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筆者の欧州における邦人の調査はもっぱら書物によるところが多い。もう存命する方も数少ないからである。そうした書物を読む中で、気になる人物に出会うことがある。 多くの場合、書かれているのはほんの数行である。そして何年か経つとまた数行、別の書物で出会う。そんな奇遇を喜ぶが、その人の半生を語るにはあまりにも情報が乏しい。でも待っているといつ書けるか分からないので、このタイトルで書いてゆく。これを読んだ方により、新たな足取りがつかめることを期待しつつである。 1 ビュルガー ジェンヌ。(Jeanne Buerger) 1 出会い 2006年ころ、当時一橋大学の加藤哲郎教授が戦時中ドイツに滞在していた崎村茂樹について、広範な調査を行った。興味深い取り組みで、私も持ち合わせた当時の欧州邦人の情報で協力させていただいた。 その調査の中で崎村のベルリンでの上司であった新日鉄(当時)の島村哲夫の追悼集『島村哲夫君を偲んで』(非売品、1978)という本が探し出された。そしてその中には伊藤ジェンヌという女性による「戦時下独逸での島村さん」という記事が寄せられていた。 写真中央の女性が伊藤ジェンヌである。筆者はドイツ人が書いた戦時下の欧州邦人ということに興味を抱いた。 ![]() 彼女の文章からすると次のような人物像となる。 母親はフランス人である。(そこからJeanneという名前が来ているのであろう。) 1941年当時、ベルリンでゲッペルス率いる宣伝省のための仕事を手伝っていた。島村哲夫のヒトラーユーゲント施設見学のための通訳として、4,5日間労働奉仕した。 この文章を書いてから5年後の2018年12月、島村の親族の方から、1枚の写真を提供していただいた。右端が島村だが、ニッカポッカを履いており、場所も郊外だ。その左隣は風貌からして陸軍関係者だ。筆者はこれはジェンヌが書くヒトラーユーゲントの施設を見学した際で、左端がジェンヌで間違いないと考える。このホームページでまた嬉しい繋がりが出来た。 ![]() 曲渕江里子さん提供
2 浅井一彦(満州重工業) 大佛次郎の「終戦日記」を読んだ。新聞のコラムで賞賛されていたのを目にしたからである。大佛次郎といえば、横浜港の見える丘公園に記念館がある。今度行ってみよう。さて氏は鎌倉女学校教師の傍ら、外務省条約局の嘱託であったという。また新聞記者との付き合いも多く、終戦時も日本の政治の動きがすぐに耳に入ったようだ。 筆者は直接在独邦人に関係しない本を読むときは、このキーワードを探して、猛烈な速さで本に目を通していく。そうして目に留まったのは、次の文章であった。 1945年7月24日 「伊豆に空襲警報出て心配したが、間もなく解除となる。(鎌倉の自宅から)田園調布、山本宅へ行く。ドイツに最後までおりし、満州重工業の浅井一彦(Kazuhiko Asai) の話を聞く為。 ○ 浅井氏(ソ満国境の町)満州里へ着くと、直ちに(憲兵より)箝口令を言い渡された。」(括弧内は筆者補足) 日本降伏のわずか20日前、鎌倉から田園調布まで電車で移動することが出来、高級住宅街である田園調布にまだ空襲にやられていない家があったというのも筆者には驚きだ。敗戦直前まで日本の首都はそれなりに機能していたと言えよう。 満州重工業の駐在員としてベルリンに駐在していた浅井は、同年5月にドイツの降伏で、ベルリンに進出してきたソ連軍に保護され、シベリア、満州を経由し、日本に戻ったのであった。この時日ソ間にはまだ中立条約が存在していた。浅井の体験したばかりのドイツ敗戦のコメントが日記に出ていたのに興味をひかれた。 敗戦ドイツから引き揚げてきた邦人が満州に入るや否や、憲兵より見てきたドイツのことは喋らないようにと釘を刺されていたと言う。そうした状況であるが次のようなことが、大佛の日記に載っている。 「ベルリンの話。日本に似過ぎている。くろうと筋は戦争を投げながら、国民だけは楽観させておいたが、逐次様子が知れてきた。」 ベルリンに来たソ連兵に関しては 「家族的な民族なので、懐郷の念深く子供の写真を見せたり、帰る話ばかりしている。受けた尋問には一つの型があって上下を支配していた。食事に満足しているか?と最初に言う。次に教育程度を尋ね、これが高いと知ると急に丁寧になる。」 浅井一彦の名前は筆者はこれまで何度か目にしてきた。これまで集めた情報を元に作成した独自の在欧邦人のデーターベースによると、浅井に関して次のような人間像が浮かび上がる。 1 「大戦下の欧州留学生活 桑木務」 ドイツ、フィンランドで戦時下の留学生活を送った桑木務は書いている。 「そのほか記憶に残る人に浅井一彦氏がいた。夫人がドイツ人だったので、私は(奥様の)日本語レッスンを頼まれて、数回お宅に伺ったことがある。当時氏は石炭工学に専心していたようだが、すでにゲルマニウムの研究も始めていたらしく、私もおぼろげながらその説明を聴いた覚えがある。 それよりも氏が私に秘蔵のクラッシック・レコードを公開してくれて、チャイコフスキーの第六交響曲に主客とも陶然として、しばし戦争を忘れたものだ。」 時期は不明であるが、ベルリンに対する空襲がかなり激しくなってからではないか。そしてドイツ人を妻として音楽を愛する氏の姿が想像される。 2 1941年発行の在独日本技術者協会(技術院)名簿 上記の名簿には次のように記載されている。(外務省外交史料館蔵) 浅井一彦 専門科目:鉱山。 主業務:石炭採掘及び石炭企業の合理化。 石炭関係が専門であったことがここからも確認できる。 3 「ベルリン日記 大谷修」 断片的に残された個人の日記であるが、1943年3月14日(日)に次のように書かれている。 「快晴 気温15度 夏季土曜、日曜の週末保養地としてベルリン東南部の一家を間借りせんと欲し、満重の浅井氏を伴い自動車行をなす。6歳と5歳の2児を連れたれば、誠に愉快なり。一日を郊外に過ごし楽しく帰宅す。」 ベルリンの大谷陸軍少将は航空担当であった。石炭、ゲルマニウムの研究者である浅井とは、その関係で繋がりがあったのであろうか。 またドイツの開戦と共に日本人駐在員の子息は皆靖国丸で日本に引き揚げた。奥さんがドイツ人とはいえ、日本人の子供で戦時下のベルリンを最初から最後まで体験した数少ない二人である。 4 朝日新聞 1943年11月29日 「在留邦人殆ど無事」 「11月22日から23日に渡る米英空軍のベルリン盲爆に関し、大島駐独大使から在独邦人被害状況につき、外務省に達した公電によれば、ベルリン在留日本人は25日正午までに判明したところによれば、満州重工業ベルリン駐在員浅井一彦氏が大腿部骨折で負傷した他には死傷者なき模様で、一般邦人は同市安全地帯に避難し、無事執務しているとのことである。」 この空襲を含めベルリンの邦人では、筆者の調べた限りでは終戦までを通して浅井が唯一の空襲の被害者であった。一般のベルリン市民に比べて、駐在邦人は優れた防空設備のそばにいることが出来た証左であろう。 付け加えるとこの空爆で朝日新聞のベルリン支局も被災してしまったりと、日本の報道機関も大きな被害を受けた。そのため次の同盟通信の記事はスイス、チーリッヒ支局から送られた。 「英空軍のベルリン盲爆にもかかわらず、同地帝国大使館は殆ど、損傷を受けず大島大使以下一同元気だが、大使館の一部は万全を期するため安全地帯に移動する予定と伝えられる。」 この報道は言論統制下の典型的なものと言える。実際にはこの空襲で大使館は殆ど使い物にならなくなったと関係者は語っている。 5 邦人名簿より 1937年発行の日本人名簿によれば、浅井は大倉商事ベルリン支店勤務となっている。また1942年発行のドイツ日本人会発行の名簿では、勤務先は鉄鋼統制会である。それ以降満州重工業に職を見つけたようであるが、日本から駐在員として派遣された邦人と異なり、外国人を妻として苦労して現地で職を見つけた様子がうかがわれる。 最後に1945年1月発行の在独邦人名簿で一家の構成を知ることが出来る。 浅井一彦 (会社員) 浅井エリカ (妻) 浅井博 (長男) 浅井那智子(長女) 浅井洋子 (次女 1942年生まれなので先の大谷の日記には出て来ていない。) 五人家族で夫妻が所持するのは日本国ではなく、満州国の旅券であった。 今改めで気づいたことだが、満州国に雇われていた邦人は外国人を妻とするものが多い。 横井真一(公使館雇) 妻 クララ 吉岡進(公使館雇) 妻 アグネス 現地に長く暮らしドイツ人を妻とする邦人にとっては、日本大使館ではなく、満州国公使館に仕事を探しやすい、事情があったのであろう。 また満州重工業勤務でありながら、ドイツ引き揚げに際し、満州に留まることなく日本に帰ったことは事は、浅井一家にとっては幸いであった。 6 その後 今日、彼の技術を使った製品を扱う株式会社バンガード太陽のホームページに浅井の経歴が出ている。 1908年3月31日 満州大連に生まれる。 1932年 東大法学部卒業 1934年 渡独。 1943年 ベルリンのシャロッテンブルグ工大鉱山冶金科卒業。エッセン公立石炭研究所に入社。 (この部分は筆者のデーターベースでは確認できない) 1945年。帰国 財団法人石炭総合研究所を創立。 1967年 世界初、安全性と有用性が確認された水溶性有機ゲルマニウムの合成に成功 1982年 死去。 生涯をゲルマニウムの研究に奉げた方であった。三人のお子さんはいまだご健在であろうか? (2014年2月16日) 7 「ドイツにヒトラーがいたとき 篠原正瑛」 この本には次のような記述がある。 「当時ベルリンにいた商社関係の日本人で、ドイツの女性と結婚している人があった。この話は、ベルリンに対する空襲がはげしくなってきた1943年ころのことらしいが、ある夜、猛烈な空襲があって、その日本人の住んでいる建物もたくさんの焼夷弾をうけて棟全体が火に包まれた。 彼は3階に住んでいたが、他の階の(ドイツ人)住民たちと協力して献身的に消火にあたった。しかし火の勢いは衰えるどころか、ますますはげしくなる一方なので、他の人たちは逸早く避難したが、最後まで踏みとどまって消火に努力した彼が、ついにあきらめて避難しようとしたときには、どの出口にも火が回って脱出不可能であったという。 そこでかれは3階のベランダに出て、庇(ひさし)にぶら下がったまま手をはなし、落ちるように飛び降りたが、その瞬間ドイツ語で「ヒトラー総統万歳!」と叫んだそうである。彼には、後にナチ政府から勲章が贈られたという。」 これは浅井のことで、朝日新聞にある大腿部骨折はこの時に起こったと筆者は推測する。 (2014年9月8日) その後判明した事実はこちら 筆者の書籍の案内はこちら ![]() |
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