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日瑞関係トップ諏訪根自子 │スイス国境戦後初の渡欧者小松ふみ子コンタクト

戦時下フランス、全女子留学生の写真

<小松ふみ子の写真>

筆者が『欧州邦人気になる人』の中で取り上げた小松ふみ子は戦時中、フランスに留学していた。パリ時代に関し
「彼女はソルボンヌ大学で文学を専攻する留学生で、美貌の才女である」と大倉商事の駐在員大崎正二は回想する。

戦後小松は英米文学に傾倒する。そしてアメリカを訪問する。アメリカ生活の長い石垣綾子は知人が
「小松ふみ子は非常にきれいな人」と語ったのを聞いた後に本人に会い
「第一に、彼女(ふみ子)はすばらしい美人ではなかった。背は高く、いい身体である。あの笑いがアメリカ人にすばらしくアピールするのであろう。」という厳しい印象を書いた。

実際はどうだったのであろうか?小松ふみ子の写真はないのであろうかと思っていた所、戦時中フランスに留学していた物理学者湯浅年子を紹介する御茶ノ水女子大学デジタルアーカイブズに、興味深い写真を見つけた。

そこには
「昭和17(1942)年8月 海軍武官細谷(資芳)氏が留学生一同をパリ郊外に招待 レストランCoc Hardyにて」との見出しがあり、6人の女性が写っている。貴重な写真である。まずはここをクリックして、若干不便ではあるが、以降の筆者文章を読む際の参考としていただけると幸いである。

戦時下のフランスに留学していた女性は、筆者の調べた限りでも小松を除くと以下の6名(計7名)で、すでに取り上げてきた。よって小松を含めほぼ全員が件の写真には写っているはずである。

1 湯浅年子 物理学者 「横井喜三郎
                 「戦時下欧州の日本人学校
2 古澤淑子 声楽家   「スイス国境を目指して
3 片岡美智 フランス文学「戦後初の渡欧者を求めて
4 諏訪根自子 ヴァイオリニスト 「書評 諏訪根自子
5 今西汎子  ピアノ 「書評 諏訪根自子 その他の証言
6 阿部よしゑ ハープ奏者

実はこの時、男性の留学生はいない。そこには二つの理由が考えられる。まずは当時、音楽で留学する人は女性が中心であったことである。もう一つは、開戦に先立ち、日本海軍の浅香丸が欧州に派遣され、その帰路欧州在住の留学生などの乗船を認めた。そして湯浅年子や阿部よしゑも帰国を決めた。
しかし軍籍艦艇は女人禁制であることが判明する。緊急時でもこうした規則が守られたのが興味深い。
「阿部女史は一旦は帰国が決まり、有り金をすべてお土産に使ってしまい、泣きっ面に蜂の有り様であった」 と浅香丸で帰国した画家関口俊吾は筆者に語ってくれた。こうした特殊事情も加わり、フランスには女性の留学生ばかり残されたのであった。(一部の女性は自主的に残った。)



<写真の人物>


次いで 写真の人物を特定してみる。すぐに認識できるのは左端の湯浅年子である。他のアーカイブの写真との比較で分かる。また片岡美智は中央で眼鏡をかけた女性で間違いない。

前列のブラウス姿の女性は諏訪根自子である。『諏訪根自子』萩谷由喜子著に写真がありその説明文には
「1937年、戦前の新響演奏会の名ソリストだったソプラノの萩野綾子と根自子は、大倉喜七郎男爵の招きによりローマ他の親善演奏会に出演した。
打ち上げの席に並んで座る、おそらく世界で唯一のこの2人のツーショット。」とあるが、髪型およびブラウスがアーカイブ写真と全く同じである。あるいは腕に持つジャケットも同じであろう。コンサートも行った諏訪であるが、慎ましく暮らして、衣装はそれほど持っていなかったのかもしれない。

萩谷本の写真は未だ大人とは言えない17歳で、アーカイブが22歳の諏訪であるが、この頃の5歳の差を感じないのは何故であろう?あるいはどちらかの写真の撮影時期に、誤解があるのかもしれない。

6番目の阿部よしゑは当時38歳であるが、写真の女性たちはそれより若そうだ。よってここには写っていないのではないか?1966年の写真は次のサイトから見ることが出来るが、何ともいえない。こちら



<古澤淑子>


こうして想定を含みながらもみてくると、特定が出来ないのは本編の主題でもある小松ふみ子、古澤淑子、今西汎子である。

古澤淑子は『夢のあとで-フランス歌曲の珠玉・古沢淑子伝-』という本から当時の写真を見ることが出来るが、該当する人物は見当たらない。加えて本に次のような記述がある。<
「(古澤は)武林文子の教えを受けて、(洋裁の)腕をどんどん上げていった。帽子作りは服のデザインの延長戦で自分で工夫した。なぜかこの(占領された)時代、(パリでは)帽子ファッションが大流行。」
帽子作りが得意であったとすれば、こういう場所では当然かぶっているだろう。写真で帽子をかぶっているのは右の2人の女性である。



<小松ふみ子>


小松の外見に関し、石垣の書く”背が高く体格のよい女性”を元に探すと、右端の帽子をかぶっの女性が該当するような気がする。どこか気の強そうな顔で、整った衣装である。しかし留学生がこのようなフォーマルな格好をしたか、少し疑問も残る。

なお右端が小松とすれば、帽子の古澤はその左隣の顔が一部隠れた女性となる。そして最後に一人残るのが、左から2人目の少しふっくらした女性である。



<今西汎子>


今西のパリ時代の容貌に関しては次のような記述がある。
「浅黒い肌のずんぐりとした頑丈そうな身体。二重まぶたも大きな眼の中に黒曜石のような瞳が輝いている。いかにも剛毛そうなたっぷりの黒髪はロールで巻かれ、頭の上で踊っている。徳川のお姫様のイメージとはかなり遠く、お世辞にも可憐な少女とは言い難い風貌だった。」
彼女は徳川家のご落胤(側室の子供)であったという。
(『薔薇色のイストワール』より)
残った一人、黒系のコート姿の女性が今西となるが、上記容貌からするとどこか腑に落ちない。

次の情報は今西が写っていないことを裏付けるかもしれない。朝日新聞マドリード支局の伊藤昇はベルリンを訪問した1942年11月10日、
「満鉄草谷氏の招待で笠、茂木と食事。13日笠(信太郎)氏邸で今西嬢の鳥めしとほうれん草のお浸し」と書いている。冒頭の写真を撮った8月時点で、今西はすでにベルリンに行っていたかもしれない。



<今西汎子の戦後>


7人のうち、湯浅、古澤、片岡、諏訪、阿部はパリで学んだことを活かして戦後もその延長で活躍した。小松は筆者の別の小文で見たように戦後早い時期にアメリカ人と結婚し、現地で家庭に入った。

しかし今西の戦後の足取りははっきりしない。唯一見つけたものとして、ネット上に次のような記述がある。
「さて、そのK氏の自分史メモ『一路雲煙』によると、彼がまだ7歳くらいのとき(1953年)に、中国政府により強制離婚、日本へ帰国させられた実母、今西汎子さんとはほとんど連絡が取れなかったらしい。連絡が再開できたのは1979年のことだったという。

その時、今西汎子さんはニューカレドニアに移住していたのだった。息子からの手紙により帰国を決意した母との再会が叶ったのは、さらに4年後の1983年のことであった。自分史メモ『一路雲煙』は母との再会の場面で終わっている。母、汎子63歳、息子、K氏37歳のことであった。」
ノンフィクション小説「一路雲煙」より)

これによると今西は1945年、ベルリンからソ連を経由して引き揚げる途中の満州で、中国人通訳と知り合い結婚し、現地に留まる。中国人との間に子供をもうけるが、その後ひとりで日本に強制帰国させられたのが1953年であった。
雑誌『女性教養』1955年5月号に今西は「ドイツ人の家庭」という記事を書いているので、帰国直後の執筆という事になる。その後ニューカレドニアに移住したとの事、戦後は謎多き女性である。



<チェルビ菊枝(旧姓加藤>>


今西に代わって写っている可能性のあるのが、フランス好きが高じてパリに渡ったチェルビ菊枝である。彼女は奇しくも海軍武官事務所の食事会について書いている。

「春の海軍記念日には、ブローニューの森に近い海軍事務所で園遊会が開かれた。
私が三菱商事に勤めだしたころ、事務所の中庭で撮った記念写真を見ると、私は花飾りのある帽子をかぶり、スーツ姿で白いブラウスの襟をのぞかせている。こうした会で湯浅年子、諏訪根自子、古沢淑子らと知り合った。」
(『おてんばキクちゃん巴里に生きる』より)

彼女が三菱商事で働きだしたのは、戦前のようであるし、海軍記念日は5月27日なので、1942年夏の食事会とは別の会合を語っているはずだ。また1942年時点では留学生ではないので、この場には招待されていないはずであるが、この菊枝という可能性も完全には否定出来ない。

諏訪根自子の顔つきが若い時期の5年を経ている割には似ていることはすでに述べた。あるいはこのアーカイブの写真の日付が違っているのかもしれない、、、

主催した細谷海軍武官は1943年10月5日、フランスのブレスト港を出港した日本海軍の伊第八号潜水艦に乗り込み、帰国する。招待宴が帰国直前の1943年にも行われたかは不明てある。また写真が撮られたCoc Hardy(Le Coq Hardy?)という名前のホテル/レストランは、今日ネットで検索すると、いくつかヒットするが、パリ郊外St. Denisではないかと、ある方から教えていただいた。

それぞれが戦後歩んだ道を考え、興味の尽きない1枚の写真である。筆者の遊び心に付き合っていただいてありがとうございました。有力な情報がありましたら、是非お寄せください。
情報提供はこちら
(2017年6月2日)

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