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書評「諏訪根自子 : 美貌のヴァイオリニストその劇的生涯 : 1920-2012」と、
おそらく未発表の資料からの考察。



<序>

戦前、戦中の欧州駐在者の一人であった諏訪根自子さんが亡くなったのは2012年3月6日である。当時子供であった駐在者を除けば、ほぼ最後の欧州証人であった。

そしてその1年後、満を持たように、この本は出された。ヴァイオリニスト諏訪根自子(以下根自子と表現)について筆者が最初に知ったのは「美貌なれ昭和」 深田祐介著である。そこでは東京―ロンドン間を国産の飛行機「神風号」でスピード記録を打ち立てた朝日新聞の飯田正明、塚越賢爾、両飛行士の話に合わせて紹介された。

次が今回紹介する音楽評論家、萩谷由喜子による本である。筆者の興研究範囲である戦時下の欧州時代について、かなりページ割かれていて、筆者も初めて知る史実がいくつか紹介されている。本来辛口の筆者の書評シリーズであるが、今回はやや種子が異なる。書評に始まり、筆者が独自に調べた史実を紹介する。一部はこれまで公表されたものに対する異説となる。



<書評>

この本の興味の第一点は、根自子のコンサートの当時の新聞評が載っている事である。1943年10月21日のベルリンの「正午新聞」"Das 12 Uhr Blatt"と1944年11月のスイスの新聞2紙である。これらは根自子本人が大切に持ち帰ったものを、ご遺族の方よりお借りしたそうである。関係者に対する取材の賜物である。貴重な史料であると同時に、これらから根自子の行ったコンサートの日付が正確にわかる。

筆者はかつて、チューリッヒの図書館で、当時の新聞から根自子に関するコンサート評、もしくは開催案内を探したが、駄目であった。

また戦後の部分は専門分野外として筆者は読み流していたが、大島浩大使夫人”豊子”と根自子が戦後再会したエピソードは、筆者の胸を打った。戦時下のベルリンで根自子が暮らせたのは、大島夫人に負うところが多い。他の婦女子は大使命令で皆ベルリンから疎開させられていた中、子供のいない大島夫人に娘のように可愛がられたからである。そして何となく戦後は袂を分かちあったと想像していた。

それは1984年1月13日のことであった。茅ケ崎でのコンサートの終了後、楽屋のドアが静かにノックされ、付き添いの女性に手を引かれた老婦人が入ってくると、
「根自子さん、しばらく、おわかりになる?」と聞いた。この老婦人が83歳の豊子であった。
茅ヶ崎は大島夫妻の住まいがあった所で、この町でコンサートが行われることを知った姪がチケットを手配した。



<ベルリンでの活躍 萩谷説>

パリでユダヤ系ロシア人、カメンスキーの家に下宿をして指導を受けていた根自子であるが日本開戦後、ベルリンに活動拠点を移すようになる。この理由について、深田は触れていない。萩谷によれば

「ドイツ勢力圏の音楽家たちをベルリンに集めて大規模な音楽祭を開催しようと考えたベルリン市長が、ベルリン滞在中の近衛秀麿を通じて根自子をベルリンに招いたのだ」としている。ただし近衛が大きな役割を占めるはずの音楽祭は、反目する日本大使館の反対で開催されなかったという。続けて

「根自子としては、今やカメンスキーの家がわが家同然だったので、パリを離れる気持ちはなく、パリを占領しているドイツ軍にも良い感情を持っていなかったから、その本拠地ベルリンへ行く事は気が進まなかった。だが、ベルリンからの誘いが重なる。そこで根自子は当初、楽器を口実に招きを断っていた。
“良い楽器を持っておりませんので”」と根自子の意味深長な言葉を紹介している。そして

「しかし、再び誘いがかかる。無下にも断りきれず、生活の本拠をカメンスキー宅においたまま、根自子がベルリンに向かったのは1942年12月のことだった。
ベルリンでは、舞踏家の邦正美、日銀理事の山本米治らが温かく出迎え、海外生活の長い著名歌手兼女優、田中路子の屋敷へ案内してくれた。」と続く。一連の話の出典は書かれていないが、近衛であろうか?



<ベルリンでの活躍 異説>

そして萩谷の伝記にもベルリンで出迎えた人物として登場する山本米治であるが、山本は若い時からヴァイオリンに非常に愛着を持っていた。戦前欧州に滞在した際に、ベルリンの楽器屋でストラディバリウス型の楽器を買ったほどであった。彼は戦後、自著で根自子について書いている。

「(戦時下のベルリンに赴任する際、徳川林政史研究所の所三男から、)ベルリンとパリでは遠くもあるし、国も違うけれども、何かの機会があったら、(諏訪根自子の)力になってもらいたいという依頼を受けた。所君は古くから、根自子の母親や妹も知っており、かなり親しい間柄の様だった。」

「それは確か1941年の夏だった。(実際は1942年?―筆者)私はドイツ占領下のフランスを視察するため、ベルリンからパリへ出掛けたが、それはちょうど、所君の依頼を果たすに良い機会だと思った。暇を見てパリの日本大使館に電話し、諏訪根自子の様子を聞いてみた。
ところが彼女は日本人とあまり交際していないし、大使館における祝祭日の会合などにも、ほとんど顔を出さないので、近況は分からないという。」
ともかく連絡がつき、山本の滞在するホテルに根自子が現れる。初対面であった。

「クリーム色のごく簡素なワンピースを着た彼女は、色は浅黒く、痩せてやつれて見えた。また対談中彼女が、煙草をスパスパやったことが考えてみれば何でもないのに、何か異様に見えた。」
当時日本女性が煙草を吸うというのは、上品とされなかったのではないか?彼女の煙草にまつわる話は後にも紹介する。

「私は比較的ざっくばらんに、いろいろな事をたずねた。(中略)
生活はかなり苦しいらしく、リサイタル(コンサートでなく独演会‐筆者)など、何年もやったことがないという。私は、せっかくヴァイオリンの修行に来ながら、そんな風にくすぶっていては駄目だから、久し振りでリサイタルを開いたらどうか」
という。ドイツ軍占領下のパリでは、根自子はリサイタルなど開く事も出来ず、彼女の気持ちもくすぶっていたようだ。

「現在ドイツが全ヨーロッパを支配しているが、ドイツはもともと音楽の国だし、日独関係も良いのだから、ベルリンへ来て、活躍のチャンスを見つけたらどうか、という提案をし、彼女も全く賛成した。そこで私は、一回リサイタルを開くのに充分な程度の金を渡し、ベルリン問題については、あとで連絡することにして別れた。(中略)

こうして諏訪根自子君が、パリを引き揚げてベルリンにやって来たのはその年(1942年)の暮れ近くだったと思う。」
と根自子の同盟国の首都ベルリンでの活動開始は、山本の働きかけによるものだとしている。ベルリンでの受け入れを田中路子女史に頼んだのも山本という事である。

これは彼が1965年に出版した「人生手帖」という本の中で書いたものである。発表当時どのくらい注目を浴びたのかは分からない。また山本の書いてある内容について他の資料で裏付けることは出来ない。しかし後に国会議員にもなる山本であるから、内容に大きな創作は入っていないであろうし、筆者が読んだ限りでも説得力があり、話は通っている。

萩谷の書く近衛ルート、そして山本ルートと複数から働きかけがあり、根自子はベルリンに来たというのが本当の所であろうか?



<ストラディバリウス贈呈にまつわる話>

1943年2月22日、根自子がゲッペルス宣伝相からストラディバリウスの贈呈を受けたことは、戦後それを元の所有者であるユダヤ人に戻せと言う話になり、根自子にとっては不幸の元凶とも言えるかもしれない。この贈呈にいたる経緯にも異説がある。

贈呈を伝える当時の朝日新聞は
「昨年12月来独以来ベルリンその他各地の音楽会あるいはラジオ、あるいは慰問音楽会においてその天才的演奏により」と書いており、これが為の贈呈と言われている。それにしても前年の暮れにドイツ軍慰問コンサートを行い、2月に贈呈とは、ナチス組織の意思決定の速さゆえか?

この贈呈に関し、興味深い話を伝えるのは大倉商事のパリ支店に勤務した大崎正二である。かれは大倉財閥2代目総帥大倉喜七郎が、諏訪根自子を含むパリに遊学中の音楽家たちに毎月1500フラン(現在の30万円位)の援助を決めた後、実際にその支給者として毎月20日ごろ、事務所で封筒に入れた金額を根自子らに手渡した人物である。

その大崎が戦後間もない1946年クリスマスの頃、銀座に弁護士事務所を開く江原綱一と会った。江原は戦時中、満州国ベルリン公使館の参事官として、満州国人の公使に次ぐ地位にあった。江原も山本同様ヴァイオリンの愛好家であった。

彼は南ドイツで鑑定書付きの古い時代の名工の作のヴァイオリン(遺族の話ではストラディバリウス)を入手したが、ベルリンに危機が迫ると中立国スエーデンの王室博物館に保管を頼んだ。大崎が戦後江原と会ったのは、ちょうどスエーデンから戻った時であった。次は江原の語った欧州での話である。

ある日、江原はすぐれた奏者にこのヴァイオリンの品定めをしてもらいたいと思って、諏訪根自子を家に招いた。彼女はヴァイオリンを手に取ると、あごの下に加えて弓を使った。変哲もない古めかしい小ぶりの楽器から深く澄んだ静かな音が発した。
江原が
「どうなの、音は良いの?」と聞くと、根自子は
「この音色、江原さん、お分かりにならないのですか?」と、根自子は目尻をつり上げて詰問した。その時江原は根自子の表情に羨望の影のようなものがあるのを感じた。

江原は根自子が良いヴァイオリンを持っていないことを人の噂で知っていたので、その内にこのヴァイオリンを彼女に進呈しようと決めた。

江原が彼女は良い楽器を持っていないと知っていたというのと、ベルリンに来るように言われたのに対し“良い楽器を持っておりませんので”と根自子が意味ありげな言葉を放ったと萩谷が書いているのとは符合する。それまで根自子が使っていたヴァイオリンは分からない。留学生の身分では欧州に来て新しいものは買えなかったと想像される。それ故、当時根自子は良い楽器が欲しいという気持ちも強かったのであろう。



<ヴァイオリン贈呈 異説>

江原の話は続く。ある時何かのパーティで、ゲッペルス宣伝相の姿を見ると、そばに近づいて挨拶を交わすなり、切り出した。
「ちょっとお願いがあるのです。実は諏訪嬢はあれほど天才的な芸術家でありながら、お気の毒に、上等のヴァイオリンを持っていないのですよ。申すまでもない事ですが、芸術家にとってこれほどの不幸はありません。大変ぶしつけなことを承知でお願い申し上げるのですが、あなたから上等のヴァイオリンを彼女に送っていただけないでしょうか?これは日独親善の見地からも、大いに意義のあることだと思うのですが?」

前後の文章から判断すると、江原は自分の持っているストラディバリウスをゲッペルス宣伝相の手から贈呈してほしいと依頼した。これはいささか荒唐無稽な話である。ただし満州国公使館のナンバー2であるから、ゲッペルス宣伝相と面識があることは、不思議ではない。

そしてこれに対し、ゲッペルス宣伝相は別の有名なストラディバリウスを根自子に贈呈した。よって戦後、江原のストラディバリウスはスエーデンから、自身の手に戻ったとの事である。

ここではこのゲッペルスによる贈呈の話の発端は江原だと言っている。どこまで信じてよいのか?ちなみに江原の手に戻ったヴァイオリンは戦後、正規のストラディバリウスかどうか、判断がつかなかったとの事である。

(大崎正二「遥かなる人間風景」より)

また贈呈を受けた根自子は山本に電話をかけ、「もらったストラディバリウスを見に来てくれ」と言った。山本は、彼女が住む大使館官邸に出かけた。がらんとした大きな部屋で、彼女は山本にその名器を見せ、ちょっとボーイング(運弓)をやったり、曲の断片を弾いてみせた。山本も本物のストラディバリウスを手近に見たのは初めてであったので、何かしらポッとしたような興奮を覚えたと書いている。(山本前著より)

さらなる江原の”ストラディヴァリウス”に関する調査はこちらを参照。



<冷たい諏訪根自子?>

諏訪根自子ついて“冷たい性格の持ち主”と語られることが多い。それに対して代表的な代弁者である与謝野秀一等書記官は「縁なき時計」という書物で、以下のように肯定的に回想している。

「根自子さんは本当に寡黙な人である。私もベルリン時代、大使のもとなどで、数回食事を共にする機会を持ったが、私が何か尋ねれば、それに返事をするけれども自らは慎み深く、ほとんど何も語らない人である。しかし無言のうちにも、理智の鋭い、また芸術家らしい感情の濃い人であるという印象を受ける。(中略)音楽を離れても、人間としてどことなく人を惹きつける奥ゆかしいものを威するのである。」

一方、否定的な発言はすでに外交官徳永太郎夫人、下枝さんから聞いていて紹介した。先に紹介した山本も同様でかなり否定的だ。ここには紹介しないが、本文中にはさらに過激な発言も載せている。

「私は彼女(根自子)を、恩義を知らぬ冷たい人間だと思っている。(中略)
今述べてきたような彼女と私との全経緯から見て、彼女の側としては、ちょっぴりくらい恩義を感ずるのが普通の人間ではなかろうかと思っている。ところが日本へ帰った彼女から、私はついに有難うという一言の挨拶も受けていない。」

次は大崎の回想である。これはいわば中立的発言か?

「(パリ時代の)ある日、手当てを受け取りに来た諏訪さんを、私は食事に誘ったが、体よく断られた。大使館のれっきとした書記官などの誘いにも応じないという噂を聞いていたので、断られて当然と思ったが、彼女の何やら寂しく心を閉ざしている様子が気にかかった。その侘しげな風情が、彼女の美貌に憂いを添えて、言いようのない魅力を生んでいた。彼女はこの時17歳であった。」

もう一つエピソードが紹介されている。
「1940年6月、フランスは戦いに敗れて降伏した。それからドイツ軍のフランス占領が4年続いた。日本との通信が途絶えて、新聞や書籍が来なくなっていた。そこで1941年の春、日本人会で(在留邦人に向けて)月刊の小冊子を発行することになって、私がその仕事を担当した。各方面に広く寄稿を頼んだが、その時諏訪さんは、
“私のような教養のないものには、とても書けません”と恥じらいを含んだ声で素直に断られた。」

根自子は自分から話しかける、または話題を提供するという事をしない性格であったようだ。音楽中心に育てられ、少女時代から社交というものを学ばなかったためかもしれない。また大崎の書く「心を閉ざした感じという言葉は気になる。



<笑い上戸?>

諏訪根自子は冷たいという語られ方が多い。それは恐らく事実であろうが、別の一面もあったようだ。次は同時期にパリに留学していた声楽家、古沢淑子の回想である。

「根自子さんは、本当に美しく、物静かな方で、先生の家に寄宿しているものだから、毎日がレッスン、レッスンの日々。私たちのように友達と遊ぶゆとりなんかないの。肩いっぱいに、いろんな期待が載っている印象でした。
とっても可哀想に思えて、お遊びに誘ったのよ。倉田(高)さんや倉知(緑郎)や、大使館で会ったK氏。この方は柔道も水泳もお得意で、とても親切な方。みんなでピクニックへ行ったり、ボート乗りしたり。どちらかというと暗い印象の根自子さんが、本当は笑い上戸で、笑い出すと止まらないの。そんな根自子さんを見ているのは、私たちだけかもしれないわ。」

柔道の得意なK氏とはパリで柔道の指導を行っていた川石酒造之助か?
(『夢のあとで−フランス歌曲の珠玉・古沢淑子伝−』より)
(2017年5月31日追加)



<タバコ好き?>

山本がパリで会った時にタバコをスパスパ吸った根自子であったが、与謝野もタバコのエピソードを紹介している。
1944年11月スイスでの公演の後、ドイツに帰る際はスイスの西原市郎海軍武官が、ベルリンまで同行した。後に西原は与謝野に語った。

「私達はやっぱり気が利かないんですね。護衛の役を仰せ付かって、汽車に乗ってから(ドイツの)国境迄3時間あまりの間、根自子嬢が無口なもので、私は煙草をふかし続けて、外の景色を眺めたり、新聞を読んだりしていたのですが、国境の駅に着くと根自子さんが汽車から、ちょこちょこっと降りて走っていくのです。

どうするのかと思ってみていると、売店へ行って煙草を買っているではありませんか。」
与謝野はこの話を聞いて、沈黙を守る若い芸術家が、飲みたいタバコを我慢している様子を想像して一人面白く思ったという。

さらにアメリカに抑留中、邦人たちは暇を持て余し、仲間の名前をもじったダジャレ遊びをしていた。その中に
「お茶を飲んでも、水飲む(光延)さんとはこれいかに?」
「うわべはタバコをすわねじこ(吸わない)と言うが如し」
という戯言もあった。(小野満春)見かけはタバコを吸う女性には見えないというのが元にあろう。

ねじこの煙草はパリ時代からの”筋金入り”であった。日本にいたらおそらくは吸っていかなったはずの煙草を吸うようになった、理由は何だったのであろう?勿論タバコを吸う事は、彼女の音楽とは、一切関係ない。

またパリに長く暮らしたチェルビ菊枝は次のように書いている。
菊枝はロシア人の食料品店に買い物に行って、根自子のヴァイオリンの先生であるカメンスキーと知り合いになった。先述のように彼女は亡命ロシア人である。根自子はカメンスキーの所に下宿していたことも既述した。菊枝が一度そこを訪問した際、カメンスキーは「彼女(根自子)はなかなかの酒豪で、ウォッカをよく飲むのよ」と話したという。この話も信ぴょう性がありそうである。



<独仏の往復>

もう一つ大崎の記録からである。
「1944年8月に、ドイツ軍の総退却に連れて、私はパリからベルリンに逃げたが、ドイツの降伏までの8か月のあいだに会った芸術家は、声楽家の田中路子、舞踏家の邦正美、指揮者の近衛秀麿と愛人で元映画俳優の沢蘭子の4人で、江戸城大奥(大使館のこと―筆者)に住んでいる感じの諏訪さんは見かけたこともなかった。」

1944年11月3日付のドイツ在住者日本人住所録がある。そこに根自子は
Challottenberg Knobeldorsstrasse 32の住所が登録されている。大使館からは5.7キロの距離である。しかし実際は大崎の書くように根自子は人目につくことなく、籠るように大使館で暮らしたのであろうか?

Googleストリートビューによる同住所の現在。

これまで見てきたように根自子は最初にベルリンに来たのが1942年暮れで1943年2月22日に、ストラディバリウスの贈呈式があり、その間はベルリンにいたのであろう。その後一端パリに戻ったようだ。

次いで1943年10月21日のベルリンの新聞にコンサート評が出ている。この時は大使館の避難所ボイツェンブルク城に居住したようだ。そしてまたパリに戻り1944年8月にそのパリを引き揚げる。パリとの行き来に関し、詳しい足取りが分かる資料の発見が望まれる。



<抑留中の演奏>

根自子はドイツの敗戦に伴う南独への避難も大島大使夫妻と一緒であったが、オーストリアのバート・ガスタイン、フランスの港ル・アーブル、アメリカ ベッドフォードスプリングと移動させられた。アメリカ軍によっての抑留中、抑留者の音楽会のような中で3回、ヴァイオリンを弾いた記録が残っている。

1 1945年5月27日 「海軍記念日 諏訪根自子さんのヴァイオリン」と川喜田四郎陸軍少佐が日記に書き残している。バート・ガスタインでの抑留生活が始まって少し落ち着いた頃であるが、これ以上は不明。

2 同8月3日 ル・アーブル 明日はアメリカに向けて出発という晩、大掛かりな音楽祭が行われ、根自子は近衛秀麿の伴奏で何曲か披露。(萩谷)

3 同11月11日 アメリカもいよいよ引き揚げという時、根自子はまた近衛の伴奏で披露。居合わせた大谷修少将は「忘れ難し」と書き残した。

このうち2番目と3番目はすでに紹介されているが、5月27日は初であろう。またもっと弾いているかもしれない。



<その他の証言 1>

小野満春は毎日新聞イタリア特派員小野七郎の長男で、当時小学生であったが、克明な日記を書き残し、出版された。そこに

「サンタローザ号でアメリカに移送される途中、船医が健康診断をした。木の匙の様なもので、一人一人の喉を見ていった。その検査に用いたへらを、軍曹はいちいち捨ててしまう。そのへらを利用して風車を作った。へらをねじ曲げて棒に刺し通し、甲板からそれを差し出すと、プロペラのように、くるくると回る。

諏訪根自子さんが口紅とまゆ墨で、赤と青を付けてくれた。そうするとなお一層綺麗に見えた。」
アメリカは敵国人の健康管理にも気を配った。そしてここに映るのは子供に優しい根自子の姿である。



<その他の証言 2>

抑留されたアメリカのホテルの売店で、日本ではお目にかかれないであろう生活用品を、一部の夫人たちが買い占める騒ぎがあった。アメリカのホテルの売店の商品ですら、日本のものをはるかにしのいだのだ。

法政大学の教授で外務省嘱託であった友岡久雄は二人の娘のために、根自子にセーターを選んでもらい、それをお土産に持ち帰った。根自子は教授の依頼にも気安く応じたようだ。

ただしお土産をもらった長女眞子さん用は、戦時下の日本に溢れていた国防色(カーキ色)に近い色のカーディガンで、一方の妹用は空色の華やかなものであったので、そちらがとてもうらやましかったと回想する。根自子は中学校一年生と聞いた眞子さんには、シックな色のものを選んだのであろう。これは眞子さんに筆者が直接眞子さんから聞いた話であるが、こちらも冷たい根自子の印象とは重ならない。

今回は書評の形を借りながら、自分の調査したことなどいろいろ書いたが、筆者は諏訪根自子の神秘的魅力に取りつかれた一人である。そして今後も史料を探していく。

(2015年5月10日)



その他の証言 3、4>

(アメリカ抑留生活の後半)諏訪(根自子)はよく、(大島)大使夫人らとピンポンをしたり、テナーの内本実が先生格で組織した合唱団のアルト歌手となって参加していた。偶然の機会で諏訪とピンポンをやったO君は
「ピンポンは俺より下手だね。しかしファイトのあるのには驚いたよ。」などと言って諏訪の一面を見つけたような話をしていた。
諏訪はこれ以外にごくたまに、音の小さな練習用のヴァイオリンで自室で練習をしていた。
「諏訪根自子の謎」 有田音弥より

1939年1月12日 パリ
昨日、シュナーベルのリサイタルがありました。鈴木さんが席をとっておいて下さったので、出かけました。諏訪(根自子)さんもどなたかとご一緒にいらしてました。それはそれは素敵でした。(素敵だったのはリサイタルの事ー筆者)
「巴里より愛する母へ 」  今西汎子より

(2015年6月11日)



訪根自子 ドイツでの慰問公演についての新事実と考察


<序>

筆者は書評「諏訪根自子 : 美貌のヴァイオリニストその劇的生涯 : 1920-2012」の中で、彼女に関しての考察を行った。
そして欧州滞在中の最大イベントともいえる、1943年2月22日、根自子がゲッペルス宣伝相からストラディヴァリウスの贈呈を受けた経緯について、次のように書いた。

贈呈を伝える当時の朝日新聞は
「昨年12月来独以来ベルリンその他各地の音楽会あるいはラジオ、あるいは慰問音楽会においてその天才的演奏により」と書いており、これが為の贈呈と言われている。それにしても前年の暮れにドイツ軍慰問コンサートを行い、2月に贈呈とは、ナチス組織の意思決定の早さゆえか?



<慰問公演>

その後、筆者は同じく朝日新聞から、この頃の根自子に関し、いくつかの記事を見つけた。

1942年12月12日の紙面にはまず、 
「12月14日、ベルリンでのデビューは各方面から期待されている。」とある。ここからこの日が根自子のベルリンでの初演奏であったことが分かる。

その記事は次いで
「提琴家(ヴァイオリニスト)諏訪根自子嬢は日独協会後援のもとに14日夜、ザールランド街のオイローパ・ハウス音楽堂で独奏会を催し、ブルックやバッハの小品を演奏し、喝采を博した。同嬢はさらに15日午後3時から日本大使館で催される、独軍傷痍軍人慰問会で演奏する予定。」と記す。

コンサートの後援が日独協会であるとすると、パリからベルリンに根自子を呼んだのは、幾人かの駐在邦人が「自分だ」と戦後語っているが、実は日独協会と推測される。

そしてこの慰問演奏会については17日「大島大使 将兵を慰問」の見出しで
「大島駐独大使は15日午後、独軍傷病兵約200名を(日本大使館に)招待して、慰問レセプションを催した。

大島大使の挨拶に次いで諏訪根自子嬢のヴァイオリン独奏、田中路子夫人の独唱があり、独軍勇士たちは、将軍大使(軍人出身の大島大使のことー筆者)を囲んで、武勇談に花を咲かせた。」と報じた。

根自子がストラディヴァリウスの贈呈を受ける理由に、冒頭の記事では慰問音楽会での貢献が書かれている。慰問音楽会という言葉から、根自子はどこか東部戦線に出掛けて、演奏を行ったのかと筆者はこれまで考えていたが、実はこの大使館での慰問会を指しているようだ。

200名の傷病兵とは、全傷病者の中で見ればごく少数で、実際の慰問効果はほとんどないであろう。やはり日独友好の宣伝効果を狙ったものである。

「ベルリンその他各地の音楽会あるいはラジオ」に関して言えば、ベルリンのは分かったが、それ以外の都市でも、短い間に日独協会によって組まれた演奏会を行い、またラジオにも出演したのであろう。その情報は今後の調査課題である。

そして翌年2月のストラディヴァリウスの贈呈となるのだが、日独協会のドイツ側はすでに贈呈の提案を宣伝相と話をつけて、根自子をベルリンに呼んだのかもしれない。

深田祐介の「美貌なれ昭和」では、ベルリン駐在の大谷修陸軍少将の日記が引用されている。

1943年1月1日「正午より大使館に在留邦人参集。(中略)諏訪根自子嬢来会しあり。先日の奮闘を謝す。」という原文に続き、
「ドイツ空軍関係の知人から頼まれ、根自子に慰問演奏会を依頼し、繰り返しアンコールの嵐を呼んで、彼女に”奮闘“してもらったという意味にとれるが」と深田は想像した。しかし大谷は、この大使館での慰問会を感謝したと考えて間違いない。

ニューヨークタイムズ ネット版2012年9月21日付けに、根自子と眼帯姿のドイツ兵が語り合う宣伝臭い写真があるが、この時撮られたものであろう。(こちらを参照

勿論本人はこうしたことを希望したはずはないが、日独友好、ストラディヴァリウス贈呈という話の進む中では、抵抗出来なかったはずである。



<アサヒグラフの根自子>

根自子が大島大使らとアメリカを経由して、浦賀港に戻ったのは1945年12月6日である。翌日の朝日新聞には早速根自子の帰国が報じられる。
そして翌1946年1月5日発行のアサヒグラフには根自子の写真が大きく出ている。敗戦から5か月も経たないのに、こうしたグラビア誌が発行されていたことに驚く。

アサヒグラフの記者は次のような印象を書いている。
「粗末な外套に頭にネットを巻いた諏訪根自子さんがしょんぼりといた。出迎えの人も来ていない。天才少女として楽壇にデビューした時の明哲なまなざしは確かに残っているが、かなり疲れ切った感じだ。」

筆者には終戦直後としては立派な服装で、たしかに目つきもしっかりしている印象の写真である。

そこで根自子は次のようなことを語っている。
1 演奏会はパリでは3回致しましたが、ドイツに移りましてからは出来ませんでした。
  また「ドイツでは演奏会どころではなかった」と新聞紙上には載っている。

2 米国に抑留中は大島大使夫人の主催で、お仲間の皆様をお慰めするために、近衛先生の伴奏でいたしましたけれど。

根自子はドイツで演奏会は行っていないと言う。”慰問公演”を行ったことは決して触れたくない話題であった。

(2015年12月20日)


<高松宮日記の諏訪根自子>

戦時中、海軍に勤務した皇族、高松宮宣仁親王が残した「高松宮日記」には、終戦直後に根自子の名前が何度か登場する。

1946年10月8日 
「それより帝劇で17時より諏訪根自子ヴァイオリン(を聴く)」
根自子の戦後初の帰国特別演奏会が10月3日帝劇で行われ、18日は「帝劇芸術祭」となっている。それを高松宮は聞きに行ったのであった。GHQ本部の置かれた第一生命ビルの隣の帝劇も、空襲を逃れたようだ。

さらに1947年9月17日
16時より古橋(広之進)を招いての会が催され、諏訪根自子、原千恵子、渋沢、川添の名前がある。古橋は「フジヤマのトビウオ」とアメリカの新聞に書かれた競泳の選手である。
(2016年10月20日 追加)


訪根自子のウィーンでのコンサート(ウィーンの新聞から)


<序>

筆者は以前に発表した書評「諏訪根自子 : 美貌のヴァイオリニストその劇的生涯 : 1920-2012」の中で、独自に調査した諏訪根自子の欧州での活躍についても述べた中で、

「1943年10月21日のベルリンの新聞にコンサート評が出ている。この時は大使館の避難所ボイツェンブルク城に居住したようだ。そしてまたパリに戻り1944年8月にそのパリを引き揚げる。パリとの行き来に関し、詳しい足取りが分かる資料の発見が望まれる。」と書いた。根自子がベルリンのコンサートからパリを引き揚げるまで、史料のない、いわば空白の10か月があった。

本日はそこを埋める史料が見つかったので紹介する。見つけたのはオーストリア、国立図書館のサイトである。ここでは1800年代後半から終戦の1945年まで、ウィーンを中心に40以上の新聞がネットで閲覧できる。新聞の見出しだけではなく全文検索が可能なので、それこそ片隅の記事に”Suwa Nejiko”という文字があれば引っかかる按配である。

図書館の検索サイトのリンクはこちら



<ウィーン交響楽団との共演>

検索結果よると1943年10月16日のウィーンの日刊紙に、「独日協会 ウィーン支部(主催の)コンサート」の見出しで、

10月26日 
演奏 ウィーン交響楽団 
指揮 ヴァイスバッハGMD(音楽総監督)
ソリスト 諏訪根自子

曲目: シューマン Overture Genoveva
    モーツアルト バイオリン協奏曲
    ブラームス ブラームス交響曲第一番

という短い紹介記事がある。このウィーン交響楽団とのコンサートの日付は,筆者の調べた限りでは、これまで書かれていない。

10月19日、20日とベルリンでクナッパーブッシュ指揮のベルリンフィルと共演を行い、終わったその足でウィーンに向い、ウィーン交響楽団と共演を行ったことになる。

10月24日には再び公演の知らせが同紙に載るが、そこには
「宣伝大臣からストラディヴァリウスを贈られた諏訪根自子」と言う書き方がされている。これは当時も大きな謳い文句であった。

またナチ党のウィーン総督、シーラッハーの組織する「戦時冬季救済活動」の一環のコンサートとある。厳しい冬に恵まれない人を助けるためのナチ党の取り組みで、ウィーンのオーケストラもこういう名目がないと、演奏会は催せなかったのであろう。

前年12月のベルリンの慰問コンサートでも登場したが、日本側の主催者は「独日協会」(日本側からすると日独協会)であった。ベルリンの日本大使館の文化部に勤務した大賀小四郎が、根自子のコンサートに奔走したという事なので、彼が日独協会の日本側代表であったのであろうか?

余談であるが、後年根自子の夫となる大賀小四郎は、ベルリンの日本大使館、報道担当官として「新しい中国」(Das neue China)という声明を1943年7月12日に発表し、それをウィーンの新聞が紹介している。ドイツ語の腕に覚えのある方は、こちらからお読みください。

そしてコンサート後の10月28日、ローランド・テンシェルト博士(Roland Tenscherth)のコンサート評が紙面に載る。
諏訪根自子について「5歳から音楽を始め、8歳で最初のコンサートを成功させた」と生い立ちから紹介し、
「ゲッペルスからストラディヴァリウスを贈られ、芸術家としての最高の栄誉を受けた」としている。そしてコンサートについては
「日本の若い女性(諏訪根自子のこと)は、聴衆から嵐のような祝福を受けた。」と絶賛している。

なおこのコンサートに関しては
「手放しの賛辞というわけにはいかず、ゲッペルスから贈られた楽器に対して嫌悪の反応も見られたという」と、萩谷由喜子は冒頭に挙げた本に書いている。おそらく根自子本人、または近親者から聞いたものであろうが、当時の言論統制下の新聞よりは、こちらが事実に近いのであろうか?



<ウィーン再び>

1944年5月15日、モーツアルトザールでまた独日協会ウィーン支部主催の「バイオリンの夕べ」が開かれる。バイオリンが諏訪根自子、ピアノ伴奏はエゴン・コンラート博士(Egon Kornrath)であった。そして5月19日にはフリッツ・スコルツェニー(Fritz Skorzeny)の評が新聞紙上に載る。

この根自子のコンサート自体、まだ紹介されていないようだ。1944年5月といえば、ドイツ主要都市への空爆の激しさも増していたが、当時ウィーンに留学していた西村ソノによると、同年末位まで、クラッシック音楽のコンサートが行われたという。

この時にウィーンでコンサートを開いたとすると、根自子はベルリンから行ったことはほぼ間違いない。1943年秋のウィーンフィルとの共演以降にいったんパリに行き、またベルリンに戻ったのであろうか?それともずっと留まっていたのか?

そして今回のコンサートのすぐ後、5月末にはパリに戻ったはずだ。6月6月、フランスのノルマンディに連合軍が上陸する。それ以降に根自子がフランスに行く事は、危険すぎてありえない。また連合国がパリを開放する直前の8月12日にパリを発ち、ベルリンに逃げ戻った時の苦労談は、すでに何度も紹介された。

深田祐介は「美貌名で昭和」の中で
「この名器(ストラディヴァリウス)を携えて、根自子はフランスとドイツの間を足しげく往来する。根自子は生活の本拠は最後まで、パリのカメンスキーもとに置いていたのであった。」と書く。
「足しげく往来」が事実とすると、ゲッペルスからストラディヴァリウスを贈られた1943年2月22日以降、どういうタイミングでパリに戻り、向こうで何をしていたのかは、依然良く見えない。筆者の根自子探求は続く。

(2016年5月22日)

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