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映像に残る欧州邦人 


欧州における邦人の足跡を追いかける中で、関係者の方から写真いわゆる”静止画“をお借りして紹介してきた。一方映像、今流行の言葉でいう”動画“に関していえば、レニ・リーフェンシュタール監督のベルリンオリンピックのドキュメンタリー映画の中に、日本人少女を見つけ、名前を特定し、70年余りを経てご本人にお話を聞いたことがある。
ベルリンオリンピックの証人」参照

戦前の駐在員と映像に関する話題では、すでに紹介した加藤眞一郎さんは、現地の様子を8ミリカメラで写し、それを持ち帰った。つまり動画があったのであるが、後にスイス駐在時代に女中さんに間違えて捨てられてしまったという。
付け足すとヤマハ発動機の駐在員であった佐貫亦男は出たばかりのカラーフィルムでベルリンの風景を静止画であるが写し、それを持ち帰った。彼の著書「追憶のドイツ」の裏表紙には「ベルリンの下宿近くのシュタットパルクでくつろぐ著者。1942年6月に写す」と言うコメントと共に、著者自身が移る珍しいカラー写真が紹介されている。

しかしその後、戦時下の欧州邦人の動く姿を見ることが出来るようになったのは、ユーチューブのお蔭である。特にドイツのプロパガンダ映像である週刊ニュース映画 ”Wochenschau”が数多くアップされていて、その中に大島浩駐独大使の姿を何度か目にすることが出来る。ナチスの宣伝映像であったという問題点もある、またその時間は非常に短いが、在欧邦人の写る貴重な映像として紹介していく。またその場に居合わせた邦人の回想なども付記していく。

ユーチューブの最新リンクを貼りましたが、リンク切れの際は同サイトの検索窓に映像タイトルを打ち込んで探してみて下さい。



大島大使再任>


1939年9月にドイツ大使を更迭された大島であったが再任され、シベリア鉄道でモスクワを経由して1941年2月17日、ベルリンアンハルター駅に到着する。その車両の窓下には豪華列車で知られる「ミトローパ、寝台車」の文字が見える。

駅頭には前任の来栖三郎大使が正装で迎えに出て、大島とお辞儀を交わす。ドイツ側はリッベントロップ外相の代理としてヴァイツゼェッカー外務次官が出迎える。旧知のドイツ人も多いのか大島は終始笑顔である。大使夫人豊子も華やかで、花束を渡され嬉しそうである。

ベルリン アンハルター駅頭にて。 左より大島大使、おそらく加瀬俊一参事官(のちのスイス公使)、豊子夫人

映像タイトル: Die Deutsche Wochenschau 26. Februar 1941 (2016年7月13日確認)
6分過ぎより

以下は同盟通信社ベルリン支局長、江尻進の記録からである。
「大島大使は夫人も同伴、更に新任駐独陸軍武官、坂西一良中将、商務参事官長井亜歴山(アレクサンダー)氏など、13名の邦人がにぎやかに到着した。一行は新大使館に直行、我々も同行し、早速歓迎の寿司のご馳走になった。
とにかくドイツ側の大島大使への歓迎ぶりは大したもので、日独関係が好転する事は確実だろうとかんじさせられた。」
(「ベルリン特電」より)



<大島大使 信任状奉呈>


着任早々の2月28日、大島大使はベルリンから特別列車で南ドイツ、ベルヒテスガーデンに向かう。そこからヒトラーの山荘に、リムジンで雪かきされた道を登っていく。通常の四輪ではなく、前二輪、後ろ四輪、計六輪の雪道対策の特別車であることが分かる。
山荘入口への階段ではリベントロップ外相が出迎える。

通常大使着任の挨拶は大礼服に太綬の着用であるが、大島は陸軍の軍服で臨んだ。またドイツ語堪能な大島ゆえ、通訳はいない。ヒトラーに信任状を奉呈する大島は緊張気味である。暗い部屋の為か、カメラ露出が適正でないようで、大島とヒトラーの表情は良く読めない。ベルリンではなく、ここの山荘で奉呈式を行ったのは、ドイツ側の大島に対する好意であろうか?

映像タイトル: Die Deutsche Wochenschau, 5. March 1941 
2分40秒ころより 

(「臣下の大戦」も参考にしました)


松岡外相ベルリン訪問>


1941年3月26日、飾り立てられたベルリンアンハルター駅に入る流線型の蒸気機関車に引かれた列車は、大島と同じミトローパか?もしくはヒトラー専用列車の一つが提供されたか?

杖をついて降りてくる松岡外相を迎えたのはリベントロップ外相であった。大島の時は外務次官であったので、外交上の儀礼にのっとる出迎えであろう。他にドイツ側からはカイテル元帥、ゲッペルス宣伝相、日本側からは大島大使らが出迎えた。映像ではカイテル元帥の方がゲッペルス宣伝相より前に紹介されている。

大島に迎えられた松岡外相は、駅を出ると二人並んで暫く群衆の中を歩く。その後外相はオープンカーで街を走る。松岡は帽子を手に取り、それを振っている。一目見ようと押し寄せる群衆はヒトラー全盛の映像を彷彿させる。そして車は迎賓館であるベルビュー宮に入る。

ベルリンの陸軍事務所で通訳として勤務していた高島泰二がこの時の様子を日記に記している。
「松岡外相がドイツ公式訪問でベルリンに到着する日が来た。
昼過ぎになるとヴィルヘルム街やウンター・デン・リンデン街、パリ―広場一体に物々しい警戒陣が敷かれ、陸軍部隊、親衛隊、ヒトラー・ユーゲントが沿道に整列した。街燈につけられた拡声器からはクラシック音楽が流され、指揮は近衛秀麿氏であるとアナウンスされた。

午後4時過ぎると空軍省前の広場は群衆で一杯となった。街頭の音楽もいつしか「愛国行進曲」に変わっていった。」

当時の映像は音は後から入れた。バック音楽には愛国行進曲ではなく時折ソフトな調子の軍艦マーチが流れる。
邦人映像としては一番長いものであろう。

映像タイトル: Die Deutsche Wochenschau, 2. April 1941 
1分16秒頃より


<独ソ開戦と日本人記者団>


1941年6月22日、ドイツがソ連に進攻する。それをマイクに向かって世界に伝えたのはヒトラーではなく、ゲッペルス宣伝相であった。彼がこうしてマイクの前に立つのは「初めてのこと」とドイツ語のナレーションが言っている。映像ではラジオに聞き耳を立てる市民の姿が映るが、ヒトラーでなくゲッペルスの声をラジオから聞いて、多くのドイツ人ががっかりしたという。

続いてリッベントロップ外相が、内外の記者団を集めて会見を開く。その場に日本人記者が3人映っている。当時は朝日、毎日、読売、および同盟通信社などが特派員を送っていたる。個人名は特定できないが、3人ともどこか不安そうな表情である。
毎日新聞からは支局長の加藤三之雄が出席していた。加藤はその場で
「ドイツはナポレオンと同じような失敗を繰り返さないか?」と質問したという。それに対しリッベントロップ外相は自信に満ちた口調で
「ロシアについては十分調べつくした。ナチス軍の性能から言っても、ナポレオンの轍を踏むようなことはない」と答えた。
(「臣下の大戦」より)

映像タイトル: Die Deutsche Wochenschau, 25. Juni 1941
1分15秒ころ



<大島大使 ドーバー海峡視察>


フランス語の解説の入った映像はフランスのものか、それともドイツの映像からのコピーであるかは不明。
大島大使が英国に面するドーバー海峡を視察している。珍しく眼鏡をかけているのは、海峡の先をよく見るためか? 時期ははっきりしないが、まだドイツ軍が英国本土を攻略する可能性があった、大島の着任から間もないころであろう。着任早々は大島は引っ張りだこであった印象である。

映像タイトル: LE GENERAL OSHIMA VISITE LE MUR DE L'ATLANTIQUE



<大久保利隆駐ハンガリー公使>


枢軸国側に属したハンガリーは独ソ戦開始と共に、兵を送る。彼らが戦場で戦い、1941年11月に第一陣がブダペストに戻った祭に帰還式典が行われる。その一連が映像になっている。ハンガリーの制作で、ドイツの洗練されたプロパガンダ映像とは異なり、どこか味がある作りである。

この帰還式典に駐ハンガリー大久保公使も招かれ、映像に映っている。これは「ハンガリー公使大久保利隆が見た三国同盟」の著者である高川邦子さんが見つけたものであるが、よほど意識して捜さないと、決して見つけることは出来ないであろう。

https://www.youtube.com/watch?v=M0FLRTKe8_g
(現在は閲覧できない)



<ヒトラー53歳の誕生日記念コンサートの大島大使>

1942年4月19日、ヒトラーの53歳の誕生日の前夜、記念演奏会がベルリンで開かれた。演奏はベルリン・フィルで、指揮はヴィルヘルム・フルトベングラー、曲はベートーベン第九の合唱付きであった。その模様は全ドイツにラジオで中継された。
そして1分22秒に客席の大島大使が映る。

映像タイトル: Die Deutsche Wochenschau, 22. April 1942
(2016年4月17日追加)


<3国同盟締結2周年を祝う大島大使>

1942年9月、3国同盟締結2周年を祝うセレモニーが開催される。主役はリッベントロップドイツ外相、イタリア大使、そして大島大使の3名である。冒頭から1分位にわたり大島が登場する。

映像タイトル: Die Deutsche Wochenschau, 25.September 1942

(2016年4月17日追加)


<日本の潜水艦がフランス着>


1942年4月11日に呉の軍港を出港した伊号第30潜水艦が、長い航海を経て8月6日、フランスのロリアン軍港に入港する。
多くの組員が艦上に出ている。長い航海を物語るように、船体の黒い塗装ははがれ、ところどころに地の白がむき出しになっている。

日本とドイツの間の連絡がついたことに関係者は喜んだ。港にはベルリンの横井忠雄駐在武官、ドイツの潜水艦隊司令デーニッツ(のちの海軍総司令官)が姿を見せ、潜水艦に乗り込み、乗り組み員をねぎらう。
映像には潜水艦の乗組員と、ドイツ海軍兵の交歓風景も映り、騎馬戦、綱引き、相撲などを楽しみ光景が見られる。

日本の潜水艦のフランス寄港を連合国側に知られれば、厳しい待ち受けが予測されるので、日独が発表したのは、同潜水艦が、帰路につき、安全圏に入った9月25日であった。

映像タイトル: Die Deutsche Wochenschau, 30.September 1942
6分ごろより




楽家 近衛秀麿>


日本人の音楽家の映像も残っている。駐在者の中で有名なのは、作曲家で指揮者の近衛秀麿であった。近衛は戦時中、50人のメンバーからなる「近衛伯爵交響楽団」という移動交響楽団を組織して、主に慰問コンサートを開いていた。戦争の末期にはドイツ国内の演奏は事実上不可能となり、フランス北部、ベルギー、オランダを巡回していたという。(「ベルリンに捕らえられて」より)

この映像は題名に「(フランツ・)リストを指揮する近衛秀麿」となっている。説明のナレーションはフランス語である。映像は鮮明で、近衛の表情がしっかり見える。
日独の国旗がステージの両側に並ぶ。労働者風の姿の人間が多く映る。時期は不明であるが、場所は工場で、慰問演奏であろう。ナレーションから考えて、北フランスでの演奏であろうか?観客に日本人は映っていない。

映像タイトル:Hidemaro Konoye conducts...
筆者には興味深い映像だが、視聴回数は142回のみ。



<大島大使 その他の映像>


他にも大島大使の写る映像がある。
ハノーバー市における「日独友好の日」とゲッテインゲン大学での名誉市民任命の式典の光景である。調べたところ、後者はおそらく1942年7月12日のことである。当時ゲッティンゲン大学は大島の他にも、多くのナチス関係者にその名誉を与えたが、今日「それから距離を置く」と言う声明が出されている。

映像タイトル:German newsreel - Lt-Gen Hiroshi Oshima



<東部戦線の鉄道を視察するベルリン駐在日本人>


"Raeder muessen rollen bis zum Sieg" (車輪は勝利に向けて回転する)

上のドイツ語はは1942年のドイツ帝国鉄道(ライヒスバーン)の標語である。そしてこのタイトルのDVDがある。おそらく元はプロパガンダの映像であろう。そこに制服姿の日本人と、陸軍の軍人が登場する。
映像の中では「1942年夏、彼らは東からソ連を攻める際の準備として、ソ連の広軌鉄道の研究のための視察」とドイツの願望を述べている。

この前線訪問に関し、メンバーの一人で満鉄の駐在員であった西畑正倫が書いていて、写真も紹介している。
それによると時期は1942年9月で、場所は南部戦線のロストフの先、アルマビアという所である。
「スターリングラード迄行けるかもしれぬと言うので、大張り切りで飛行機で大本営のあるオデッサに着いた」と書かれている。メンバーは西畑の他
広瀬栄一補佐官、佐竹音吉(国鉄駐在員)、落合武夫大佐、木原友二大佐(潜水艦で帰国時に死亡)、伊藤清一大佐である。佐竹と西畑はそれぞれ当時日本の貨車の数は6万両、ドイツは65万両と大きな違いに驚いたと述べている。
こうして別の史料から人物が特定できるのは嬉しい。
しかしこれは現在のところ、アマゾンなどでDVDを購入しないと見る事の出来ない映像である。



<独ソ戦の前線視察 小松武官>


レニングラードを視察する小松光彦陸軍武官の映像である。一行がドイツの飛行機から降り立つところから始まる。その後彼らは最前線に案内される。小松はドイツ軍が新たに架けた橋のテープカットを行う。

武官自身の戦後の記述が残っている。それによると時期は1943年6月、メンバーは岡本清福少将、小松武官、甲谷悦雄大佐、遠藤悦中佐である。遠藤はドイツ語が達者であったので通訳であろう。

岡本少将と甲谷大佐は、欧州の実情を調べるべく、日本から到着間もない遣欧使節団のメンバーである。「大島大使のドイツ寄りの報告ではよく分からない」とドイツの実情を判断するためであった。ドイツ側も良い所を見せたかったであろう。

映像タイトル:Die Deutsche Wochenschau 7 July 1943 
12分ごろ



<国民の突撃隊>


戦争の末期、ドイツ軍は慢性的な兵員不足に対し、国民突撃隊を組織して50歳までの男子を動員した。1944年11月2日、ベルリンのウィルヘルム広場で入隊宣誓式が行われ、ゲッペルスが演説した。それに続く行進に映るドイツ人は、高齢で殆どが私服で、わずかばかりの武器を携帯していた。

そこには大島大使の姿も見られたが、特別に席が用意されている訳でもない。立ったままでの閲兵である。映像内での紹介もない。さすがに大島もドイツの敗北を予感せざるを得なかったであろう。そしてこれが捜した限りでは、大島大使、邦人が映る最後の映像である。
そこには満州国公使館を代表してか、江原綱一参事官、そして同年3月に潜水艦で日本から就いたばかりの小島秀雄海軍武官の姿も見える。
戦争末期の割には映像の質は良い。

映像タイトル:Die Deutsche Wochenschau, 2. November 1944
5分35秒ころ



追加 1 山下奉文>

1940年9月27日の日独伊三国同盟と、それに続く軍事同盟の締結を受けて、日本から陸海軍の軍人が多数ドイツに派遣された。大島大使再任の前のことである。陸軍は山下奉文中将を代表にして20人余りが年末にシベリア鉄道でベルリンに入った。山下はヒトラーとも会見する。1941年1月18日に日本刀をブラウヒッチ大将に贈呈する映像が残っている。左側の通訳は高島泰二である。高島の「伯林日誌」にの時の様子が記されている。

「ホテル・ブリストルに於いて陸軍長官ブラウヒッチ大将に使節団全員が招待されたが、ドイツ側も10人以上の閣下が出席し、盛大な宴となった。

山下団長の挨拶は演説調の日本語で堂々としているが、事前の打ち合わせになかったような漢語が飛び出した時は、いささか通訳泣かせとなった。たとえば「八紘一宇」や「一蓮托生」などは直訳すると意味不明だし、意訳では誤解の恐れがある。冗長な個所を少し端折って訳すと、山下さんがすぐ私の方を向いて、もっと正確に訳してくれと言わんばかりだ。
ドイツ人達が私の通訳を疑いやしないかと不安になる。外国語の分かる人の通訳は辛い事だ。


映像タイトル:Die Deutsche Wochenschau, 28. Januar. 1941 (リンク切れ) 8分15秒ごろ
その後こちらを見つけた。Die Deutsche Wochenschau, 5. Ferbuary 1941 3分ごろで映像は鮮明(2016年5月14日)

他にも邦人の映像は残るのであろうが、キーワードをどんどん打ち込んでも簡単に見つかるわけでもない。気長に今後追加していく予定である。

(2015年10月17日)



< 追加 井上まゆみ>

ムッソリーニが1942年4月、日本大使館を訪れた際の映像。日本人の子供たちと記念写真を撮る様子が、イタリアの映像に残っている。

映像リンクはここ (クリックすると「許可しますか?」と聞かれます)

筆者のサイト「日本人小学生の体験した戦時下のイタリア



<追加 江原綱一満州国参事官、 芳仲和太郎ハンガリー陸軍武官一家>

平城生まれの作曲家兼、指揮者安益泰のコンサートの映像で観客席に日本人が映っている。

映像リンク
1 1941年10月10日 ブダペストのコンサート。(30秒過ぎあたりに観客席の日本人が数名映る。

2 1942年9月18日 ベルリンでのコンサート。(15秒後あたりに江原参事官、大島大使夫人が映る。他にアップで写るのは呂宣文満州国公使であろう。))

(上記2件は2016年4月17日追加)

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