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ドイツ人音楽家エタ・ハーリッヒ=シュナイダーが見たリヒャルト・ソルゲ
Eta Harich-Schneider and Richard Sorge
大堀 聰

<序>

いわゆる「 ゾルゲ事件」の首謀者として日本を震撼させたリヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge)は、ドイツのフランクフルター・ツアイトゥング紙の特派員として活躍する裏で、ソ連のスパイとして日本のソ連攻撃の可能性など日本の最高機密をソ連に送り続けた。しかし1941年10月18日に逮捕され、1944年 11 月7 日に絞首刑となる。

筆者は戦時中に軽井沢に滞在した外国人を調査しているが(『心の糧(戦時下の軽井沢)』参照)、ゾルゲが逮捕直前の1941年8月に、同地を訪れていることが判明した。それだけで筆者には新しい発見であるが、本編ではこの軽井沢訪問を中心に、ゾルゲのこれまであまり知られていない日本での行動、ドイツ人女性との関わりなどを紹介する。



<エタ・ハーリッヒ=シュナイダー>

チェンバロ奏者であったエタ・ハーリッヒ=シュナイダー(Eta Harich-Schneider以下シュナイダー ) は、反ナチス主義者で1941年5月、演奏旅行を口実にドイツを去り日本を訪問する。ふたりの娘はベルリンに残し、その後は南米に行くつもりであった。
彼女のことは2016年に NHK で放映された『ドラマ 東京裁判』で帝国ホテルのパーティーでピアノを弾き、オランダ判事のバイオリンにピアノの伴奏した女性として、記憶にある方もいるかもしれない。

シュナイダーは晩年の1978年に訳すと『旅する音楽家の証言』という自伝(ドイツ語タイトル: Charaktere und Katastrophen : Augenzeugenberichte einer reisenden Musikerin < ) を書いている。そこには当然日本滞在期間についても記されている。当時つけていた日記を元にしており、記述の日時、面会者などは正確であることが分かる。ゾルゲの私生活に関しては、戦後の関係者の記憶に基づくエピソードが多い中で、資料としても一級のものであると筆者は考える。

ゾルゲに「日本で暮らす以上は日本語を習いなさい」と言われたので、自伝では随所に日本語の表現がローマ字で現わされている。そしてこの本の中で、ゾルゲの軽井沢訪問に触れているのである。また日本のドイツ人社会の様子も実名で書かれている。

一方残念なことにこの本は邦訳されていない。もうひとりの”ゾルゲの恋人“の証言も、戦後 30 年以上たった時点では、あまり人々の興味を惹かなかったようだ。それゆえに戦時下日本の貴重な資料でありながら、ほとんど紹介、引用されてはいない。また逆にシュナイダーの名前自体が、ゾルゲに関連する文献に登場することもほとんどない。(ただしゾルゲに関する書物は数多くある中で、筆者はそれらすべてに目を通した訳ではないことをお断りしておく。)



<文献に出ないシュナイダー>


ゾルゲに関してシュナイダーの名前が出ることは少ないと書いたが、筆者が見つけたのは次の場面記述だ。ゾルゲ逮捕直前の1941年のことである。

「(ゾルゲと尾崎秀実の)二人が別れるとき、一週間後の10月13日に満鉄ビルのレストラン“アジア”で会う約束をしたが、ゾルゲは発熱と心痛のために集中力を欠き、その約束の日を取り違えた。(中略)

この期間、荒木(光子)夫人の見たところによると、ゾルゲは発作に襲われて泣き出し、精神分裂の一歩手前にあるようであった。彼はこの期間いつもの所には姿を見せず、シュナイダー氏の家に身を寄せていた。」(荒木夫人のインタビュー)

これはゴードン・プランゲの著書『ゾルゲ 東京を狙え』からの引用である。プランゲは占領下の日本でマッカーサーの下で戦史室長を務めている。同書はかなり詳しくゾルゲ事件を取り扱っているので、以降は主としてこれに、シュナイダーの回想と突き合わせていく。

この荒木夫人の語る“シュナイダー氏”について、プランゲは詳しく調べなかったようだ。おそらく男性と思い込み、女史ではなく「氏」と書いたのであろう。しかしこのシュナイダー氏こそ、筆者が取り上げるエタ・ハーリッヒ・シュナイダー女史であった。また同じ時期に発売された『ゾルゲ 東京を狙え』の巻末には、詳しい参考文献が挙がっているが、シュナイダーの自伝は載っていない。



<シュナイダーのゾルゲ観>


彼女はゾルゲに関し次のように書く。
「1941年5月は、最も経験豊かで、口の堅いスパイであるゾルゲにとっても、誰かに向かって、心を打ち明けたい衝動に駆られていたようだ。

私は自然にゾルゲを信頼した。最初に誰にも邪魔されない場所で会った際、自分がベルリンから政治的に追放されたことをゾルゲに告げた。彼の得ているドイツ大使館からの厚い信頼が、南アメリカに行くのに役立つと思ったからだ。

彼は即座に私の信頼には信頼で応えてくれた。彼は私の政治信条の告白を聞くことで、ゾルゲの秘密について私が喋ることの危険はなくなったと考えた。お互いに惹かれたのもあったが、我々を結びつけた最大の動機は、ヒトラー政権に対する、共通した嫌悪感であった。

彼は共産主義者であることを私に隠さず、ドイツ大使館にはヒトラー政権打倒に必要な情報を得る目的のみに、出入りすると考えていた。そして私に唯一隠したことは、その情報をスターリンに提供していたことだけだ。

ヒトラーに対する抵抗は極右から極左まで知られている。よってリヒャルトの共産主義思想は、自分(シュナイダー)には全く妨げではなかった。」

このように 二人を結び付けたのは、反ナチスの信条であった。そこからプロイセン出身の保守的思想のシュナイダーと、ソ連で教育を受けた共産主義者ゾルゲが繋がったのであった。当時共産主義者というだけで逮捕された時代に、ゾルゲが出会ったばかりのシュナイダーに、本当に打ち明けたかどうかは、これ以上は確かめようないが、説得力のある説明ではある。

そして以降は何度か二人の会合(デート)が記載されている。ある時はゾルゲの所有する“小さな真っ青な日本製乗用車“が使われた。ダットサン(今の日産)であった。オートバイで事故を起こしてから、彼は自動車に切り替えた。

シュナイダーを愛人と呼ぶかは意見が分かれるであろうが、二人の行動が目立ってくると、シュナイダーはゾルゲと会う事を控えるようにとドイツ大使館から助言された。



<ゾルゲと女性>


ゾルゲは大物スパイのイメージである“女性を好む”を体現していたと言われている。次の様な学術研究もある。

『ゾルゲが愛したロシア人妻と30人の日本女性』(アリサ・カフタン)には
「日本の諜報員は、ゾルゲが日本に駐在している間 (それは8年に及んだ)30人の女性と知り合いになったことを記録している。」とある。

また『ゾルゲをめぐる女性たち』( 寺谷 弘壬)でも
「スパイ活動で重要な役割を果たした三人の女性のうち、正式に結婚した女性は二人であるが、ゾルゲの愛した女性は幾人もいる。まず一人目は、米国の作家アグネス・スメドレーである。」と書かれている。

しかしこれらにおいても30人の女性、ないしは幾人もの女性の名前がすべて挙がっている訳ではない。ゾルゲの同僚の語った30人が独り歩きしているようであり、多分に伝説化している部分もあろう。

その中で、出会った時44歳であったシュナイダーもそうした一名に数えられ、“恋人”と書かれているものがある。(ドイツ語版ウィキペデイア)



<オット大使夫人とアニタ>


プランゲの本には次のようなドイツ人女性の名前もゾルゲの恋人として挙がっている。
「ゾルゲの数ある情事の中でこれ以上なく奇妙なのは、あるドイツのビジネスマンの妻であったアニタ・モールとの長い付き合いであった。彼女は口の堅い女性ではなかったので、ゾルゲとの深い仲は東京にいるドイツ人社会では知れ渡っていた。それを知らなかったのはオット大使夫人のヘルマだけであったかもしれない。

彼女(アニタ)の頭の中にあるのは、最も男にもてる女性と認められる以外には、何もないようであった。オットがアニタに惚れ、ゾルゲがその仲介の労をとったことから、事が始まった。」

調べると1937年のドイツ人名簿にベルナルド・モール( Bernhard Mohr )の夫人アニタと載っているので日本滞在は長そうだ。さらには次のように記される。
「オット大使がゾルゲを心から好きになり尊敬する中で、驚くべき事が起こった。そのゾルゲがオット夫人と親密の度を越える関係になった。
日本の狭いドイツ人の社交の集まりの席で、オット夫人つまりヘルマの名前を口にすることは躊躇されるようになった。(荒木光子インタビュー)」

シュナイダーもこの二人について書いている突出して目立った存在だったのであろう。。
「5月27日の晩、ゾルゲはちょっと私の方に頭を向け“明日の午後一緒にドライブをしましょう。モール氏の所での昼食の後”と語った。
翌日の午前、私は初めて二人の魔性の女(原文では femmes fatales )の陽気な姿を見た。ヘルマは霊名日で、オット大使に買ってもらったきれいなサファイヤの指輪を私に見せた。
11時にアニタが来た。彼女は驚くほど魅力的で優美、まるで春を体現しているようであった。」

別の個所で大使夫人は「主人はビジネスマンの奥さん、アニタを愛しているの」とシュナイダーに語り、アニタは 6 年前のヘルマとゾルゲの恋愛事件について語った。狭い駐在ドイツ夫人の世界である、表向き二人は良き友人として付き合っていた。



<荒木光子>


プランゲが戦後にインタビューした荒木光子に関して加藤哲郎教授は
「戦前の三菱財閥の娘で、日本の社交界の花と呼ばれた女性でした。戦後は連合国総司令部の諜報機関 G2 の親玉であったウィロビー中将邸に自由に出入りできるただ一人の日本人でした。」と書いている。(『ゾルゲ事件の残された謎』)

荒木夫人自体にも興味が沸くが、シュナイダーは10月2日、
「初めての自宅でのコンサート、16時半に最初に荒木夫人が到着、青い着物でとても美しい。2番目のゲストがゾルゲであった。リヒャルト(ゾルゲ)はすぐさまジンを受け取り、台所に行ってカクテルを作った。

コンサートが終わりすべての客が帰った後、荒木夫人、ミルバッハ、ゾルゲの小さなグループで愉快な音楽談義を続けた」と書く。
三人のドイツ人に交じって愉快な談義を続けられるとしたら、ドイツ語の能力も相当であったはずだ。ゾルゲ逮捕の16日前である。

冒頭に紹介した荒木夫人の「ゾルゲは シュナイダー氏の家に身を寄せていた。」という 証言は、この時彼女が目にしたことが元になっているのかもしれない。またプランゲが書くアニタとヘルマの話のソースも荒木夫人ではないかと考える。



ローマイヤ>


これも伝説に近いのかもしれないが、ゾルゲが愛した店は当時銀座数寄屋橋にあったドイツレストラン『ローマイヤ』(Reataurant Lohmeyer)である。今は日本橋に移っているこのレストランは1925年、 ドイツの租借地であった青島市から第一次世界大戦後にドイツ人捕虜として日本へ連行された アウグスト・ローマイヤによって開かれた。谷崎潤一郎も頻繁に訪問し、『細雪』の中にも数回登場することは筆者も別のところで書いた。

「(レストランローマイヤは)当初、近くに働いている人がソーセージ入りのエンドウ豆のスープや、レンズ豆のスープにサンドイッチというように軽食の出来るところだった。この食堂がすぐに流行ったので、主人ローマイヤは数寄屋橋の東京ニューグランド(ホテル)のスイス人シェフ、ロイエンベルガーをスカウトして、ちゃんとしたドイツ・レストラン・ローマイヤをオープンさせた。」と言う。(『ロースハムの誕生−アウグスト・ローマイヤ物語−』より)

ゾルゲの恋人であった石井花子は書いている。19 3 5年のことだ。
「西銀座5丁目 酒場・ラインゴールドに私はホステスとして働いていた。ここの主人はケテルと言ってドイツ人であった。(ゾルゲと知り合った)翌日、私は午後から銀座へ出て、約束の時間に楽器店へ行った。私たちはそこを出てローマイヤへ行き、食事を共にした。(当時のローマイヤは2,3軒先の電車通りに面していて、食料品店を兼ねた狭い店だった。そしてほとんど外人客ばかりだった。ここへはその後、ゾルゲに連れられてはたびたび来た。)」

とか1936年の2・26事件の日、ゾルゲはローマイヤで食事の時「何ですか?何ですか?」と、花子に事件について問いただしたという。この日について主人ローマイヤは
「何が起きたのか知らずに、大雪で客も来ないと思ったが、店を開けると、ゾルゲが女を連れて入ってきた。」と先述のアウグスト・ローマイヤ物語にあるが、これはローマイヤ関係者より直接聞いた話ではなくて、石井花子の先の回想からの推測という気もする。

次はフランス人ジャーナリスト、ロベルト・ギランの回想である。1939年9月4日、英仏の対独宣戦布告の翌日、アバス支局を出たギランはちょうどゾルゲに出くわす。
「とうとうやったな、ドイツ野郎め、また始めやがって!」とギランは叫んだ。しばらくしてゾルゲが
「ギラン、一緒に食事をしませんか。」と誘った。ギランはひどく驚いたが、一緒に行くことにした。

5分後、二人は西銀座の新橋寄りにあるローマイヤの店にいた。もう長いことギランはこの店に来たことがなかった。地下室の階段の陰の観葉植物に隠れた席で、ギランはリヒャルト・ゾルゲと二人きりで食事をした。これが敵国ドイツ人のゾルゲと長い話し合いをした唯一の機会であった。(『ゾルゲの時代』)

シュナイダーの回想にはゾルゲとローマイヤに行く記述はない。しかし1941年8月1日オット大使が晩の息抜きのための散歩にシュナイダーを誘い、その後二人でローマイヤを訪問している。シュナイダーは“豪華レストラン”と書き記している。


現在のローマイヤ(筆者撮影)



井沢へ>


シュナイダーは当初ドイツ大使館に居住させてもらい、オット大使一家は彼女にとても親切に接した。5月23日にシュナイダーは大使館を抜け出し、帝国ホテルのバーでゾルゲと落ち合う。日記に
「私はもう金持ちで腐敗した人間とは関係を持ちたくない。唯一の良き人間はゾルゲだ。」と書いた。腐敗した人間とは大使以下を指していよう。

そして夏の軽井沢で毎年行われるナチス教員同盟の例会で、ピアノの夕べの開催日が8月23日に決まった。日本の大学でドイツ語を教える教員らが毎年避暑地に集まった。大使館、ナチ党による思想統制の意味合いもあろう。この音楽の夕べにシュナイダーもが出演することになったのは、オット大使夫妻の好意によるものであった。

8月9日、シュナイダーは何故か重い気持ちで軽井沢行きの荷物を作る。
「ゾルゲがいっしょに来て、大使館員フランツ・クラップフが洒落た車で皆を連れていってくれることが救いだ。もう一人若いドイツ人がクラップフの横に座り、ゾルゲと私は後部座席に座る。」
車列の中にはオット大使の車もあったので、通過する町や村では若者等がドイツ式挨拶をして歓迎した。日本の参戦直前で日独が一番蜜月であった時期の事である。

「4時に軽井沢に着いた。政治部のフォン・マルヒターラーが夕食時にあるエピソードを語った。村道でイギリス人の婦人が興奮して彼に話しかけてきた。
“英語を話したからといって、私の息子を殴ったドイツの若造を探している!”」
開戦直前、子供の世界にも枢軸、反枢軸国の反目があった。

軽井沢行にゾルゲが加わったのは、大使の厚い信頼を現していよう。おそらく毎年来ていたのであろう。それにしてもタイミングとしては、 6 月 27 日にモスクワからゾルゲに対して、「わが国と独ソ戦争について、日本政府がいかなる決定を行ったかを知らせよ。また、わが国境方面への軍隊の移動についても知らせよ。」と指令が届いている。ソ連にとっては生死にかかわる情報である。ゾルゲは心ここにあらず、だったのではないか?

ゾルゲの軽井沢行きを予測したからではないが、ちょうどこの年、外事警察は当地での外国語の電話を厳しく制限する。
「なお7月初旬より軽井沢滞在の外国人の電信電話は、使用言語を独語および英語に制限し、特に電話による通信は大公使に限り、在京自国公館と自国語の通話を許したるも、一般外国人の軽井沢町以外に対する通話は日本語に限定したるをもって、防諜上相当効果ありたるものと認められる。」

一般外国人は軽井沢から日本語でしか電話がかけられなくなった。信頼の厚いゾルゲならあるいは大使の電話で通話が可能であったかもしれないが、ゾルゲは元々、仲間との重要な情報交換には電話は用いていないようだ。

そして「日曜日、夕食はオット夫人とリヒャルトと自分の3人だけ。彼女に機嫌を損ねないため私は静かにしている。翌月曜日朝6時、リヒャルトは(自分より先に)東京に戻る。」

付け加えると彼女は終戦時の住所も軽井沢1075番である。ドイツの大使館関係者は多くが箱根に疎開したが、彼らとは距離を置いたのであろう。



<東京に>


ゾルゲが東京に戻った月曜日とはおそらく8月12日(月)の事であろう。
「尾崎とゾルゲは二週間か三週間に一度の割合で、東京か横浜の料亭で会った。待合は目立つのであまり使っていない。独ソ戦が始まってからは毎週月曜日に会った。」という。帰京早々二人は会ったはずだ。

8 月の尾崎の情報では、日本軍の北方における集結はそれほどのものではないというものであった。オットとドイツ大使館の助言者たちも、日本がドイツ対ソ戦争を軍事的に支援する意図がないことを認めざるを得なかた。 8 月 15 日頃、ゾルゲはドイツ大使館筋からの情報の要旨をモスクワに報告した。(ウィキペデイア)

とすれば、ゾルゲが軽井沢の出の避暑の際にドイツ大使館関係者から話を聞き、それに 12 日に尾崎からもたらされた情報を加え 15 日ころの打電になったとも考えられる。

次いで 1941 年 8 月 20 日〜 23 日にかけて、日本の軍首脳の会議が開かれ、対ソ戦の問題を討議した。尾崎がこれに関する情報を入手し、ゾルゲに報告し、ゾルゲはこれをモスクワに打電した。「会議は、ソ連に対して本年中は宣戦しないという決定を行った。繰り返す。本年中は宣戦しないという決定を行った。」(ウィキペディア)

また石井花子が、鳥居坂署の主任から呼び出しを受けてゾルゲと縁を切るように勧められたのもこの 8 月の事であった。ゾルゲはその特高の主任を日本橋のある料亭に招待し、その時は無事に済ませた。(『ゾルゲ事件』尾崎秀樹)



<逮捕までの日>


1941年の10月4日は東京からの最後の送信の日となったばかりでなく、ゾルゲの誕生日であった。1895年10月4日生まれのゾルゲは46歳の誕生日を迎えた。しかもその日はゾルゲが花子と初めて会った六周年の記念日でもあった。そこで二人は銀座のローマイヤに出かけて、乾杯をすることにした。(『ゾルゲ東京を狙え』)
石井花子へのインタビューからなので、若干ストーリー仕立てになっている気もする。

さらに同書によれば、花子と別れてからゾルゲはコールト(一等書記官)の家に向かう。そこではオット夫妻および例のモール夫妻も加わって、彼のためのバースデー・パーティーが開かれた。その席で彼は徹底的に悪態をつき、彼が午後 9 時ごろには無作法にその席を出た時にも、誰も主賓の彼が出るのを惜しまなかったほどであった。彼はそれからDNP 支局長ヴァイゼの家に行って、翌朝まで飲み明かした。(シュピーゲル誌 1951年)
この話からすると誕生日の夜にゾルゲは石井花子とローマイヤにいたというのは非常に短い時間である。

シュナイダーによると誕生日前日の10月3日、彼女とリヒャルトはコールト一等書記官 (Erich Kordt) の所のパーティーに招待されている。荒木夫人もいた。食事の時ゾルゲは「静かで抑圧されたような印象であった。コールトがからかってゾルゲ教授と呼び掛けても、ほとんど反応しなかった。(中略)シモニス嬢が別れ際に言った。また明日の晩会いましょう。大使館で、ゾルゲの誕生日に!」と書いている。

翌晩(10月4日)、リヒャルトは怒った。二人の関係を強固にするのは好ましくないという思いから、シュナイダーは大使館に招待されなかった。するとゾルゲは”素晴らしい”行動に出た。夕食に現れたゾルゲは食後のコーヒーを飲むとすぐさま立ち上がり、「約束があります」と話し、青葉町7番地の方に消え去ったのだ。

このようにプランゲとシュナイダーの記述の間では、若干の食い違いがある。プランケはコールトのところで10月4日にパーティーが行われ、シュナイダー説ではコールトのところで3日、4日は大使館でパーティーが行われた。どちらの記述が正しいかは、これ以上の追求は難しいが、あとはどちらが自然に読めるかであろう。

またシュナイダーは来日直後、大使館に居住していたが、息苦しくなり9月にアメリカ人が住んでいたアパートを引き継いでいる。ゾルゲが向かった青葉町7番地はシュナイダーの新居という風に取るのが自然だが、雑誌シュピーゲルは DNP 支局長ヴァイゼ宅と書いている。

翌10月5日、ゾルゲはシュナイダーに電話をかけ、ドイツ通信社のシュルツェの所での誕生パーティーに行こうと誘った。この日ゾルゲは上機嫌であった。家まで送ってくれたシュルツェとシュナイダーは、戦争の状況などを率直に話し合った。翌日そのことをゾルゲに話すと「口を慎め。どこに囮のスパイがいるかわからない!」と怒った。

10月7日、ゾルゲは病床に臥す。その彼に若い看護婦を付けたのはオット夫人であったとシュナイダーは聞いた。そしてシュナイダー自信はは彼をどんな状況でも守ることが自分の義務と考えた。

スパイ団の主要メンバーの一人宮城与徳が逮捕された10月10日、シュナイダーは3日間の予定で、コンサート旅行で新潟に行く。この宮城の口からゾルゲの名前が漏れた。

10月17日の逮捕の前の晩、仲間と連絡が取れなくなってきたゾルゲは逮捕の近いことを知っていた。知人らと最後の会話をしたのち、真夜中を大分過ぎてから、ゾルゲの家を訪問し、翌朝までそこに留まったのはオット大使夫人ヘルマであった、という証言をプランゲは当夜見張りに立った警官から直接聞いた。ゾルゲと女性を語る興味深いエピソードであるが、「他のソースによって確認できないから、その真偽のほどを確かめようもない」とプランゲは慎重である。

10月18日、ゾルゲが逮捕された。前の夜ゾルゲの夢を見たシュナイダーは、電話をかけた。受話器の先では押し殺したような日本人男性の声で、「どなたですか?ご用件は?」と聞いてきた。シュナイダーはすぐに受話器を置いた。午後も同じであった。

ゾルゲ等の逮捕は公表されない。シュナイダーは、ゾルゲは突然の旅行について話していたので、上海にでも行ったのかと思った。そして黙っていることが一番であろうと以降はゾルゲの話はしなかった。



<逮捕とその後>


一味の逮捕後、尾崎の友人で 衆議院 議員かつ 南京国民政府 の顧問も務める 犬養健 、同じく友人で近衛内閣の嘱託であった 西園寺公一 ( 西園寺公望 の孫)、ゾルゲの記者仲間でヴーケリッチのアヴァス通信社の同僚であった先述のフランス人特派員の ロベール・ギラン など、数百人の関係者も参考人として取調べを受けたという。

しかしゾルゲの取り調べを行った特高部主任大橋秀雄と吉川光貞検事はゾルゲとの間で、彼が東京の生活で関係のあった少なくとも30名を下らない女性のことは話し合わないことに、同意している。(『ゾルゲ東京を狙え』)
よってシュナイダーは尋問されたとは自著に書いていない。ゾルゲも特に花子が彼のスパイ活動に全く関係していなかったと強調したという。



<リリー アベック>


しかし例外もあった。ゾルゲの獄中手記が『外事警察概況』1942年に載っている。逮捕後に自白し、そして遺書として書いたものである。その中の「知人関係」という項目に最初に登場するのはなんとリリー・アベック(Lily Abegg) である。以下の様に書かれている。
「彼女はスイスから日本に来ていた商人の娘で、日本生まれのスイス人(実際には1901年ハンブルク生まれ)である。父親はすでに死亡し、母親は東京に居住し、昨年私が検挙されたころには非常な重病であった。(1943年11月20日に死亡)

彼女は約10年位前、新聞記者となり1937年以来『フランクフルト』紙の特派員となった。
日本ではゾルゲが政治経済方面を担当し、彼女は文化方面を担当していたが、私が検挙されたので、彼女は多分東京に来るよう命じられ、今後は、政治・経済問題にも首を突っ込まなくてはならぬと思う。なお品行は良い女である。」

ゾルゲが知人としてリリーの名を自主的に挙げたのは、机を並べる同僚である故、警察の嫌疑は免れないと考え、あえて自分から名前を挙げたのであろう。「品行は良い女」とは自分の恋愛遍歴の一人ではないということを言っていようか?当時ドイツ大使館に勤務したエルヴィン・ヴィッケルトは『戦時下のドイツ大使館』の中で書いている。
「東京在住の最も聡明な女性ジャーナリストのひとりだったリリー・アベックというフランクフルト新聞の専属特派員がこう書いている。(省略)彼女は私たちの良き友人で、酒にはめっぽう強いスイスの独身女性だった。」

シュナイダーは回想録の中で
「日光に疎開する前、東京では色々な事件や、憤りがあった。リリー・アベックが自分の日本での仕事に関し、フランクフルター・ツアイトゥング紙に否定的な報告を載せようとした時は、抗議して取り止めさせることが出来た。」
と書く。戦時下もアベックは、特派員でいるために新ナチ的態度をとっていたと思われる。
さらに逮捕後の12月21日に彼女がシュナイダー宅を訪れる。「最初の自身のスパイ事件からの潔白を証明しよとする人物」と書いている。シュナイダーと交わることで周りも親ナチの人物とみなさないという意味である。シュナイダーについて「自分の考えではリリーの成功は彼女の明るい声に依るところが大きい。(中略)そしてゾルゲの事を罵った。かつてゾルゲが彼女を罵ったように。」

シュナイダーがアベックについて書くことはすべて辛辣な批判である。ゾルゲを巡る関係からであろうか?またアベックはスイス人であったが、終戦時は箱根に疎開してドイツ人と行動を共にしている。軽井沢のシュナイダーと対照的だ。

リリー自身が尋問で警察に語った言葉も残っている。
「(5月17日)本事件が新聞紙上に発表されるや、予期していたことではあるがゾルゲと同一新聞であるだけに、迷惑と嫌な気持ちがした。しかし日独間のためには大慶至極のことである。この事件はドイツ側はむしろ日本の官憲に対し、感謝すべきである。

自分は1935年以来ゾルゲを知ったが、彼が共産党員であることは一寸も知らなかった。それに彼は大酒豪でいつもブラブラしていたが、寄稿する記事は非常に優秀なものであって、自分が日本へ来るとき本社から、渡日したならば、直ぐゾルゲを訪ねよと言われたくらいで、社は彼を信頼していた。」
リリーはナチ党の党員ではないが、ナチ主義の熱烈なる信奉者であったという。(スイス人であるから、希望しても入党は出来なかったはず。)

彼女に関する興味深いいずれ別の項目で紹介したいと筆者は考えている。ここではゾルゲの最後の言葉を書いておく。
「重慶に関する著書(リリーが訪問し書いた『重慶』のこと)は、100%親日の本でないことは確実である。しかし私は彼女が絶対的反日家であるとは思わない。彼女は仕事のため、2、3年前に重慶に旅行したことがあるが、彼女もまた善良な通信員であって、諜者ではない。」
ゾルゲの諜報グループには属さないと強調して締めくくった。



<戦後のシュナイダー>


反ナチであったゆえ、シュナイダーは戦後はすぐに音楽活動が許された。それが冒頭の「オランダ判事のバイオリンにピアノの伴奏」というエピソードにつながるのである。幸いネットにドラマのその場面の会話が再現されている。(『全文書き起こしサイト』)

まずはパーティー参加者の会話である。
「演奏しているのは誰です?ああエタ・シュナイダー。」
「戦前にドイツで有名だった。」
「パーティーのためにわざわざ来たんですか?ハハハ。」
「1941年からここに足止めされている。」

ピアノ演奏に拍手と歓声がありレーリンク判事とシュナイダーの会話となる。
レ 「シュナイダーさん。」
シュ 「ハーリッヒ=シュナイダーです。」
レ 「すみませんでした。ベルト・レーリンクと申します。」
シュ 「お会いしてます?」
レ 「私はバイオリンを弾くもので … 。」
シュ 「それは結構。」
レ 「いつか演奏をご一緒できないかと思いまして。」
シュ 「素人とは演奏しませんの。」
レ 「私もその点については同意しますよ。」
シュナイダーはどこか冷たい女性として扱われている。ハーリッヒは彼女の夫の姓だが、正式には父親の姓もつけて、ハーリッヒ=シュナイダーと呼ばせたようだ。

シュナイダーの回想から該当しそうな場所を探すと以下のようだ。
1947年1月27日 オランダ大使館でコンサートを行う。国際外交団と軍人が参加して成功。
1947年9月から定期的音楽の時間を自宅で開催。
裁判の審議後レーリンク判事はバイオリンを持って私のところに来た。4時半から7時半まで一緒に演奏をした。

その後ニューヨーク、ウィーンで教鞭をとったシュナイダーは1986年ウィーンで亡くなる。

(2017年12月12日)

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