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西村ソノ 戦時下の欧州を勇気と美貌で生き抜いた女性

【お知らせ】
この文章を公開後、ルヴァン美術館副館長木田三保様のご好意でアメリカ在住の
西村ソノさんにコンタクトをとることが出来、写真を提供していただきました。
なお写真はアルバムにあるのを撮影したため、歪み等が若干発生し、
ベストな状態ではありません。(無断転載はお断りします)
(2016年7月30日)


<序 新史料の発見>

欧州に戦時中滞在した邦人は、仕事を持つ男性がほとんどであった。
数少ない女性の内、独身女性はなお少ない。そのほとんどは留学生である。その中で美貌の筆頭にあげられるのが、パリを中心に活躍したバイオリニスト諏訪根自子である。ただし彼女の演奏家としての写真は専門家が撮ったもので、メイクがしっかりして、修正も加わっているであろう。筆者は美貌のナンバーワンには留学生西村ソノ(以下ソノと書く)を挙げたい。
1948年 戦後の西村ソノ (東京)
1948年 戦後のソノ(東京)

ソノは、今は両国にある文化学院の創始者、西村伊作の四女である。文化学院は自由で快活な学校として知られた。そしてソノについては上坂冬子が「伊作とその娘たち」の中で、本人から直接話を聞いて、戦時下の欧州での生活を書いている。
またドイツ陥落時にスイスに単身逃げ込んだ“武勇伝“を、当時スイスの日本公使館参事官であった与謝野秀が、「欧羅巴雑記帳」で書いている。これらをもとに筆者は「スイス国境を目指して、西村ソノ」を書いた。

彼女についてさらに詳しく調べたいという気持ちがあったが、上記2冊を除くと、史料がほとんど見つからなかった。例外は当時スイスで一緒にいた山路綾子さんから、ソノについての話を聞くことが出来、写真も借りることが出来たことである。(「山路(重光)綾子さんの体験した戦時下の中欧」参照)
あとは欧州駐在者の回想録に、断片的に登場する情報が少し集まっただけであった。

ところが最近大きな進歩があった。先ずはオーストリアの当時新聞に、ソノのウィーン留学中の写真記事を見つけた。日本でもプランゲ文庫(1945年から1945年までに日本で出版された印刷物のほとんどを所蔵する特殊コレクション)には「西村ソノ」に関する雑誌記事が27件あることも分かった。そしてこれらの記事は、おそらくここにしか残されていないのではないか?

終戦まもなく発刊され、すぐに廃刊となった名もなき雑誌の、小さなコラム記事まで探し出せるのは、まさしく驚異である。本編ではこうして見つけ出した情報をつなぎ合わせ、ソノの欧州での足跡、および終戦直後の日本での活躍を、徹底的に追うものである。



<写真>

筆者は西村ソノの写る写真を1枚持っている。先述のウィーン総領事であった山路章の長女山路綾子(のちに重光綾子)と一緒に1945年12月のクリスマスを祝う写真である。ドイツも日本も破れ、スイスへの帰国を待つ日々であった。当時の性能の良くないカメラで、室内で撮られた写真であるが、前列の右側の洒落た女性が西村ソノである。
1945年12月のクリスマス 山路綾子 西村ソノ 三谷隆信スランス大使

またその下の写真では現地の女性が着る着物は西村ソノのものであるという。山路家が疎開先として選んだ、オーストリアのチロル地方のシュトローブルの山荘では、当時ウィーンにいた西村ソノの荷物も預かっていたらしい。現地の女性の着る着物がソノのものだと教えられた。
西村ソノの着物


<渡欧前のソノ>

ソノは終戦時のパスポートの情報によれば1918年4月12日生まれ、本籍は和歌山県新宮町である。その後一家で東京に出てきて、父親の創設した文化学院の美術科に通った。その頃の活躍としては以下のようなものがある。

1935年の校内文芸会で、村瀬幸子演出のマルティネス・シエルラ作、「可哀想なフワン」という一幕劇が行われた。
「ソノが男役のフワンになったら、長身で化粧映えのする顔なので、ふだんからなついていた下級生たちが夢中になって、ちょっと宝塚的な気分さえ生じたりした。」と長女アヤは回想している。

筆者の探した範囲では、ソノが最初にマスコミに登場するのは1937年の雑誌「旅」の5月号である。19歳の時である。「特派女学生スケッチ旅行記・旅行社25周年記念誌上計画・尾鷲から新宮へ」という記事を書いている。

「尾鷲から新宮へ」 西村ソノ、「湯川から串本・白浜へ」 石井三冬と、2人で分担して文章とスケッチを載せている。雑誌社の特派員となった経緯は不明であるが、新宮はソノの出身地である。2人は文化学院美術科11期生で、卒業が1938年なので、卒業前の”特派員“旅行ということになる。

なお石井三冬は文化学院女学部3年在学中に画家として認められた女性である。文化学院美術教師の石井柏亭の三女でもあった。校長と教師、由緒ある家柄の2人であったことは間違いない。

余談であるが、この記事の最初のページに載っている広告は「キューピーマヨネーズ」と「森永ミルクチョコレート」である。字体も80年後の今のと、ほとんど変わらない。

同じく1937年夏、文化学院夏の講座というのが軽井沢で開かれた。石田アヤ夫婦と美術科2年生だったソノの3人でやろうとなった。「講師や会場の交渉から、印刷物、ポスター、飲み物を寄付してもらうことまであれこれと走り回って、結構楽しかった。」とこれもアヤの回想である。その際、ソノが文化学院の校庭を描いた絵を元に、プログラムが作成された。

また「婦人画報」1938年7月号には「令嬢の社会見学」の題目の元、「東京水上警察見学記」として記事が載っている。こちらは卒業後であろう。なぜソノが選ばれたかといえば、いわゆる育ちの良い「令嬢」故であろうか?

これらのように、美貌の才媛という評判はすでに出来つつあった。



<プラハへ>

ソノがプラハに向かうのはその翌年1939年である。外交官市毛孝三が、プラハの総領事と赴任するに当り、娘ミミの話し相手として、日本女性をプラハに同行したいという話があり、文化学院の教師の一人、河崎なつの仲介で、ソノの渡欧が決まる。当時欧州駐在となる外交官、商社の支店長クラスは、日本から女中さん兼教育係のような人を連れて行っている。その位の破格の給料が支払われた。

「出発までに2か月もなかったと思うわ。私は文化学院の美術家を出たものの、日本画の心得はなかったので、外国へ行く以上日本の伝統くらいはと、にわか仕込みで日本がを習ったり、プラハを流れるモルダウからうなぎや、鯉がとれるからって、竹串を用意してかば焼きの作り方を覚えたり、鯉こくの煮方を詰め込んだりしました。」とソノは回想した。(上坂冬子)

1939年8月3日、21歳の時、箱根丸で横浜発する。相当にぎやかな見送りであったと思われる。残る写真には、見送りテープに彩られた箱根丸が写っており「1939.8.3」と注意書きがあるという。

航海の途上、紅海でドイツのポーランド侵攻を知る。幸い箱根丸は日本に引き返さずに航海を続け、ソノはナポリで下船し、鉄路プラハに着いた。当時のチェコはドイツの保護領であった。(「日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録」参照)

1940年、ドイツによる非同盟国の外国人妻の外交官帰国命令により、フランス人を妻としていた市毛一家も帰国したが、ソノは残留したとある。しかし筆者が調べたところ市毛夫人はドイツ人でマリーである。よって市毛の帰任は、いわゆる“松岡外相人事旋風“の一環かと推測される。

ソノは一緒に帰国はせず、その後はプラハ総領事館に勤務する杉原千畝の子供の家庭教師をしたりしていた。杉原千畝はカナウスで数千人のユダヤ人に日本の通過ビザを発行したのち、プラハに転任となっていた。そして杉原千畝について書かれた「決断・命のビザ」(渡辺勝正著)には「プラハ市内モルダウ河にかかるカレル橋の上、日本からの画学生と」という説明のある写真に、西村ソノが一緒に写っている。

プラハ時代について、ソノは終戦直後の1948年「令女界」という雑誌の12月号「ダンス・パーティー」というタイトルで
「私の最初の舞踏会は異国の空、プラハに留学中のころのことであった。ちょうど私が二十歳になった春、生まれて初めて着るイブニングドレスを着て、鏡の自分にうっとりした」と書いている。唯一の日本女性という事で、学生たちの注目も集めたようだ。
ただしソノは書いたように22歳でプラハに向かっている。“二十歳”と書いたのは終戦直後の日本の読者にロマンチックな印象を与えるための便法であろうか?

しかし杉原は1941年2月28日、ほどなくしてドイツ領ケーニッヒスベルクに異動になる。こうしてプラハに残る名目の無くなったソノであるが、日本には戻らずウィーンに移って勉強を続けることにした。すでに欧州では戦争がはじまり、日米関係も厳しくなる中の決断であった。



<ウィーンへ>

ソノがプラハからウィーンに移る様子について、自身が「サロン」という雑誌の1947年4月号に「ウィーンの街角で」という題名で書いている。

1941年8月半ば、プラハを発って約8時間後に、ソノはウィーン駅に着く。夜の10時であった。
その2週間ほど前、ソノはベルリンを訪問した。オーストリアはドイツに編入されていたので、ベルリンの日本大使館に挨拶に寄ったのであろうか。そこでは日本から欧州視察中の婦人運動家の山田わかと、女優兼声楽科の田中路子を訪問した。山田わかとは父親西村伊作を通じて、日本から面識があったのであろうか?

もう一人の田中路子は以前ウィーンに暮らし、オーストリアのコーヒー王、マインル2世と結婚していたので、ウィーン生活のアドバイスを聞いたのであろう。路子は当然ウィーンにも知己が多く、ソノに紹介状を書いてくれた。

その紹介状のつてで、ソノはウィーンに市庁舎の側にアパートを借りた。そしてここでも路子が紹介した女性の甥とデートをするような楽しい生活を送る。おそらくその時に撮られたと思われる男性と街を歩く写真も載っているが、
「私が日本人だという特別の好奇心も表わさず、自然に差しさわりの無い挨拶をして、自分たちを紹介しあうところなどは、さすがプラハの学生たちよりは都会人で気が利いている。」とウィーンの学生をほめている。



<回想録のソノ、日本開戦時>

ハンガリーに留学していた徳永康元の「ブダペスト日記」に日本開戦時の、西村の様子が出ている。ちょうどこの時、徳永はウィーンに滞在していた。1941年12月7日

「とうとう、日本が開戦したという。グランドホテルへ行き、渡辺(護)、西村(ソノ)嬢を待ってしばらく話し、3人でホテル・インペリアルで食べる。(近衛秀麿氏と会った)
僕は気よくおしゃべりをしてしまう。この2人は他人に何とか言われるが、僕には一番話し良い、東京の連中だ。2人とも、ヨーロッパにいても幸せそうだが、僕はそうはいかない。」

ここからはソノは、他の在留日本人からあまり良くは言われなかったことがうかがわれる。一種の社交性、派手さゆえであろうか。また徳永が他の多くの邦人同様に、日本の対米英開戦で不安に駆られ、日本への帰国を模索する一方で、ソノは全く帰国する気はなく、充実したウィーンの生活を送っていたことが分かる。

徳永は翌12月8日には
「もうこうなっては(ウィーン総領事館は)何の気休めにならないと感じ、暗鬱としてまた歩いてグランドホテルへ行き、守山氏と西村嬢に会う。3人とも唖然としていた。」
ソノは日本の開戦に知らせで唖然とするだけであった。また守山は守山義雄、朝日新聞のベルリン支局長で、後にも登場する。



<春 旅への誘い>

これも終戦直後に存在した雑誌である「美貌」1948年4月号には、「春 旅への誘い」 西村ソノ 諏訪根自子 原千惠子 赤松俊子(画家)と4名が春にまつわる話を書いている。西村ソノに加え、ソノと双璧の美貌の持ち主と筆者が書いたバイオリニストの諏訪根自子、そして開戦前に帰国したが、パリにピアノで留学していた原知恵子という、ヨーロッパ滞在の女性が春にまつわる話を紹介しているのが興味深い。ソノは

「(春になると)ウィーンの若者たちはもうじっとはしていられない。昨日まで着ていた重い毛の服を脱ぎすてて、(オーストリアの民族衣装である)ディアンドルに白い膝までの靴下はいて、ドナウのほとりへ、カーレンベルクへ飛び出す。私もこれらの小鳥たち(若者のことー筆者)のお仲間に入って、自転車でシタイヤマルタに遠乗りに出掛けました。(中略)春は美しい希望に満ち満ちている。」

ウィーンの若者同様、白い膝までの靴下にディアンドル姿で、デッキチェアーに横たわるソノの写真が載っている。時期は書かれていないが、ウィーンで迎えた最初の春である1942年のことあろうか?翌年の春は後述するようにソノの周りに大きな事件があり、それどころではないと考えられるからだ。

西村ソノ 1942年 ウィーン郊外の自転車旅行
1942年の自転車旅行。まさに上の記事の内容に合致。



<新史料 オーストリアの新聞>

オーストリアの図書館では戦前、戦時下の幾種かの新聞が、オンラインで読める事が、分かった。これを教えてくれたのはドイツ人である。欧州の調査には、やはり現地の情報提供者が強いサポートになる。
さてその検索窓に欧州滞在の日本人の名前を入れると、いくつかヒットするのだが、「西村ソノ」では一件のみヒットした。でもそれは大きな魚をつり上げたような成果であった。少し詳しく紹介する。

1942年7月8日付けの新聞 (Das interessante Blatt)の日曜版の折り込み別冊、「ウィーンのイラスト」(Wiener Illustrierte)である。

紙面は写真が主体で、アフリカ戦線で戦うロンメル将軍などが冒頭紹介されている。そして
「西村ソノ ウィーンのある日本人女子学生」 の題名で、最後の2ページ全面で、特集の記事が載っている。リンク先を紹介するので実物大で是非ご覧ください。 1ページ目2ページ目

着物姿のソノのひざの前には同じく着物の日本人形が置かれた大きな写真が目に入る。説明文として
「ソノ嬢は自由な時間にも着物をよく着る。それは遠く離れた故郷の思い出であり、繋ぐものである。」
この着物はすでに紹介した山路綾子さんの写真のとは柄が違うもののようだが、ソノは複数の着物を持っていたのであろう。

その下の草原でポーズを取る写真には「夢想」(Traeumerei )のタイトルがつく。遠くの日本を夢見ているというのであろうか?シューマンの代表的ピアノ曲ともかけているのであろう。
「狭い額の中には、どのような考えが潜んでいるのであろう。彼女の心の目に現れたのは、きっと好きなイメージ、おそらく最近故郷での桜祭りであろう。」と書かれている。

そして続く説明文章は
「小柄な西村ソノは目下、ウィーンの帝国工業美術学校(Die Reichshochschule fuer angewandte Kunst in Wien)で学んでいる。彼女は専門である絵画の他、陶器の分野に興味を持っている。なぜなら美しくて簡素で、しかも目的にかなった形というのは、日本国民の中では、何百年にもわたる芸術職人的伝統である。この生まれながらの造形感覚から生まれた花瓶は、特定の花の為に形作られる。そして花の種類によってそれぞれ花瓶は異なる。」とソノの話をそのまま書いたのであろうか?


工業美術学校にて(新聞の写真ではなく、ソノさんから提供いただいたもの)次も同様

次のページにも写真が並ぶ。
「生け花をいける。」
「プラター公園の大観覧車に乗る」
「造形のモデルを前に」
最後に撮影者の名前 (Edith Sahlige)が載っている。

プラター公園にてクラスメートと。後ろの看板から射的遊びを
していることが分かる。


これらの美辞麗句から分かるのは、極東の若く美しい女性に対する、並々ならぬ興味である。また相当演出に凝った撮影がされている。当時はマスの情報手段は少ないから、新聞に掲載後は、彼女は一般のウィーン子にも広く知られることになったであろう。筆者は山路綾子さんから、
「ソノさんの美貌はウィーン大学でも有名であった。そしてある男子学生がふざけてソノさんにキスをしたら、彼の頬をひっぱたいた。」と、気の強さを物語るエピソードを聞いた。

なおこの間、ソノは1942年にはフンボルト奨学金を受けウィーンの工業美術学校に通い、1944年にはウィーン大学の美術科に進む。



<ローマ>

筆者が最初にソノの存在を知ったのは、1981年に出版された桑木務の「大戦下の欧州留学生活」であった。1942年10月2日の午後、桑木はローマ大学を訪問する。
「ヴェネツィア会議に出席していた西村ソノさんと野上素一さんと3人で大学構内を見て回り」言う短い文章と共に
「ローマ大学にて(向かって左は西村ソノさん)」という数センチ四方の写真に写る女性は、小さくて顔も認識できないが、服装がとても洗練されているのが分かる。

その少し前の8月18日、ハンブルク大学の講師を務めた留学生田中泰三、はやはり日記に
「12時の汽車で(ウィーンから)チロルに向かう。途中インスブルックまで西村(ソノ)嬢と同車する。同女はイタリアに行くなり」と書いている。(「カスタニエン咲く国 滞独随筆」より)この時から10月まで、短期セミナー参加のような形でローマに滞在したのであろう。
こうして数少ない留学生の日記にソノが登場することは、留学生の関心の高さを物語っていないか?

クラスメート リサとのスキー旅行。後ろのSLも興味深い。



<父 伊作の逮捕>

1943年4月12日はソノの25歳の誕生日であるが、日本では父伊作が逮捕される。不敬罪であった。ソノは総領事館に呼び出され、その事実を告げられた。
「あなたも思想を正しく持って、こちらでの言動を慎むように」という趣旨のことを言われた。とっさに、ソノはそこで自分が頭を下げたりしたら父がかわいそうと思った。
「あっ、そうですか」と一言いうと、あとも振り返らずに、総領事館をあとにした。(「伊作とその娘たち」より)
ソノは渡欧中たった一度だけ号泣したが、それはこの時であった。先述の「春 旅への誘い」は1942年の春のことであったと考えるのは、この事実からである。

1943年 ウィーン近郊の友人家族宅のクリスマスディナー。左後ろにクリスマスの
飾りが見える。中央は空軍将校?




<外交電報>

1944年1月7日 山口巌総領事は外務大臣谷正之に「在留民留守宅へ通知方」という外交電報を送っている。それによると
オーストリアの民間人はすでに1年以上、日本と連絡が取れない状況が続いていた。したがって次の者の無事であることを留守宅に伝えてほしいと書き、その1番目に
「西村ソノ嬢 留守宅は神田文化学院院長 西村伊作」と名前が挙がっている。
オーストリアから日本へは郵便も届かなかった。



<守山義雄 (駐独日記抄)から>

先述の朝日新聞ベルリン支局長であった守山義雄の日記の一部が残されている。
1944年8月21日、守山は大島鎌吉(毎日新聞ベルリン特派員)と“豆自動車”でウィーンを発つ。寄り道しながらベルリンに帰途についた。そして25日の日記には、次のようなドイツの交じった短い文章がある。

「フリードリケ(Friederike)嬢の案内にてHellbrunne見学。Bischofの豪奢。Seilbahnのすれ違いで西村嬢と語る。」
Hellbrunneとはオーストリア、中北部のザルツブルクの有名なヘルブルン宮殿のことである。司教の住まい(Bischof)の豪華に驚き、ロープウェイ(Seilbahn)のすれ違い時にソノと語ったと書いている。偶然というよりはウィーンのソノとは、ここで会う約束をしていたのであろう。

このように8月末にソノはザルツブルクにいた。連合軍がフランスに上陸し、パリも解放されたころであるが、オーストリアではこうした旅行がまだ楽しめた。

このころ山路家では婦人と子供がブルガリアのソフィアから、すでにチロル地方のシュトローブルの山荘に避難していたので、そこにも寄った事であろう。

山路家の山荘 西村ソノの着物の写真はすでに紹介した。ここでは他のベルリン駐在員の荷物も預かっていた。



<ベルリンへ>

1945年1月ころ、戦況が最終局面となり、ベルリンの日本大使館は全ヨーロッパの在留日本人をベルリンに集め、郊外に集結・収容する。この時ソノはその指令に従っている。さもないとウィーンに侵出するソ連軍に抑留する危険があった。その時のことをソノは
「汽車でベルリンへ行き、同じくパリに文学の勉強に来ていてベルリンに呼び寄せられたフミコさんという仙台の女性と知り合い、2人でベルリン郊外の古い城跡にこもって合宿を始めた」と短く上坂に語っている。



<小松富美子>

フミコと言う女性が、フランスへの留学生小松冨美子であることはすぐに分かった。彼女について、グーグルなどで検索しても何もヒットしなかったのであるが、今回調べたプランゲ文庫には

「生活者」という雑誌にフランス文学博士、小松富美子として「ウィーンの印象」という文章があり、副題は「1944年9月、ベルリン滞在2週間にして独逸語勉学の命を受けウィーン市に出発」となっている。
この雑誌「生活者」は発行地が盛岡となっている。仙台出身の小松と地縁があったため、書いたのであろうか?

そこでは副題のように。1944年8月に、陥落直前のパリからベルリンに避難してきた小松は、到着2週間後にウィーンに行く。ベルリンではフランス語は役に立たないから、ドイツ語でも勉強して来いと爆撃のないウィーンに送られた。ウィーン到着は曇りの朝であった。その時の様子を
「駅には心待ちにしていた西村嬢がまだ山の旅から帰って来ず、(代わりに)総領事館の方が迎えに来て下さった。」と書いている。ソノは先のザルツブルクの旅から戻っていなかったという事であろう。

そしてソ連がブダペストに迫る11月、小松はまたベルリンに戻る。去るにあたり
「(ウィーンには)旅人の心を寛がせて遊ばせていただいた、村田(七郎)先生の客間があったし、西村ソノさんはいたし、奥山領事の奥様の上手なご馳走にもたびたびお呼ばれした。」と振り返った。

このように西村ソノと小松富美子はベルリンの避難所で偶然一緒になったのではなかった。少なくともウィーン時代から面識があった。



<ベルリンにて>

小松は「伯林最後の日」という題名で、本を書いていた。ただし著者名が小松ふみ子と「ふみ」
がひらがなになっているので、筆者にはこれまで見つけることができなかった。

小松は他のフランスからの留学生の引揚者とともに、ベルリン郊外ダーレムの家に住んだ。
「1945年1月のある日曜日であった。午後N(西村)嬢と一緒に森から湖の方に散歩に行った」と書いている。
陥落間際にもかかわらず、比較的静かなベルリン郊外で2人は暮らした。またソノは上坂にベルリンへの移動は2月ごろと書いているが、それは1月であることは間違いなさそうである。

さらに「4月13日、もう1日もベルリンには居残りは危険であるというので、午後荷物をまとめて、西村嬢と一緒にマールスドルフ城に自動車を走らせた。」 という記述もある。2人は城でも相部屋であった。

その翌日には大島大使ら一行がベルリンを引き揚げ南ドイツに避難する。4月13日にまだベルリンにいたという事は、ソノがスイスに向かったのは、ドイツのまさに陥落直前、南北の往来が不可能になる直前のことであったことを語っている。
そこから苦労をしてスイスに入るまでは「スイス国境を目指して」で紹介したとおりだ。



<スイス 入国>

先述の「伊作とその娘たち」から2つの出来事を紹介する。スイスに入国が許されて国境で書類の記入をしている際、係員が撮ってくれた写真があるという。
「ほら、この写真は(スイス国境で)書類を記入している時のものよ」とソノは取材した上坂冬子に語った。ドイツ敗戦直後のスイスの国境での光景、このような貴重な写真はぜひ見てみたいものである。

またスイスに入りベルンの公使館のテラスで、入国の世話を焼いてくれた与謝野秀と差し向かいで朝食をとった時に初めて「助かった」と実感した。そして
「忘れもしないオートミールと卵とトーストにコーヒーでした。コック夫妻も横浜からナポリまで箱根丸で一緒だった人で懐かしかったわ」と語った。(「伊作とその娘たち」より)

ベルンの当時日本公使館のあった建物は今、日本大使館になっている。
ここのテラスでソノは朝食をとったはず。(筆者撮影)


このコック夫妻は誰なのか調べてみた。コックは海宝章(かいほう あきら)、妻はとし子である。もとはハンガリー大久保利隆公使の従者として渡欧した。当時スイスにいた山路綾子さんによれば、「海宝さんの作るおでんがおいしかった」という。当時のスイスで日本食とは、どのように食材を調達したのであろうか?

ローザンヌ 美術学校のクラスメートらと。



<1945年8月15日>

日本が終戦を迎えた日、ソノは自分の通う学校のあるローザンヌにいた。レストランに昼食を取りに行こうとすると、恐ろしい叫び声を耳にした。カピトラション・ド・ジャポン(日本の降伏)と新聞売りの女性が叫んでいた。
「私の心臓は烈しく打ち始めた。自分でもその動悸が数えられるくらいに高く。けれど私の足は以前と変わりなく歩みを進めていた。感動も、昂奮も表わさないで、ただ機械的に。」

「私がひしと抱きしめたハンドバックの中には、何年ぶりにかで受け取った父からの電報が入っていた。」
ソノには次のように書かれてあった。
“Glad you in Swiss. Gotanda burned. All safe. Will be happy to hear from you.
We are all well in Karuizawa. Wish your good luck.
Nishimura

高額な電報なので、伊作は短文にして多くのことを伝えようとした。訳すと以下のようだ。

「ソノがスイスに入ったと知って喜んでいる。 
五反田の自分たちの東京の家は焼けてしまったが、みな無事だ。
ソノの声が聞けるとうれしい。
私たちはみな軽井沢に疎開して元気だ。
無事に暮らしてくれ!
西村」

山路家の子供たち(綾子、陽子、晴久)とスキーへ  ソノのコートが洒落ている。山路姉妹
のコートはブルガリア時代のもの、とこの写真を見た綾子さんが語った。


そのコートは、ベルリンを脱出してスイスに向かう時に着ていたものであった。
「ウィーンの美学生時代にハンガリーに買い出しに行って求めたイミテーションの豹の毛皮のコートの上からリュックサックを背負い、、」と後に上坂に語った。


<軽井沢>

先の電報に出てくる軽井沢は、西村伊作にとって縁のある土地であった。
まず1921年に文化学院を設立したが、前年1920年8月半ば、軽井沢の星野温泉(後の星野リゾート)で与謝野巻、晶子、河崎なつ(ソノのプラハ派遣をアレンジ)らと一緒の際に、学校設立の話が出たのがその発端であった。

1922年には軽井沢、大塚山の麓に米国人宣教師の持つ別荘を購入する。さらには1930年には万平ホテルのそばにバンガローを建てた。そこには子供たちが一軒ずつバンガローを建てられるようにしたという。

戦時中は伊作の五女ナナと末っ子クワが疎開し、伊作は静岡県三島に避難し、そこで終戦を迎えている。しかし終戦間際、伊作は軽井沢にも寄ったのであろう。
西村ソノが帰国直後の1946年、軽井沢にて。左からソノ、伊作、クワ(6女)八知(3男)
ソノが帰国直後の1946年、軽井沢にて。左からソノ、伊作、クワ(6女)八知(3男)



<敗戦 引揚>

終戦直後、1945年のクリスマスを迎えたのは、ソノ同様にフランス語圏のラ.トード.ペールに暮らす山路夫人とその子供の暮らす家であった。フランスから避難してきた三谷隆信大使一行も加わった。そしてその写真は冒頭に紹介した。

日本に帰国するため、ソノら在留邦人がスイスを出発したのは、1946年1月24日である。列車が中立国スイスから占領下のイタリアに入ると、監視のためにイギリスの兵隊が乗り込んできた。ナポリではイギリス軍のキャンプに泊まった。「荷物は自分たちで運べ」との指示が出て、公使も自らトランクを運んだ。西村ソノは次のように回想している。
「そのキャンプがひどいの。トイレも満足にない状態で、浜辺に穴を掘って山路さんのお嬢さんと二人で交代で見張りをしながらすませたのよ。(笑)」
と悲惨な状況であったが、2人の若い女性はたくましく乗り越えた。



<貴重な写真>

スペイン船プルス・ウルトラ、筑紫丸と乗り継ぎ、浦賀に到着したのが1946年3月26日であった。浦賀沖で3日も待たされて、ソノはアメリカ軍人にインタビューされたりもした。(これに当たった将校は丁寧な態度で冗談なども交えて話したが、ソノは敵国人の将校なのだぞと思ってわざと不機嫌に応対した。それでも案外簡単に済んだとのこと)

浦賀ではソノには出迎えもなく、先に帰国したヨーロッパで知り合いの記者からお金を借りて、片足が宙に浮いたような混雑の電車に立ったままで、学校のある御茶ノ水まで向かった。そこでやっとの思いで電車から飛び降りたものの、皮のバッグが人ごみに引っかかって出て来なかった。

機銃掃射の中をくぐり抜け、命からがら持ち帰った写真などが詰まったバッグを「ここで手離してなるものか」と再び車内に戻り、次の駅まで行って引き返してきた。それらの写真のイメージは一部本編でも紹介した。
またベルリンからスイスへの避難の途中、命からがらようやく南ドイツのビュールにたどりついた際に宿泊したホテル「バン・シュトラウス」のパンフレットもそこにはあった。

取り返したバッグのおかげで、戦後の雑誌にも、何枚かの写真を紹介することが出来た。これらの写真をまとめて後世に残せればと筆者はひそかに願う。

「身体検査などのあと、バスで久里浜の小学校に送られた。ここは引き揚げ者に食事を配給するところで、7年ぶりの懐かしいはずの日本での初めての食事は、実に惨めなものだった。」など、帰国したソノはこうした話を息をつく間もないほど、次から次へと貴重な体験を話し、出迎えた長女の石田アヤらは、お茶を出すのも忘れて聞き入った。

「急に現れたソノの話によると、帰りはずいぶん苦しい旅であっただろうと想像したが、若くてハンサムな外交官たちが大勢いたし、スイスでお世話になった公使のお嬢さんたちと一緒にコーラスをしたりして退屈をしのいでいたそうだ。」と6女のクワは回想している。決して楽な旅ではなかったはずである。



<活動再開>

ソノは長くつらい、引き揚げの旅の後にもかかわらず、日本での活動再開は早かった。1か月後の1946年4月25日、文化学院の再開式が行われた。壇上に20人近い教師陣が並び、入学生も400人近くが講堂に集まった。ソノは講堂の舞台を旧円で500円の花で綺麗に飾った。敗戦に焼け跡、そして食糧の乏しいときのふんだんの花であった。

他の教師に続きソノも壇上に上がり、西欧人のようななまりを帯びた日本語で、「親孝行するために帰ってきた。縁の下の力持ちになって働きたいと思う」と挨拶した。

「美しい容貌と、ぎこちなく男まさりな言葉に相まって、入学生たちの心を一挙に惹きつけた」と、ここでもソノの美貌が話題となった。(「文化学院の50年」より)
7年の外国暮らしで、日本語がぎこちなくなったのは、今と異なり、海外で日本語と触れる機会が非常に少なかったからであろう。

そして引き続き、文化学院のため次のような働きをしている。

まず石井伯亭に代わる新しい美術科部長に、猪熊弦一郎になってもらうべく、ソノがお願いに行った。名前だけでも部長となってほしいと頼み込んだ。
「確か先生は八王子の奥に疎開しておられたと記憶しています。進駐軍の伝手(つて)でジープを出してもらったんですよ。あとで正式に(承諾の)ご返事いただいたそうです。」と語っている。

進駐軍にジープを出してもらうのが、いかにもソノらしい。一方猪熊弦一郎の「私の履歴書」(日本経済新聞社)には、神奈川県吉野町(今の津久井郡)に終戦後も1年ほど留まったとあるが、このソノのエピソードは出てこない。

またおそらく1946年のこと、軽井沢の父親の別荘で静養していた24歳の若い哲学者、鶴見俊輔のもとに、西村伊作の娘と名乗る女性が、訪ねてきた。美しい女性であった。文化学院にきて講演をしてほしいとのことで、鶴見は引き受けた。
おそらくこの依頼者は、西村ソノであったという。(「きれいな風貌」より)

ソノは「私は文化教会の講師を頼みに行くときも、いちいちその人の家まで面会に行って頼んだので、講師は必ず承諾してくれた。」と長女アヤに語った。ソノは頼みごとをするコツをつかんでいた。
「言葉もたどたどしい感じの女らしさが、魅力になったのは否めない。」とアヤは書いている。

1946年帰国直後 父伊作と。日本に戻った安堵感が感じられる (三島自宅にて)



<高松宮日記>

戦時中は海軍に勤務した皇族、高松宮宣仁親王が残した「高松宮日記」にもソノの名前が登場する。
入学式から間もない1946年5月11日  
「晩餐、ダイク、マーケット、バンカー、渋沢敬三、川添紫郎、西村その子(六女、ウイン美術工芸学校、油絵)、安孫子笑子。(何となく国防献金を文化財団に充てるためマーケット氏を動かす目的の晩餐会) 」(日記なので読みやすく現代語にした―筆者)

渋沢敬三は戦争中に日銀総裁を務めた人物であり、川添紫郎はピアニスト原節子と結婚し、戦後は高松宮の国際関係特別秘書を務めた。名前がソノではなくその子となっていて、6女でなく4女が正しいが、そうそうたるメンバーの会合にソノは出席している。文化財団の関係の晩餐会という事で、文化学院を代表してソノが出席したのであろうか?

付け加えると筆者は絶えず比較するもう一人の欧州美貌婦人、諏訪根自子もこの日記に登場する。
1946年10月8日 「それより帝劇で17時より諏訪根自子ヴァイオリン(を聴く)」
根自子の戦後初の帰国特別演奏会が10月3日帝劇で行われ、18日は「帝劇芸術祭」となっている。それを高松宮は聞きに行ったのであった。

さらに1947年9月17日
16時より古橋(広之進)を招いての会が催され、諏訪根自子、原千恵子、渋沢、川添の名前がある。



<文化人 ソノ>

民主主義、言論の自由の世の中となり、終戦直後には多くの雑誌が刊行された。その多くは間もなく廃刊となったが、それらの雑誌にソノは頻繁に登場する。進歩的な女性として意見を求めるものが多い。欧州時代の回想も少しあるが、それらはすでに本文中に紹介した。いかにそれらを紹介する。

雑誌名「美貌」 1947年6月号 「結婚の相手の男性」 西村ソノ
「美貌」1948年4月号 「春旅への誘い」 西村ソノ 諏訪根自子 原千惠子 赤松俊子
「美貌」1948年6月号 「近代女性の素晴らしいシンボル:西村ソノさんに訊く」
この時の聞き手は詩人長田恒雄であった。一流の聞き手として申し分ない。

このインタビューで長田はソノに「文化学院校長代理として、今の学生をどう思いになる?」と聞いているが、「文化学院の50年」では「院長秘書兼学院庶務」となっている。

続けて「どうして結婚なさらないの?」と定番の質問が出る。それに対しては
「いい人が現れればしますわ。でも、年をとるとか、行きそびれになるからって、いい加減なところで妥協するなんて嫌なの」と今もしばしば用いられるような模範解答をしている。

ちなみにこの何度かソノが登場する雑誌“美貌”に関しては「民主主義と美人論―占領期の雑誌“美貌”で求められた身体イメージ 吉村いずみ」という論文が、インターネット上でも読むことが出来る。女性誌として一時代を作ったようだ。
他にも
「令女界」1948年12月号「 夜ながをたのしく ダンス・パーティー」 西村ソノや
「スタイル」 「ボーイ・フレンド、ガール・フレンドはどう交際すべきか?」 対談今日出海/西村ソノがある。 今日出美は小説家で、のちに初代文化庁長官となる。

これらの他にも次のような記事を見つけた。(2016年10月18日追加)
1 「西村ソノさん」 女性クラブ 1948年9月号
カーペットの上に直接座るソノの写真が1ページを占めるが、「撮影 笹本恒子」となっている。
笹本は1914年生まれの日本初の女性報道写真家で、「好奇心ガール、いま101歳しあわせな長生きのヒント」を最近出版した。撮影者、モデル共に今も健在である。

2 お嬢様社会探訪:「浅草シヨウ」見聞記  薔薇 1948年5月号
戦後最初の踊りを入れたストリップショーは1948年浅草の常盤座で開催された。(ウィキペディア)
出来たその年にソノは浅草で見物して記事を書いている。雑誌社からの申し出であったが、「幼少のころから好奇心が強いから」と企画を受けた理由を冒頭に書いている。訪問したのは「R−座」とぼかして書いている。現存する浅草ロック座か?そしてその後には「T−座」も訪問している。こちらは日本最初の常盤座であろう。

掲載誌の一覧はこちら



<東郷青児先生>

著名な文化人との対談はすでに紹介したが、ソノは取材に訪れた上坂冬子に
「そういえば、そのころ(スイス時代の衣類が別送便で届いたころ)、雑誌の座談会で、東郷青児先生とご一緒したときに、先生は私の目の前で、ちょっとまっすぐ向いて、と言ってこれを描いてくださったのよ」と自信のスケッチ画を見せた。東郷青児は昭和の美人画家として一世を風靡した。

筆者はさっそくその雑誌を探すと雑誌「にっぽん」 1946年8月号に
「新恋愛と貞操:結婚前後を語る」というテーマで以下のメンバーで座談会が行われている。

石田アヤ[ 文化学院教授 ] (西村伊作長女)
三浦光子[ 松竹スタア ] 
森田麗子[ 森田たま令嬢 ] 
西村ソノ[ 西村伊作令嬢 ] 
徳川夢声[ ユーモア文化人 ] 
東郷青児[ 画家 画 ] 
鈴木均[ 医学博士 ] 
本誌記者

1946年8月はソノが帰国して間もなくの時期であり、ソノのスイスからの別送便が届いた時期に近い。さらには「澄ましたる西村ソノ嬢」というスケッチが載っている。この記事で間違いないであろう。またソノの記憶は非常に正確であることが、ここからもわかる。



<結婚>

1947年7月4日、アメリカの独立記念日にソノは「ブラインドデート」に誘われる。ブラインドデートとは事前に相手のわからないいわゆる見合いであった。そしてその相手がアメリカ空軍に勤務するカール・ベガ−トであった。その後交際が続いたが、1年半ほど経った1948年、カールに帰国命令が下った。この時、ソノは一緒に渡米を決意した。

そしてカールの勤務先ヒューストンで挙式を挙げたのは1950年4月15日であった。
「美貌」1948年6月号で「いい人が現れれば(結婚)しますわ。」と答えているが、この時点ですでに渡米はほぼ決まっていたのであろう。また伊作には6人の娘がいたが、そのうち4人が外国人と結婚している。

筆者にとって残念なのは、ソノがアメリカに渡ったことで、現代女性のオピニオンリーダーとして雑誌に取り上げられることが、以降なくなってしまったことである。

結婚式



<小松富美子のその後>

ウィーン、ベルリンにおいて、ソノと共に行動した小松ふみ子の戦後についても触れておく。大倉商事の駐在員としてパリ時代から小松を知る大崎正二は自著「遥かなる人間風景」に次のように書いている。

「彼女(小松)はソルボンヌ大学で文学を専攻する留学生で、美貌の妻女である」と小松もまた美しい女性であったことを語る。そして
「私が編集した戦時中のパリの日本人会発行の小冊子に、彼女が寄稿してくれた文章は、内容は覚えていないが、珍しく雄渾な筆致で、その上たいへんな達筆であった。」とたたえる。

終戦から何年か後、小松はひょっこりと銀座の大崎の会社を訪ねる。
「大崎さん、さようならをいいに来たのよ。私、アメリカに行ってしまうの。もう帰らないつもり。いろいろお世話になりました。ではお達者でね。さようなら。」と言って、それから幻のように消えてしまった。小松もソノ同様、まだ占領下の日本から、アメリカに旅立ったのである。そして貴重な欧州の留学体験を日本で生かせなかった女性でもあった。

その後、大崎はおそらく東山魁夷の本を読んでいて、次のような記述を見つけた。
北大路魯山人がニューヨークで、ある日本人婦人の家に招かれた。壁になかなかいい油絵がかかっているので聞くと、自分が書いた絵だと彼女が答えた。

この女性に魅了されて、魯山人は「もっと若かったらきっと夢中になって結婚していただろうと、残念でならなかった」と述懐した。この女性が小松ふみ子であった。

魯山人がロックフェラー財団の招へいで、ニューヨークで個展を開いたのは1954年の事である。



<現代 結びに代えて>

しかしソノは、日本から全く姿を消したのではなかった。現在軽井沢には「ルヴァン美術館」がある。文化学院の建物をほぼ再現して1997年に開館した美術館である。

驚いたことに館長には「ソノ・西村・ベガ−ト」と西村ソノがついている。2016年6月現在で、目下98歳である。1920年生まれの諏訪根自子も長命であったが、2012年に92歳で亡くなった。1918年生まれのソノは今も健在なのである。
最近の西村ソノ シアトルにて
ソノさんの最近の写真を送っていただきました。
この写真にはソノが2002年に出版された「心の花束 西村伊作に捧げる」に寄せたソノの言葉を添えたい。

父は誰にでも、「良いおばあさんになりなさい」と言っていた。
私の顔にしわが出来ても、美しい表現をし相手を尊重する心を持ち、愛情を持って他人と上品な会話が出来るのが、良いおばあさんだと思う。

夏に開館時期に合わせて、ソノは何度かアメリカから日本に戻ってきたようだ。2008年に、ソノと話をしたという証言もある。

付け加えるとミュージアムショップでは芸術家、アーティストによるグッズを販売しているが、「スカーフ・西村ソノ」というのが販売されている。彼女のデザインであろう。
西村ソノのデザインしたスカーフ ルヴァン美術館
ソノのデザインによるスカーフ。ソノのサインが見える。

西村ソノは戦乱の欧州で、自分で進路を決めてきた、進歩的女性であった。父伊作の影響ももちろん大きいであろう。また美貌が彼女の活躍をいくばくか助けたが、あくまでもそれは脇役であった。彼女の活躍をもう一度、現在の人に知っていただきたい。その思いが少しでも伝われば幸いである。またルヴァン美術館館長である西村ソノさんにお目にかかることが出来たら、筆者にとってこれ以上の喜びはない。

最後に上坂冬子の「伊作とその娘たち」を何か所かで引用させてもらったことをお断りする。

2016年8月16日にルヴァン美術館を訪問しました。こちらを参照ください。

以上 (2016年6月18日)

以下に西村ソノに関する出版物(種に雑誌)のリストを紹介する。終戦直後の数年に多くの雑誌が誕生し、そこにソノが登場したことが分かる。(2017年1月22日追加)
1937 5月 特派女学生スケッチ旅行記 ビユーロー二十五周年記念誌上計畫 尾鷲から新宮へ/西村ソノ / 湯川から串本 白濱へ/石井三冬
1938 7月 令嬢の社会見学 婦人画報 東京水上警察見学記 西村ソノ
1942 7月8日 Sono Nishimura Das interessante Blatt
1946 9月 この世相に彼女たちは何を考へる 婦人春秋 座談会
1946 9月 プラーグの友へ 婦人春秋 同じ月に2か所に登場
1946 10月 随想:スイスの日記張より 女人評論
1947 1月 あの頃の懐しい正月を想ふ サロン ウイン:ワルツの春 西村園
1947 3月 世界の女学生廻り:スイス ひまわり 西村ソノ 松本かつぢ[ 絵 ]
1947 4月 ウイーンの街角で サロン
1947 4月 婦人はかくありたい 民主文化 西村園子
1947 6月 結婚相手の男性 美貌
1947 6月 新じゃがの洋風料理 婦人倶楽部
1947 7月 新しい時代の手紙文:第二講:知人の娘の女学校入学祝い 女性ライフ
1947 9月 新しい時代の手紙文例:第三講:旅行地より 女性ライフ 手紙例文
1947 12月 Xmasの想い出:ウインのクリスマス 女性展望 クリスマス(絵と文)
1948 無し こどものあゆみ : さまざまの国さまざまの子供 国際出版 ハンガリー・西村ソノ/
1948 2月 西村一家家族会議 淑女 ソノ、ナナ、クワ、伊作
1948 3月 伝統の都ウイーンのカレツヂ・スタイル 婦人画報スタイルブック 西村その[ 文 挿絵 ]
 1948 3月  家庭と夫人 食卓は一皿で 節米にもなる 読売新聞 西村ソノ 3月18日 
1948 4月 ウイーンの家庭婦人たちは 博愛
1948 4月 春旅への誘い 美貌 西村ソノ 諏訪根自子 原千惠子 赤松俊子
1948 4月 特集・母と娘の幸福:貴女は大人の仲間入り 美貌
1948 5月 お嬢様社会探訪:「浅草シヨウ」見聞記 薔薇
1948 6月 私たちのお台所 食生活
1948 6月 近代女性の素晴らしいシンボル:西村ソノさんに訊く 美貌 長田恒雄 長島勝人[ 撮影 ]
1948 7月 ボーイ・フレンド、ガール・フレンドはどう交際すべきか? スタイル 今日出海 西村ソノ 対談
1948 8月 スイスで見た「毒薬と老嬢」 映画世界 西村ソノ[ 文化学院々長 ]
1948 8月 新恋愛と貞操 結婚前後を語る にっぽん  石田アヤ[ 文化学院教授 ] 西村ソノ[ 西村伊作令嬢 ] 徳川夢声[ ユーモア文化人 ] 東郷青児[ 画家 画 ] 
1948 9月 新しい好みと身だしなみの特集 女性クラブ 笹本悦子[ 撮影 ]
1948 10月 私の結婚式 女性ライフ
1948 12月 夜ながをたのしく  令女界 ダンス・パーティー / 西村ソノ/
1949 1月 愛情は海をこえて 婦人ライフ
1949 3月 私の好きな装い 主婦と生活 西村ソノさん
1949 3月 ハガキ回答 スタイル 吉屋信子 坂西志保 西村ソノ 三笠宮 青田昇 飯田蝶子 渡邊はま子 高野三三男 長門美保 淡谷のり子 加藤シズエ 木暮實千代
1949 4月 美しき青春:思いは遠く ホーム
1949 4月 「男はこんな女性が好き」男心の奥の奥 女性の友 西村ソノ[ 出席者 文化学院教授 ] 
1949 5月 実社会に巣立つ若き男女に送る手紙 生活文化
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