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<序> 「日本人は教育熱心」とはよく言われるところである。そしてそれは筆者の研究する第二次世界大戦時、欧州に駐在した日本人にも当てはまる。まだ少ない駐在者であったが、赴任地で帯同する子供たちに、日本の教育を受けさせようとした。 そのうち1936年4月にドイツで開校された日本人学校について、筆者は「日本人小学生が体験した戦前のドイツ」の中でその設立からかなり詳しく紹介してきた。その後イタリアに続き、フランスの日本人学校の事情について、情報を入手することが出来た。本編ではそれらを中心に、戦時下の欧州で厳しい戦況の中、駐在する日本人の子供が受けた教育について考察する。 <末松少佐のパリ日本人学校訪問> 1944年4月末、ベルリン駐在の末松茂久少佐はパリを訪問した。連合軍のノルマンディー上陸の2か月前、パリ解放の4か月前である。 彼によるとこの頃パリには依然150人の日本人がいたという。ベルリンの半分である。パリは1940年6月、ドイツ軍によって占領され、それ以前に多くの邦人が日本に引き揚げた。日本の大使館、陸海軍武官室はフランス政府のあるビッシーに移っていて、パリには最低人数の留守番をおいているだけだ。その割には150人とはよく残っているという印象である。パリに長く暮らす芸術家が多かったようだ。(なお150人という数に関しては異説もあるので、それば別の機会に紹介する。) そしてこの時末松は、どういう理由からか現地の日本人小学校を訪問している。大島大使の引き揚げ命令でドイツの日本人婦女子は開戦前に全員、日本に引き揚げた。末松は日本の子供のいないベルリンから来て、子供との触れあい、日本人家族に対し強い郷愁を抱いていた。パリ訪問後に末松が日本の妻の元に書き送った手紙に残るその様子は、筆者が捜した限りでは、唯一パリの日本人小学校について書かれたものである。 「全ドイツ合わせても日本人の子供は10人を超さない。ところがパリでは小さい、かわいらしい日本人の子供が20人以上いる。そのためにささやかな日本人学校が出来ている。 これらの子供たちは大部分、フランスの小学校に通っている。フランス語はみんなペラペラで、お父さんや、お母さんよりもずっとうまい。 木曜日と日曜日はフランスの学校はお休みになるので、毎週木曜日、子供たちは日本海軍武官室に集まって、日本語を習う。大きいのが16歳になるお嬢さんで、小さいのはやっと歩けるばかりの3つか4つくらいまで。 約4分の1は混血で、お父さんが日本人、お母さんがフランス人その他の外国人の子供。先生は物理を専門に日本の文理科大学で勉強した若い女性学士で、岩佐という人が主任で2,3人の日本人の奥さんが応援に来る。 日本の読本で読み書きを習ったり、日本の唱歌を歌ったり、庭で遊戯をしたりする。子供たちはこの木曜日の午後を楽しみに待っているようである。」 これが筆者が知りえた唯一のパリ日本人学校の姿である。 <パリ日本人学校の教師> 授業が木曜日だけと言うので、今で言う補習校であろう。また先生役として紹介された“女性学士”は東京女子高等師範学校付属高女を卒業し、東京文理科大学に進学し、その後パリの原子核化学研究所で研究していた湯浅年子である。彼女の日記には1943年6月12日に 「日本の子供達を無報酬で教えることを頼まれた。子供達の日本での教育を取り戻すことが出来るようにというのである。それはそれとして私は大人達の陰謀は計算に入れていなかった。無報酬で行う事にはなじまないが、まあ仕方がない。“縁なき衆生は度し難し!”しかし人の純粋な気持ちにつけこまれたようなのは、残念に思う。」とある。 ベルリン、ローマの日本人小学校でも先生は留学生が主体であったが、パリの湯浅は自分の研究の時間が減ると思ったのか、あまり乗り気でない印象が正直に書かれている。また子供の教育なのだから「無報酬が当然」と考える保護者達にも違和感を覚えたようだが、“人の忠告を聞こうともしない者は救いようがない”と諦め引き受けたようだ。 そしてこの日記の日付が1943年6月12日であることからすると、ドイツの戦況の不利が明らかになったこの頃、初めてパリに日本人学校ができたのであろうか?とすればあまりパリの戦前、戦中に関する書物等にも書かれてこなかった理由の説明がつく。 また主任の岩佐という人は、パリ陥落時にベルリンに逃れた中にはいないようだ。フランス人と結婚しているとか、現地に密着していて、残留したのであろうか? <パリの邦人> 末松は訪問したのはパリが連合国によって解放され、日本人はドイツに避難するわずか4か月ほど前であるが、末松の文章からは、パリの邦人が浮足立っているような事は感じられない。 この頃いわゆる駐在員として日本から派遣されていた邦人は三菱商事、三井物産、大倉商事、伴野商店、日仏銀行からだけであったという。その内では三菱商事の4人、および日仏銀行支配人横山正博が家族持ちであった。外交官ではパリの日本大使館の留守番役、臨時領事代理斉田藤吉が妻子を持ち、また現地で大使館雇となった前田陽一にも3人の子供がいた。 かれらの子供たちがこの日本語学校に通った事が想像できるが、皆奥さんは日本人である。末松が書く4分の1を占めるとされる混血の子供は誰なのかは不明である。 ![]() ビッシーに移動したフランス日本大使館のメンバー。ここ写っている子供は沼田英治陸軍武官の男の子2名、と本野盛一参事官の娘(フランス人とのクオーター)であるが、彼らはパリの日本人学校には通ってはいないであろう。 <パリ避難> 1944年8月、連合国軍がパリに迫り、ドイツと同盟国である日本国民はパリを避難する。三菱などの駐在員は別仕立ての列車、車に分乗してベルリンに向かうが、ベルリンも安全でないので、そのまま郊外に避難する。そこでも子供の教育について話題の上った。 他の日本人と共にベルリンに避難した先述の湯浅は、1944年10月10日の日記に、次のように記している。 「S氏が陸軍に来て、私に避難所で子供の学校をしてくれないかとの話であったという。人を利用し、酷使することの他すべては不義理、不正を平気でする大使館のために、何でそんなことをするのか。H氏が断られた由。」 ベルリンでドイツ崩壊までの残された時間で研究を続けようとする湯浅には、この大使館の考えにも反感に近いものを抱いた。 パリを避難した日本人は何カ所かに分かれてベルリン近郊に疎開したが、先に湯浅が教育を頼まれた避難所とはベルリンから300キロ南に離れたシュレージエン地方のブリュッケンブルクである。大島大使は戦場とも呼べるベルリンに婦女子が滞在する事を認めず、主にフランスからの外交官の家族が避難していた。湯浅はここに行けば、ようやく手に入れたベルリンでの研究は続けられなくなるので断った。H氏が誰であるか分からないが、当時Hで始まる留学生はベルリンに2名いた。 同じくドイツ留学生であった関根正雄(旧約聖書研究者)の死後、2010年に出版された「関根正雄滞独雜記 : 1939〜1945 」によると、引き受けたのは彼であったことが分かる。ベルリンの日本人が敗戦間際で浮足立つ中、ブリュッケンブルクに家族と滞在する元パリ大使館の前田陽一が心配し、教師として雇ってくれた。赴いたのは12月初めの事であった。 <ブリュッケンブルク> 関根は書いている。 「ブリュッケンブルクは夏は避暑地として冬はスキー場として有名な所で、当時日本人の諸家族が一つのホテルを借り切って疎開し、ドイツの外務省の一部もその地へ疎開していたのである。」 ベルリンからヒルシュベルクという所まで汽車に乗り、そこからはそりに乗って1日がかりで着いた。そしてこの時期の先生の職は関根に平和な日々を与えた。 「その地の生活は私にとってこの上ない休養の時であった。空襲は全くなく、雪に埋もれた美しい自然に囲まれ、一人で暮らしていた時とは格段に相違した食生活で、私には少し贅沢過ぎる生活であった。一日午前午後合わせて4時間ほど多くの学科を教えた。 小学校1年生から中学校4年生までの子供たちで、国語、算術、地理、歴史、英語、漢文、第数、幾何等、何でも求められるままに教えた。(中略) フランスにいた子供たちばかりなので、日本語と同じようにフランス語が用いられていた。日本人と結婚したフランス人などもいて私はその人々に日本語を教え、同時にフランス語の勉強をしたものである。 湯浅が固辞した避難所の教師は、関根にとってはまんざらではなかったようだ。 <ズッコウ> パリを引き揚げた邦人の内、三菱関係者はブリュッケんブルクに行かず、全員ベルリン北方のズッコウ城に避難した。三菱は常に会社として単独に行動した。「5家族24人であった。 「子供は13人いたが、その内7人は学齢に達していたため、一階が郵便局と厩(うまや)になっていた建物の二階で毎朝父たちが算数と国語を教えた。 その部屋には、煉瓦製の大きな暖炉が設置され、勉強の合間にその暖炉でじゃがいもを焼いて、湯気の出たところをフーフーさせながら食べた。」と当時小学生であった福岡(市川)澄子が回想している。 一行はドイツ敗戦間際の1945年4月にはベルリン西方70キロのリンデ荘」へと移るが、そこでも午前中は日本語の勉強が続けられた。 (『ごきげんよう パリ』より。) (2019年7月21日追加) <バート.ガスタイン> その後1945年1月末、ブリュッケンブルクも安全でなくなり、彼らはベルリンを経由し、現オーストリアのバート.ガスタインに避難する。そこでアメリカ軍によってホテルに軟禁される。同盟通信社ベルリン支局長であった江尻進が、抑留下での小学校について書いている。 「(抑留者の中には)小学生級の児童が7,8人いたので、小学校の授業も再開させねばならない。これにはベルリン日本人学校の校長だった樽井近義さんという専門家がいたので、正規の授業が行われた。それでも何か手伝ってほしいと頼まれたので、他に芸がないので、体操の先生を引き受けた。 週に3回、裏の野原で、外出禁止を大目に見てくれる米兵監視の下で、ボール遊びなどをさせて、抑留生活で鬱積した英気を発散させた。」 ![]() バート.ガスタイン。当時の抑留者の持ち帰った絵葉書 <イタリア日本人学校の誕生> ローマに関して言うと、毎日新聞の特派員であった小野七郎の長男満春が詳しく書いている。(彼の記録は今後随所で引用するが、適宜補足を加える。)設立の経緯は以下の通りだ。 「僕がイタリアに来て2年目の1937年、日本クラブの中で、四宮俊彦(昭和通商)を先生に勉強を教えていただく事になった。」 「その内に子供が増えたので、日本クラブではとても部屋が足りなくなった。そこで“ウーゴ.バルトロメオ”というイタリアの小学校の教室を五つ、六つ借り受けて、そこで勉強するようになった。」と1936年4月にベルリンに日本人学校が開校された翌年に、ローマでも設立された。 この時期日本人学校設立の気運が高まったのであろう。また日本人相互の親睦を図る日本人会(クラブ)が、設立、運営に際し重要な役割を占めたのも、ベルリン同様である。 「先生もだんだん増えて、僕が3年生になったころには、内本先生、五十嵐先生、野一色先生、鍵山先生、幸ちゃん、佐藤先生と、先生の数も増えた。」 内本先生は声楽家でローマに留学中であった。五十嵐先生は大使館勤務の五十嵐仁、野一色は同じく大使館勤務の野一色武男である。また日銀の鍵山学、親しげに”幸ちゃん”と書く人物、は満州国公使館勤務の伊吹幸隆であろう。最後の佐藤は不明であるが、先生は留学生、大使館員、民間駐在員と多岐にわたっている。 また生徒の一人であった外交官井上賢曹の次女、井上まゆみさんの話では教科書は充分な数がなかったので、親たちが手書きで必要部数を作成した。 さらに小野の本には「バチカン公使館の庭で、運動会をやったことがある。その時、リレーで僕らの組が勝って、賞品をいただいた。」という記述もある。下の写真は綱引きの光景であるが、その運動会の時のものであろう。先述の井上まゆみさんが所有していた。 ![]() <残留日本人小学生> また下の写真は日本が米英に宣戦布告した翌年の1942年4月、ムッソリーニ首相が日本大使館を訪問した際のものである。開戦と共に日本人小学生が皆引き揚げたドイツと異なり、まだ多くの子供たちが残っていることが分かる。彼らのために小学校は運営が続けられた。 ![]() 中央着物姿の右が井上まゆみさんで、背の高い方は光延東洋海軍武官長女の孝子さん、長男の旺洋、次男の明洋、小野満春、父親が三菱の駐在員であった牧瀬満治が写っているはず。 <ウィーン、ブルガリア> 欧州では日本人が少なく、家族持ちも1家族だけという国もあった。主に欧州の小国である。山路章公使一家の長女、綾子さん(のちの重光晶ソ連大使夫人)はウィーン、ブルガリアと現地校に通っている。(ブルガリアはドイツ人学校) そこには親の教育方針もあった。日本人の家庭教師をつけることも、彼らの収入からすれば可能であったからだ。山路綾子さんはおかげでドイツ語を完璧にマスターした。現地人の中で一人頑張る姿の写真が残っている。 ![]() ウィーンの女学校に入る前に通った高等小学校にて。前列左から二人目が綾子さん。前方右側の生徒などはナチスの「ドイツ少女団」の制服を着ている。 <ローマ脱出> イタリアの戦線離脱は早かった。1943年9月8日、イタリアは米英と休戦協定を結んだ。日本人はローマを脱出し、ドイツ軍の勢力範囲の地域に避難せざる得なくなる。そしてその避難先はかなり分散した。陸軍武官室と満州国公使館は北イタリアの山間地であるコルティーナ ダンペッツォに、海軍はメラーノにそれぞれ事務所を開いた。彼らは家族を伴ったままであった。一方大使館はベニスに開設されたが、その家族および民間の三菱、三井などの家族はオーストリアのウィーン近郊に避難した。 その内、コルティーナ.ダンペッツォでは本格的な学校が営まれた事が分かっている。ドイツ人の従軍カメラマン、エルヴィン.ゼーガーがこの学校を訪問し、ドイツ語の新聞に載った記事が残っている。 生徒は7名、判明しているのは満州国公使館に父親が勤務した山下功さん、忠さん、先述の井上まゆみさん、清水武官の長女泰子さんである。それに満州国公使館に勤務した三代晁雄の子息2名で計7名あると思われる。 また教師を務めたのは満州国公使館の人であったと生徒の一人山下忠さんは記憶している。とすれば小野が冒頭に書いた”幸ちゃ”んこと、伊吹幸雄であると思われる。 ![]() イタリアアルプスの山間でのラジオ体操 ![]() 通学風景 ![]() これもコルティーナ.ダンペッオであると思われる。右端が井上まゆみさん。山下家、三城家、清水家の子供達。後ろの日の丸から判断して、何らかの日本の祝日であろう。 先述の小野満春は海軍武官室の置かれたメラーノに避難している。テノール歌手でローマ日本人学校の内本先生もここに避難しているので、光延海軍武官家の子息3名、および小野家の子供らにも教育が施されたと思われる。 <ドイツへの避難> 北イタリアも安全でなくなり、3カ所に分かれて避難していたローマ駐在日本人は1944年9月末にドイツに避難する事を決めた。場所はケーニッヒシュタインでドレスデンから東に38キロの地点にあった。ウィーン郊外の日本人も合流し、子供達もローマ以来の再会を喜んだ。 ここで子供たちはドイツの学校に入っている。避難生活もどのくらいになるか分からないので、学校に通わせたのであろう。小野ら小学校5年は2年生のクラスに入った。子供たちは、イタリア語は出来てもドイツ語は出来なかったからである。しかしこの滞在も長く続きはしなかった。 1945年3月、バードシャンダウに全員が引っ越す。以降はアメリカ軍の空爆の下での避難旅行が続き、5月にアメリカ軍に捕らえられ、敵国人として7月、アメリカに移される。フランスの部分でのべた、ドイツのブリュッケンブルクに避難していたパリ外交官グループも、その後の避難地バード.ガスタインから、同時にアメリカに移送される。抑留されたのはペンシルバニア州の保養地ベッドフォード.スプリングで同名のホテルであった。 「アメリカ人は敵国の日本人外交官らに対して、手荒なことはしないだろうから、ソ連の手に入るより良いであろう」という大島大使の考えは、当たったと言える。 <アメリカ抑留> 到着早々日本は敗戦国となり、抑留中の日本人はやることがなく、ぶらぶらと過ごす人が多かった。そしてこの抑留地でも「日本人小学校」が組織された。ここも小野満春の記述が主体である。 生徒は小学校5年生が小野満春、光延旺洋、牧瀬ミミ(満治)、先生は以下の通りである。 国語、作文 元ウィーン大学教授 村田豊文先生 (ケーニッヒシュタインでイタリア組に合流) 算数 海軍少佐 川北健三先生 (ドイツ駐在) 体操 ベルリン日本人学校 樽井近義先生 (元ベルリン日本人学校校長) 国書 日本大使館 小林林平先生 (イタリア外務書記生) 理科 国際オリンピック日本代表スキー選手 菅原三郎先生(外務書記生) 音楽 声楽家 内本実先生(ローマ留学生) ![]() バート.ガスタインでも先生を引き受けた樽井近義。体操の先生を務めたことがうなずける写真。 小学校3年生は小野紀美子、光延明洋、渡辺靖子、牧瀬晴子、前田光子。先生は以下の通りだ。 国語、作文、体操、算数 樽井先生 国語、作文 清水三郎治先生 (朝日新聞、ローマ支局) 国書 小林先生 音楽 内本先生 総勢179人の抑留者であったが、帰国者リストを見ると、就学年齢者は少なかったと言える。小野の記述によれば5年生と、3年生のうち、フランスの前田光子を除くと皆イタリア駐在者である。そのためか先生もイタリアにいた者が多い。 一行はその後、シアトルからはジェネラル.ランドル号に乗り浦賀に着く。この船の中でも教育は行われたであろう。 <プルス ウルトラ号> スイス、スエーデン、スペイン、ポルトガル等の中立国で終戦を迎えた邦人は、1946年1月末にプルス.ウルトラ号でマニラに向かう。そこから日本船筑紫丸に乗り換え帰国をする。総勢300名だった。朝日新聞マドリード支局に勤務した伊藤昇が回想している。 「この船に、日本の子供が、中学校、女学校くらい人までいれると30人以上いました。 その中の半分以上は、外国で生まれて日本を知らない子供たち、そしてお母さんが、フランスや、ルーマニアやトルコやブラジルの人たちがいた。ですから日本の子供と言っても、日本語を知らずスペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、スエーデン語、トルコ語と、勝手な言葉で喋ります。 船の中で、こういう子供たちのために、外交官たちが学校を開きました。日本に着くまで、船の中で少しでも日本語が分かるように、話せるようにと言うつもりでした。」 (四等船客 フランス.スペインを歩く 伊藤昇) 総勢、子供の数ともアメリカ抑留組より多かった。先述のイタリアの井上まゆみさん、山下功、忠さんがこの生徒の中にいた。 ![]() プルス ウルトラ号上の山路綾子さん (当時18歳の彼女はもう生徒ではなかった。) 以上のように欧州での枢軸国の劣勢、敗戦に巻き込まれ、彼らと共に敗走した日本人であったが、子供の教育は常に忘れなかったことが見て取れたと思う。 終わり(2014年11月16日) <ロンドン 日本学園> 「婦人画報」の昭和15年(1940年)2月号に「日本のひとに是非はなしたい話」という記事があり、欧州戦争で引き揚げた竹中博子さんという方の短いコメントが出ている。それによると彼女は、ロンドンで「桜」も「墨」もわからない二世に、日本を植え付ける仕事をしていたという。 教え子は20人で、生徒たちと別れて日本に帰国した。この次渡英するまでに研究を続けるといっている。それは日本の参戦でかなわなかったが、これから分かるのはロンドンには戦前、日本人2世らに日本文化を教える日本学園が存在したということだ。 筆者の書籍の案内はこちら ![]() (2016年5月29日 追加) |
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