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講演『軽井沢の思い出』
Memories of Karuizawa
大堀 聰
<序>

2018年軽井沢のルヴァン美術館では、「西村伊作とその子供たち」という企画展を6月10日より開催し、筆者は資料の収集等で準備段階から協力をした。
そして企画展の一環で8月4日、「軽井沢の思い出」というトークショーが開催された。ゲストスピーカーとして登壇した3人は、全員戦時下の軽井沢を体験した方々であった。

西村クワ(Kuwa Nishimura)  西村伊作の6女、1927年生まれ。
羽仁進(Susumu Hani)  映画監督、1928年生まれ。
ヘンリー・H・タマキ(Henry Tamaki) 哲学博士、1929年生まれ。

ほぼ90歳の3人は筆者にとっては、夢のスーパートリオともいえる方々であった。なぜなら戦時下の軽井沢を語れる著名人が3人もそろう事は、もうないであろうから。

本編では講演の内容を報告するとともに、それに付帯する新たな史実を書き添える。よってこれは筆者が以前に書いた『「心の糧 (戦時下の軽井沢)」』の補足版となる。是非こちらにも目をお通しください。


講演のパンフレットより



<講演より>


西村クワさんは終戦の年の1945年4月に、心の自由を求めて家族の疎開先の静岡県三島から軽井沢に移った。
この頃はすでに手配など容易ではなかったのでは?と講演の後の質疑応答で筆者が聞いたら、意外と問題なかったとの事。

軽井沢に疎開者が殺到し出したのは、3月10日の東京大空襲ではなく、その後の5月25日の空襲後であったという。人々は2度の大空襲でいよいよ命運も尽きたと思ったのであろうか?また夏を迎えるので、避暑にかこつけ疎開を考えたのかもしれない。

羽仁進さんは、軽井沢はそれまでの外国人や一部政治家の避暑地であったが、それが一般にまで広まったのは、西村伊作が別荘を建て、沢山の人々を招いたことが大きいのではないかと強調していた。
羽仁さんには筆者は
「先日亡くなった学習院大学の篠沢秀夫教授が、自由学園の軽井沢の夏季学校で、ピアノの連弾をしている姉弟は羽仁説子先生のお子さんと聞いた、という話を自著の中で書いているが、この弟は羽仁進さんかと質問したら、
「私自身は、ピアノは弾かない。妹が音楽家なので、よく自身もやると間違えられる。」と語った。軽井沢について書かれたエピソードには、注意をしないとこのように独り歩きした話も多いのかもしれない。


当日の光景。ホールは満員であった。



<ヘンリー・H・タマキ 1>

ヘンリー・H・タマキの名前を筆者は今回初めて知った。1929年にベルリンで生まれ、父は日本人、母はドイツ人であった。幼少期をベルリンで過ごしたのち、小中学校は日本で学んだ。日本語、ドイツ語、英語を流ちょうに話す。話した第一印象から気さくで、とても暖かい人であることが分かる。

講演の中では、軽井沢でオット・ドイツ大使とよく一緒に行動していたハンサムで大柄なドイツ人がいたこと、そしてそれがソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲであることを知ったのは、戦後彼の顔写真が新聞に載った時であったと語る。ゾルゲ(Sorge)という名前は、ドイツ語で”心配”という意味、なんとも意味深長だという。
筆者はゾルゲは1941年の夏にオット大使と来たことは確認していると言うと、それまでも毎年来ていたと語った。

軽井沢にいたユダヤ人の医師の名前が今もすらすらと出るのには驚いた。ヴィッテンベルクとステッドフェルドであった。この2人を筆者はすでに前掲『心の糧』において紹介しているが、逆に言うとユダヤ人医師はこの2人だけであったと言えるかもしれない。
そして迫害を受けていたユダヤ人の医師がドイツ人の手術を行ったが、これは当時のドイツにおいては考えられないことであった。

また戦争中、外国人と日本人が交際することは好ましい目で見られなかったので、ヘンリーはドイツ人ではなく、日本人の子供達と付き合った。




<ヘンリー・H・タマキ 2>

日本人の父親は戦前ドイツで学び、特許の弁理士の資格を取り、日本とドイツの間の特許契約を一手に引き受けた。戦争が近いという事で、1938年一家で日本に引き揚げたが、新しい日本の事務所でも多くの事務員を雇い、英文のみでなく和文タイプもあり、大変活気のある事務所であったという。
筆者が調べたところ、1937年にロンドンで発行された日本人名録には
「玉置徐歩事務所 」(Tamaki Job)という少し変わった名前で、事務所がベルリン・シャロッテンブルクに登録されている。

またタマキさんのお奥様から次の様な話を聞いた。
元々は軽井沢には避暑に訪れていたが、20年ほど前に東京の家を払い、こちらに移り住んだ。床暖房を入れることで冬も快適に過ごせるし、また買い物も困らない。

戦争中はドイツ人が良く集まった軽井沢集会場では、今も音楽会などが催されている。昨8月3日にも行われたが、半分くらいが新しい顔ぶれで、「初めまして」という挨拶が多かった。軽井沢の住民も世代交代が進んでいるのであろう。


1937年日本人名録ベルリン編に大商社と並んで掲載される玉置(タマキ)事務所



<余話>

講演後の質問は筆者の他にもう一人がしたが、その方は1939年生まれで、以前軽井沢に住んだドイツ人を、この夏案内したという。
ちょうどそのドイツ人について、地元の軽井沢新聞が発行する「軽井沢ヴィネット」の2018年下期号に次の様な記事が出ている。要約すると次の様だ。
ドイツ人ヤン・ヘンペルは1939年7月7日、軽井沢夏期診療所(マンロー医院)で生まれ、78年ぶりに軽井沢を訪問した。
父は化学工業トラスト社の東京事務所に勤務したが、一家は毎夏3ヶ月を軽井沢で過ごした。しかし1941年5月、世界情勢の変化で帰国を余儀なくされる。
付け加えれば翌月には独ソ戦が始まり、ドイツ人は帰国が不可能になるので、最後のタイミングであった。

雑誌上の出生証明書をよく見ると天野XX(判読出来ず)、天野文子という診療所の医師夫婦の名前がある。
ヘンペルさんの母親が日記をつけていて、かつての貸別荘の住所、散歩した場所など細かく記されていた。

以上(2018年8月11日)

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