日瑞関係のページ HPの狙い
日本 スイス・歴史・論文集 第二次世界大戦・終戦史・和平工作・在留邦人・ダレス機関等 瑞西

日瑞関係トップアンケート写真館気になる人 第一部

筆者の書籍の案内はこちら

戦時下の欧州邦人、気になる人 2
 

3 “語学将校“遠藤 悦 「光は東より」

ヤマハ発動機のベルリン駐在員であった佐貫亦男は自著「追憶のドイツ」の中で、遠藤中佐にまつわるエピソードを詳しく書いていて2003年に筆者も以前にそれを取り上げた。(「ベルリン日本人会と欧州戦争」)

ポイントは2点である。
遠藤はベルリンの陸軍武官事務所内で.、”語学将校”と陰口を言われていた。「ドイツ語は出来るが仕事はちょっと、、、」という意味であろう。実際、遠藤のドイツ語は卓越したものであった。日独軍事協定の日本の案文をドイツ語に訳したのも遠藤であったが、締結の前にカイテル元帥がその案文を指しながら
「このドイツ語はだれが書いたのだ。一語も間違いのない、また素晴らしい表現だ。」と褒め称えた。
遠藤は日本では陸軍兵学校のドイツ語の教官を務めていた。

また一九四二年暮、米軍がアルジェリアに上陸した頃、遠藤少佐が「光は東方より」という講演を日本人会で在留邦人に対して行った。彼の表現は文学的であると同時に、舞台の台詞のようにはっきりした印象を聞くものに与えた。

このドイツ語に卓越した将校とその講演に関しては、そういうエピソードがあったという以上の展開はないと考えていた。ところが紹介してから10年以上を経て、主催元であった「ベルリン日本人会」によるこの講演会の案内が外交史料館の史料の中に見つかった。


(外交史料館資料より)

角が欠けているが、大体次のようなことが書かれている。

「御通知 在独日本技術者協会」 昭和18年2月6日(1943年)

1 日付 第二回  2月15日(月) 19時半より
      第三回  2月16日(火) 19時半より

2 講演  「題」 日本精神(光は東から) 陸軍少佐 遠藤悦
3 場所   於日本人会

ここには第二回、第三回とあるので、筆者が「ベルリン日本人会と欧州戦争」の中で紹介したのは、1942年暮れの第一回の様子であった。そこでは遠藤の講演に続く質疑では、枢軸側の劣勢から、軍部を皮肉る辛口の質問も民間人からかなり出たようだ。しかしさらに続いたことからすると、総じては在留邦人の中で評判が良かったかと推測される。

この書類はベルリン日本人会が発行する「オイロパシフィック」2月11日発行(第二回)の最終ページに付いていた。日本人会の活動範囲には今回のような講演会のほかに会報の発行があった。見つかった「オイロパシフィックニュース」はかなりの頻度で日本、世界にまつわるニュースを伝えている。個人では日本、大東亜戦争の推移なども知ることが難しくなったベルリンにおいて、それらを在留邦人に知らせる重要な情報源であったと思われる。そしてこの会報の存在はこれまで知られていなかった。

保存されているのは1942年10月1日から1943年2月15日のもので、それだけでバインダー三冊にもなるほど、頻度が高く発行されている。そしてそこではニュース記事ばかりを紹介しているが、このお知らせのみが例外である。

下のコピーにあるように表紙にはパリのスタンプが付いている。パリの日本人(会)向けに送られた一部が今残る現物のようだ。パリの邦人の誰かが、日本への引き揚げの困難な状況にもかかわらず持ち帰ったのであろうか?また右端の英文スタンプからすると、パリに進駐した連合軍により接収され、戦後日本に返還されたものかもしれない。日本人がパリ脱出に際し、焼却せねばならないほどの機密性の高い書類ではなかったからだ。それにしてもこんな文書がよく見つかったと自画自賛!?

(外務省外交史料館資料より)

遠藤のドイツ語に関して、同じ時期ベルリンの陸軍武官室に勤務した大谷修少将は日記に次のように書いている。

1943年7月15日
夜、この度の「セ」号関係者のドイツ人8人をNoll(陸軍武官事務所のあったノレンドルフのこと)に招待して歓談する。小松武官在独2年半にして、卓上謝辞(テーブルスピーチ)すらドイツ語で述べること能わず。遠藤少将を通訳とする。
心細きかな、これにて真の(日独同盟の)任務は務まらぬこと明瞭。陸軍大学出身の肩書だけで出世していくものの情けなさ。(一部現代語に改めました)

遠藤が武官の通訳を務めたことが分かる。また日記の中とはいえ、ドイツ語を全く話そうとしない上司である武官への痛烈な批判が書かれている。

1939年のドイツ赴任当初に大尉であった遠藤は、1945年のドイツの敗戦時には駐ドイツ陸軍武官室補佐官で位は中佐であった。陸軍においては“語学将校”も他の将校同様に正当に処遇されたようだ。

なお講演の題名「光は東から」の意味についてネットで調べると
「古代ローマのことわざ。ローマの文化は、東にあるギリシャの文化を受け継いでいるの意。転じて、世界の文明は初めにエジプトやメソポタミアなどオリエント(東方)に興ったの意。」とある。遠藤はそのオリエント(東方)に日本を意識していたのかもしれない。

戦時中ドイツを中心に留学生活をおくった桑木務は、榛名丸で欧州に向かい途中のポートサイドで
「その間、私は世界三大宗教と”光は東方より”という文句を考え続けた」という。当時は広く使われた言葉なのであろうか。

(2014年3月15日)

遠藤 悦
1929年 外語大学ドイツ語科 その後病気のため休職(休学?)
11935年 陸軍省の官房 ついで参謀本部のドイツ課
1938年10月にドイツに。



日本で幼少期を過ごしたリリー・アベックはスイス人であるが、ドイツの新聞フランクフルター・ツァイトゥング紙の特派員として、戦前戦中を日本で過ごした。

そして彼女は1937年、日本について『世界征服を目ざすもの』という邦題の本を出版した。訳者の鈴木東民は「訳者の言葉」で、リリーを「ナチ主義の熱烈なる信奉者」と紹介し、さらに
「原著の扉に著者(リリー・アベック)はわざわざドイツの有名な詩人 シュテファン・ゲオルゲの詩からから次の一節を引用いていることを、念のために付け加えておこう。」と書いた。そして
「だが今度は 光は当方から来ない」"Doch diesmal kommt von Osten nicht das Licht"
とその一節を紹介した。

このドイツの象徴主義を代表する詩人、シュテファン・ゲオルゲの言葉は遠藤悦が講演で語った「光は東から」が元になっている。ナチスはゲオルゲの選民的とも見える思想を利用しようとしたが、それを避けるようにドイツを去った。
(2017年7月3日 追加)

筆者の書籍の案内はこちら


 
気になる人 第一部 トップ