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マルガリータ・ストレーラー余話(山下町本村通りと商館)
Margherita Straehler, Afterword

筆者は赤十字国際委員のマルガレータ・ストレーラーの調査を進める中で、直接の関係はないが、興味深い事柄に気づいた。ここに余話として、書き記す。

1 ポール・ブルームは幼なじみ?

<横浜>

戦時中にアメリカの組織OSS(戦略情報局)に勤務したポール・ブルーム(Paul.Charles.Blum)と、ストレーラーにはいくつかの接点があることに筆者は気付いた。(ブルームについては「欧州邦人 気になる人 藤村義一中佐の盟友 ポール・ブルーム」参照ください。)

具体的に述べていくとストレーラーは1898年、横浜に生まれる。ブルームも同じ年、しかも場所も同じ横浜の生まれである。2人は当然、日本語を話すことが出来た。

ストレーラーの父フランツは、生糸の輸出を行うストレーラー商会の日本の責任者であった。一方ブルームの父フランス人のアンリはヴィトコフスキー商会の経営者であった。こちらは輸出入の手続き業者であった。

そしてストレーラー商会の住所は中区山下町94番地で後者は93番地、今の中華街の東門、朝陽門の近くの本村通り(現在の開港通)で、両社はなんと隣り合わせであった。興味深いことに1921年の地図と比べても、地番は今も同じである。よって当時ストレーラー商会のあった場所を特定できるのである。そして山下町94は現在「中華街パーキング」になっている。93はマンションである。

付け加えると戦時中に人的、物的に国際赤十字委員をサポートしたスイスのシイベル・ヘグナ―社(SiberHegner&Co.)は、同じ通りで89A番地である。92番地はドイツ人フランツ・メッツガーが所有したフランス料理店(Crescent Club)であった。

ただしこのフランス料理店は1929年の大不況下でつぶれたという。その後、元町3丁目の表通り、汐汲坂入口にデリカテッセンの店を開いたが、横浜大空襲で焼け出された。元町の古参の住民は「ドイツ食堂」として記憶していた。「食堂っていっても店で食べさせるわけじゃなくて、ドイツの食料品を売る店」だった(『横浜元町140年史』より)。



中華街に今も「山下町186」の住所を掲げるお店があるが、ここからは目と鼻の先である。(筆者撮影)

当時は今以上に外国人同士の繋がりは強かったから、同じ年の子供同士も一緒に遊んだ幼馴なじみだったのではないか?
「中区歴史の散歩道」によると本村通りの西半分は、生糸輸出商社が軒を並べるシルク・タウンだったという。両社はまさにそこで生糸の輸出に携わった。

会社に対して住まいであるがブルーム邸は、中区山手241A番地(今の韓国総領事館当たり)の立派な建物であった。「横浜外国人居留地」という本で紹介されている。ストレーラー家の住まいは不明であるが、やはり山手であろう。

現在の241番地にはいくつかの建物があるが、この辺りであろう。。(筆者撮影)

ストレーラーは「日本に生まれ、幼児を日本で過ごし、その後も日本をたびたび訪れた」という。おそらく就学年齢となり、祖国に一人戻ったのであろう。一方のポールは横浜でセント・ジョゼフスクール(saint joseph college)に通うが、1912年ころ家族で日本を離れる。



<スイスにて>

それから20数年後である。欧州で第二次世界大戦が勃発した1939年、ストレーラーはスイスのジュネーヴで赤十字国際委員会の俘虜中央情報局に勤務する。そこで得意の日本語を生かし日本部を作り、その責任者となる。1945年6月には志願して、日本に向かう。

一方ブルームは1941年12月の日米開戦後、対日戦ではなく対独戦に参加することを熱望する。1943年冬、OSS(CIAの前身)から呼び出しがあった。しかるべき訓練の後、対情報工作員となり、リスボン勤務を経てスイスの首都ベルンに赴いた。1944年8月のことである。

次いでふたりは1年弱の間、スイスで一緒になるのである。勤務地はジュネーヴとベルンと離れるがスイスは狭い国である。ふたりはここで再び出会うことはあったのであろうか?



<日本>

ストレーラーは1947年4月にいったん日本を離れるが、1948年またユニセフ初代駐日代表として日本に戻る。
一方ブルームは終戦をスイスで迎え、1947年春にポールはアメリカに帰国し、その年の暮れ大使館員として東京に着任する。そして1958年以降は民間人として東京に在住する。

ここ日本でまた滞在期間が重なるのである。それにしてもこの接点の多さは何であろう?
横浜に生まれ、日本語を理解したと言う2人の共通項が、仕事の上でも同じ様な道を歩ませたと考えるが、今後はこの2人の接点を証明する史料の発見に努めたい。



<今の本村通り>

筆者は開港通(旧本村通り)を歩いたので、その時の写真を載せる。

中華街東門(朝陽門)を入ってすぐその先を右折。


開港通(かいこうどう)の看板


通りの様子。昔生糸商社が軒を連ねたという面影はない。
横浜開港資料館のサイトに1920年頃、おそらく同じアングルで撮られた写真が載っている。こちら


山下町94番地、ストレーラー商会のあったところに建つ中華街パーキング


山下町95番地の住所の書かれた看板。「同發」という中華料理店の事務所で、明治時代の創業という。
これが唯一、筆者の見つけた当時の”痕跡”を感じられるもの。
(2017年2月28日追加)



<シイベル・ヘグナー社>

ストレーラー商会は日本参戦間近の1941年、事務所は94番ではな90番Bに移っている。また責任者はMax .G. Ritterで、ストレーラー一族の名前はない。商売も減り厳しい経営であったはずだ。
隣の89Aは当時のスイス有数の商社シーベル・ヘグナー社で、今もその場所に建つビルの入り口には、大きな石のモニュメントが残る。


89Aを示す当時のエンブレムストーン。ビルの正面に掲げられていたはずだ。(筆者撮影)


ビル内の立派な説明パネル。



<デローロ商会>

山下町91番地にはイタリア系生糸商社デローロ商会(Dell Oro & Co.)があった。開戦間際はストレーラー商会の隣だ。今はマンションであるが、一部壁が保存され、パネルが貼られている。これらの遺構はマンション建設の際に見つかったものが多いようだ。ストレーラー商会の遺構がないのはなんとも残念。




なおこのパネルは「開港通」ではなく、裏に当たる通称「シルク通り」側に面して表示されている。




<ヘルム商会(山下町居留地48番館)>


近くには他の商館の遺構も残っている。ダイナマイトなどを取り扱うモリソン商会の店舗として1883年に建設された建物の遺構で、横浜最古の洋風建築物とされる。
1926年から1978年まではドイツ系ヘルム兄弟商会がつくった外国人向けアパート「ヘルムハウス」(Helm Haus)であった。


遺構は神奈川県指定重要文化財


48番のエンブレムストーン



<アーレンス商会 山下町29番地>
  
ドイツ系商社。主に保険、汽船会社の代理店業務を終戦時まで営んだ。場所はニューグランドホテルの斜め向かい。昔はホテルの中庭から建物が良く見えたとの事。





<ストラチャン商会倉庫の倉庫の基礎>


旧横浜居留地71番地、イギリス系貿易商会ストラチャン商会の倉庫の基礎の一部が、マンション庭の部分に保存されている。




2 外人墓地と日本人


ストレーラーの眠る横浜山手の外人墓地を訪問して気付いたことがある。日本人の名前が散見されたことである。聞くと外人墓地に入る権利があるのは、現在は外国籍で、神奈川県に住民登録がされ、日本の永住資格があることである。そして1人でも該当の人がいれば、その配偶者などは日本人でも入れるそうだ。

「横浜外人墓地 山手の丘に眠る人々」という本を読むと、3人の日本人が紹介されている。(ただし墓地には2500基ほどの墓があるが、全部網羅しているわけではない。)そこには筆者がこれまでにホームページで紹介した人物もいるので、紹介する。


外人墓地の門 週末の午後は一般の人も見学可能。

前田静香>
 
戦時中、朝日新聞特派員としてイタリアに滞在した前田義徳(後のNHK会長)はブルガリア人女性と知り合い結婚する。彼女の日本名が静香であった。筆者は「戦時日欧横断記」で彼女に触れた。

上記の本では以下のように説明されている。
「1922年 第二の都市ブローディフで生まれた。ブルガリア女性として最初に日本人と結婚した人であると言われる。日本とブルガリアの架け橋たらんと努力した。1963年死去。かつて子供が通学した学校の近くである外人墓地に埋葬。」

彼女は実際は外国籍であるから、外人墓地に埋葬された。筆者がそのお墓を訪問したときは、直前に親族の訪問があったのか、添えられた花はまだ新しかった。今も親族から大事にされていることも、よく分かる。なぜか猫に気に入られたようで、猫対策もだいぶ取られいるが、猫は全く意に介さずくつろいでいた。ここには夫人のみが眠っている。

墓石の前には猫対策に剣山のようなものが置かれ、糸が張られている。

静香は亡くなる直前の1962年に発行された「世界の婦人の暮らし」に「故国ブルガリヤのこと」という文章を書いているが、その中で自身の事にもわずかであるが触れている。
「あちらでの私の名前はアナスタシアでした。19歳の時に今の主人と結婚しました。戦後は3度ばかりあちらに里帰りをしました。」
二十歳そこそこで戦時中に、中央アジア、満州を経由して義徳と共に日本にやって来た。



<西冨貴子>

ホテル・ニューグランド社長の野村洋三の長女。当時父親は古美術を扱うサムライ商会を経営していたが、1927年にホテル・ニューグランドを設立し、取締役に就任、1938年には2代目社長となった。
夫人は山手の紅蘭女学校(今の横浜雙葉)を卒業後、アメリカに留学し、当時ニューヨークの日本領事館に勤務していた西春彦氏と知り合い、1920年に結婚した。1961年死去。

西夫人は絵をたしなみ、モスクワ駐在時代には画家赤松俊子を子供の家庭教師として連れて行った。優雅な海外駐在の時代であった。筆者は夫人の絵を1枚お持ちの方を紹介した。モスクワ時代に一緒に大使館に勤務した辻正直さんの子息伊藤正義さんである。

夫人の描いたたモスクワ近郊の森

こちらには最初に冨喜子が入り、現在は春彦を含む4人が眠っている。横浜の象徴ともいえるホテル・ニューグランド支配人の長女である。特例として外人墓地に埋葬されることを許されたのであろうか?



中里ミドリ> 

「1920年12月4日 ロンドンで日本人の父とイギリス人の母の間で生まれる。3歳の頃父母に伴われて日本に来て横浜山手のサンモール女学院に学んだ。
中里恒子の姪にあたり、小説”まりあんぬ物語”の主人公。後に”墓地の春”と改題。大きな目をしたこの少女は、1940年12月8日に肝炎の為死去。」

筆者はどこか哀しみを感じ、「墓地の春」を読んでみた。全体に暗い小説であるが、ミドリを外人墓地に入れることは、母の切なる希望であった。イギリス人母親は、ミドリの居場所を、中里家の家系から離した。

戦争中も日本に残ったイギリス人の母の苦労は、ひどいものであった。終戦後、彼女は残る姉妹を連れてイギリスに帰ってしまった。
(後半は小説からの引用であるが、おそらく真実であろう。)
中里恒子は横浜紅蘭女学校を卒業し、女性初の芥川賞受賞作家となった。横浜とは縁のある作家である。

彼女の墓はずっとひとりであったが、75年を経た2015年7月16日の日付でAnton. P. Goodings(アントン・グディングス)と言う人が埋葬され、お墓自体も新しくなっている。1928年生まれの彼は、ミドリが亡くなったとき、12歳であったことになる。

この人物が判明した。父親は朝日新聞の記者でロンドン特派員、母親はミドリ同様にイギリス人であった。幼少期は山手の男子校セント・ジョセフに通う。

戦後はいくつかの職業を経て、神田外語学院の臨時講師となり1994年に創設者の家族以外で初めて学院長に就任する。
(戦時中の苦労などが、神田外語学院のネット上に紹介されているので、ぜひ一読を願う。こちら。)

イギリス人の母を持つゆえに苦労したふたり。そして75年以上経って一緒の墓に眠る。まるで姉弟のようだ。そして良い話だ。


墓石の正面に刻まれた文字は筆者は読むのをあきらめたが、これを解読した本で紹介した方がいた。(McCabe, Patriciaさん)その英文を訳すと次のようだ。

「ふたつの世界の架け橋。
ドロシー中里・グディングスの美しい思い出に。
1898年5月4日 英国のノリッチ(Norwich)に生まれる。
1986年5月21日 ミシガン州デトロイトで死亡」

小説ではあまり日本に良い印象を持たなかったミドリの母親も、ここに眠っていることが分かった。
(2016年11月27日 追加)



<井口貞夫>

中里ミドリのお墓から程遠からぬところに、井口貞夫が眠っているのを筆者は見つけた。墓碑に外交官としての活躍が書いてあるのでそこからでも分かるが、井口は日本大使館の対米宣戦布告文書の英訳の遅れで、真珠湾攻撃の前に通告が出来なかった責任の一端を担わされた。そして近年、長男の井口武夫が反論の本を出版した。

墓碑には夫妻の他に子供紀夫の名前もある。皆日本人であるが、クリスチャン名がある。彼らが外人墓地に入ったのはどういう理由であろう?


(2016年11月2日)



ヨネ・リバー(西村ヨネ)>


筆者が「戦後初の渡欧者を求めて」のなかで、”戦後最初の渡欧日本人”と紹介した西村ヨネ(文化学院創立者西村伊作の3女)のお墓も外人墓地にある。墓石にはその渡欧途中にアメリカで生まれたマリアンの名前も見ることが出来る。

(2017年5月15日 追加)



外人墓地には1942年11月30日に横浜港で爆発したドイツのタンカーの犠牲になったドイツ人を中心に、71人のドイツ将兵の碑もある。(なおこれらのお墓は通常の見学コースにないので特別の許可が必要です。)

筆者撮影 (2017年3月11日)

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