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GHQの記録に見る終戦直後の軽井沢

Wartime Karuizawa from GHQ documents


大堀 聰

拙著『心の糧(戦時下の軽井沢)』出版後に判明した軽井沢の戦時下の様子をGHQの史料から紹介しています。よりよく理解するためにも合わせて同書をお読みいただけますと幸いです心の糧 (戦時下の軽井沢)』、アマゾン、軽井沢書店でお求めになれます。(2021年10月現在)



『続 心の糧(戦時下の軽井沢)
Wartime Karuizawa Vol.2 終戦直後の光景を中心に』が発売されました。(22年1月)



終戦から間もなくして、軽井沢にやってきたアメリカ軍であるが、彼らは終戦後も滞在する外国人に物資を供給した一方、貴重な記録も残している。建物の敷地内の構成図など珍しいものが多い。所蔵する国会図書館(原所蔵機関は米国国立公文書館)
の許諾を得て、写真をいくつか紹介する。(こうした経緯のデーターなので転載は固くお断りします)

軽井沢避暑団の所有していた建物

1 軽井沢病院
別名「マンロー病院」として知られ、拙著でも紹介した。(125ページ)
東向き。よく見る写真の入り口は左サイドになる。
建物はヴォーリズ設計らしからぬ外観の、アメリカ中部のカントリーハウス風のスティックスタイルで、紅殻塗りの赤いサイディングと窓の白いペンキが調和した美しい建物であったという。写真からも窓の周りが白いのが分かる。ネット上に見ることができる写真は改装後の「軽井沢ビラ」のものなので貴重な一枚だ。



北西の眺め。手前に筒状に大量に横たわるのは薪か?



敷地内の図
本館を中心に左側は野菜畑が広がる。自給用であろう。さらに左側には別館が二棟あり、右上は病院関係者の住居。
手前の道路は今の「万平通り」だ。



一階の見取り図。一番下の小さく出っ張っている狭い部屋が診察室。
その上の広い部屋がレントゲン室、さらにその上の細いのが待合室。中央部分が受付ホール。
病室は6つある。ここには載せてないが2階には病室が9、手術室、無菌室がある。立派な設備の病院だ。



2 学校

軽井沢避暑団が経営した学校。今の旧軽テニスコートの道を挟んだテニスコート(ユース用?)の奥にあった。「ジュニアビルデング」と呼ばれて、天井からは体操の吊り輪のようなものが垂れ下がり、ピアノも置いてあった。避暑団の建物はすべてヴォーリズが設計したという記述がある。とすればこれもヴォーリズの設計だが。

後の駐日アメリカ大使のエドィン・ライシャワーは回想している。
「私たち子どもは大体テニスコートで一日を過ごしていました。コートは町の中央近くにあって、片側には教会があって、もう片側にはジュニアビルディングと呼ばれる雨天体操場が子供達のために出来ていました」
また朝吹登水子は
「私たち子どもは、町のコート脇にあったジムナジウムで、欧米人の子供たちと遊戯をした」と述べている。
(「エロイーズ・カニングハムの家」下重暁子より)

子供のための施設であったことが分かる。ライシャワーの子供のころからあったとすると、1920年代初めのころにはあったようだ。1944年に大森のドイツ人学校が疎開したのはここのようだ。
戦時中は1944年から東京大森にあったドイツ人学校が疎開して、ここで授業を行った。

上の写真は西向き。テニスコートを背にして正面の写真だ。



建物の中を見ると、一階部分は中央部に大きな講堂があり、その周りに教室が4つある。




3 テニスコートのクラブハウス

右側の建物でウイリアム・ヴォーリスの設計。現在の写真と比較しても、細部にしか違いは無いようだ。


現在のクラブハウス(筆者撮影)


クラブハウスの内部。1階はロッカールームと、クラブルーム。2階はラウンジと喫煙室。部屋割りの構造は今も同じであろうか?

(2021年4月15日)


4 軽井沢ユニオンチャーチ

ここは英語では常にAuditorium(日本語で講堂)と書かれている。避暑団は別にテニスコートの横に「集会堂」を持っていたので、あるイベントが実際にどちらで行われたかを知りたい時にやや紛らわしい。
1891年、碓井線(信越線)鉄道工事が始まるとポナウルは軽井沢に居を移し、毎朝馬で現場に通った。そして夜や休日には鉄道技師クラブでイングリッシュ・ビリヤードに興じた。このクラブの建物が不要となるや1897年に礼拝所となり、今日のユニオンチャーチとなるのである。

この建物は、当時軽井沢で唯一大きな空間の会堂で、200人は収容できたため、キリスト教集会以外にも音楽会や講演会などが夏の間に開かれた。そのため別荘の人々はここをオーディトリアムと呼び、催し物を楽しみ、夏の良い思い出とした。
ユニオンチャーチは国籍、宗派問わない教会で、現在の建物は1918年ウイリアム・ヴォーリズによって設計され建てられたものである。冒頭で述べたカナダ人宣教師ダニエル・ノーマンが開いた。

ヴォーリズは15年に軽井沢事務所を旧道に開く。現在ミカドコーヒーのある場所で軽井沢教会の隣である。ヴォーリズは建築家としての仕事の他、この教会の仕事に積極的に取り組んだ。それに定期的に催されていた日本全国宣教師会の仕事、このユニオンチャーチ(オーディトリアム)で開かれた音楽会の準備作業などに精を出した。地元の木工職人から頼まれた軽井沢彫りの家具のデザイン、商店から頼まれた看板書きなどにも気軽に応じたという。27年には軽井沢避暑団の副会長にも推挙される。またヴォーリズは正規の建築学を学んだことはないにもかかわらず、図面なしに口頭で職人らに自分の考えを説明した。
(『軽井沢別荘史』他)



現在同じ位置から撮影したもの。似ている感じが分かる。


敷地図。左手道路の先がテニスコート。

(2021年10月16日)


5 旧シーモアハウス(アメリカ資産)

ここはアメリカ人女性宣教師エレン・シーモア(H.W.Seymore)が所有し、同志社大学が寄付を受け「旧シーモア別荘」の名前で現存している。調べると確かに戦前1939年頃でも彼女の所有だ。


現在:柵の外の道路からだと同じ角度が難しいのと、木々が別荘の全景を遮っている。

外壁は杉皮張りで現在もやや赤みがかっている。


後ろに回る。こちらからだと全景が見える。
(2021年10月26日 白黒写真:国会図書館蔵 原所蔵機関は米国国立公文書館)



 イギリス人貿易商B.R.ベーリックの別荘

軽井沢1405番の別荘は横浜のイギリス人貿易商B.R.ベーリック(B.R.Berrick)の所有であったことが判明。釜の沢レーンの突き当り辺りで今は木々がうっそうと茂っている。外壁の暖炉の煙突が典型的な軽井沢の別荘風で美しい。
(国会図書館蔵 原所蔵機関は米国国立公文書館)


べーリックは横浜の山手の洋館として現在有名な「べーリック・ホール」を邸宅とした。1930年にJ.H.モーガンの設計で建てられた。スパニッシュスタイルを基調を基調とし、外壁に暖炉の煙突が付いている。(下)
軽井沢の別荘が建てられたのは1930年以降と思われる。別荘もべーリック・ホールに類似していると言えばこじつけであろうか。

筆者撮影

べーリック・ホール第二次世界大戦前まで住宅として使用された後、1956年に遺族より宗教法人カトリック・マリア会に寄贈された。その後、2000年までセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用された。
セント・ジョセフの卒業生は今もべーリック・ホールでセントジョセフ・フェスタを開催している。

2018年のフェスタの案内



筆者の『心の糧(戦時下の軽井沢』はこちらからお求めになれます。


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