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筆者は『戦時日欧横断記』において、第二次世界大戦下、安全な渡航手段のない日欧間を横断した日本人について調査し報告した。 こうして日本に戻った数少ない邦人は、各方面の講演に駆り出されて、最新の欧州情勢を語った。それを聴いたジャーナリスト清沢洌(きよさわきよし)が感想を『暗黒日記』に記している。言論統制の厳しい中、かなり本音を語った人がいるのが興味深い。 1943年12月2日 「佐竹陸軍中佐、『毎日新聞』に“独の必勝陣は鉄壁”と題し3回にわたりドイツが不敗の位置にあることを述べる。同中佐はドイツに在り、本年6月かに帰来した人だとのことだ。」 (背景) 佐竹金次陸軍中佐は1943年6月16日にテレフンケン社ハインリッヒ・フォーデルスと共にフランスボルドーのドイツ潜水艦基地からイタリアのルイージ・トレッリ号に乗り込み、危険な航海の末、9月13日に東京に到着した。(ウィキペデイア) 1944年1月20日 外政協会で牛場信彦書記官のドイツの話を聞く。ドイツがおしなべて有利のような話である。同君は右翼という。 (背景) 「1943年10月20日、欧州側6名の邦人にまず査証が発給された。ドイツの牛場信彦書記官、ハンガリーの大久保公使、ブルガリアの道正久通訳官、そして民間からは先述の佐貫、古河電工の川村、松尾の2名であった。 一行はトルコから中央アジアを経由、満州に入り、翌1944年1月5日夜、東京に着く。牛場は宮城前で必勝を祈願し、その後家に帰り漸くほっとすることが出来た。」 その後すぐに、講演を行ったことになる。 1月28日 海軍中佐伏下哲夫という人のドイツの話を経済クラブにおいて聞く。 「ドイツの内部事情は確かに強い。しかし作戦による結果は不明だという。結論は素より言わないが、悲観的である。」 (背景) 伏下は1943年10月5日、フランス・ロリアン軍港からイ号第八潜水艦で日本に向かい、無事にたどり着いた。戦争中を通じて唯一無事に日本まで戻った潜水艦であった。ベルリンに駐在した友岡久雄教授の手紙を持ち帰ったことはすでに紹介した。海軍は冷静に戦争を分析していたという好例か? 7月13日 芳賀檀(はがまゆみ)という高等学校の教授が、言論報告会で正宗白鳥氏に「この戦争は負けますよ」と言った。 背景 芳賀は独文学者で、最後の留学生として1941年春に渡独した。ソ連の通過ビザで帰国後間もなく、『改造』1942年10月号に「ドイツ戦線の背後より」というタイトルで、ドイツの最新情勢を伝えた。 8月15日 外政協会に安東(義良)という条約局長の話を聞く。 誰でも知っていることを、新聞にある如く述べる。自分の意見を言わぬ。「ドイツはどうか」という誰かの質問に対し「それをいうのを遠慮します」というのである。 外交官としてつぶが小さいし、頭も悪い、これで外交はできず。 背景 1942年3月17日午後10時30分、次(の帰国)は自分と期待する邦人、およびイタリア官民多数に見送られ、安東はローマ駅を発ち帰朝の途に着く。そしてバルカン諸国を通過し、ソ連と接するトルコに入る。首都アンカラでは栗原大使が安東の出発に際し「東に向かって人を見送るのは初めて」と、面白い感想を漏らした。それまでは誰も考えもしなかった経路であった。清沢はかなり手厳しい。 1945年1月9日 外政協会でフィンランドより帰って来た公使(昌谷忠)の談話あり。途中で空襲あり中止。 その要領は一、汽車などはソ連が中々いい。外部からはそんなに疲れた様には見えぬ。かつて満州の汽車は良かったが、今や反対になっている。朝鮮が満州より悪く、内地がもっとも悪い。交通機関は日本に来るほど悪かったと。 背景 フィンランドは1944年9月23日午後3時半、外務省に出頭した昌谷忠公使に対し断交を通告する。ソ連と単独に講和を結んだのである。すぐさまフィンランドの邦人は自宅軟禁となる。そして間もなく日本のフィンランド人とかれらの、シベリア鉄道を介しての交換の申し合わせが成立する。ソ連はそれに呼応し、自国の通過ビザを即座に発給した。昌谷公使一行が帰国のためソ連の軍用機でヘルシンキを飛び立ったのは、11月23日のことであった。 モスクワからシベリア鉄道に乗るが、交通機関が日本に来るほど悪いとは、ソ連に対し日本の国力の低下を嘆いている。講演自体も、空襲で途中で終わってしまう。 (2017年4月16日) |