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長延寺と初代オランダ領事館の痕跡
Choenji-Temple, the first Netherlands Consulate in Japan. 
大堀 聰

<序>

横浜駅から東神奈川駅に渡る地区は、日本で最初に外国領事館が置かれた場所であった。当時は他に適当な建造物が無かったのか、それらはいずれもお寺であった。今旧神奈川宿として整備された散策路に沿って歩いていくと、本覚寺にはアメリカ領事館、浄瀧寺にイギリス領事館、慶雲寺にフランス領事館があったと記されている。





そしてオランダ領事館のあった場所は、少し離れ今は神奈川東通公園だ。かつては長延寺というお寺があった。歴史的に興味深い一帯だが、今ひとつ高揚した気持ちにならないのは、どこもかつてそこに領事館が置かれていたと標柱に書いてあるのみで、当時の実際の痕跡が遺ってないからだ。

そんな中、筆者が第二次世界大戦中、横浜に滞在した外国人を調べていた時だ。読売新聞の神奈川版におよそ次のような記事を見つけた。

1939年10月19日
外国公館最初の開設地
神奈川区真宗本願寺派長延寺は安政6年(1859年)、最初の外国公館としてオランダ領事ボルスブルーク(原文ママ)氏がオランダ領事館を開設した由緒ある場所。
(正しくはポルスブルック(Dirk de Graeff van Polsbroek))

これを伝えるために同寺境内に青木(周三)市長の日本語、駐在オランダ領事エム・エス・ウィルスム氏(Menno Simon Wiersum)のオランダ文の記念碑を建て、18日午前11時除幕式を挙行した。

そこにはウィルスム領事による序幕の様子の写真も掲載されている。この1939年、太平洋戦争前夜に建てられた記念碑は今も残っているのでは、と探したのが調査の発端である。写真と文で綴っていく。



<歴史>

オランダ領事館が神奈川宿に置かれた事情は次のようだ。1859年7月1日の横浜開港に合わせ、各国の公使や領事が横浜にやってくる。幕府は横浜に領事館の建物を用意していたが、外国は条約の条文通りに神奈川を要求し、外国奉行と会談の上、神奈川の寺から選ぶことが認められた。7月2日、アメリカのドール領事は早速、高台にある本覚寺を選ぶ。


オランダのポルスブルック副領事は神奈川(の港)ではなく横浜(の港)が開港に適していると開港には賛成したが、自分は横浜領事ではなく、神奈川領事に任命されたのだからと、やはり神奈川の寺を要求した。

そして7月10日にオランダ国旗を掲げた。「この寺は申し分ない」とボルスブルックが記すのは、後にヘボン博士ら宣教師の宿舎となる成仏寺のようで、日本側の記録では10月に長延寺に移った。

副領事は「神奈川の端にあって畑や丘に囲まれている」と書いている。たしかにフランスやイギリスの公使館からはやや離れ東京寄りだ。先に紹介した1939年の式典は、ちょうど開いてから80年後の10月を記念して開催されたようだ。

しかし領事館が東海道沿いにあると、外国人を襲う攘夷事件が後を絶たない。よって幕府はたびたび領事たちに横浜移転を要請。1861年夏頃、弁天社続きの埋め立て地に立派なオランダ領事館が完成。ボルスブルックは同じタイミングで領事に昇進する。つまり長延寺に領事館が置かれたのは、2年にも満たない短い期間だったが、その跡地を今も記録するのは意味のあることだ。
(『神奈川宿の外国人たち』開港のひろば 74号より)



<記念碑発見>

初代オランダ領事館の置かれた長延寺は、天正8年(1580年)に建立された浄土真宗のお寺である。1945年5月29日の横浜大空襲で山門、経蔵を除き全て消失し、それから20年後の1965年、国道拡幅による区画整理に伴って横浜市緑区に移転する。そして元の場所は今神奈川通東公園になっている。

ウィルスム領事が除幕式を行った80周年の記念碑は、新聞の写真によればかなり大きく、寺と共に移転したと考え、筆者は移転先の長延寺に連絡を取ってみた。しかしながら対応してくれた坊守さんによれば、そのような碑は無いとのことであった。

そこで筆者はやや悲観的ではあったが、オランダ公使館跡の標柱のある神奈川通東公園に出向いた。すると標柱からやや離れて富士山型の岩が置かれている。これではせっかく訪れても、この岩について注意を払わずに帰ってしまう人も多いであろう。


標柱と木の奥の富士山型の岩

標注は公園側を向いているが、岩には公園側は何も書かれていない。しかし道路側に回ってよく見ると、裏には文字が彫られている。特に左には横浜市(長) 青木周三とある。


赤字の右側に横浜市 青木周三と読める。

そしてその左側の面には銘板が埋め込まれていたと思われる窪みがある。この岩こそが1939年に除幕式が行われた石碑であることを確信した。


銘板の埋め込まれていた跡。

この石碑の説明は現地の観光用パネルにはなく、ネット上でも「オランダ領事館跡を記念した石碑」という書き方があるだけだ。手前味噌ながら、新発見と言っても良いと思う。



<長延寺>

この標柱と石碑の関係は不自然だ。向いている方向が逆なのである。すでに書いたように標柱は公園側から読めるが、碑の文字は、道路側から覗くようにみないと駄目だ。大きな石は設置時期から移動したとは思えない。しかしネット上には標柱も道路側に面した写真がある。どうやら標柱はかなり最近、公園側に向きを変えたようだ。公園を訪問した人が見るには自然な配置だ。

一方石碑は道路側からも読むにはふさわしい位置にはない。昔の地図によれば寺には参道があるので、もっと第一京浜寄りから参道が始まり、ちょうど本堂の手前当たりに碑は建てられたのであろう。


『海見山 長延寺』より。手前左右に延びる道が東海道で中央が本堂。1823年

実は先日長延寺に連絡を取った際、領事館があったことを伝える唯一の品物として、何と領事館の机に敷かれていた織布がお寺にあるとのことだったので、それを見せていただきに長延寺を訪問させていただいた。

縦長で高さ50センチ、幅150センチほどの織布は、当時の日本ではありえない立派な布地だ。額に入れられ、きれいに保存されている。領事館を去るとき領事が置いていったもので、その後寺では大切な過去帳と共に金庫に入れて保管したので、空襲の被害をも免れたのであろうと、坊守さんが説明してくれた。



領事が使用した織布

またいただいた本『海見山 長延寺』にはオランダ領事の銘版の写真が写っている。筆者が神奈川通東公園を訪問した際にはぎ取られた跡のある場所には、この銘版がはまっていたのだ。ただし現在この銘版の所在は不明で、坊守さんは公園の石碑に付いたままと考えておられた。不届きな人間が持ち去ったのであろうか?


『海見山 長延寺』より。左下に1939年7月と読める。横浜開港の1859年7月から80年を記念したのであろう。

<山門>

また移転前にあった山門は、現在長延寺にはないが、遠くないところにある旧城寺(舊城寺)に移築され、今も使われているはずとのことだった。

早速訪問するとそちらには確かに古い山門があった。説明文を読むと、これは明治20年、 (1887年)によって建てられたとなっている。つまりボルスブルック副領事が横浜に去った約20年後に建てられたのだ。オランダ領事館にはこの山門より古い歴史があった。しかし1939年にウィルスム領事が除幕式に参加した時は、ここをくぐっている。





山門が長延寺に由来するものであることを記す石碑。

こうして横浜開港直後の歴史のエピソードをひとつ掘り起こし、歴史に加えることができたと思う。最後にいろいろ便宜を図っていただいた長延寺に感謝します。
(2019年4月22日)

<その後>

1861年頃弁天社続きの埋め立て地に移ったオランダ領事館だが、「横浜市史稿」によると当時の住所は北仲通6丁目77番地、完成しばかりのたザ・タワー横浜北仲のあたりだ。その間に他の場所に設置されたかは不明だが、今の東京、芝公園そばのオランダ大使館のある場所に移転したのは1883年のことだ。

横浜には領事館が戦後まで残り、本編に登場するウィルスム領事が勤務した中区山下町25のインペリアルビルは今も残っている。

また山手にある「山手資料館」には小型だが、同じ織布が展示されていることを知った。1977年の開館の際、当時の長延寺の住職が寄贈したようだ。リスクの分散も考えたのであろうか?
(2020年5月18日追加)
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