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<満州国参事官江原綱一と"ストラディヴァリウス"?
 
<序>

筆者は“書評「諏訪根自子 : 美貌のヴァイオリニストその劇的生涯 : 1920-2012」と、
おそらく未発表の資料からの考察”という長いタイトルの文章の中で、ベルリンの満州国公使館の参事官であった江原綱一のエピソードを紹介した。(こちら参照ください

話の主旨は江原は戦時中、南ドイツで、古い時代の名工の作のヴァイオリン(遺族の方の話ではストラディヴァリウス)を購入し、戦後日本の彼のもとに届けられたという事と、ストラヴディヴァリウスを諏訪根自子に贈呈するようにゲッペルス宣伝相に進言したのは自分であったという主張である。

これらは大崎正二の「遥かなる人間風景」より引用したが、他の裏付け資料は無い。一方ある音楽評論家のからは
「(江原の)もう一挺のストラディヴァリウス? 少なくとも名器の存在の可能性も面白い情報です。
当時すでに、オールド・イタリアンの名器の戸籍と所在はほぼすべてあきらかで、いわゆる“屋根裏部屋のストラディヴァリウス”の可能性はなかったはず。」
という連絡を頂いた。“屋根裏部屋のストラディヴァリウス”とは面白い表現と一人感心したが、つまり江原のものは本物ではないであろうという事だが、ヴァイオリンの門外漢である筆者が書いた文章に丁寧にコメントいただき、感謝に堪えない。

しかしこのようなことを喋ったとされる江原綱一とは、どのような人物であったのであろう?と筆者の好奇心がうずき、調査を行った。



<大崎正二の回想録>

まず先の大崎の本には、筆者は紹介しなかったが、江原のヴァイオリンの真贋について、その後の顛末が書かれている。

江原はまもなくして自宅を手に入れるために、そのヴァイオリンを手放す決意をした。芸大の教授で、NHKお抱えのドイツ人が興味を示して、鑑定書の信ぴょう性を、実際に自分が楽器を演奏することによって確かめようとした。普通のヴァイオリンではホールの奥で音が消えて聞き取れないのに、江原さんの楽器は明瞭に音が届いた。それでもNHKは(本物と認める事を)渋ったので、購入の話は不調に終わったようであった。

また年が明けて、(1947年年初?)東京新聞社会部のベテラン記者藤田君が興味を持った。しかしその話は新聞の読みものにならなかった。鑑定書の内容を確かめる手立てがなかったからであった。そしてその後大崎は、江原と会う機会はなかった。東京新聞社のベテランの藤田記者の存在は、筆者がネットで調べた限りでは確認できない。

つまり真相は闇のままという訳だが、やはりかなり眉唾な感じのする真贋論争である。



<生い立ち>

パスポートに記された情報によれば在独満州国公使館参事官江原綱一は、1896年11月15日生まれで、本籍は岡山県である。戦後、「メーリケ詩抄」を翻訳し1966年に出版されている。そこの自身による序言から、生い立ちをうかがい知ることが出来る。

江原は岡山県の第六高等学校に通う。その時地元の音楽会で、ヨーロッパから帰って間もない山田耕作の歌を聞く。その中にドイツのロマン主義詩人メーリケの歌もあった。山田は
「今ドイツでは、メーリケ人気はゲーテを凌ぐものがあり、音楽会で最も歌われるのはその詩である」と話した。

これが動機となって、江原はメーリケに興味を持つようになった。しかし1923年に東大法学部を卒業すると、中国税関に勤め、自然メーリケからも遠ざかった。
その後大陸には満州国が誕生し、1937年7月1日付けでハルピン特別市の次長に就いている。後にドイツで彼の上司となる呂宣文はこの時通化省の省長である。



<ドイツへ>

ナチスドイツが満州国を承認したのは1938年2月20日である。ヒトラーが国会で演説した。国家設立から3年半を経過していた。ドイツは伝統的に協力関係にあり軍事顧問なども送っていた中国から、日本へと友好国を切り替えた。

これに基づき、両国間で外交使節を交換することになる。1938年10月2日、神戸を出港する靖国丸に、江原らの満州国関係者が乗り込んだ。

間もなくベルリンに公使館、ハンブルク市においては欧州における最初で唯一の総領事館が開設された。ベルリン公使館にナンバー2である参事官としてやって来たのが、江原であった。

満州国邦人の資料は少ないが、ハンブルク総領事館に勤務した杉本勇蔵の遺族が保有する写真に江原が写っている。小柄な人物である。また杉本の結婚披露宴に寄せた出席者の書にも江原の達筆が残されている。

ケーニッヒスベルク(東プロシャ)市における満州国見本市を開催記念撮影 バックのボードには「満州国 豊穣の国」と書かれている。準備委員長 杉本勇蔵 写真左から二人目杉本、三井物産ハンブルク支店吉田支店長  中央右向きが江原参事官


杉本勇蔵の結婚に際して。江原の書 右に「杉本老兄華燭之喜」と読める。(2枚とも杉本さん提供)

1939年9月、欧州に戦争が始まり、日本人婦女子は急きょ帰国する。その際乗船した靖国丸の乗船名簿には、妻清子と4人の子供の名前がに出ている。淳、亮、恵、襄という韻を踏んだような名前であるが、子供たちは生きていれば80代後半であろうか。



<エドゥアルト・メーリケ>

あまり日本では馴染みのない詩人の名前であるが、江原は“空襲のお蔭”でメーリケと再会する。それというのはベルリンでは空襲警報があると、皆地下室に避難しないといけない。しかし空襲も当初は呑気なものであったという。1時間も地下室にぼんやりしているのは退屈で仕方がない。そこで江原は、地下室に下りるたびに、メーリケ詩抄を携えて行き、一篇ずつ翻訳をした。

これで詩人への興味が再現し、その後は手当たり次第にメーリケに関する文献を集める。シュトゥットガルトのメーリケのかつての住家と墓地を訪れ、日本に25年も滞在したグンデルト、ハンブルク大学学長から種々の助言も受けた。本格的な研究家の域に入ったと言えよう。

なおこのグンデルト学長と江原の間で交わされた手紙は、現在ハンブルク大学のHerbert Worm博士の手で保管され、筆者は第三者を介してコピーをいただいた。
(2016年9月17日 追加)



音楽ファン 1>

戦後、江原は音楽雑誌に、戦時下の欧州での音楽体験の記事を書いている。筆者が見つけたものは
1 随筆 安益泰君の片貌 /(レコード芸術)
2 リヒアルト・シュトラウス翁の想い出(レコード音楽)
3 楽聖モーツアルトを訪ねて--ヨーロッパで聴いたモーツアルトの音楽-1-(レコード音楽)
の3本である。

これらの文章から江原の戦時下の音楽とのかかわりを書いてみる。ますかれはドイツの後期ロマン派を代表する作曲家のひとり、リヒャルト・シュトラウスと親しい交友関係を結んでいた。江原はこの時70代後半であったシュトラウスを“翁”と親しげに書いている。そして次のようなエピソードが紹介されている。

ある時シュトラウス翁はナチス嫌いの夫人同伴で、ベルリンにやって来て、宣伝大臣ゲッペルスの茶会に江原と共に参加していた。ゲッペルスとイタリア大使がユダヤ人問題について議論を始めたので、江原はそのグループに入っていると、翁は知らぬ間に会場を引き上げてしまった。

ここでは江原自身が、ゲッペルスとの交友を語っている。また音楽に対する造詣の深さもうかがわせる。彼が「ある時、何かのパーティーで、ゲッペルス宣伝相の姿を見ると、そばに近づいて挨拶を交わすなり、根自子にストラディヴァリウスを贈呈したら切り出した。」という大崎の記述内容も、立ち話、パーティートークとしてはあったかと推測される。

また1943年6月に自作上演のためにベルリンに来た際、シュトラウス翁は従者を連れ、10日あまりもグルーネワルトの江原の私邸に逗留したという。老作曲家の信頼を得ていた証左であろう。また参事官として、かなり広い家に江原は住んでいたのであろう。

そうしたことからシュトラウスは江原に「紀元2600年の祝典楽」とオペラ「カプリチオ」のスケッチブックを
「こんなものですが、記念にもらって下さるでしょうか?」と訊ね、江原は
「願っても無い事です」と答えた。

さらに江原はドイツ滞在中、シュトラウスの公演を聴くため、ウィーン、ミュンヘン、ザルツブルクに出向き、また毎年のようにザルツブルクと、バイロイトの音楽祭に出席したという。あまり外交の実体のない満州国の参事官ゆえ、このように各地に出張の名目で出かけ、音楽を聴くことが出来たのであろう。

大崎は江原のストラスヴァリウスに関し「南ドイツで鑑定書付きのストラディバリウスを入手」と書くが、たしかに頻繁に南ドイツに出掛けたようだ。もちろんこれらは江原自身の記述によるものであるが、その際のどこかで、くだんのヴァイオリンを購入したことが考えられる。



<音楽ファン 2>

もう少し江原の音楽の自慢話が続く。1941年はモーツアルト没後150年の年であった。その年の11月末から12月にかけて、ザルツブルクで記念祭が開催された。

最後の晩の晩さん会はウィーンのガウライター、(大管区指導者)であるシーラッハ夫妻の主催で、700名が招待された。さながらマリア・テレジアの盛時を再現した様であったと江原は回想する。そこでは江原は中央食卓のシーラッハ夫人の隣に籍を与えられたが、同じテーブルには指揮者フルトベングラーがいた。
この記念祭には大島浩駐独大使も妻を連れて出席したが、日本の参戦近しで、早めにベルリンに戻っている。

また19944年6月、例年のごとくバイロイト音楽祭に主催者ワーグナー夫人の招待を受けた江原は、離宮での晩餐会に出席し、その後で広間に通された。そこには4人の幻樂団がいてメンバーは全員、欧州にの高名な奏者であった。そしてそれを聴いたのは江原と随行のW君、あとは主人側の10人足らずであったという。

こうした特別な待遇を受けたのは、満州国の参事官故か、それとも本人の音楽に対する情熱故か?おそらく両者であろう。江原は欧州に駐在した日本人の中で、最高レベルの音楽に最も多く接したと言えよう。それにしてもこうした記事の中に、交流があったとされる諏訪根自子の話が出てこないのは何故であろう?



<若い外交官の江原感>

1943年2月11日、ウィーンで安益泰作曲の「満州国ファンタジー」が上演される。演奏はウィーン・フィルハーモニーである。ウィーンの新聞は、このコンサートは日本の紀元2603年と、満州国との友好を記念してと書いている。2月11日は日本は紀元節(建国記念日)であった。それがためにベルリンの日本大使館から河原o一郎参事官と、満州国公使館の江原が参列した。

日本からフランスに向かう途中の外交官補の高橋保は、偶然江原と会った際の印象を日記に書き残している。
「江原氏には実に美しい兄貴分の親しみを感じた。(中略)若い詩的情緒を駆り立てて、美しい友情を感じさせてくれる」
江原は外交官というより、芸術肌の人間であったことが分かる。

(2016年12月11日追加)




<引き揚げ>

ドイツの崩壊に伴い、日本人はドイツを去ることになる。満州国関係者の一行はベルリン東方35キロのグレデハインに疎開し、ソ連軍による保護を待った。そして彼らの手で満州に送られるが、一行のリーダーは江原であった。外務省外交史料館に彼らの引き揚げの記録が残されている。

昭和20年7月12日
在満 山田大使  東郷大臣 発
在独江原満洲国参事官及一行引揚旅費に関する件

在蘇大使館より曩に蘇連経由引揚たる在独満洲国江原参事官一行11名、ドイツ国内よりモスクワ迄の引揚費用(旅費、食事、荷物運搬料等)ソ連側より請求ありたるにより、、、(以下省略)」

ソ連の手によって邦人は日本に送られたが、その費用は日本側に請求され、最後は個人負担という事であった。

江原は満州国官吏であったから、そのまま日本には戻らず満州に留まり、そこで終戦を迎えたはずである。しかし終戦の翌年のクリスマスには日本にいるので、ソ連軍の手による抑留の前に日本に避難できたのか、もしくは1年くらいの抑留ですんでいる。



<戦後>

ドイツ公使であった呂宜文は満州人故、戦後まもなく、中国で処刑される。一方日本人であった江原に対してのお咎めはなかったようだ。

そして戦後は弁護士として活躍する。法学部卒業としていわば本業であろう。第二東京弁護士会清遊会の戦後の中心メンバーの一人となっている。「清友会の歴史と私」 (弁護士 鹿野琢見)には江原の名前が随所に登場する。例えば以下のようだ。

―広井先生を擁立した人達や外地から引き揚げてきた山田璋、江原綱一先生らが中心となり、戦後初代の法務省人権擁護局長となった大室亮一先生を(第二弁護士会)会長に推す動きが台頭した。

―当然二弁会長たるべき人物としてこの山田璋、江原綱一郎両先生の高い学識は大変すぐれて居り、、、

さらに江原の活躍分野は広がる。日本キリスト教会が戦後間もなく、讃美歌を改定するに際し、歌詞邦訳者として名前が挙がっている。また旧約聖書に現れた法律思想と言うタイトルで文章を雑誌「自由と正義」に書いている。敬虔なキリスト教徒であったのかもしれない。

そして最後は学生時代に魅せられた、メーリケ詩抄の出版である。もともと1954年に出版される予定であったが、計画が土壇場で崩れ、1966年10月に出版となる。



<終わりに>

このように、江原は外交官、弁護士、メーリケの専門家、翻訳家、讃美歌の翻訳者と様々な顔を持つことが分かった。

筆者の調査でも最初の本人が所持したヴァイオリンの疑問に対しての答えにはならないが、戦中戦後にかけてマルチタレントを発揮した一人の人間像が浮かび上がる。今のような週休2日ではない時代に、どのように時間をねん出したのであろうか?

先に引用した鹿野の回想によれば
「山田先生のあとの会長候補としては、江原綱一先生が衆目の見るところであったが、不幸にして昭和44年12月14日死亡」とあるので、1969年に73歳で亡くなる。

終わり

(2015年6月15日)


<風流人 江原>

ここまでの文章を公開した直後、「近代戦と日本刀」本阿弥光遜(ほんあみこうそん)の中の「欧州探刀記」 大槻孝治(山下汽船ベルリン駐在員)に江原が登場していると、早速木村洋さんに教えていただいた。この本はとても興味深いのであるが、ここでは江原についてのみ書く。

まず先に述べたヨシュトラウス翁が10日も泊まったという、江原の住まいについて詳しい記述がある。
「江原さんは風流人だ。グルーネワルトの湖水に面するヴィラを一軒借りておられるが、庭に亭々たゆる数本の赤松を通して、静かに暮れゆく水面に釣りする小舟、湖水の向こうはまた赤松林。

サロンには西太后の”壽”という途方もない太字一字の扁額がかかり、棚には印籠、陶器、漆器、仏像、数本の刀、支那、日本の絵本が、洋書やら、シネの映写機等と同居していて、しかも破たんを見せていない。我々はここを風流の家と呼んでいる。(中略)
自ら蒔絵もやれば、廃品になった能面を買って来て、、、。」江原は古道具屋を回って東洋美術を集めていた。

ついで江原の審美眼の高さについて語られる。
「駄物を買わぬところに審美眼の高さを実証し、これは慶応大学から美術史専攻のため、当地渡学中の守屋(謙二)教授も感心している。」

そして当時ドイツには多くの日本刀が出回っていたが、そのほとんどは3流以下のまがい物であった。しかし満州国公使館に売込みがあり、江原が自費で購入した刀は、専門家である大槻が3日間借りて、眺め暮らして,一点の非の見つからない、鎌倉時代の名工、吉房の作で「掘り出し物中の掘り出し物」と大槻は書く。

大槻は江原をベタ褒めしている。ここから江原はストラディヴァリウスと称されるヴァイオリンに関しても、決して変な物に手を出すはずがないと想像される。

(2015年6月28日)



<風流人 江原 2>

江原について、五月雨式であるが、いろいろと史料が見つかる。今度は小説家野上弥生子の記述からである。
1938年10月4日、靖国丸で欧州に向かう船上で江原と逢う。江原は満州国参事官としてベルリンに赴任する途上であった。

その後イギリス、フランスなどを回って、翌年7月28日、野上夫妻はベルリンに着く。宿泊は日本人が良く利用するホテル・エリクソンであった。そして翌7月29日には
「満州国の江原氏の迎えの車を得て、昨日引っ越したばかりという(満州国の)事務所に向かう。」と再会している。江原はその間すでににベルリンでの生活を確立していた。
7月30日、
「3時半、江原夫妻の迎えを受け、学生競技大会を見物に行く。元の(ベルリン)オリンピックの運動場。
ポツダムに車を駆けり、ヴァンゼーの江原氏の夏の家訪問。ヴァンゼーの水に添った森や、土地は、ベルリンの市内にない”詩”を感じさせる。殊に花や緑樹に充ちた前庭を持ち、後ろ庭に添って湖を控えた一体の別荘地は美しい。江原氏の借りている夏に家はその一つで、その別荘地の草分けという。」
この別荘は先に紹介したグルーネワルトの別荘と同じものである。

次いで8月1日
「ワイマール行き。江原氏のビューイック(アメリカの車―筆者)
で出掛ける。江原夫妻、谷口(吉郎)氏。それに私達」と連日面倒を見る。

さらに8月2日
「江原氏からの電話で、植物園通りのお家へ伺う。例によって谷口氏同伴、すき焼きをご馳走になる。江原氏が掘り出した”トビデ”の能面(口を大きく開け、目を飛び出すように見開いた、神体を現す面―筆者)を見て、彼の撮った活動(8ミリ映像であろうー筆者)を見る。」

江原は別荘の他に、市内に家を持っていたことが分かる。また能面、活動映画は前に紹介した大槻の文章にも登場する。江原は誰もが認める風流人であった。

このワイマール旅行に関しては、もう一人の同行者谷口吉郎も自著「せせらぎ日記」に書いている。

私たちは昼食をとるために街の小さいレストランに入った。店の得意な料理だという豚かつを注文すると、おいしい。そのあと、江原夫人が持参された「のり巻き」を食べながら、故国の味を懐かしんでいると、料理人が挨拶に出て来たので、試食をすすめる。それを口に入れ、舌で味を吟味すると、目を丸くして「素敵だ」と答える。
(「せせらぎ日記」は2016年9月7日追加)

さらに野上夫妻がパリに移動した後の8月13日
「朝からお父さん(夫のこと―筆者)は江原夫妻をルーブルに案内する。」とあり、翌日は江原の招待で、オペラを訪問している。行きの船でたまたま一緒になっただけで、ここまで面倒を見るとは思えない。野上家と江原家は日本でも繋がりがあったのであろう。

また弥生子の夫豊一郎は能面の研究家であった。そしてベルリンの民族博物館にある能面を見た後、
「それ(博物館の能面)に比べると、江原君がベルリンのある骨董屋の店先で見つけて買って帰った”トビデ”は見事な作であった。私が江原君の家へ行った時、そのトビデは古新聞に包まれていたまま持ち出されたが、私はその虐待を避難してもっとよく保存するように忠告した。」と弥生子が書いたトビデの素晴らしさを書いている。
(『能面論考』 1944年 より)

野上夫妻の文章を見ても、江原の物を見る目の確かさが確認できた。これだけ多くの情報がありながら、例のストラディヴァリウスに関する記述が依然出てこないのが残念である。

(2015年7月20日)

<江原綱一とリヒャルト・シュトラウスのスケッチブック>

<序>

満州国参事官江原綱一は、戦時下のベルリンで、作曲家兼指揮者リヒャルト・シュトラウスと親交を結んでいた事はすでに書いた。
当時80歳近いシュトラウスは1943年6月、自作上演のためにベルリンに来た際、従者を連れ10日あまりもグルーネワルトの江原の私邸に逗留したという。老作曲家の信頼を得ていた証左であろう。また参事官として、江原はかなり立派な家に住んでいた事が想像される。

そうしたことからシュトラウスは江原に「紀元2600年の祝典楽」とオペラ「カプリチオ」のスケッチブックを
「こんなものですが、記念にもらって下さるでしょうか?」と控えめに訊ねた。江原は「願っても無い事です」と答えた。

するとシュトラウスはその場で贈呈の詞を書き入れて、江原に渡したのであった。「江原氏に捧げる」と言うように書き込まれたのであろう。前者は1940年、日本が紀元2600年を迎えるのを記念して作られた管弦楽曲である。シュトラウスの作品の中でおそらく最も演奏されない作品との事であるが、ナチスの時代と重なることがその一因であろう。
後者カプリッチョは1942年10月28日、バイエルン国立歌劇場で初演された。



<スケッチブック>

江原に贈呈した「スケッチブック」であるが、シュトラウスにとってスケッチブックとはどのような物なのであろうか?本人の言葉によれば、

「散歩している間、ドライブ中、飲食しているとき、家にいても外出中でも、私はどこにいても作曲している。騒々しいホテル、私の庭、列車の中、いつもスケッチ帖を身につけていて、思いついた 動機を直ちにそれに書き留める」としている。(「リヒャルト・ストラウスの実像」より)

またシュトラウスと親交があった台本作家、シュテファン・ツヴァイクは自著の中で、シュトラウスの職人的な仕事の仕方として
「毎朝9時に机の前に座り、前日終わったところから、規則的に鉛筆で最初のスケッチを書き、それをインクでピアノ譜にしていく」と書いている。(“Die Welt von Gestern“より)
この“最初の鉛筆書きのスケッチ”も、前述のスケッチブックを指していよう。

つめりシュトラウスのスケッチブックは作品の元となるもので、歌劇では舞台イメージも書かれていたと思われる。



<スケッチブック探し>

音楽研究家にとっても貴重な資料のようだ
アメリカのある音楽歴史家から筆者にコンタクトがあった。彼はまさにリヒャルト・シュトラウスの研究をしており、1986年シュトラウスの息子の未亡人アリーチェをドイツに訪問した際、江原に渡したスケッチブックのコピーを見たというのだ。
「誰か江原の関係者が、彼女に送ったのであろう、オリジナルは今も江原の関係者にあるはずだ」というのが、彼の推測であった。

筆者は彼の声にも押され、スケッチブックの原本を探そうとした。そして江原の親族の方を二人探し出し、聞いてみたが
「終戦でソ連、満州を経由して引き揚げてくる際は、身一つで、ドイツ時代のものは何も持ち帰って来なかったと聞いています」との事であった。残念であるが、これ以上は聞き出せない。

目下関係者の元にない事は間違いないのであろうが、ドイツから全く何も持ち帰らなかったというのは事実であろうか?前述のように音楽歴史家が、そのコピーを見たという証言がある。

江原はドイツ時代にいろいろ集めたことは「風流人 江原」に書いた。彼は
ドイツの詩人エドゥアルト・フリードリヒ・メーリケのファンでもあり、その文献を集めている。詩集の初版、第二版などである。
ドイツ滞在中はメーリケの姪をミュンヘンに探し出し、メーリケの自著、詩稿その他の記念品を手に入れる事が出来た。そして
「(それらの)多くを戦災で失って誠に残念なことをしたが、中で詩人の愛用した眼鏡だけは(持ち帰り)、今も大切に保存してある」(口絵参照)」と書いている。メーリケの眼鏡を厳しいソ連の検閲、没収を恐れつつも、日本に持ち帰った事は確かである。(『メーリケ詩抄』江原綱一訳 序言より)

また江原には次のようなエピソードもある。
彼は南ドイツで鑑定書付きのヴァイオリン(ストラディヴァリウス?)を入手したが、ベルリンに危機が迫ると、中立国スエーデンの王室博物館にその保管を頼んだ。そして戦後江原スエーデンから無事に日本の江原の元に戻ったという。つまりベルリン陥落で、日本に送還される前に、貴重品を一端スエーデンに預け、戦後無事に受け取る手段も取っているのである。そこにスケッチブックも含まれなかったか?

付け加えるとこのヴァイオリンを江原は手離したという。先に挙げた親族の方によると、それはストラディヴァリウスで、売った相手は留学する直前の、当時売出し中の、若い女性ヴァイオリニストであった。しかし彼女は間もなく亡くなり、その後の名器の消息は不明との事である。

スケッチブックは一度は、日本に届いたのではなかろうか?そしてその後、誰かほかの人の手に渡ったのではないか。おそらく日本人であろう。いつか、ひょっこり競売にでも出品されるのであろうか?

(2016年3月27日)


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