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心の糧(戦時下の軽井沢) 第二部
Karuizawa in wartime part2
大堀 聰

この度『心の糧(戦時下の軽井沢)』は書籍化されました。
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『心の糧(戦時下の軽井沢)』 表紙

<日野原重明>


今も現役の日野原重明は次のように証言している。
「1941年夏、聖路加国際病院内科に赴任する。早速7月から9月まで聖路加の軽井沢診療所に勤務。1944年まで、毎年夏期は、そこでの勤務を命じられた。旧道の”ふじや旅館”の小路を入ったところにあるお寺の境内に接して建てられた木道2階建てを改装したものであった。

主人だけが東京に残り、週末だけ軽井沢に来るような人が少なくなかった。軽井沢に移るとすぐに子供たちは、よく下痢をしたが、それは何か水が変わったためかと思われるふしがあった。

川端康成氏、歌人の佐佐木信綱氏などは、お孫さん連れで、夏はここで過ごされていたが、そのお孫さんたちの病気のためにこれらの別荘を何回も往復した記憶がある。鳩山さんや、ブリジストンの石橋さんのお宅などにも何回か往復した。来栖アリス夫人に懇意にさせていただいた。度々お茶の時間に訪問した。

重い病人がでるとマンロー医師が所長をしていた軽井沢病院に患者を入院させるのが常であった。小さな木造の病院であったが、すべてが清潔であり、また、アメリカ式の運営がなされていた。」
(日野原重明さんは2017年7月18日に亡くなりました。)

ここでは川端康成は戦時中も、軽井沢を避暑で訪れたことを想像させる。ただし孫は誰の事か不明である。
彼の別荘に関しては次のようだ。
「1941年に引き揚げていくイギリス人宣教師から譲り受けたもので、大きな3階建て。
マントルピースは軽井沢で最もよく燃える素晴らしいものだと藤屋の小林さんが言っていた。」(『軽井沢―文壇資料 』小川 和佑)



<緒方貞子>

後の国連高等難民弁務官を務める緒方貞子は、中村豊一元フィンランド公使の長女である。緒方は白金にあった聖心女子学院に通う。自宅は田園調布である。3月10日の大空襲で学校が焼けてしまう。同じ月に卒業式を終えると、家族で軽井沢に疎開する。そこには聖心のシスターも疎開していて、英語の勉強に通った。

「私は身体を動かすのが大好きでしたが、あまり動くとお腹が空くので、香港で覚えたテニスもなるべくしないようにしました。」と語る。三笠ホテルで外務省出張所の雇として働くが、ほかに4,5人くらい、外務省関係者の子供がいた。
「一番下のランクでお使いとか電話番とか、雑用が少しあるくらいで毎日座っていただけのようなものです。弁当を持って、自転車で通勤しました。かなり距離があるのですが、若かったのか、つらいとは思いませんでした。」

旧三笠ホテル(筆者撮影)

緒方貞子さんは2019年10月22日、逝去されました。



<外務省出張所と若い女性>


緒方の書く三笠ホテルに開いた外務省の出張所であるが、大久保利隆元ハンガリー公使を含め5名の職員がいた。(「ハンガリー公使大久保利隆がみた三国同盟」に詳しい)そしてそこには先述の緒方のように、外交官を父に持つ、外国語が堪能な、若い女性が加わった。若い女性は無職であると、徴用され工場で働かされた。彼女らの働く目的の一つは、それを逃れるためであった。

そこには三谷隆信フランス大使の長女(邦子)や、宮崎勝太郎元ルーマニア公使の長女らがいた。三谷邦子については後にまた述べる。また来栖大使の次女輝も通訳として働いたという。輝は1947年にはGHQに勤務していた米国人フランク・ホワイトと結婚するが、結婚式は軽井沢で行われた。

三谷大使のフランスの前任地はスイスであった。スイス公使の後任は阪本瑞男(さかもとたまお)となり、1942年8月8日に正式に辞令が出る。阪本は健康上の理由で5月から軽井沢で静養中であった。このように日本人外交官も多く、軽井沢に名前が登場する。



<セルゲ・ペトロフ・白系ロシア人>

三笠ホテルは白系ロシア人の疎開場所にもなっている。
セルゲ(Serge Petroff)の父親パーヴェル・ペトローヴィチ・ペトロフは「日本在住亡命露人協会」の会長にもなった人物で、白系ロシア人社会では中心人物の一人である。長男セルゲはセント・ジョゼフを卒業後、大森の「日独エンジニアリング」で働く。先に紹介したユダヤ系ハンガリー人エルンスト・クァスラー(Ernst Quastler)と同じ勤務先だ。

1945年3月の東京大空襲後の5月頃、一家に軽井沢への疎開命令が出て、特別列車が手配された。
会社の関係で東京に残ったセルゲは少し遅れて6月1に軽井沢へ向かう。そこで白系ロシア人へ割り当てられたのは三笠ホテルだった。数十人が入った。一家はベランダのついた狭い部屋で、ベッドはなく布団で寝た。大きなタイル張りの共同風呂があり週に一回入れた。

監視は厳しくなかった。ロシア人担当の警察主任は50代初頭で少しロシア語の知識があった。警察主任は自分の権威を示すため、毎週月曜日の午前10時に点呼が行われた。そして全員の名前を読み上げた。
ただし三笠ホテルにいた日本人も、セルゲも回想などで相手の存在に触れていない。また点呼が行われたとすれば、彼らは軟禁されていたと解釈できる。



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<堀辰雄>



軽井沢高原文庫に移築された1412の別荘。2018年8月筆者撮影



<室生朝子>




室生犀星旧居 2016年8月筆者撮影



<正宗白鳥>



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<前田公爵>



1942年4月の前田候一家の写真(旧前田家本邸にて撮影)ウィキペディアでは次女は瑤子だが、こちらは智意子になっていて正しいはず。



<坂本直道>



<清沢洌(きよさわ きよし)>





<三島由紀夫>



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<企業>





<朝吹登水子>



旧朝吹山荘(睡鳩荘)は軽井沢タリアセンに移築保存されていて、豪華な内装も見ることが出来る。
W.M.ヴォーリズの設計(2018年筆者撮影)




篠沢秀夫(フランス文学者)>


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<佐々木惇子>



<小坂敬 (銀座 小松ストアー社長)>




<西村クワ>



西村クワの講演の様子はこちら



<マンロー病院>



マンロー病院のあった所は今は駐車場になっている。当時の痕跡を探したが、見つからなかった。(2017年8月、筆者撮影)


建物はヴォーリズの設計であった。旧朝吹山荘の説明パネルより。(筆者撮影)


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ユダヤ人医師 ヴィッテンベルク>



<ドイツ人医師 ステッドフェルド>





<リトアニア人医師 ブレッド・サンダース他>



<服装>



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ダンスパーティー>



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<ダンスパーティーとフランス人の少女>






<自転車>




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<テニス>




現在のテニスコート。ヴォーリズ設計のクラブハウスは歴史を感じさせる。(筆者撮影)
この建物の2階にアガジャンの学校が開かれた。


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<ゴルフ>





<戦時下らしくない生活>



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<神谷恵美子>





<ドイツの降伏>




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<エタ・ハーリッヒ・シュナイダー 1 (ドイツ人の音楽家)>






<外交官 東郷茂徳と娘“いせ”>




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<外相再就任>




<外国人の増加>




<外交官の関心事>




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<近衛文麿公>



今もある近衛山荘の表示板 2018年6月筆者撮影



<最後の軽井沢入り>





<外務省 天羽英二、鈴木九萬>




<ソ連の参戦と白系ロシア人>


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<ジュノー博士>




<終戦直前>





<鳩山一郎>



別荘のあった通りは「鳩山通り」という名前が付けられているが、標識は意外と目立たない。筆者撮影。


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<8月15日>





<終戦と警察>




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<近衛公最後の会見>





<米兵出現>




<上京組>




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<上京する若者>




<エタ・ハーリッヒ・シュナイダー 2 (ドイツ人の音楽家)>





<ドイツ人の対応>






<終戦直後の学校>




<軽井沢のユダヤ人>





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<ハインリッヒ・ゼールハイム ドイツ人 横浜領事>




写真提供Neil Kaplan(イスラエル)。貴重な資料の提供に感謝します。



<戦後の闇商人>




<朝日新聞より>





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<1946年の西村クワ>




お茶の水に保存されている文化学院の門(筆者撮影)


左から欧州から帰国したばかりの西村ソノ、伊作、クワ、八知 (1946年軽井沢)




<アイケルベルガー中将 Robert L. Eichelberger>



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<ノルベルト・ベルシュテット (ドイツ陸軍武官補佐官) Norbert Bellstedt>




<終戦直後の外国人>







<ドイツ人の送還>



<主要参考文献>

西村クワ「光の中の少女たち」を中心に書いてきましたが、他に以下の文献を参考にしました。

「ズザンナさんの架けた橋」 ズザンナ・ツァヘルト
「横浜ヤンキー」  レスリー・ヘルム (シンチンゲル) 
「ローゼンストック回想録」 ジョセフ・ローゼンストック
「ブブノワさんという人」 三浦みどり
「初代総料理長サリー・ワイル」 神山典士
「日本人と戦争」 ロベール・ギラン
「戦時下日本のドイツ人たち」 上田浩二 荒井訓
「終戦時滞日ドイツ人の体験」 荒井訓
「ドクタージュノーの戦い」 マルセル・ジュノー
「三時代の日本」 カミーユ・ゴルジェ
「1945年のクリスマス」 ベアテ・シロタ・ゴートン、平岡 磨紀子  
「横浜と外国人社会―激動の20世紀を生きた人々」 
(アルマニア人アプカー一家の三代記)
「江戸っ子」(Edokko) Isaac Shapiro
"Honored and Dishonored Guests" W. Ouck Brecher
"Shibaraku" Lucille Apcar
"Somehow, we'll survive" George Sidline

「私の軽井沢物語」  朝吹登水子
「37人が語る わが心の軽井沢」 朝吹登水子
「父犀星と軽井沢」  室生朝子
「ある華族の昭和史」 酒井美意子
「若き日の日記」 神谷恵美子
「色無花火」 東郷いせ
「お嬢さん放浪記」 犬養道子
「失敗者の自叙伝」一柳満喜子
「翼のはえた指 評伝安川加寿子」 青柳いづみ
「母・円地文子」 冨塚素子
「暗黒日記」 清沢洌
「高原に集へる外人達」 窪田空穂
「ロイと鏡子」 湯浅 あつ子
「人、夢に暮らす」 足立倫行
「銀座に生きて」 小坂敬

「二等兵記」 松前重義
「時代の一面」 東郷茂徳
「泡沫の35年」 来栖三郎
「ハンガリー公使 大久保利隆が見た三国同盟」 高川邦子
「日本における白系ロシア人史の断章1」 インターネット

「仮面の告白」 三島由紀夫
「文壇五十年」 正宗白鳥

「軽井沢物語」 宮原安春
「万平ホテル物語」万平ホテル

文中にも何か所かで記したが、Tom Haar氏およびJulio Rangel氏両名提供の各種情報は、多くの知られていない史実を知らしめてくれた。特別の感謝を申し上げる。

第二部完 
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こちらもお読みください。
フランツ・メッツガー(Jr)の体験した戦時下の山下町、野尻湖

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