広島県保険医新聞に私が書いた主張

[原発はいらない] 広島県保険医新聞「主張」 2009年8月10日号
[公的な裏切りを許すな!] 広島県保険医新聞(第389号)2008年8月10日
[改革という名の破壊] 広島保険医新聞(第377号)2007年8月10日
[これが人間の国か〜医療も福祉もカネ次第〜] 広島保険医新聞(第365号)2006年8月10日
[なぜ遅れたのかアスベスト対策] 広島保険医新聞(第353号)2005年8月10日
[恥を知らない文化の行き着く先] 広島県保険医新聞(第340号)2004年7月10日
[IT革命と電子カルテ] 広島県保険医新聞(第319号)2002年12月10日
[市場原理導入で失敗した米国の轍を踏むな!] 広島県保険医新聞(第300号)2001年5月10日
[公的な「裏切り」VS.情報公開] 広島県保険医新聞(第291号)2000年8月10日
[どうなる!?介護保険] 広島県保険医新聞(第259号)1997年12月10日
[社会保障としての医療保険制度改革を] 広島県保険医新聞(第255号)1997年8月10日
[開業医宣言を高く掲げ、福祉先進国をめざそう!] 広島県保険医新聞(第250号)1997年3月10日
[真に国民のための介護保険を求む] 広島県保険医新聞(第242号)1996年7月10日
[介護保険の名を借りた社会保障の改悪は許されない] 広島県保険医新聞(第231号)1995年8月1日

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公的な裏切りを許すな!
広島県保険医新聞(第389号)2008年8月10日

わが国の社会構造において潤滑油の如く考えられ、身近なところでは病院や職場、学校、幼稚園に至るまで公然と行われている付け届け、さらに社会の必要悪のごとく横行するワイロや談合などは、いずれも特に指摘されないかぎりお互いに罪の意識などはないようである。最近はさらにエスカレートして社会問題化した偽装や再生、使い回し、振り込め詐欺、いんちき商法、通り魔殺人等など、社会における不正は日常化してしまった感がある。これは一体何が原因であろうか。

ここに大変示唆に富む文章がある。『考えてみると、社会の秩序のかなりの部分は、人々の良識と善意を前提に、あやうく成立しているといっていい。したがって、その良識と善意に対する信頼を裏切るような犯行に対しては、ほとんど無防備だ。多くの人は、隣の席の乗客が、理由もなくいきなりナイフで切りつけるーなどということは想定しないで生きているのである。無防備の人々が相手なのだから、犯罪を行おうとする者にとっては、「裏切り」の場はいたるところにあるといえる。犯罪ばかりではない。政治、経済、宗教などのあらゆる場面で裏切りが日常茶飯的に横行している。政治を信じ、経済の仕組みに身を委ね、宗教に心の拠り所を求めるわれわれ庶民は、それらが裏切り行為に走った場合には、ひとたまりもない。そういう、いわば公的な「裏切り」が人々の公徳心を麻痺させ、無数の個人的な裏切りを生む温床になっているといったら、いささか詭弁に過ぎるだろうか。』(1995年、内田康夫「日蓮伝説殺人事件」自作解説より)

年金記録問題と社会保険庁の不祥事、教員採用汚職事件、居酒屋タクシー、イージス艦の事故と防衛汚職、官製談合と税金を食い続ける天下り、自衛隊をはじめとする憲法違反の法律や行為、総理大臣の職務放棄など、まさに公的な裏切り行為がまかり通っているわが国の現状がある。理想的な憲法があり、伝統的な社会規範やモラルがあるにもかかわらず、それを守り実行するための仕組みがなく、それが守られているかどうかをチェックする機構もないか、違憲審査制のようにあっても機能していない。

スウェーデンという国は税によって財政運用される包括的福祉を生命線にしている。胎児から墓場までのキメ細かな福祉政策は、当然のことながら膨大な経費を必要とする。換言すれば、税負担意欲を刺激できなければ、作動不能に追い込まれてしまう。そして、負担意欲を維持するためには、公正度の高い政治制度と倫理感の高い政治家の行動が要求される。「見える政治」とか「開かれた政治」だけでは25%もの間接税を市民に受け入れさせることはできないであろう。公正な政治制度が大前提となる。この国で発祥したオンブズマン制度は、公正原理で人権を保護する砦である。また、一票格差を極小化した公平度の高い選挙制度、新聞や青年運動への公庫補助制度、などの少数意見の噴出を可能にする装置も同じ公正原理を基礎にしている。

一方、民主主義の存在さえ疑わしいわが国では、せめて国民が自分に与えられた権利としての投票権を行使することからはじめなければならない。また政府は社会的共通資産としての教育・医療福祉・環境を国の中心施策とし、その分野に予算と人員を重点的に配分しなければならない。崩壊しつつあるわが国の医療福祉の現状は、すでに現場でのわれわれ当事者の努力の限界を超えている。今こそ国民と一体となって「公的な裏切りは許さない」という声を上げなければならない。

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[改革という名の破壊]
広島保険医新聞(第377号)2007年8月10日

所得倍増論で躍らされ経済優先の思想に洗脳された日本では、田中角栄の列島改造論による物理的破壊が全国いたるところで進み、オイルショック、バブルとその崩壊、そして小泉・安倍政権による「聖域なき改革」への見切り発車によって政治・経済・社会の破壊が行われた。安心と安全の破壊、社会規範・モラルの破壊、公的裏切りや不正、偽装、疑惑などの噴出、さらに教育や医療福祉の切り捨てまでも改革と言って闇雲に小さな政府を目指す危険な国になってしまった。

安倍政権は医療費削減を主眼とする「小泉改革路線」を受け継ぎ、診療報酬の見直し、療養病床の大幅削減を進め、さらに75歳以上を対象とする新医療保険制度も2008年度から始める。高齢者の負担が増えるだけでなく、病床削減で行き場を失う入院患者が「医療・介護難民」になる可能性が高い。一方、産科、小児科など深刻な医師不足が、僻地の病院を直撃し、お産や救急医療ができなくなる地域も出てきた。国民が安心して暮らせるには、緊急対策だけでなく、制度の根本的な再構築が必要だ。

自民党は、医師確保のため六つの緊急対策を掲げる。医師派遣体制の整備、病院勤務医の環境改善、女性のための環境改善、研修医の都市集中是正、医療リスクへの支援、そして不足を補う医師の養成という具体性のないものだ。日本医師連盟を通じて自民党から配布されたパンフレットに記載されたこれらの項目は、根本的な解決策のかけらもないまさに泥縄式の選挙対策としての対症療法の羅列で、医者はこの程度で騙せると高を括っているようだ。公明党に至っては、救急現場へ医師や看護師が同乗し駆け付けるドクターヘリの全都道府県への配備を法制化を行い、産科、小児科の診療報酬アツプなどを提示するが、これらの対策は、医療現場の実態を全く知らないか理解していないとしか思えない。

日本の医師数は人口十万人当たり200人で、OECD加盟国の平均290人に比べ全体としても不足しており医学部定員も約10%減となっている現状がある。また、高い保険料と窓口負担の増加、経営危機に陥っている自治体病院、患者を見放す療養病床削減、過疎地と都市部の医療格差などの現状分析と制度論議がまったく見られない。「医療費適正化」という言葉が繰り返し使われるが、はたして適正な医療費とは何かということさえわからない。財務省は、医療費高騰の抑制策としては、「医療給付費の伸びを抑え、医療保険制度における国庫負担のありかたの検討などを求める」という硬直した主張を繰り返す。日本の医療費は約30兆円であるが、国内総生産(GDP)比でみると世界29ヵ国中17位と少ない。現状分析と制度論議を徹底して繰り返さない限り、日本の医療はこのまま崩壊の道をたどるだけである。改革という名で市場原理一辺倒の政策を推し進めるならば、医療・福祉部門は一層破壊される。今必要なのはこの国に対するセカンド・オピニオンとインフォームド・コンセントそしてインフォームド・チョイスではないだろうか。

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[これが人間の国か〜医療も福祉もカネ次第〜]
広島保険医新聞(第365号)2006年8月10日

戦後の日本の政治と経済が、悪政と垂れ流し財政で長年かけて溜め込んだ巨額の借金を、企業の付けと一緒に国民に押し付けている。アメリカ政府と日本政府との間で毎年交わされる「年次改革要望書」の筋書き通りに、日本政府は郵政、医療、さらに教育にも改革の名のもとに市場原理を導入し、アメリカと大企業のために国民を犠牲にしようとしている。アメリカ政府はまさにアメリカの傀儡政権と言える日本政府を絶賛しているのである。

アメリカでは市場原理を導入して経済擾先の医療を押し進めた結果、アメリカの医療はマネージド・ケアという経済的統制による手法で、全米の主な医療施設の経営を独占して巨額の利益をあげている病院経営会社や、HMO(健康維持組織)というネットワークを利用した民間医療保険を提供する保険会社によって完全に支配されている。

日本政府の内閣府(注)の規制改革・民間開放推進会議議長の宮内義彦氏はオリックスの総帥だが、オリックスはリースが本業であるが、融資する場合にはオリックス保険会社のがん保険への加入を条件にする。民間の医療保険のマーケットが自動的に増えるのが、今回の医療改革に含まれている混合診療の解禁なのである。自分の企業が潤う立場の人が、混合診療の解禁を推進している。また高知医療センターは、県立病院と市立病院を合弁し、PFI(プライベート・ファイナンス・イニシアチブ)で設立されたが、医療の本体以外のすべて、すなわち病院の建物の建設、医療機器のリース、何から何までオリックスが仕切っている。そういった立場の人が株式会社の病院経営を認めると発言しているが、このようなことを許してはならない。初代の議長代理でセコム総帥の飯田亮氏も、日本中で病院を買収している。日本の医療界では非常に恐ろしいことが進行している。

日本の医療は、ビジネスチャンスの創出と、公的医療費の抑制という二大政策で動かされようとしているがこれは間違っている。医療のあるべき姿を基本にすえて政策を考えるべきだ。日本の政府は、国民にどのような国を目指すのかという将来ビジョンをまったく示さずに、国会審議をないがしろにして、説明義務をはたさないまま、ただアメリカと大企業追随の政策を国会での数的優位を盾にして押し通そうとしている。

次々と強引に推し進められる医療改革は、根拠のない数字をもとにした将来予測から、医療費の適正化という名の医療費抑制のために、保険給付の削減と自己負担の増加、保険外負担への転化を行おうとしている。さらに、ベッド数の大幅削減を無理やり推し進めるために、社会的入院の是正という、患者には大きな負担を押し付けて病院から追い出すと同時に、矛盾だらけの医療区分を導入して理不尽な診療報酬の減額で病院を潰す制度にした。

介護保険の改定でも、サービスの利用や用具の支給が大幅に減らされた。ケアマネージャーの事務量は大幅に増やされたにもかかわらず、報酬は低く押さえられた。また障害者自立支援法では、自立支援という名のもとに障害者への負担を増やして、自立できなくしている。日本政府、民間開放推進会議メンバーの人達は、病院を追われる老人難民、介護が受けられなくなる介護難民、自立を阻害される障害者難民は、をこれから一体どうしろと言うのであろうか。常に犠牲になるのは、物言わぬ弱者・国民なのである。これはまさに国家による国民へのテロであり虐殺である。アメリカがニューヨークでのテロを口実に国連憲章に違反して始めたイラク戦争で、アメリカ軍がイラク全土で行っている大量虐殺と同じことを、アメリカの盟友を自認しアメリカの言いなりの日本政府はわが国全土で行おうとしているのであり、こんなことを絶対に許してはいけないのである。

(注)内閣府とは

2001年(平成13年)1月の中央省庁再編に伴い、内閣主導により行われる政府内の政策の企画立案・総合調整を補助するという目的で新設された。組織機構には、重要政策に関する会議として「経済財政諮問会議」があり、新議会には「規制改革・民間開放推進会議」など多数の新議会を有する。防衛庁や金融庁も内閣府の組織機構に名を連ねている。(内閣府ホームページを参考に作成)

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[なぜ遅れたのかアスベスト対策]
広島保険医新聞(第353号)2005年8月10日

アスベスト被害事件を聞いて、今までにも繰り返されてきた公害や薬害のことを想いだして、またかと感じた人が多いと思う。不安と危険が蔓延した社会のなかで、わが国の厚生行政の遅れは、まさに不安社会に加担している構造的な欠陥と言える。

2003年12月6日にアスベストの吸入により発症する中皮腫等の相談窓口として民間の非営利団体「中皮腫・じん肺・アスベストセンター」が設立され、2003年12月19日に発足した「中皮腫・アスベスト疾患・患者と家族の会」は、2004年7月20日に「中皮腫・石綿(アスベスト)肺癌の健康対策の充実に関する要望」を厚生労働大臣に提出している。それを受けて2005年2月24日に石綿含有建材による今後の石綿飛散の防止を目的とした「石綿(いしわた)障害予防規則」が制定され、2005年7月1日より施行となった。

この規則施行前日の6月30日、それを待っていたかのように大手機械メーカー「クボタ」がアスベスト(石綿)が原因とみられる病気によって、従業員ら70人以上が死亡していたことと、近隣住民3人も石綿の吸引で起きるといわれる中皮腫を発病していることを公表した。国による救済が行われない現状で、クボタは企業として見舞金を出した上で総合的な対策を行うことを発表した。

これだけをみるといかにも迅速な対応がなされたようだが、アスベストの有害性に関しては1970年代にWHOなどが指摘し、1978年にはアスベストによる労災認定基準が策定されていたにもかかわらず、日本国内においては、毒性の強い青石綿と茶石綿の使用を禁じたのは1995年であり、用途の広い白石綿が使用禁止になったのはつい昨年のことだ。1992年にアスベスト規制法案が国会に提案されながら、自民党などの反対で一度も審議されず廃案となった経緯がある。さらにアスベストの全面禁止は、2008年までに行われる予定という悠長な対応には驚きと怒りを禁じえない。

一方クボタは1975年に青石綿を使用した石綿管の製造を中止し、2001年には白石綿を使用した住宅建材の製造も中止している。縦割り行政の弊害と、貧弱な人員と予算しかない調査機関のために国の対応の遅れが目立ち、今後解体されるアスベストを使用した建物や放置されたアスベスト製品による被害の拡大が懸念される。

国民の健康に直接被害を及ぼす恐れのある医薬品の副作用や生物由来製品を介した感染等による健康被害に対して迅速な救済を図り、医薬品や医療機器などの品質、有効性および安全性について指導・審査し、市販後の安全性を管理するために、国立医薬品食品衛生研究所医薬品医療機器審査センターと医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構等が統合され2004年4月1日に厚生労働省の独立行政法人 医薬品医療機器総合機構 Pharmaceuticals and Medical Devices Agency(PMDA)が設立されて業務を開始した。

同様の機能を担う米国保健省の食品医薬品局(FDA)と比較すると医薬品・医療機器の審査官の人員は、FDAの約2600人に対してPMDAは約240人、予算はFDAの約1300億円に対して、PMDAは約40億円という貧弱さなのである。

わが国は、国民の税金を公共工事にはどの国よりも多い約50兆円、大銀行救済には約70兆円もつぎ込んでいる。公共工事や特殊法人に流れる特別会計約260兆円は国会審議素通りで税金の垂れ流しが続いている。わが国の総医療費は約30兆円であるが、国はそのわずか約20%(約6兆円)を負担しているだけである。国民のための改革はまったく行われていないとしか言い様がない。強者によるウソとすり替えと裏切りが横行する弱いものいじめの政治をやめさせて、国民の健康と命を守る厚生労働省の人員と予算の充実と医療福祉への国家予算の配分の大幅増加を国民に訴えなければならない。

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[恥を知らない文化の行き着く先]
広島県保険医新聞(第340号)2004年7月10日

極東の島国・日本には、ヨーロッパにも、中近東にも、インドや中国にもない、独特の稲作農耕文化があった。毎年めぐる四季の循環という大自然の秩序、その明確な変化に従って決して逆らうことのない計画的な共同農作業という社会の秩序、それに順応するための家族と個人のあり方という精神的な秩序というものが2000年以上前から続いていた。

そこに心のあり方を問う教えとして儒教・道教・仏教が一体となって伝来し、従来からあった神道も融合して、自然を重視し不自然を不可とする日本独特の東洋思想が出来た。そして自己の心を最終的なよりどころとし、一神教の人たちから見れば大変特異な「唯一絶対の神をもたない」という社会が出来上がった。それは恥の文化とも言える。

「慙愧」という言葉があるが、自己の心をよりどころにするということは、世間に愧(はじ)る、内心を慙(はじ)るということを規範とした恥の文化なのである。ところが日本に育った資本主義は会社至上の運命共同体主義として、仲間に対して恥じるという村社会としての稲作農民の習性を色濃く残したのである。株主の利益より、ましてや消費者の利益よりは、仲間の幸福を大切にするという村の掟が生きている共同体なのである。

今日本の社会で噴出する不祥事の背景に、恥の文化の行き着く先として、公の利益より村の維持を優先させるという「和をもって尊しとなす」の精神が存在する。安全を無視した企業の不祥事、国民不在の政治家や官僚の汚職や不祥事、そのようなことに明け暮れて国の将来を誤りかねない国会、そしてもはや恥も外聞もない総理大臣の言動とくれば、日本人は心のよりどころを失って、自然も不自然も区別のつかない何でもありの国になってしまったのではないかとさえ思われる。

21世紀は情報公開と市民参加の世紀とか女性の世紀とか言われたが、日本の現実は政府が情報操作の悪しき手本を示し、もはや親子・家族の絆さえも危うい状態となった市民は個人の娯楽以外のあらゆることに無関心となり、それに相も変らぬ男性中心の社会が続いている。その結果として国政選挙から地域行政選挙に至るまで選挙の投票率は極めて低く、議員の男女比のアンバランスは目を覆いたくなるほどである。一部の人の民意で選ばれた人々は、嘘と誤魔化しで仲間を守り自分の身を守ることしか考えない。日本の指導者や知識人に見識というものを見出すことは困難であり、良識も善意も誠意も感じられない。

一年先を考えるならば種をまけ、十年先を考えるならば木を植えよ、百年先を考えるならば人を育てよという教えがある。世の人々に対して恥じる心をもつ人を育てなければならない。

[無慙愧は名づけて人とせず] 親鸞『教 行 信 証』信巻 『真宗聖典』257頁

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[IT革命と電子カルテ]
広島県保険医新聞(第319号)2002年12月10日

かつて森喜朗総理が、低迷する日本経済の救世主のように言ったIT革命という言葉をまだ覚えているだろうか。ITとはInformation Technology(情報通信技術)の略称である。このIT革命によって日本をはじめ世界中が大きく変わると囃し立てられたものだ。しかしITは単なる道具に過ぎず、たとえば蝋燭が電燈に変わったようなもので、すでに先進国ではごく普通の道具として使われている。わが国では政府の対応の遅れと一部の電話会社の思惑などで、高速通信網もまだ整っていない状況が続いている。特に医療の分野での遅れが目立つと言われるが、その原因の一つにいわゆるレセコンと呼ばれる医療事務用のコンピューターを普及させてしまったことがあげられる。

レセコンに診療行為を入力するだけで、複雑怪奇な保険点数を自動的に計算し、特定の条件さえクリアしていれば種々の加算も自動算定して、短時間にレセプトを打ち出すという道具である。これはコンピューターの限られた機能だけを使用していて、汎用性のないものにもかかわらず、市場が限られているということで法外に高価なものになっている。ただレセプトを自動的に打ち出すためだけに、毎日の診療行為を人手と時間をかけて打ち込むことを要求されるという非能率的な道具である。

それに対して電子カルテは、診療行為はもちろんのこと、診察所見や画像も含めた検査データ、紹介状や指示書などの書類などを、カルテに書く代わりに、コンピューターに入力するだけで記録して保存し、必要なときにいつでも取り出せて、時系列で見たりグラフにすることもできるし、レセプトも作製できる。大手のコンピューター会社やレセコン業者が開発した電子カルテは高価だが、市販されている普及型のパソコンを使った廉価な電子カルテのソフトも何種類か発売されている。その中でも医師によって開発されたソフトは、実際にカルテを書くのと同じ感覚で入力でき、診察室での患者さんとの対話に役立つ画像やグラフを、医者と患者が一緒に覗き込み、画面上に瞬時に映し出すことができて日常診療に大変役立ち、カルテの内容を患者さん自身が自分の目で確かめることもできる。

1999年4月に出された「診療録等の電子媒体による保存について」という厚生省局長通知は、電子カルテついて@保存義務のある情報の真正性が確保されていること、A保存義務のある情報の見読性が確保されていること、B保存義務のある情報の保存性が確保されていることの3つの基準をあげている。そして3つの基準を満たした上で、運用管理規定を定めて患者さんのプライバシーの保護に注意を払うことなどが述べられている。真正性とは、故意または過失による不正な入力や書き換えなどを防ぐとともに、作成の責任の所在を明確にすることで、そのためにはパスワードや外部からの不正侵入を防ぐためのソフトを活用する。見読性とは、必要に応じて情報の内容が読めたり書面に表示できることで、プリンターで打ち出したときに内容が変更されていなくて普通に読めればよい。保存性とは、法令に定める保存期間内は復元可能な状態で保存することで、最近のコンピューターの機能からすれば問題はないが、トラブルを避けるためにバックアップやコピーを取っておくことやコンピューター・ウイルスヘの対策が必要である。このような法的な条件をクリアしていればカルテをペーパーレスにしても良いということで、電子カルテのIT機能はソフトとユーザー次第で多様な広がりをもたせることができる。しかしその際注意しておかなければならないことは、電子カルテの機能のすべてが法的に認められているわけではないということである。たとえばスキャナーやデジタイザーで取り込むことは、真正性に問題があるために認められず、電子カルテからネットワークを介して診療情報を電送しても保険請求はできない。

掛け声だけの政治改革と同じように、わが国ではIT革命も御多分にもれずなかなか進みそうにない。紆余曲折、試行錯誤を繰り返しながらのろのろと進み、先進国とのギャップが極限に達すると外圧によって一気に遅れを取り戻すといういつものパターンになるのであろうか。社会保障制度としての医療制度改革と、安価で誰でも使える統一規格の電子カルテの開発が望まれる。

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[市場原理導入で失敗した米国の轍を踏むな!]
広島県保険医新聞(第300号)2001年5月10日

今年の3月にフロリダ州オーランドで開催された第五十回米国心臓病学会を記念して、学会最終日にブッシュ大統領は、米国心臓病学会が提唱した患者の権利法案の成立を約束する内容の演説を行った。市場原理を導入して経済優先の医療を押し進めた結果、米国の医療はマネージド・ケアという経済的統制による手法で全米の主な医療施設の経営を独占して巨額の利益をあげている病院経営会社や、HMO(健康維持組織)というネットワークを利用した民間医療保険を提供することにより巨額の利益を上げている保険会社によって完全に支配されている。米国医師会は自分達の既得権益を守ることに終始した結果、気がつくと医療における発言権を失い、患者の信頼をも失う結果となった。リストラの標的にされて正規の看護婦が減ったために医療現場では事故が多発し、毎年米国の病院では十万人近い人がミスで亡くなっていると云う報告が出るに至り、病院は危険なところと云うことが再認識された。そのような状況のもとで今や医者は医師会をやめて労働組合を創るべきだと云う意見が出ており、また患者は保険会社の締め付けで必要な医療も受けられないと保険会社を相手に訴訟を起こしている。クリントン前大統領は国民皆保険制度の導入には失敗したが、保険会社に対して患者が意義を申し立てる権利を認める法案を成立させ、医療事故の報告の義務化を提案した。今米国の医療文化は市場原理による効率優先の医療から、患者ケアの質の向上と患者の安全の確保へという大きな転換点に来ている。権威を失った医者たちも患者中心の医療を訴えることで巻き返しを計っている。このような医療事情を背景に、先の演説が行われたのである。

さて我が国には日本医師会のために政治活動をする日本医師連盟という団体があり、各県に県医師連盟がある。ところがその組織の仕組みや規約は不備だらけであり、入退会や総会の規定もない。つまり最初から会員の意志を聞くような耳を持たず、情報は常に上意下達で会員や現場の意見を汲み上げて政策に反映させるようなことはしていないにもかかわらず、インテリ集団の会員の中に誰も意義を唱える人はいなかったようだ。こんなことではインフォームド・コンセントを議論する資格などはないと言える。医師会費と同じ手続きで自動的に診療報酬から天引きされる会費の流れも不明瞭である。役員も二つの団体で兼任というその組織の活動はもっぱら自民党国会議員へ政治献金を貢ぐことであるらしい。金の力で議員を動かして自分達に有利になるような政策を導くために、自民党の有力な支援団体として巨額の献金を続けている。すでに長年の金権政治は破綻し崩壊寸前であり、自民党の金に汚れたダーティーなイメージは国民に浸透している。その党と議員に巨額の献金を続けた結果が、十年余に及ぶ医療費抑制政策であり、医療費における消費税の誤った課税の方法であり、拙速な介護保険(介護税)の導入であり、財政難と自己責任を理由とした医療保険や介護保険における自己負担の増加である。患者や国民のためにという考えは希薄なようで、すでに目先の利益のための混合診療も黙認していると聞く。我が国におけるさらなる医療費抑制の決め手は、市場原理の導入とマネージド・ケアという管理医療の導入なのである。すでに一部の御用学者は「医療にも市場原理の導入を」などと全国紙に投稿したりしており、その人物をより良い医療のための情報公開と銘打った医師会の学習会の講師として招いたりしているところを見ると、医師会の医療政策に対する認識の程度がうかがわれる。そしてその結果として来るべきものは、医療はいつでも・どこでも・だれでも安く受けられると期待している国民と、医者の裁量権は当たり前で自由な医療が当たり前と思っている日本の医者にとって、不満と不安に満ちあふれた医療しか提供されない社会の到来なのである。米国の轍を踏んではならない。献金による汚職まがいの政治活動に頼らず、医者はプロフェッショナルの集団として国民と共に自らの考えを堂々と主張して、患者中心の医療を追求して行かなければならない。誰のための医療なのか?医の倫理、生命倫理とは「患者中心」ということだ。

[米国の二の舞いだけは、ごめん被りたい] 中国新聞 「天風録」 2007年10月22日

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公的な「裏切り」VS.情報公開
広島県保険医新聞(第291号)2000年8月10日

社会の秩序のかなりの部分は、充分な情報と客観的な評価に基づく信頼関係ではなく、漠然とした良識と善意を前提とした信頼関係の上に成り立っている。それは極めて脆いもので、その信頼を裏切るような行為に対しては、ほとんど無防備だ。政治、経済、宗教、医療などのあらゆる場面で裏切りが日常茶飯事に行われている。政治を信じ、経済の仕組みに身を委ね、宗教に心の拠り所を求め、医療に命を預けるわれわれ市民は、それらが裏切り行為に走った場合には、ひとたまりもない。そういう、いわば公的な「裏切り」が市民に不信感をうえつけ、市民の公徳心を麻痺させているとは言えないだろうか。

政治不信とか、医療不信という言葉が使われだして久しいが、組織や質の問題がいつも制度やモラルの問題にすり替えられて、情報公開と客観的評価に基づいた根本的な解決策をとろうとせず、結局運が悪かったと諦めさせられてしまう。いつもは医療提供者側の者も、ひとたび入院して患者や家族の立場になって初めて目を覆いたくなるような現実に気付き愕然とする。患者や家族として期待する、充分な知識と経験に裏打ちされた的確な診断や治療や看護が、快適な環境の下で人間性豊かに提供されているであろうか。

基幹病院と言われるような病院でも、責任体制や、緊急医療体制、危機管理体制、チーム医療体制、診療記録などの整備や、患者・家族への説明などが不十分で、患者・家族を思いやる心がなく、ましてや診させて頂くというような気持ちはなく、それでもプロだから顔や言葉には出さないだろうと思うと大間違いで、はては入院期間が長くなるというだけの理由で病状にはおかまいなく追いだそうとするような病院もある。そのような病院は、手がかからず収入になる患者は抱え込もうとして、特に外来では、すでに病状が安定して投薬と定期的な検査だけの患者を紹介医に返さず、院内でたらい回しにして、不必要な検査や投薬を繰り返す。今や多くの公的病院が営利主義に走っているなかで、たとえ建物は古くても、手入れが行き届き明るく清潔に保たれた病院は、働く人たちの顔も生き生きとしていて明るく・優しく、患者・家族への対応も親切・丁寧である。このような病院はきっと情報公開と客観的評価に耐えうる病院だと思う。

財政破綻した国、地方自治体、企業。信じられないような事故を起こす原発関連企業、食品メーカー。身内の不祥事を隠す警察、政党や役所、自動車メーカー。そこには責任というものが感じられず、危機管理の体制もない。危機的な現実に対する認識の欠落と、危険を内包した活動に対する厳しい評価と管理の体制がない。これもいわば曖昧な信頼関係に基づく自然淘汰の世界であり、日本の救急医療はその典型である。これだけ高速道路が発達していながら、一方ではヘリコプターによる救急医療活動が行われていない。広島県東部には救命救急センターもない。これでは自然淘汰されて助かる人しか助からない。今こそ、私たちは組織や制度の危機的な状況や、社会生活に内包される危険性について、目をそむけることなく正面から見つめ、情報公開を求めて正しく認識し、厳しく評価し、きちんと管理しなければならない。医療の世界ではインフォームド・コンセントということが盛んに言われているが、言い換えればそれは情報公開と市民参加ということであり、すべての社会活動の場において必要なことである。情報公開と市民参加こそ二十一世紀へのキーワードである。仕方がないと諦めたのでは進歩がない。市民と手を携えて前進する保険医協会でなければならない。

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「どうなる!?介護保険」
広島県保険医新聞(第259号)1997年12月10日

この臨時国会で審議されていた介護保険法案が一部修正の上、12月9日に成立した。この間、国会審議の中で、基盤整備の不十分さや「保険あってサービスなし」の懸念の声など法案の問題点を指摘する声が広がった。また、地方公聴会でも施設や在宅サービスが足りない、利用料を無料になど様々な批判、注文が相次いだ。問題を多く残しての法案成立には怒を覚える。その上で改めて介護保険について考えてみたい。

我が国で公的介護保険制度が論議され始めてやっと3年が経過した。最初は内容がよく分からないまま、高齢化社会の到来という危機感とお上による公的保険という期待感から、賛成した人が多かった。「介護保険」でなく「誤解保険」だとも言われるように、誤解されている面が多く期待され過ぎている。「いつでも、だれでも、どこでも」よい医療が繰り返し受けられる医療保険制度と同じように思われ、介護が必要になったとき、すぐに必要な介護が受けられると誤解した。誰もが未経験の少子化・超高齢化時代に、死に至る過程で人の世話になる期間、要介護期間があるという不安があり、それに対して介護保険が期待されるのは当然であるし、現実に困っている人への支援は必要であるが、本当に国民の期待に答えられる介護保険制度であろうか。

我が国が介護保険導入の手本としたドイツでは、高い社会保障コストによる負担、国民の社会保障に対する国家への依存体質、人件費の高騰による国際競争力の低下と労働意欲の喪失など「行き過ぎた社会保障が生む弊害」を理由に、社会保障費の削減を目的として公的医療保険法の構造改革と公的介護保険の導入を行った。ドイツの公的介護保険は決して北欧諸国のような高度な福祉の充実を目指したものではなく、阪神大震災の被災者に対する対応に象徴される「低福祉国家日本」はドイツの社会保障制度の下方修正した部分だけを取り入れようとしている。年間死亡者が100万人を超えようとしている「老人枯れ木論」の我が国は、死亡前要介護期間(死亡3か月前では50%の人が要介護、3年前でも20%といわれる)のケアを医療から切り離すために介護保険を利用しようとしている。少ない人手で、最低限のケアを受け、ただ死を待つだけの老人病院や施設の現状から、さらに経済的な締めつけとサービス受給基準が強化される介護保険制度のもとでの要介護老人の姿を想像すると、背筋が寒くなる。

この介護保険法案についての疑問は沢山ある。なぜ今までの制度ではいけないのか。医療保険の保険料を上げてもできないのか。必要なときに必要な医療が受けられるのか。被保険者はなぜ40歳以上なのか。介護保険料はなぜ定額で月2500円なのか。なぜ高齢者や家族も保険料を払うのか。なぜ老人と老化に伴う障害にしか適応されないのか。介護給付を受けるときなぜ1割の自己負担があるのか。制度が動きだすと保険料が急角度で上昇するのではないか。保険料や利用料(介護費用の1割)を払えない低所得層は介護サービスを受けられないがこれをどうするのか。特別養護老人ホームなどの施設やホームヘルパー(訪問介護員)などの介護サービスに携わる人材は制度スタート予定の2000年度までに質量とも十分に整えられるのか。財源の制約や介護サービス量の不足から要介護と認定される人数が抑制されて「保険あって介護なし」にならないか。なぜ現金給付をしないのか。要介護認定の判定作業は公平にできるのか。認定手続きが面倒なうえに1-2か月も待たされるのではないか。適正な介護給付が行われているかのチェックはどうするのか。要介護者の権利を守る方法はあるのか。介護保険導入で浮く高齢者医療・福祉費の財源は何に使うのか。

インフォームド・コンセントはなにも医療の世界に限ったことではない。行政においてこそ要求しなければならないことであり、民主主義の根幹である。国(行政に携わる人!)は、国民に誤解されないようにきちんと説明する義務があり、国民は、今後どのような事態を迎えるかという明確な認識を持つ必要がある。一番大事なことは国民の命を大切にし、介護者が介護に生きがいを持て、被介護者が心の通った手厚い介護をうけ、最期まで人間としての尊厳を保たれるような介護制度にしなければならないことである。官僚組織は制度の発足前や発足早々の手直しを嫌がるものであるが、国民に還元できないにもかかわらず国民負担を増加させるだけの外国の猿真似の制度はいさぎよく中止し、日本国憲法に基づいて国民の福祉を増進する「日本の制度」に作りなおすことを強く求める。

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「社会保障としての医療保険制度改革を」
広島県保険医新聞(第255号)1997年8月10日

二十一世紀に向けて医療保険制度の抜本「改革」が叫ばれている。この「改革」にあたって重要な視点は、憲法第二十五条の精神にもとづき社会保障としての医療保険制度を維持発展させ、いつでも、どこでも、誰もが、費用の不安なく安心して医療が受けられる制度とすることである。このことは、患者負担増に反対する千八百万の署名に示されるように、大多数の国民の願いである。

広島県世論調査(平成8年)を見ると、「重点政策の要望」について高齢者対策、社会福祉・社会保障対策、保健医療対策など医療・福祉の要求が高いことが判る。広島協会でもこのような声を反映して医療制度改悪反対の署名を1万数千集めた。抜本「改革」に求められることは、こうした立場に立って、現在の医療制度のゆがみを正すことである。

そのためには、まず正確な情報の公開を求めなければならない。政府の意図する抜本改革とは、保険財政の赤字を理由とした医療費抑制策にほかならない。保険財政状況に関して公表された資料は、きわめて単純なもので、とても赤字論議の根拠となり得るものではない。医療費への国庫負担率を元にもどし、国庫負担の延滞金を支払えば、とりあえず今回の健保改悪は必要なかったことは周知の事実である。また各健保組合と健保連の運営状況も不明朗な点が多く、十分な情報公開が必要である。

医療費のなかで高い比率を占める薬剤費の問題は、国際的に見ても高い日本の薬価(特に新薬)がその主たる原因であることは、国会で橋本首相も認めたところである。薬価基準制度が悪いのではなく、「新薬シフト」の根本原因が新薬の承認と薬価決定のシステムにあることは明かであるが、同時に有用性の定かでない新薬や問題薬を処方している医師の側にも責任がないとはいえない。

今の診療報酬制度の問題点は、物や物を用いた診療行為に対する評価が高く、診察、処方、指導、処置、手術などの基本的診療行為の評価が低いことと、医療従事者の技術や労働の評価が軽視されていることである。これを正すために、複雑で矛盾の多い点数制度の見直しが必要であるが、包括払い制だけでは、必要なときに必要な医療提供ができないことは明かである。また、出来高払い制が「検査漬け」「薬漬け」などの「過剰診療を引き起こす」という批判を克服するためには、医師自身の努力が必要である。この点では、医師と患者の信頼関係の上で過剰診療を防止することが重要であり、治療内容に対する患者の理解と合意、いわゆるインフォームド・コンセントが欠かせない。

患者負担増なしで、医療保険財政を健全化することは可能であり、老人保険制度では、患者負担ゼロを目指すべきである。高薬価の是正と、医療費への国庫負担率の復元をまず行うべきであり、国家予算を抜本的に見直せば、国庫負担の増額は可能である。社会保障費の削減を優先させるような国の姿勢を正し、国と大企業の責任において、適正な保険料負担と適正な自己負担を検討しなければならない。

日本の医療は、人的にも経済的にも、国際的に見て低い水準にあり、国民の大多数が希望する手厚い医療・福祉には程遠い。多様な国民のニードに応じた多様な医療供給体制の整備が必要である。医療機関の機能分担と連携は勿論必要であるが、開業医が必ずしもかかりつけ医である必要はない。開業医で、高度の専門性を発揮する医師もいれば、専門病院でも、技術や能力に問題のある医師もいる。質の高い医療専門職の養成、計画的な卒後研修と評価、あらゆる医療現場への十分な人員の配置など、医療の質を高める努力も不足している。医療・福祉はなによりもマンパワーが最大の武器であり、安易なリストラは質の低下を招く。

医療保険制度の改革を進めるうえで、、情報公開と具体的数値に基づいた改革を目指した開業保険医の主体的努力が不可欠であり、いまこそ社会保障としての医療保険制度の維持発展を、国民と共に強く主張しなければならない。

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「開業医宣言を高く掲げ、福祉先進国をめざそう!」
広島県保険医新聞(第250号)1997年3月10日

空前の国民負担増を強行する予算案が国会を通ろうとしている。消費税の税率5パーセントへのアップで5兆円、所得税減税の中止で2兆円、医療費の負担増で2兆円、合計9兆円の国民負担の増加である。一方では、相変らず歳出を増やし、赤字国債の減額は国民負担増の半分にも満たない。このような不条理が許されて良いはずがない。

かつてバブルの時代の宮沢総理は「経済大国に相応しい生活大国」を目標としたが、今や日本の負債は、520兆円に及び、国民は「借金大国に相応しい厳しい生活」を強いられようとしている。

しかしながら、この国の舵取りをしている人達の言動からは、危機感というものが全く感じられない。「火だるま」になるのは、彼らではなくて、庶民である。小田実氏でなくとも『これは「人間の国」か』(1996年1月18日付け朝日新聞)と言いたくなる。

世界には、福祉先進国と呼ばれて、高齢者や障害者を手厚く保護する国があり、日本もその国々を目標にしてきたはずである。ところが、国の財政難を理由に、医療や福祉の予算が抑制されてきた。その一方では、国土開発などの巨大プロジェクトに名を借りた環境破壊や、無意味な防衛費に多額の予算が使われてきた。

いまだに仮設住宅での孤独死が絶えない阪神淡路大震災の被災者や、想像を絶する苦しい生活に耐えて戦後の我が国の奇跡的な発展に尽してきたお年寄りに対する扱いはどうであろうか。

経口的に食事を摂取することができなくなった寝たきりのお年寄りに、経管栄養をせずに死亡させていた高知市の院長の記事が、新聞に出ていた。無駄な治療はしないというマインドコントロールが浸透しつつある。驚くべきことに、亡くなった老人達の家族もそれで満足しているということだ。人の命を大切にしない、できない国なのだ。末期癌患者や脳死患者に濃厚治療をしようと言うのではない。医療者として、積極的に命を短くするような行為は許されないということだ。

病院を見ればその国の文化が分かるというが、日本の医療は、なんと貧しいことか。元気なときには、他人と同じ部屋で寝るようなことは、団体旅行や合宿の時ぐらいしか経験しないのに、病気になると4人部屋、6人部屋、ひどい病院では何十人部屋というまさに収容所なみの扱いをされる。病気の時や、高齢となったとき、障害を負ったときだけでも、手厚い扱いを受けることを誰もが希望すると思う。

無駄、不必要、適正、節約などの名のもとに弱者を切り捨てることに疑問を感じなくなり、国民の目には、医療者としての本来あるべき姿を忘れ、患者のためのより良い医療への変革の努力を怠ってきたように映る。その結果が、医療保険の経済的破綻を理由とした圧力での、医療制度改革ではないだろうか。患者負担を増やして受診抑制をしなければ、三分間診療、検査漬け、薬漬け医療が是正されないという、誠に情けない結論に達したことになる。

日本の医療費は、まだまだ極めて低い水準にあることは明白であり、その貧しさが故に命が粗末に扱われているにもかかわらず、その医療費がさらに抑制されようとしている。われわれは今こそ開業医宣言を高く掲げて、医療本来の奉仕の精神を取り戻し、この国に相応しい医療制度を目指した医療者による変革を主張しなければならない。

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「真に国民のための介護保険を求む」
広島県保険医新聞(第242号)1996年7月10日

高齢者介護のための社会的システムについての論議が始まって二年になる。公的介護保険制度について検討してきた老人保健福祉審議会(老健審)ー厚相の諮問機関、鳥居泰彦会長ーは4月22日、介護サービスの内容や制度のあり方について最終報告をまとめ、菅直人厚相に提出した。

保険の運営主体や65歳未満の現役世代の負担のあり方、家族による介護に現金支給を認めるかどうか、制度施行までの準備期間、段階的実施などの検討を求めるもので、この段階で、厚生省は97年度導入は見送る方針を決めた。

5月14日、厚生省は公的介護保険の制度試案を与党に提示し、了解を得て、翌15日の老健審に諮問して今国会への法案上程を目指した。この段階では、サービス給付と保険料負担の対象をともに40歳以上とし、在宅サービスを先行実施し、施設サービス開始を二年遅らせる段階実施の導入を提示した。保険料は月額500円とした。

5月30日、厚生省は「修正試案」なる最終案を明らかにし、保険者となる市町村の事務、財政両面の負担に配慮して、各都道府県ごとに「介護保険者連合会」(仮称)の設置が追加され、保険料の事業主負担がはずされた。

一方、6月5日、全国市長会は「介護保険制度に慎重な論議を求める決議」を全会一致で採択した。このなかで、密接に関連する医療保険制度改革の方向性が明示されておらず、国民的論議が不足していること、財政安定化措置や事務処理体制、介護サービスの実施時期など論議すべき課題が多いことを主張した。また同日、自治労は「介護保険制度中央集会」を開き、一応の評価をしたうえで、不服申し立てやオンブズマン制度など利用者の権利擁護体制を確立することなどを求めた。

6月10日、老健審は公的介護保険制度案大綱を了承する答申をし、これをうけて6月11日、厚生省は介護保険法案の要旨をまとめ、与党各党に示した。

来たるべき超高齢化社会の到来に備えて、二年前に提案された公的介護保険制度は、国の財政難を理由に導入を急がれている。しかし、不十分な論議と制度基盤の未整備のため、その内容は、わずか一か月半の間に二転三転し、結局、法案上程は見送られたが、連立与党は次期国会に上程することで合意している。

なりふりかまわず、保険制度の導入を強行しようとする厚生省と、選挙対策のために慎重論を装う自民党を車の両輪として、突っ走ろうとする公的介護保険制度を、障害を持つ老人が人間らしい余生を送れるような内容にするためには、マンパワー、施設、システムをはじめとして準備は極めて不十分であり、制度自体についての論議も閉鎖的で極めて不十分である。

介護の問題を企業投資の市場確保のためだけに利用しようとする政治姿勢は、社会保障や保健、福祉、医療など、国の使命の根幹を蔑ろにするものであり、まず大胆な行革や無駄の見直しをすべきであり、それが真に国民の幸福のためであれば、国民も応分の負担と痛みを分かち合うことに協力するはずである。

高齢者が、人格と個性を尊重され、生きるに価する生活を楽しむことができるようにすることが国の目標である。

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「介護保険の名を借りた社会保障の改悪は許されない」
広島県保険医新聞(231号)1995年8月1日

社会保障制度審議会(首相の諮問機関、隅谷三喜男会長)は7月4日、「社会保障体制の再構築、安心して暮らせる21世紀の社会を目指して」という勧告書を村山首相に提出した。これは、昨年9月に示された同審議会の社会保障将来委員会第二次報告、同12月の厚生省の高齢者介護・自立支援システム研究会の「新たな高齢者介護システムの構築を目指して」という報告書を受けて、政府の公的介護保険制度の導入を是認するものである。

今後21世紀にかけての我が国の高齢化の進展、国民のニーズの多様化と高度化、バブル崩壊などの社会変化を利用して、若い世代をもまきこんで、老後の経済と健康への不安と危機感をあおりただひたすらに国民の自助努力と社会連帯の必要性のみを強調している。自立と社会連帯が21世紀における社会保障の基本理念であると述べ、その精神にのっとり、国民のだれもが応分の負担をする必要があり、増大する社会保障の財源として社会保険料負担が中心となるのは当然であると断言している。自立、連帯、公平負担などの言葉を繰り返し、社会保険方式の利点だけを羅列したにすぎない。

一方では、我が国の看護や介護の人員の配置が欧米諸国と比べてかなり低く、介護保障制度の確立のためにはまず、人材の確保、介護施設の整備などサービス供給体制の整備が必要であり、その整備目標でさえ極めて不十分であることをいみじくも認めている。この現状で、介護保険が導入されたとしても何ができるというのであろうか。

医療保険制度のように何時でも何処でも良質の介護サービスが平等に受けられるなどということは幻想である。現在行なわれている在宅、施設、病院でのサービスのうちの介護的部分を切り離して、介護保険給付の対象としようとしている。ただ単に一つのパイの分割の仕方を変えるだけである。政府は年金、医療、福祉の割合を現在の5:4:1から5:3:2にするとしている。現在福祉費は年間約6兆円であるが、これが12兆円になり、現在24兆円の医療費が6兆円減るわけである。

医療費を減さずに前述の比率を達成するなどということは言ってない。そのうえ20歳以上の国民全員から保険料を取り、給付は最小限にし自己負担を大幅に取り入れようとしているのである。国民に負担を強いることだけを主張するような社会保障の理念は頂けない。

今こそ政府は、従来の医療・福祉費抑制の政策を転換して、国民に新たな負担を強いることなく、国の責任において経済大国の名にふさわしい日本独自の社会保障の充実をはかるべきである。

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