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日本 ベルリン日本人会と欧州戦争(第二部)  瑞西
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大堀 聰
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<空襲激化>

一九四三年の元旦、陸軍よりベルリンに派遣されていた大谷修少将は日記にこう記す。

(金) 陰曇(+3°) 神棚も無く御神酒もなき西洋の正月は、柏手打つこともならず、只長年肌身離さぬ御守を押載きて、遥かの故国の神々祖先の霊に祈る。まず第一に祈願する所は、妻子の健在幸福にして、次に吾身の無事幸運とご奉公の完カランことを祈る(ママ)

この日、邦人は正装して大使館に向かった。正午からは拝賀式である。留学生桑木はダーレムの地下鉄駅で同じく留学生である千足高保に会い、途中では乗りこんできた田中路子夫人とバイオリニストの諏訪根自子も一緒になった。

出席者は二百名あまりであった。プロトコル(大使秘書のことー筆者)の新関欽哉官補がきびきび取り仕切り、御真影を拝賀し君が代斉唱の後、立食パーティーとなった。そこには握り飯、ぼた餅、赤飯、最中などの日本の食べ物が出された。

この年に入ると、連合国空軍はベルリン空襲を再開させた。開戦後間もなくドイツのロンドン爆撃に対抗する形でおこなわれたベルリン空襲は、被害の多さから一時中断されていた。それが形勢の逆転とともに再開されたのである。

一月十七日、桑木があけぼ乃で夕食を取り、雑談をしていたら警報が鳴った。牛場信彦書記官とともに大使館まで行き、堅牢な地下壕に潜んだ。大島大使夫妻と電信係の人を加えて、七時半から三時間ばかりの篭城となった。

一月三十一日スターリングラードの第六軍がソ連軍に降伏する。今日独ソ戦の転換点といわれるドイツの大敗北であった。当時の軍人でもドイツの危機を感じる人がいた。先の大谷少将は同日、日記に
「実に独乙の危機なり」と記した。

二月十一日は紀元節である。午前十一時より大使館にて御真影の拝賀式が行なわれた。大使は
「本年は世界の各地に決戦行わるべし。独軍の戦況余り華々しからずも、必ずや反撃の機会あるべし。国民総動員にて吾らの生活に不自由来るべきも、共に苦しむ精神により最後の勝利を期待せん」
と挨拶した。枢軸軍の劣勢は大使も認めざるを得なかったのであろう。


二月十三日、昨年末に日本を発った若い外交官一行がベルリンに到着した。かれらは日本とは中立関係のソ連の通過ビザを取得して、トルコを経由してベルリンに入る。日本参戦後は日独間の往来は実質不可能であったので、非常に珍しい訪問者であった。

その一人である高橋保官補は
「午前十時、ドイツのズー駅に着く。(略)昼、夜、あけぼ乃という日本料理店で飯を食う」と日記に書き、その後も食事の記述が続く。

二月十四日 昼またあけぼ乃に西村官補と飯を食うことになる。
二月十五日 昼、ぶらぶらと、とある食堂にて食う。一マルク六十セントの飯、美味くなし。これを食っている一般市民に同情多し。夜七時半、大島大使官邸にて御馳走になる。(略)その後大サロンに入って、いよいよ東京、日本の情勢について聞かれる。

二月十六日 問題の小室商務書記官に会う。東洋館にて食事を共にして大いに論ず。

このように高橋はこの後赴任地フランスに向かう前、材料の乏しくなってきた日本食堂を毎日はしごした。そして食堂に居合わせた邦人は、最新の情報を持つ邦人周りに自然と集まって話を聞いた。日本食堂は最新の情報を得ることの出来る場所であった。

三月一日の夜、初のベルリン大空襲が行われた。わずか四十五分ばかりの間に約百五十機のランカスター機が、市の南西の住宅街を広範囲に急襲して、町を火の海と化した。スターリングラードで気を落としているドイツ人に、追い討ちをかけるように襲いかかる連夜の大空襲の発端であった。

大使館ではこの夜、スイスから転任して来た徳永太郎の歓迎会がおこなわれていた。そこに空襲警報が入り、皆地下壕に逃げ込んだ。大使館の壕は一メートルの厚さのコンクリートで覆われており、直撃弾を受けても大丈夫と言われていた。

空襲が去って部屋に戻ると、「大変です。徳永さんの家も焼けました」と報告があった。到着後置いただけの荷物はほとんど焼けてしまった。

その二、三日後、爆弾が大使館から遠くない方角に地響きがしたかと思うと、爆弾はウィルメルスドルフ地区アイゼナッハ通りに落ちた。すぐ近くの日本人会の食堂は、ガス、水道が止って当分の間休業を余儀なくされた。


<手料理>

あけぼ乃の日本食より喜ばれたのは駐在者の夫人による手料理であった。しかし戦争前に女性のほとんどが日本に引き揚げたため、もうありつける機会は少なかった。この頃の外交官の一番の楽しみは女優田中路子邸のパーティーであった。

歌手としても名高い田中はドイツ人人気俳優のデコーバと結婚し、ベルリン郊外の邸宅に住んでいた。大使館員は度々そこに招かれ、手料理による日本料理や、お汁粉などにあやかった。大使館では駐在員用に日本人にあう米を北イタリアから輸入していたが、それをドイツ国籍の路子にも分けていたのは返礼の意味でもあったようだ。また戦争末期には日本料理屋は一軒もなくなるが、そうなると唯一の手料理にあやかれる場所であった。

もう一つは冒頭に藤山も書いた徳永邸であったが、こちらは筆者は別の「徳永太郎・下枝」に書いたので省略する。

四月十八日、十余名からなる邦人グループが、日本からベルリンに着く。二十二日、桑木はあけぼ乃で文部省から派遣された犬丸秀雄と、洋書の調査に来た丸善の中村春太郎に会った。早速日本の最新事情を聞くが、短波放送では入ってこない日本の物資の欠乏の状況を聞き、びっくりしたのであった。

五月一日
ドイツ「ナチ」労働党の国家記念日に、大島大使以下主要外交官軍人は、打ち揃って自動車を並べ,総統官邸に祝賀記帳に行く。青葉の茂るティアガルテンよりブランデンブルグ門を経て、ウンテルデンリンゲンを六〜七台日章旗を立てて早朝に走る威観は、車上の邦人にとっては一生の思い出となる出来事であった。街行く人々足を止め「ヤパーナー」(日本人―筆者)「ヤーパン」(日本)と呼びかけた。

七月二十二日、大谷は書く。
毎日良き天気なり。日本人倶楽部(会)にて食事すれば、三月頃の日日新聞(今の毎日新聞-筆者)来あり。珍しく読む。
日本の新聞は数ヶ月遅れでしか来なくなった。


<浮き足立つ邦人>

一九四三年七月末、ハンブルクは九日間に六回連続して空襲を受けた。それからに二、三日した夕方、日本楽器の駐在員佐貫亦男は日本人会の食堂で同盟通信社の支局長江尻進に会った。
彼は食卓に身動きもせずに座っていた。卓上にはまだ何も料理が置かれていない。佐貫は声をかけて江尻の前の椅子に腰を下ろすと、彼は顔を金属のように硬化させて、眼鏡の奥に憤りをこめながら言った。


「ハンブルクはもうないも同然の破壊だ。あんな空襲を受けたら防ぐ方法は全然ない。敵は金属の箔を撒いて電探を無力にし、高射砲陣地を空雷で吹き飛ばしてから。ゆうゆうと低空飛行で爆弾の絨毯を敷いていくのだ。ハンブルクの死人は八万から九万と言うぞ。

ベルリンにも近いうちにきっと来る。間違いない。絶対だ。君もすぐに避難先を探せ。国鉄電車の終点ぐらいでは危ない。うんと遠いところに行くんだ!」

江尻の話には半信半疑であったものの、佐貫も慌てて疎開先を探しはじめた。日本人会で作ってもらった握り飯を持って毎日のように歩き回ったが、一斉に疎開が始まったベルリンでは見つからなかった。

八月六日 「イタリアでは独裁者ムッソリーニが退いてバドリオ元帥が代わった」と小さく新聞に出た。混乱した頭で佐貫が日本人会に行くと、談話室で顔を合せた日本郵船の山田正市という中年社員が、小さい目を神経質に瞬きさせながら話しかけてきた。

「ローマはもう英兵が入っているそうです。さっきイタリア大使館の前を通ったら、避難のために逃げ込むイタリア人が大分いましたよ。私もいざというときは日本大使館に駆け込むつもりで、よく様子を見て来たのです」
イタリア大使館は日本大使館の隣にあった。


手をもみながら語る山田の声は震えていた。そばにいた古河電気の北島正元も同調し始めた。北島は同盟の支局に入り浸っていた。

佐貫が「馬鹿に早耳だね。また同盟か?」というと北島は
「僕はBBC放送を頼りにしているんだ。一番確かだな。ドイツこそ嘘つきだ、この四月の潜水艦の大損害を隠していて。もう米国の護送船団は安全に通っているんだ」等と英国を誉め始めた。するとロンドンに長くいた山田は北島の話を受けて

「英国の政治家はみな金があるから、気品があって、嘘を言いませんね。そこへいくと、日本の政治家は貧乏だから、ろくな仕事ができないのです。日本人が馬鹿にされるのはこのためでしょう。日本人はジャップと呼ばれると腹を立てるが、それは自分が悪いからなので、英国人は別に軽蔑するつもりでそう呼ぶわけではない」

日本人同志の会話も戦局の悪化と共に、ぎすぎすしてきた。

八月に入るとイタリアに連合軍が実際に上陸する。あらゆる戦線の形勢の不利は在留邦人の心理にも当然影響して来た。夜毎の軍人の暇つぶしのポーカーの掛け金も上がっていき、ある晩は千二百マルクの受け渡しがあったという。日本の中流サラリーマンの一年分の給料に相当する額であった。


<日本?負けるね!>

留学生篠原正瑛は回想する。
「開戦後在留邦人の中で最初から戦争が日本とドイツにとって勝算がないことをはっきりと見抜いていたのは、極めて少数の人たちであった。あるいは心の中では見抜いていたが、立場上はっきりと口に出して言えなかった人々も、かなりいたかも知れない。

いずれにして、私自身もふくめて大部分の在留日本人は、心のどこかに不安を残しながらも、ある時期までは枢軸側の勝利を信じていたと思う。」

一九四三年の夏のことであった。篠原はあけぼ乃で偶然に朝日新聞の笠信太郎に会った。笠氏は日本において、進歩的文化人として軍部、特に陸軍ににらまれた。そこで同紙主筆である緒方竹虎の計らいでベルリンに逃れてきた。

「笠氏は中途半端な時間なのであまり客のいないあけぼ乃のテーブルの一隅に腰をかけて、洋酒らしいものをちびりちびりと飲んでいた。私は、たまたま居合わせた友人の紹介で笠氏と同じテーブルにすわって簡単な話をした。

その内容はいまではおぼえていないが、私が笠氏に向かって”枢軸側は勝つでしょうか”とぶしつけな質問をしたところ、ただ一言”負けるね”という冷ややかな答えがかえってきたことだけは、いまでもはっきりとおぼえている。」

すでに大島大使との関係の悪化していた笠は、この言葉を放って間もなくして、スイスに移り住む。そして日本の終戦間際には、祖国に向けてスイスの公使館から、和平勧告の電報を発信するのであった。


反枢軸邦人

駐在員は大島大使の元で親ドイツ派がほとんどで、ドイツの勝利を疑う発言を公然とするものはなかった。先の笠のような存在は例外であった。

ただし異端分子はいた。元東京帝国大学農学部講師でベルリンにおいて鉄鋼の研究をしていた崎村茂樹は、中立国スエーデンで自ら連合国側と接触した。英国の新聞に毎日目を通していたポルトガルの陸軍武官室は一九四四年五月二日、ベルリンの武官室に打電した。

「英国紙によるとドイツの鉄鋼統制官崎村は、ストックホルムで敵に走った。関係する書類に対して、早急で徹底した対応をとられたし。」

大島大使はドイツの秘密警察に対し、崎村のベルリンへの連れ戻しを依頼した。早速効果が現れた。五月二十四日今度はスエーデンの駐在陸軍武官がポルトガルに向け

「崎村とゲシュタポと(日本)外務省の間で合意に達した。崎村の過去は問わず、再び鉄鋼統制官に戻ることとなった。五月二十三日にベルリンに戻った。崎村の性格からしてそちらからもかれを励ます手紙を書くことは良い考えでしょう」と書き送る。

断っておくとこれはアメリカ側が傍受解読した英文史料を基にしている。解読者の誤訳の可能性もあり日本語が一部不自然なものになっている。


<ソ連の査証>

三月の空襲で営業が出来なくなった、日本人会の食堂は間もなく再開する。日本楽器の佐貫は毎晩食事に出かけてゆき、自らの言葉によれば「ただ命をつなぐだけの献立」を食い、集まる日本人の顔を見ては安心して戻った。

そして十月中旬
「日本人会の食堂の控え室に座って、夕食の支度を待っていた。前のカイザー通りは静かで、時々市電の鳴らす鈴の音だけが、秋の風に乗って窓から入ってきた。そのとき事務員が電話だと知らせた。受話器を取り上げると、古川電工の技師、松尾敏彦の声で

“ソ連の(通過)査証が来ましたよ。私とあなたと、うちの川村だ”と知らせた。三年越しの希望が今満たされたが、すぐには信じることはできずに“嘘でしょう?”と答えたのであった。

松尾は激した声になり“なんで嘘など言うものですか。大使館から今知らせて来たんです。とにかく色々用意をしなければならないから、またあとで会いますよ”

受話器をおいて、椅子に腰を下ろすと、表の敷石の上を風に吹かれていく枯れ葉まで輝いて見えた。夕食を食べに入ってくる日本人ひとりひとりの顔が、みな自分の幸運を祝福しているように思われた。

しかし翌日、帰国の決まった三人で日本人会の食堂に座って打合わせを始めると、知り合いの日本人が側を通りながら“楽しい相談ですな”と嫌味たっぷりに言った。

“これはみなに悪いようだね。これからは別室で相談しよう。そうしないと恨まれる”と年長の松尾が気づいて提案した。」

かれらは急いで帰国の準備にかかった。そんなある日佐貫が日本人会の食堂に座っていると、顔だけ知っているある商社の社員が卓の前に来て
「今度の査証は全部取り消しになったそうです」と言った。

驚きで佐貫の心臓は止りそうであった。冗談を言うような親しい間柄ではない。かれはただ薄笑いを浮かべていた。これは結局悪意のデマであることが分かった。

佐貫は商社員を面罵する気にはなれなかった。この時期の日本への帰国は彼らの生死を別けるかもしれないほど重要な問題だったからだ。実際かれらは戦時中にベルリンから帰国した最後の民間人となった。


<大空襲>

一九四三年の十一月二十二日の夜から二十三日にかけて行われた連合国の空襲は、戦争中を通じて最大の被害をベルリン市の中心部に与えた。それからの四日間で四十五万人が家屋を失った。邦人の体験した大空襲は次の様であった。まずは陸軍の花岡実業中佐である。

「菊地好一さんと二人で、ノレンドルフ陸軍事務所で、撞球(ビリヤード)をやった。ゲームカウントは一対一。たまたまラジオは警戒警報を告げた。もう一ゲームをやり僕が勝った。いよいよ空襲。近くのUバーン、ノレンドルフ駅地下二階に降りた。

ものすごい爆撃音が続き、解除後階段を登る。ガラスの破片で、足もとが滑る。目の前の陸軍事務所が燃えている。ポルチエ(管理人)は、ベッドなどを持ち出している。なぜ消火しないのかと叱ったが、水が出ないという。風呂桶に水を溜めることを忘れている。

三階が燃えている。火はまだ二階には来ていない。大使館と消防署へ通報しなければならない。日本陸軍事務所が燃えているのだ。レストラン.ハーネンの電話室に飛び込むが、電話不通。


一階のロッカーなどを破り、軍服、軍刀などを持ち出す。垣根越しに、ドイツ人人夫が来る。コニャック瓶を渡し、大型テレビなどを持ち出す。遂に、火は一階の隅に燃え移った。そこはコニャックなどの倉庫であった」

次は留学生千足高保の記録からである。
夕方、かれはカイザー通りの日本人会にいた。外交官補西村勘一とそこの食堂で夕食を摂った。西村は駐伊大使館に転勤することになっており、送別を兼ねたものだった。

食堂には学徒会の仲間で大使館の通商経済部嘱託として働いている菅博雄、商務書記官小室恒夫、大使館内のベルリン総領事館につとめる井口良二もおり、一緒にテーブルを囲んだ。食事を終えると、千足らは小室書記官の下宿に向かった。

かれらは小室の下宿に入り、ソファーや椅子に腰を下ろした。小室書記官は戸棚からコニャックの瓶とコーヒー豆の入った袋を取り出した。どちらもいまや煙草やチョコレートなどと並んで、配給経済下のドイツでは手に入りにくい品だった。これさえドイツ人に渡せば、ライヒスマルク紙幣ではどうにもならない事が可能になった。ガソリンも手に入れば、家の修理もすぐにやってもらえた。

空襲警報を聞き四人は小室のアパートの地下室に降りた。近くに落ちた爆弾の衝撃で千足らはソファーから投げ出された。電燈も消えた。外の様子を見てきた住人が階段を駆け降りてきた。
「この辺りが爆撃の中心らしい。ひどい火事だ。」


千足は外に飛び出した。真昼のように明るい。すぐ隣の通りでは火の壁が空に向けて直立している。石の家がこんなにたやすく燃えるものかと言う疑問が頭をよぎる。午後十時半警報がようやく解除された。街の中心一帯が炎に包まれていた。

井口と大使館に向かうことにした。広大な公園ティアガルテンに面した大使館なら大丈夫だろう、というのが二人の結論だった。直線距離にして二キロほどである。二人は歩きはじめるが、炎上する家や崩壊した家が道路をふさいでいる。その度に道を探して迂回しなければならない。それに炎の熱さと煙も行く手を阻む。

リュツォ広場で木に身をもたれかけて少し休んだ。大使館まであと六百メートルである。どうにかグラーフ.シュペー通りに達した。大使館はこの通りの左側である。しかし、左手の火の手がすごく、先に進めない。結局更に数百メートルも右の道まで迂回しないと、公園方面に向かうことが出来なかった。

こうして普段なら三十分とかからないところを三時間かけて、大使館に着いた。大使館は菊の紋章も無傷のまま、周囲の炎の光を身に浴びるように突っ立っていた。しかし左に続く総領事館の建物には爆弾が落ち、火災を起こした。周囲に止めてあった車も数台が破壊されていた。

結局この大空襲でかなりの日本人が焼け出されたものの、満州重工業のベルリン駐在員浅井一彦が大腿部骨折を負っただけで人的被害はすんだ。

また大使館の建物にはただ一つの爆弾が落ちただけで炎上もしなかったが、直後に専門家が見たところ、屋台骨が緩み、もはや長期にわたって使用することは出来ないという結果であった。館員たちは「ナチの建築とはこんなものか」とあきれたりした。

続く11月29日、古河工業の北島正元が大使館に出向くと、館員の多くは疎開していた。
「大使館のあの美しかった部屋、その昔”何しに来たか?”というような顔をして館員がふんぞり返っていた部屋はがらんどうになっていて、日本人会(事務所)が移っていた。そして帳面を一冊机の上に置いて、邦人の消息を書くようにしてある。またその他の部屋にはドイツの軍人が土足のまま入っている。


<一九四四年>

一九四四年の一月一日に関しては朝日新聞の守山義雄の日記が残っている。
「戦時下第五回目の正月。除夜から新年にかけて、独逸に(それを祝う)形式なし。破壊された町に雪ふり出す。しかし積もらず。暖かし。ヒットラー長文布告、神の慈悲にすがらんとせざるところ、彼らしくてよろし。

終日蟄居す。深更二:三十空襲あり。元旦早々地下室通いは本年の多難を思わす。防空監視人レオの生意気、軍人の無礼、今年はまた嫌なところを沢山見せつけられるならん。」

一月十九日にはこんなことも書いている。
鶏の水たき虎屋のヨーカン。日本に帰れる如し。伊太利より石井君ベルリンに転勤し来り来訪。」
虎屋の羊羹はこの頃どうやってドイツに届いたのであろうか?

一月二十四日に日本人が開催される。
日本人会理事会。在日独人らに三割乃至十割食料増加。河原、湯本両氏と記者団。復興外貨一万円請求決議」と守山は書く。

日本に住むドイツ人への食料配給が増えたそうだから、こちらでも同様の処置が邦人にとられるものと期待したのであろう。最後の復興外貨一万円とは、空襲で被害にあったベルリン邦人への見舞金を日本人会として本国に請求するということあろうか?

二月八日、珍しく日本への手紙を運んでくれる渡航者がいたため、同盟通信の江尻は妻にベルリンの様子を書き記して送った。
「近ごろドイツでも空襲が相当激しくなり、ベルリンの日本大使館にも相当大きな爆弾が命中し、一部破壊されたが、地下壕が堅固なので、一人の怪我人も出なかった。一般邦人も十分空襲に備えているので、今のところ死傷者は出ていない。

最近日本人会がなかなか活躍し、外国から衣料品や食料などを輸入し、配給してくれるので、それだけもらっていてもだいたい生活には事欠かぬありさまである。邦人も毎日の仕事であまり市内にいる必要のない人は、郊外に避難している。

僕も空襲の度ごとに市内に数基ある防空要塞に入ることをやめて、二月下旬までにベルリンの東方四十キロの田舎の部屋を借りることにした。ベルリンとの中間の場所に自転車を置き、市内の交通機関が止った時も、事務所に出られるようにするつもりである。」
前年の夏には気の動転した江尻も少し落ち着いた。

また昨年からの空襲で陸軍武官室の建物のかなりの部分がやられてしまった。そこで陸軍武官室は大使館に機能の一部を移した。また海軍武官室も二階の事務室に使っていた部分が大部分焼け落ちてしまった。そこで一部を郊外のシャルロッテンベルクのベルリーナ通り九十三番地に移した。

もう事務所として使える建物などベルリンにはほとんど残っていなかった。海軍武官室が空襲から無傷の建物に移れたのは、ドイツ海軍省の尽力の結果であった。しかしカイザー通りの建物も作りが立派で、地下室もしっかりしているので、当直を置いて管理を続けた。


<荒廃するベルリン>

三月十六日、潜水艦によって日本から赴任してきた海軍グループがベルリンのポツダム駅に到着する。制海権を握られ、哨戒の厳しい海域を通って伊号第二十九号潜水艦が、フランスの軍港ロリアンに着いたことはまさに快挙であった。


一行には新任海軍武官として赴任してきた小島秀雄少将も交じっていた。武官室で簡単な歓迎の午餐会が催された。ドイツにおける海軍の最高責任者自らが、危険を伴う航海に身を委ねた。小島は二度目の駐独武官勤務で、前回は陸軍の大島と共に、東郷大使の交代に積極的に加担した人物であった。しかし今回、小島の目にしたベルリンはかつてのとはまったく違っていた。

この潜水艦で日本へ帰国する花岡実業は日記の四月十三日の欄に、荒れ果てたベルリンについてこう書いている。
「ベルリンは晴れ渡っていた。シャロッテンブルク一帯は見渡す限り灰色の瓦礫の野原と化していた。崩れ残った建物の外廓や防火壁や煙突がわびしい影を落としている以外には人影も稀だった。これがかつて、その伝統、威容、秩序と完璧の防空設備を世界に誇った近代首都の変わり果てた姿だった。

空襲後の海軍武官室。 阿部信彦さん提供。

この廃虚に奇跡のように残っているこの建物が、英国機の執拗な爆撃に全てを焼き尽くされた日本海軍ドイツ駐在員の最後の拠点で、一同は日ごとに募る困難と闘いながら、本国への情報連絡に最後のあがきをしていた。

この日も私は事務所の三階からしみじみとあたりを見下ろしていた。この町には全く親身にも及ばぬ世話にあずかった公私の知人が、今夜も襲ってくるかも知れない爆弾の絨毯下に戦っている。しかも私は彼ら、彼女らの前に一言の挨拶も残さずに本日忽然と姿を消さなければならない」

海軍軍人にとって潜水艦で帰国すると言うことは誰にも口外してはならない極秘事項であった。よってかれらは下宿の女主人に「ちょっとパリまで出張に行ってくる」と言い残してトランク以外の荷物を残したまま、潜水艦に乗り込んだ。

小島少将と同じ潜水艦で着任してきた田丸直吉海軍技師は大使館の様子をこう書いている。

「四月二十九日の天長節は大使館で式典が行われるというので、初めて日本大使館に出掛けた。大日本帝国の出先代表機関であるだけに、菊のご紋章のついた建物もなかなか堂々たるもので、その中の大広間で式典は厳粛に行われた。

陸軍出の大島大使も立派な体格で、ドイツに滞在する日本国民はすべからく自分を頼りにすべし、といった自負に満ちた表情を見せていた。式後にお酒が出てこのよき日を祝った」

しかしドイツの現状を外交官はどう見ているかと田丸が探りを入れると、大事なところではみな口を噤んでしまう。大使に気兼ねしているようであった。


国際結婚>

ナチスは人種政策としてアーリア人至上主義を唱えるものの、同盟関係を結ぶ日本人に関しては名誉白人といった都合の良い呼び方をしたが、本質は変わらなかった。

つまり長年にわたって日本人とドイツ人の国際結婚は認められなかった。例外は女優田中路子だけであった。彼女はオーストリアのコーヒー王ユリウス.マインルと離婚し、ドイツの国家的俳優デ.コーバと一九四一年五月に結婚しベルリン郊外に住んだ。ただしこれも大島大使がリッベントロップ外相に話して成り立った。そして条件として路子は不妊手術をさせられたと噂されたほどであった。

再び守山の日記に戻ると一九四四年一月七日
S君の結婚問題。政治的理由ある場合にのみに許される。大使、外相会談によるのみ」
続いて十四日
「河原参事官にS君の結婚問題を話す。大使からリッベントロップ(外相)へは難しからんと」と邦人の結婚問題が書き残されている。

S君とは留学生で開戦後は大使館の嘱託となった千足高保(せんぞくたかやす)のことある。彼が下宿先の娘である亡命ロシア人リュミドラーとの結婚を望み大使館に結婚許可申請を出したのは前年十一月十五日のことであった。

それが正式な許可は三月上旬におりた。守山の日記にあるようにこの時期になって、ようやく大使館が何らかの合意をドイツの外務省と取り付けたのであろう。

そして千束の結婚に続いて幾人かの婚姻の届けが出される。朝日新聞の笹本駿二がザクセン州出身のイヴォンヌビュルガと、読売新聞に働く中山千郷がウトラリッチ.リーズロッテと結ばれた。なぜか報道関係者が多い。

またある軍人が「ドイツ手わが国の若者は下宿屋の娘とばかり結婚するのだ」と嘆いたという話があるほど、身近にいるドイツ女性との結婚が多かったようだ。


<パリ解放>

六月六日、連合軍が大挙してフランス西岸のノルマンディーに上陸した。ドイツにはそれを押し返すだけの飛行機も、戦車ももう備わっていない。間もなくして連合国は、大陸に反撃の橋頭堡を海岸に築くことに成功する。

そのニュースがベルリンに伝わった同夜、大島大使はドイツ宣伝省のリューレイ公使他をホテルアドロンに招待しての食事中であった。知らせを聞いた大島はドイツ人の手前か、何と上機嫌になった。ドイツ側のかねてからの説明通り

「これこそドイツが待ち望んでいた事態だ。敵軍に大打撃を与えるチャンス到来」と喝采したのであった。確かに上陸直後二十四時間は、ドイツ軍が上陸軍を水際で叩く事の出来る可能性を秘めていた。よって小松光彦陸軍武官も、戦局の好転を思わず神に祈願したが空しかった。

六月十二日、また日本人理事会が開催される。
「パリ同胞引き揚げ対策協議の理事会開催。戦闘機一台十万円献金する決議。陸軍か海軍か」
戦前、外交官の年収が八十円と言われた時代である。

ノルマンディー上陸の翌日、フランスの日本大使館は邦人にパリを引き揚げるよう早くも勧告する。しかしパリの邦人はドイツのとは気質が異なった。同地でラジウムの研究をしていた湯浅年子は引き揚げ勧告を受けたこの日

「私は、もはやこの戦争の行く末がわれわれの予想するものである以上、わざわざドイツまで行く気がしない。パリで、研究所へ通いながら、もし死ぬものなら死にたいと思う。

大使館の人たちにはこの気持ちが通じない。日本人として、行動を共にするべきだと言う。非国民的行為だという。しかし、ドイツへ逃げて、戦争の終るまで何もしないでいるのが、はたして祖国のためになる事であろうか。」

その後八月に入りパリの解放が迫ると、大使館は嫌がる邦人も拝み倒して、ベルリンに連れてくる。湯浅のほかにバイオリニストとして名高い諏訪根自子などもいた。ただしフランス人と結婚していた数名の画家などは、“それでも”とパリに居座った。

そしてベルリンに逃げてきた邦人のほとんどは、予想通りすることもなく東部のブリュッケンベルクと言う片田舎の町に疎開した。


<敗色濃厚>

一九四五年一月一日、大使館では恒例の新年会が行われた。敗色濃厚で、病気をした大島大使は努めて元気に振る舞おうとしているようであった。それでもこの日の大使の訓示は元気のないものであった。東部ではソ連軍がベルリンから二百キロまでに迫っていた。

二月に入ると七十五キロの地点まで近づく。邦人のみならず、ベルリン市民もそわそわし出す。一九三九年の九月にヒトラーがポーランドを急襲した時、ベルリンは四百三十三万八千人の人口を誇ったが、この年の始めには統計上では二百八十万七千人に減っていた。しかし外国人、逃亡兵がかなり流入していたので正確な数字はよく分からない。

ベルリンを離れ、テンプリンのギムナジウムの日本語講師であった篠原正瑛はこのころ毎週末、情報収集を兼ねてベルリンに出てきた。そして日本食にありつくべく、日本人会を目指した。

「ある土曜日のことである。昼食のために日本人会の食堂に行ってみると、親しくしている留学生が三、四人、窓際のテーブルに集って、真剣な表情で何事かを論じ合っている。

私も側の椅子にかけて話を聞いてみると、日本の陸軍武官室でも、海軍武官室でも、すでに敗戦気分が濃厚で、武官連中の多くは仕事が手につかず、半ばやけくそになって毎晩のように集まって花札賭博をやっているという。しかも、一晩で何万円という金がかけられているそうだ。」


留学生が憤慨したのも無理はない。篠原がドイツの留学のために持ち出す事の出来た外貨は、わずか五百円分だけであった。

二月五日午後零時半、大使の訓示が大使館内であった。
「ドイツの立場を川中島合戦の武田信玄、上杉謙信にたとえるが要領不明」とある参加者は書く。

続いて二月十一日は紀元節である。式典は午前十一時半からであった。式にはリッベントロップ外相も参加した。直後に記者団が取り囲むと、外相は疲れきったようにソファーに腰を下ろした。

フランスから逃げ戻ってきた高橋保官補はこの日について書く。

「大使館の例の大広間、再度の空襲のために破壊しつくされた窓ガラスなき部屋で、実に簡単な式を終わった。殊に目についた事は陸海軍人の貧弱さであった。あの日本で見るが如き堂々たる武人ではなく、軟化したる武人であった」

しかし軍人の目から見ると、外交官も状況は同じであった。

「最近のベルリン大使館も別に大した仕事もなく、ただ情報を聞いたり、ラジオを聞いたり、新聞を読んでいたりするに過ぎない。それでも多くの空襲を受けるのでまったく大使館員は食事と、住所と大使館の交通に大部分の精力を使っているといった感じ。したがって、大使館員には何となく生気の躍動を認め得ない」

連夜の空襲で交通網が遮断され、下宿から大使館まで片道三時間くらいかかるようになった。

節目ごとに大使館に集まってきた邦人も、これが最後の集会となる。なお高橋官補はこの日の午後、他の外交官仲間とヴァンゼーでゴルフを楽しんでいる。まだゴルフ場が開かれていたとは少し意外な気もする。これも外交官専用コースか?


<ドレスデン大空襲>

二月十三日の深夜から十四日未明にかけて、英米両国空軍の大編隊によって三波にわたって行われたドレスデンへの空襲は、第二次世界大戦中ドイツに加えられた爆撃の中でも、短時間に集中的に大量の爆弾が投下された点では、最もすさまじいものであったと言われている。

そして降伏直前のドイツの、しかもまったくの非武装都市に対して実施された、ある面無意味な爆撃であることと、さらに一度の爆撃で六万人という多数の死者が出たことから「東の広島、西のドレスデン」と言われているほどである。

ベルリンに週末に出てきた篠原は日本人会でこの空襲が話題にのぼっているのに出くわす。話をしたのはベルリンに住む商社の駐在員で、商用でドレスデンに行っていて、大空襲にあったのであった。

かれはその時は死者の数は分かっていなかったが、見渡すかぎり何千という死体が転がっているという印象であった。

ドレスデンの旧市内は、十センチ四角位の石を敷きつめた古い舗装の車道が多いので、普段のときでも雨の日は車がスリップしやすいところへ、歩道の縁にまでとどくくらいに血がたまっているので、彼がいくらアクセルを踏んでもタイヤが空転してハンドルをとられ、車はほとんど前進しなかった。

そのうちに、火はしだいに燃えひろがって、車の中にいても顔が熱くなってくるし、火を逃れて右往左往する人たちが車道にあふれてくるし、彼は立ち往生した自動車の中で、もう駄目かと半ば覚悟をきめた。しかしその時、逃げまどう人々のあいだから、一人の警官が飛び出してきて、後から車を一生懸命に押してくれたので、やっと危機を脱してベルリンまで辿り着くことが出来た。

ベルリンでこの話をしたときでもかれの興奮は静まっていなかった。


<邦人リスト>

欧州戦争も七年目の一九四五年に入ると、ドイツは西でも東でも、かつて戦争を始めた地点まで押し戻された。戦場はいよいよドイツ領内となった。邦人も身近にせまるベルリン陥落に備えなければならなくなった。

日本大使館、武官室、報道機関では敗戦対策としてすでに幾人かのスタッフを隣接する中立国スイス、スエーデンに送った。ドイツ崩壊後も活動を続け、日本との連絡網を維持するためである。しかし両国は限られた数の入国ビザしか発給しない。またスペイン、ポルトガルへの唯一の連絡法であった航空路も閉鎖された。

唯一の救いは日本とソ連の間には、松岡外相によって四年前に締結された中立条約が、依然存在していたことだ。この条約によって日本人は、ドイツ人と異なり、アメリカ軍ではなくソ連軍によって保護されれば、無事日本に送り返されるはずであった。

二月、ベルリン総領事館では残っていた邦人すべてに対し、ロシア語で書かれた身分証と保護を依頼する文書を渡した。ロシア兵が進出してきた場合、日本人であることを説明し、保護と無事な帰国を求める護身証であった。

この頃には邦人は殆どがベルリン市内を離れ、郊外に避難していた。かれらの名前と、おのおのの避難場所が記載されたリストが作成された。そのリストはベルリンから日本の外務省に連絡され、さらにモスクワの日本大使館に送られた。そして最後は佐藤尚武大使によってソ連側に渡され、邦人の保護が依頼された。この要請はソ連側に快く受け入れられ、ソ連は全軍にさっそく邦人保護の指令を発したという。

この時作成された邦人リストの原本は見つからないが、外務省外交史料館にはそれを元に作成されたと思われる「在独邦人名簿 昭和二十年一月現在」という記録が残っている。この名簿によれば最後までドイツに残った邦人は、次の様に分類されている。

まず職業別に見ると
大使館関係     一0九名
総領事館関係   三十八名
陸軍関係       六十一名
海軍関係       四十七名
その他の官雇   十名
銀行、会社関係  一一六名
新聞社、通信社  三十七名
その他           一二四名
               五四二名

合計五百四十二名中、外交官、軍人関係者が半数を占めている。

次いで地域的に見ると
ベルリン総領事館内   四八九名
ウィーン総領事館内    三五名
ハンブルク総領事館内 十八名
と圧倒的にベルリン地区に集中している。

ただしこのリストに名前のある邦人のうち約二十名は、実際は入国ビザを得てスイス、スエーデンにすでに避難している。

先に紹介した一九四二年の時点から大きく滞在者が増えたのは、ドイツ軍のかつての占領地から引き揚げてきたばかりの人々が、二百名ほど交じっていたからだ。かれらの中にはフランス、イタリアからの避難者のみでなく、遠くアフリカのモロッコに駐在していた人物もいた。

邦人はすでに分散して郊外に避難をしていたが、イタリアからの引き揚げ邦人三十五名は、ドレスデン近郊にいた。またフランス、ベルギーからの二十八名は北ドイツ、メクレンブルクのいくつかの村に分散した。大人数の社員を抱える三菱商事の関係者は、三十四名がベルリン東方ズコーに疎開した。しかし三月、ズコーの家屋はドイツ軍に徴用されたため、全員ベルリン西方八十キロのリンデの荘園に落ち着いた。

さらにベルリンの北方九十キロの地点には、大使館通商部嘱託を中心とするグループがいた。かれらはその後、付近の小村クレヒレンドルフの古城に避難する。

これらの疎開者は皆、先に述べたように西からのアメリカ軍ではなく、東からのソ連軍が進出してくると思われる地域を慎重に検討して、避難場所に選んだ。


<外交官の避難>

大使館関係者はベルリン西方のモルヒョウの別荘に避難して片道二、三時間かけてベルリンに通っていたが、二月、三月と二回に分かれ、殆どが南独に向った。ドイツ外務省が南ドイツ(現オーストリア)の保養地バード.ガスタインに枢軸、中立国外交官用に避難所を用意したからである。

「かれらは全員、外交官パスポートを所持するから、アメリカ軍が来ても大丈夫であろう」と、ベルリンに残る民間の邦人は羨望を込めて噂した。また民間人では大使夫妻に可愛がられていたバイオリにストの諏訪根自子のみが、南独行に加わった。彼女の職業は先に紹介した「在独邦人名簿」によれば、大島大使夫人豊私設秘書となっている。大使夫人の好意であろうが、これに対しても民間人の非難があがったという。

大島大使自身は四月十三日、残っていた大使館員、陸軍、海軍それぞれ数名と共にベルリンを離れ、南独(現オーストリア)のバード.ガスタインに避難した。以降は数名の若手の外交官が、ベルリンの大使館の地下壕に残留し、大使館の扱い等に関し、ロシア占領軍との折衝にあたることになった。大使がベルリンを去るにあたっては握り飯日本酒でささやかな送別会が行われた。

もともと居留民の保護の責任を負う総領事館関係者も幾人かが残留し、各地に散らばる在留邦人の保護にあたることになった。よって「外交官は真っ先に民間人を見捨てて避難した」という非難の声もあったが、やや事実と異なる。

他方陸軍関係者数十名は一九四五年早々から南に避難し、後にバード.ガスタインに合流した。海軍関係者は小艦艇を予め手配しておき、最後の瞬間にスエーデンに逃げ込んだ。


<マールスドルフ>

外交官軍人の疎開先はドイツ側が用意した。また三菱商事のような邦人を多く抱える企業も独自で疎開場所を探した。そうした最後の避難先を見つけられない民間人のために中心となって活躍したのは、領事部の外交官ではなく「日本人会」であった。


それまでも集団疎開については幾度も日本人会を中心に議論してきたが、結論には達しなかった。最後までベルリン市内に残るという残留組の意見が強かったからだ。

二月一日、日本人会の緊急理事会が開かれた。そのとき委員の佐藤彰三が一つの報告を行った。
「ベルリンの南西約七十五キロの地点にベルチヒの村があり、人口は四千人、これまで一度も空襲を受けたことがなく、周囲の近郊にはいくつかの村落も存在している」

いよいよ日本人会はベルチヒ村を集団疎開先に決めた。早速委員数名が現地に向かった。近辺にはマールスドルフ城があり、いざというときには村を離れ、百名以上がその中で暮らすことが出来ることも好都合であった。筆者も訪問したが、城としては特徴の少ない四角い建物である。

ドイツ当局とも交渉してベルチヒ村のホテル.ベルグ.アイゼンハワーを借り受けた。ここに日本人会先遣事務所を置き、直営の日本食堂も営業を始めた。委員は続いてベルチヒ近郊で部屋探しに奔走する。隣接する村を含め数日のうちに百室を確保できた。

ベルリンの日本人会に状況を報告し、ベルチヒへの集団疎開を邦人に勧誘すると、すぐに百名あまりが申し込んだ。民間人に他の選択はなかった。

二月十一日、馬瀬金太郎ベルリン総領事からベルチヒの日本人会にメッセージが届く。
「現況をよく理解し、時勢にふさわしい態度、日本人として尊敬を受けられるような態度が望ましい」というものであった。

ベルチヒでの避難生活が始まると、主食である米は北イタリアから入手し、大使館員は下落の始まったライヒスマルクをドルに替え、物品の購買費用にあてた。皮肉なことに最後に頼りになるのはアメリカのドル紙幣であった。




マールスドルフ城(筆者撮影) 下の写真の手前天井部分に当時の面影が残っているとのこと。

<集団帰朝>

四月に入るとソ連軍のベルリン総攻撃は最終段階に入る
同月四日、疎開組に加わらずにベルリン残留を決めた舞踏研究家である邦正美は、かつて日本人の多かったベルリン市内を車で見て回った。街にはドイツ人があふれていた。「どうしてこんなに大勢の人たちが歩いているのだろう」といぶかしがるほどであった。公共の乗り物がほとんど動いていないからである。

最後まで開いていた日本人会館も建物と看板はそのままだが、ドアは固くしまっていた。あけぼ乃は看板もなくなっていた。関係者も疎開組に加わっていた。

四月十四日、ソ連軍の最後の総攻撃が始まった。同じ日にベルチヒに分散して滞在する邦人に対して、マールスドルフ城に集結するよう指令が出た。

城には様々な社会の日本人が集まった。外交官、商社員、留学生等の他にサーカス団員、柔道師範など、当時の日本人が海外で活躍する事の出来た、ほとんどの分野にわたっていた。
自治会が組まれ、皆が平等な自給自足の合宿生活が営まれた。城には電気も電話も通じなかった。

そこには近衛秀麿の夫人とされる澤蘭子の姿があった。五歳の近衛暁子を連れていた。近衛はアメリカ軍に投降しようと、独自の行動をとっていた。また二年前にスエーデンで連合国と接触してベルリンに連れ戻された崎村茂樹も会に加わった。

日本人会の会長は依然横浜正金銀行の久米邦武であったが、銀行は業務を続けざるを得ないためベルリンに篭城することになった。そこでマールスドルフ日本人会会長として新たに昭和通商の永井八郎が選ばれた。

五月二日、ヒトラーの戦死(実際は自殺ー筆者)とベルリン陥落の知らせが城にも入った。三日、ソ連軍は邦人が最近までいたベルチヒの村に入った。ソ連軍の進駐に備え、城の門にロシア語で「日本帝国総領事館」の門標を掲げ、屋上と門に日の丸の国旗を掲げた。日本が必至に維持してきた日ソ中立条約が役に立つ時が来た。

婦女子は万が一に備え三階の一室に隠れた。翌四日午前七時四十分、城に五名のソ連兵が現れた。ロシア語の得意な横井喜三郎が、この城は日本総領事館で在留邦人の避難所であると説明すると、ソ連兵は二人を歩哨に残し退去した。
(「横井喜三郎 ロシアに最初に日本商店を開いた男」はこちら。)

そして一個小隊の兵士がやって来て、それから絶えず邦人の保護にあたった。二月の保護依頼が伝わっていたのだろう。ベルリンではドイツ人に対し、強奪の限りをつくしたソ連兵であったが、日本人には恨みはなかった。幾人かが腕時計、万年筆を奪取されたくらいで済んだのは幸いであった。

五月十三日、日本人会によって園遊会が企画された。そしてソ連兵も招待した。
「日ソの民謡の交歓があり、ソ連兵も自国の民謡が日本人の音楽家のバイオリンで演奏されるのを、目を細めて聞き入っていた」と当時の滞在者の日記に記されている。

十八日早朝、ベルリンよりソ連国境警備師団長が来て、本日中に全員ベルリンに発ちそこからモスクワ経由で帰国させると伝えた。軍の命令であるから従う外ない。皆をホールに集めると永井会長が「今日午後をもってこのマールスドルフ日本人会を解散することになりました。詳しい事情は総領事からお願いします」と発表した。

そして馬瀬総領事が「只今十一時ですが二時までに荷物を作り、午後四時トラック十台をもってここを立退く」と伝えた。一行は四時、トラックに分乗してベルリンのリヒテンベルク駅向かう。同駅に着くと、そのまま近くの民家に二泊する。そこにはベルリンの大使館の地下壕に篭城していた大使館員のほか、スイス、スエーデンの中立国の人々もいた。みな知恵を出して、戦禍を逃れたのであった。

二十日、百五十二名にふくれた邦人は、ベルリンを出発する。途中の鉄道は何ヶ所も寸断されていた。二十五日朝九時、ようやくモスクワに着く。モスクワでは一行は、駅を出ることすら許されなかった。代表十数名のみが日本大使館が赴いた。佐藤尚武大使は残留希望者に対して、一刻も早い帰国を厳しい口調で伝えた。ソ連はすでに日本との中立条約の非延長を伝えてきて、大使館内は殺気立っていた。

それでも病気、身重等でどうしようもない九名がモスクワに留まり、列車は午後四時東に向って出発した。広いシベリアの広野を走るとき、ヒトラー政権下のベルリンオリンピックのフィルムを新聞社に託されて運んだ横光利一が「なんてばかばかしく広いんだろう」と嘆いた紀行文を多くの人が実感した。シベリア鉄道の列車が満州国境に着いたのは、六月三日であった。

同地の国防婦人会の奉仕によるカレーライスの御馳走は、マールスドルフ城に避難して以来五十日近い避難行の後で、最高の潤いであった。そして一部満州で残った邦人を除き、全員無事日本に帰り着く。ただし日本はまだ戦いを続けていたので、かれらはまたアメリカ軍の空襲を受けることになる。


他のベルリン近郊の避難所の邦人も同様に、皆無事に帰国する。どこでもロシア語で作成した保護援助の依頼状が大いに役立った。そしてごく一部、自分の意思でベルリンに残った邦人もいた。

また南に避難した大島大使ら百八十余名はアメリカに送られた。軍人は何度かの取り調べを受けた。かれらは終戦の年の十二月六日、アメリカ船で浦賀に着く。


<ベルリンその後>

邦人の去った占領されたベルリンは、建物はほとんど崩れ、石の壁が道に沿って黒く残った。戦後まもなくして再びベルリンを訪問した邦人によれば大使館はかなり姿を残したが、陸軍武官室のあった建物は取り壊された。その隣にあって日本からの軍人がよく利用したホテルザクセンホーフは元の場所ですでに営業を開始していた。海軍事務所は頑丈であったためか土台が残った。日本人会の建物は壁だけであった。

ティアガルテンに威容を誇った日本大使館の建物は、戦後の東西冷戦時代は荒れるままとなり、筆者も二十数年前、立ち入りを禁止する柵越しにくすんだ姿を見ることが出来た。しかし一九八七年に日独文化センターとして再建された。建築家黒川紀章の設計だが、往時の重厚なイメージは残された。また外交官が身を潜めた頑強な防空壕も取り壊されずにその庭に残っている。そしてドイツ統一後には再度日本大使館として利用されることとなる。最後に今日もベルリンに日本人会があるのかは、筆者は寡聞にしてわからない。

                      終わり
(参考文献)
近日中に紹介予定

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