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ベルリン それぞれの1945年元旦


1939年9月1日にドイツ軍のポーランドによって始まった欧州戦争も5年を過ぎた1944年末、東ではソ連軍がワルシャワに迫り、西ではパリ、ブリュッセルが開放され、ドイツ領内に入る一歩手前であった。
ドイツ軍はあと4か月抵抗を続ける。戦時下最後の大晦日から元旦を、ドイツに滞在した邦人はどう過ごしたのか、関係者の日記などから再構成してみる。

<ベルリンの様子>

朝日新聞ベルリン支局より日本の本社に12月31日、国際電話でベルリンの年末の様子が伝えられた。国際電話はまだ日独間で通じていた。かけたのは守山義雄支局長であろうか。それが翌1月1日の朝日新聞に紹介されている。

見出し「寒い狭い部屋でベルリンは団らん 避難はしても強気の越年」

「(ベルリン電話)ここベルリンではただどんより曇った日ばかり続いて、今年も厳しい寒波が訪れている。何といってもヨーロッパが戦争に入って、6回目の厳冬の寒さは骨身にしみる。
空襲で破れた窓、ゆがんだ囲い、自分らの手で応急に修理した屋根、寒さはどこからでも遠慮なく迫ってくる。
それに石炭燃料等の供給制限で,、家にありながら、外套、襟巻、手袋を取らない生活が続く。
だがこの住宅も一部屋に、2人も3人もの空襲被害者、戦乱を逃れて避難してきた兵を収容して超満員だ。部屋は狭くとも、寒くとも、そこには温かいにぎやかな団欒と楽しい共同生活がある。」

どの家も破壊され、その中でベルリン市民は暖房もない中、多くの被災者を収容して暮らしていた。言論統制の下であるから、新聞も同盟国ドイツの窮状を直接は書けないが、それでも厳しい状況が伝わってくる。

元旦の午前零時、年頭のヒトラーの演説が全国民に対しラジオで報じられた。
ヒトラーの声を国民が聞くのは実に半年ぶりであった。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の直後に、マイクの前に立って以来のことである。その間ヒトラーの消息がいろいろ推測された。そうしたデマを吹き飛ばすヒトラーの登場と朝日新聞は書いている。戦線の後退に続く後退で、ヒトラー自身、国民に語りかける意欲も減退していたのであろう。
「我に究極の勝利、最後まで努力緩めず」の見出しでこれも元旦の朝日新聞に紹介された。



<阿部勝雄海軍中将 日独伊軍事委員会日本代表>

ドイツに駐在する海軍関係者で最高位であった阿部中将の5年日記には、元旦について簡潔に次のように書かれている。

「1月1日 
11時:Reichs Kanzlei(ヒトラー首相官邸)で記帳し帰る。
12時:(大使館で)奉賀式あり。 
13時:帰る。15人(阿部邸に)来る。盃を挙げ麻雀となる。

1945年 勝?負? 3000年の古き歴史の大日本帝国。ノルカ、ソルカ。」

この日記から次のようなことが分かる。
1945年の元旦、阿部中将はベルリン中心部ブランデンブルグ門に近い、総統官邸を訪問し記帳をした。この総統官邸は6年前に完成したばかりで、1939年1月12日には、最初の新年祝賀式が盛大に行われ、各国大使、外交官、政府高官、党要人にお披露目された。

続いて正午よりティアガルテン通りの日本大使館で奉賀式が行われた。総統官邸からは距離にして2キロである。阿部中将は車で移動したのであろう。

阿部中将(左)と光延海軍武官(イタリア)

日本大使館には正月、紀元節、天長節、明治節など日本の主な祝日にはほとんどの在留邦人が集まった。式では日本国の方に向かって一同遥拝し、君が代を歌い、そして大使の訓示を聞き、パーティーとなった。しかしこうして多くの邦人が大使館に集まるのも、実質これが最後となる。
その年の2月11日、紀元節の祝賀会が大使館で行われ、リッベントロップ外相も顔を出したが、すでにベルリンの邦人は、多くが郊外に疎開していた。

1936年元旦、まだ平和な頃の日本大使館庭での記念撮影。中央やや左大島大使はこの時、陸軍武官であった。

大使館での式典の後、海軍関係者15名はおそらく、少し郊外にでたGrunewald地区Lassen通りの海軍武官邸に移動する。Kaiseralle182(カイザーアレー182番地)の海軍武官室は大きな被害を受け、頑丈な地下室だけが関係者の貴重品荷物の保管場所として利用されていた。

そして一同は麻雀大会を行った。ドイツ軍の劣勢下でも、麻雀は海軍関係者に留まらず、邦人の間でかなり頻繁に行われていた。ドイツに派遣された軍人は日独の共同作戦が行われることもなく、かなり時間を持て余していたのが実情であった。

空襲を受けた後の海軍武官室

また阿部中将は“のるかそるか“と少しやけ気味に、1945年がドイツだけでなく、日本にとっても勝負の年であると捉え、敗北はすでに頭にあったようだ。

皇紀2605年(西暦1945年)元旦に阿部邸を訪問した人のサイン。
上記5名の他に、中井敏雄、上野寧、奥津彰、樽谷由吉、中山義則、田丸直吉、辻壽、舟木善郎、熊切三佐治、萩尾重樹の主に海軍技術関係者で計15名。


当時定められた日本の紀元から2605年であったので、阿部中将は日記にも「3000年の古き歴史の大日本帝国」と書いたのであろう



<扇一豊海軍大佐>

同じく海軍武官室の扇一豊も年末年始について、日記に簡潔ではあるが書き残している。
「年末、年始スキー休暇
武官、扇、藤村、和久田、鮫島、吉○、酒井(コック)、辻
酒井○○は遅れてくる。(おそらく空欄は嘱託で酒井直衛のこと−筆者)」

海軍武官小島秀雄少将、扇一豊大佐、藤村義一中佐ら幹部はスキー場で正月を迎えた。この3名のうち、扇と藤村は日本の終戦工作で名前が登場する。スキー場でも、夜は日本の終戦について議論をしたと思いたい。

陸軍も海軍も駐在者はドイツの敗戦が近くても、休暇を取得することが出来た。日本では当時の状況からしてありえないことであった。連日空襲のあるベルリンから逃れて静養のため、休暇が必要であったのかもしれない。料理人、酒井(宗四郎)も連れている。スキー場で正月料理でも作らせたのであろうか?

文部省から派遣され科学文献を収集していた犬丸秀雄も、チロルの山中で正月を迎えた。
「来たる秋に備える体力を養うため」と記している。犬丸は欧州の戦争はまだ続くと考えていたのであろう。

スキー場の陸軍関係者 左は大谷修少将 (1942年1月)



<田丸直吉海軍少佐>

元旦に阿部中将宅を訪問し、サイン帳に名前の残る田丸であるが自著「龍宮紀行」のなかで書いている。

「1944年も終わろうとしていた。(海軍武官室)事務所の有志連中は、年末年始の休みに南の山岳地方へスキーに行こうと言った。私もスキーは決して嫌いな方ではなかったが、こういう事態でスキーに興ずる気にはなれなかった。ベルリンで新年を迎える事にした。

大晦日というものは、一年中の総決算をする日で、その晩だけはどんちゃん騒ぎが公認されているというので、普段心安く付き合っていた連中が集まって酒宴を開くことにした。10数人が集まった。」



川喜田四郎陸軍技術少佐>

ベルリンに駐在した川喜田少佐の1945年の手帳は、おそらく没収されたのであろう。その後アメリカの手でマイクロフィルム化され、閲覧する事が可能である。終戦間際の個人のまさにメモ書きは判読が難しいが、貴重な内容が記されている。

「1月1日 11時半 ビュロー(陸軍事務所)、12時 大使館

昨晩の爆撃でU-Bahn(地下鉄)も一部不通。 11時半より武官に挨拶。12時より拝賀式。その後立食。 今日は実に美味しいご馳走がある。丁度食事中アラーム(空襲警報)、ケラー(地下室)に移りまもなく解除。また上へ行き食べ直す。1時頃U−Bahnで(自宅)まで。午後昼寝。」

川喜田少佐は11時半より、おそらく陸軍武官室で小松光彦陸軍武官に新年の挨拶をした。そこからすると総統官邸に記帳に行ったのは、この年は阿部中将など、非常に限られたメンバーのみであったことになる。



<与謝野秀一等書記官>

ベルリンの大使館の関係者では与謝野書記官が、大晦日について詳しく書いている。彼は平和なスイスからベルリンに来て2ヶ月ばかりであった。

「空襲下のベルリンでは娯楽もない侘しいその日その日を送っていた我々には、時々気の合った友人たちが寄り合って酒を飲んだり、トランプに興じたりするのが唯一の楽しみであったが、大晦日だけは空襲の心配のない場所を選んで、久し振りに騒ごうという計画が出来た。」
精神主義の強い大島大使の元、大使館ではクリスマス、大みそかの公式パーティーなどはなかった。

「郊外ヴァンゼー(湖)の竹林の中に住んでいるK君の家で行うことにし、そこに一緒に車で行くため、ダーレムの与謝野の家が集合場所となった。
食事の前に(ドイツ人の)友人の一人が突然若い女性を3,4人連れてやって来た。彼らもK君の家に呼ばれていた。
食糧事情の悪い戦争末期、食料切符を沢山もらう日本人の所へ、女の子たちが集って来る現象は、(与謝野も)ベルリンに来てすぐ気が付いた。」

その夜突然空襲警報が鳴った。“しまった!”と思わず与謝野は叫んだ。若い女性が来て自然陽気になって、予報を聞きもらしていた。いきなり警報で、大きな防空壕まで行く時間がない。という事で防空対策が不十分なアパートの地下室に入った。この夜は運悪く近所が爆撃対象となり、皆が頭を手で抱えて、祈る様な気持ちで空襲の過ぎ去るのを待った。

そして元旦、英国は今後毎日ベルリンへの空襲を行うと宣言し、実際に実行した。また与謝野らが空襲を逃れて集まろうとしたヴァンゼーは、ベルリン中心部から南西に距離にして23キロしか離れていない。ベルリンの空襲は、狭い範囲に集中的に行われた。

(「縁なき時計」より)



<外交官補 藤山楢一>

外交官では藤山楢一官補も書いている。藤山はアメリカから来て、親独派の集まるドイツの大使館では非主流派であった。

「年の瀬もいよいよ押し詰まってきた。もちろんクリスマス・パーティーも年越しのパーティーもなく、私たちは陰鬱な空の下を、肩をすぼめて歩くしかなかった。」

大使館員は小グループで年を越した。
「こんな(陰鬱な)気分に耐えがたくなった年越しの夜、我が家でささやかな忘年会を開くことにした。大使館の若手同僚や、ドイツの親しい友人たちと相談し、それぞれが何とか手に入れたワインとかコニャックを持ち寄って、ウサ晴らしをしようと計画したのである。結局集まったのは同胞の友人3人、ドイツの友人が10人位であった。(中略)

歌合戦の間もつけっぱなしにしておいたラジオから、ヒトラーの演説が流れてきた。ヒトラーはさすがに“ドイツは勝つ”とは言わず、ドイツには常に神の加護があるという抽象的な信念ばかりを強調していた。(中略)」

朝日新聞が半年ぶりと報じたヒトラーの肉声は、国民に対し抽象的なことばかり述べたてた。またここにもドイツの友人がたくさん集まったのは、日本人の豊富な食料目当てであった。

「ヒトラーに続いて宣伝相ゲッペルスの演説が流れてきた。ゲッペルスは宣伝のプロだけに“聞いているうちに何だかドイツが逆転するような気分になる”とは、ドイツの友人たちの感想である。

二人の演説が終わるとアナウンサーは“さ、皆さん新年です。今夜は思い切って楽しみましょう”と言って、久しく聴いたことのないダンス音楽を、やけくそのように2時間も流し続けた。肉親を失い、財産を焼かれ、将来に何の展望も持てなくなっていたベルリン市民は、この陽気なダンス音楽をどのように聴いたのであろうか?」

ドイツの習慣に倣い、日本人も多くが、大晦日は遅くまでパーティーを楽しんだ。

(「一青年外交官の太平洋戦争」より)



<西畑正倫 満鉄> 

満州国公使館嘱託であった西畑の日記にも元旦の記録がある。

「正午大使館で4度目の新年会,大島大使より身辺を整理する様挨拶あり。これが最後と考えてか大変な御馳走。12時空襲あり,最近は500乃至1000機で午前、午後2回空襲あり,昨夜の空襲で窓硝子が飛び散り部屋は8度の寒さ。(ただし)外交関係者(の被害)は一週間以内に修理してくれる。」

大使が「身辺を整理」と言った事は、事実上ドイツの敗北を認めたのであろう。朝日新聞にも出たように、多くの日本人も窓の吹き飛んだ部屋で新年を迎えた。

1月3日の記述も付け加える。
「宮田耕三さん宅で古森さん(九大の先輩)と御馳走になる.宮田さんとは(昭和)16年からの交際で夫人は有名な文子さんである。最近ベルギーより引き揚げて来た。夜帰途ドイツの休暇兵数名に襲われた。帰隊して敗戦の憂き目をみるより国内で乱暴して留置所入りを希望しているらしい。国鉄の優待パスを見せると破棄して立ち去る。」
ドイツ兵のモラルも相当に低下している。

(「西畑正倫追悼録」より)



<他の大使館の新年会出席者>

桜井信太陸軍中佐 1944年10月、ソ連軍の迫るブダペストからベルリンに避難してくる。

「どこで越年したかは覚えていない。ただ大使館で正月の御馳走を食べたことは記憶にある。あまり気勢の昂らない新年であったことはやむを得ない所であった。」

服部惣九郎陸軍少佐

「1月1日には私が独国滞在中4度目の新年会が日本大使館で開催され、大島大使より訓示があった。」

この食糧難の中、大使館では残された日本の食材を使った料理がふるまわれたのであろう。見てきたように、多くの邦人がそのご馳走を記録している。ただし“正月の御馳走”の概念は人によってかなり異なろう。日本食のないハンガリーから来た桜井中佐のような人には、日本食という事だけでご馳走であったかもしれない。

(「大戦中在独陸軍関係者の回想」より)



<湯浅年子>

ベルリン駐在の石毛省三陸軍大佐は湯浅について以下のように書いている。
「たまたま1944年8月、パリから撤退してきたフランス(陸軍)武官室保護下の湯浅年子女子(キュリー研究所)の世話を命じられた。」
日本からの研究者も、この時期には軍の嘱託のような形で滞在するのが常であった。そして湯浅の残す日記には、

「1月1日
午前5時。H中佐の夜会から帰ったところ。無意味なダンスを眺めながら、こうして動くことを好む人間の心理は、どこから来ているのであろうと考えて不思議になる。今年の初めに祈ること。

1 自然の自分のままにふるまう事。
2 良心的な研究をする事
3 決して憤慨しない事。

私の好きな言葉をここへ書く。
“たとえどんなことが起ころうとも、たとえ魂のない肉体になったとしても、やはり研究しなければならないだろう。” −ピエール キュリーの言葉  (日記の原文は仏語)」

好きな言葉は自分が所属したパリのキュリー研究所の名前を冠する、ポーランド人であるキュリー夫妻の夫の言葉であった。H中佐は樋口フカシ中佐であろう。他にもソルボンヌ大学留学生であった小松富美子を含め、パリからの避難者を統括するのが樋口中佐であった。大みそかの晩の気乗りのしない夜会から午前5時に戻った湯浅は、殆ど睡眠もとらないまま、翌日正午からの大使館での拝賀式に参加したのであろう。

(「湯浅年子 パリに生きて」より)



<笹本駿二 (朝日新聞 ベルリン支局)>

次いで報道関係者の記録から見てみる。
ブダペストからベルリンに移って1年半の笹本は12月末にスイス転勤のための入国ビザが下りた。その頃の様子を書いている。ベルリンと別れる前に笹本は、首都をゆっくりと歩いて回った。

「それはまことに惨憺たるベルリンだった。街の中央はどこを見ても廃墟ならざるはなく、その廃墟のどこかにまだ人が住んでいた。どこかの通りでは、廃墟の中から明るいピアノの音が聞こえてきたりした。またある廃墟の崩れの中では、換気装置の機械がぐるぐると廻っていた。廃墟の中のモーツアルト、廃墟の中の電気機械。敗戦の都の象徴としてこれ以上のものはあるまい。」
廃墟の中で焼け残っているピアノを弾く人がまだいた。

元旦の記録は無いがその翌日、笹本はスイスに向かう。
「1945年1月2日の夜、空襲警報の鳴り響く中を、チューリッヒ行きの汽車はベルリンの停車場を離れた。(中略)
翌日の昼前、チューリッヒ駅に降りたわたくしを、笠(信太郎)さんとT君(田口二郎)とが迎えてくれた。
“ここまでくればもう大丈夫だよ。“まるで政治亡命者でも迎えるような笠さんの言葉だった。」

この時、国際列車もまだほぼ時刻表通りに動いていた。ベルリンから12時間ほどで中立国スイスに入れた。西からベルリンを目指す連合軍がライン渡河を含む、ドイツ領土進入のテンポが早まったのは、1945年3月に入ってからであった。

(「第二次世界大戦下のヨーロッパ」より)



<江尻進 同盟通信 ベルリン支局長>

同盟通信の江尻支局長は、年末の少しやけ気味のパーティーについて書いている。
「空襲の下では、明日の運命も測られない。お互いに乏しい食事に招いたり、招かれたりの会合が、警報をおかして頻繁にあった。無言のうちに“大変お世話になりました。どうか生き残ってください”という気持ちを込めた“生別会“という訳であった。

われわれの支局でも。ドイツ関係者や日本大使館員を招いて、12月に入って盛大な招待会を開いた。支局に貯蔵してある食料と酒をはじめ、我々の食料切符を全部はたいての大盤振る舞いである。
会場は、空襲で吹き飛ばされたガラスの代わりに、窓は全部ボール紙でふさがれている支局である。暖房は二つの小さな電気ストーブだから、足の底からしみつくように冷える。

それでも白紙で覆われたデスクいっぱいに“山海の珍味”が整い、本棚数段に数十本の酒がずらりとと並べられ、我々は久しぶりに酔っぱらった。」
ここにも多くのドイツ人が集まり、沢山の酒で前後不覚に陥った客もあった。

(「ベルリン最期の日」より)



<邦正美(舞踏家 ベルリン留学中)>

次は民間人から紹介する。
「(大晦日)ベルリンにはこの夜も空襲があった。そしてその翌日の朝、1月1日にも空襲があった。この1945年の元旦からベルリン市民は全員自分の住居から下におりて、防空壕になっている地下室で生活するように、との指令が出た。空襲がはげしくなったので危険だからというのである。」

連合国の空襲は大晦日にも行われた。そして与謝野が書いたように、今後は毎日空襲が行われると宣言された。それに対応して市民の普段の生活場所も生活は防空壕となった。

(「ベルリン戦争」より)



<外交官補 高橋保>

パリが連合国に解放され、そこからベルリンに避難してきた外交官とその家族は、そのままチェコスロバキアとの国境ブリュッケンべルクのホテルサンスーシーに避難した。大島大使による「非戦闘員はベルリンに留まるべからず」との指示で、避難者は婦女子を中心に60人におよんだ。保養地ブリュッケンベルクは、数の上ではベルリンに次ぐ日本人の数であった。

フランス、ビッシーの大使館に勤務した高橋官補もその一人であった。高橋は他の邦人と共に1944年8月にビッシーから引き揚げ、ベルリンの大使館での勤務となった。しかしまもなく肋膜炎となり、療養も兼ね、ブリュッケンベルクに移る。

「1945年の新年を迎える。美しいドイツのブリュッケンベルグの山にて年を越し、雪の正月を送った。昨夜は浅田夫人、福澤夫人を交えて、それに沼田少将夫妻を加えて夜中まで踊り、それから初めて、ヒトラーの演説を、激しい調子のを聞き、また夜の8時にはゲッペルスの話も聞いた。ゲッペルスのは非常に分かりやすいが、ヒトラーのは、なかなか調子が激しくて難しかった。」

浅田夫人は浅田英一雇のジャンヌ(おそらくフランス人)、福澤夫人は福澤進太郎雇のアクリビ(ギリシャ人)と西洋婦人であった。その優雅なさまを描きたかったのであろう。

「肋膜に倒れて以来もう3か月、雪に埋もれたこの山に正月を迎えようとは思わなかった。思えばフランスを逃げて以来ここ4か月、慌ただしい変転を見せて1944年は終わった。ここにいよいよ少なくともヨーロッパ戦争の終局であろうと思われる1945年を迎える事になった。新しい希望を持ち、日本の善戦を祈りつつ突進しよう。」
高橋も欧州の戦争は1945年度中に終わると読んでいた。

(「万里を行く : 若き外交官の手記」より)



<関根正雄>

ドイツ留学生であった関根正雄(旧約聖書研究者)もブリュッケンべルクで新年を迎えた。ベルリンの日本人が敗戦間際で浮足立つ中、ブリュッケンべルクに家族と滞在する元パリ大使館の前田陽一が、関根を当地の子供たちに対する教師として雇ってくれた。ちなみに先に紹介した湯浅は自身の研究を優先して、教師の依頼を断っている。関根が赴いたのは12月初めの事であった。

「フランスにいた子供たちばかりなので、日本語と同じようにフランス語が用いられていた。日本人と結婚したフランス人などもいて私はその人々に日本語を教え、同時にフランス語の勉強をしたものである。間もなく迎えたクリスマスから正月にかけての、この地の日々もまことに楽しいものであった。(中略)
事実上平穏なこの地の生活と、殊ににぎやかな久しぶりの日本式の正月は、予想される多くの苦しみを忘れさせたのである。」
ここでは避難者によって、日本式正月が営まれたようだ。着物を着た女性もいたであろう。ベルリンから南西に370キロのブリュッケンベルクは終戦間際、ドイツ在留邦人最後の楽園であった。

(「滞独雜記 : 1939〜1945」より)



<三谷隆信 (駐フランス大使)>

フランスが連合国に解放されると、対独協調のフランス、ビッシー政府関係者が、南ドイツのシグマリンゲンという町に避難する。日本の駐フランス大使もそこに居を構えた。大使ほかわずかの邦人は12月25日に日付が変わった午前零時過ぎ、雪の降る道を教会に向かった。教会の中は街の人々で一杯であったが、戦時下ゆえ男の姿はほとんど見当たらなかった。

”聖しこの夜”の合唱に移ると、全員が立ち上がり合唱した。三谷大使の耳には大きな歌声と共に、ホーエンツォルレン家の家訓がこだまするように響いてきた。「神なくば、無なり」

(「臣下の大戦」より)

今後も記録が見つかるたびに更新していく。

(2015年5月5日)



市川澄子 三菱商事市川保雄長女>

1944年8月、パリからベルリンに引き揚げた婦女子の内うち、三菱商事の家族だけはベルリン北方フォン・アルニム伯のズコウ城に避難した。2歳から13歳までの子供13人を交えた、5家族24人での疎開生活であった。

当時8才であった澄子は書く。
「城内が雪で一面銀景色に変わると、楽しいクリスマスがやって来た。クリスマスには領主様と共にお茶会のお招きにあずかった。そこはとても豪華なサロンだった。
(日本人の子供たちが)ドイツ語でドイツ民謡(樅の木)を合唱。領主様夫妻が大変喜ばれ、特殊なスパイスを使ったクッキーをごちそうになった。もう一度それを食べたいと思い続けている。窓の外では、雪をかぶった天然のクリスマスツリーがたくさん輝いていた。
年が明けて1945年。ベルリンの事務所へ時々通っていた父親たちも、年が明けるともうあまりいかなくなった。」
さほど離れていないベルリンとは全く異なる光景であった。

同じく三菱商事パリ支店に勤務した若林卓弥の妻春子も書いている。
「その年の忘れ得ぬクリスマス。サロンには高い天井に届くばかりの樅ノ木が飾られ、サロンいっぱいに森の香りが満ちていた。白い蝋燭と銀のつららだけのクリスマスツリーは心に染みた。」
この年のクリスマスは、長い華やかな歴史のズコー城にとっても最後のものとなる。
(2017年10月29日)

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