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日瑞関係トップあけぼの │ベルリン日本人会フランス女子留学生コンタクト


パリの日本料理店 牡丹屋をめぐって

<序>

1944年6月にフランスのルマンディー海岸に上陸した連合国軍はパリを目指した。その手から逃れるため、ベルリンに向かう日本人婦女子がパリの東駅で列車に乗ったのは8月13日昼頃であった。しかし列車は出発しない。夜になり一行は日本料理店「牡丹屋」と「都」から差し入れられた弁当を、夕食として東駅のプラットホームに横付けされている車の中で済ませ、とうとう夜も明けてしまった。

この文章から推測されるのは、日本人に弁当を差し入れた日本料理店牡丹屋、都の関係者は、彼らを見送りそのままパリで連合国軍に抑留されたのではないかということだ。

声楽家の古沢淑子はこの最終列車でベルリンに向かったひとりであったが、その後ベルリンからスイスに逃れ、そこで終戦を迎えた。そして1949年、職を得てパリに戻る。古沢は
「そのころ(1950年)パリにいた日本人は、20人に満たないほど。月に一度くらいは、当時一軒しかなかった日本料理店、牡丹屋に集まって、すき焼きなどを一緒に食べたものだった。」と述べている。
(『夢のあとで-フランス歌曲の珠玉・古沢淑子伝-』)

やはり牡丹屋は日本人が去ってもパリに残り、戦後は渡仏する日本人に先駆けて店を開いていたのである。「日本人あるところ、日本料理店あり」の典型である。そして当時は比較的裕福な日本人しか利用出来ない店を、終戦直後にわずか20人ばかりの顧客を相手に経営していたのである。

ベルリンでは「あけぼの」という日本料理店が滞在者の集会場の位置づけであったように、パリでは牡丹屋が多くの日本人の回想に登場する。本編ではこの牡丹屋を中心に、パリ邦人の戦前、戦後の模様を見ていく。


<パリ、日本食の歴史>

パリの日本食に興味を持ち調べた先人がいる。フランス文学者の河盛好蔵である。著書『パリ好日』には、次のような明治初期からのエピソードが紹介されている。

明治の元老西園寺公望は1871年、パリのソルボンヌ大学に留学する。その際
「明治の初め、初めて巴里に遊学したる頃、万里の故郷を恋想せるは、日本料理の得難きに始まる。」と、元老も日本食が手に入らないことを嘆いた。

そして西園寺たち留学者は、リュー・ド・ラ・ペー(通りの名)にある商店に、白瓶に入った醤油を発見して狂喜した。この醤油はオランダ人が日本で買い込んでヨーロッパに輸入したものであった。
パリにはおそらく東インド会社が輸入した醤油が、明治初頭から(もしくはそれ以前から)並んでいたのである。

次いで作家巌谷小波が、1900年9月から1902年11月まで、ベルリン大学東洋学部講師として赴任した時のことである。1902年8月末にパリを訪れた際、カルチェ・ラタンのリュー・ポナパルト(通りの名)の「巴亭」(ともえてい)という料亭で食事をする。そして次のように語っている。

「これは、去年の博覧会の名残ともいうべきで、主婦は名を板原友枝(ともえ)という所から、その名を巴里の巴に通わせて,即ち巴亭(ともえてい)とつけたのだという。

主婦の他にお浜さんという小娘があった。共に日本風の髪、日本風の服装、膳椀、皿小鉢、すべて日本風で、日本流のしとやかな給事に、純日本料理を食うのである。その嬉しさは又格別。鰯の塩焼き、茄子の田楽、これはベルリンでは望まれぬところと、頻りに舌鼓を打ったのである。」(『小波洋行土産 下巻』より)

巴亭という店の名前に趣向が凝らされていることが分かる。この時の博覧会とは1900年に開催された第5回パリ万国博覧会である。日本からの訪問者も多かったので、彼らを相手の日本料理屋が開かれ、その後も営業を続けたのであろう。オーナーは主婦で板原友枝という名前であったというが、この人物の背景は不明である。夫がフランス人であれば、営業許可を得るのもハードルが低かったはずだ。

そして巴亭がパリ最初の本確定日本料理店で、この時ベルリンにはまだなかったと思われる。



<牡丹屋誕生>

先の河盛自身もパリに留学している。
「私が最初にパリに行った昭和3年(1928年)頃には、日本料理店に”常盤”と”富士”と”日本人クラブ”の3軒に増えていたが、まもなく”牡丹屋”というのができた。」
と牡丹屋の名前が初めて登場する。残念ながら、オーナーの名前等は不明である。

『パリ・日本人の心象地図』によれば、その1928年10月の『パリ週報』に「最新日本旅館へお泊り下さい。」という広告が出ているので、この年の創業ではと推測している。

河盛は続けて
「富士はソルボンヌ(大学)の近くにあって、私はよく食べに行った。料理の品数は決まっていて、義理にもうまいとは言えなかったが、アルコール・ランプで鳥のすき焼きを食べていると、不思議と心がなごんだものである。

マドレーヌ寺院近くに僅かばかりの日本食品を並べている店があるきりだった。私たちはそこでソース瓶に入った醤油を買って来て、どんな料理にもそれをかけて食べた。」

料理はすき焼き、食材は醤油、このふたつは当時の日本食を語る上で欠かせないものである。そして日本の食材を販売する店もパリにはすでに存在した。



<金子光晴>

作家金子光晴は1930年から2年間、パリに滞在する。かなり破天荒な生活を送ったようだが、かれは日本の丼屋を開く構想を描いた。

「この中の”日本式の一膳めし”の計画というのは、画家の辻元廣が持ちこんだ話が発端だった。
辻はフランスへ来る前に、半年ほど京都で本筋の板前の修業を積んできたといい、(金子の妻)森三千代と再会してパリ13区のポール・オルレアンの貸しアパルトマンに住んでいた金子の許へ、本格的なちらし寿司をつくって持ってきてくれた。

材料はヨーロッパにはない紅生姜、そぼろ、高野豆腐、干瓢(かんぴょう)などで、大抵の品はマドレーヌにある日本食品の店にあるが、手に入らないものはマルセイユか、ベルギーのアントワープの船舶賄いの業者に頼みこんで、日本船の厨夫長から調達したものだという。」

日本からやってくる船は日本食品を積んでいたので、それを分けてもらうことで、食材を調達した。フランス国籍を持つ村松嘉津によれば、マルセイユでは山本という人が日本食調達の仕事に就いていた。金子は続けて

「辻は、『牡丹屋など、あんな料理とも言えん料理で法外な金をとって、あれでは、日本料理もわややで。フランス人はもともと、日本料理のほんまの味知らせたら、すぐ病みつきになるにきまってる。牡丹屋のとかしけない料理食うたら、二度と食いたいとは言わんわ。

うちのアメリカの婆さん。わしのつくってやる料理の味おぼえて、わしがいなくなったら、食えんようになる言うて、出てゆきはせんかとはらはらしていよる。』と言った。
彼は絵では食えないので、アメリカ人の老婦人の家に住み込んで、料理を作ったり雑用をしたりして生活していたのである。」(『ねむれ巴里』より、口語で一部不明な表現あり)

ここにも牡丹屋の名前が登場するのだが、味の評判は良くない。先に河盛も「富士は義理にもうまいとは言えなかった」と書いているので、当時のパリの日本食のレベルを語っているのかもしれない。



<欧米巡遊>

野田一郎の欧米旅行は1930年7月より翌年1月に及ぶ。8月8日マルセイユに到着して、おそらく10日にパリに入る。
「着いたその夜は早速入欧落着の記念として、3人一同祝杯を挙げる。食はこれ牡丹屋板場の日本料理、酒は遠来の日本酒、旨くなかろうはずもなく、陶然として酔う。
牡丹屋の日本料理はうまい。マルセイユの富士屋、ローマの日本館などのものの比ではない。」

野田が旨い日本食を堪能したのは、まさに金子光達と同じタイミングである。やはり牡丹屋の味に対する金子の批判は、注意して読む必要がありそうだ。



<宝蔵寺久雄>

宝蔵寺は陸軍軍人であるが、欧州出張に関し、非常に克明に旅の記録を残している。そしてパリでは
「(1933年)12月31日午後6時帰り、8時日本料理牡丹屋に寄って夕食。牛のすき焼きで日本飯。ビール一本飲む。主人が年越しの運そばを寄贈する。21フラン。チップ2フラン。」と大晦日に牡丹屋を訪問した。店の主人から年越しそばをご馳走になっている。宿に戻り、

「ヴェルサイユ
 王者も覇者も
 冬ざるる
牡丹屋に年惜みけりつくねんと。」
と俳句を詠み、牡丹屋の名前を記した。さらには
「1月19日
夜は坂本大佐、小笠原獣医正、園田少佐と予とでパリ駐在武官一同を常盤に招待し盛会であった。澄田中佐寄贈の日本酒はうまい。」と常盤も訪問している。

著書『欧州旅行記』には付録があり
「パリで必要なる住所と電話番号とは」と題し、当時日本料理店が4軒あることを教えてくれる。
日本人会(付食堂)
ときわ 日本料理
ふじ  日本料理
牡丹屋 旅館、料理 (30 Rue Vineuse)
諏訪旅館
軍人向け旅館



<高浜虚子>

俳人高浜虚子は1936年年2月、欧州への俳諧伝播の旅に出る。 そして同年5月7日
「用事を済ましてから私達3人は牡丹屋に急いだ。牡丹屋には,佐藤醇造君夫妻の?(判読不明)になる仏国の詩人たちの茶話会があるので、すでに大勢の人が私たちを待ち受けていた。」
牡丹屋は文化イベントが行われる、確立された場所となっている。続いて

「一座の人は皆立ち上がって、私を迎えてくれたが、その中で山田菊女史に一別以来の挨拶をした。女史の妹君と、フランス人であるその母堂とは、鎌倉に住んでいるので、古くから汽車などで見受けることがあるのであるが、、、」( 『渡仏日記』より)とフランスで活躍する作家山田菊が登場する。彼女は実の所、スイス人と結婚したためスイス国籍である。こちら参照。

席上の皆の揮毫として色紙が虚子に手渡された。
「パリ牡丹屋に於いて 1936年5月7日」の題名があり、宝蔵寺同様に、牡丹屋という注釈がついた。山田菊は
「太陽は夜の緋衣、燃えるような楓、砂漠に眠る射手
私は見た、それは血のような一点。」と書いている。
この色紙は今も残っているのであろうか?



<第二次世界大戦勃発>

1939年9月3日、フランスがポーランドに侵攻したドイツに対し、宣戦布告をする。8月25日 東京発同盟電として
「国際情勢の緊張に鑑み、日本政府では在欧日本人引き揚げの手筈をしている、ハンブルクを出発する筈であった郵船”靖国丸”は出港を延期して。帰国引き揚げ者の到着をハンブルクで待つべき命令を受けた。現在欧州にある日本人は約2200名。その中、1000名はイギリスに、600名はフランス、500名はドイツにいる」と、この頃フランス(ほとんどがパリ)にはおよそ600名の日本人がいたことが分かる。彼らのうち多くが日本に引き揚げ始める。

フランス文学者の小松清は開戦直後の9月9日 
「夕6時。マルロオと会う。
12日の夜、パッシイの”牡丹屋”で日本食を共にすることにした。
その時は”日日”の板倉(進)君、”読売”の松尾(邦之助)君にも来てもらおう。」と牡丹屋に誘った。
マルロオは戦後文化相も努めた作家アンドレ・マルローのことである。残念ながら小松の日記には12日の記述がないので、実際に食事会が行われたかは確認できないが、日本人は皆引き揚げで浮き足立っていたので、筆者は否定的だ。ついで

「9月15日 正午前、避難邦人みな鹿島丸に乗船。船で日本食をご馳走になる。腹いっぱいつめ込んだほど美味かった。」と小松は帰国する妻子の乗船する船に見送りで乗り込み、日本食を食べその後、パリに戻った。日本郵船の客船では異国の港においても最高レベルの日本食が提供されたのであろう。 

翌1940年6月、ドイツドイツ軍がパリを目指してくると、最後の日本人の引き揚げが始まる。まもなくドイツとフランスの間に休戦協定が成立し、フランスはペタン元帥を首班とする政府がヴィッシーに移る。それに伴い、日本大使館もヴィッシーに移り、パリの大使館の建物は総領事館として留守番役の外交官が滞在するだけとなる。パリの邦人はますます少なくなる。

戦前、欧州旅行はごく限られた人のみに与えられたものであったため、その旅行記も多い。そしてパリを書いたものには、牡丹屋はかなりの確率で登場する。しかし欧州戦争が始まると日本からの訪問者は激減し、書物への登場もそれに比例する。あってもこぢんまりと自費出版とか関係者への配布のような形での出版も多い。以下は筆者がそれらを探し出し紹介するものである。



<出張サービス>

日本が参戦して間もない1942年4月22日、伊号第30潜水艦がマレー半島西海岸のペナンを出港した。厳重な警戒での航海の元、8月8日フランスブルターニュのロリアン軍港に入港した。日独間の連絡網が確立されたことを関係者は喜んだ。

「8月22日、乗組員たちはドイツ潜水艦基地で、パリから出張してきていた牡丹屋の主人から日本食の接待を受けた。」(『深海の死者』吉村昭)

航海中は狭い空間で粗食に甘んじなければならない乗組員たちには、最高のプレゼントであったであろう。こうした日本食の出張サービスは、商社の支店長が自宅にお客を招待してもてなす際に、しばしば利用された。



<戦時下の牡丹屋>

1942年12月8日、冒頭に紹介した声楽家の古沢淑子が、同じく音楽家の倉知緑郎と結婚する。
「総領事館の千葉公使が仲人をつとめ、式は牡丹屋にて厳粛にとり行われた。神主役をつとめたのが銀行の人。きちんと形式にのっとって挙式された。挙式のあと、その牡丹屋に食料を持ち込んでカクテルパーティーをひらいた。」と写真付きで紹介されている。

日本からの食材の入手が不可能になったが、牡丹屋は営業を続ける。戦争を見込んで、味噌、醤油などは備蓄してあったのであろう。この頃ベルリンでは材料の入手難から、日本人以外の客は入店できなくなっていた。



<外交官補 高橋保>

高橋はソ連を通過するビザを得て、日本から中央アジア、トルコを経由し、フランスに赴任してくる。およそ3か月かけてパリに着いた直後の1943年2月22日、
「午前10時に起きる。そのうち千葉公使、北原、井川三氏来られ、牡丹屋にてスキヤキの昼食。千葉氏に関しては、(後略)」と早速牡丹屋で食事をする。食べたのは定番のすき焼きである。

高橋はその後ヴィッシーの大使館勤務となるが、同年5月26日から31日までパリに出張する。その間の5月31日
「牡丹屋はよい。日本人的だ。又海軍記念日に在留パリ日本人が皆集まったが、日本人はどこまでも日本人だ。早川雪洲氏も来ていた。美しい午後で、海軍武官の細谷氏とも話した。良い人である。北原、前田、橋田、高野諸氏。それに堀さん、また高利さんもいて、色々と参考になった。」と牡丹屋を絶賛する。

名前の登場する海軍武官細谷資芳は毎年女子留学生を食事に招待し、その時の写真が残っている。(こちら参照



<弁当 末松茂久>

ベルリン駐在の陸軍中佐末松茂久は1944年4月末から5月の初めにかけてパリに出張する。パリ陥落間近であるが、その様子を日本の家族に書き送っている。

「パリにいる日本人は全部で150人ばかり。ベルリンにいる日本人よりは数も少ない。」
と開戦時に600人いた日本人が150人にまで減っている。150人でも多い気がするが、後述のように50人ほどの長期滞在者がいて、駐在員の家族を中心に婦女子が39名がいた。それに駐在員本人およびビィッシーの外交官も含めれば辻褄は合いそうだ。末松は続ける。
「知り合いになった日本人の一人に三菱商事の市川保雄氏がある。長女の澄子ちゃんとすっかり仲良しになった。
厚かましくお嬢ちゃんと一緒に日曜日にヴェルサイユまで、散歩に行く事を申し出て、市川さんも気持ちよく賛成してくれた。その日は日本人経営の宿屋“牡丹屋”に、日本食のお弁当をあつらえてもらって出かけた。」

日本の家族に宛てた手紙に残された文章であるが、末松中佐は全く軍人の気配を感じさせない人である。そして牡丹屋が先述の1928年の広告以降、この時点でも宿を経営していること、また弁当のサービスを行っていたことも分かる。

その後1944年8月のパリ脱出となる。邦人の脱出は列車と車に分かれて行われたが、幾人かの証言を紹介したい。



<諏訪根自子>

天才バイオリニストと呼ばれた諏訪根自子の伝記『美貌なれ昭和』(深田祐介作)には次のように述べられている。

「8月13日、在留邦人婦女子はパリ東駅に集合。根自子も、前田ゆうや倉知(古沢)淑子たちとベルリン行きの軍用列車に乗り込む。列車には対空砲火器の高射砲や高射機関砲を搭載した貨物車両が連結されており、脱出行の前途多難を思わせた。

全く前途多難で、列車に乗り込んだものの、列車を牽引する機関車の数が足りないという話で、空襲の危険の高いパリ東駅に停車したまま、一昼夜以上も待機させられる始末である。

やっと出発して、(見送りの)前田たちが胸を撫でおろして帰ってくると、間もなく電話がかかり、出発した列車がパリ郊外で立ち往生している、助けに来てくれ、という。空襲で通過予定の鉄橋がやられ、乗客は荷物を持って、徒歩で峠を越さねばならない、という話であった。」



<市川澄子>

末松中佐が日曜日にヴェルサイユ宮殿まで散歩をした市川澄子は『五月の伯林から』という三菱関係者の回想録の中に書いている。

「(パリ在住)婦人子供のパリ脱出用として軍用列車の最後尾に特に1両が付けられた。
それまで5年半も住み慣れたパリを後にして、ベルリン行き軍用列車に乗り込んだのは8月13日、即ちドゴール軍によってパリが奪回される数日前のことだった。

携えるものは着替えのものだけ。邦人婦人子供を中心として乗り込んだベルリン行きの列車には、菅副領事を団長に、総勢41名であった。

オートレーサーで事故死した福澤幸雄は当時2歳未満、バイオリニストの諏訪根自子も一行の中にいた。

ドイツ入りは始めから難航だった。8月13日14時出発の予定で、列車に乗り込んだものの発車しない。機関車が来ない。乗客は日本料理店『牡丹屋』と『都』から差し入れられた夕食弁当をプラットホーム横付けの車中で済ませ、とうとう夜も明けてしまった。」

種明かしをすれば、筆者が冒頭に紹介した牡丹屋のエピソードは、ここで紹介した市川澄子が書いたものである。1936年生まれで当時8歳だったゆえ、戦後約50年経って書いたものだが、記述が正確である。



<三菱商事 若林春子>

三菱商事はフランスに駐在員が多く、引き揚げに際しても共同行動をとった。若林卓弥の妻春子はこの結束こそが三菱グループの美点だと語りつつ次のように書く。

「8月13日、やっと辿り着いた東駅では、パリからドイツに向かう列車に最後の労働力として送られる、疲れ切ってよれよれのフランス人の群れと、その出発をなんとしても妨げようとする家族らしい人達でごった返していた。

その列車の出発を妨げるストライキが出発時間を遅らせて、私たちは丸一日、ホームの荷物の側で時を過ごした。

ドイツ三菱から迎えに来てくださった中川(忍)さんと大使館の菅(良)さんに守られて、女子5人、子供13人、コック一名、総勢21名が、大使館が確保して下さった車両に乗り込んだ。やっと出発したのが翌日の8月14日であった。」

春子は三菱愛からか、総勢21名と全婦女子ではなく、三菱関係者のみの人数を書いているようだ。その際、ベルリンから三菱の社員が救援に駆けつけたことが分かる。また大使館の菅良はドイツ語の通訳である。フランス組がドイツ国内を旅行するのに不自由しないよう配慮したのであろう。

わざわざ出迎えに来たベルリン在留邦人の代表が、一夜酒がききすぎて「どうせ逃げ出しても、あと2,3週間でドイツも手を挙げるのだろうが、、、」と漏らし、物議をかもしたと言う。(衣奈多喜男)
本音が出たのは上記2名のうちのどちらかであろうか?



<男性引き揚げ組 前田陽一>

男性駐在員は車での避難となった。
「(列車を見送った翌朝)、私は自動車で脱出する在留邦人一団の引率者として出発しなければならなないことになっていた。

翌朝まだ暗いうちに大使館から出発した。我々の一行は、三井、三菱、正金等の代表者や、終戦後の論壇で活躍したD氏やY女史を含み、8台の自動車に分乗した。大使館からはY嘱託とA氏が同行した。」

D氏とは評論家淡徳三郎、Y女史はラジウムを研究する湯浅年子である。湯浅はベルリンに避難すると、陸軍武官室雇いとなるので、その関係で婦女子とは別行動になったのかもしれない。



<ベルリン到着>

8月20日付け朝日新聞は
「パリ在住邦人婦女子その他39名は16日夜半無事ベルリンに到着。子供20名、男子10名、婦人9名。大使館関係、日銀、正金、三井、三菱。」と報じている。市川澄子は41名と書くが、39名はベルリンから迎えに行った2名を除いた人数であろう。

前田の書いた自動車による避難組に関しては
「他に他のパリ在留邦人も15日、自動車で独軍後方輸送隊に守られながら出発した。この一行には斎田総領事と家族、日仏銀行横山氏と家族、出張中の湯本財務官などが含まれている。」と報じられた。



<ドイツ大使と共に 重光晶>

他の引き揚げグループもあった。その内の一人がパリ総領事館勤務の重光晶である。
「8月13日の夜中の12時、ドイツ側からの連絡によって、私は現地雇いのM君と共に、サン・ジェルマン街のドイツ大使館前に、集合したのです。(それは連合軍のパリ入場の10日前でした。)

駐仏ドイツ大使アベッツの車を先頭にして、一応コンヴォイを組んで、東方ストラスブール方面を目指して、パリを脱出するのです。

14日の夕刻、前もってドイツ側が決めてくれていた、ジュラメールというドイツ国境に近い小さな避暑地のホテルに、我々は落ち着くことが出来たのです。」
ドイツ大使に日本の外交官が行動を共にしたのは、外交儀礼であろうか。

時代は前後するが重光官補は、パリ引き揚げ直前の様子も書いている。
「パリには日本からの駐在者を除けば、50人ほどの在留邦人がいるだけです。多くは30年、40年とフランスに住みついている人達で、日本に親類、縁者のいない人もいます。

我々はこれらの日本人の家を、いちいち訪ねて回りました。金持ちのフランス人のコックをしている人、小さな木工店をやっている人、中にはどう見ても夜の商売としか思えない夫人もいました。

このような人々に(中略)、このままパリに留まる様に勧めたというのが実情に近かったのです。それでも2家族が、この際是非とも日本に帰りたいというので。不要になった私のトランク等をあげて、ベルリン行きの手続きをしてあげました。」
牡丹屋の関係者もこうして残ったのであろう。



<朝日新聞 衣奈多喜男特派員>

パリ特派員になってまだ日の浅い衣奈特派員は14日、邦人が去り寂しくなった中、昼食を都で取り、ホテルに戻るとドイツ軍宣伝班から電話が入っていた。
「独軍報道本部が急転直下、移動の命を受け、これに同行すべく強制されたからである。
14日午後8時、40数台かの大輸送車両群がホテル・マジェスティックに集結し、日のとっぷり暮れるのを待って、一同東に出発した。」と報道関係者も日独で共同行動をとった。ここにも都が登場するが、筆者が見つけたのは澄子の記述とここ2件だけである。



<残留者>

その後パリには連合国が進出してくるが、パリ残留の日本人は出頭するよう指令が出る。そして彼らはほとんどが抑留の身となる。

陸軍事務所の下働きの石田という人物はパリに留まっていたが、解放後はひどい尋問に耐え切れず、刃物で手首を切って自殺を図ったという。(大崎正二)

また翌1945年8月3日のチューリッヒ発同盟電によれは
「パリ警察はスパイ嫌疑で平賀画伯他6名の邦人を逮捕したといわれる。平賀画伯はすでに他の画伯を収容中のドラシイの拘禁所に送られた。」

フランスによる抑留は決して緩いものではなかったことを窺わせる。牡丹屋の関係者も拘束されたのであろうか?



<戦後>

ドイツが降伏したのは1945年5月7日、続いて8月15日に日本が降伏する。パリの日本人はかつてない少なさとなった。戦後初めて牡丹屋が登場するのは、冒頭の1950年頃の古沢淑子の話である。
「そのころパリにいた日本人は、20人に満たないほど。月に一度くらいは、当時一軒しかなかった日本料理店、牡丹屋に集まって、すき焼きなどを一緒に食べたものだった。」
サンフランシスコ条約に署名して、日本が国際社会に復帰出来たのは1951年9月である。

作家遠藤周作の「渡仏日記」は1952年9月から1953年1月までの留学日記である。そこには
「1952年11月19日 マイヤーと食事をした。日本レストランに連れて行く約束をしたのだ。」とある。当時一軒しかなかったとすれば、遠藤周作が訪れたのは牡丹屋であったと思うがいかがであろう?



<奇妙な日本料理店>

国際ペン大会は1951年にはスイス、ローザンヌで開かれたが、そこには芹沢光治良と石川達三が派遣され、池島信平がオブザーバーとして参加した。その際芹沢はかつて留学したパリを訪問し、『パリで会った日本人』という一文を残している。

「初めてヴァバンの不思議な家へ行った。それは連れ込み宿のようなホテルの台所であった。そのホテルにアサダさんという日本の54,5歳の夫人が、一部屋借りて住んでいる。

神戸の有名な女学校を出て、外国の大学にも学んだ女性で、日本には娘も孫もあるそうだが、どうしたわけか戦前からパリにいて、戦争中も帰らずにパリに居ついてしまったような人。

その人が、そのホテルの女持ち主に頼んで、せまい台所を借りて、そこで日本食とも洋食ともつかない手料理を作って、日本人に一食150フランで食べさせている。」
アサダ夫人は敗戦のパリに残ったひとりであった。第3回パリ万博後に店を開いた板原友枝といい、女性の活躍が目立つパリである。芹沢は続けて

「そこで、私は日本の立派な人々と沢山知り合った。東大教授のミズシマさんと、キタモトさん、京都大学のミヤモトさん、早稲田を出た建築家のヨシザカさん、労働法の研究のハットリさん、化学者のヤギさんなど、最初の晩にアサダさんの家で会ったように思う。

何故ここへ食事に来るかといえば、一食150フランで食べることなど、よそでは出来ないからでもあるが、それより、ここに来さえすれば優れた日本人に会えるからである。藤山愛一郎さんが来られたのには感心した。他では300フランですませるのは困難。」
牡丹屋はれっきとしたレストランであるから、それなりの料金はしたのであろう。



<閉店>

芹沢は続けて書く。
「画家のXさんには幾度も会ってお世話になった。Xさんは牡丹屋という日本料理の売る店の3階にいる。」(名前は判読不能。)と牡丹屋が登場する。この画家は牡丹屋の常連であったに違いない。

タカラという日本料理店は1958年の開店だが、「戦後欧州初の日本料理店」と書いている。その前に牡丹屋は閉店したのであろうか?日本が国際社会に復帰し、再びパリを訪問する日本人が増える頃に、牡丹屋はひっそりと店を閉めたのであろうか?資料が乏しいのが残念である。

決して表に出ることがない、パリの日本料理店、今後読者の方から何か情報が寄せられるのを楽しみにしたい。
(2017年8月1日)


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