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日瑞関係トップ杉本勇蔵と戦時下のハンブルク │ベルリン日本人会靖国丸コンタクト

ハンブルクの日本人墓地と戦時下の総領事館


<序>

奈良県在住の木村勇さんから「ハンブルクの公園墓地(die Friedhöfe Ohlsdorf )の一角に立派な日本人墓地の石碑が建っている。」と教えていただいた。

添付されていた写真を見ると、手入れされずに読みにくくなった墓碑にはドイツ語で„Ruhestätte der Japanischen Kolonie in Hamburg”と書かれ、訳せば 「ハンブルグの日本人居留民の墓地」である。同墓地のWEBサイトを見ると先の墓碑の写真とともに、 「1944年、ハンブルク日本帝国総領事館による骨壺の埋葬のため、大きな墓石の設置が(ハンブルク当局により)許可された」という解説がある。

ハンブルクには戦前から日本船が寄港した際、当地のドイツ女性と懇意になり、そのまま住み着いた日本人船員が多くいた。そしてハンブルクで亡くなった人もいたはずだ。

ドイツ敗戦の前年に建てられたことを考えると、先の大戦とも関係がありそうだ。ドイツが戦いに敗れれば、日本人も引き揚げざるを得ない。それを見越して、これまで同地で亡くなった身寄りのない邦人を合同で埋葬する墓が急きょ用意されたのではないか?というのが筆者の読みであった。さらにはどのような方が埋葬されているのであろうかと、筆者の空想は膨らんだ。


墓碑の写真(木村勇さん提供)。同墓地のサイトではもう少しはっきり文字が読める。こちら



<ハンブルクの日本人>

1942年4月現在のドイツ日本人会による「ドイツ国日本人名録」という史料が手元にある。当時の邦人の実情を知るのに欠かせないものである。ハンブルクについて見てみると 日本国総領事館は黒田音四郎他2名の3名のみである。一方ベルリンの日本大使館が45名と、外交の主体はベルリンにあったことを物語っている。他に満州国が総領事館を設置していた。こちらは5名である。

民間人は日本から派遣された横浜正金銀行の和田定史、奥村仁郎の2名と2名の留学生堀岡智明と田中泰三を除くと、他は 以下のようである。
古谷静夫(料理人)
石渡七蔵(鉄鋼場技師)
河内勇(日本食堂主)
西村貞雄(料理人)
中村亀太郎(マッサージ師兼下宿人)
竹内甲午(真珠販売などの輸出入業)
渡辺光久(職業人)
山田石松(商業)
横田信雄(芸人)

そして彼らの職業を見ると、長くこの地に暮らす方々であることが分かる。筆者が調べただけでも、石渡、河内、中村の妻はドイツ人である。

そして外交史料館には上のリストの石渡七蔵が1944年5月19日、食道癌にて死亡という記録が残っている。まさにハンブルク総領事館が墓地を契約した年である。 彼の死をきっかけに墓地が手配されたと考えられないか?ただし外交文書にこの墓地について書かれたものは残っていないので、契約は総領事館の独自の判断で行われたのであろう。



<終戦時のハンブルク総領事館>

ここでハンブルクの日本総領事館の終戦時の動きを見てみる。ベルリンの日本大使館、ウィーンの総領事館に関しては外交史料館に報告書が残り、外交官の引き揚げの様子を詳しく知ることが出来る。しかしハンブルクの総領事館の記録はない。その理由は、実際にドイツ敗戦時に日本に引き揚げ、報告書を書く外交官がいなかったからだ。

総領事館は1945年1月時点では黒田音四郎総領事、出納功領事、丸尾至外務書記生の外務省出身者と田中泰三嘱託(ハンブルク大学講師)というこじんまりした人員構成であった。

出納領事はベルリン北西約150キロのメクレンブルクに避難した邦人の世話係として同地に赴き、5家族30名の日本人を引き連れ、モスクワ経由で帰国する。出納は立派な報告書を書き残している。(昭和20年06月09日 ドイツ国メクレンブルグ在留邦人引揚に関する報告及被害届)
田中泰三嘱託はメクレンブルクに避難者として加わった。

先述の死亡した石渡七蔵の妻マルタも、ひとりで出納のメクレンブルクの避難所に加わっているが、敗戦後は生活基盤のあるドイツに留まったようだ。ドイツ夫人にとっては夫の出身地で未知の国日本に向かうか、それとも祖国に留まるか、大きな決断を要することであった。

外務書記生丸尾至はベルリンからスエーデンに避難する日本海軍の駐在者と共に、中立国スエーデンに逃れた。しかしこれは入国ビザを持たない不法入国で、ストックホルムの岡本季生公使は「いやしくも外交官が不法入港するとは何事か!」と激しく怒った。たしかに問題の多い行動であった。こうしてハンブルク領事館に留まるのは黒田領事だけとなった。



<黒田総領事>

墓地契約時の総領事であった黒田について戦後書かれた書物は少ない。筆者が探した限りでは1943年7月のハンブルク大空襲に関し、日本にセンセーショナルな伝え方をした。黒田音四郎(おとしろう)はそれ以来、その名前をもじって黒田脅し郎(おどしろう)と日本で呼ばれたという。

1945年4月20日、ドイツ降伏18日前の、ハンブルク総領事館の手書きの修正文の入ったパスポートが残されている。所持者はスエーデンに避難した同姓の黒田捨三海軍大佐のご遺族である。赤字で「造兵大佐に訂正」と書いたのは黒田音四郎総領事自身か?総領事館は連合軍が迫る中、まだ機能していたことが分かる。

黒田大佐のパスポート

そしてハンブルクに留まった黒田領事は、進出してきた英国軍によって抑留された。避難しなかったのは領事館を占領軍に引き渡すという任務を帯びていたからであろう。

敗戦直後のハンブルクに関し、短いが黒田の記述が残っている。これは検閲目的でGHQに提出した雑誌が、プランゲ文庫に残るもので、国会図書館にも残されてはいない。
「僕の家の前の川岸の芝生には所狭き迄、ねちゃ付き回る男女の甘い狂態に、2階のヴェランダで俯瞰する独身者たる僕(黒田)が、度々眩暈を覚えた事は言うまでもない。
日曜日など近郊の森林の中を散歩すると、静かな樹下に、悦楽境を楽しむ男女の嬌態に遭遇し、我ながら赤面して回れ右をして引き返さざるを得なかったことも往々あった。」(『ヒトラーの死その後』黒田音四郎より)

この文章からは、黒田が敗戦後も別の場所に移され抑留されることなく、それまでの住まいであった総領事官邸に留まり、散歩も許されていたことが分かる。総領事館官邸は住所が”ライン小道6番(Leinpfad 6)”でアルスター湖に面している。黒田は下の写真のベランダから連合国兵士とドイツ女性の嬌態を見たのであろう。なお官邸の建物は今も残っている。

菊の紋章の見える総領事官邸(グーグルより)



<埋葬者>

ではどのような方が埋葬されているのであろうか?筆者は同墓地管理者に埋葬者の名前を訪ねた。墓地はどこも埋葬者に関してはしっかり管理している。いわば生命線あるから。そして次のような回答をいただいたが、やや予想外の内容であった。
「墓地には13人分の遺骨が納められるようになっています。しかし骨壺は2つしか納められていません。
1 中村亀太郎 1877年6月11日生まれ、1944年7月23日死亡 埋葬は1945年6月12日。 2 中村・ベアトリス・リリー夫人 1882年生4月16日生まれ、1963年3月17日死亡。埋葬は同年4月17日。
意外にも共同墓地という名称でありながら、中村夫妻しか埋葬されていないのであった。



<中村亀太郎>

1944年に石渡の他、中村も死亡していたことは、外務省に記録も残らず、意外であった。また埋葬された1945年6月12日は、ドイツ降伏後でイギリスの占領下である。黒田領事がイギリスの許可の元に行ったのか、それとも石渡のドイツ人の友人らが行ったのかは興味のあるところだ。

では中村亀太郎とはいったいどのような人物であったのであろうか?筆者の手元にハンブルクの新聞“Hamburger Mittatgsblatt“の1941年1月30日号がある。ハンブルクに暮らすドイツの同盟国民日本人の紹介記事が掲載されている。そこには中村が写真入りで次のように紹介されている。

「中村は旅館の経営は、時代がよくなるまで、しばらく辛抱しなければならない。彼は長くサラザニサーカス団で芸人として働いていた。今の夫人をパートナーにバラエティショーを演じた。今も彼は健康が自慢で63歳にもかかわらず、マッサージ師として働いている。」
日本人会の名簿に職業「マッサージ師兼下宿人」となっているのは見てきた通りだ。


新聞に紹介された「仕事中の中村亀太郎」

彼は筆者が想像した脱船者ではなく、サーカス出身であっった。軽業師を中心に、戦前海外で巡業を行った日本人も多かった。1914年9月時点で、欧州に渡っていた芸人は18組であったという。西村貞夫という人物が横田一座に属していたが、彼は先の日本人名録のハンブルク在住者西村貞雄(料理人)と同一人物かもしれない。横田信雄(芸人)もサーカス出身をうかがわせる。

また中村が長く所属していたドレスデンの「サラザニサーカス団」には、沢田豊一家が属していて『海を渡ったサーカス芸人』(大島幹夫)に詳しく紹介されている。

冒頭の木村さんの話では、現在ハンブルクの日本総領事館は全くこの墓地に関与をしていないようだ。中村家のドイツ側遺族によって、このお墓は維持、管理されているのであろうか?それともかなり荒れているので、管理者はいないのであろうか?
(2017年7月14日)

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