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日本 作者のノート3 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西

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戦時下ドイツの日本食レストラン「あけぼの」の写真発見
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筆者は欧州戦時下の邦人の足取りを調べているが、彼らが集った日本食レストランに対しても大きな関心を持っている。ホームページで紹介している「ベルリン日本人会と欧州戦争」においても、日本食レストランとりわけ「あけぼの」の名前は何度となく登場している。多くの滞在者、出張者の回想の中に、「あけぼの」訪問についてページが割かれているからである。

「あけぼの」について文字の情報はかなり集まったわけだがその写真、メニューなどが見つからないものかと、常々思っていた。そしてついに見つかったのが下の写真である。

Hohenstaufen Str 44 (田辺平学著「ドイツ 防空・科学・国民生活」より) 

写真によると通りの角に面し、しっかり「あけぼの」「日本食レストラン」の看板を掲げている。ローマ字の「あけぼの」の下には小さくSugimotoと書いてあり、主人杉本久市の名前も出ている。また日の丸、旭日旗も見える。景観にうるさいお国柄ゆえ、外観からは日本食レストランとは分からない位にひっそりした造りかと思っていたが、意外な発見であった。撮影されたのは田辺がドイツに出張した1941年7月ごろである。

さてこの写真との出会いについて触れておく。
先週末(2014年3月15日)に横浜日独協会の理事である磯貝喜兵衛さんと会ってお話をした時、田辺平学著「ドイツ 防空・科学・国民生活」という本を差し出され「良かったらお貸ししますよ」と親切に申し出ていただいた。筆者はこの本は以前国会図書館で閲覧したことがあったので、一端お断りして話を続けたのだが、帰り際に申し訳ないという気持ちもあり、お借りした。

そして家に戻って読み返し、この写真を発見したわけである。本の中の写真は小さい。紙事情が悪化していた1942年に発行された本で、よく写真も載せたものである。十数年以上前に国会図書館で借りた時は、「あけぼの」に対する関心も低く、自分のアンテナを張っていなかったことで、写真に気づかなかったと思われる。

それにしても自分の対応がひとつ間違っていたら、今回もこの写真に出会うことはなく、また今後も出会わなかった可能性が高い。貸していただいた磯貝さんに対しては勿論であるが、何か運命的なものにも感謝したい。こういうことがあるのなら、レストラン内で撮られた邦人客の写真、そしてメニューにもいつか出会えるか?

「あけぼの」の主人杉本さんについては、ベルリン会加藤眞一郎さんにその印象を聞き、すでに紹介した。
(「日本人小学生が体験した戦前のドイツ」)。あけぼのは加藤家が家族で食事をする行きつけの場所であった。そして眞一郎さんの姉、綾子さんからは次のような話を聞いたので付け加えておく。

「(商社の支店長であった)父親が自宅にお客さんを招待したとき、日本料理でもてなす場合は、料理人としてあけぼのの杉本さんを呼んだ。そして自分ら子供には天丼などを用意してくれるので嬉しかった。

杉本さんはドイツ人の奥さんをいつも日本語で怒鳴ったが、奥さんはハイハイと言うことを聞いていた。ドイツ語を覚える気が全くない人であった。」

1939年7月30日、ドイツを訪問した小説家の野上弥生子は、満州国呂宜文公使に案内され、あけぼのを訪問する。そして
「女中が日本語を話す」と記している。この女中は杉本の奥さんであったと想像される。(この項、2015年7月18日追加)

日本人がドイツで営業を始めるのは、認可を得る際など困難が多かったようだ。ドイツ人の奥さんを名義人にして営業許可を取るというのは、筆者は戦後だいぶ経ってからも時々耳にした。

また1942年4月の日本人名簿によると、あけぼのの主人は平田文に代わっている。その後の杉本さんの足取りはつかめていない。当時ハンブルクに入港した日本船の船員で、ドイツ人女性と親しくなり、船に戻らなかった人が結構いたという。杉本さんもその一人かというのは筆者の推測である。

(2014年3月22日)


回、「レストラン内で撮られた邦人客の写真、そしてメニューにもいつか出会えるか?」と書いたら実際にレストラン内の写真が見つかった。下の写真である。「言語都市・ベルリン 1861−1945」という本を読んでいて見つかった。これまでは回想録など、原本を読んで見つけてきたのであるが、今回はこの本に教えられた。

原本は「外遊日記 世界の顔」で著者は鳩山由紀夫元首相の祖父鳩山一郎である。自分が最初の紹介者でないことは悔しくもある。先に述べた「言語都市・ベルリン」はドイツの日本食レストランについて詳しく調べており、頭が下がる。付け加えると筆者が見つけたあけぼのの外観の写真も、そこでは紹介されている。

鳩山一郎の本によれば、氏は1937年8月のドイツ訪問時に2回あけぼのを訪問している。
8月23日 古澤等と5人にて「あけぼの」にて夕食をとる。
8月28日 夕食は日本食が食べたくなって、(長女)百合子等と「あけぼの」に行き、豚の味噌煮を注文した。ホテルで食事するより安くてうまい。

下の写真を見ると、豚の味噌煮というよりはすき焼き鍋の様である。その点から8月23日と推測される。

右端が鳩山。(「外遊日記 世界の顔」より)

(2014年8月17日)


「探せば見つかるものだ」とでも言うべきか。”新幹線の生みの親”と呼ばれる島秀雄が、鉄道省在外研究員として世界を視察旅行中、ベルリンに寄った。そして1937年1月2日に同僚とあけぼのを訪れて、記念写真を店の前で撮った。場所は冒頭の写真と同じであるが、四人の日本人がアップでかつ鮮明に写っている。写真の脚注は以下の通りである。

1月2日は事務所(鉄道省のベルリン事務所)の御用はじめ。帰りに日本料理「あけぼの」でお雑煮を食べる。
清村、小沢、伊藤と島秀雄。 「島秀雄の世界旅行」より

「あけぼの」の正確な開店時期は不明であるが、目下確認できる一番古い時点は、1936年6月の野一色利衛の「独逸案内」に出ている広告である。

(2014年9月28日)


<東洋館とそのメニュー>

「あけぼの」のメニューを探し出すのが筆者の一つのテーマであるが、ベルリンのもう一つの日本食レストラン「東洋館」のメニューと値段を記録した人物がいた。日本文学者の斉藤清衛である。彼の著書「ヨーロッパ紀行東洋人の旅」から引用する。1936年、ベルリンで夏のオリンピックが開催される前の頃である。

「その日の夕食は、(自分の宿泊所の)隣の東洋館という日本料理店に行って食べた。東洋館に入った私は、最初に、日本からの新聞に目を通した。給仕の女が、私の注文の品を持ってくるまで、私は久しぶりに日本の活字に目をさらしたが、新聞の新しい所でも、すべて17,8日以前のものであるが、古いながらも日本の新聞を読み、テーブル式ながらも和食の善意ついていると、ベルリンに来た身をふと忘れさせるような刹那がないでもない。」
この頃はシベリア鉄道経由で日本の新聞も約3週間遅れで届いていた。

本の挿絵によると、東洋館には日の丸が掲げられていた。

ついで「注文表とその値段とを記して見ると」とメニューがすべて載っている。メニューの豊富さに驚いたことがその理由だ。一部を挙げると焼き鳥、親子丼、天丼、鳥鍋、鯛ちり鍋、寄せ鍋、鰻丼、おかめそば、ざるそば、天ぷらそば、すき焼きと、日本食を幅広く提供したのが、当時の日本食レストランのスタイルであった。

「私は、料理の種類の多いことと同時に、値段がかなり高いことに驚いていると、夕食をとるために同胞のものが二組、三組という風に入ってきた。
熱燗でなければ酒も飲んだ気になれぬ”と語りながら、日本酒(一本1マルク50と2マルク)を注文して飲み始めたのは、XX大学の理科の教授連である」と高い料理、酒を当たり前のごとくに注文する駐在者に少し、少し批判の目を向けている。

紹介されたメニューと価格

(2014年11月2日)



<東洋館ですき焼きを食べる川喜田四郎中佐>

ベルリン駐在の川喜田陸軍中佐は写真が趣味で、ベルリンに着くや高級なコンタックスカメラを購入し、かなりの写真を開戦前に日本に送った。それらが遺族の元に残っている。
下はベルリンですき焼きを食べることが大きなイベントであった事を示す、興味深い1枚だ。背後の暖房のパイプがいかにもドイツ的。1940年3月17日と写真の裏に書かれている。
(川喜田倫子さん提供 写真を紹介するブログはこちら

(2018年7月14日追加)



<都庵と朝永振一郎>

ライプツィヒに留学していた朝永振一郎はベルリンを訪問した際、もう一つの日本食店『都庵』で食事をしている。彼の日記には次のように書かれている。

「(1939年)2月11日
夜はミヤコで金子さんと一緒に会食。少し喉が痛い。
2月12日
ゆうべすき焼きを食べた。こんなにうまいものを日本にいれば食えると思って腹一杯食った。それから夜、良く寝られぬ。
午前11時に起きる。やはりどんよりした天気である。そして夕べあんなにすき焼きを食ったこと考えて、ドイツのベルリンでまで、すき焼きを食わねばおさまらぬとは情けない気がして、いつまでもドイツ人となじまぬ自分が悲しくなったのだ。」

すき焼きを食べ、自己嫌悪に陥った、後のノーベル物理学賞受賞者であった。
(2018年4月1日追加)


<あけぼのの開店時期>

ドイツ人研究者、マリー・ルイーゼ・ゲールケの書いた「二度の世界大戦」には、ドイツ人による日本人に対する人種的差別の一例として、あけぼのの名前が登場する。

「日本レストランあけぼのの経営者杉本は、酒類販売の拒否された。これは事実上レストランの閉鎖を意味し、杉本は1935年5月29日の書簡で独日協会に相談している。そこで独日協会は市行政裁判所への提訴に際し、酒類販売免許の付与はドイツにとってプラスになる”観光の奨励”に繋がると指摘した。これによって杉本が免許を得たかは不明である。」

著者はこの書簡をコブレンツの連邦公文書館で見つけたようだ。ドイツ側にも邦人に関わる史料はいろいろ残っているのだろう。
そして手紙の書かれた1935年5月以降に、あけぼのは開店したと考えられようか?また以降のあけぼのの営業ぶりからして、この著者が不明と書いた酒類販売の免許は取得出来たはずだ。

(2015年7月8日)。



<1935年のあけぼの>

1935年にあけぼのを訪問した邦人の記録が見つかった。外務省の外交史料館が所蔵している。
同年8月10日から18日までハンガリーのブダペストで第7回国際学生競技大会が開催された。日本からの参加メンバーはシベリア鉄道を使い、ベルリンに寄った。8月6日、翌年オリンピックが開催される競技場を訪問する。

「各競技場及び宿舎は着々工事を進めて居る共に其の設備の完全なるのには驚く。次回のオリンピを東京に於て、開催仕様とするならば、今から相当準備を必要と思ふ。
見学を終り、一九三六年のオリンピツク委員、カールデイム氏の招待にてフイレツルムの約五十米余の高処に於て中食を御馳走に成り、ホテルに帰る。」 そして夕食である。

「(午後)七時三十分より、日本料理店
アケボノに於て、久し振りのスキ焼きを食べ、非常に美味しく、一行相当頑張る。 食後、自動車にて、市内を見物し、十一時十分アンハルター駅発の汽車にて、愈々吾々の目的地ブダペストに向ふ。」

(「欧州遠征記 日本学生陸上競技連合」より)

(2015年7月25日)



<あけぼのの常連客、桑木務>

留学生桑木務は自著「大戦下の欧州留学生活」の中で、あけぼのを訪問した様子を4か箇所で書いている。新書版のコンパクトな本である。

1940年2月28日
「ベルリンに住む日本の学生や研究者は、開戦後ドイツ優勢のうちは少しずつ増えて10数名に達したので、岡正雄教授を会長にして、日本学生会が結成された。そしてお互いにドイツで得た知識を披露しようではないか、ということになり40年2月28日に、経済の原良夫君が「ドイツの食糧問題」について話をした。

”あけぼの”という日本料理店の一室を借りて開催したのだが、たまたま居合わせた陸軍の岡主計少佐が補足して下さったので一層分かり易かった。」

このあけぼのの”一室”とは、さきの鳩山一郎のところで紹介した写真の部屋ではなかろうか?そしてこの発表会は3月に安達剛正の”飛行機の話”、4月26日は桑木の”形而上学について”などとしばらく続いた。留学生に文化的空間を提供したあけぼのであった。また料理の値段が、留学生でも頻繁に通えるレベルであった事も分かる。

続いては1941年4月16日である。
「かねてから私の卒業した中学修猷館出身者で会合をやろうと言っていたが、戦時下ヨーロッパ事情視察のためベルリン滞在中の笠信太郎氏(のちの朝日新聞主幹)を囲んで。医博の八田秋、古森善五郎両氏と私の4人に、父兄代表の遠城寺宗徳医博(のち九大学長)を加えて、4月16日の晩”あけぼの”で歓を尽くした。」

1943年1月16日
「16日の土曜には、大学の33番教室で日本映画の会があり、”「将軍と参謀と兵”というもの。翌日曜に”あけぼの”で夕食ののち雑談をしていたら警報が鳴り、牛場信彦書記官(のち対外経済相)とともに大使館へ急ぎ地下室に潜む」

1943年5月22日
「”あけぼの”で、最新の科学技術資料の収集と調査に(日本から)来られた文部省の犬丸秀雄氏と、丸善の”書物の生き字引”中村春太郎氏に会い、最近の日本の物資欠乏など短波(放送)で聴けない詳しい状況を聞いた。」

(2015年8月14日)



<反枢軸邦人 笠信太郎>

先の桑木の回想であけぼのを訪問している朝日新聞の笠信太郎であるが、やはり留学生である篠原正瑛も自著「ドイツにヒトラーがいた時」の中にも、笠は登場する。

「1943年の夏のことである。ベルリンの”あけぼの”という日本食堂で、私は偶然に笠信太郎氏と出会った。その時笠氏は、今の言葉でいえば進歩的文化人として、軍部、特に陸軍に睨まれていたが、緒方竹虎氏のはからいで、ベルリンに(いわば)”亡命中”であった。

笠氏は、中途半端な時間なのであまり客のいない”あけぼの”のテーブルの一隅に腰かけて、洋酒らしいものをちびりちびりと飲んでいた。

私は、たまたま居合わせた友人の紹介で笠氏と同じテーブルに座って、簡単な話をした。その内容は今では覚えていないが、私は笠氏に向かって
”枢軸側は勝つでしょうか?”
とぶしつけな質問をしたところ、ただ一言
”負けるね”
という冷ややかな答えが返ってきたことだけは、今でもはっきりと覚えている」

反枢軸思想の笠信太郎と言われているが、ドイツにおいてそれをはっきり表したのは、筆者の知る限りこの発言だけである。かつて発言のみを紹介したところ、幾人かの方から出典を聞かれた位である。あけぼのでお酒も入って少し気が緩んで、”負けるね”とつい本音の発言が出たのであろうか?

また1943年夏のこの証言は、筆者が見つけた範囲では、あけぼのの最後の記録である。同年11月の大空襲で被害受け、閉鎖となったのであろうか?

(2015年8月15日)

続編「あけぼのの経営者、杉本久市の足跡を追う」もお読みください。

稲田悦子と日本食はこちら

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