんの着るもの、下着から上着まで全部、男の子、女の子用にこしらえてくださいました。」

日本が貧しかった時代のストレーラーの活躍を、我々は忘れてはならない。

その後日本を離れるが赤十字国際委としてみたび来日する。これも朝日新聞は報じている。1959年9月10日
北朝鮮問題で日赤と協力のため、赤十字国際委から派遣されたマルガリータ・ストレーラー女史は9日夜8時15分、東京羽田着のパンアメリカン機で来日、宿舎帝国ホテルに入った。

これは2か月の短い任務だったようだ。そして赤十字国際委員会を離任後はアメリカに帰化するが、1961年にサンフランシスコで亡くなる。遺産から100万円ほどが日本赤十字社に寄付されたという。没後はその意志により、横浜山手の外人墓地にある父の墓に合葬された。



<ストレーラーの墓地>


2016年10月、横浜山手の外人墓地を筆者は訪ねた。見つけた場所は長らく人の手入れが入った様子がない。そして第一印象は「奇妙なお墓」であった。

冒頭の写真のように、大きな墓石には”May Ella“の碑銘があり、その下の小ぶりの墓石にFranz A.StraehlerとMarguerite Staehlerと父と娘の名前があるのである。手入れが入らないためであろう、背の低い植木が下の墓石を3分の1ほど覆うように茂っている。

親子は”May Ella”さんの墓所に間借りしているようであった。その後横浜外国人墓地の管理をされている樋口詩生さんの協力を得て、この人物の名前がMay Ella Straehlerであることが判明した。

風化で読みにくいが、墓石の下の部分)にはよく見ると以下のように書かれている。
“Beloved wife of Franz. Straehler.
Born at Marysville 12 November 1860.
Died at Yokohama 22 March 1920

フランツ・ストレーラーに愛された妻。
メアリーズビルで1860年11月12日に生まれる。
1920年11月22日 横浜で死亡 (筆者訳)

下の部分に上記文章が書かれている。(筆者撮影)

大きな墓石の下に眠るのは、彼女の母親であった。よってここにはストレーラーの両親と彼女自身の3名が埋葬されているのである。そしてMarysvilleはアメリカワシントン州の首都である。ストレーラーの母親はアメリカ人であった。それで離日後ストレーラーはアメリカに向かい、帰化した理由であろう。



<ストレーラー商会>

戦前日本(含む占領地)の外国企業の情報はジャパンタイムズ社の”Japan Directory”という年報から、かなり正確にとらえることが出来る。

ストレーラー商会について調べると、以下のようである。まず1923年版では
Strähler & Co 
F. Strähler
W.O. Strähler (New York)
C. Lips
Miss. F. Deimling
となっている。住所は横浜山下町94で、今の中華街の東門である朝陽門の近くである。

F. Strählerは父親フランツ・ストレーラーで責任者である。ストレーラーの名前にドイツ語文字のウムラウトäが用いられているのでドイツ系(スイスでは普通aeと表記する)であることは間違いないが、W.O. Strähler(兄弟)はニューヨークにいる。会社はアメリカとのつながりが強かったようだ。母親がアメリカ人であることも関係してこよう。

なお関東大震災が発生したのは、この1923年の9月1日である。ストレーラーは関東大震災のときを知っていると与謝野に語ったが、同じ月、もう横浜の生糸商は神戸に店を開いて、こちらから輸出を続けようとした。同年9月23日の大阪時事新報には

「生糸商の大頭株続々神戸入り」の見出しで
横浜東京にあった外国商館も続々と神戸に入り込んで、それぞれ看板を掲げたと述べ
「▲ストレーラー商会が明海ビルデングに▲シーベル・ヘグナー商会が伊藤町一〇七番へ▲ジャーデン・マゼソンが京町八三番へ▲横浜二十二番ウイルソンがオリエンタルホテルに」とストレーラー商会もその一つであることを語っている。後ろに続くシーベル・ヘグナー商会、ジャーデン・マゼソンは今日も続く商社である。

付け加えると関東大震災は外国人社会を見た場合、東京より横浜に大きな打撃を与えた。外国人居留者数は神奈川県で震災後に激減する。

    1922年  1923年
神奈川  7638   555 (人)
東京   4663  3212 (人)

1931年は父フランツが死亡する1年前であるが、この年の版には彼の名前はすでにない。一方業務内容として生糸(raw silk)輸出業者と書かれている。また本社はニューヨークとなっている。

1940-41年版ではStrahler & Co. Inc.となって、日本開戦直前まで会社は存続していたことが分かる。Strahlerとアメリカ読みにして名称が変わっているが、P.O Boxの番号が同じなので、同一会社と判断出来る。
責任者はMax G. Ritterである。

戦時中スイスに、スイス人と結婚したリッター春江 (Ritter Harue)という女性がいた。彼女の夫は生糸業を横浜で営んでいたという。関係があるのかもしれないが、これも今後の調査テーマである。

なお1912年版にも同商会は載っている。社員も7名(うち日本人4名)である。ホフマン商会から独立というのはかなり早い段階のようだ。そしてそれは1903年という情報がある。

1888年版では以下の記述がある。
Swiss Rifle Club 
Secretary: F. Straehler

このスイス・ライフル・クラブは慶応元年に設立された由緒あるクラブである。父親がスイス人であったことは間違いなさそうだ。

なお外人墓地のストレーラーの墓は無縁状態とのことである。スイス大使館か、赤十字か、日本ユニセフか、何らかの対応をこの勇気あるスイス人の女性のために取っていただくことを望んでやまない。

彼女の苗字ストレーラーに対し、ストレラ、シュトレーラーなど書物によって表記の揺れあるが、ここでは「ドクター・ジュノーの戦い」に従い、ストレーラーに統一して表記した。またアルファベット表記もいくつかある。赤十字の史料ではMargherita Straehlerとなっているのでこれが正式であると考える。インターネット上にはMarguerite Straehlerという表記もある。外人墓地の墓碑はMargherita Strahlerである。

主要参考図書
ジュノー「ドクター・ジュノーの戦い」
与謝野秀 「一外交官の思い出のヨーロッパ」
大川四郎「マルセル・ジュノー-一 人の『第三の兵士』」大川四郎氏にはジュノーに関する多くの著作がありますが、個別には割愛させたいただきます。

(2016年10月30日)

興味を持たれた方はこちらも一読ください。
ストレーラー余話
ストレーラー商会補足



<補足>

上記論文に書いた事柄に関し、違う記述等もいくつかあった。
本文にそれらを並べては、読みやすさの点から大きなマイナスとなるので、以下にいくつか書く。

1 ジュノーが広島に届けた医薬品に関し、15トンではなく12トンと書くものも多い。

2 東京に着いた2人は翌日夕方(8月10日)軽井沢に向かったと「ドクター・ジュノーの戦い」
にジュノー自身が書くが、本人の1945年11月9日付け本国に向けた報告書によれば
「8月9-11日の東京滞在中に、私はスイスから携えてきた信任状を日本外務省と日本赤十字社に提出しました。次いで軽井沢に行き、、、」となっている。こちらの方が事実ではないか。
(大川四郎の翻訳より)

3 ジュノーの前任者パラヴィチーニ博士は「鎌倉で急死」とあるが、「横浜の弘明寺で」という説明もある。
日本赤十字社社史稿」には次のように記されている。
「パラビッチ氏はかねて横浜の自宅で療養中であったところ、風邪から肺炎を併発して1944年1月29日午後3時半死去。
同氏の死去に対して本社島津副社長はただちに横浜の駐日代表部を訪れ、ペスタロッチ氏およびアングスト氏に面接して弔意を表する。氏の葬儀は仏式で営まれた。」

また同社史によれば
「国際委員会駐日代表部は1944年5月1日、東京都麹町区丸の内2-8(仲通り12-6)ジーベルヘグナー株式会社内に事務所を移転した。」となっている。
先に出てくるアングストはシーベルヘグナ―の日本代表補佐であった。おそらく横浜の駐日代表部もスイスの代表的商社ジーベルヘグナー社内におかれていたであろう。

このように人、事務所など、駐日代表部はスイス人を一番多く抱えたシーベルヘグナ―社のサポートで成り立っていたと言える。

なお”Japan Directory”の1940年版ではアングストは神戸支店で、3番目に名前が載り、サイン権を持っている。
また駐日代表部の置かれたジーベルヘグナー横浜店の住所は山下町89Aである。これはストーレーラー商会の山下町94とは同じ通りで、まさに目と鼻の先である。


4 軽井沢では「この別荘のひとつが我々のために取ってあった。」とジュノーは書くが、ゴルジェ公使の勧めで、公使館(深山荘)に住んだという記述もある。筆者の深山荘訪問記はこちら

ネット上のストレーラー

1 日本ユニセフ協会 「ユニセフと粉ミルク

2 久留米ユニセフ協会

3 1945年12月11日 海軍省でのインタビュー (17ページ)




J.B.ハリス>

J.B.ハリスは、文化放送の『大学受験ラジオ講座』を1952年から1995年の長きにわたって受け持った。年配の方には聴いた方も多いであろう。
ハリスの書いた「ぼくは日本兵だった」という本は、日英のハーフとしての苦労が分かる興味深い本である。その中で戦時中の赤十字について書いてる。

日本開戦で彼は横浜敵国人収容所に抑留される。場所は山下埠頭そば、ヨットハーバーがあったところである。そこに赤十字がやって来ることになった。その前に日本人の所長の言ったことはハリスを驚かせた。
「視察団が来たらありのままを言って欲しい。諸君の待遇は当方としてはできる限りのことをやっている。」

抑留者は3度3度、それなりに食べることができたので、かえって肥ったと言うものもあるくらいだった。スイスの視察団は、なにかとあらを捜そうとしつこく質問したが、あまりの平穏さに拍子抜けしたような様子で帰って行った。(このスイス人の視察団には任命されたばかりのパラヴィチーニ博士もいたのであろうか?)
根岸の競馬場の収容所とソフトボールの対校試合も認められた。キャンプ・ニュース・デイリーというウィークリー新聞も発行した。

ハリスは日本国籍であった故、その後兵隊として中国大陸に派遣されたるが、そこに比べれば横浜の収容所はずっと恵まれていたようだ。



父親フランツ・ストレーラーについて>


父親フランツ・ストレーラーに関し、以下の情報を"Meiji Portraits"というサイトを運営しているドイツ人、Bernd Lepachさんよりいただいた。

ストレーラーは1882年に日本に来て、バビーア保険、貿易代理店( Bavier & Co., Versicherungs- und Handelsagentur)で働く。1885年 ポール・ハイネマン商会に移る。この会社は1890年オットー・ライマース商会に渡り、ストレーラーはそこに移る。彼の社内での評判は良く、1893年にはサイン権(Prokura)を与えられた。

1897年、オットーライマースは(山下町)208番地に絹関係の事務所を開き、ストレーラーはそこでサイン権を持つ所長となる。その後1901年には会社を去る。1903年に山下町74番地にストレーラー商会を設立。ニューヨークに支店を設け、兄弟W.O.ストレーラーが勤務する。一方ライマース商会はドイツ系で、第一次世界大戦でドイツが日本の敵国となって商売が減り、その後まもなくして店を閉じる。

1891年、もう一人の兄弟C.ストレーラーが来日して、オットー・ライマース商会山下町198番の支店に勤務。5年の契約が終わると1896年に離日。


また「横浜外国人墓地に眠る人々」(斎藤多喜夫)にもストレーラーに関する記述があった。

生糸鑑定技術の達人としてモットウと並び賞された人にドイツ系スイス人のストレーラーがいる。ストレーラーは1882年にバヴィエル商会(上のバビーア保険。貿易代理店であろう)に入社する。その後ポール・ハイネマン商会に移り、その事業を継承したオットー・ライマース商会のニューヨーク支店長となった。その縁でアメリカに帰化したらしい。

1904年、横浜に戻ってストレーラー商会を設立した。1920年、エラ夫人が死去し、(外人墓地)16区に埋葬された。ストレーラーは1925年頃スイスに帰り、1932年2月に死去したが、夫人の墓に記念銘が刻まれている。

ストレーラーは一度、アメリカに渡った話が新しい。その時エラ夫人と知り合ったのであろう。外人墓地のストレーラーとマルガリータ―の墓石と思ったのは、記念銘だけなのであろうか?(冒頭の写真参照
付け加えると、イギリス以外の日本系商社のうち、生糸貿易の分野でもっとも活躍したのは、意外にも小国スイスの商社だったという。


(2016年11月20日)



<赤十字国際委員の臨時代表ビルフィンガーの文書>

ビルフィンガーが1945年6月18日、三笠ホテルの外務省出張所に宛てて、これから来るメンバー(ジュノーとストレーラー)に対する住居の手配について書いている。

「7月中旬に3人目の派遣員グラーツが来る予定。

三笠ホテルの近くの別荘、”軽井沢2472番”は外務省より勧められたが、使節団の目的には合わない。屋根、窓にかなりの修理が必要。洋間が一つしかなく、水が出ない。また月800円の家賃は法外に高い

以下の住まいが彼ら用に興味がある。
1 軽井沢900番。目下デンマーク公使が住んでいるが、7月初旬に日本を去る予定。
2 同2043番。目下空き家。日本車軸重役後藤英一のもの。
3 同1406番。目下空き家。相撲協会の所有。疎開していて連絡先不明。
このうち2と3のオーナに対し、外務省からもコンタクトをお願いしたい。」

この電文からジュノー、ストレーラーに続く3人目の人物の名前が分かるが、実際には日本に向け出発しなかったのであろう。
また疎開者が殺到していた軽井沢であるが、まだ空きの別荘があったことが分かる。これらの住所は、今もあまり変わっていないようだ。ジュノーとストレーラーはどの別荘に住むことになったのか、さらなる調査が必要である。

さらにはデンマーク公使が日本の敗戦直前にデンマークに帰任するという話も興味深い。

(2016年12月5日)

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