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心の糧(戦時下の軽井沢)補遺(外国人編)
Karuizawa in wartime, appendix 1
大堀 聰

補遺編では本編1部、2部に収まり切れない内容、書籍『心の糧 (戦時下の軽井沢)』出版後に判明した戦時下の軽井沢の様子を、疎開していた外国人を中心に随時紹介していく。同書を読まれた後に、こちらを読むとより理解しやすいと思います。日本人編はこちら
「心の糧(戦時下の軽井沢)」の表紙

『続 心の糧(戦時下の軽井沢)
Wartime Karuizawa Vol.2 終戦直後の光景を中心に』が発売されました。(22年1月)



後のハウス・ゾンネンシャイン>

このドイツ人経営のペンションについては、『心の糧(戦時下の軽井沢)』で主として戦争中の話を紹介した。(42ページ)
またその後、この「補遺」の中ではすでに<哲学者カール・レーヴィットが見たレーデッカー夫妻>、<ハウス・ゾンネンシャイン>のタイトルで戦前の姿を中心に紹介してきた。筆者の軽井沢探求では最も興味ある建物の一つだ。そしての終戦後もGHQ(連合国最高司令官総司令部)の文書の中にいくつかの記録が残っている。

戦後の1951年10月19日、3国諮問委員会がこの不動産について話し合っている。メンバーはフランス、英国、アメリカから総勢6名である。議題はウィルヘルム・レーデッカー(Willhelm Redecker)所有のゾンネンシャインの土地、建物、家財をそのままとするかもしくは妻のベルタ・レーデッカー(Betra Redecker 故人)に移転すべきか?という問題であった。夫ウィルヘルムは1947年にすでに亡くなり、妻ベルタも1950年に亡くなっている。ベルタ側の遺族が相続に際して訴えを起こしたようだ。

この訴えに対し占領下の日本では、政府ではなくGHQが内部で話し合っている。まずイギリス代表は
「ウィルヘルム名義の不動産を没収する理由が見当たらない」
フランス代表は
「ヴォーグト博士が夫ではなく、ベルタが別荘を建てるためにお金を貸したと証明できなければ、不動産はウィルヘルムのものとすべき」
再度イギリス代表は

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写真は現在の1427番。門柱は当時のものか?ハウス・ゾンネンシャインの1411番は奥に薄く見える建物のあたり。ゾンネンシャインは「日光」の意味だ。この日は日が差し込んでいたが、それほど日当たりの良い場所とは思えない。
(2021年7月29日)




ライシャワー、軽井沢への汽車旅>

『心の糧(戦時下の軽井沢)』において、ドイツ人の子供が途中高崎駅の鰻丼を食べたことを紹介した。(105ページ)

日本で生まれ後に日本大使になるエドウィン・O・ライシャワーは軽井沢への汽車旅行に関し次の様に回想している。(105ページ)
「子供の頃、日本にいる時は、必ず夏を軽井沢で過ごしました。そのころ東京から汽車で5時間かかりました。今の様に冷房車があるわけでなく、ススで顔も手も黒ずんでしまうのでした。

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(2021年7月23日)




<エラスト エメ・ヴィリア(アルゼンチン代理大使  650番)>

戦時下の日本において、アルゼンチンは数少ない中立国で、しかも公使ではなく大使クラスが駐在していた。しかしヴィリアは戦争中には軽井沢に引きこもりがちで、日本政府をいら立たせている。外務省の記録から見ていく。(適宜分かりやすく書き換える)

1943年5月22日
「軽井沢における食料配給に関する件
アルゼンチン代理大使及び家族の軽井沢における食料品入手斡旋方依頼の件は了承した。
現下の如き情勢においては日常食料品を早急に軽井沢に配給すること困難あるにつき、目下外交団に対する配給に関し、一括した研究中につき遺憾ながら意に添い難き」
→外交官の疎開が日本政府から求められるのは1944年春以降である。しかしながらヴィリアはその1年以上前から、軽井沢に長期滞在して食糧の斡旋を外務省に求めているが、外務省はまだそうした態勢がないと答えている。

同年6月9日
「避暑地における外交団に対する便宜供与関係事務打ち合わせのため、長野県及び栃木県へ課員出張の件

在京外交団中この夏、軽井沢及び日光に滞在する者多数あり。これに鑑み同地のおける生活必需物資配給問題その他に関し、関係方面との事務打ち合わせのため、昨夏の例に準じ、長野県(軽井沢町)及び栃木県(日光町)へ5日間の予定にて課員三浦稔を出張せしむることといたしたき」
→この年の夏は外交官は日光にもかなり避暑に出かけていたことが分かる。中禅寺湖畔には、外国公館の別荘が今も存在している。イギリス、イタリアは戦前からあったことが分かっている。

イタリア大使館別荘は公園として一般公開されている。

同年11月3日
「内山嘱託の軽井沢出張に関する件
在京アルゼンチン国代理大使『ヴイリヤ』は目下軽井沢に引籠り居り、極めて稀に出京するのみにて殆ど我方と隔離状態にある処、『ヴイリヤ』をして、かかる状態に放置することは、我対アルゼンチン関係上よりも面白からざるに付き、同人と連絡の為、外務省嘱託前公使内山岩太郎をして来たる11月1日より3日迄、軽井沢へ出張の上『ヴイリヤ』を訪問せしむること致したき」
→軽井沢に引きこもって外務省との連絡もほとんど途絶したヴィリアが軽井沢に連絡のため、外務省から前公使が派遣された。軽井沢ではどのような話がなされたかは不明であるが、ヴィリアはその後も軽井沢に留まる。

同年12月27日
「駐日アルゼンチン国代理大使に便宜供与の為、大倉書記生を長野県へ派遺の件
『ヴイリヤ』は軽井沢にて越冬の為、目下同地に滞在中なるが、暖房用石炭配給に関し幹旋方かねて依頼のありたるに付き、長野県庁と交渉中の処、時局柄特に困難なる事情ある趣にて容易に現物配給に至らず。
他方同代理大使よりは再三再四の懇請あり。日アルゼンチン関係の現状にも鑑み、此の際出来得る限り速やかに先方の希望を満足せしめやりたく。しかるに本件は長野県庁に対する書面のみの交渉にては容易に埒開かず。大蔵書記生に対し、長野及び軽井沢へ往復4日の予定にて出張させる」
→アルゼンチンとの関係を重視して、彼の別荘への石炭供給のため、外務省の職員が出張する。1943年の冬を軽井沢で過ごした唯一の大公使であろうか?

同年12月27日
「三浦属、中村通訳生の神奈川県、長野県出張に関する件
空襲時における在京外交及びその家族の避難予定地たる箱根及び軽井沢の関係(県庁、地元警察署、町役場など)並びに『ホテル』との食料、燃料、施設等に関し調査並びに連絡のため、儀典課勤務三浦属を神奈川県へ、また中村通訳生を長野県へ往復約5日間の予定を以て出張せしめたき」
→この頃から箱根と軽井沢が外交官の空襲時の避難地として検討されていたことが分かる。今でいう外務省の危機管理か。「避難予定地」で「疎開」という言葉がまだ使われていないことも注目に値する。

年が明けた1944年1月、アルゼンチンは日本と断交し、翌45年3月27日、日本に宣戦布告する。
ヴイリヤは家族と共に軽井沢で敵国外交官として終戦を迎えた。ヴィリアは本国の対日断交の動きを察知していて、早くから軽井沢で引きこもるような生活をおくったのであろうか?
(2021年7月21日)



<軽井沢の修道女たち(抑留者?)>

軽井沢に疎開した外国人は抑留者であったのか?という議論もあるようだ。疎開者であったロイ・ジェームスの様に「抑留の意味は軟禁ですよ」と回想に「抑留」という言葉を使っているものもある。(『心の糧』12ページ)

抑留の定義は国際法上は「捕虜または自国内にいる敵国人の身体を拘束したり、自国の港にある外国船舶をとどめおいたりすること」とある。これからすると無国籍の白系ロシア人等は敵国ではないから抑留者ではない。また日本政府は終戦直後に「抑留者リスト」を作成しているが、そこには抑留場所として軽井沢の地名はない。つまり日本政府にとって軽井沢の外国人は抑留者ではなかった。

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(2021年9月5日)



哲学者カール・レーヴィットが見たレーデッカー夫妻>


ドイツの哲学者カール・レーヴィット(Karl Löwith)は、ユダヤ系であることを理由にドイツの大学での講義と出版が禁止される。
1936年から東北帝国大学の教授として来日し、1941年にアメリカに移る。そのレーヴィットは『1933年の前と後のドイツでの生活』の中で軽井沢のペンション「ゾンネンシャイン」と女主人ベルタ・レーデッカーについて書いている。原題は”Mein Leben in Deutschland vor und nach 1933”で日本語訳は無い様である。筆者の意訳と解説を添えて紹介する。 
なお彼女について筆者はすでに『心の糧(戦時下の軽井沢)』42ページあたりで触れている。

夏の間だけ人が暮す軽井沢にある沢山のコテージの中で、とりわけ大きく立派なヴィラがそそり立っていた。
高くて尖った屋根から、建物はドイツ人のものであることを容易に想像させる。そこは「ハウス・ゾンネンシャイン(直訳は「太陽の家」・Haus Sonnnenschein)」といって、子供のいないレーデッカー夫妻の建物であった。夫(ウィルヘルム)の方は依然ドイツ人学校の校長を務めていて、立場上ナチ党と繋がっていた。
(夫妻は長く日本に暮らし、ウィルヘルムは関東大震災後の1923年に大森のドイツ人学校の校長につく。そして1943年までその職にある。間の1934年には「海外ドイツ人学校の教職員はナチ党員でなければならない」という通達が出され、かれもナチ党に加入する)

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(2021年1月11日)



<パッヘ神父>

後に南山大学の学長となる聖パウロ教会の主任司祭アロイス・パッヘ神父については当事者の証言をもとに「非常に勇気のある」神父として書いた。たとえば教会のコーラス隊のメンバーを、神父は宗教に関係なく選んだ。(「心の糧」 35ページ)

日本人に帰化した建築家で社会事業家のウィリアム・メレル・ヴォーリズがそのパッヘ神父について日記に書き残していた。
「他の国からの疎開者も軽井沢に集まっており、彼らのためにドイツ出身のローマカトリックの司祭であるパッヘ(Father Pache)が、聖書朗読を行っていた。パッヘは同じ信仰をもつものだけではなく、プロテタントやユダヤ教の人たちも仲間に加え、その中にヴォーリズと友人のユダヤ人、ルートヴィッヒ・フランクもいた。

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(2020年12月10日)


パッヘ神父の仕えた聖パウロカトリック教会。1935年の設立。アントニン・レーモンドの設計で、ヴォーリズではない。(2020年11月筆者撮影)



<軽井沢外国人墓地に眠る戦時下の外国人>


雲場池からほど近いところにある軽井沢の外国人墓地は、1913年に外国人避暑客による公益委員会と村人たちによって設立された。同年公益委員会は「軽井沢避暑団」となり、1942年に「財団法人軽井沢会」と名前を改め現在に至る。財団法人軽井沢会は軽井沢集会堂の管理、軽井沢国際テニストーナメントの主催を行う由緒ある会員の親睦組織だ。
そのためかは分からないが墓地はとても綺麗に維持されている。残念なことは経年の変化で墓碑が読めない墓が結構あることだ。


『心の糧(戦時下の軽井沢)』で取り上げた外国人のうち次の方のお墓が判明した。

1 スタンヂ・サカエ(栄) 
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(2021年4月15日追加)



2 ドイツ人元外交官フレデリック・デラトロベ 38ページ
三笠で薪用に木を切り出しているときに倒れて亡くなった。妻マリアもそれから間もない1947年に亡くなっていることが分かる。


3 ドイツ語教員ロベルト・シンチンゲル 28ページ
妻アネリーゼ(Annelise)は終戦直後の1946年に軽井沢で亡くなっている。ロベルトは1988年に横浜で亡くなるが「墓は長福寺(Chofukuji)にある」となっている。そのためかもしれないが、割と質素なお墓だ。そしてその上にバルバラ・シンチンゲル・ヘルム(Barbara Schinzinger Helm)の墓碑がある。2017年3月にシアトルで死亡した。バルバラのメモアールは前掲書では何箇所かで引用した。


4 ヴァイス夫人 181ページ
こちらに詳しく述べた。

一方ここに埋葬されたとされるマンロー医師(125ページ、遺骨の一部)、横浜の刑務所で亡くなったヒューゴ・フランク(46ページ)の墓は見つからない。ふたりとも戦時下に亡くなり、墓石も質素なものであったために、文字の判別が出来なくなっているのであろうか?

筆者が『フランツ・メッツガー(Jr)の体験した戦時下の横浜、野尻湖』で紹介した、ヘルマン・ウォルシュケ(Hermann Wolshuke)の墓もある。ウォルシュ家は戦争中は軽井沢ではなく、野尻湖に疎開していた。

(2020年11月22日追加)



<旧ポール・ジャクレー邸の碑>

『心の糧』で以下の様に書いた碑をようやく訪問することが出来た。(70ページ)
歩いていても気付かないようにひっそりと立っている。そしてここも残念ながら、文字がはっきりとは読めない。

彼のかつての住まいには碑が建っている。彫られているのは以下のようだ。
「1245
Paul Jacoulet
若禮」

ただし1944年に軽井沢に疎開し、最初に住んだ別荘は1371番の半田善四郎所有の貸別荘である。そしてこの場所に移ったのは戦後間もなくの1948年のことだ。

ここも軽井沢ブループラークに認定されているが、そのプレートは道路からは見えない。

(2020年11月22日)



<ウィリアム・メレル・ヴォーリズ Part2>

1941年1月24日に日本に帰化し、1942年軽井沢に移り住んだヴォーリズだが、「心の糧」執筆時点まで筆者の調査では、ほとんど名前が出てこなかった。(105ページ )
唯一ヘンリー玉置が「ヴォーリズから英語を習った」と筆者に語っただけであった。しかし『メレル・ヴォーリズと一柳満喜子-愛が架ける橋-』を読むとヴォーリズの軽井沢時代についても、知ることが出来る

彼はます東京帝国大学で、英語の聖書の講義を頼まれた。このことは帰化した国への忠誠心と、戦争よりも平和を愛することへの静かな裏書となった。妻の満喜子は
「もう車両には暖房はないのよ。また病気がぶりかえすわ」と反対した。しかし
「だが、行かなければいけないんだ」とヴォーリズは主張した。満喜子は根負けして一番厚手のスーツを着せ、何枚もの毛布を包んだ。こうしてヴォーリズ毎週軽井沢から東京に出た。

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(2020年12月11日)



<一柳満喜子(ウィリアム・メレル・ヴォーリズ夫人)>

満喜子に関して筆者は清沢洌の『暗黒日記』から次のように紹介した。
1944年5月14日
露子さんの話。「三井高雄君が中学校と女学校を(軽井沢で)経営している。先生の方が多いという有様だから、大変な犠牲である。」
5月16
「一柳夫人。三井君の学校をチャージしている」。ここでの「チャージしている」とは「引き受ける」の意味か? (106ページ)と拙著は疑問形で終わっている。その後次のようなことが判明した。

満喜子は旧軽井沢の旧道に面した軽井沢教会の向かい、以前のメレルの建築事務所だった場所を学校として開いた。はじめは24人ほどしか来ていなかったが、すぐに100人を超える子供が集まるようになった。
また旧軽井沢ではヴォ―リズの夏の間の事務所が今のミカドコーヒーがある場所(軽井沢786-2)であったことも判明した。
軽井沢彫シバザキからは100メートル程駅の方に戻った所だ。
なおヴォ―リズ研究の第一人者芹野与幸は「夏の間の事務所は今のミカドコーヒーがある場所(軽井沢786-2)」と語っている。お店は軽井沢教会の向かいではなく、向かって右隣にある。


そして間もなくして学校は啓明学園に移管された。啓明学園は、三井高雄が私邸を開放して、帰国子女のために1940年に創立した学校である。啓明学園に移管された背景には、啓明学園の子供たちが東京から軽井沢に疎開したことがある。
(『メレル・ヴォーリズと一柳満喜子-愛が架ける橋-』より)

こうして満喜子と三井高雄の関係が明らかになった。また清沢の書く「露子」は鮎沢露子で、啓明学園理事鮎沢巌の長女である。彼女は啓明学園の英語の教師だった。父がジュネーブのILO本部で勤務している時にスイスで生まれた。
露子は「軽井沢南ヶ原(南ヶ丘?)のテニスコートつきの大きな別荘にいた」という。(「鮎沢露子と大島博光─西條紀子さんの証言」ネット)

満喜子はさらに、軽井沢基督合同教会附属幼稚園として1916年に設立された軽井沢幼稚園の園長を務めた。そこは夫が軍隊へ行ってしまった母親たちが働くために、子供を安全に預けられる場所だった。

また終戦史直後の1945年9月3日、軽井沢に疎開していた嘉仁天皇の后だった貞明皇后が、満喜子のもとを大量の菓子や布施を携えて訪問した。(『メレル・ヴォーリズと一柳満喜子-愛が架ける橋-』他より)
(2020年12月13日)

夫ヴォーリズが設計した軽井沢基督合同教会(現日本キリスト教団 軽井沢教会)。「軽井沢幼稚園」の看板が右の柱に見える。



<ワルト・フォン・ハオフェ(Walt von Hauffe ) 白系ロシア人>


ウラジオストック出身の一家は白系ロシア人(無国籍)であったが、上海から日本に渡り、ドイツ系企業で働くことになった際、ドイツのパスポートを授与された。技術者の父の政治信条は全く異なったが、日本に渡るに際し必要だったようだ。(『心の糧』177ページに紹介)

疎開した軽井沢では万平ホテルの一室を割り当てられた。ドイツパスポートゆえであろう。終戦後、アメリカのトラックがホテルに来た日のことをワルトは鮮明に覚えている。何人かのアメリカ兵が近寄ってきて肉の缶詰のようなものを手渡してくれた。彼はしばらく手に持っていたが、6歳の少年が投げられる限り遠くに投げ捨てた。彼らは常々、アメリカ兵のくれるものは偽装爆弾だと言われていたからだ。嘘か本当かは分からないが。
(2020年10月26日追加)


<ルペルト・エンデルレ (ドイツ人、書店経営、出版業)>

ルペルトが日本に来たのは1935年、22歳の時であった。彼の勤めるカトリック系の出版社”Herder Verlag”と上智大学が共同で日本語版「カトリック大辞典」を編集する事になり派遣されてきた。

戦時中は茅ヶ崎に住んだが、戦争の激化で軽井沢に疎開する。軽井沢では同じく茅ヶ崎から疎開していたドイツ人のパーシェ家(『心の糧』32ページ)と一緒に暮らした。エンデルレ家はルペルトは茅ヶ崎に残り、男親がいなかったからであった。(Brigitteさん)

そのルペルトは八十二銀行の軽井沢支店に口座を設けていた。一種の貯蓄の疎開であろうか?1943年の別荘地図では旧軽井沢の街道沿いに八十二銀行の支店があった
(地図上では八十四銀行となっているが、同銀行はこの時すでに存在しない。八十二銀行であることは明らかだ。)茅ヶ崎の銀行では空襲で銀行が焼け落ちる恐れもあったからである。多くの外国人は同じように同支店に口座を開設していたのであろうか?

そして終戦後間もない1945年12月、GHQ(連合軍総司令部)は日本政府に凍結中のルペルトの口座から14000円を引き出すことを認める旨の連絡票が出た。『人倫と愛』(2000部)の出版費用としてであった。ルペルトは敗戦国民であったが、敗戦後直ちにキリスト教関係の出版事業を再開させた。
(2020年10月27日)


<パーシェの手記から新たに分かったこと>

『心の糧』32ページで紹介したヨーン・パーシェの妻マリア・テレーゼーは英語の手記を残している。読み解くと同書の内容を補ってくれる箇所がいくつかある。

戦後のCICの調書から次のような供述を紹介した。
「他にユダヤ人女性医師もいた。彼女は日本人と結婚し手塚姓を名乗った。戦後連合国の調査に答えている。
『ユダヤ系のドイツ人女医として1934年から開業していたが、1942年から一人もドイツ人が来なくなった。まるで軽井沢全体が完全にナチスに支配されたようだった』」

今回見つかったのは次の記述だ。
「ベルリン出身の手塚小児科医、元の名前はベルガー医師(Dr. Berger)。彼女は子供が麻疹にかかると診に来てくれた。手塚医師は後に立派な日本人と結婚した。手塚家は軽井沢に別荘を持っていて、一度訪問した。そこでは久しく食べたことのなかったパンケーキを食べた」

また蘭印引き揚げドイツ人女性の二人の名前が判明する。

フロラ・ラムサワー(Ramsauer 軽井沢1222)
「彼女は同じ丘の少し下に住んでいた。ミヒャエラが十分に栄養を取っていないと考え養ってくれた。ラムサワーはいつも十分な食料を持っていて、素晴らしい主婦だった。彼女は私に夫ヨーンを含めて5人の子供がいることにいつも苦言を呈した」
ラムサワーが十分に持っていた食料は、野上弥生子が書くように「オバサン、ナニカアリマセンカ?」と日本人に話しかけ、買い求めたものであろうか?

シスター・ヘドヴィッヒ
「1945年6月 ヴェルギリア(Vergilia)が生まれる。この年にはコーヒーの配給があった。
医者の往診が必要な時、お金がなかった。夫ヨーンはそのコーヒー2ポンドを差し出して医者に来てもらった。喜んで来た医者はヴィッテンベルク(Wittenberg)であった。

ヴェルギリアが生まれてからの10日間、とてもおいしい食事を食べることが出来た。病院は何も食事を出せなかったので、持ってきたのはシスター・ヘドヴィッヒ(Sister Hedwig)であった。彼女は有名であった。インドネシアからの引揚者だ」

ヴィッテンベルクは上掲の書では頻出である。またこれまでに蘭印引き揚げドイツ人で名前が判明したのは、バルバラ・シンチンガーの親友で同年代のウルズラ・ロッフという女性のみである。

ドイツ人学校の先生の名前もひとり判明する。
「子供たちは軽井沢に残った。学校があったからだ。ヨハンナは近所のラング家に預かってもらった。ゴットフリードはベルステッド家だが、娘が彼のクラスにいた。
両親は子どもには友達が必要と考えた。オルガ・ゲプフェルト(811番)の(ドイツ人学校の)クラスは始まっていたし、ふたりは自分たちだけで留まることが出来るほどに成長していたと両親は考えた」
(2020年10月31日追加)


<ハツ・ケーター (看護婦 カナダ人 軽井沢1302)>

1945年7月30日に、横浜一般病院に勤務していたケーター嬢はスイス公使館の仲介により、他の外国人同様に軽井沢へ疎開することが認められた。ハツという名前からして、カナダ人と結婚していた日本人夫人であろうか?新たな外国籍の軽井沢住人の発見だ。
(2020年11月7日追加)



<ガントレット恒子>


「心の糧」では「日英混血でイギリス国籍だったオウエン・ガントレットは、母親のガントレット・ 恒子が保護するということで、軽井沢で生活することを許された」と書いた。(97ページ)
恒子の夫エドワード・ガントレットは英国ウェールズから東洋英和学校の教師として1890年に日本に来ている。妻である旧姓山田恒子は山田耕作の姉である。夫は1941年に日本に帰化した。

現在登録文化財に認定された建物として「旧ハミルトン・アンド・ハード軽井沢コテージ」が愛宕山の麓にある。ここは東洋英和女学院の校長を務めたフランシス・ハミルトンと教師のヘレン・ハードが建てた別荘でヴォーリズの設計であった。1940年のクリスマスの時期に、この別荘を訪ねた同校の小学生武藤和子さんはミス・ハミルトンから
「この別荘はガントレット恒子さんにおゆずりしたからもう行かれないよ。今年で最後だよ」と言われたことがとても残念で、武藤さんはその「ガントレット恒子さん」の名前を忘れようにも忘れられなかったそうである。
(史料室だより 東洋英和女学院史料室委員会)

ここからガントレット母と子は東洋英和の生徒には惜しまれつつ、ここに戦時中暮らしたと推測される。1943年別荘地図にはハミルトンの名前もガントレットの名前も見いつからない。
(2020年12月26日追加)


<終戦直前の疎開者>

1945年7月8日、外務省軽井沢事務所の大久保所長は古内外務省政4課長に
「現地受入態勢徐々に進行中なるも、未だ充分ならざるやの印象を受けているところだが、外国人が現在居住する地の警察官憲は、唯当該地域より外国人を追出しさえすればよしの観念に支配されて、当地軽井沢警察と何等の連絡なく、どんどん追い出している印象である」と書き送った。その例は以下のようだ。

河口在住のフランス人フォンテーヌ夫妻は1945年7月7日までに家屋を明け渡し軽井沢に赴くべし、当地には適当なる家屋ありとの確言を得て行ったものの、当地の警察は斡旋することが出来ずに、夫妻はやむを得ずガロア領事(軽井沢1008)の住まいに投宿している。窮状を何とかしてほしいとポアセゾン参事官(軽井沢1059)が、事務所に窮状を訴えた。それでもフォンテーヌ夫妻は住居を得たようで、終戦は軽井沢2265番で迎えている。

大磯在住のフランス人デンチシ夫妻(妻は80歳にして全身不随)は妻(注:正しくは母)の病状のため、疎開を希望しなかったが、警察よりは7月30日までに家屋を明け渡し、軽井沢に赴くべしと言われた。このような者は後回しにしてはいかがであろうと、大久保は提言した。
終戦時、書記官としてデンチシ(軽井沢1459)の名前がある。(年齢等不明)一方大磯にもダンテ・デンチシ(45歳、フランス大使館雇)の名前がある。(2020年11月7日追加)


<万平ホテル 1944年>

『心の糧』においてソ連大使館は万平ホテルでの待遇に満足せず、9月末にホテルを一斉に引き揚げたことを紹介した。(60ページ)  次はその事情を説明する外交文書だ。

「在京外国外交官およびその家族の事前避難処理に関しては諸般の準備を完了せる次第なるが、在京ソ連邦大使館家族39名は、所定の避難地たる万平ホテルに避難している。その他の中立国側各公使館員家族も逐次避難しつつあり、すでにその数60余名に達しているところ、彼らに対する食料及び燃料配給関係とにかく円滑を欠いているよう。ついては県庁、地方事務所および町役場当局と折衝し緊急調整を計る必要あり。とりあえず当課勤務目代書記生を5月28日から6月3日まで出張せしむる」

中立国トルコの大使館はギョケル大使以下9名が終戦まで万平ホテルに留まる。軽井沢にはトルコ系タタール人が100名ほど疎開したが、彼らは専らソ連からの亡命者で、ソ連への配慮からトルコ大使館は彼らとは没交渉であったようだ。
(2020年11月8日)



<エラスト・エメ・ヴェリア (軽井沢650番 アルゼンチン代理大使)>


アルゼンチンは、日本参戦とともに南米諸国が日本と断行する中、国交が保たれた。
アルゼンチンの代理大使ヴェリアは軽井沢に引きこもり状態で、極めてまれに上京するだけであった。外務省は1943年11月、
「殆ど我方と隔離状態に在る処、ヴェリアを斯る状態に放置することは我が対アルゼンチン関係上からも面白からざるに付き、同人と連絡の為外務省嘱託前公使内山岩太郎をして来る11月1日より三日迄軽井沢へ出張の上ヴェリアを訪問させる」と所員を出張させた。

その後間もない、1944年1月にアルゼンチンは対日断交を通告する。ヴェリアはこうした本国の動きを知った上で、”引きこもる”ような行動を取っていたのであろうか?
さらには1945年3月には対日宣戦布告をする。その結果、軟禁状態に置かれるアルゼンチン人であるが、終戦時には以下のように代理大使一家と、2名の修道女が軽井沢に暮らした。
代理大使 エラスト・エメ・ヴェリア 
妻      オルガ・ヴエリア
長男   アレハンドロ・ヴエリア
修道女 エルネス・チーナ・ラマリヨ
修道女    ベイロン・ガブリエラ

日本全体では他に神戸に領事とその長男が暮らした。
(2020年11月9日)



<デンマーク公使館 軽井沢900番>


『心の糧』において、「900番地は目下デンマーク公使(Lars Pedersen Tillitse) が住んでいるが、1945年7月初旬に日本を去る予定」と書いた。(81ページ)

デンマークは実質ドイツの占領下にあったが、ドイツが降伏した直後の5月17日、日本と断交する。以降日本のデンマーク人は実質は抑留状態となる。そんな中、そして日本敗戦の直前にもかかわらず、ティリッツェ公使は本国に帰国する。外務省が帰国に便宜を図っている。東郷外相から満洲山田大使に向け電報が送られた。
「ティリッツェ夫妻及び娘の計3名は長春、ハルビン、ソ連経由帰国のため、7月2日に羽田発、空路貴地に赴くべきにつき便宜を。ヤマトホテルに部屋を手配されたし」
安全な軽井沢から、娘も連れて非常に困難な帰国の旅であったと想像される。

900番に関しては1943年7月15日
「デンマーク公使館夏期事務所(軽井沢900番)より厨房用木炭40俵、至急配給斡旋依頼あり」という外交文書が残る。夏期事務所がそのまま公使の疎開先となったようだ。

同じく『心の糧』には
「私の周りだけでも、隣がドイツ人の配給事務所でコンビーフ、ラードの樽などがあった。斜め向かいがデンマークのスミス商会」という記述がある。(23ページ)
「スミス商会」の詳細は不明であるが、ドイツ人の配給所はテニスコート横の旧ブレッツ・ファーマシー、その近くに住むデンマーク人というとアーゲ・ハンセン(1126番)だけだ。

終戦後半年ほど過ぎた1946年4月2日、
外務省の高野儀典課長は軽井沢事務所平野副領事に宛てて
「リスターの麻布新龍土町の家に関し、目下未定なる所、鎌倉に適当なる家あるにつき、希望あるや否や、一応リスターに問い合わせを」と書いた。
ティリッツェ公使帰国後、代理公使格のスベン・リスター(軽井沢635番)は東京に適当な住まいが見つからないため、終戦翌年も軽井沢にとどまっていたのであろうか?

900番は今の愛宕山通りを進んだところで、1943年の別荘地図では住民は「タムソン」となっている。915番もタムソンで、おそらく英米系の人物だが、戦前の所有者の名前がそのまま載っているのであろう。

余談であるが、ティリッツェ公使は戦時中、英字新聞に(東京の)デンマーク公使館のタイピストを募集した。それに応募して採用となったのは日系アメリカ人2世の「アイバ・戸栗・ダキノ」であった。戸栗は公使館で5時まで働き、その後NHKのスタジオに向かったという。彼女は戦後アメリカで、反逆罪で禁固10年の判決を受ける。
(2020年11月11日追加)



<ドイツ人向けの食料倉庫の戦後>


『心の糧』において、「ドイツはテニスコートのそばに独自に物資の貯蔵していた」と書いた。(74ページ)

終戦後間もない1945年9月9日、外務省軽井沢出張所の大久保所長は外務省の萩原儀典課長に次の内容を書き送った。
ドイツ海軍は当地の元「ブレッツ・ファーマシー」の家屋に食料品(主として缶詰、缶ミルク)を大量に保管している。これに関しヴェネカー海軍大将に対し、平野よりその食料品を軽井沢に滞在する外交団用に譲渡することを交渉するも、同大将は「これは箱根にいるドイツ船員の軽井沢移住(果たして実現し得るや?)に対する食料品として保管している」などのもっともらしい理由を述べて、同意しなかった。
ドイツ大使館、武官室のほとんどのメンバーが箱根地方に疎開した中、ヴェネカー海軍大将は軽井沢が疎開地であった。また日本に来る前は軍艦ドイツチュランド号の船長であった。こちら

保管量は500名約6か月分と膨大で当時としては貴重な食料品であるが、進駐するアメリカ軍が発見すれば即刻徴発するので、早い対応が望ましいと述べた。この食糧はその後どうなったのであろうか?
(2020年11月14日追加)



ハウス・ゾンネンシャイン>


『心の糧』42ページで紹介したドイツ人保養所「ハウス・ゾンネンシャイン」は堀辰雄の「雉子日記」(1940年初版発行)にそのままの名前で登場している。

すっかり雪に埋もれた軽井沢に着いた時分には、もう日もとっぷりと暮れて、山寄りの町の方には灯かげも乏しく、いかにも寥しい。そんななかに、ずっと東側の山ぶところに、一軒だけ、あかりのきらきらしている建物が見える。あいつだな、と思わず私は独り合点をして、それをなつかしそうに眺めやった。

ハウス・ゾンネンシャインと云う、いかめしい名の、独逸人の経営しているパンションが、近頃釜の沢の方に出来て、そこは冬でも開いていると云うことを、夏のうちから耳にしていたが、私がそれを見たのはついこの間のこと、(中略)

続きは書籍でお楽しみください。こちら









(2020年12月1日)






<ハウス・ゾンネンシャイン オット大使の別荘?>


オットドイツ大使が別荘として利用したのも実はこのハウス・ゾンネンシャインではなかったかと思われる。バルバラ・シンチンゲル(Barbara Schinzinger) は確かに次のように書き残している。
続きは書籍でお楽しみください。こちら









(2020年12月28日)



フリーダ・ヴァイス ドイツ人>

西村クワの次の文章を「心の糧」181ページで紹介した。
「ヴァイス婦人は何年も日本にいるにしては日本語が下手で、(西村)ソノがヨーロッパから帰りたてでドイツ語が出来るとわかると、ソノにつきまとってドイツ語で立て続けにしゃべりまくった。
ソノはそれには閉口していたが、ドイツに家族もない貧乏暮らしのヴァイス夫人を気の毒だと言って、最近彼女が日本で亡くなるまでクリスマスにはお金を送っていた。」

続きは書籍でお楽しみください。こちら














(2020年11月24日追加)


<欧州戦争開勃発直前のオット駐日大使>


『心の糧(戦時下の軽井沢)』においてオット駐日ドイツ大使に関して次のように書いた。
「大使は本年(1942年)、鎌倉市材木座に別荘を借り受け同所より大使館に通勤し、週末には軽井沢に赴き静養」。

しかしその前から鎌倉に別荘はあった。
「親善増進強化
オット独大使語る
この喜びの日、ドイツ大使館を訪れると、日英会談の成行に最興味をもっているため、この本年の暑休を軽井沢の避暑地は遠過ぎるとあって、鎌倉から毎日東京に通っているオット大使は、テイツン商務官と共に欣然として語る」
(大阪時事新報 1939.7.30 )
戦時中はドイツ海軍武官室が、鎌倉由比ガ浜の「鎌倉海浜ホテル」を多く利用していた事が分かっている。(こちら

その直後、欧州で8月23日に不独ソ不可侵条約が締結されると、オット大使は軽井沢から急遽東京に戻る。
「23日外務省は朝来異常な緊張裏に人事往来を見せた。即ち軽井沢に滞在のオット独大使は午前十時自動車で同地発急遽帰京の途についたとの報が伝えられ、同日中に有田外相と会見。新事態を説明するものと期待されるが、ロメールポーランド大使は同時に外務省に有田外相を訪問して独ソ不可侵協定がダンチヒ問題を中心に直接ポーランドに重大打撃を与えんとする情勢に鑑み本国政府の重大関心を伝え、日本側との情報交換をかねて帝国政府の態度を打診せんと試みた」(東京日日新聞 1939.8.24)
この年の8月23日は水曜日、週中だが大使は軽井沢にいた。
(2020年12月1日)



<相馬雪香>


「憲政の神様」とよばれた尾崎行雄の三女で母は日英混血の母の英子セオドラ尾崎、軽井沢を語るときには必ず登場する名前である。(『心の糧』180ページ)
『軽井沢物語』(宮原 安春)には次のように記されている。
「雪香は彼女は軽井沢で知り合った相馬藩主の子孫、相馬恵胤と昭和12年に結婚。軍人だった夫の赴任地である満州牡丹港から1945年4月に帰り、軽井沢に疎開していた。もっとも別荘の母屋はイタリア大使が使っていたため、その隣にある物置小屋で姉の品江と相馬親子が暮らしていた」
雪香は語る。
「終戦後は占領軍にいた友人は、私たちの別荘からイタリア大使を追い出してくれました。私たちはやっと自分の別荘を手に入れたのです。その軽井沢から私は2年間、東京に働きに通いました。月曜日に出て、金曜日に帰ってくる(中略)。ふた冬を厳冬の軽井沢で過ごしたのです」

雪香がイタリア大使と書くが、時のイタリア代理大使オメロ・プリンチイニは箱根の富士屋ホテルに他のイタリア人外交官とともに疎開していた。
一方尾崎家の別荘は二手橋を左に見て先に進んだ1218番であった。戦時中この1218番にはイタリアの情報参事官ミルコ・アルデマニーと妻と子供2人が暮らしていた。それが大使と表現されたのであろう。
また当時の地図によれば、母屋の他に小さな「離れ」らしきものがふたつある。雪香と子供はこの内のひとつに暮らしたのであろうか?

情報参事官のミルコ・アルデマニーであるが日本側の外交文書にも名前が登場する。”情報”とはいうものの文化担当である。軽井沢には33名の民間のイタリア人(子供も含む)が疎開していたので、彼らの世話係として同地に疎開したのであろうか?(2020年12月16日)

雪香は戦後については以下のように語っている。
「戦前に付きあっていたアメリカ人が、マッカーサー元帥の副官として赴任してきたのです。そして私たちが軽井沢に疎開していることを知ると、ジープに食糧を満載して訪ねて来てくれました。
「占領軍にいた友人は、私たちの別荘からイタリア大使(先の情報参事官ミルコ・アルデマニーのことであろう)を追い出してくれました。私たちはやっと自分の別荘に入れたのです。
その軽井沢から私は2年間東京へ働きに通いました。月曜日に出て、金曜日に帰ってくる、、、」
ふた冬を厳寒の軽井沢で過ごしたのです。
(『軽井沢物語』宮原安春 2021年9月3日)



<イタリア外交官の待遇>

相馬雪香の項で紹介したイタリアの情報参事官ミルコ・アルデマニーは軽井沢で終戦を迎えたが、イタリアと日本の外交関係は複雑であった。
1943年7月にバドリオが政権を握り、ムッソリーニが率いるファシスト国家は倒される。そしてバドリオ政権は日本の敵国となる。しかし9月23日、ドイツの支援でムッソリーニを首班とするファシスト共和国政府が成立すると、日本はこの傀儡国家を承認する。この時日本のイタリア人は、新しいファシスト共和国政府に忠誠かどうかを日本政府によって審査され、忠誠であると認められた場合は中立国人として扱われ、そうでない場合は敵国人として扱われた。その審査の結果イタリア外交官とその家族68名中、46名が敵国人とみなされ、抑留されることになる。そこにはマリオ・インデルリ大使とその家族も含まれた。

そして新しいファシスト共和国政府の代理大使にはオメロ・プリンチイニが就任し、他のイタリア人外交官とともに箱根の富士屋ホテルに疎開した。その同代理大使もファシスト共和国政府の崩壊で1945年6月13日、日本の外務省から、公務執行機能を停止される。

そのような状況下、先述の情報参事官ミルコ・アルデマニーは軽井沢に疎開した。依然ムッソリーニに忠誠を誓ったことになる。他のイタリア人外交官関係者は
海軍武官書記 アントニオ・バステアノーニ
書記 マソゾリン・ガエタノ
書記 プラガー・シルヴィ
書記 ヒツシ・サヒルヴァトイレ
他事務員の計12名は全員、軽井沢868番に暮らした。
868番は1943年の別荘地図では三笠方面で「中島」となっている。それなりの大きさの建物であったと思われる。

こうした歴史的背景に次の外交文書を読んでみよう。

「1945年6月12日 軽井沢出張所大久保所長より外務省吉岡儀典課長宛て
イタリア外交官疎開に関する件
過日ゴルジェ・スイス公使より、本件に関し本国政府の訓令に基づき、外務省に申し入れたるも回答なき所、日本政府としては万一、イタリア外交官にして空爆により死傷者生ずるにおいては厄介なる問題が生ずるべく、早めに当地へ疎開せしむること然るべき旨述べている。

ついては本件に関する御意向御開示を。ご承知の通り当地の家屋は一般外国人疎開と共に全部ふさがり、外交団を疎開せしむる家屋は無きに至る。したがって早めに人数を開示乞う。尚今後在外外交団員の当地への疎開者の最大人数をご通報を願う」
ここに書かれたイタリア外交官はムッソリーニに忠誠を誓うことを拒否したインデルリ大使以下のことである。また大久保公使は外交官用の別荘は軽井沢にもうないとは書くが、必要なら何とかすると書き送っている。

これに対し内務省が取った対策は次のようだ。
「6月21日 政務局4課長より大久保所長宛
鈴木九萬(くだかつ)公使が軽井沢出張の際ゴルジェ公使より口頭で申し入れがあり、鈴木公使はその場で『北方に疎開させる用意をしている』旨を一応回答している。
今般内務省警保局より、田園調布所在の警視庁第一抑留所に収容抑留中の元イタリア公使館員46名を近く秋田県鹿角郡毛馬内町の私塾に移管することになった。この旨ゴルジェ公使に対ししかるべく説明を」

インデルリ大使らが抑留されていた「警視庁第一抑留所」とは東横線多摩川駅付近から見える田園調布教会だ。そして空襲を避けるために彼らが移送されたのは、秋田県鹿角市のカトリック教会であった。軽井沢ではなく秋田に送られた理由は、軽井沢の住居不足が考慮されたのかは不明だ。
(2020年12月19日)



<終戦直後の公使館の動き>

1945年9月6日 外務大臣名で、外務省軽井沢事務所長大久保公使に電報が打たれた。

スウェーデン、スイス両公使館移転に関し「トラツク」貸与の件
貴信軽普124号に関しスイス公使館員「ボッシ」官補、9月4日外務省儀典課長を来訪し越せるに依り、現在外務省に於て「トラック」の余裕なきは勿論、米軍進駐の為、一般に於ける「トラック」も払抵ているに付き、貴意に沿い難し。

ついてはとりあえず最少限の道具のみを輸送し、しかもその大部分は貨車とし、その他のものでぜひ「トラック」を要するものは1,2台位に制限してはいかがと述べたるに、「ボッシ」は最小限りに制限しても貨車5台、「トラック」3台位を必要とすべしと思われるも、いずれ「ゴルジェ」公使と相談の上、改めてご相談に上がるべしと引き取りたる趣なり。とりあえず連絡する。

終戦半月後にはスイスとスウェーデン公使館は東京への引っ越しを予定している。スイスが代表して外務省と交渉したようだが、終戦後も公使館としての機能を果たせたのは、この2か国だけではないか。外務省がそのためにトラックを手配できないのも容易に想像がつく。

フランスは9月9日、軽井沢において「ボアセゾン」(軽井沢1059)参事官が工藤参事官を訪問し次の様に述べた。
日仏関係は3月以来曖昧なりしが、9月2日に日本降服文書に仏全権が署名せることに依り明瞭となり。仏「ドゴール」政権は仏正式政府として認められたる次第にして、自分は先週初の仏全権「ゼネラル・ルクレール」の求めに依り同全権を訪問したる所、同全権は仏国政府の命令として「コスム」大使の職を免じ、自分を臨時代理大使に任し、館員および在留民の帰国問題を取扱はしむへきこととせる旨を伝へたるに付き、とりあえずこの事情を非公式に御知らせする次第なりと述べた。

フランスは戦後フランスを代表する大使は誰か、という問題が最大のテーマであった。
フィリップ・ルクレール将軍はパリ解放の立役者で、その後太平洋地域仏軍司令官に任命され、「ミズーリ」艦上で行われた日本の降伏文書調印式にフランス軍代表として参列した。戦時中はおそらくヴィシー政権側についたコムス大使は軽井沢1380番にいたが、日本からは外交上大使としての扱いは受けなかったようだ。

アフガニスタン公使館では1946年1月、軽井沢の別荘にある家具を外務省に売却する交渉をしている。
(アジア歴史資料センター 2020年12月1日)



<マーク・ゲイン『ニッポン日記』より >


シカゴ・サン紙の日韓支局長として1945年11月に来日したマーク・ゲインは『ニッポン日記』として滞日記録を残している。2年に渡る滞在中、一度だけ軽井沢を訪問している。そこからは終戦直後の軽井沢の様子を知ることが出来る。

1946年6月14日
ウォーカーとその助手の松方ハル女史とゲインの3人は朝東京を発って、この山間の避暑地軽井沢に家具を探しにやってきた。もし運よく適当なものが見つかった時の用意に、ジープの後にはトレーラーまでつけていた。そして翌日には
「居間とポーチ用の楊細工の家具の完全な一セットを買った」と目的を達している。

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(2020年12月20日)



メリカ兵向け新聞の記事>

アメリカ兵向けの新聞「パシフィック・スターズアンドストライプス(Pacific Stars & Stripes)」1946年8月25日号に次の記事が掲載される。3ページに及ぶ記事をかいつまんで紹介する。このような情報源には筆者独自の力では決してたどり着くことがないので、提供してくれたTom Haar氏には心から感謝する。


新聞の表紙

「国際都市 戦後の軽井沢」

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(2020年4月6日)

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