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心の糧(戦時下の軽井沢) 第二部

<日野原重明>

今も現役の日野原重明は次のように証言している。
「1941年夏、聖路加国際病院内科に赴任する。早速7月から9月まで聖路加の軽井沢診療所に勤務。1944年まで、毎年夏期は、そこでの勤務を命じられた。旧道の”ふじや旅館”の小路を入ったところにあるお寺の境内に接して建てられた木道2階建てを改装したものであった。

主人だけが東京に残り、週末だけ軽井沢に来るような人が少なくなかった。軽井沢に移るとすぐに子供たちは、よく下痢をしたが、それは何か水が変わったためかと思われるふしがあった。

川端康成氏、歌人の佐佐木信綱氏などは、お孫さん連れで、夏はここで過ごされていたが、そのお孫さんたちの病気のためにこれらの別荘を何回も往復した記憶がある。鳩山さんや、ブリジストンの石橋さんのお宅などにも何回か往復した。来栖アリス夫人に懇意にさせていただいた。度々お茶の時間に訪問した。

重い病人がでるとマンロー医師が所長をしていた軽井沢病院に患者を入院させるのが常であった。小さな木造の病院であったが、すべてが清潔であり、また、アメリカ式の運営がなされていた。」

ここでは川端康成は戦時中も、軽井沢を避暑で訪れたことを想像させる。ただし孫は誰の事か不明である。



<緒方貞子>

後の国連高等難民弁務官を務める緒方貞子は、中村豊一元フィンランド公使の長女である。緒方は白金にあった聖心女子学院に通う。自宅は田園調布である。3月10日の大空襲で学校が焼けてしまう。同じ月に卒業式を終えると、家族で軽井沢に疎開する。そこには聖心のシスターも疎開していて、英語の勉強に通った。

「私は身体を動かすのが大好きでしたが、あまり動くとお腹が空くので、香港で覚えたテニスもなるべくしないようにしました。」と語る。三笠ホテルで外務省出張所の雇として働くが、ほかに4,5人くらい、外務省関係者の子供がいた。
「一番下のランクでお使いとか電話番とか、雑用が少しあるくらいで毎日座っていただけのようなものです。弁当を持って、自転車で通勤しました。かなり距離があるのですが、若かったのか、つらいとは思いませんでした。」



<外務省出張所と若い女性>


緒方の書く三笠ホテルに開いた外務省の出張所であるが、大久保利隆元ハンガリー公使を含め5名の職員がいた。(「ハンガリー公使大久保利隆がみた三国同盟」に詳しい)そしてそこには先述の緒方のように、外交官を父に持つ、外国語が堪能な、若い女性が加わった。若い女性は無職であると、徴用され工場で働かされた。彼女らの働く目的の一つは、それを逃れるためであった。

そこには三谷隆信フランス大使の長女(邦子)や、宮崎勝太郎元ルーマニア公使の長女らがいた。三谷邦子については後にまた述べる。また来栖大使の次女輝も通訳として働いたという。輝は1947年にはGHQに勤務していた米国人フランク・ホワイトと結婚するが、結婚式は軽井沢で行われた。

三谷大使のフランスの前任地はスイスであった。スイス公使の後任は阪本瑞男(さかもとたまお)となり、1942年8月8日に正式に辞令が出る。阪本は健康上の理由で5月から軽井沢で静養中であった。このように日本人外交官も多く、軽井沢に名前が登場する。



<室生朝子>


詩人で小説家の室生犀星の長女朝子は
「私は昭和2年、4歳の時から、犀星が亡くなる前年の昭和36年まで、毎年夏を軽井沢で過ごしていたのである。その間、昭和19年から24年までは戦争を避けて疎開をしていた。(中略)
従って軽井沢は、犀星、母、私と弟にとって、ふるさとと同じ意味を持つ所である。」と「父犀星と軽井沢」に書いている。文学界に関しては彼女の情報が役立つ。

1944年の6月、辰っちゃん(堀辰雄)は東京杉並の家から、最初に大切な書物類をトラックで送り、間もなく軽井沢の1412番の家に疎開した。この話を聞いた母は「あの体の弱い辰っちゃんが、寒い軽井沢に行ったのなら、私だって大丈夫ね。お父様、疎開しましょうよ」と突然であるが、ごく自然に言った。犀星は、
「よく、とみ子(母の名前)が疎開するつもりになってくれた。気が変わらぬうちに早く事を運ぼう。わしはほっとした。」

朝子と弟で半身不随の母を軽井沢まで運んだ。1944年7月の末であった。前後して正宗白鳥一家も居を移した。川端康成も毎年軽井沢を訪れているが、戦時下と特定できる記述は少ない。



<正宗白鳥>


小説家正宗白鳥は書く。
「私は、翌年(1945年)の5月の下旬に、東京の洗足池畔の堅固なわが家が爆撃され完全に焼滅するまで、大きな袋を背負って交通難を耐え忍んで、17回、軽井沢、東京間を往復した。それで、何かの家財を運んで来た。」
17回も往復できるとは恵まれていたと言えよう。
室生朝子が書く
「ちょうど下りの列車が軽井沢駅に着いて、大きな荷物を持った人達が、次々と改札口を出てきた。」その中に正宗がいた。
「いま、東京からお帰りですか?」と聞くと
「うん、お釜を取りに行ってきたのだがね」
「まあ、お釜を、、、」朝子達は笑うのをやっと我慢した。
わざわざお釜を疎開先に運んだことは、当時としても滑稽な出来事だったようだ。

以下は終戦の年の4月28日の清沢洌の日記からである。
「午後、正宗白鳥氏を訪れる。それでなくても風采のあがらない人が、厳寒を高原におくって、むさ苦しい田舎労働者となり終う。アメリカの純粋コーヒーと、クルミ、ピーナッツ、ドーナッツ等、珍品を御馳走になる。」
アメリカのコーヒーが出て来るとは驚きである。また
「(”自分は)飢えと寒気と戦って、ただ生きてきた”と、(正宗は)吐き出すようにいう。無知の農夫や労働者が、高い闇相場の金をとって、しかも王者のように威張り通す。」と腹の中では闇物資の高さに怒っていた。

「自分の家が焼けたので、その後は上京の必要はなくなったのだが7月のうちに、情報局から参会要求の書状が来た。私は”事を好まず、危うきに近よらず“という老僧の訓戒を破って、亡ほろびに近づきつつある陰惨な東京を見ることの興味にかられて上京した。内務省の5階が会場になっていて、その日はそこに、音楽家や落語家なども招きに応じて来ていた。」
と正宗は終戦直前まで東京と往復する。

1945年6月23日の朝日新聞は
「拓いた高原処女地 筆を鍬に。緑燃ゆ知識人の村」と題し、
ロシア文学の米川正夫氏、野上豊一郎氏、同弥生子女史夫妻、能の泰斗桜間金太郎氏らが軽井沢に疎開したことを告げる。

野上弥生子は実際には1944年の晩秋に疎開している。自身日記の1944年11月5日に
「私達が、仮に冬季疎開会と名付けて組織しようとする団体は、21軒になった。蒔一本、木炭一片、ジャガイモ一粒、葱一株も、事務所を通じて手に入れるほどのものは、ともに分かち合って行こうというのが会の趣旨であった。」(「山荘記」より)
野上の疎開場所は北軽井沢で、旧軽井沢よりは奥まっていた。もっぱらそこに籠って生活をした。



<前田公爵>

お水端(旧軽井沢ゴルフ場そばのスプリング)のそばの大きな庭に囲まれた、立派な山荘に住んでいたM侯爵のお嬢さんのヨー子の所に遊びに行っても、食糧難ゆえに応接間でうやうやしく出されたのはお番茶だけであった。(西村クワ)

M候爵は加賀藩主前田家16代当主、前田利為である(1942年戦死)。ヨー子は次女・瑤子で間違いないであろう。1928年生まれでクワに近い。長女の前田恵美子は次のようなことを書いている。
「芳子は徴兵逃れのために貴族院会計課長の秘書と言う名目のまま、次第に空襲の危険にさらされ始めた東京を棄てて、さっさと軽井沢の別荘へ疎開した。軍需会社のトラックを調達すると荷物を満載し、彼女はそれを運転して2往復した。無免許のまま関東平野を突っ走り碓氷峠の難所を越えたのだが、戦闘帽をかぶった男装の麗人をだれ一人とがめる者はいなかった。」
(「ある華族の昭和史」 酒井美意子)
芳子は別の公爵家の、鼻持ちならない娘として描かれているが、これは実は妹である瑤子のエピソードではないであろうかと筆者は考えている。

次のH夫人の主人は貴族院の議員だという。(野上弥生子)
1945年3月27日
「H夫人が見える。彼女は70個の荷物を一貨車にして送り出したが、他人名義にしてあるので、まことにH家のものであるのを駅長に証明するため、昨日午後急に出かけて来たとのこと。規則はやっと8個でにあっても、これだけの便宜が特別に与えられるのだ。」
このHとは旧肥後熊本藩主細川家の第17代当主細川護貞家のことであろう。近衛首相の秘書官を務めた細川護貞の細川日記は別の個所で紹介する。



<坂本直道>

直道は坂本龍馬の孫にあたり、坂本龍馬家の家督を継いだ。南満州鉄道参与を務めた。日米開戦後は官憲から監視を受けるようになり、軽井沢に隠棲する。(ウィキペデイア)

「戦前フランスに駐在していたので、そのころ有名な西洋人の著書をほとんど買って帰られ、その本を祖父(鳩山一郎)は借りて読んでいた。ふたりの別荘は2軒か、3軒隔てただけであった。」
(鳩山一郎の孫 古澤一)

次は清沢洌の『暗黒日記』からである。
1943年9月4日
坂本直道君に会う。一見識ある人である。

1944年7月9日
午後坂本直道君を訪れる。東京に行って不在。坂本夫人に会う。その時の(夫人の)話。
軽井沢で防空壕を掘れというので、庭の先に掘った。パリでは普通人は逃げさえすればよかった。しかしここでは誰も彼も(防空訓練に?)出ろと言う。
防空具を、玄関の正面に置かねばならぬ。しかも、それが買えればいいが、買えないものを備えろというのである。どうしたって闇で買わざるを得ない。
外国から帰ってきて、終始言われたことは、日本が世界一だということだ。何かちょっというと「外国かぶれ」と攻撃する。「今にご覧なさい、分かるからといったことです」という




<清沢洌(きよさわ きよし)>

ジャーナリスト清沢洌は『暗黒日記』に軽井沢で会った様々な要人について書いている。すでにいくつかは紹介したが他にも興味深い記述が沢山ある。

「1943年9月19日
午後4時、約束に従って近衛公を訪問、一時間半ばかり日米交渉について聞く。目下の時局については施すに道なしという。”無責任のようだが”と附言して。

9月26日
軽井沢町の運動会。宇垣一成大将に会うために行ってみると、ちょうど近衛公一家が来た。一緒に見る。
宇垣大将と会見。外相当時の事を聞くために。国家を救うのはやはりこの人だろう。もっとも誰がやっても手遅れではあるが。

1944年5月8日
晩、約(束)によって蝋山(政道)君の家で夕食を御馳走になる。(蝋山)雅子さんに対する嶋中鵬二君のラヴ・レターなどの話あり。」
2人は後に結婚するが、嶋中鵬二は中央公論社社長となる。

1945年は4月24日に初めて軽井沢を訪問し、5月12日に帰京する。そして同月21日、急性肺炎により東京築地の大東亜中央病院(聖路加病院の戦時中の名称)にて急逝する。聖路加病院には先に紹介した日野原重明が勤務していた。



<三島由紀夫>


三島由紀夫の小説「仮面の告白」に登場する草野園子のモデルは、前述の外務省事務所に勤務する三谷邦子である。邦子の兄信は三島由紀夫の幼少・青少年期の無二の親友で、信を東京の自宅に訪ねた三島が、邦子の弾くピアノに惹かれたのが、2人の恋の始まりであった。小説の中の以下の描写はまさに戦時下の軽井沢である。

「園子や彼女の祖母や母からは、遊びに来るように招きの手紙が何度か来ていた。私は彼女の叔母の家へ泊まることは心苦しいからホテルを探してくれと園子に書いた。彼女は某村のホテルの一つ一つに当たってみた。どこも官庁の出店になっていたり、ドイツ人が軟禁されていたりしてだめであった。

某村のホテルは結局どこもだめなので、家へ泊まってくれと園子が書いてよこした。(1945年)6月12日に私は出発した。」
某村とは言うまでもなく軽井沢である。ここの「官庁の出店になっていた」というのは邦子の働いた三笠ホテルであり、ドイツ人が軟禁されていたというのは「万平ホテル」である。

「園子が徴用のがれにつとめている官庁の分室から、午後のつとめをずるけて帰ってくる時刻なので、私たちは郵便局で落ち合う約束をしていた。霧雨に濡れそぼった錆びた金網の中に、人気のないテニスコートがさびしげに見えた。」
これらは三島自身が戦時下の軽井沢体験無しには書けないであろう。なお小説ではこの後、2人は接吻をする。しかし三島の「私はわれながら不自然だと思える婉曲な手紙をその晩書いた。」という結婚を断る手紙で2人の関係は終わる。

軽井沢の象徴ともいえるテニスコートは後述する。やはり徴用逃れの勤めが外務省出張所の子女の本当の目的だったようだ。緒方も「雑用が少しあるくらいで毎日座っていただけのようなものです。」と書いているのはすでに紹介した。恵まれた子女たちと言える。

西村クワの回想である。
「その年(1946年)の夏であったか、三島由紀夫さんの初恋の女性が突如として、ずっと年上の立派な方と結婚することになった。園子(三島さんの小説の仮名だが)は悩んでいたらしいが決心したらしく、“恋文はみんな焼いてしまう”と言う。私もその時は賛成したが、後になって思えばもったいなかった感じがする。」
三島由紀夫は戦時下の軽井沢訪問者であり、疎開者ではなかった。



<企業>


企業の疎開も行われた。鹿島建設は1889年、碓氷峠のアプト式鉄道敷設工事を行った。日本建設史上においても有数の突貫工事といわれる大工事の大半を請け負ったのは鹿島岩蔵、鹿島組(現・鹿島建設)の二代目であった。

1年9ヶ月にわたる工事の際、軽井沢に本拠地を置き、その美しい自然と冷涼な気候を気に入った彼は、後に万平ホテルの創業者・佐藤万平氏と共に、軽井沢精進場にあった長野県の種育場跡地15万坪を購入した。ここに日本人用の貸別荘6戸を建てた岩蔵は、自らも日本人3人目の別荘保有者として軽井沢との縁を深めることになる。それが鹿島の森へと発展する。

戦争中は、鹿島本社の調査部、経理部、人事部などが軽井沢に疎開し、いろいろな別荘を借り上げて、男女約50名で合宿生活をしながら事務を執った。
また「日魯漁業重役田中丸祐厚氏など地名の士ばかり約60名が灰塵の首都から疎開していたのが1945年3月中のことで、続いて南次郎大将、貴族院肝付兼英男などが疎開した。」と1945年6月23日 の朝日新聞が報じている。



<朝吹登水子>


サガンの「悲しみよ、こんにちは」の翻訳者として知られる朝吹登水子は軽井沢に対する愛情では人後に落ちない。
自身が「私の軽井沢物語 」という本を書いているほかに、その本を書くためにインタビューしたものをまとめた「37人が語るわが心の軽井沢 1911-1945」という本も出版された。朝吹きはユカと結婚し、1944年の夏、建築家志望の青年と再婚する後に鎌倉から軽井沢に来る苦労は<鉄道>で紹介した。

また鎌倉というある意味、一等の疎開地から軽井沢に移動した人は他にもいる。小説家円地文子もその一人である。相模湾は米軍が上陸してくる可能性があったので、内陸でより安全な軽井沢に移ったのであろう。経済的にも余裕のある人のみが出来た技である



篠沢秀夫(フランス文学者)>

昨年(2017年)に亡くなった篠沢教授は、著書『軽井沢、日比谷、パリ』の中で、1940年から43年まで軽井沢で夏を過ごしたと書いている。この本は自伝的小説なのであろうが、ほとんど事実に基づいていると考える。登場人物は名前を変えているが、愛宕地区に別荘を持ち、母とテニスをする竹山佳子は朝吹登水子であろう。そしてこの本からは軽井沢の子供の世界が分かる。

篠沢家は軽井沢に別荘を所有せず、民家を間借りする、いわば貸別荘族の走りであった。
40年:テニスコートの脇のソーダ・ファウンテン『プレッツ』の店先で佳子に出会う。
41年:まだアメリカ人がいたので、その子供に「ヤンキー」と怒鳴った。
42年:コメは配給制度になっていて居住地でしか配給前は買えない。7.8月とコメの配給を軽井沢で受けるために転出届を区役所に出した。
軽井沢では自由学園の夏季学校に入る。ピアノの連弾をしている姉弟は羽仁説子先生のお子さんと聞いた。後の映画監督の羽仁進と、音楽教育家の協子ということになる。
43年:この年は自由学園は開かれない。ムッソリーニの失脚で、軽井沢駅で毎年威張っていたイタリア人の少年の姿はなかった。
教授は44年に縁故疎開で川越に移る。
(2018年3月11日追加)



<佐々木惇子>

レナウン創業者佐々木八十八の三女、佐々木惇子は1944年、父の所有する軽井沢の別荘に疎開した。しかしその別荘は避暑用のサマーハウスだったため、幼い娘・坂野光子と一緒に冬を越すのを不安に思い、1944年10月に神戸に戻る。多くの人が食料問題の不安を抱えつつも、安住の地として選んだ軽井沢だが、惇子は異なる決断をした。

この時荷物制限が厳しくなっており、惇子は手荷物しか持って帰れず、ほとんどの財産を軽井沢の別荘に残した。この残してきた荷物が戦後、貴重な財産となり、子供服の「ファミリア」を開業するきっかけとなる。

1945年6月5日の神戸大空襲で、岡本の自宅も被災してしまう。その後岡山県勝山町に疎開し、終戦を迎える。最近筆者が調べた谷崎潤一郎もここ勝山で終戦を迎えている。
(サイト『坂野惇子(佐々木惇子)の立志伝』より)



<西村クワ>


本編の主役と言える1927年生まれの西村クワは、終戦時20歳前の多感な時代を軽井沢で送った。著書「光の中の少女たち」は軽井沢について実に多く語っている。戦時中も付き合ったと以下の様な名前が出てくる。ほとんど外国人との間に生まれた子供である。

夏の軽井沢ではアメリカ人の奥さんを持った来栖大使、ドイツ人の奥さんを持った東郷外務大臣 グルー大使一家が散歩していて声をかけた。

陸奥宗光のお孫さんのように、母親が西洋人であった有名な政治家や、外交官の人たちが我が家にもよく遊びに来ていた。

尾崎行雄の4分の1西洋の血の入った美しいお嬢さんたちも政治的な話は一切しなかった。夫人の逝去を受けて尾崎三良の娘・テオドラ(日本名、英子。尾崎三良と英国人日本語教師ウイリアム・ウィルソンの娘との間に生まれた)と再婚したが、混血児との結婚は尾崎に対する種々の誤解を生じさせたようである。結婚後は軽井沢に別邸・莫哀山荘を設け、莫哀山荘は軽井沢の名所とさえなった。

父逮捕の記事が新聞に出たのが夏、そのとき軽井沢にいた。近くに来たからと立ち寄った先述のエーバは「日本もナチスと同じで、壁に耳ありでなにも言えないとは困ったものだ」と嘆いていた。

外の世界にレコードの音が漏れないように窓も雨戸も閉め切り、光が見えないようカーテンを閉めてダンスをするだけで、大犯罪でも犯している気分で束の間の幸せを味わっているのだから、誰にも害のない子供の集まりである。



<マンロー病院>


西村クワも毎日ぶらぶらしていては女子挺身隊に徴用されるというので、ボランティアで軽井沢病院に勤める。
「一番多い入院患者は、出産を前にして東京で空襲に遭っては大変だとホテルのように入院している若い奥様連であった。診察室を受け持っている日本人の医者(K先生)には、ドイツ人の奥さんと5歳くらいの女の子がいて、この子は日本語もドイツ語も英語もぺらぺらである。」

1928年より軽井沢病院の院長は加藤伝三郎博士である。そしてヨーロッパ帰国者で夫人はドイツ人であったので、K先生とは彼の事である。

たしかに軽井沢で出産した女性は多い。ピアニストの安川加壽子は1945年4月初め、夫の定男が軍令部から休暇をもらい、おなかの目立ち始めた加壽子を軽井沢の杉村(陽太郎元フランス大使)一家の疎開先に連れて来た。6月18日、長女千鶴子が誕生する。加壽子は、別荘の周辺の野草をつんで、食糧にした。

付け加えると1945年5月7日、15日両日の読売新聞には
「お産の家 準備完成 疎開急務!妊産婦、軽井沢浅間高原へ。」という広告が載っている。
日本人でも恵まれた人は軽井沢に避難してお産をしたようだ。

また「軽井沢サナトリウム」(軽井沢病院)が正式名称であったが、初代院長がニール・ゴードン・マンロー博士であったため、「マンロー病院」とも呼ばれていた。1921年に軽井沢避暑団(現在の軽井沢会)の要請で設立され、夏は長期滞在者を診た。

そのマンローは1942年4月11日、腸閉塞で亡くなる。『わがマンロー伝』によれば、
「7月20日はちょうど死後百ヶ日であった。マンローの親友の米人牧師ボブ・アレキサンダーが教会の都合でまだ帰国できずにいたので、彼に助けられて、軽井沢サナトリウムの人々や、ほんの僅かしか残っていない親しい友人たちが集まって、軽井沢外人墓地の一角に埋葬、ささやかな墓碑を建立した。」
この時日米はすでに戦争状態であった。そんな中、アメリカ人牧師のミサが日本で行われたのも軽井沢ゆえの事であろう。


マンロー病院のあった所は今は駐車場になっている。当時の痕跡を探したが、見つからなかった。(2017年8月、筆者撮影)



ドイツ人医師 ヴィッテンベルク>

東郷いせは書く。
「軽井沢に来てまもなく、自分が妊娠したことを知った。ドイツから亡命して、やはり軽井沢に疎開していたユダヤ人のドクターに診てもらう。お腹が大きくなり、双子ではと聞いても”そんなことはない”との返事であった。1945年1月11日、私は軽井沢のサナトリウムで双子の男の子を産んだ。
赤ん坊を取り上げてくれた産婆の土屋さん、疎開していた修道院から手伝いに来てくれたプリシマという洗礼名の日本人シスター。小さな赤ん坊二人が冬を乗り切れるかどうか、緊張の糸を張りつめた。」

朝吹登水子も軽井沢で出産する。
「ユダヤ系らしいドイツ人の医者ウィッテンバーク先生(Dr. E. Wittenberg)は前年、東郷大使のお嬢さんのお産を手がけた人。 マンロー病院に入院。6月に出産する。」

「ユダヤ人の医者は腕は良かったが、戦時中、ドイツ人はユダヤ人の医者にかかることも禁じられていた。」(ズザンナ)
これら東郷いせ、朝吹登水子、ズザンナの話は同じ婦人科医、ユダヤ人のE. Wittenbergを指していよう。マンロー病院には3人のユダヤ人医師がいたというが、彼の名前が一番よく登場する。

シュナイダーは回想する。
「彼は私に優しかった。自分は彼を友人だと思っていた。よく二人で心から笑ったものだ。しかし戦後になって、彼は私のことをずっとナチスの手先だと思っていたことを知った。また戦後CIC(アメリカ進駐軍の対諜報部)に対し、私を告訴したのも彼であった。」
やすやすと親切な同胞も信じられないのが、当時のドイツ人社会であった



<ドイツ人医師 ステッドフェルド>


次はもう一人の医者の話である。
「白髪のまじった歯科医のステッドヘルドは独身のドイツ人であるが、お手伝いさんを一人使っている、一風変わった人だった。テニスが特に上手で、初心者の打つどんな球でも、必ず返してくる、壁のような男だった。」(室生朝子)

「幸いドイツ人居住者の中には、耳鼻咽喉科専門の名医シュテーテフェルト博士(ナチではない)がいらした。午前中、博士の診療所を訪ねると、フラスコ内の水薬は全部凍っており、それを解かして調合するまで、私は待っていなければならなかった。」
(ローゼンストック)ステッドヘルドとシュテーテフェルトも同一人物であろう。

1937年版『ドイツ大観』にはStedfeld, Dr. Hugo(東京 麻布)が記載され、妻Edithとなっている。彼はゾルゲの命を救っている。
「1938年5月13日、オートバイの試運転で米国大使館の道路の土塀にぶつかって大怪我をし、麻布のステッドフェルド医師の緊急手術を受け、聖路加病院に移された。」と、これも外事月報からである。
次いで横浜に移ったようだ。
「1939年12月10日、横浜のゼネラル・ホスピタルのステドフェルド先生の手でD(ダーチャ)の手術。」
という記述がある。(『ダーチャの日記』より)

(欧州の小国)アルバニア人の内科医サンダースという名前も出てくる。
「近くの病院はアメリカ人のお医者がしている病院であったが、敵国であるドイツ人でもわけへだてなく診てくれた。近くに住むスイス人の理学療法士と教会のシスターが、子供の電気治療に通ってくれる。」(ズザンナ)
ここではアメリカ人が戦時中軽井沢で医者を開業していたことになる。軽井沢の特異性の一端か、上のアルバニア人と混同したかどちらかであろう。



<服装>

戦時中でも女性がスカートをはいていたことは、非常に珍しい状況であった。
「私共は3月の大空襲の後、軽井沢へ疎開したのだが、ここは一度も空襲がないので人々はもんぺもはかず、防空壕などもなく、全く別天地なのには驚いた。」(鹿島卯女)

「私がスカート姿で町を歩いていたとき、警防団の人が来て“すみませんがズボンをおはき下さい”と、控えめに言った。この言葉だけで、あの困難な戦争時代、いかにのどかで生活しやすかったかが、年輩の方にはうかがえるであろう。」(室生朝子)

「4時に山屋でパンが焼きあがる。10分前には待つ人の行列ができている。ここに集まっている人たちはモンペに白い割烹着ではなく、5,6年前にロンドンやパリで買ったようなツウィードのスカートや、高級品であったレインコートを着ている。」(西村クワ)



<ダンスパーティー>


朝吹は戦時中、軽井沢でもダンスパーティーは禁止されていたと書くが、子供たちの世界は別だったようだ。クワによれば

「ダンスどころかアメリカの音楽を聴くのも非国民といわれたのだけど、やはり若い子たちは秘密にダンスパーティーを計画して、カーテンを閉め切って用心してパーティーをするのが一段と楽しかった。

近衛文麿の息子ミミちゃん(次男通隆)も父親が戦争中の大臣だったので、自分の家では出来ないけど、友達に呼ばれて行くことは禁じられてなかったらしく、父親がスイス人のカティの家のダンスパーティーには来ていた。」
先に書いたようにシロタにピアノを習ったカティは、少女たちの中心的存在あったようだ。彼女は父親がスイス人で、母親が日本人か?



<テニス>


「戦時中の軽井沢」(軽井沢ヴィネット)には西村クワの記事ともに小さいが、「1944年軽井沢 テニスコート前」という写真が掲載されている。白いスカート姿の少女が3名と、短パン姿の少女が1名写っている。このテニスクラブは今の天皇夫妻の出会いの場として有名である。

朝吹登水子は親子でテニスを好み、日本選手権に出場するほどであったが、1943年から日本ではミックスダブルスは非愛国的、非道徳的ということで中止になった。ただし軽井沢では終戦までミックスダブルスが行われていたという。

1943年の軽井沢会庭球部クラブ・ハウス委員長は長谷川登美子(安宅産業社長安宅弥吉の長女)、西村ヨネ(西村伊作3女)、朝吹登水子であった。

外国人もテニスを楽しんだ。
「スポーツマンであった父親のマイケルは使われていなかったテニスコートやゴルフコースを利用して楽しむこともあった。」(アプカー)

しかし戦時色はテニスコートにも迫る。
「ゴルフ場やテニスコートも野菜畑にしろと政府は言ったらしいが、それはテニスコートがどう作ってあるか全く知らない人の言うことで、何十年も固めつくしたコートを苦心して掘り返しても、よい野菜が出来るはずがない。
それでも軽井沢のシンボルであるテニスコートは、言い訳のように片隅を掘り返して畑の真似事みたいに見せかけていた。」(西村クワ)

西村クワらはテニスの後、コートの横にあったアメリカ風のドラッグストア「プレッツ・ファーマシー」でアイスクリーム、町の下の方にあった「浅間庵」で鉄火巻や蜜豆を楽しんだ。プレッツ・ファーマシーについては
「ここのアイスクリームコーンは、絶対に他では味わえない、美味しいものであった。」(室生朝子)
「飯田さんというちゃんと背広を着たおじさんが、一人で何でも売ってくれた。」(石田アヤ)
と多くの人が回想している。



<ゴルフ>

軽井沢でのゴルフは多くの富裕層によって語られているが、戦時下と特定できるものは少ない。そんな中、ジャーナリスト清沢洌(きよさわ きよし)の『暗黒日記』から1943年まで、ゴルフが行われていたことが分かる。

「1943年6月30日
昨日、妻と軽井沢に来る。1ヶ月前に来た時は、まだ若葉なりき、今満目深緑に満ちる。
午後、ゴルフを遊ぶ。このゴルフ場を提供せしむる運動、長野県壮年団にあり。この草原を取りて、彼等はいかにして生産せんとするや。売名か、赤化か。
7月3日
今日はゴルフのPGAある日なれども、昨夜より雨甚だし。ゴルフなどはどうでもよし。この雨のため百姓達はどんなにいいことか。

(7月)3日、4日と雨の中PGAの試合をやる。結局3位になる。ゴルフなどは、もう来年はやれないだろうという空気が、PGAの連中の間にも満ちてきた。

8月月2日
いつまでゴルフなどやれるか。午前ゴルフ。」
プレーヤーもこれが最後と思いプレーした。PGAはプロゴルフ協会の略語である。公式試合が行われたのであろう。1944年の暗黒日記には軽井沢でのゴルフは登場しない。

読売新聞によればゴルフ場の閉鎖が決まったのは1943年6月のことである。16日付けで
「翼賛会長野支部では軽井沢町南ヶ丘ゴルフ場と旧軽井沢ゴルフ場の耕地化に目をつけ、この程現地を踏査の結果、補助食料の作付けには頗る好適なので、近く所有者に交渉して大農地化に乗り出す。」と書かれている。



<戦時下らしくない生活>

上記のような若者の生活ぶりを見てだろう、逓信省工務局長の要職にあった松前重義が「二等兵記」に書いている。
「2週間の(東京の)家で静養して軽井沢に転地した。そこでは戦争も何処へやら、遊人閑人の群れが毎日遊び歩いていた。」と、戦時とは思えないような暇人が軽井沢には沢山いると嘆く。

重義の子供である松前泰雄は
「(軽井沢の)街には人が多かったように思います。早稲田の学生服姿の私に、16,7歳の女子学生が、目にゴミが入ったので取ってほしいと近寄ってきたのを覚えている。」と書く。西村クワの周りの友人には、そんな風に異性の事ばかり考えているような、少女がいたという。

西村クワは文化学院の女学部の仲間をリボン隊と呼んでいたが、次は軽井沢ではないかもしれない。
「その中の一人が“誰々さんの息子さんが召集されて、さよならパーティーがあるから一緒に行かない”と誘いにくる。そういう時は必ず、招待をする母親がありったけの食べ物を集めて御馳走を出してくれるので、それにありつくために喜んでついて行った。」

すでに軽井沢では若い男性を見ることは少なくなっていたが、徴兵は終戦まで続く。
「1945年になると、町の中ではほとんど若い男性を見かけなくなった。憲兵隊の人たちと身体に故障のある人、そして弟だけであった。だが7月の末、最後の召集令状が弟にも配達された。」(室生朝子)
彼女の家でもクワの書くようなさよならパーティーは行われたのだろうか?

戦争体験者である旧軽井沢の柳澤廣さんは小学生のときに、旧軽井沢から出征する兵隊を見送ったときの光景について、
「外国の人々が『無事にお帰り』とか、『お元気で』と、兵隊に声をかける姿があった」と語った。
(軽井沢新聞2015年11月15日)

1945年8月14日は朝吹登水子の夫が横須賀の海軍に入隊する日であった。しかし終戦にならなければ厳罰を受ける覚悟で取りやめた。



<神谷恵美子>


神谷恵美子(旧姓前田)は政治家で実業家前田多門の長女である。彼女の日記にもたびたび軽井沢が登場する。ここでは1945年に限ると
「3月22日
昨今、疎開して軽井沢へ行かれてはという私の主張も漸く父上が受け入れて下さるらしい気配あり、そろそろの用意にかかっている。
4月29日
朝6時25分の汽車で父上、とし子と3人連れの旅。沓掛(中軽井沢)に着くとすでに大学(から送った別送の)荷物は駅に野ざらしとなってあった。小運送(別送便)のことなど父上がいろいろお骨折り下さった結果、万事都合良く運び、明日荷物も全部、内村先生のお宅、及び(我が)家に運べることとなる。

軽井沢は今ちょうど落葉松の芽が伸び始めたところ、山や林のいたるところに、こぶしの花がほころび遠くからみる、とこぶしの樹全体が白い蝋燭の灯のように見える。
一旦家に着いて身軽になると、再び外へ出て町や警察署や軽井沢の駅などへ廻った。」

空襲で焼かれた東京から来ると、軽井沢は別世界であった。そして疎開者は警察署や役所に届けねばならなかったようだ。配給を受けるための住民登録か?
両親は疎開しつつも恵美子は東京と軽井沢を往復している。東京では東京大学の精神科病棟に移り住んで、患者の治療に当たった。恵美子のように、主戦直前まで軽井沢と東京を往復した人が結構多いことにも述べたとおりだ。

次は7月25日に訪問する。
「おかげで軽井沢行きは昨日午後となり。霧雨の心地よき月明かりの夜9時頃、田園の闇の道をひとり沓掛から歩きつつ。」
(彼女の『戦時下の手紙』はこちら


<ドイツの降伏>


1944年12月、近隣の上田にB29が襲来し、軽井沢にも灯火管制が敷かれるようになった。学校や民家の白壁は、空襲に備えて、目立たぬように炭や煤が塗られた。

ドイツのヒトラーは1945年4月30日に自殺を遂げる。同盟国ドイツの崩壊であった。5月4日の朝日新聞には駐ドイツ大使であった来栖三郎のコメントが載る。来栖の妻アリスは敵国アメリカ人であった。軽井沢で暮らすのが一番だったのであろう。

「驕敵もたじろぐ総統の祖国愛と正義
目下軽井沢別荘に疎開中の来栖元駐独大使はヒトラーの戦死につき、次のように語った。(以下略)」
ただし話の内容は依然、ヒトラーの死を惜しむものであった。

5月8日、ドイツ人とその子供は、軽井沢ホールに集まって敗戦の知らせを大使館員から聞いた。ホールにはすすり泣きの声が広がった。(ズザンナ)この時軽井沢ホール(集会堂)には、疎開させた多くの植物の標本類があったはずである。以降ドイツ人は軟禁状態となる。

父親がBASF日本に勤務したイルムガルト・グリムはこう観察した。
「そこ(軽井沢)で会った日本人はひどく興奮して、日本は決してそんなこと(降伏)はしないと言ったのをよく覚えている。」
先に降伏したドイツ人はその後肩身の狭い思いもした。

「フランス人やスペイン人の尼さんが道で抱き合って涙を流していたけど、ヨーロッパで戦争が終わったのじゃない、とお隣のほっそりした美しい奥さんが言った」と西村クワは語る。



<エタ・ハーリッヒ・シュナイダー 1 (ドイツ人の音楽家)>


彼女は戦後、自伝を出し日本滞在についても詳しく記しているが、日本語版は出ていない。
それによればカトリックで反ナチスであったシュナイダーは、1941年6月の独ソ戦開始直前に日本に来てそのまま留まった。戦争が始まると日光の中禅寺に家を持つが、当局とうまくいかずに最後は軽井沢に向かう。1945年6月1日の事であった。
その際、ドイツ大使館のエルヴィン・ヴィッケルトとフランツ・クラップが彼女のヤマハのグランドピアノを軽井沢に送る手配をした。日本では戦闘機の燃料に事欠いた時に、よく大きなピアノを運べたものである。フランツ・クラップは先述のように軽井沢に避難した数少ないドイツ人外交官である。

その頃軽井沢ではドイツ人、避難民、中立国人、フランス人、イタリア人といった外国人同士の反目も和らいでいた。ドイツ人も敗戦国民となり、食糧難を共同で乗り込ようとしたのであろう。
彼女が胃腸カタルで10日間寝込んだ時は、ユダヤ人のヴィッテンベルク医師が診てくれた。そしてその間、沢山のドイツ人が
食料その他を持って訪問してくれた。

ヤマハのグランドピアノが届いてからは、日曜コンサートを自宅で開き、音楽好きなすべての(人種の)ドイツ人を招き入れた。
(2017年10月14日追加)




<外交官 東郷茂徳と娘“いせ”>


日本開戦時の外務大臣であった東郷茂徳の妻エディットはドイツ人で、2人の子供がいせであった。いせは書いている。
「久しぶりの日本の夏を迎えるに当たって、私たちは以前に手に入れた軽井沢の家の改築にかかった。ゴルフが好きだった父のために、ゴルフ場が近いということで、その頃軽井沢に一つしかなかった旧軽のゴルフ場から歩いて20分ぐらいの家である。」

「1944年冬、風邪をこじらせてしまった夫(東郷文彦)の気管支炎は、かなり長引いた。結局、外務省を半年余りも休まなければことになり、私たちは春になるのを待って軽井沢の家に移った。軽井沢の方が空気がきれいだし、身体のためにいいだろうということと、半分は疎開のようなかたちでの軽井沢行きであった。」

軽井沢に来てまもなく、いせは自分が妊娠したことはすでに書いた。
「外務省の関係では来栖さんが私たちの家のすぐそばに、また(外務省の)加瀬(俊一)さん一家も軽井沢にいて、町でひょっこり出会う。」とも書く。


東郷の表札のある別荘。あまり利用されてはいないよう。(2017年8月筆者撮影)
その後、ここは別の東郷姓の方の別荘と、読者の方から教えてきただきました。有難うございます。



<外相再就任>


東郷は1942年に外相を辞任してからは、もっぱら軽井沢で過ごしたようだ。
1945年4月7日、鈴木貫太郎内閣が成立する。組閣工作当日の4月6日に、外相に選ばれた東郷は軽井沢に滞在中で、直接の入閣交渉は出来なかった。
東郷が鈴木から県知事経由の電話連絡に接して軽井沢から急遽上京し、鈴木と面談したのは内閣親任式が終了した後の4月7日、夜10時半過ぎである。直ちに鈴木首相を訪問要談した。

いせは書く。6月に入って父が軽井沢に帰ってきた。しかし子供たちの顔はほんのちょっと覗いただけで、近衛文麿公にソ連特使を依頼する話し合いが目的のようだった。東郷は日本の終戦の立役者の一人であった。

東郷茂徳は書く。
「自分は軽井沢で7月8日に近衛公と会談し、前記(戦争終結に向け特使として近衛をモスクワに派遣する件)の趣旨を説明し、モスクワ行きについてもその内諾を取り付けた。近衛公から出発の際にはあまり窮屈な(終戦の)条件を押し付けられるのでは困るとの話があった。」
東郷は翌9日、帰京して直ちに鈴木総理に会談の内容を報告した。



<近衛文麿公>


戦前、2度総理大臣を務めた近衛文麿も戦時中は、多くの時間を軽井沢で過ごした。
下は1945年5月18日の朝日新聞である。
「翼賛会、来月解散 国民義勇隊一本へ。」の見出しの後、
「近衛新体制の名も華やかに大政翼賛会が、燃え上がる国民乗せ維持意欲を背景に発足したのは1940年の8月28日だった。軽井沢の山荘に新政治体制の構想を練っていた近衛公はその機漸く熟せるを察して、、」と軽井沢で民主主義を否定する大政翼賛会発足の構想を練ったと書いている。

かつて近衛首相の秘書官を務めた細川護貞は、軽井沢でも頻繁に近衛と行動を共にしたが、7月14日に憲兵隊より呼び出しを受ける。(細川日記)
7月19日
「去る13日夜、近衛公夫人より電話あり、公より余に至急上京すべしとの言付けであった。よって翌14日朝10時22分軽井沢発にて上京の予定であったが、9時頃憲兵隊より出頭を命じられ、直に駅前軽井沢分遣隊に出頭したが、例の「三国同盟について」と題する、公爵起草の一小論文が、川崎豊君の処にて憲兵の手に入りたるためであった。
約2時間半の調べを受けたが、、、しかしこれ以上問題となることはないと言った。」
憲兵隊の呼び出しはこうした階層の人間に対しても行われた。

7月24日夜
自分は軽井沢の某所で近衛公を主賓とした晩餐に招待され、その帰途、公爵の自動車に便乗して自宅近くで下車した時、突然公爵別邸まで同行を求められ、そこで初めて公爵が和平斡旋依頼のため、ソ連普門の勅命を受けていることを打ち明けられた。
(来栖三郎)




<最後の軽井沢入り>


終戦直前に軽井沢に向かった女性は先述の神谷恵美子である。
8月9日
「4時半起床。6時から上野の山で切符を買うために並んでいる。5合瓶に冷たい井戸の水を汲み、豆を1合炒って袋に入れ、傘と、油紙と、新聞紙と、用意を怠りなく地面に腰を下ろし根城を構えた。」
恵美子は正午を過ぎて漸く、翌日の軽井沢への切符を手に入れることが出来た。しかし終戦6日前のこの時期まで列車の運行、発券のシステムは維持されていたというのは、驚くべきことかもしれない。

8月10日
患者からのお芋を3キロ頂いて、重すぎる荷をかついで最終列車で軽井沢に着き、150歩宛歩いては休み、歩いては休みしつつ1時間半、家に着いた。
今日は1日ポカンとして寝たり起きたり。ああいう医局での不自然な生活、「先生」にされてしまう生活は耐えきれない。

終戦間際になって、要人が東京と行き来するため、特別な列車が用意されたようだ。外務大臣秘書官を努めた加瀬俊一の妻寿満子は
「1944年の夏から引き続き軽井沢に滞在し、終戦までの大部分が疎開生活だったが、機会があれば、近衛公爵の特別列車に便乗して上京した。私が(近衛)公爵以下の重臣たちと終戦工作に当たっていたからである。」
近衛公爵用には特別列車が仕立てられたことを語るが、当時の情況を考えると、これも先に述べた外交官専用の車両の事を言っているのではないか?加瀬の妻がそれに乗れたのは外務省高級官僚の特権であろう。

「その日(7月19日)15時の汽車にて、公爵夫人と貨物車にて帰京の途についたが、24号トンネルで機関車故障のため6時間停止、夜上野へ着いた。」(細川日記)
近衛公爵夫人と、侯爵である細川護貞が貨物列車で移動するほど、鉄道事情も悪化した。また26あったトンネルについて触れているのが興味深い。第一部<第26トンネル>参照



<外務省 天羽英二、鈴木九萬>


戦時中に外務次官、内閣情報局総裁を務めた天羽英二は、7月に疎開用の別荘を下見するため、軽井沢を往復している。
「7月15日
朝 上野行き、駅長富田と会談。鈴木九萬(ただかつ)と共に軽井沢行き。車中大混雑。夕刻 軽井沢着
7月17日
10時20分軽井沢発 3等車4両直結 座席を得る。規則通り3時半、上野着。」(天羽日記)
すでに2等車はなく、3等車が4両のみの列車が運行されていたことが分かる。鈴木九万は外務省在敵国居留民関係事務室長として、大久保所長の要望等に対応する立場にいた。

天羽に同行し軽井沢に向かった外務省の鈴木は、中立国外交官との連絡担当で、毎月軽井沢に通っている。
「4月27日より往復3日間の予定で軽井沢へ出張せしむる。
阿波丸事件、居留民交換問題、一般敵国人待遇問題等に付き、スイス公使と懇談するとともにスエーデン公使館側、国際赤十字代表等とも協議せしむる。

6月15日より往復3日の予定で長野県に出張。
多数国の利益保護に当たっているスイス公使館関係事務に、当室関係の懸案事項少なからず。
同室鈴木公使において軽井沢に出張し、スイス公使と会談、即席処理(大久保公使同席)する事しかるべし。」(外務省記録)

8月12日には、軽井沢で国際赤十字委員会のジュノー博士に東郷外相の親書を渡した。それは国際赤十字委員会に1000万フラン(今の価値で50億円相当)の寄付をするという内容であった。



<ジュノー博士>


スイス人のジュノー博士も敗戦直前に車で軽井沢入りしている。2人は1945年6月11日にスイスを発ち、8月9日に東京に着く。翌8月10日の昼を東京で過ごすとその夕方、国際赤十字の同僚、アングスト、ビルフィンガー、ペスタロッチらと車で軽井沢に向かう。次がジュノーの記す軽井沢である。

「(東京から)車で5時間走ると、海抜1000メートルのすばらしい所に来たが、ほとんどの外交官はここを避難所にして、首都爆撃を逃れていた。
軽井沢には狭い通りがふたつしかなく、道に沿って木造の家が立ち並んでいたが、すべて商店の家屋であった。辺りには多数の別荘が樅の林の中に点在し、灌木をぬって小道が通じていた。

この別荘のひとつが我々のために取ってあった。(中略)ふたりのお手伝いさんがいて、ひとりはチエさんという小柄な、目の生き生きした日本人で、アマ(女中のこと)をしてくれ、もうひとりはリーさんという中国人の料理人で、大変おいしい食事を作ってくれた。」
先述のビルフィンガーは別荘をちゃんと手配した。お手伝いさんは美味しい料理を作ったとのこと、材料調達が気になるところだ。



<終戦直前>


連合国が日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言を発したのは7月26日であった。これに対し日本の新聞は「黙殺」等書いたが、外国人にはもう終わりが近いことは感じていたようだ。

ゴルジェ公使は書く。
「8月1日はスイス国の祭日である。在日スイス人一同は軽井沢に集合した。一同は静まり返っていた。私が祖国を想う演説の草稿を書いている間、窓のガラスは揺れていた。これは高崎市が爆撃を受けているのであろうと私は想像していた。」

8月10日、日本はポツダム宣言の受諾を連合国に伝えるが、一般国民にはまだ知らされない。
ジュノーの元にロンドンの秘書から電報が届く。日本時間で8月11日くらいであろうか。
「BBCは今夜、日本のポツダム宣言受諾を報じました。人々はトラファルガー広場で踊っています。」
「軽井沢の二つの通りには、周りの別荘に避難していたすべての外国人ーフランス人、ベルギー人、スエーデン人、ハンガリー人、スペイン人ーが集まって来て、このすばらしいニュースについて語り合った。」と着いたばかりのジュノー博士は、やや漠然とであるが書く。

以下14日まで神谷恵美子の日記からである。8月12日
「10日午後8時50分頃、同盟のラジオを通して日本はポツダム宣言に基づいた降伏をアメリカ側に申し出た由、短波と首っ引きりの(弟)寿雄から知った。毎朝松本重治氏が見え(昨日は代議士、蝋山政道氏も)これからの日本の政治につき、父上と話して行かれる。近衛氏もこの間見えた由。
昨夕は杉森先生の未亡人(英子)の所へ15年ぶりの対面に伺い、今日午後は福沢先生の所へ森さんの坊ちゃんの診察に行く。14日の正午の汽車で帰京、延着して夕方6時頃医局へ戻る。」
森さんの坊ちゃんは有島武郎の息子で俳優の森雅之(マーちゃん)か?また終戦の前日も信越本線はほぼ定刻通りに動いていた。

8月14日の夜、私たちが疎開していた軽井沢の家にかかってきた電話は忘れられない。その日は私の23回目の誕生日であった。「いせ、誕生日おねでとう。なにもないけどリキュールが一本あるから、いずれ誰かに届けさせますよ。ただそれだけの短い電話であった。」(東郷いせ)
日本が終戦の最後の決断をする日であるがゆえ、外相である東郷には御前会議に参加したり、息の詰まるような一日であった。それでも合間を見つけて娘の誕生日を祝った。



<鳩山一郎>

戦後内閣総理大臣となる鳩山は、1943年以降は軽井沢で隠遁生活を送る。戦時下とは思えない、かなり別格な暮らしぶりであった。

「1943年8月4日
朝ゴルフ、夕方旧軽井沢に赴く。嶋中君と2人で。鳩山一郎の別荘の前を通る。すばらしいものなり。邸内に鳥、魚、何でもあり。」別荘の外から庭を走り回る鶏類、池の魚が見えたのであろう。(『暗黒日記』より)

「1945年8月14日
10時星野君の案内で石橋氏の自動車に同氏夫妻、坂本君(直道)、(妻)薫達と乗じ塩名田の佐藤氏宅に行き、近来稀な御馳走になる。」
日本敗戦の前日である。ブリジストン創業者石橋正二郎は車を持っていた。<学校>で紹介した石橋多摩子はその4女である。
塩名田は佐久市のかつての宿場町

「8月15日
午前中、石橋、坂本、岸井、遠山、陸奥諸君来訪。正午陛下の御放送を謹聴、涕泣するもの多し。」(『鳩山一郎・薫日記 上巻』より)
陸奥は陸奥宗光の孫、イアン陽之助であろう。



<8月15日>


8月15日は正午から天皇が自ら終戦を語る玉音放送があった。その日の朝、西村クワはいつものように病院に行くと
「今日の正午に重大な放送があるから、その前に自分の家に帰って聞くように。」と言われた。これで戦争が終わるということは解ったが、他のことは何も解らなかった。午後病院に戻ったが、みんな黙って何の感想も話し合わなかった。

「自はそのまま軽井沢に留まり、8月15日に、あの忘れがたい陛下の御放送を一家一室に集まって謹んでうけたまわったのであった。」(来栖三郎)

「うちにはラジオがないから、路一つへだてたK山荘に出かけた。雑音がひどかったが、どうにか聞き取れなくはなかった。録音された天皇の声は潤いがあり、落ち着いていた。」(野上弥生子)

次はスイス公使館の様子である。
「われわれ(公使館の)一同、ラジオで天皇の声を聞き入った。日本人の館員もともに聞いた。皆の目に涙が光った。これは恐らく全戦争を通じて最も感動的な一瞬であった。」

日本女子付属高校の生徒のうち数十名が三泉寮に疎開していたが、寮から少し離れた森村邸の庭に全員が整列して、終戦の放送を聞いた。そして無言のまま引き返す途中、何人もの外国人に会った。
彼らは笑顔で手を振りかざし、はずんだ声で「ハロー、ハロー」と呼びかけたが、彼女らは無表情で前を通り過ぎた。(「戦いの中の青春」より)
外国人が投げかけた「ハロー、ハロー」の言葉には「戦争が終わって良かったね」という意味が込められていたのであろう。

終戦の日、町が死んだように静まりかえったのをバーバラ・シンチンゲルは覚えている。その後間もない8月26日バーバラは21歳の誕生日を迎える。

前日東京に戻った神谷は
「15日正午、安田講堂に学生、職員集合、ラジオにて大詔を拝す。講堂ただすすり泣きあるのみ。」と日記に記す。



<終戦と警察>


夏のある日、刑事がローゼンストックの家を訪れた。
「終戦についての話を何か?」「じゃあ、皆さん何をお話で」など聞いた後、「夜は何をおやりで?」と聞く。
ローゼンストックの返事は簡単そのもの「音楽の演奏をしています」であった。
この答えは刑事を全く当惑させたようだった。不意に物腰が柔らかく、おとなしくなって、恥ずかしそうにこう聞いた。
「今晩、私も聴かせて頂いてよろしいでしょうか?」それに対し、
「どうぞ、どうぞ」と答えた。

その夜8時、彼がプレゼントに林檎を2つ持って現れた時には、ローゼンストックの方がびっくりしてしまった。林檎は闇物資の中でも特に好まれた食品であった。
フライと一緒にブラームスのソナタを弾いた。曲が終わると彼は深く頭を下げ、「夢を見ているようでした」と言って立ち去った。彼を目にしたのはそれっきりであった。

終戦の日の午後、憲兵達は町の中程の店の2階を借りて集まり、日本刀を抜いて切腹云々と、話はまことしやかに流れたが、それは噂に過ぎなかった。彼らの中には髪をのばした人も何人かいたが、次の日誰もが三分刈りの頭になっていた。そして3,4日もすると、彼らの姿は町から消えてしまったのであった。(室生朝子)

「病院の前で、いつも私服でうろうろしていた青年が、憲兵の軍服に帯剣して現れ、“これでお別れします”と慇懃な挨拶をして消えていったのが、印象的だった。」(西村クワ)

1945年8月にはいると、シロタは警察から呼び出し受けた。しかし日本の降伏が近づいていることをスイス公使館関係者から聞き、恐怖と緊張の中、警察に行かなかった。



<近衛公最後の会見>


先に紹介したフランス人ジャーナリスト、ロベール・ギランは終戦直後について書く。

この晴れやかな日(8月15日)の夕方、私は配給物を貰うために並んでいた。(あのとき貰ったのは真っ黒なパンと大根だった)
列の中に、難民としてこの村にいた白系ロシア人の婦人を見かけた。彼女のような立場の人にも、もう何の気がねもなく話ができる。
「良かったですね。またヴーケリッチに会えますよ。きっと今朝、釈放されているでしょうね」と私は言った。ラヴァロフ夫人はロイター通信の時ミー・コックスの秘書だったから、ヴーケリッチを知っていたのだ。ところがこの白系ロシア婦人は急に顔を曇らせ、驚いたような目をして私を見た。
「ご存じないのですか、、、。亡くなりましたよ、監獄で。」婦人は正教教会の長老のセルゲイ司教から間接的にこのニュースを聞いたのだという。(『ゾルゲの時代』より)
ヴーケリッチはゾルゲ事件で無期懲役となり、網走刑務所で服役していた。

「1945年8月末の土曜日だった。米軍が東京進駐を開始する最中、東久邇宮内閣の国務大臣に任命されたばかりの近衛文麿公爵(実質的には副首相だった)は首都東京を離れ、軽井沢で週末を過ごしていた。私はそこで近衛公と長時間にわたり会見をした。
このインタビューは、私が知る限り、近衛公がジャーナリストに対して行った、生涯最後のものとなったのであった。

私は豪華ではないが、快適な作りの西洋風の館に向かい入れられた。会見の労をとってくれたのは松本重治氏、通訳はこれも軽井沢在住のジャン・陸奥氏がつとめた。」(『近衛公と最後の会見』中央公論より)
ギランは軽井沢に疎開していたので、そのままそこでインタビューとなったと思われる。また通訳のジャン・陸奥氏とは、鳩山一郎の所で紹介したイアン陽之助陸奥であろう。
(2017年5月2日追加)



<米兵出現>


終戦から1ケ月後の9月15日に、アメリカ軍のベンゾン中佐一行が5台のジープで訪れた。11月1日には万平ホテルも接収された。(軽井沢町史)

留学生、外交官として2度目の来日であったドイツ人、リヒャルト・ブロイアーは語る。 
「米軍が上陸してから3週間ほどして、初めて米兵を目にした。彼らは車軸が3つある重いトラックに、わずか数人だけ乗って軽井沢まで来た。この山の中でこんなに多くのドイツ人と出くわすとは思ってもいなかったので、驚いていた。

私たち(ドイツ人)を敵としては扱わず、むしろ英語の通じる白人に会えて喜んでいるようだった。何人かは先祖にドイツ人がいると語った。(中略)今度来るときにはアメリカのビールをもってきてやると言った。」
西洋人同士の親近感か?

9月、来栖三郎(夫人はアメリカ人)と伊東治正(東京日日新聞)、米兵たちという写真がある。来栖の娘が通訳にあたった。朝日新聞は9月13日「肝を割って日本を語る」の見出しで次のように報じる。
「軽井沢は戦争集結と共に再び国際的軽井沢たる姿を見せ、米国の新聞、通信社、雑誌、放送局の特派員がホテル、各国大使館などを訪ねたりしている。これらの応対に暇ない栗栖三郎大使はその顧客模様を次のように語った。」
「彼らの態度は丁寧で、こちらは(記者)遠慮なく訊きますから、お差し支える点はお答え下さらんでもと言った調子である。」

ドイツ人ヤンセンは終戦後も万平ホテルのそばに移り住み、英語を教えたりして生計を立てた。こんな状況下でも音楽好きが集まりアンサンブルを組んでいた。そして万平ホテルでアメリカ人相手にコンサートを開いた。

「(新軽井沢駅に向かう途中)アメリカの写真班の自動車を見たり、兵隊を見たりする。いづれも初めて目にするものでである。
写真班の自動車のホロが黒い布になって暗室を作り上げ、写したものがすぐ現像される仕掛けらしい。」
(野上弥生子 10月9日) アメリカ軍の最新設備の一例であろう。

ツァッヘルト
「子供たちがポリオ(小児まひ、急性灰白髄炎)にかかっていたため、東京に行かなければならなかった。非常に優秀なアメリカの医者が来日していると聞いたので、この医者に診てもらうため許可を取った。」アメリカ側の大きな好意であった。

テニスコートも復活する。
「終戦の次の年の春、弟たちのテニス仲間6人は、皆で力を出しあって、畑になっていたテニスコートを地ならしし、ローラーをかけた。自然消滅していた軽井沢会も再び作られ、本格的な修理も行われ、コートはいきいきと復活した。
テニス好きの喜びもつかの間、進駐軍の進入と共にテニスコートも接収され、アメリカ人の相手をする時に限って、日本人にも使用が許された。」(室生朝子)



<上京組>


終戦とともに、自分の時代到来と東京へ向かう人がいた。

ジュノー博士
「8月17日、慎重な人の忠告を無視して全員汽車で東京に着いた。我々に席を取ろうとして、日本の警官が客室にいた人々を追い払ったが、その容赦ない態度に何の抗議も起こらなかった。
停まる駅ごとに昇降口からもの珍しそうな顔が現れた、日本人にとって、白人はすべて勝利者に見えたであろうが、誰も敵意の片鱗さえ見せなかった。」外国人は日本人が敗戦で自暴自棄になり、襲撃されるのではと恐れた。

朝日新聞8月19日に「前田多聞氏を専任文相に」の記事が出る。
「元論説委員の前田多聞(神谷恵美子の父)は文部大臣に新任されることに内定していたが、軽井沢の疎開先からまだ帰京していなかった。」(緒方竹虎とCIA)
多門はジュノーと同じく8月17日におそらく列車で上京する。そして18日午後1時半、宮中で東久邇宮首相侍立の下に親任式が取り行われた。

鳩山一郎は
「8月22日1時軽井沢を自動車にて出発、6時頃永坂の石橋邸に着く。」(『鳩山一郎・薫日記 上巻』より)と自動車で上京した。鳩山と石橋の親密な関係が分かる。

「H氏は今朝の一番で急に帰京された。アメリカ軍の入京に備え東京行きの切符の発売が禁止された。H氏は貴族院議員の(乗車)パスを持っているが、例の大事とりの気性で、急に帰ったのだという。」(野上弥生子 8月24日)
間もなくすると、東京には戻れなくなってしまうと心配したのであろう。

細川侯は終戦直後も軽井沢とを往復する。また野上の書く上の貴族院のH氏も細川候であろう。
「8月25日
軽井沢に行かんとせるも、兵隊超満員にて、行けず。兵は持てるだけの品物を持ちて帰郷する。まことに敗残の兵なり。」
とまずは断念する。そして9月15日
「軽井沢へ行く。昨18日帰京、おびただしき人にて、余は無蓋貨車にて帰る。」
と屋根のない貨車に乗って軽井沢に戻る。当時は蒸気機関車が牽引していたので、体中が煤だらけになったはずだ。

9月6日、先述の帰化日本人ヴォ―リズを井川忠雄が訪れる。井川は近衛公に近く、連合国との話には(元)アメリカ人のヴォ―リズが前に出てもらうのが好ましいとの事であった。2人は7日朝の列車で東京に向かう。そしてマッカーサーと近衛文麿元首相との会談実現のために活躍した。(『屋根をかける人』 門井 慶喜)



<エタ・ハーリッヒ・シュナイダー 2 (ドイツ人の音楽家)>

先に紹介したエタ・ハーリッヒ・シュナイダー の回想録は日記を基に書いており、日付も正確なようだ。
それによると終戦を軽井沢で迎えたシュナイダーは、8月18日燃えるような暑さの中(本人の言葉)、終着駅(上野)に着く。ドイツ大使館の廃墟では、4人の役場の人間(ドイツ人?)が梱包を行っていて、彼女がそこに泊まることを許可した。

8月20日午後、軽井沢に戻って自分の活動が再びスタートした。それは教会での活動、授業、自宅コンサートなどである。この将来に対する不安だらけの夏、音楽への需要がこんなに強いとは信じられない位であった。8月22日のシュナイダーの講演は超満員であった。

9月5日 一人の少女が走って来て
「アメリカ人の記者が万平ホテルに到着した。抑留されていた(反ナチスの)ドイツ人にインタビューを始めた。」と語った。そして抑留されていたドイツ人がすべて解放された。
9月14日 カール・スプリングスハイムが独特の気取った歩き方で、牧草地を横切って私の家に来た。

反ナチスであったシュナイダーも戦後の活躍は早かった。なおユダヤ系の指揮者カール・スプリングスハイムは東京で終戦を迎えているので、この時東京から軽井沢に向かったことになる。
(2017年11月3日追加)



<戦後の闇商人>

終戦直後も物資を調達するのに誰もが苦労した。
「砂糖、バター、牛肉が手に入ったというと,一軒の別荘に集まった立派な紳士淑女が、伸るか反るかと言う真剣な顔つきで秤の貫目を見つめ、自分の取り分に不足がないか確かめた。もちろん母(円地文子)もその中にいた。」

「9月7日 Rさんから密殺の牛肉500匁(1匁 3.7グラム)届く。100匁15円。
10月20日 今のジャガイモのヤミの普通相場は、出かけて上手に買っても1俵(60キロ)150円。(自分の住む北軽ではなく、旧)軽井沢では島津家が300円の買い占めをやった。それに比較されるのは近衛家のヤミで、自動車で買いあさっている。」(野上弥生子)
終戦とともに旧華族に対する風当たりが強くなった。

また米兵出現と共に、新しい闇屋が出現する。進駐軍物資専門の花子である。
「彼女は最初、煙草だけを密かに分けていたが、回が重なるごとに、チョコレート、バター、ピーナッツ、砂糖、小麦粉、ハンカチーフ、タオルに至るまで、生活必需品はほとんど手に入るようになった。
独身の彼女は毎週金曜日に上京して、リュックサック一杯の品物を仕入れ、土曜日の3時頃には軽井沢に戻ってくるのであった。」(室生朝子)
1946年正月、駅裏には米軍から流れた品などを扱う闇市も立っていた。(ズザンナ)

終戦後は列車が上下線とも軽井沢に止まると、必ず乗客を全員降ろして車内を検査した。米などが見つかると、誰のものかと聞いて回るが、答えはない。全部没収された。(伊東春子・加藤正隆)

終戦が延びていて次の冬を迎えたら、軽井沢は大変な事態を迎えたであろう。もっともそれは日本全国どこも同じであったかもしれないが。



<朝日新聞より>


以降朝日新聞から動きを追うと、1945年9月21日、皇太后陛下が軽井沢にやって来る。
「皇太后陛下は去月20日軽井沢に行啓、旧軽井沢の御泊所近藤友右衛門氏別邸に入らせられたが、当分同地に御滞留のご予定と承る。」

10月31日 第八軍、ナチ残党逮捕。
「米第8軍渉外局発表によれば、米第八軍の4組からなる攻撃隊は去る25日早朝、同軍占領地内で12名のドイツ人を逮捕した。これらドイツ人は日本に現存するナチの残党で、同時に他のドイツ人も拘束されている。
攻撃隊の攻撃は河口湖、強羅、軽井沢で同時に起こされ、強羅と河口湖で逮捕されたドイツ人は横浜刑務所に収容されている。」
軽井沢にいたドイツ人の中にも、ナチス思想を持った人物はいたようだ。第8軍は東日本の占領を担当したアメリカの陸軍部隊である。

11月6日 戦災孤児救援バザー 進駐軍将兵で大賑わい
「戦災孤児の救援運動を展開した軽井沢会生活部の松平、伊東、陸奥各伯爵夫人等30余名は各自の衣類や手芸品を持ち寄り、3日バザーを開いた。
尾崎行雄翁令嬢品江さんや、令妹の相馬伯夫人らが流ちょうな英語で、販売係を勤め、3時間足らずで5000円の売り上げがあった。10日第二回を開催、売上金を戦災孤児救援費として寄贈する。」
朝吹登水子の書くバザーは翌1946年のようだ。

12月8日、長い記事が出る。
「真相は上京の上で。 木枯らしはげし軽井沢山荘。 
軽井沢鹿島森の山荘に一人瞑想を続けつつあった、近衛公は6日夕、突如逮捕命令発表を聞いた。
このことをすでに予期していた公は、常に変わらぬ冷静さで、折から訪問中の小坂貴族院議員令孫徳三郎氏や三井辯蔵(?)氏未亡人などと、同日夜半まで明朗に会談を続けていた。

7日は訪れた来栖三郎前大使や、向井忠弥氏をはじめ面会を一切謝絶して、側近者を通じ
“日米間の国交親善には最善の努力を払ってきた。真相はいずれ上京の上判るであろう。”旨をもらし、沈黙を守っている。
目下白雪の浅間をバックに”構想の家”軽井沢山荘をかこむ白樺林が、吹きすさぶ木枯らしに騒がしく暮れんとしている。」
近衛元首相が戦犯に指名され、新聞もいくぶん情緒的に書いた。そして同月16日午前5時頃、杉並区西田町の自宅萩外荘で近衛は服毒自殺を遂げた。

軽井沢の住民からは東郷茂徳元外相も、終戦間もない9月11日に戦犯として訴追されている。



<1946年の西村クワ>


1945年8月、疎開で減少した東京の人口は280万人であったという。ある晴れた日、3人の若い米兵がふらりと御茶ノ水の文化学院のアーチの下に現れた。
「自分たちはイェール大学で1年日本語を勉強した後、日本で1年学徒動員の兵役をすませればまた大学に戻って勉強ができる。今、日本にいる間に日本人の学生たちとも話し合ってみたい」というわけで見学に来たと西村クワは言う。彼らはインテリであり、いわゆるただのGI(兵士)ではないと強調する。

1946年の夏休みに入り軽井沢に行っているとき、このイェール3人組もジープに乗って東京から遊びに来た。ジープという車を初めて見て、おもしろい愉快なことだと思った。
我が家に米兵を泊めるのはどうかと思って、近所に住んでいたドイツ人のヴァイス夫人の所に泊まってもらった。下はその時の写真である。またこの時のアメリカ兵は別カットに写っている。

左から欧州から帰国したばかりの西村ソノ、伊作、クワ、八知 (1946年軽井沢)

戦後 東京からジープで軽井沢に乗ってくるのが、最高にしゃれていた。道ががたがたで大変だったと朝吹は書く。

西村クワは今ジュネーブに住むが、毎年夏休みは軽井沢の別荘で過ごしている。戦争中の軽井沢を体験した、数少ない現役の証言者である。最後にその西村クワの言葉で締めくくる。
「人生の中で一番悲境であったあの終戦の年の高原生活は、私にとっての心のふるさとである。」

この話は今後も新たな回想録等を見つける毎に加筆していく予定です。
(2017年1月14日)



<主要参考文献>

西村クワ「光の中の少女たち」を中心に書いてきましたが、他に以下の文献を参考にしました。

「ズザンナさんの架けた橋」 ズザンナ・ツァヘルト
「横浜ヤンキー」  レスリー・ヘルム (シンチンゲル) 
「ローゼンストック回想録」 ジョセフ・ローゼンストック
「ブブノワさんという人」 三浦みどり
「初代総料理長サリー・ワイル」 神山典士
「日本人と戦争」 ロベール・ギラン
「戦時下日本のドイツ人たち」 上田浩二 荒井訓
「ドクタージュノーの戦い」 マルセル・ジュノー
「三時代の日本」 カミーユ・ゴルジェ
「1945年のクリスマス」 ベアテ・シロタ・ゴートン、平岡 磨紀子  
「横浜と外国人社会―激動の20世紀を生きた人々」 
(アルマニア人アブカー一家の三代記)

「私の軽井沢物語」  朝吹登水子
「37人が語る わが心の軽井沢」 朝吹登水子
「父犀星と軽井沢」  室生朝子
「ある華族の昭和史」 酒井美意子
「若き日の日記」 神谷恵美子
「色無花火」 東郷いせ
「お嬢さん放浪記」 犬養道子
「失敗者の自叙伝」一柳満喜子
「翼のはえた指 評伝安川加寿子」 青柳いづみ
「母・円地文子」 冨塚素子
「暗黒日記」 清沢洌

「二等兵記」 松前重義
「時代の一面」東郷茂徳
「泡沫の35年」 来栖三郎
「ハンガリー公使 大久保利隆が見た三国同盟」 高川邦子

「仮面の告白」 三島由紀夫
「文壇五十年」 正宗白鳥

「軽井沢物語」 宮原安春
「万平ホテル物語」万平ホテル

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