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戦時下のバンドホテル
BUND HOTEL in wartime
大堀 聰
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<序>

バンドホテル(BUND HOTEL)は、1929年から1999年まで横浜市中区新山下で営業していたクラシックホテルである。現在その場所ではメガドンキーが営業をしている。1982年にホテルはライブハウス「シェルガーデン」をオープン。桑田佳祐、安全地帯、ゴダイゴらの現在も活躍するスターも出演したそうだが、彼らの演奏に接する機会がなかったことを悔やむ。
本編ではそのバンドホテルの70年の歴史の中から、宿泊した外国人を中心に、戦時下のホテルの姿を紹介する。



<バンドホテル>

1934年に鉄道省が発行した『観光地と洋式ホテル』というガイドブックには、横浜からはホテル・ニューグランドとバンドホテルの2つが紹介されている。

バンドホテル
支配人 高岡 政
室数44
一人室浴室付き 7〜8円

ニューグランド
常務取締役 土井慶吉
支配人  原田長造
室数98
一人室浴室付き 8〜13円
夏季には屋上に食堂を開設する 

ここからニューグランドの方が設備も充実し、客室料も高かったことがわかる。それゆえ、戦時下でもVIPではない外国人の宿泊に、バンドホテルが利用されたようだ。

1940年、斉藤竹松がホテルを買い取り、実際は妻神与子(通称カヨ)が運営する。カヨは父親が英語の教師をしていたこともあってか、英語が出来、外国人の知り合いも多かった。

そしてこの頃、アメリカから日本を経由してヨーロッパに渡る外国人の旅行手続きを斡旋したり、宿泊中の敵対する外国人同士を握手させたりする、ユニークな経営方針が称賛を浴びたという。ドイツがイギリス、フランスと交戦中で、アメリカはまだ参戦していないタイミングだ。



<蘭印引き揚げ婦女子 1>


戦前オランダ領であったインドネシアに暮らしていたドイツ人は、1940年5月、ヨーロッパでドイツがオランダに攻め込むと一斉に抑留される。

その内婦女子のみが、日本経由でドイツに戻ることを認められ、浅間丸で約600人の婦女子が神戸に着く。彼女らは日本の各地に散らばるが、横浜にもやって来た。彼女らの動向については、当時の新聞がかなり詳しく報じている。

「バタヴィア駐在独領事コップマン氏他42名のドイツ人は1941年7月15日夜7時12分横浜駅着列車で横浜駅に到着する。ひとまずホテル・ニューグランドに落ち着いたが、避難民の半数は同ホテルに止宿し、他は山手方面の独人宅に身を寄せこの夏を過ごした後、身の振り方を決めることになっている。」と先ずはニューグランドに入り、間もなく夏期休暇として軽井沢などに向かう。

1941年9月17日、彼女らはまた横浜に戻って来て
「みんな健康色 静養地から帰ったドイツ人婦女子。賑やかに横浜で分宿が始まった。」の見出しが登場する。続いて
「ホテル・ニューグランドに2名、山手にあったブラッフホテルに5名分宿した他は、新山下町のバンドホテルに宿泊することになる。」と多くがバンドホテルに投宿する。この時バンドホテルでは、すでに予約してあったお客にも断りを入れたという。

9月24日には
「藤原義江氏、佐藤美子さんの独唱会を始め次々に慰安の計画がある。」と報じられる。日本側もサポートしている。藤原義江は当時日本を代表するオペラ歌手で、藤原歌劇団を創設した。同年11月に歌劇団は歌舞伎座で「カルメン」を上演するが、カルメン役は美子であった。そんな繋がりからふたりの独唱会が実現したのであろう。12月2日正午から、ホテル・ニューグランドで慰問会が開かれた。

そして独唱会はバンドホテルでも行われた。カヨは税関で働く日本人を父に、フランス人ルイズを母に持つ佐藤美子と親交があった。しかしドイツは1年程前に母の母国フランスを武力で制圧した。そのドイツ人を前に、美子はどのような気持ちで歌ったのであろうか?ちなみに藤原義江、父はスコットランド人であった。

神奈川県外事課の資料によると、1941年9月30日現在、バンドホテルには男性7名、女性38名の非居住ドイツ人がいた。内訳は蘭印引き揚げが男性8名、女性33名、米州引き揚げが男性1名、女性5名であった。蘭印の男性8名は婦人に連れられた子供であると思われる。



<蘭印引き揚げ婦女子 2>


1942年2月15日、日本軍はシンガポールを陥落させる。17日の読売新聞神奈川版は「日枢軸国の喜び」の見出しに続き
 
「ハマの外人街山下町一帯は軒ごとの日章旗に交じってナチス、青天白日、インド、フランスなどの国旗がへんぽんとひるがえり、枢軸一色の喜びに浸る。

とりわけニューグランド、バンド、ブラフ等ホテル住まいの蘭印引き揚げドイツ人婦女子らは、シンガポール陥落と、夫や父の監禁されているスマトラ島へ落下傘部隊上陸と喜びが二つも重なり、この日に備えて日本語を覚えたように”バンザイ””オメデトウ”を連呼して大はしゃぎだった。」と伝えた。

一時滞在のつもりの日本であったが、ドイツとソ連の間でも戦争が始まり、祖国への帰国は不可能になる。新たな住居を求め、蘭印から引き揚げてきたドイツ夫人と子供はバンドホテルを去る。そして日本各地で終戦までひっそりと暮らす。(『日本の蘭印引き揚げドイツ人婦女子』はこちら。)



<交換船浅間丸の乗船客>


次のホテル住人は1941年12月8日、日本が米英に宣戦布告をした時点に日本に滞在し、敵国に抑留の身となった外交官と民間人であった。

彼らは大使館他で抑留されていたが、同様に米英で拘束された日本人と交換するために船の相互派遣が決まった。まず北米、南米に戻れることになった外交官とその家族136名がホテル・ニューグランドに集合する。

一方東京、神奈川、兵庫県以外の日本各地に抑留、自宅軟禁などの形で残留していた民間人152名は、バンドホテルで浅間丸への乗船の日を待つことになる。一部屋に4人位ずつ入った計算だ。基本は、家族単位で一部屋の利用であったのであろう。

バンドホテルの宿泊者は、日本社会では恵まれた生活を送ってきた外国人たちであったが、ホテルでは常に監視され、食事でも特別のサービスはなく、自分で皿を持って並んで料理を入れてもらった。

6月17日、彼らは黙々と浅間丸に横浜港から乗船する。知人、友人による見送りは禁止されており、ひそかに分かれを告げに来た人も黙って見送るだけであった。他の地域から送られてきた外国人も含め横浜乗船者は総勢416名であった。

またイギリスおよび他の欧州の外国人の交換船は、7月30日横浜出帆予定の龍田丸であった。宮城、長野、愛知、広島、長崎、徳島各県在住の民間人送還者がそれに先立つ7月28日、バンドホテルに護送された。



<オーストラリア人看護婦>


1942年7月4日、4か月余りの抑留生活の末に、17名のラバウル島で捕らえられた看護婦は、現地で日本軍の捕虜となった。

その後彼女らはオーストラリア軍将校約60名と共に、鳴門丸で日本に送られ7月14日、横浜港に到着した。彼女たちは、戦争中日本本土に収容されたオーストラリア人捕虜の最初の女性であった。

彼女らはバンドホテルに抑留される。ドイツ人婦女子に続き、バンドホテルはまた、女性用に利用された。またアリューシャン列島のアッツ島で捕虜となった、アメリカ人女性宣教師エッタ・ジョーンズもバンドホテルに合流する。

同じ頃、バンドホテルは8月に出航する予定の先述の日英交換船に乗船する一般外国人の待機場所となり、オーストラリア人女性捕虜と共に暮らす。

バンドホテルでは、清潔な部屋と食事が彼女らを喜ばせたが、それもはじめのうちだけで、食事はだんだん量が少なくなっていった。彼女たちは、ホテルの食料品置き場からこっそり食品をくすねるようになった。カヨは気付いていたであろうか?

2階建てのホテルの屋上からは港が見えたが、彼女たちが希望をつないでいた白い十字の印をつけた交換船は、ある日忽然と姿を消していたという。この船は7月30日に横浜を出帆した日英交換船の龍田丸であろうか?

バンドホテルで3週間ほど過ごした後、8月5日にオーストラリア人たちは横浜ヨットクラブへと移された。その後も終戦まで場所を移し、過酷な抑留が続くことになる。

熊本第五高等学校英語教師だったアメリカ人、ロバート・クラウダ―は第2次交換船待機組としてバンドホテルにおいて軟禁状態で過ごしていたが、9月初め、警察官に引率されて山下公園を散歩した際に、停泊する舩の交換船を示す白十字の印が、灰色に塗りつぶされるのを目撃したという。クラウダ―の次の行き先は神奈川第一抑留所であった。



<ドイツ海軍兵士>


1942年11月30日の13時40分、横浜新港埠頭内でドイツ海軍の高速タンカー「ウッカーマルク」 (Uckermark) は爆発を起こし、近辺に停泊していたドイツ海軍の仮装巡洋艦「トール」(Thor)、およびトールに拿捕されたオーストラリア船籍の客船「ナンキン」(拿捕後「ロイテン」と改名)、中村汽船所有の海軍徴用船「第三雲海丸」の合計4隻がさらに続けて爆発し、横浜港内の設備も甚大な被害を受けた。

この事故によりドイツ海軍の将兵からは61人名の死者が出た。一方生存者にとっては乗るべき船を失った。もうドイツからは連合国の封鎖線を突破して、日本まで船舶はほとんどやってこなかった。

そしてその頃バンドホテルは、ドイツ海軍将兵の宿舎となる。外事警察のリストによると、1943年9月現在でその数43名である。部屋数は44なので一人に一部屋が与えられたことになる。彼らは爆発した船の生存者だ。全員の氏名と共に海軍での地位も書かれているが司厨(料理担当)、洗濯係、水夫などで将校はいない。将校はニューグランドホテル、ヘルムハウスに住んだのであろう。

ドイツ側はホテルをまるで自分らの兵舎のように考え、軍規を破る水兵を入れる営倉にしたのであろうか、木の格子の付いた部屋まで作られた。またホテルが掲げる日の丸の上にハーケンクロイツの旗を掲げようとした。それはカヨが掛け合い、思いとどまらせた。

だがドイツ兵たちのおかげで、食料に困ることはなかった。肉やチーズ、バターの缶詰などは、リヤカー一杯に積んできて1000円ほどで買うことが出来たという。先の拿捕されたオーストラリア船籍の「ナンキン」号は、インドのボンベイのイギリス軍に届けるはずであった肉やコンビーフ、パイナップルの缶詰、食糧を満載していた。

1943年10月30日、海軍省副官から外務大臣官房儀典課長に横浜のヘルムハウス並びにバンドホテル内の暖房が効くように取り計らいを依頼した。燃料不足で、特別な配慮のないところには暖房用に回ってはこなかった。ドイツ人商人ヘルムによって建てられた高級アパートヘルムハウスは、ドイツ海軍によって借り上げられていた。



<慰問活動と横浜退去>


町内会や大日本婦人会横浜支部はこうした横浜のドイツ人に対し、様々な慰問活動を行った。本町国民学校3年の山中磯市は幼い時から剣舞を習っていて、慰問団のメンバーであった。
その日はバンドホテル最上階のショーラウンジでの舞台であった。事前に観客の水兵たちは、爆発した軍艦や輸送船の乗組員ではなく、爆発で出航が延期になって同ホテルに滞在している潜水艦の乗組員であると教えられた。

最上階のショーラウンジとは戦後、ダンスホールとして賑わった場所だ。終戦直後にクリフサイドというダンスホールも出来たが、こちらはフロアに柱があり老舗のバンドホテルの方が好まれた。

山中は相手役の子供と刀を抜き、大河原神風神刀流の空を切り、円を描いた。将兵たちは幼い”武士”の舞に大きな拍手を送って、優雅さを讃えた。

その後、彼らの乗り組む潜水艦は横浜ドックで修理した後に出航したが、武運つたなくインド洋で沈没した、と山中は実家が経営する食堂に下宿していた海軍士官から聞いたという。
(『ドイツ港ドイツ軍艦燃ゆ』石川美邦)

その後新山下も外国人居留禁止地域に指定される。同盟国のドイツ人も例外扱いされることなく、彼らは1944年2月29日、全員セントラルホテルに移る。ホテル・ニューグランドの裏にあったホテルで1938年の初夏、スイス人料理人のサリー・ワイルが買い取る。

バンドホテルから近い距離だが、こちらは外国人居留禁止地域でなかったのであろう。しかしそれも間もなくして箱根に疎開し、そこで終戦を迎える。


 
<終戦>

ドイツ軍兵士の去った後、ホテルに外国人の住民はいなかった。一帯が外国人居留禁止地区に指定され、外国人がいなかったからだ。

1945年5月29日、横浜、とりわけ中区は激しい空襲を受けるが、バンドホテル、ホテル・ニューグランドなどは被害を免れた。ここから日本郵船本社にかけ、アメリカ軍は戦後の利用を考え、攻撃対象としなかったのであろうか?そのくらい高度な攻撃が可能だったのかは分からない。

終戦直後、横浜にやってくる連合国軍兵士、マッカーサー元帥に始まり一般将校ら用に、宿泊所を用意する必要が日本側にあった。その際バンドホテルは士官級兵士100名用として準備された。実際は連合国のジャーナリストの宿舎となったようだ。
(『マッカーサーの横浜の宿舎を探し歩く』参照。こちら

また茨城に疎開していたカヨは、そこで体を壊し18歳だった長男の斎藤昇が米軍に追い出されるまでの40日間ホテルを任されていた。
東京ローズと呼ばれた女性の一人アイバ・戸栗・ダキノの記者会見が行われたのも、ここバンドホテルであったという。
今から20年前の1999年5月25日にホテルは閉鎖となり、取り壊された。

参考図書:
『ランドマークが語る神奈川の100年』 読売新聞社横浜支局、
『敵国人抑留』小宮まゆみ
『外事月報』
当時の朝日新聞、読売新聞
(2019年4月19日)



<余話>

バンドホテルのあった新山下1丁目には昨年11月「MEGAドン・キホーテ港山下総本店」が開店した。まさに写真の様な位置にバンドホテルはあったと思われる。


この地はバンドホテルの前は旧居留地117番で「イギリス海軍物置所」があり、その時の護岸が店の敷地の一角に残っている。そして開店と同時に「横浜都市発展記念館」の説明パネルが設置された。


下が当時の護岸の遺構のようだが、見た感じはそれほど古くない。
余談だが、この遺構はなかなか分かりにくい位置にある。数人の店員さんに聞いたが、どなたもご存知なかった。(でも皆さん、とても丁寧に探してくれました。)
願わくば「バンドホテルありき」という記念碑も建ててもらいたいものだ。

(2019年6月26日)



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