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GHQの記録に見る終戦直後の東京、横浜

Wartime Tokyo,Yokohama from GHQ documents


大堀 聰

<終戦直後横浜のドイツ人不動産>

終戦直後に連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、戦時中日本に暮らしたドイツ人の資産を調べ上げている。これらのドイツ人はすでに本国に強制送還され、不動産はその後競売にかけられた。好ましくない人物として強制送還とならなかったドイツ人の資産は対象になっていないと思われる。
筆者は戦時下の横浜の外国人を調べてきたが、彼らの多くは単なる住民で、今回今回紹介するドイツ人はオーナーである。やはり日本に長い会社社長が多い。積極的に不動産を持っていたのは企業ではヘルム商会くらいだ。

横浜に関しては次のようだ。番号は1番が北海道から始まり、彼らの連番で南に下っている。横浜は76番からである。カッコ内は筆者のコメント。

76 オットー・ヴェルナー(Otto Werner) 本郷町 (1937年から本郷町)
77 オットー・ホーバッハ(Otto Hohbach) 本郷町    (本牧満坂258 会社支配人)
78 ヨハネス・ケールン (Johannes Koelln) 本郷町  (本牧満坂253 会社取締役 家族3)
79 ヤン・クリスティアンス(Jan Christians)        本郷町   (1937年から本郷町)
80 カール・クライヤー  (Karl Krayer)        山手町  (244番 写真あり)
81 ルートヴィッヒ・デッケルト (Ludwig Deckert)      山手町  (会社支配人 山手34番 家族3)
82 ヘルマン・シュライナー (Hermann Schreiner) 山手町 
 (会社支配人 家族3人 山手153番 1937年東京PO box 写真あり)
83 カール・クライヤー (Karl Krayer) 山手町      (彼は2軒所有していた)
84 財団法人ドイツ人学校  (German School) 山手町   (42番)→写真あり。
85 ヘルム商会 (Helm Gomei Kaisha) 山手町  (120番)→写真有り
86 ドイツ領事館 (German Consulate) 山手町   (戦時中のセールハイム総領事は32番に住んだ。それ以前は60番が領事公邸)
87 クルップ・ゲルマニア  (Club Germania) 山手町 (5番)
88 ハンス・ウムブハウ (Hans Umbhau)竹野村     (1937年西竹之丸)  
89 ローランド・ゾンダーホーフ (Roland Sonderhoff) 竹野村 (弁護士事務所長でいわゆる横浜の名士。こちら)
90 ローランド・ゾンダーホーフ  豆口台
91 ローランド・ゾンダーホーフ  豆口台
92 ウイルヘルム・レミー    (Wilhelm Remy) 本牧町 (1943年本牧荒井に家族と 会社支配人)
93 ウィルヘルム・ヘルム    (Wilhelm Helm)  (本牧元町381 1937年)
94 ローランド・ゾンダーホーフ 加曽台  (1943年 家族と住んでいた。1937年から)
95 ウィルヘルム・ヘルム 西之谷
96 ウインクレル商会  (Winkler & Co) 山下町 (256番)

97 ヘルム商会     山下町(99)
98 ヘルム商会     山下町(43番) (ヘルムハウス・アパート 53番のはず))
99 イリス商会    山下町   (1941年 23番)
100 ドイツ総領事館  山下町 (現ラ・バンク・ド・ロア 51番)
101 ヘルム商会 西之谷         (以下賃貸用に所有していた物件と思われる)
102 ヘルム商会  元町(422)     (本牧元町422番のこと)
103 ヘルム商会  元町(374)     (本牧元町374番のこと)
104 ヘルム商会  元町(372)     本牧元町ドイツ人4世帯7人
105 ヘルム商会  元町(370-A) (43年本牧元町370 エリオナレ・バスムート 会社員)
106 ヘルム商会  元町(370-B)   (本牧元町370 リリヤ・バイヤー家族5他1名)
107 ヘルム商会  元町(370-C)
108 ヘルム商会  元町
109 イリス商会  元町

ブログ「横浜山手町今昔」はこちら。



戦直後の横浜・山手の写真>


戦中、終戦直後の山手の写真はほとんど見ないが、占領(GHQ)が日本中のドイツ人資産を調べ上げた中で、山手には次のような家の写真が残されていた。記録用にマイクロフィルム化された写真は拡大してみると、暗く不明瞭だが、貴重な史料ゆえに紹介する。(写真は国会図書館所蔵、原所蔵機関は米国国立公文書館)

1 カール・クライヤー邸 (山手244番)
終戦直後にアメリカ第八軍のアイケルベルガー将軍の宿舎となった経緯については「マッカーサーの横浜の宿舎を探し歩く」で紹介した。マッカーサー将軍に次ぐナンバー2の宿舎に選ばれただけあって敷地は広く、建物も立派だ。詳しくはこちら参照。

正面から見る。


裏側から.。左奥の建物は使用人住まい兼ガレージであろう。


敷地図。2000平米以上の広さがあった。


クライヤ―は箱根に別荘を所有していた。


2 ドイツ学校(山手42番)
大森と同じ財団法人ドイツ学園の所有。道路に面した普通の二階建ての家に校長先生以下総勢3名の教師が暮らす。そこで戦争中も少人数での授業が行われたのであろう。奥は廃墟となっている。空襲の被害?
現在はかつての廃墟の場所に日本聖公会横浜教区祈りの家があり、学校の建物があった場所は空地であったが2021年に入り、工事で周りの様子が変わっているようだ。


42番の敷地図。手前が住居兼教室。


3 ヘルマン・シュライナー (Hermann Schreiner) 山手152番(日本側資料では153番)


3 ヘルム商会 山手120番 戦時中はヘルミネ・ブレンデル他2名のドイツ人が住んでいる。アメリカ女性エレブクーア・ラフィンも120番に住んだ。その後アメリカ人にも友達のいたというドナルド・ヘルムが買い取ったのであろうか?手前の道路(ワシン坂通り)は終戦後間もなくアメリカ軍がブルドーザーで拡幅した。その感じが伺える。



4 山手40番(もしくは滝之上40番)。先のリストには挙がっていないが、所有者フリッツ・シュタインシュ(Fritz Steinsch)は中区滝之上が住所となっている。

(2021年8月30日)




<クルップ・ゲルマニア>


日本とドイツ(当時はプロイセン)の国交が樹立したのが1861年、初代領事マックス・フォン・ブラントが横浜に着任したのが1863年だ。
ドイツ人の社交組織であるクルップ・ゲルマニア(Klub Germania)が創設されたのが同じ1863年で、1868年に山下町235-237番(今のみなとみらい駅の上の「ユーラシア文化館」あたり)に立派な建物が出来る。ここは開港初期の代表的外国人の建物としてよく紹介される。
そして1923年の関東大震災後は山手の4番に移る。
1908年に親睦の場所として同様に「ドイツ人の家」(Deutsches Haus)が山手25番に建てられる。先行して学校と教会が設けられたが、これは1913年に炎上してしまう。1940・41年のJapan Directoryではドイツ人の家と、クルップ・ゲルマニアが山手5番に併記されている。この時期同一の組織になっていたと理解してよいのであろう。
筆者はGHQの資料から終戦直後のクルップ・ゲルマニアに関する資料を見つけた。
終戦から間もなくしてGHQは日本のドイツの資産も調べ上げた。クルップ・ゲルマニア、ドイツ人学校が調査の対象となった。
国会図書館の許可を得て紹介する。転載はご遠慮ください。


建物は門だけ残り空襲で焼けた様だ。


彼らのイラスト図には敵性資産として「横浜ドイツ人学校」も載っている。左右にわたる道は山手本通りで左の建物は山手学院(フェリス女学院)となっている。中央の教会はカトリック山手教会。トンネルは山手隧道。



クルップゲルマニアの終戦直後のメンバーリスト。Members list at present in Japanと英語で記されている。
一番上のペーター・レーベダック(Peter Levedag)は1895年の加入。筆者はブログで「戦時下横浜の外国人」の中で彼の息子2名を紹介している。こちら

次のカール・フォークト(Karl Vogt)は旭台 日本の弁理士の資格を取り1910年、横浜で”Crosse, Heath & Vogt”法律特許事務所を設立その後「フォークト&ゾンダーホフ」特許事務所を設立。

3番目のM.S. ウィルスムは何とオランダ人。筆者はすでに「戦時下横浜の外国人」と「長延寺と初代オランダ領事館の痕跡」で紹介している。

なおこのリストにはまもなくドイツに送還される親ナチスのメンバーはいない。また戦後クルップ・ゲルマニアの活動に関する報告等は、筆者が探した限りでは見つからない。活動は停止となったのであろうか。
(2021年6月20日)



イツ人学校>
 
ドイツ人学校に関してもGHQの書類から興味深い写真が見つかった。
横浜開港後、ドイツ人学校は駐在するドイツ人の子弟教育の場として1904年9月20日に山手248番Bに設立された。生徒数は9名であった。費用のかかる家族での駐在者はドイツ人の場合、あまり増えなかったので、1908年にはドイツ人生徒17名、スイス人10名、デンマーク人1名と小国のスイス人子弟がかなり占めている。

その後の1909年ごろ、学校は新築されたドイツハウス(ブラフ25番地)に移るが1913年3月4日、火災で建物が消失する。そして同年にドイツ海軍病院跡地(山手40,41番)に移る。今は横浜市立元街小学校がある。
1923年の関東大震災で、学校の建物は残ったが多くのドイツ人は横浜を去り東京、神戸に移り住む。ゆえに東京ドイツ学園の授業は12人の生徒と共に1923年11月27日、から一時的に品川のOAG(ドイツ東洋文化研究協会)事務所で部屋を借り再開される。

大森の新校舎は1933年10月2日に落成した。南東京の大森が立地場所に選ばれたのは横浜からも通えるという配慮があったようだ。新校舎の落成式で、校舎の建築士であるマックス・ヒンダーは「差し当たり生徒60名と、園児20名を収容するが、校舎上階を含めると在学生の2倍は収容可能である」と述べた。体育館は120名の生徒を収容し、集会や祭りなどを催すことが出来た。1940年の名簿によれば名簿があり生徒は88人でであった。戦況が日本に不利になる1944年にはハウプトシューレが解散され、主として軽井沢に疎開する。こちら


1933年から1965年までの校舎。終戦直後のGHQによる撮影。
新校舎は1967年に落成するが、その間生徒は近くのインターナショナルスクールなどに通う



終戦直後の構内図。空襲の痕跡の廃材は1950年になってもあったという。

<戦時下の横浜にもあったドイツ学校>

その後終戦を迎え、ドイツ人学校が再開されるのは1953年である。関東大震災後、東京に移ったドイツ人学校であるが、分校のような形で存在していた。
確認できるのは、1940年12月2日 東京ドイツ学園の名義で山手町42番地の木造スレート2階家を取得している。
1941年2月16日読売神奈川版に「“コドモ枢軸”の交歓」の記事が出る。
伊勢佐木町不二家4階ホールで行われ「横浜元街ドイツ学校」の男女十余名も参加しドイツ国歌合唱、、、と載っている。
1943年10月にはドイツ学校があり、イルザ・ブルノッテ (学校長)アウグステ・ケラー (教師)ショウフェルト・オットゲッペ (教師)の名前が載っている。
これら3名の先生はその後軽井沢ではなく、箱根に疎開している。

参照
東京横浜独逸学園ホームページ 
Die Deutschen in Yokohama(Kurt Meißner)

戦後まもなくアメリカ軍が作成したイラストにはGerman Schoolが載っている。


以上

筆者の書籍案内はこちら


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