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戦時下のイタリア、日本大使館のいちばん長い日
The longest day of Japanese Embassy in Italy

大堀 聰

本編は書籍化されました。(2021年2月16日~)
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<序>


第二次世界大戦がドイツの降伏で終結を迎える時、欧州に滞在していた同盟国の日本人は、集団行動をとって戦火を逃れようとした。それは国ごとでかつ、外交特権を持つ外交官と持たない民間人で異なった。今日ドイツ、フランスに関しては、当事者の回想録などからその詳細を知ることが出来る。イタリアも民間人については同様だ。筆者もそれらを当ホームページで紹介してきた。そんな中唯一当事者の記録が見つからないのが、イタリアの外交官組の逃避行であった。そしてここ数年は、もうそれは存在しないのであろうと思っていた。

ところが最近、「その時の日記があります。」と筆者に申し出てくれた方がいた。日記を書き残したのは外山一青(とやま いっせい)さんで戦時中、ローマで貿易斡旋所に勤務した。20年に及ぶ滞欧生活で最も印象深かった終戦前の逃避行を書き残しているのであるが、それは直後に抑留された際に書いたもので詳細な記録であった。閲覧を許していただいたご親族の方には、この場を借りて厚く感謝申し上げる。なお日記はとても興味深く、全文を紹介したいところでもあるが、努めて事実のみをとりあげ、付帯する心情、情景描写などは、多くを割愛させていただいた。



<外山一青>

貴重な日記を書き残した外山一青は1906年東京に生れた。1927年に慶応義塾大学、経済学部高等部本科(旧理財科)を卒業すると、同年にドイツ・ライプチッヒ大学の聴講生になり、翌年にはフランス・ディジョン大学の聴講生となる。その後イスタンブールで近東貿易協会の「日本商品館」に勤務する。

1936年頃一旦日本に戻るが1937年10月、商工省が貿易振興のためにベイルート(シリヤ)に開設することになった「貿易斡旋所」の所長代理に任命された。こうして11月21日、横浜を出港する榛名丸に乗船する。神戸まで乗船し見送りに来てくれた父が船内のラウンジで、出帆のドラを聞きながら「今回出ると当分帰れないね!」と淋しく独り言のように話したが、この予感は的中することになる。

その後はおそらく地中海が戦場となった1939年ころに、ベイルートからイタリアのローマに移り同地の貿易斡旋所に勤務する。そこではドイツ語、英語、イタリア語を話す欧州、近東の専門家として活躍した。


ローマ時代の外山一青(親族提供)


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<日高信六郎大使>













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<イタリア政変>
















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<メラノ>

海軍武官室が開かれた北イタリアの保養地メラノ(Merano)はオーストリア領であったが、第一次世界大戦の結果イタリア領となる。しかしドイツ語圏の影響が強く残り、広くドイ ツ語が話された。これはドイツ語が話せる外山にとっての強みとなった。そしてこの戦争中はドイツの野戦病院の基地となり、そのために連合国軍の空襲を受けなかった。なお当時の報道を含め、メラノを世界的に知られたミラノ(Milano)と誤って記す例が多々あるので、注意が必要である。

海軍武官室の事務所はペンション・ボロディーネ(Pensione Borodine)に置かれた。またスタッフはスエーデン人ルーベック家の経営するホテル・パルコに入ったが、メラノの町でドイツ軍の接収を免れた唯一のホテルであった。6階建てのなかなか重厚なホテルで、前はブドウ畑で、チロル地方に典型的な城が建っていた。

しかし1年ほどするとホテル・パルコも遂にドイツ軍の野戦病院として接収される。ヴェネチアより加わった外山はルーベック氏の好意で、高級サナトリウム・ステファニアに入院という形で入ることが出来た。



ローマからメラノに到着した光延武官一行


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<海軍武官の死>


大使館、海軍武官室、陸軍武官室が分かれて存在することで、関係者は3か所を行き来することになるが、それらの町と町の間はイタリアの反ナチスゲリラの出没する危険地帯であった。


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<コルティナ・ダンペッツオ>





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<4月29日(日)>



19
外山にとっては前年8月に武官室のペルテイレ夫人と娘のリエタを乗せてドライブに来て以来、度々道路状況や国境の様子を調べておくために来た道であった。ステル・ベルロを過ぎる頃は真っ暗であったが、5時15分シランドル村に接近する頃には夜の闇の濃さが何となく薄らいできて、東側の山合の空がそろそろ白味を帯びてきた。今までこのクライスラーで度々来た時には、ここまで40分位の道であったが、団体行動のこの日は1時間半を要した。

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シランドルから先の道は初めて通る路であったが、道幅は次第に細くなり、急坂を上り下りするので、少し心細い気




一行のたどったコース。ナウダースを過ぎ矢印の辺りを左折してスイス国境に着いた。 Google mapより

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午後3時半、税関長より返事があった。 「皆さんの入国を許可します。ただし一応はインターン(抑留)する形を取るので、政府の指定する州まで集団で行動してくれ、又その州の指定があるまで、数時間ここ国境で待
ムッソリーニが捕まったのは2日前の27日のことで、翌日に射殺される。場所は一行より南のコモ湖畔のドンゴと


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<4月30日 (月)>


時計を見ると4時ちょっと前である。何とか眠気と戦ってきたが、益々耐えられなくなる。車の中で少し眠ろうと思どの顔も寝不足で元気のない顔ばかりである。顔や額に赤いあざの様なシミを見せている。窮屈な形で寝て







<子供>










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<続4月30日 (月)>




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<5月1日(火)>






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<5月4日(金)>

10時半



<5月5日 (土)>


町にはアメリカ兵の姿もチラチラ見えるが彼らは呑気そうに店を覗いて歩いている。一方ではドイツ兵2人とイタリア自警団員2人の4人組が町を巡邏して歩いている。誰もがもう勝敗は決したので、戦闘行為は止めようという心情であった。


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<5月6日(日)>


は、次のような外交文書が残る。

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6月27日 スイスの加瀬公使発東郷外務大臣宛
「高和領事及び館員2名の解放に関する件
(前略)
欧州で抑留される大島大使や、日高大使の解放に向け、スイス側は何事につけ、英米のご機嫌を伺うに汲々たるをもって、この際わが方の手中にある英米要人開放に一口乗り、彼らの手中にある大島大使、日高大使等一行と英米人ないしはイタリア人との交換を考慮する場合は本筋としては交換地その他の関係上、ソ連と話し合うべき筋合いなるべきも、当国(スイス)もまた幾分の価値あるべしと存する」

これは日本側が抑留している英米の要人を釈放するとすることで、日高大使らを解放に導いてはという提案だが、日本側で検討された記録は見つからない。

また1945年7月29日の政務局長発内務省警察局長宛によれば日高大使らが、なぜ一流ホテルで抑留されたかが分かる。

「元イタリア大使及び大使館員並びにその家族の待遇改善に関する件

現在秋田県毛馬内に抑留中の元伊国大使『インデルリ』夫妻及び伊国大使館員並びにその家族、全部で46名の待遇改善に関しては従来、反『ファッショ』伊国政府側より、法王庁等を通じ数次要求ありたるが、今般さらに同政府より在伊本邦人及び帝国権益に関する事実上の利益保護に当たりいるスウェーデン政府を通じ、
『インデルリ』一行の待遇改善、すなわち之が敵国外交官並み待遇引き上げ方要求し来りたる。担当省としては下記理由により、この際帝国と伊国政府との法律関係に触れることなく、事実上右要求に応じること、対外施策上可なりと認める」
次はその3番目の理由だ。
「現在伊日高大使一行(陸海軍武官を含む)は伊国政府より、事実上敵国外交官並みの取り扱いを受けおる所、同政府はスウェーデン政府を通じ『インデルリ』一行に対する我が方の待遇改善せざるに於いては、日高大使一行の待遇悪化をせしめ得ざる旨の意向を表明せり」

日本政府は戦争後期にはムッソリーニのファシスト共和国政府を承認し、駐日代理大使としてオメロ・プリンチイニがいた。インデルリ前大使らはファシスト共和国政府に忠誠を誓わなかったため、外交官ではなくただの敵国人として扱われた。外務省はこうした外交関係に触れることなく、日高大使らのためにも、待遇改善を図るよう内務省に要望した。彼らは秋田県の教会に抑留されていた。

その後も日高大使一行は待遇が悪化することもなく過ごし、翌年1月ナポリからの引き揚げ船プルス・ウルトラ号でマニラに向かい、そこから日本船筑紫丸に乗り換えて、3月22日浦賀に着いた。日高大使にとっては3年ぶり、外山にとっては最後の渡欧から7年半ぶりの帰国であった。
(2020年7月19日、12月18日一部加筆)


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