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作曲家、指揮者安益泰の活躍した戦時下の欧州 


<序>

筆者は江原綱一と作曲家リヒャルト・シュトラウスの戦時下の親密な交流について、幾度か書いてきたが、江原をシュトラウスに引き合わせたのは安益泰(Ahn Ekitai)というの作曲家兼指揮者であった。
平壌(現ピョンヤン)出身の安益泰に関し、ウィキペディアはおよそ以下の様に書いている。

「1921年に渡日し正則中学校(現・正則高等学校)に入学、その後東京高等音楽学院でチェロを専攻した。1930年渡米し、フィラデルフィアのカーチス音楽学校に入学。
1936年渡欧してウィーンへ留学。1939年、ブダペスト音楽学校に入学し、卒業後指揮者として各国を回り、ウィーン交響楽団、ベルリン交響楽団、ローマ交響楽団、ブダペスト交響楽団で指揮した。第2次世界大戦後、スペインへ移住して現地の女性と結婚、スペイン国籍を取得。」

安は日本人ではないが、日本の教育を受けた音楽家として、戦時下の欧州を体験した。この時代に欧州で活躍したアジアの音楽家としては、近衛秀麿が知られている。本編では安に関連する史料から、近衛に勝るとも劣らぬ活躍をした安の活動を紹介する。



<江原と安益泰>

安との出会いについて、江原は次のように書く。
「1942年の秋、私は公務員旅行でルーマニアのブカレストにいた。明治節(11月3日)の朝、日本公使館の儀式に参列したが、そこで君が代斉唱の際、ピアノを弾いた白ネクタイの青年がいた。痩体長身、見るからに好感の持てる人柄である。

式後T(筒井潔)公使から、これが当時欧州遊学の指揮、作曲家、安益泰君であると紹介された。

安君は当日午後、演奏会を指揮することになっているからと言って、私をそれに招待してくれた。幸い休日のことで他に予定もなし。会場は私の宿から目と鼻の先であったので、私は喜んでその招待を受けることにした。曲目は自作の越楽天とベートーヴェンの第六交響曲であった。」

江原は1942年の秋と回想するが、それが1941年の秋であった事は後に述べる。そしてここでは江原の文章を続ける。

「安君は当時、リヒャルト・シュトラウスの指導を受けていたが、この普通には近づき難い老大家に取り入る、いい意味での手腕は我々を驚かした。イヤイヤそれは手腕ではなくて、彼の天性と天分だと言った方が良い。

この頃、彼は中国のメロディーをとり、私の作詞を曲尾、合唱に入れて演奏1時間を要する祝典曲を作った。ウィーンでこれを発表した時など、シュトラウスは自ら会場に出席してその出来栄えを喜んだ。」(「安益泰君の片貌 」 江原綱一)

江原は安を高く評価していた。そしてウィーンでのシュトラウスが出席した安の演奏会についても、後述する。



<ハンガリー時代>

冒頭に述べたように安は1939年にブダペスト音楽学校に入学している。安のハンガリー時代について、当時唯一の日本人留学生であった徳永康元が交流を記している。

「1940年2月11日
堀田(磯行)君が安氏を連れて来てくれたので嬉しかった。安氏はなかなか強引な所のある人だが、一本木な勉強家らしい。

1940年2月20日
夕方、タクシーでエトヴェシ・コレギウムへ行く。若い学生が一通り案内してくれ、安氏と会い、話を聞く。
夜、安君とセントゲレールトの辺り一回りして、食堂へ行ったが、やはり学生が皆案外不愛想で勉強に一生懸命なのに、これは勉強せねばならんと思った。

同4月2日
図書室にいたら、安君と堀田君(寄ってきて)、一緒に堀田君のうちまで歩く。夕方、安君と芸術論しながら帰る。(安君は)面白い所がある。」

ブダペストに到着直後の徳永は、早速安と知り合った。またやや強引だが、面白い人物という印象を持った。そして

「10月4日
朝、安君が寄り、バルカンにいたという。またすぐソフィアとブカレストでやるそうだ。」

ブルガリアの首都ソフィア、ルーマニアのブカレストと、1940年の後半には東欧ですでにコンサートを開いていたことが分かる。



<ベルリン>

1941年に入ると安の活動は欧州全体に広がる。海軍造兵大佐頼惇吾は1940年12月ドイツ出張を命じられる。その様子は自著「その前夜」に詳しい。頼は出張中のベルリンで安の公演を聴いている。

「1941年7月11日 
夕方武官のお誘いで、我々は揃ってコンサートを聴きに行った。(中略)
行ってみると庭には実に見事な花が植え込んであり、また日本風の庭も拵えてあって、日本式の家が建ち、その室内には茶道の道具や着物が陳列してあった。

コンサートは安という人が指揮するもので、朝鮮王宮の音楽など、変わったメロディーもあってなかなか面白かった。
一度は田中路子という日本の婦人が、美しい着物を着て、マダム・バタフライを歌った。」

ベルリンでは日独友好の音楽会のようなものが催され、日本人ではない安も駆り出されようだ。

安はその後ハンガリーに戻る。次は再度徳永の日記からである。その年の6月22日には独ソ間の戦争が始まったが、ブダペストの音楽界はそれまで同様に、コンサートなどが催されていたという。

「1941年10月8日

昼、笹本君と乗って町へ出て、ぼくはヴィガドー(歌劇場)で安君のプローべ(総合練習)を聞く。(作曲家)ヴェレシのをやっていたが、(ブダペスト)市のオーケストラはやはりよくない。ヴェレシとバログの女房来ていた。(中略)
10日は多分ウィーンへ行くつもりなので、これが(安との)別れだ。」

10月10日に安はブダペストでコンサートを開いた。演奏はブダペスト市立オーケストラで、曲目にはハンガリー出身の作曲家ヴェレシの交響曲第一番もあった。

ただし徳永はそれを聴かず、9日ウィーンに出掛けてウィーンフィルのコンサートを聴いた。「これが別れだ」とは2年間のハンガリー留学期間の終わりが迫っていたからである。そして10月9日

「彼(安)は日本へ帰らないことをはっきり公使館に言うと言っていたが、また神経を立てているから、事を起こさねばいいがと思う。」
安は自分の欧州での研鑽を、、戦争で中断する気はなかった。そして日本公使館とはあまりよい関係でなかったようだ。

「だが安君とは、これでいつ会えるか分からないのだ。僕がハンガリーに来たころから夏まで、彼の旅行していないときは、よく一緒に散歩もして、いろいろ教わったし、今度は僕が世話して、とにかく音楽会までこぎつけた。結局僕らはいい友達になった。」

難しい所もある安であったが、徳永は良い友達関係をも築いた。また今回の演奏会には、徳永の尽力があったことをうかがわせる。


<ユーチューブで見られる安>

You Tubeには安の映像が二つアップされている。その内の一つが1941年ブダペストで撮られたものである。インターネットの助けでマジャール語を訳すと出典は
「1941年11月のハンガリー世界ニュース」である。映像を編集するのには日にちを要する事を考えると、徳永の書く10月10日の演奏である可能性が高い。
(リンクはこちら

ハンガリーの撮影隊によって撮られた映像であろうが、中々鮮明である。背後には大きな日の丸とハンガリーの国旗が垂れ下がっている。演奏されているのは、アジアの鐘のような楽器もあることから、安自身が作曲した幻想曲「越天楽」であろうか?

そして映像の30秒を過ぎたあたり、2階席に座る日本人グループが映る。年配の男女と若い女性である。また奥の方に座るのも日本人である。貴重なブダペストの邦人映像である。

この若い女性は芳仲和太郎ハンガリー陸軍武官大佐夫妻との娘光子ではないかと想像される。当時ブダペストで、家族で駐在していたのは、おそらく芳仲大佐のみであったからだ。



<ルーマニア公演>

一か月後の11月にはルーマニアの首都ブカレストで公演を行う。筒井潔公使がその様子を本国外務省に伝え、更に国際文化振興会理事長に伝えられた。そしてその電文が残っている。

1941年11月15日
受信人名 国際文化振興会理事長
件名 安益泰ルーマニアにおいて演奏会開催の件

本件に関し今般、在ルーマニア筒井公使より、安益泰(朝鮮平壌出身)はブカレスト交響楽団の招請に依り、同地を来訪。
本月2日その指揮下に演奏会ありたる所、極めて盛会にて大好評なりと連絡あり」
筒井公使が本国に連絡するほどの盛況なイベントであった。

冒頭、江原が安との最初の出会いの場として
「式後T(筒井潔)公使からこれが当時欧州遊学の指揮、作曲家、安益泰君であると紹介された。」と紹介したが、それは1942年ではなく、1941年であったことがここから分かる。

また別の所で江原は
「とにかく私の家に来たら、、、」という事になって、独ソ戦の始まった年(1941年)からベルリンで、安と一緒に住むことになったと書いている。戦争でそれまでアメリカの老銀行家から得ていた資金援助が、閉ざされてしまったからである。
ブカレスト公使館での出会いの後とすれば、安が住居をブダペストからベルリンに移したのは、同年12月頃という事になる。



<1942年>

前年末に日本は米英に参戦するが、安は日欧間の往来が閉ざされる前に、日本に帰る気がなかったことは、見てきたとおりだ。自身も開戦で手段が見つからずに、帰国が遅れていた徳永は、ベルリンで安と会う。

「1942年4月20日
朝日(新聞支局)に寄って守山氏とちょっと話し、東洋館に行って(満州中銀)若林氏と安君に会って食べる。安君はパリへ行くとか言う。」
この後間もなくして徳永はソ連の通過ビザを得て、日本に帰国するので、最後の証言である。

少し逆戻りするが、日伊交換留学生でローマに留学していた角田文衛は、戦争で閉ざされた日欧間であるが、何とか帰ろうと努力をして、依然開いていたブルガリアのソ連公使館に向かった。

「1942年2月末、ブルガリアの首都ソフィアからローマに戻る途中、ウィーンに寄る。
私が宿泊したのは、ウィーン第二のグランド・ホテルであったが、丁度その時、ウィーンの交響楽団を指揮し(に)ベルリンからやって来た安益泰氏と、泊まり合わせたのである。私たちは、旧知の間柄であるので、夜の更けるのも知らず話し合ったことであった。」
1月28日付けのウィーンの新聞には、安益泰指揮のコンサートは2月8日に音楽協会ホールで行われると案内が出ている。

3月15日付けのウィーンの新聞(Neue Wiener Tagblat)にコンサートについての記事が出ている。「極東の同盟国は最高の指揮者をウィーンに送ってきた」と絶賛しているが、政治的意味合いもあろう。

新聞によると、コンサートはウィーン総督シーラッハーの組織する「冬季救済活動」の一環であった。これはナチスの活動の中でよく知られた弱者救済の活動でった。ウィーン交響楽団もこうしてナチスに協力する形でしたか、活動の場はなかった。安も同様である。また独日協会ウィーン支部が主催している。諏訪根自子同様、安のコンサートも独日協会が主体となった。

「日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」の最終楽章が演奏され、会場には作曲者のリヒャルト・シュトラウスがいた。安がシュトラウスの指導を受けていた事は、すでに述べたとおりだ。

5月9日のラジオ放送(Deutshclandsender)で17時30分から18時30分、「午後の楽しい音楽」第二部は、「独日音楽会」で安益泰の指揮の演奏が行われた。ウィーンにも同時中継されている。新聞には書かれていないが、ベルリンでの演奏なのので、ベルリンフィルハーモニーであろうか?
このようにベルリンに移り住んでから、安の活躍が増えた。



<満州国ファンタジー>

1940年は、日本は紀元2600年で江原と懇意であったリヒャルト・シュトラウスが、本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲を作曲した。
そして1942年は満州国が日本の後ろ盾で建国されて10周年であった。それを記念する楽曲を作曲したのは安であった。

江原によると安は中国のメロディーをとり、江原の作詞した歌を曲尾の合唱にいれて、およそ1時間の曲にしたという。ドイツ人の修正は入ったのであろうが、それでも江原のドイツ語の知識の高さをうかがわせる。

作曲を依頼したのは満州国公使館参事で、安にベルリンでの宿泊所を提供した江原であったことは間違いない。その頼みに対して安は断る立場にもなかったであろう。なおリヒャルト・シュトラウスが安を推薦したとアメリカの音楽研究家は述べている。

おそらくその初演は1942年9月18日である。江原によるとベルリンフィルのマネージャーから彼のところに、
「新人紹介の意味で、安君に指揮してもらいたいのですが、都合はどうでしょう?」と問い合わせがあった。そのマネージャーは少し前
「従来は金さえ出せば、フィルハーモニーでの指揮も出来たが、現在ではそれが利かなくなった。」と言っていたので、江原には少々意外であった。

ベルリンフィルを指揮した日本人として近衛ほか幾人かの名前が挙がるが、安もアジア人としてそこに連ねるべきである。そして戦時下の欧州に滞在した、アジアの二人の作曲家兼指揮者の安と近衛であるが、当時接点はなかったようだ。

付け加えると2016年1月18日付け朝日新聞の文芸欄に「山田耕作」についての記事があるが、「ベルリンフィルを指揮する山田耕作」という説明文が写真に添えられている。今も昔も「ベルリンフィルを指揮する」というのが、音楽家として特別な意味合いがあるようだ。

そしておそらくこの時の演奏もまたYou Tubeで見る事が出来る。
(リンクはこちら

コーラスが入った大がかりな曲であるが、楽譜は残っていないそうだ。
また映像にはおそらく観客席の江原自身も写っている。客席でアップで写るのは大島大使夫人と江原であると思われる(15秒後あたり)。この映像はドイツの週刊ニュース"Die Wochenchau"で紹介されたのが元の様だが、筆者はまだそれを探し出せていない。



<1943年>

同年2月11日、今度はウィーンで満州国ファンタジーが上演される。演奏はウィーン・フィルハーモニーである。筆者の調べた範囲では、1942年に続いて2度目の共演という事になる。こちらも前回同様、独日協会ウィーン支部が主催で、ナチスの「冬季救済活動」の一環という名目であった。コンサートの前後、いくつかの新聞記事が出ている。

2月14日のウィーンの新聞は、このコンサートは日本の紀元2603年と、満州国との友好を記念してと書いている。2月11日は日本は紀元節(建国記念日)であった。ベルリンの日本大使館から河原o一郎参事官と、満州国公使館の江原綱一参事官が参列している。

外交官補の高橋保は1942年12月20日に日本を発ち、赴任のフランスへ向かう。戦時下のソ連から中立国トルコを経由する困難な経路であるが、途中の2月11日、ウィーンに到着した。そしてその夜、安のコンサートを聴くと日記に書いている。

付け加えるともう一人の滞独指揮者である近衛秀麿は、こうしたコンサートに出る事を断って、大島大使らに嫌われたのかもしれない。

この会場にはすでに紹介したように、リヒャルト・シュトラウスもいて、その出来を喜んだとのことだ。ドイツ人シュトラウスがベルリンではなく、ウィーンで2度も顔を出したのは、ナチスに対する悪感情のためであろうか?

そして同年9月19日、18時から19時 「大ドイツ放送局」のベルリンフィル・コンサートが、安の指揮で、全ドイツ(占領地を含む)
に中継されている。

これ以降、邦人の記録には安は出て来ない。ドイツ軍の劣勢と共に、コンサートも少なくなったのであろう。唯一江原の記述によれば、
「1944年、パリのパレー・シャイローで3日間ベートーヴェン祭を試みた。第1日はティボーとヴァイオリン協奏曲を、第2日はコルトーのピアノで皇帝交協奏曲を、そして第3日には第九交響曲を指揮して大成功を収めた。」という。

ティボーはヴァイオリニストの諏訪根自子がパリでチャイコフスキーの協奏曲を弾いた際、聴衆の中にいたジャック・ティボーに固く抱きしめられたという逸話がある。

そして
「彼(安)はその後パリからバルセロナに回って、ベルリン陥落の日までにはついに私(江原)の家には帰ってこなかった。」
パリのコンサートは、パリが連合軍によって開放される1944年8月以前という事になる。パリからスペインに移住し、現地の女性と結婚、スペイン国籍を取得している。



<戦後>

戦後も安と日本との関係は続いたようだ。
ウィキペディアによれば1960年と1964年に来日して演奏している。1960年3月28日の朝日新聞は「30年ぶりに訪日」と伝えている。そして安はウィーン、ベルリンの交響楽団に加え、ローマ・サンタチェリア管弦楽団も指揮したと紹介した。ローマの管弦楽団も戦時中の事なのか、それとも戦後なのかは、これからの筆者の調査事項である。

そして1964年には八木治 と共著の形で「大作曲家・人と作品 R.シュトラウス」という本を書いている。また1966年5、6月号の音楽雑誌「音楽の友」に「リヒャルト・シュトラウス」という評論家ロマン・ロランの書の訳者として、安の名前が出ている。

どちらもシュトラウスについて書いたもので、本人の欧州体験談、シュトラウスとの個人的エピソードが載っていないのは、筆者にはとても残念である。

そしてその間の1965年に、滞在中のマジョルカ島で急死する。59歳であった。

(2016年4月2日)


追記

<梅田良忠>

「ポーランドに殉じた禅僧 梅田良忠」という梅原季哉による書のあとがきに
「韓国の国家をつくった作曲家安益泰とも梅田良忠は交友があったとされるが、不明な点も多く、この本の流れの中では、割愛せざるをえなかった」とあるのを見つけた。この本の著者と情報交換をしたいものである。
(2016年6月11日)


 
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