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外務省嘱託、友岡久雄教授の体験した欧州戦争
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<序>

横浜日独協会理事の磯貝喜兵衛さんと最近知り合いになったが、磯貝さんの奥様眞子(しんこ)さんのお父様、友岡久雄さん(以下敬称略)は戦時中ドイツに駐在していたことを聞いた。そしてわずかに残る当時の写真と、日本に残る家族に書き送った手紙のコピーをいただいた。

写真の1枚が下の日本郵船北米航路、浅間丸の一等船客の記念写真であった。航海途上の1941年2月末ないしは3月上旬の撮影である。同じ時期、欧州航路に就航している船では船上デッキでの記念撮影であったが、浅間丸の場合は船内で撮られており、その内装の豪華さに筆者は驚いた。

そんな華やかさについて感想を述べると、友岡の欧州(ポルトガル)への赴任は、実は官憲の追及を逃れるためであったようだと教えていただいた。とすれば友岡は体制に批判的であった駐在員としてどのような生活を送ったのであろうか?

友岡氏自身の回想などが残されていないので詳しくは分からない部分も多いが、筆者は数少ない資料から、彼の活動を探ってみた。また戦時下のリスボンの邦人状況について紹介するのは、筆者にとっては初めてのことである。

浅間丸一等船客記念写真、船長の左の男女が千葉公使夫妻、中列右から二人目が友岡。朝日新聞ローマ特派員として赴任する衣奈多喜男もいるはず。写っている外国人はおそらく大部分が上海を経由してアメリカ大陸に避難するユダヤ人である。

<友岡久雄教授>

1899年11月14日に福岡県に生まれた友岡は、熊本の旧制第五高等学校(熊本大学の前身)から東京大学法学部政治学科を卒業後、引き続き大学院で経済学を専攻、1925年に招かれ法政大学経済学部講師となり、1927年教授に就任した。

そして1930年代後半は、毎月のように中央公論、改造などの雑誌に記事を書いていた。それら記事の中には「ヨーロッパ戦争と小中立国」(国際経済研究、1940年4月)、「英国の戦時下金融政策解剖」(国際経済研究、同8月)などがあり、ポルトガル赴任の理由を納得させるものがある。

東京大学時代から社会主義思想家のグループ(東大新人会)に属する友岡であったが、母一人子一人の環境の中、母親を困らせたくないとの思いからか、考えは徐々に穏健になってはいた。それでも官憲の取り締まり強化の中で、捜査の手が友岡にも及んできたという。そんな友岡をポルトガル日本公使館付き嘱託として逃がしてくれたのが、同国公使として赴任が決まった千葉蓁一(ちばしんいち)公使であった。

そして外務省の嘱託としての赴任が外務省通商2課長より認可されたのは2月10日で、書類が外交史料館に残っている。

「欧州戦乱の推移の現状においてイベリア半島の中立2国(スペイン、ポルトガルのこと)は重要度を増し、しかもリスボンという良港を擁するポルトガルは交通の要衝である。」で始まり
「ポルトガル公使館に嘱託1名を配属し南欧諸国の経済、並びに我が国の対ポルトガル通商の帰趨を調査報告させるため、現法政大学の友岡久雄教授を派遣する。」と言うことが書かれている。

こうして表向きの辞令は出た。42歳になる友岡は経済学者として脂の乗ったころであったが、海外に赴くには若くはなかった。まして家族を残して単身での赴任ということで、内心は決して晴れやかなものではなかったはずだ。

<欧州へ>

2月20日、横浜から先に紹介した浅間丸でアメリカ西岸に向かう。親族の他親戚、多くの教え子が港に集まった。出港時には学生たちが「フレー、フレー友岡!」と叫んだ。眞子さんの記憶によれば、法政の関係者は皆、友岡が外務省の嘱託としてではなく、留学に出ると考えていた。「父は、学校には留学へ行くと伝えたのであろうか?」と眞子はいぶかしがった。

欧州では戦争が始まってすでに2年が経過していた。アジアを経由し、スエズ運河を通過する日本郵船の欧州航路はすでに休止となり、太平洋航路をとってアメリカ西海岸に向かい、大陸を列車で横断し、さらに大西洋を渡っての赴任となった。外務省に残る記録では大西洋は「エクス・カリバー号」乗船の予定となっている。

そして友岡の乗船した浅間丸は、「太平洋の女王」と呼ばれる日本郵船が誇る豪華船であったが、前年1月にはホノルルから横浜に向けての航行中、千葉県房総半島沖で英国軽巡洋艦の臨検を受け、21名のドイツ人乗客が戦時捕虜の名目で連れ去られた。日本の目と鼻の先での出来事で、日本人には屈辱と映り、浅間丸事件と呼ばれた。

日本郵船の恒例のすき焼きパーティー。手前の食器類はなかなか豪華。船長を囲んで千葉公使夫妻と友岡(左)

笠信太郎>

友岡と同じような理由から、家族を残して欧州に向かった人物に、朝日新聞社の笠信太郎がいた。1900年生まれの笠は友岡より一つ若いだけの同世代である。笠は中国視察後に書いた記事がもとで、日本の警察ににらまれるようになった。朝日新聞社主筆の緒方竹虎の計らいで欧州出張の名目で日本を脱出し、ドイツに向かったという。

日欧間の行き来もままならない時代、欧州は日本官憲からの数少ない逃げ場となった。友岡の留守宅にはその後も「先生は本当に国外に行かれたのですか?」と特高が来て尋ねたという。

法政大学教授の友岡と笠、さらに先にポルトガルに嘱託として友岡を連れて行った千葉公使3名の接点は、近衛文麿の私的ブレーンである昭和研究会であった。会には多くの進歩的思想の知識人が加入した。ゾルゲ事件で逮捕された尾崎秀実もメンバーであった。そしてその分科会の一つ「東亜ブロック経済研究会」に3名の名前が連なっているのを見つけたのは、友岡の長女眞子さんである。

笠は友岡より5か月前の1940年9月、太平洋を日本郵船鎌倉丸で横断し、大西洋をやはりエクス・カリバー号で渡るが、途中で入港した英領バミューダ島では、英国官憲の厳しい取り調べを受け、所持金、所持品を没収された。この問題は後には日英間の外交問題にも発展した。

日本人が欧州に渡るのはこんなに苦労をする時代となっていた。笠の直後に向かった友岡の大西洋の航海も、同様に物々しいものであったろう。そして同じような境遇の友岡と笠は欧州においても気が合ったが、その話はのちに紹介する。

戦後の笠信太郎(左)と友岡 (戦後も付き合いは続いた)

<リスボン>

1941年当時、ドイツと英国は交戦状態で、フランスは実質ドイツに占領されていた。中立国ポルトガルとまだ参戦していないアメリカの間には、ポルトガル船の他、米国船が一週間に一便運行され、クリッパー機(飛行艇)が週二回飛んでいた。首都リスボンは実質最後の北米への脱出口であった。

1月10日、その頃のリスボンの様子を、朝日新聞のフランス特派員であった伊藤昇が報告している。(伊藤はおそらくリスボンも兼務)
「リスボンの街にはドイツを筆頭に欧州諸国を追われたユダヤ人が流れ込み、その数は5万人に上った。彼らがホテル、下宿までを占領していて、ホテルを探すことは非常に困難である。

(1940年)秋に記者自身(伊藤のこと)が赴任する際に、アメリカからリスボンに着いた船は50人足らずの船客であったが、帰りは300人位を詰め込んだ。」欧州からの避難希望者があふれる一方で、アメリカから欧州に来る人は限られていた。

今日リスボンの人口は約100万人であるが、当時は65万人位であった。5万人の難民というのはいかに多いかが想像つく。街は異様に活気づいていた。アメリカ行きの船に300人詰め込んでも5万人の希望者に対しては、全く微々たる輸送能力であった。避難民の急増を恐れるアメリカも、あえて欧州との輸送力を強化しようとしなかったのであろう。

千葉公使一行のリスボン到着は3月26日であった。千葉は到着後間もない4月5日、全欧大公使会議に出席するため、ベルリンを訪問する。

<語学研修>

リスボンに着いた友岡は、ホテル住まいを経て下宿に移り住んだが、1か月ほどしてリスボンから北に200キロほどの街コインブラの大学に行くことを決め、入ったばかりの下宿を出払い、公使館の三階に移り住んだ。家族に送られた絵葉書には「ポルトガル語の勉強の為」と書かれているが、大学で短期語学研修をするのは不自然でもある。友岡は法政大学関係者に「留学に行く」と言ったのも、このコインブラ大学に行くことが当初から予定されていたからであろう、と眞子さんは考える。

5月3日、友岡はコインブラに移り住む。1か月の予定であったが、結局3か月の滞在となる。長女真子さんにコインブラから書き送った絵葉書が残っている。
「この月(7月)の31日にここを発って、リスボンに戻ります。約3か月ここで暮らしたのですが、わずか3か月でも住んでいると、もうこの土地が離れがたい気持ちがします。」とこの小都市が気に入った様子が分かる。

コインブラより送られた絵葉書の表。

ポルトガル語習熟の為の滞在期間延長かは不明であるが、その間7月25日にはアメリカは在米日本資産の凍結をおこなう。日米間の緊張は極度に高まった。戻った公使館では、さっそく沢山の仕事が友岡を待ち構えていたことであろう。

<ポルトガル公使館の強化>

1941年12月8日、日本が米英に対し参戦すると、早速欧州の大公使館に対し、東郷茂徳外務大臣名で敵国の情報収集機能の強化が指令された。同年12月17日、千葉公使は東郷外務大臣宛てて書き送る

「当館情報関係事務は直ちに実行できることを主眼として、次のごとく編成し、12日より実施している。
1 情報の蒐集及び電報(「リスボン」情報)発送には友岡嘱託を充て、当地「ラゴス」貿易斡旋所(JETROの前身のようなもの)所長、上村及びタイピスト1名を助手とするけれども、正式の助手としてはベルリン在住邦人を1,2名物色中なり。
(上村はポルトガル領であったナイジェリアの首都ラゴスからリスボンに引き揚げたのであろう。)

2 (英国の)BBC及び米国その他のラジオの聴取には「ラゴス」斡旋所員成田を充てる。

3 諜報網、宣伝謀略及び特殊連絡等は独伊の施設(通信施設のこと?)の利用を従来とも多少試みおり。(中略)差支えなき限り、これを利用するのを第一義とし、右機関との連絡は本使(千葉公使)及び上野にて当たり。上野も手不足にて、、、在ドイツ、イタリア邦人中より適任者を得たい。」

ここで英米情報収集の主担当が友岡であったことが分かる。また3番目のスパイ網に関して、日本は独自に作らないで、同盟国のものを利用すべきと千葉公使は進言した。理性的な判断であろう。

そして物色中であった助手としてベルリンからサポートの来た人物の一人は日本郵船のベルリン駐在員、菊池庄次郎(のちの社長)であった。日経新聞の「私の履歴書」で次のように書いている。

「(1941年)11月に大阪商船の津山重美と一緒にスペイン、ポルトガルへ視察旅行に出かけた。中立国の港リスボンでドイツでは配給制で不自由していたアルコールやタバコを買い込むのも目的の一つだった。日米開戦のニュースを知ったのはこのリスボン滞在の折だった。(中略)

戦争らしいと公使館に駆けつけ、千葉公使に事実関係をうかがった。その席上、日本の戦時経済の脆弱性について私見を述べたのだが、公使には気に入られたらしく、程なくポルトガル公使館勤務の辞令が、外務省から届いた。結局、年が明けてから4か月間、リスボンで暮らすことになった。

リスボンには英国の新聞がその日のうちに空輸されてくるので、日本で関心のありそうな記事を要約して伝達するのが仕事であった。」友岡は菊池らのこうした仕事を統括したのであろう。

さらには翌1942年1月11日、千葉公使は「情報企画に関する件」として
「(複雑な情報を)隠語通信により(本国に)報告することはすこぶる困難。また当国の電信および電話は何れも英国人の掌中にあり。郵便もすべて英国側の検閲を受ける。隠語は勿論、“隠しインキ”による通信も実用的にあらず。」
と本国への機密情報伝達の困難を伝えている。英国は自国の安全のため、ポルトガルの中立を尊重しなかったようだ。そして千葉公使は暗号通信、スパイ映画のような特殊インクによる通信などにも言及している。戦時色がだいぶ感じられる電報であるが、本国の指令に従わない印象も受ける内容だ。

3月19日、伊藤特派員が再び朝日新聞に「中立の花園を荒らす間諜500人の暗躍」の見出しで
書いている。中立国ポルトガルには英国の情報関係者が500人も入り込み、300人が英国大使館内に勤務していると。500人というのはこうした記事特有の誇張と思われるが、中立国ポルトガルを舞台に、戦争中は英国に留まらず、独伊などのスパイが多く活躍したことは事実であろう。

伊藤はさらにリスボンでは、フランス、スペインと異なりパンが白いと書く。小麦が十分にあるということであろう。さらにバターがまだあると驚いている。占領下のフランスより食糧事情はだいぶ良かった。

<邦人>

古くは鉄砲伝来、フランシスコ・ザビエルと言った名前で日本人に知られたポルトガルであるが、この頃ポルトガルに暮らす日本人は非常に少なかった。戦前最後の記録1939年10月現在の調査では15人が暮らすのみであった。うち外交官は3名、軍人が2名である。それが外交官だけでも1942年2月1日付けの外務省職員録によると、以下のように6人に増えている。日本にとっても米英の情報収集基地として、重要度が増した。ただし嘱託の身分である友岡の名前は載っていない。

公使 千葉蓁一
一等書記官 井上益太郎(1年足らずでハンガリーより転入。人員強化の一環か?)
外交官補 吉岡俊夫
書記生  上野毅夫          
書記生  岩瀬幸
書記生  辻野昭

開戦と共に増えてきた邦人だがこの時期、外交官以外の人数は正確にはつかめていない。名前の判明しているのは三島美貞陸軍武官大佐、茂木政(朝日新聞)、斉藤正躬(同盟通信社)である。三島は軍人出身でありながら内閣直属の企画院に属し1941年2月、友岡と同じタイミングでドイツに経済研究のため出張に出た。その後1942年3月にポルトガル駐在陸軍武官となる。

ポルトガル公使館メンバー他。左から二人目の少女は吉岡俊夫、須磨子夫妻の長女寿実子か?千葉公使夫妻の間の子供は井上益太郎の長男?後列右端は明らかに陸軍軍人らしく三島か?

<千葉公使の異動>

1942年10月14日、千葉公使の後任として森島守人に辞令が発令された。森島はニューヨーク総領事であったが、日米の開戦で米国により抑留された。その後日米間で外交官を交換する取り決めがまとまり、森島は日本に向かう途中ポルトガルの赴任を命じられ、モザンビークからリスボンにやって来た。日米同数の交換外交官が、共に通常の赴任が困難な欧州に向かうことが合意されたのであった。

朝日新聞によると「千葉公使は駐仏大使館参事官として、三谷大使を補佐。今後ビッシー政府との交渉にあたる。」とあるが、フランスで千葉は占領下のパリで旧日本大使館に勤務した。赴任後1年半での早い異動は、千葉公使に何らかの事情があったことを想定させる。

森島公使の到着は10月21日であった。同じ船でアメリカからリスボンに着いた藤山楢一官補が当時の様子について書いている。
「千葉公使以下、友岡久雄教授も嘱託で駐在していて、日本にとっては英米の情報収集基地の一つであった。」

次いで1942年12月11日、新任の森島公使は谷外相宛てに書き送る

「情報事務担当者増強の件」
「現在情報関係館員は書記官一名(小野)、嘱託一名(友岡)、官補4名(吉岡、藤、安藤、松井)なるも安藤は病気療養中、松井は近来健康を害しおり。」と情報関係者が増強され、そこに友岡が含まれることを書くが、森島と同様に交換船で日本から赴任してきた小野孝太郎が責任者となった。

小野は日本で企画院書記官であった。彼は外務省から企画院に出向していた。そのためリスボンでの待遇は、民間出身の友岡と異なり一等書記官であった。企画院では「企画院事件」というものがあり、1941年までに左翼活動嫌疑で19名の検挙者を出している。先の三島陸軍武官と今回の小野の赴任に、この事件との関係があったのかは、さらには外務省には、特高に追われた者が欧州に逃げるという一つの流れがあったのかは、今後の調査テーマである。

欧州着任以来、自分より若い職業外交官に交じって、嘱託の身分で働く友岡は苦労も多かったであろう。また予想に反しての早い千葉公使の異動に、友岡も戸惑ったはずだ。

森島の同じ電報はさらに
友岡嘱託は従事よりの経緯もあり、あるいは手離さざるを得なき次第なり」とある。
“従事よりの経緯”とは千葉公使との関係による赴任であることであろう。自分を引っ張ってくれた千葉公使が異動になれば、関連して友岡も異動することは容易に想定される。もしくは従事=仕事と辞書通り解釈すれば、友岡の仕事上の問題、つまり反枢軸的態度と言うことかもしれない。

戦前、戦中にアメリカの経済を研究した学者の幾人かは「日本との鉄鋼生産量、飛行機生産台数などの差が歴然としていて、日本が勝てるとは到底思わなかった」と戦後になって語った。

リスボンで英米の最新情報に接していた友岡が同様な考えを持ったとしても不思議はない。もしくは日本にいた時から、日本に勝ち目のないことは分かっていたのかもしれない。また1942年6月のミッドウェーでの日本海軍の大敗北は、日本では報道されなかったが、友岡の目には、英国の新聞を通じて入ったはずである。

森島公使の回想によれば、ポルトガルの邦人の関し
「三井、三菱、正金、郵船、満鉄、貿易斡旋所が人を提供し、外交官待遇で活躍した。官民合同で60人。小野孝太郎書記官がまとめる。」とかなり増えたことを書いている。海軍武官も赴任し、
新聞関係も、
同盟 佐藤重雄、本田良介
朝日 茂木政
毎日 佐倉潤吾
読売 山崎功
と各社揃った。
この事実を知ると眞子さんは、母親恒子さんが「リスボンのバーには父の名前でボトルがキープしてあり、特派員の方が自由にお飲みになったそうだ」と語ったことを思い出した。当時中学生の眞子さんにはその意味はよく分からなかったが、情報収集の仕事をしていたので、マスコミ関係者との付き合いも大事であったのであろう、と今その言葉の意味を理解した。

<ドイツへ>

1943 年3月8日、大島浩駐独大使が谷外相に電報を打っている。
「友岡嘱託はベルリンに着任。待遇は二等書記官並の趣。」

千葉公使に従いパリに行くことなく、ベルリンが次の勤務地となった。さすがにフランスでは友岡は活躍できないと判断したのであろう。しかしこの時期、ベルリンの日本大使館で人員を強化する必要があったかも、疑わしい。同じ時期スイスの徳永太郎3等書記官は反枢軸的思想と言うことで、大島大使の側で教育し直すとドイツに転勤になった。友岡も同様の理由でベルリンに呼ばれたと考えるのは、一つの可能性である。
        
ドイツ大使館は枢軸一辺倒の大島大使の下に総務、政務、経済、文化、領事の各部に分かれていた。友岡は専門である経済部に入ったと思われるが、ベルリンでの勤務に関する資料は見つかっていない。

ベルリンにて。右は吉岡俊夫官補?吉岡もリスボンからベルリン異動している上、リスボン公使館の写真の前列右端の人物に似ている。

手紙 1>

友岡がベルリンから日本の家族に出した手紙が二通残っている。当時手紙はスイスのような中立国で投函すると、ソ連を経由して着くこともあったようであるが、全く信頼をおけない。よって潜水艦で帰る人、もしくは数少ないがソ連の通過ビザを得てトルコから帰国する邦人が、トランクに入れて運ぶのが、最も確実な方法であった。

友岡の送った手紙の封筒。日本大使館ベルリンの名前が入っている。個人が運んだので切手は貼られていない。

友岡は「伏下氏に託した手紙は届いたであろうか?」と1944年4月12日付けの手紙の冒頭に書いている。伏下氏とは伏下哲夫海軍主計中佐のことである。文面から推測すると伏下は友岡の住まいを訪れたようだ。彼も経済を専門としたので、交流があったのであろう。

そして伏下は1943年10月5日、フランスロリアン軍港からイ号第八潜水艦で日本に向かい、無事日本にたどり着いた。戦争中を通じて唯一無事に日本まで戻った潜水艦であった。彼の運んだ手紙は、おのおのの駐在員の日本の家族の元に届けられた。

そして眞子さんには小さな小包が届いた。中身はアーガイル柄(格子模様の一種)の膝までの純毛のソックスであった。補修用のウールの毛糸まで付いていて、子供心にも感心した。日本ではウールの靴下などどこも手に入らない時代、同じ戦時下においてもドイツとの国力の違いを感じた。潜水艦で帰国する人は荷物が限られ、かつ日本の戦争遂行に必要な書類も多く持ち帰ればならなかった。手紙を託した人は多くいたが、おそらく無理を言って子供のために小さな小包を託したのは、友岡の子供を想う気持ちの表れであろう。

残る一つの手紙は1943年11月7日付けで娘の真子に宛てたものである。(これは日付から伏下が運んだとは考えられない。)この3日後の11月10日、ソ連の通過ビザを得て日本に帰ることのできた数少ない一行がベルリンを出発した。大使館からは牛場信彦一等書記官(後の駐米大使)がビザを得た。友岡は手紙を牛場に託したのであろうか。帰国者は残る者の日本の家族らに宛てた手紙を持ち帰り、それはトランクひとつにもなったという。日本に帰るという特権を得た者が、残る者に対して、唯一出来る好意であった。

友岡は子供に宛てて丁寧な文字で
「周囲の家はこの3月以来の英米側の爆撃のために、散々破壊されておりますが、(自分の)お家は未だ、少しも損害はありません」とベルリンでの空襲が激しいことを書き、「日本にもまたアメリカの飛行機が来るかもしれないので、落ち着いて行動するように」と近い将来、日本への空襲を予測し告げた。さらに

「戦争は今までの世界の歴史にない大戦で、日本の何倍かの力を持った米国、英国と戦って勝たねばならぬのですから、皆お国のために今迄より何倍かの勉強をしなければなりません。」と娘にしっかり勉強するようにと励ました。日本での検閲の可能性のある手紙だから、反枢軸的なことは書けないが、友岡は米英と日本との国力の差はしっかり認識していたことが分かる。

ベルリンにて。本の揃った立派な部屋は自宅ではなく、大使館内?
(ベルリンの日本大使館には2万5千冊の蔵書を持つ図書館があり、戦後連合国に接収されたという。)



1944年4月 ベルリン住居。内田藤雄一等書記官撮影 内田書記官は大使館において親独派の代表格であった。

<眞子さんの記憶から>

友岡の欧風滞在について、亡くなった母親恒子さんから聞かされたことがいくつかある。その一つが「ドイツに来た日本陸軍の軍人がフランス、ノルマンデイーのドイツ軍防衛施設を見学した際、父は同行しているようです。」という話である。

これに相当しそうなのは次の史実である。「ドイツ有利」という大島大使の情報にあまり信用が出来なくなった日本側では、遣欧調査団を送ることを決めた。外務省、陸軍、海軍のメンバーからなり1943年4月にドイツに入った。そしてドイツの戦線を見て回ったが8月11日には、「対英海峡築城視察」として、連合国の大陸反攻を迎え撃つことが想定されるドーバー海峡に面した海岸線を視察している。残された写真には岡本清福少将他多くの陸軍軍人に小野田捨次朗海軍大佐、与謝野秀書記官などが写っている。そこにドイツ大使館から友岡も実際に加わったのかは確認できてはいない。

さらに恒子は眞子さんに「防衛施設を見た軍人たちは非常に感心したそうです。しかし父は攻める方(米英)からすれば、必ず弱点はあるはずだ。日本の軍人はダメだ。」という意味のことを戦後語った。

<帰国者リスト>

ベルリンの日本人はソ連と戦争をしていないから理論上はソ連の通過ビザさえ入手すれば、トルコを経由して日本に戻ることが出来た。しかしソ連は自国の交戦国ドイツから戻る日本人に通過ビザを出そうとしなかった。唯一例外は日本に救助されたソ連船員を送還してもらう代わりに、ソ連が日本人に発給することであった。

それは外交交渉となり外務省は帰国希望者の優先リストを作った。その数は1943年7月9日時点で71家族であった。しかしそこには友岡の名前はない。ベルリンン転勤直後であったためか、それとも「それでも日本には戻りたくない」という気持であったからであろうか?

一方友岡をポルトガルに招いた千葉公使夫妻は優先リスト22番目であった。千葉公使夫妻の望郷の念は非常に強いものがあった。ビザが出次第帰国しようと、パリからトルコに移り住んだ。

しかしその年の11月のビザ発給者に名前はなかった。帰国の夢がかなわず、いつからか神経も弱っていったようだ。そして先回りすると1945年5月ドイツが降伏すると、その年の7月26日トルコで夫婦は前途を悲観し公使は妻みよ子(北里柴三郎の三女)を射殺し、自分も自殺する。ピストル自殺であった。夫妻の自殺には異説もあるようだが、それにはもう少し新しい資料の発見が必要と筆者は考えている。

千葉夫妻、ベルリン海軍武官邸で横井忠雄海軍武官(正面)と。時期不明だが1943年10月以前。(阿部 信彦さん提供)

<手紙 2>

先述の1944年4月12日付の手紙は妻恒子に宛てたものだ。この年はドイツの劣勢は明らかで、ソ連もほとんど通過ビザを出さなくなっていた。友岡の手紙を運んだのはこの時帰国できた満州国公使館関係者か?そしてこの手紙にはいくつか興味深いことが書かれている。

「小生は相変わらず元気に大使館に通っている。もっとも家の方は1月30日の爆撃で相当の被害を蒙り、わずかに寝室及び台所が使えるので(そこで)頑張っている」と家に被害があったことを伝え、
「大使館にも、陸海軍にも友人、知人があるので、万一の場合も心配はない」と軍人とも交流があることを書いている。その例が先の伏下中佐、内田一等書記官であろう。そして

「最近日本からくる新聞や雑誌には殆ど小生の友人の名前を見ず、淋しい感じであるが、その人たちはどうしているだろうか?」と、先の昭和研究会の友人は為政者から快く思われていない人が多く、それが為に身を案じたのであろうか。また

「こちらでも朝日の笠君がスイスに移ってからは打ち明けて話す友人がなく困るが、これも戦争では当然であろう。」と朝日新聞の笠信太郎が唯一の心を打ち明けて話せる友であったことが分かる。彼と話した内容は、戦争の行く末に対する悲観論であったことが想像できる。なお笠はスイスに移るに際し友岡に「一緒に行かないか?」と誘ったが友岡は「自分は外務省の仕事があるので」と断ったという。(眞子さん談)

ほかにも「新聞が比較的順調に来るので、日本のことも遅れながら分かっている。」とひどい月後れではありながらも日本の新聞が届いたことが分かる。さらには「この頃は自動車の運転を習っている」と書く。そして車の運転は後に役立つ。

<ベルリンの笠信太郎>

ベルリン日本人駐在員の中に、組織だった反枢軸的グループが存在した記録はない。日本人社会においてもそうした思想はおおっぴらに言える環境ではなかった。個人的な考えとして持っていた人がいたくらいである。その筆頭が、すでに紹介した笠信太郎である。

笠の欧州滞在は一年間の予定であったが、戦争の勃発で帰国の道が閉ざされ、そのままベルリンの朝日の事務所を手伝う。ベルリン駐在中は、新聞の仕事は専ら特派員である守山義雄に任せ、自分は欧州各国を精力的に見てまわった。

反枢軸と言われた笠は、終戦間際にスイスから日本に向けて打電した和平勧告で有名であるが、ベルリンでは公に反枢軸的発言はしていない。回想録などに残された限りでは、当時留学生であった篠原正瑛が次のように書いている位だ。

「笠氏は、中途半端な時間なのであまり客のいない(日本食レストラン)“あけぼの”のテーブルの一隅に腰かけて、洋酒らしいものをちびりちびりと飲んでいた。私は、たまたま居合わせた友人の紹介で笠氏と同じテーブルにすわって、簡単な話をした。

私が笠氏に向かって“枢軸側はかつでしょうか?”とぶしつけな質問をしたところ、ただ一言“負けるね“という冷ややかな答えが返ってきたことだけは、今でもはっきりと覚えている。」

レストラン あけぼの

またブダペストの笹本駿二朝日新聞特派員は、ベルリンから重鎮である笠が出張で同地を訪れると、
「二ヶ月も続けてドイツにいると、へどが出そうなくらい気分が悪くなるが、こうしてドイツを出たとたんに気分がそう快になるんだから不思議だね、なんて開口一番、漏らした」と回想している。

<友岡と笠>

笠は1943年秋、ドイツの近い将来の崩壊を見越し、スイスに居を移してしまう。友岡はそれで家族に手紙で書き送ったように話せる友人を失ったわけだ。友岡がベルリンに来たのがその年の3月である。それからの短い期間でそんな気の許す友人になれるとは思わないので、この点からも戦前からかなり面識があったと考えるところである。
1943年10月11日に笠氏は一端ベルリンに戻り、友岡と一緒に日独伊混合委員の海軍責任者、阿部勝雄中将を訪問する。阿部のその日の日記には「夜、笠信太郎氏と友岡氏を招待。小野田(大佐)、辻(阿部の秘書)と5人で夕食会。11時PMまで懇談する。空襲なし。」とあるので、阿部中将が招待したようだ。

その訪問者サイン帳に二人は名前を残している。友岡は笠に「同行」と書いている。そして「過去帳に名を連ねるや、爆撃下」という言葉は笠によるものであろう。阿部は毎晩のように訪れる客に一言書かせ、それらは一冊の立派なサイン帳になっていた。

連合国の空襲でこれから名前を書いた人が皆死亡すれば、このサイン帳も、お寺などで死者の名前を連ねる過去帳となるという、笠の皮肉であろうか?

阿部中将のサイン帳

<斉藤正躬>

1941年、友岡がリスボンに着任当時、同盟通信社の特派員として斉藤正躬がいたが1944年にはストックホルムに移っていた。ここで一つ事件があった。崎村茂樹という経済学者が、ベルリンからスエーデンに来て西側のジャーナリストの接触を受け、それがニューヨークタイムズ紙などの記事になった。

ベルリンの日本大使館は面食らったが、その崎村の行動を弁護すべく、斉藤がベルリンの内務省出身の佐藤章三に書簡を送った。そしてその文末に
「爆撃下の貴殿(佐藤章三)のご生活案じ候。末筆ながら友岡大人、水高同窓会諸兄によろしく」とある。佐藤章三はベルリンでは在留邦人の思想チェックをすることが任務の一つであった。それで崎村のような事件があると、登場するわけだが、そんな人物に「友岡によろしく」と書くのは興味深い。佐藤はおそらく友岡とは浅間丸で一緒であったので、面識があり「友岡によろしく」と書いたとも推定される。

<終戦>

1945年はドイツが降伏する年である。昭和研究会、法政大学で戦前親交があった平貞蔵の回顧録に「ちょうど法政の友だちの友岡君が外国から帰ってこられなくて、家族たちが山口に行っていたので」という記述を眞子さんが見つけている。

1945年、平が山口県の商工経済会で講演した際、同地に縁故疎開していた眞子さんら友岡の家族を訪問した。平も友岡は短期的な留学と聞いていたため「外国から帰ってこられなくて」と書いたのかとも想定される。どうも周囲にはっきり「外務省の嘱託として欧州に行く」と言わなかった背景は今後、さらに調査の必要がある。

一方ドイツの友岡にとってこの頃の家族の消息は、東京の外務省から送られてくる短い電文でしか、知ることは出来なかったはずだ。
この年の1月、ベルリンの日本大使館によって「在留邦人リスト」が作成された。これはモスクワの日本大使館からソ連側に手渡され、ソ連軍のベルリン進駐の際に、彼ら邦人の保護と日本への送還をお願いした。日本とソ連の間にはまだ中立条約が存在した。

リストの名前は大島大使を筆頭に外交官から始まる。以下参事官、書記官、外務書記などあらゆる等級の外交官が75名登場した後、嘱託が挙がっている。嘱託は一番若い外交官の下であった。一番は野上素一、イタリア留学生から現地で嘱託になった人物で、母親は小説家野上弥生子である。次いで友岡である。その後の染矢為介は“欧州無宿30年”と言われたような人物である。細かく分類すると友岡は外務省嘱託で、他の殆どは現地滞在者が雇われた大使館嘱託であった。

連合軍がドイツ内に進攻しドイツの敗戦が近くなると、邦人はベルリンの疎開を始める。3月には、日本大使館の業務はほとんど停止していた。通商経済部は日ソ間にまだ中立条約が残っていたので、ソ連の占領下になると予想されるベルリン東方100キロのプレンツラウ市に避難した。メンバーは松島鹿夫公使以下18名で、先に紹介した日本郵船の菊池庄次郎も含まれていた。

18名は大使館雇となった民間人が主であったが、友岡はそこには加わらなかった。この理由は不明である。ベルリンで友岡は経済部に所属したのかも判然としない。いずれにせよソ連軍が迫るベルリンの大使館に最後まで留まった。

その友岡が外交官の避難場所、オーストリアの保養地バート・ガスタイン目指してベルリンを去ったのは4月10日、ドイツの降伏まで一か月を切った時であった。メンバーはリスボンからの小野孝太郎一等書記官、イタリアからの金倉英一官補、フランスからの佐藤正三官補、アメリカからの藤山楢一官補、それに志水志郎官補と友岡の計6名で、いわば非ドイツ派外交官の一行であった。車を連ねての避難であった。友岡は免許を取ったことが役立った。

小野はリスボンで友岡の後任であったが、彼もベルリンに転勤となった。最後、外交官はもっぱらドイツに集められたのであろうか?途中で友岡の車が故障するなど大変な避難は、戦後藤山楢一が回想録に「恐怖の脱出行」という章で詳しく書いている。

バード ガスタイン 当時の避難者が買い求めた絵ハガキ

<抑留>

バート・ガスタインでアメリカ軍に抑留された大島大使以下の日本外交官は、アメリカに移送される。バート・ガスタインを去るに当たり携行を許された荷物は一人当たり45キロであった。多くの邦人はそれ以上の荷物を持ち込んでいた。それらはホテルに預けておくしかなかった。そして戦後しばらくたってから友岡を含む関係者で、お金を出し合って、代表が現地に調査に赴いたが、アメリカ兵に奪われたのか友岡の荷物は残っていなかった。

そして日本の終戦もアメリカで迎える。抑留中はすることもなく、多くの邦人は麻雀などで毎日を漫然と過ごしたようだ。一方抑留者には各方面の有識者が数多く含まれていた。大谷修少将は1945年11月15日の日記にそんな引き揚げ者に関して、次のように記している。

「全欧に短きも5年、長きは25年に渡り勤務ないしは営業したる人々の集団なり。しからば語るところ、政治、外交、経済、新聞、食糧、、、(略)多方面に渡り、ちょっと得られぬ常識養成の機会なり。

多くの人々はトランプ、麻雀に朝より深更に及ぶまで時間を費やすが、われは努めて知識を求めることに努力した。特に余に教える所ありし人々は」と書き、印象に残る講演のテーマと発表者の名前が書かれている。そしてその中には

友岡法政大学教授のドイツ統制経済」が入っている。収容所内でも友岡はこうした講演を行ったようだ。またドイツ駐在中は連合国の情報収集ではなく、ドイツの統制経済を調査していたことを推測させる。
その後同年12月6日、一行は神奈川県の浦賀港に到着する。4年ぶりの日本では友岡の恐れた旧体制も終焉していた。

友岡が日本に戻ったのは初冬で、コートを着ていたが、それは日本では見たこともない立派なコートであった。また少ない荷物であったがトランクの中の品物も、どれも立派で驚いたことを眞子さんは覚えている。友岡自身も滞在中はしばしば日本の生活水準の低さを実感したことであろう。

抑留されたアメリカのホテルの売店で日本人は、日本ではお目にかかれないであろう、生活用品を一部の夫人たちが買い占める騒ぎもあった。友岡は二人の娘のために、天才バイオリニスト諏訪根自子にセーターを選んでもらい、それをお土産に持ち帰った。アメリカのホテルの売店の商品ですら、日本のものをはるかにしのいだのだ。

ただし眞子さん用は戦時下の日本に溢れていた国防色(カーキ色)に近い色のカーディガンで、一方の妹用は空色の華やかなものであったので、そちらがとてもうらやましかった。諏訪根自子は女子中一年生と聞いた眞子さんにはシックな色のものを選んだのであろう。

<終章>

日本で捜査の手を逃れて欧州に向かった友岡であるが、こうして断片的な資料から見てきたところによると、欧州滞在中、笠信太郎とは本音を語り合った。一方他の駐在員、外交官、軍人、民間人とは自分の心情を表に出すことなく、無難な付き合いをしたようである。そしてそれはおそらく友岡が唯一、欧州で駐在を続けることが出来た道であった。また嘱託という身分では仕事上苦労も多かったことが推察できた。

日本に戻った友岡であるが、どこか元気がなかった。眞子は「いよいよ父の時代が来たのに」と思い、なおさらいぶかしがった。実際に大学でもいづらかったようだ。周囲は「大変な時代に海外に出て楽をしやがって」という目で見た。日本では厳しい空襲、物資の欠乏などがあったが、友岡の友人は思想的にも厳しく締め付けられてきたから、こうした思いにとらわれたのであろう。


また友岡は思想的にも全く穏健になっていたという。理想としていたソ連に幻滅し、ナチスというひどい政権下ではあったが、人々の生活水準の高さに感嘆したためかもしれない。

そして1966年夏、66歳で友岡は死去する。笠は新聞記事でそれを知ったか、杖を突いて弔問に訪れた。

終わり

最後の私の書いたものに目を通し、いろいろなコメント、思い出話を披歴いただいた磯貝眞子さんに心からお礼申し上げる。

その後に見つけた新資料に関して、藤村の新たな人脈? 友岡久雄教授も参照ください。



友岡教授の長女で、筆者も何度かお話を聞いた磯貝眞子さん(洗礼名・グレース)(83歳)は、3年間ガンとの闘病を続けていましたが、2016年9月8日11時18分永眠されました。謹んでお悔やみ申し上げます。

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