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日本 辻正義さんの体験した戦前のベルリン、モスクワ  瑞西
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辻(伊藤)正義さんの体験した戦前のベルリン、モスクワ
<序>

2013年3月20日、筆者は伊藤正義さんという方よりメールをいただいた。
それによると当ホームページで紹介している加藤眞一郎さんの体験に基づく「日本人小学生の体験した戦前のドイツ」の中で紹介した「開校記念日」の写真に関し、前列左から二人目が伊藤さん本人であるという。早速写真を送っていただいたが、それが下の写真である。



次のやや黄ばんだ写真が加藤さんの保存しているものであるが見比べて、70数年の年月を経て変化を遂げたのが感慨深い。また本邦初公開と筆者が意気込んで紹介した写真であったが、すでに辻正義さんにより図説「昭和の歴史」6(集英社)という本にも掲載された。



ベルリン会の幹事でもある加藤さんはこの前列左から二人目の人物を覚えており、伊藤正義さんではなく、辻正義さんではないか?と私に問い返してきた。聞くとその通りで、戦後結婚して辻姓から伊藤姓に代わっていたのであった。

八十四歳の加藤さんはここに写っている小学生ほぼ全員の名前をスラスラということが出来る。もうこの写真の中で、お元気な人は加藤さん自身と姉の綾子さんだけだと思っていたので、思わぬ生存者の出現に加藤さんも喜んだ。

また改めて写真を見るとあまり日本人らしくない顔立ち、衣装の子供もいる。例えば後ろから二列目左から二人目、右端の女の子である。彼女らは当時の満州国外交官の子弟であった。加藤さんの記憶では5人ほどがそうである。日満友好の国策の元、満州国人も日本人学校に通ったのであった。

さらに辻正義さんはお父さんの転勤で1939年にはベルリンからモスクワに移った。筆者にとって戦前のモスクワの体験談は初めてのことで、その点からもとても興味を持った。本編はそうして辻正義さんの欧州での生活を追うものである。

最初にお断りしておくと伊藤(辻)さんはご自身で、「母と生きた時代の思い出」という形で、すでに当時の体験をまとめておられる。ここで紹介する内容はそこからの引用が主となることをお断りしておきます。
特に写真を戦災で失わなかったため、貴重な写真がたくさん残されている。それらを多く紹介し、筆者のコメントを添えていきたい。

<生い立ち>

辻正義(以降正義と記す)さんの父親、辻正直(以降正直と記す)さんは1901年生まれで1921年4月、日露協会学校(ハルピン学院)留学生となる。同学院は日露間の貿易を担う人材育成を標榜して、旧満州国ハルピンに設立された。同校出身者で有名なのは杉原千畝(すぎはらちうね)であろう。

杉原は1939年8月、バルト海のリトアニアの首都カナウスで領事在任中に5000名のユダヤ人に、日本を通過してアメリカなどに渡るための査証を発給し彼らを救ったことで、広く世に知られている。杉原は1900年1月1日生まれで1919年9月ハルピン学院に入学するので、まさに父正直と同世代である。そしてほかにも類似点を筆者は見つけるがそれは後述する。

正直は1924年4月に同校を卒業後、6月外務省嘱託欧米局第一課に配属となる。第一課は”ロシアサービス“と呼ばれたソ連の担当である。続いて二課がヨーロッパ諸国、三課が南北アメリカという担当割であった。翌年通訳生としてウラジオストック勤務した後ハバロフスク、上海の勤務を経て1930年3月、外務書記生としてモスクワに勤務となる。そしてその年の1月には宮原静子と結婚をする。静子は当時19歳であった。


1933年1月1日モスクワ大使館にて 。 右から3人目は広田の後任の太田為吉大使?
ほぼ中段右から2番目が正直。モスクワゆえか、心なしか皆堅い表情である。


そして1931年1月5日、長男正義が生まれる。本編のいわば主人公はモスクワで生まれたのであった。兄弟について先の述べておくと翌年に次男正道が生まれるが幼くして赤痢で亡くなるが、その後正敏、正行と生まれる。 

正義が生まれた時のソ連大使は、父正直と同じ福岡出身で、後の首相経験者でもある広田弘毅であった。広田家とは家族ぐるみで懇切にしてもらっていた。広田大使からもらった誕生祝いの飾り皿を、正義は今も保管している。


正義誕生

モスクワでの生活について、正義は全く記憶にないが、写真を見るとかなり豪華な暮らしだったことが推測される。女中も子育て係、料理の係など別だったようで、食事、食器なども高級品だったという。与えられたおもちゃの木馬は、毛皮で覆われた馬は本物のようで誠に立派であった。ソ連の遊具は日本のより優れていたということなのか、それとも西側寄り持ち込まれたものか判断はつかない。正義が2歳の1933年に一家は日本に戻り、正直は外務省で電信課に配属となり、以降欧米局1課、欧亜局1課と勤務する。


モスクワ日本大使館前にて。母静子(左)と正義(中央)右は女中の一人?


正義の記憶にある立派な木馬 女中ニーニャと

<ドイツへ>

1938年4月5日、この時外務書記生であった正直は、ベルリンの日本大使館勤務を命じられる。日本とドイツの間では日独防共協定が締結され、さらにその強化が声高になり日独関係が重要になってきたころである。

今回の赴任に際し両親は、静子の妹で三女の宮原澄子に同行をお願いした。正義他三人の子供の面倒を見てもらうためであった。ここも先述の杉原千畝と似ている。杉原も1937年9月15日、ヘルシンキ公使館勤務として赴任する際に妻幸子、子供三人に加え、幸子のすぐ下の妹も日本から同行させている。

「パーティーなどの外交官の付き合いは夫婦同伴が常識。何かと外に出ることの多い夫婦に代わって子供たちの世話を見るため」と著書に記されている。現地で教育係を雇うよりは、日本語教育のためにも日本人が良いと考えたのであろう。


1938年(昭和13年)5月5日発行の正義の公用パスポート。7歳の子供にもパスポートは発行された。ドイツへの赴任に際してはイタリア、スイス、オーストリア経由となっている。

父、母、正敏、正行は横浜から日本郵船の「靖国丸」に乗船し、自分と澄子叔母(母の妹)は門司港から乗船した。門司港では接岸できないので小さな艀船で靖国丸に近づき、高くて急な桟橋を抱かれて乗船したことを覚えている。一等船客室と三等船客室と二部屋をとってあったが、外交官待遇ではない叔母の澄子は三等船客室だったという。 
  

靖国丸一等船客の記念撮影。「6TH JUNE. 1938 VOY. No.21」と白いローマ字が写し込まれている。
前列右から三番目、船員に抱かれているのが正義。前から3列目4,5番目が正直、正敏。前から2列目3番目が静子


当時の配船表によれば靖国丸の第21航海は1938年5月22日、横浜出航である。撮影日が6月6日とあるので、予定通りであったならばシンガポール入港前日の撮影である。

靖国丸には長旅の退屈さを紛らわせるため色々な施設があり、プール、映画館、その他娯楽施設も完備されていた。よって子供の正義も航海中、全く退屈することはなかった。食事は部屋でもとれるが、食事の時間になると鉄琴を鳴らしながら回って来るので、辻家はそれを合図に食堂に出かけた。

食事の種類も豊富であり、寄港する国々の産物も取り入れて特にシンガポールあたりで出された南洋の果物は美味しかった。また夕食にはテーブルにいろいろな記念のプレゼントも用意されていた。船では家族一同揃っての暮らしが出来て、食事も一緒で父、母と暮らす時間もたっぷりあったので楽しかった。


すき焼きパーティーも一等船客への定番サービスであったようで、日本郵船米国向けの船でも行われた。左のテーブルに正直が見える。
専属のカメラマンが乗り込んで、こうした写真を撮り、日付なども入れて配ったのであろう。


寄港する港では上陸できるところも何カ所かあった。門司の次の停泊地である上海で辻一家は上陸したが、日本海軍が上海に利益保護の目的で駐屯させていた海軍陸戦隊の車で、租界地を案内してもらった。その時正義は生まれて初めて、壁に銃弾跡を見た。跡は第二次上海事変で出来たものと思われる。

次のシンガポールでは街路樹に猿が群がるようなところを通って動物園に行った。小さなバナナを餌にしていた覚えがある。スエズ運河の北端にあたるポートサイドでは駱駝で近郊のピラミッド見物なども出来たが、辻家ではそれをしていない。
 

スエズ運河通過 右が澄子

船はロンドン行きで欧州最初の寄港地はイタリアのナポリであるが、先に紹介したパスポートの情報から、辻家はここで降り、ドイツに向かったことは疑いない。

しかしベルリンに赴く家族連れの多くは次のマルセーユで降りて、鉄路パリを経由してベルリンに向かった。パリ見物も一つの目的であったろうが、当時は日本の最先端の女性の洋服でも、当時の欧州の社交界では見劣りがしたので、パリに寄ってドレスなどを買うためである。

ルリンでの生活スタート>

筆者は既に「日本人小学生の体験した戦前のドイツ」で当時の日本人の暮らしぶりを紹介しているが、それとはダブらないように辻家のベルリンでの生活ぶりを紹介していく。

ベルリンの住居は今もその名前が残る「クーフスタイナーシュトラッセ」(日本人が多く住んだヴィルマースドルフ地区の”Kufsteiner Strasse“)にあったという。日本人会なども近く、その後も戦時中にかけて日本人が多く住んだ通りである。


正直の勤務する大使館はアホルン通り(Ahorn Strasse)1番にあった。正直の住む通りからは3キロの道のりである。その後まもなくして移転するティアガルテン通り25−37番の大使館はこの時建築中であった。この後者の建物は第三帝国風建築として今も残っている。

時の大使は鹿児島出身の東郷茂徳(日本開戦時および終戦時の外務大臣)で家族ぐるみで懇切にしてもらっていた。いつも家族的に付き合いがあって、ドイツ人の奥さんエディットと娘”いせ”とは、母静子も親しくしていたという。

正直がハルピン学院を卒業して、欧米局第一課に配属されたのはすでに書いた。その時の課長は東郷であったので、この時に知り合ったはずである。しかし二人の繋がりを裏付ける資料(回想録など)は見つからない。

その東郷は1937年12月24日のクリスマスイブにベルリンに着任している。そしてその後を追うように半年後に正直がドイツに赴任している。確かに正直のドイツ赴任は東郷の指名であったことが窺われる。
ロシア語の専門家正直がドイツに呼ばれたのは、東郷がドイツにおいてもソ連との関係の重要性を認識していたからであろうか?

そして大使公邸はティアガルテン通りの3番にあった。二階にバルコニーのある、大きな菩提樹の木に囲まれた屋敷であったと東郷いせは書いている。

<日本人学校>

正義はベルリンで日本人学校に通った。小学校二年生のクラスであった。冒頭の写真に写っている子供から判断しても、この時外交官の子息は他には通っていなかったようだ。家庭教師をつけたケースが多かったのであろう。

当時欧州で暮らした子供と日本人学校は私の一つの中心テーマで、これまでも取り上げてきた。(ベルリン、ローマ、コルティーナ)ここでも正義の記述を中心にその様子を再現してみる。

日本人学校はバベルスベルガー通り49番(Babelsberger Strase)にあり、辻家とは通り一本隔てただけである。よって学校へは正義は徒歩で通った。授業は午前中だけであったので、現在の日本人学校とは違い楽なもので、かつ楽しかった。小さな規定の弁当箱にバナナを詰めて持参し、それをおやつとして食べた。勉強もあまりというか、ほとんどしなかったという。

午後は市立公園へ出かけドイツの子供たちとよく遊んだ。冬になると雪が積もるので橇(そり)を持っていった。最初は滑れなかったがドイツの子供が手取り足取りしてよく教えてくれた。子供同士は言葉の壁も低く、すぐに仲良くなった。このように一日の多くを遊びの時間にあてていた毎日であった。


加藤眞一郎さんの当時のサイン帳の表紙。右は正義の書き残したメッセージ。

日本人の先生は4人いたが、体操はドイツ人の女の先生でやさしかった。日本語の勉強のために「毎日小学生新聞」が一月分ぐらいまとめて送られてきたが、あまり丁寧には読んでいなかった。

先述の東郷大使の娘“いせ”は大正12年(1923年)生まれ、当時15歳で中学3年生であるが、ベルリンでは「ほんの数人を集めて、ほとんど個人授業の様に勉強する日本人学校に通った」とある。中等部まであった日本人学校であるが、彼女が実際に通ったのかは他の資料からは確認できていない。


二年生の修了証書。日付にある1939年3月20日に正義はすでにモスクワにいるので、後から送られてきたのであろう。


樽井近義校長先生。「正義君」宛てになっている。修了証書と共に1939年5月3日に送られたのであろう。樽井は戦後「ヒトラー最後の十日間」や「第三帝国と宣伝 ゲッベルスの生涯」を翻訳するが、これらは今ではナチス関係の古典図書である。

次の写真に関して、正義は日本人学校前で撮られた写真と聞いていた。
その下の写真からそれは裏付けられる。大日本連合青年団が日本人学校を訪問した時のものである。良く見ると背後の鉄の飾りが全く同じである。

またこの写真を見た加藤さんは
「あ、僕のお袋が写っている!」と思わず声を上げた。中央の夫人である。さらに左端が綾井三井支店長婦人、右端より渡辺三菱支配人夫人、小島海軍武官夫人、加藤さんの母親で大倉商事支配人夫人と並んでいることを教えてくれた。最後に左から二人目、少し控えめに写っているのが正義の母親、静子である。

御主人の地位がそのまま婦人の地位となる時代であった。また外交官関係では辻家がほとんど唯一日本人学校に通っていたので、若い静子が代表として並んで写っているのであろう。また余談ながら小島夫人のご主人小島秀雄海軍武官はこの頃、東郷大使の追い出し工作に奔走していた。




2枚とも日本人学校前の写真

<ベルリンの日常生活>

大使館勤務の正直は大変忙しそうだった。辻家が家族そろって食事ができるのは朝食ぐらいだったという。
一方家族にとってベルリンの生活はきわめて快適であった。これは多くの欧州に滞在した子供の持つ印象と同じである。まず子供のおもちゃが素敵であった。模型機関車は頑丈な作りでレールの上を走る実感があった。その当時玩具の蓄音機は紙のレコード盤でゼンマイ仕掛けの仕組みでしっかりと音を再生していた。映写機も手回しのものであったが、約15ミリのフィルムを使用し、結構長い時間の映写が可能であった。玩具においてドイツは日本に比べはるかに先進国であった。


当時の日本にはない精巧な鉄道模型であった。今も有名なメルクリン製

市立公園(Stadtpark)へ行けばドイツの子供たちとよく橇(そり)で遊んだり模型飛行機を飛ばしたり、ゲームなどをして遊んだ。子供劇場、人形劇、子供専用の映画館などもあってドイツの子供たちと一緒に子供たちだけでよく出かけた。子供用人形劇場は「日本人小学生が体験した戦時下のイタリア」で紹介した山下忠さんもよく記憶している。当時の代表的な娯楽の一つだったのだろう。

母静子はカメラを使っていたが、多分ツァイスのスーパーシックスというモデルであったと記憶している。1937年から1956年まで製造されたカメラなので、当時は世に出たばかりのカメラである。周りのドイツ人からも羨望のまなざしで見られたのではなかろうか。

父は同じくツァイス社のコンタックスだった。引き伸ばし機や現像処理道具もそろえていたという。忙しい業務を終えた後に、こうした今も残る写真を自ら引き延ばしたのであろう。またこれらの機材は日本に持ち帰ったものの戦時中、撮影するフィルムも手に入らなくなり、地元の写真屋に一式買い取ってもらったようだ。

ドイツ製のカメラが当時いかに高価なものであったかについては、以下のような話がある。
同盟通信社のワルシャワ支局長であった森元治郎は1940年7月7日、帰国で神戸に着いた。その際持ち帰ったライカM2の望遠レンズ付きカメラが、税関でひっかかった。職員は税金840円と言いながら、高級住宅地である六甲の山の方を指して「これで一軒家が建ちまっせ」と脅かしたのであった。
ちなみに外務省の初任給が80円、マルセーユまでの一等の旅費が1000円の時代である。


興味深そうにカメラをいじっている静子(左)。当時のハイテク機器の筆頭であろう。また昔から日本人はカメラ好きであった。

大使館で雇っていた運転手の亡命ポーランド人ワロージャにはよく遊んでもらい、ドライブにも連れて行ってもらった。車がカーブにさしかかると、タイヤがきしむ音が聞こえるのを正義は愉快に感じていた。ちょうど有名なアウトバーンが整備し始めたころであるが、ドライブはもっぱら一般道であったと記憶している


く乗せてもらった車の前に立つ正義。予備タイヤのホイールのマークから車はメルセデスベンツ製であることが分かる

空気銃の手ほどきもワロージャから教えてもらった。子供用であるが、羽根付きの練習弾以外に実弾を込めれば雀、鳩など撃ち落とせたくらいの性能だった。

銃身は螺旋状の溝がありライフル仕様であった。帰国後よく大人の人たちの空気銃と比較されたが、子供用のドイツ製空気銃の方がかなり性能も上位であった。銃身も日本製とは異なり木製の部分も多く、スマートな形であった。ライフルなので風が吹いていても弾道がゆがまなかった。

母は日常生活で家族の面倒を見たり、ベルリンでの買い物、大使館行事へ参加したりと、慣れない環境で最初は大変だったろうと思う。ドイツ語もいつ勉強したか知らないが、よくこなしていたようだった。一人でドイツ語を使って買い物もしていたし、大使館員の家族達とも仲良くしていたようであった。
一方では毎日メードが来てくれていたので掃除、洗濯食事など家事は全部任せていたようだった。
 

大使館の夫人たち。若手グループであろう。


長距離列車発着の夜のツォー駅 両側が辻夫妻。当時のカメラの技術水準では夜間の撮影は難しかった。

<食事>

食事はやはり和食が懐かしく正義は寿司、味噌汁、漬け物など食べたかったが、実際はドイツ人の料理人が作る洋食ばかりであった。朝はパン、スープ、大きなソーセージ、イクラ、キャビヤ、バター、ジャムなどを主にいろいろ出されたが、特にソーセージは好きにはなれなかった。戦前でドイツに食糧が豊富にあったことを彷彿させる朝食のメニューである。

大使館の行事などでは和食の寿司なども出されたので、出かけるのが楽しみであった。正義は寿司が特に好きであった。「ジュース」類も好きだった。日本の祝日に合わせるように大使館では祝賀パーティーが催されたが、その時も子供達だけのテーブルがあって、彼らのために用意された料理に舌鼓を打った。

ベルリンではよく旅行にも連れて行ってもらったり、大使館の行事で家族がよばれたりすることも多かった。最初に覚えたドイツ語は、「ワッサーブリンゲンジー(お水をください)やダンクシェーン(ありがとう)、グーテンターク(こんにちは)、オフィーラセン(耳からこう聞こえたようであるが標準は“アウフ ビーダーゼーエン”=さようなら)」などである。

次のようなこともあった。正義が朝早く街に出かけると、歩道にガラスのかけらがいっぱい散乱している。これはユダヤ人の店がドイツの若者(ヒットラーユーゲント?)にやられていたと聞いた。

ゲッペルス宣伝相によって引き起こされた有名なユダヤ商店焼き打ち行為は、打ち砕かれたガラスが月明かりに照らされて、水晶のようにキラキラと光っていたので「水晶の夜事件(クリスタルナハト)」と呼ばれた。1938年11月9日の夜の事である。 正義が目にしたのはその翌朝の光景であろう。

そしてそのようなユダヤ人の店には入らないように注意された。正義にはその時は何故いけないのか分からなかった。特に表示はされていないが、ユダヤ人の店は何となく他の店との区別はできた。

またヒトラー総統はすごい人気で、街を車で通過するときなどは、一人残らず街頭に出て声援を送っていたように覚えている。東京に戻ってから日本軍の観兵式も見たが、それどころではない騒ぎだった。またドイツの若者がアクセサリーにまでヒトラーとかハーケンクロイツのマークを使ったりしていたのを見て、その人気は正義にも分かった。

当時の欧州邦人の写真を見ると、クリスマスの様子が多く残っている。今と比べれば格段に性能の良くないカメラでしかも暗い室内での撮影であるから、写真はどれも鮮明ではない。しかし記録に残したい気持ちを抑えがたいような、きれいな光景であったろうことは想像がつく。辻家の写真にもクリスマスのものが何枚か残っている。


938年の辻家のクリスマス。バックは飾り付けられたクリスマスツリー。ドイツで迎えた一回だけのクリスマスであった。

東郷大使の長女、“東郷いせ”の回顧によればクリスマスの様子は次のようだ。
「12月24日の朝、モミの木は車庫から出され、居間に据えられる。その日は一日、家族総出でツリーの飾りつけにかかる。天井に届きそうな大きな木だから、大人の背丈の一倍半は優にある。飾りつけには必ず梯子が持ち出された。」
彼女よれば上から下へと何本もつららの様に垂れ下がるのは「ラメタ」という飾りだそうである。上の写真からも似た光景を見て取ることが出来る。

正義によればツリーにはラメタの他、テニスボールより少し小さい色付きガラスとか、星形の飾りもあり、日本に戻ってからも数回使用した。また復活祭(イースター)も当時家族で楽しんだイベントであった。

<モスクワに>

外交官の東郷大使はベルリンでは海軍、陸軍の関係者とうまくいかなかった。当時ベルリンの大使館に勤務した首藤安人商務書記官の東京裁判での宣誓口述によれば、大使着任後間もない1938年3月か4月、小島秀雄海軍武官(日本人学校前の写真に夫人が写っていた)は海軍省へ
「日独協力関係増進を必要とするこの際、ドイツ外務大臣と折り合いの悪い東郷大使を留任することは帝国の採るべき道ではない」と打電する。そこには大島浩陸軍武官との打ち合わせ済みとも書かれていた。

一方東郷大使は1938年5月5日、広田外相に宛てて
「当地の大使館付き(陸海両)武官の行動は長き間の因習ありて、時に常軌を逸することあるも、、、」と書き送り、武官の行動が外交官の目から見て異常な部分があると訴えている。

その結果か東郷大使は滞在10か月でベルリンを去ることになる。本人が戦後書いた「時代の一面」には以下のように記されている。
「ベルリンに戻り10月27日、モスクワに向けて出発。冬のロシアは寂寥なるものがある。モスクワは初めてではないが、道行く人の寂しい顔が目に付いた。」
寂しい光景は誰もが持つ当時のモスクワに対する印象であった。

ここでも正直は東郷を追いかけるように1939年2月8日モスクワに転勤となる。東郷同様に短いベルリン勤務であった。東郷と同じでモスクワ方面への列車の出るベルリンのフリードリッヒシュトラーセ駅からモスクワに向かったのであろう。そしてベルリンの例と合わせて、今回も東郷の意向での正直の異動と考えてよさそうである。

ベルリンを発つときに滞在中良く訪れた市立公園出口で弟正敏と撮ってもらった写真がある。自分らがベルリンを去るのと、出口の上にかかった文字「さようなら」(Auf Wiedersehen)をかけて撮ったのは父正直のウィットであろう。市立公園はベルリンに二つあるようだが、自宅のアパートの位置から考えるとステーグリッツ(Stadtpark Steglitz)か?


ベルリンを去るにあたって


正直のモスクワ勤務(二等通訳官)を命ずる辞令。意外とあっさりとしている。日付も実際の赴任日より後である。

<モスクワでの生活>

モスクワではドイツとは違い、大使館の中に館員の住居があり、全体が高い城壁のようなもので囲まれていた。正義ら子供たちだけで外出することもできないし、必ず大人の人と一緒に出かけていた。

実際ソ連政府による日本大使館への妨害も激しかった。大使館の門前にはソ連の民兵、秘密警察が立ち、日本人の出入りをチェックした。さらには大使館の城壁には鉄条網が張り巡らされた。

辻一家の赴任一年前の1938年2月22日の読売新聞によれば、
「大使館の壁より高い、頑丈な鉄条網を張り巡らし、不法にも高圧電流を流してしまった。」とある。時の重光葵大使が抗議すると
「外交官保護に万全を期したもので、文明国の常識である」との返事であった。

1940年1月の外務省の記録では25名の外交官がモスクワの大使館に勤務している。ドイツ、英国とほぼ同数である。大使館のとして地位は高かった。当時の写真を見ると外交官の夫人かなりいた。しかし民間人はシャーナリスト位であったろう。よって子供の数が少なかったためか、モスクワには日本人学校はなかった。教師のなり手がなかったためかもしれない。しかし正義は学校には行かずに済み、遊び主体の生活が送れることを子供心に喜んだ。

当時モスクワの日本大使館で参事官であった西春彦は、小学校がなかったためか家庭教師として赤松俊子を日本から連れてきて、特に子供に絵を教えさせていたという。家庭教師を連れてくることは、上級外交官の給料では可能であったのであろう。赤松は後には丸木俊の名前で画家として活躍する。

そのせいか戦後出版された西春彦の「回想の日本外交」には長女喜代子の描いたデッサンが2点紹介されている。「大使館の窓から見た当時のモスクワ風景」と「シベリア鉄道食堂車内の風景」であるが、後者はイラスト調でユーモラスな書き方である。またシベリア鉄道内での写真撮影は許されなかったので、貴重な資料ともいえる。

また東郷大使は家庭教師の代わりではないが、日本から和田さんという仕立屋を連れて来ていた。ベルリンでは出番は少なかったが、良いパーティー用の服の手に入らないモスクワでは大活躍であったという。「必要な人材は日本から連れてくる」が原則の時代であった。

まだ15歳であった“東郷いせ”は社交界にデビューし、学校とは縁がなくなる。そして最初の夏はモスクワ川で泳いだり、郊外の別荘(ダーチャ)で過ごしたりして過ごしたという。

東郷大使公邸には雇人は6、7人で内訳はバトラー(執事)が一人、日本人と西洋人の料理人が一人ずつ他という陣容であった。自分も外交官と結婚し、戦後は外国勤務を体験する“東郷いせ”は常に10から20人位を切り盛りしたので、それと比べると非常にさびしい陣容であった。

食料はすべてスエーデンの会社から輸入したものを使用し、大使館でパーティーを開く際に足りない食材があるとアメリカ、イタリアなどの大使館と連絡をとって、例えばホウレンソウすらも融通し合った。

<ピクニック>

行動の自由の制限されたモスクワについて先述の西公使も
「ソ連の生活は(前回の勤務時)とはうって変って暗いものであった。ロシア人との素朴な付き合いなど到底望めなかった。(中略)これに反してベルリン、ローマあたりにいる日本の外交官は一番優遇された。それはもう地獄と極楽の違いであった」と記している。辻家はまさに極楽から地獄へと移ったことになるが、正義は子供心にモスクワ生活もそこまでひどいものとは思わなかった。

「娯楽も集団で」が基本であったのだろう。大使館のピクニックには館員家族が皆そろって出かけたが、その時も大使館の十数台に連ねた車が大使館を出ると、守衛のゲーペーウー2人ぐらいの者が車で必ずついてきて、遠くから監視していた。確か赤い車だったと正義は記憶している。ドイツ大使館の運転手ワロージャは、東郷大使に連れられてきたのか、ここでも一緒だった。

ピクニック自体は大変楽しいもので、“銀の森”と呼ばれた白樺の林の中でキノコ狩り、そしてアトラクションに宝探しなどした。ここは公園として、今もモスクワっ子に親しまれているようである。


1939年春の事であろう。女性は寒いのかコートを着ている。銀の森でのピクニック光景。


蓄音器が真ん中に見える。宝探しで銀のスプーンを見つけたが、「キャラメルがいい」とそっぽを向く正義(右)。白樺の美しさが分かる。

スキー、スケートなどにも父に連れていってもらったが、あまり滑れないので抱かれて滑っていたように正義は覚えている。モスクワは気温が低いところであるが、住居の暖房設備や防寒具がそろっているので、室内では全く寒さを感じないほどであった。寒さをもっとも強く感じたのは、日本を発つ前の奥沢小学校、戻って九州での生活であった。それからいろいろな記念日や祝祭日は楽しいことが多かった。ロシア料理も慣れてきて、美味しく食事ができた。

<正直の発病>

正直はモスクワでもたいへん忙しい日々を過ごしていたようだが、急に体を壊し入院することになる。転勤して半年ほど経ってであろうか。

その当時の医学はドイツが最も進んでいたので、ドイツから医者を呼び、医薬品もおもにドイツのものを使っていた。後に九州に持ち帰った荷物の中にはドイツの医薬品、器具、医学書などがあった。しかし薬石効なく正直の病状は悪化の道を辿った。

その時は胃潰瘍だと聞いたが、今考えると胃がんだったのかもしれない。病院へも母と一緒に何回も見舞いに行った。やがて正直は病院からモスクワ郊外の別荘に移り、家族もそこで暮らすことになった。正義はロシア外務省の偉い方(参事官)の別荘だと聞いていたが、“東郷いせ”も利用した大使館の別荘ではないかとも想像される。


正直が療養で入った別荘

林に囲まれた静かな場所で療養には絶好の場所であった。当時参事官だった西春彦氏夫人の描いたウアレンチノフカ別荘の庭の油絵を辻家はいただいて、今も保存している。上の別荘の反対側の庭であろう。日本から連れてきた、赤松先生について習った絵であろう。特別にソ連の要人から借りたというよりは、日ごろから日本大使館の別荘として利用していたことを裏付ける。

西春彦夫人の絵

正義たち子供はこの林の中でよく遊んでいたが、正直を見舞いに訪れる人もたいへん多かった。その際には子供の土産もよくもらった。父正直が亡くなる前最後にもらった土産は、ブリキでできた割合大きなレーシングカーであった。林の中でそのオモチャで遊んでいる時に父の死を知らされた。1939年7月9日、モスクワに来て半年後の事であった

父正直は最後まで意識がはっきりしていたと聞いている。異郷の地で病に苦しみながら、郷里の身近な者にも会いたかったであろう。また仕事でも、もっとやりたいことがたくさんあっただろう、と正義は大きくなってから思った。冒頭より紹介してきた杉原千畝は正直の死の翌年、1940年7月よりリトアニア領事として5、000名のユダヤ人に通過査証を発行し、その偉業は多くの人に賞賛された。

父死亡の日

葬儀はモスクワの大きな教会で行われたが、東郷大使家族はじめ多数の方々が参列をして別れを告げた。花に埋もれた棺は そのまま教会の地下室へ沈み火葬されたと聞いたが、一部は教会の納骨堂へ分骨された。鉛で作られた立方体の箱に封じ込められ、それが大理石の壺に納められた。

本格的な葬儀とは別に仏教による弔いも頂いた。仏具、線香なども用意され外務省職員の方と思うが読経も頂いた。

これらが終わると母と正義の二人で大使館の方々など挨拶とお礼に回ったが、どこへ行っても励ましてもらったことを覚えている。こうして二年足らずで辻家の欧州での生活は終わりを告げることとなる。


東郷大使と婦人エディット(左)中央より右に澄子、正義、一人不明で静子。 棺が地下に沈んでいくところ。

遺骨は帰国するときには外務省の特別証明書が付けられ、戦争が近づき厳しくなっていたソ連の税関といえども、手を触れることはなかったと聞いている。(一般の人の持ち物検査は厳格で布団、枕に至るまで検査していた。)

帰りはシベリア鉄道を利用したが、広い個室を使わせてもらったので、日本の汽車とは全く感じが異なり、ゆったりと過ごすことが出来た。行きの優雅な船上生活とは勿論比較にはならないが。

食事は部屋(コンパートメント)にも持ってきてくれたが、食堂車を利用することが多かった。個室にあるラジオからは、日本軍部が権力を振るって戦時体制へもっていこうとすることにたいしての非難や、日本に対する批判が多く聞かれ、ソ連の対日感情は極めて悪くなっていたようだった。子供達にはロシア語は分からなかったが、母はそのラジオを聴いていつも心配していたようだった。1939年9月1日、ヒトラーがポーランドに侵攻して、欧州戦争が勃発するまさに直前の事であった。

正義は物心がついてからは殆ど病気をした覚えはなかったが、帰りのシベリア鉄道では熱を出して一晩母に看病してもらった。それまでに病気らしい記憶としては、奥沢小学校で運動会の時寒くて保健室へ行ったぐらいだった。

ウラジオストックから敦賀までは船だったが、敦賀には九州の親戚一同が迎えに来てくれていた。帰国の様子は当時の新聞にも報道されたと聞いているが、筆者が当時の朝日新聞を調べた限りでは確認できなかった。

また東郷大使らが発起人となり、正義ら子供3人の養育費のカンパを外務省職員に広く呼びかけてくれた。そして当時としては高額の資金6400円余りを頂くことになった。遺族年金など充実していなかった時代、こうして一家の大黒柱を失った家族を支えたのであろう。発起人である東郷大使、次の大島大使はそれぞれ60口、300円とかなりの金額を寄付した。幾度か紹介した杉原千畝もそのリストに名前を連ね、6口の寄付を行っている。先述のように外務省の初任給が80円の時代である。


東郷大使、大島武官(ベルリン時代より)、西春彦公使他の発起人。左にはほぼすべての外務省職員が名前を連ね、最低でも一口は寄付をしたと思われる。
(2枚目はここでは紹介していない)。


帰国後は母静子の故郷福岡県三潴郡に住む。そしてそこで太平洋戦争開戦、および終戦を迎える。正義は、外国帰りという偏見の目で見られながら、地方の生活に馴染む努力をする中、以降はあまりベルリン、モスクワ時代の人と会うこともなかった。優しかった母静子は1988年4月10日、76歳で亡くなった。また終戦時にはマル秘と判の押された書類はすべて焼却したという。

終わり

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主な参考文献

色無花火−東郷茂徳の娘が語る「昭和」の記憶− 東郷いせ
回想の日本外交 西春彦
萩原延壽集 4 東郷茂徳  萩原延壽
時代の一面 東郷茂徳
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